「そうですよ、美也子さん。あなたは杉という男をごぞんじですか」
「はあ、あの、ちょっと……」
と、そういったかと思うと、美也子はきゅうにハンカチをだして、目を押さえたので、欣三おじさんもおかあさんも、いよいよびっくりして目を見合わせてしまった。
美也子は、やがて涙をふいてしまうと、
「しつれいいたしました。つい、むかしのことを思いだしたものですから……わたし、杉さんというかたにおうらみがございますの。でも、あのかたをおうらみするのは、わたしどもの思いちがいかもしれないんですの。なにしろ、あのかたは死んでしまわれたので、おたずねするわけにもまいりませんし……」
「美也子さん、それはいったいどういうことですか。杉がなにか悪いことでも」
「それはいつか、おりがあったら申しあげますわ。わたしどもの思いちがいだったとしたら、杉さんにたいへんしつれいなことですから……それより、先生、お仕事をつづけましょう」
それを聞くとおかあさんは、良平の手をとって、
「そう、それじゃ良平、しつれいしましょう。おじさまのお仕事のじゃまをしてはいけませんからね。美也子さん、ごゆっくり」
「おくさま、たいへんしつれいいたしました」
美也子はなんとなく、かなしそうな顔をして、おかあさんや良平に頭をさげた。
その晚、良平はじぶんのへやへ帰ってきても、美也子のあのかなしそうな顔が、気になってたまらなかった。
それというのが良平は、美也子がたいへんすきなのである。美也子はとてもきれいで、やさしくて、だれにもしんせつだった。そして、なにをさせてもよくできるのだ。おかあさんもおじさんも、美也子の頭のよいのをほめている。それに美也子は、たいへんふしあわせな身の上なのだった。
美也子はむかしからこの町に住んでいるのだが、まえに住んでいた家は、とてもりっぱな、大きなうちだった。
それが戦争からこっち、だんだんびんぼうになり、家もてばなさなければならなくなったうえに、おとうさんがきゅうに亡くなったので、いまではおかあさんとたったふたりで、みすぼらしい家にすんでいるのである。
なおそのうえに、おかあさんが、長い病気で寝ているので、いよいよこまって美也子が、はたらく口を見つけなければならなくなったが、ちょうどそのころ、ひっこしてきたのが良平の一家であった。
欣三おじさんは美也子の気のどくな事情を聞くと、じぶんの仕事の、手伝いをしてもらうことにした。
欣三おじさんは小説家だが、小説を書くためには、いろいろ材料をあつめたり、調べたりしなければならない。美也子はその材料をあつめたり、また、図書館へいって、いろいろなことを調べたり、原稿の|清《せい》|書《しょ》をしたり、さてはまた、おじさんのしゃべることを筆記したりするのだが、頭がよいので大だすかりだと、おじさんは、とてもよろこんでいるのである。
こうして美也子が毎日のように、おじさんのところへ出入りをしているうちに、良平はとても美也子がすきになってしまったのだ。
そこで、あるときおかあさんに、
「ねえ、おかあさん、美也子さんみたいなひとが、おじさんのおよめさんになるといいね」
と、しかつめらしい顔をしていうと、おかあさんはびっくりして、良平の顔を見ながら、
「まあ、良平ったら、なにをいうの。あなたはまだ中学の一年ぼうずじゃないの。そんなこと考えるもんじゃありませんよ」
「だって、美也子さん、とてもいいひとだもの。それに頭もいいし、おじさんのお手伝いだってよくできるんだもの」
「だめ、だめ、子どもがそんなこというもんじゃありません」
おかあさんはそういって、良平をたしなめたが、しかし、その顔を見ると、少しもおこっているようではなくて、かえって、ニコニコしているのだった。
その美也子が、杉勝之助というひとの絵を見て、どうしてあんなに泣きだしたのか、美也子は自殺したという天才画家に、どんなうらみがあるのだろうか……。
そのとき良平の頭にフッとうかんだのは、きょう古道具屋であった、あの気味の悪い男のことである。あの男はとてもあの絵をほしがっていたが、あれにはなにか、ふかいわけがあるのではあるまいか……。
そう考えると、あの気味の悪い悪魔の画像に、なにかふかい秘密がありそうに思えて、良平は胸がワクワクしてくるのだった。
すすり泣く声
その晚の真夜中ごろのことである。
良平はねどこのなかで、ふと目をさました。どこかでひとのすすり泣くような声が、聞こえたような気がしたからだった。
良平はハッとして、くらがりのなかで耳をすました。すすり泣く声はもう聞こえなかったが、間もなく、ガタリと、なにかの倒れるような音がした。
良平は、ハッと、ねどこからはねおきた。
いまの物音は、たしかに応接室から聞こえたのだ。
良平のあたまに、そのとき、サッと思いうかんだのは、応接室にある悪魔の画像のこと。それと同時に、古道具屋であった、あの気味の悪い男の目つきやことばを思いだすと、良平はなんともいえぬ恐ろしさを感じないではいられなかった。
ひょっとすると、あの男が、悪魔の画像をぬすみにきたのではあるまいか……。
良平は心臓がガンガンおどって、全身からつめたい汗がにじみ出るのを感じた。
しかし、良平はすぐに、じぶんがこわがっていてはいけないのだと考えた。ちょうどそのころ、おとうさんは仕事のために、十日ほどの予定で、関西のほうへ旅行しているさいちゅうだったので、じぶんがしっかりしなければいけないのだと決心したのである。
良平はそっとねどこからぬけだすと、離れにねているおじさんをおこしにいった。
「おじさん、おじさん、おきてください」
くらがりのなかでおじさんをゆすぶっていると、応接室のほうからまたへんな声が聞こえてきた。だれかがすすり泣いているのだ。それを聞くと良平は、全身につめたい水をかけられたような、恐ろしさと気味悪さに、ガタガタとふるえながら、
「おじさん、おじさん、おきてください」
ゆすぶっていると、おじさんはやっと目をさました。
「良平か。どうしたんだ。いまごろ……」
「おじさん、応接室のなかにだれかいるんです」
「どろぼう?」
おじさんはびっくりしてはねおきた。
「ええ、でも、だれか泣いているんです」
「泣いている?」
くらがりのなかで、ふたりが耳をすましていると、応接室のほうで、またガタリと物音がした。それを聞くとおじさんは、ねどこからとびだし、くらがりのなかで帯をしめなおして、へやから出ると、
「良平、おかあさんは?」
「おかあさんは知らないようです」
「よし、じゃ、そのままにしておけ。びっくりさすといけないから。良平、おまえじぶんのへやへいって野球のバットを持ってこい」
良平がバットを持ってくると、おじさんは、それを片手にひっさげて、応接室のドアのまえまでソッとしのびよった。良平もそのあとからくっついていく。心臓がガンガンおどって、胸がやぶれそうだった。
応接室のなかにはたしかにだれかいるのだ。ガサガサという音が聞こえる。しかし、ふしぎなことにはそれにまじって、ひくいすすり泣きの声が聞こえるのである。
おじさんもそれを聞くと、さすがにギョッとして、息をのんだが、すぐに気をとりなおして、ドアのにぎりに手をかけると、いきなりぐっとむこうへ押しながら、
「だれだ! そこにいるのは!」
そのとたん、へやのなかでは、ドタバタといすやテーブルにぶつかる音がしたが、やがてだれかが窓から外へとびだした。
「ちくしょう、ちくしょう!」
おじさんはむちゃくちゃにドアを押したが、むこうから、つっかいぼうがしてあるらしく、十センチほどしかひらかない。
「だめだ。良平、庭のほうからまわろう」
かって口から庭へ出ると、裏木戸があけっぱなしになっている。ふたりはすぐそこから道へとびだしたが、あやしいものの影は、もうどこにも見当たらない。
しかたなしにふたりは、応接室の窓の下までひきかえしてきたが、そのとたん、ギョッとしたように息をのみこんだ。
窓のなかから、まだすすり泣きの声が聞こえてくるではないか。
良平もおじさんも、それを聞くとゾッとしたように顔を見合わせたが、すぐつぎのしゅんかん、おじさんは窓をのぼって、へやのなかへとびこんだ。良平もそれにつづいたことはいうまでもない。
おじさんが電気のスイッチをひねったので、応接室はすぐに明るくなったが、見ると、そこにはひとりの少女が、いすにしばられ、さるぐつわをはめられて、目にいっぱい涙をたたえ、むせび泣いているではないか。
おじさんはいそいでそのナワをとき、さるぐつわをはずしてやると、
「きみはいったいだれなの。どうして、いまごろこんなところへやってきたの?」
おじさんは、できるだけやさしくたずねたが、少女はただもう泣くばかりで、なかなかこたえようとはしないのだ。
「良平、おまえこの子知ってる?」
「ううん、ぼく、知りません。いままで一度も見たことのない子です」
まったくそれは見知らぬ少女だった。としは良平とおないどしくらいだろう。みなりこそまずしいけれど、かわいい、りこうそうな顔をした少女だった。
おじさんはまた、なにかいいかけたが、そのときドアを外からたたいて、
「まあ、欣三さん、良平、どうしたの。なにかあったの。いまのさわぎはどうしたの?」
そういう声はおかあさんである。見るとドアのうちがわには、大きな長いすが押しつけてある。おじさんはそれを押しのけながら、
「アッハッハ、ねえさん、なにもご心配なさることはありませんよ。どろぼうがはいったのですがね、かわいいおきみやげをおいて、逃げてしまいましたよ」
「まあ、そしてなにかとられたの」
おかあさんのそのことばに良平は、はじめて気がついたように、へやのなかを見まわしたが、すぐアッと叫ぶと、
「おじさん、おじさん、やっぱりそうだよ。どろぼうはあの絵をぬすみにきたんだよ」
その声におかあさんもおじさんも、ハッと壁のほうをふりむいたが、そのとたん、ふたりともおもわず大きく目を見張った。
ああ、どろぼうはあきらかに、悪魔の画像をぬすみにきたのである。
しかし、あの大きながくぶちから、はずすことができなかったので、ふちから切りぬいていこうとしたのだろう。半分ほど切りぬかれたカンバスが、ダラリとがくぶちからぶらさがっているのだった。
どろぼうの忘れ物
おじさんが電話をかけると、すぐにおまわりさんがやってきた。そのおまわりさんは|上《かみ》|村《むら》さんといって、たいへんしんせつな人だった。
上村さんは話を聞くと目をまるくして、
「へえ、どろぼうがこの子をおきざりに……」
上村さんはなだめたり、すかしたりして、さまざまにたずねたが、少女は泣くばかりで、ひとこともこたえない。上村さんはとほうにくれて、とうとう少女を警察へ連れていくことになった。
「ねえ、上村さん、おねがいですから、この子をあまりおどかさないでね」
おかあさんは心配そうに少女にむかって、
「あなた警察へいったら、なにもかも、正直にいうんですよ。こわがることはありませんからね。あなたは悪い子じゃない。それは、このおばさんがちゃんと、知ってますからね」
少女はそれを聞くといよいよはげしく泣きながら、おまわりさんに連れていかれた。
その日は日曜日だったので、夜があけてからも一同は、このふしぎな事件について語り合った。しかし、だれにもこの謎を、とくことはできなかった。
どろぼうが、悪魔の画像をぬすみにきたことはわかっている。しかし、あの少女はどうしたのだろうか。あの子はどろぼうの仲間なのだろうか。
みんなそれをふしぎがっていたが、しかし間もなく、その謎だけはとけた。昼すぎに上村さんがやってきて、
「やっとあの子がしゃべりましたよ。あの子は|杉《すぎ》|芳《よし》|子《こ》といって……」
と、上村さんは悪魔の画像を指さしながら、
「この絵をかいた杉勝之助の妹なんです」
それを聞くと一同は、ギョッと顔を見合わせたが、そこで上村さんの語るところによるとこうなのだった。
杉勝之助が自殺したとき、芳子はまだ七つだった。ふたりには両親がなかったので、おじの|諸《もろ》|口《ぐち》|章太《しょうた》というひとが、芳子をひきとった。そのとき章太は、勝之助の絵をすっかり売りはらってしまったのである。それがいまから八年ほどまえのことだった。
芳子はそののち章太に育てられたが、ちかごろおじのそぶりに、へんなところがあるのに気がついた。章太はときどき、真夜中ごろ、そっと帰ってくることがあった。しかも、どうかすると、まるく巻いた布のようなものを持ってくるのだ。芳子はあるとき、ソッとそれを調べて見て、それが八年まえに自殺した、兄の絵であることに気がついた。芳子はへんに思った。
ところがそのころある新聞に、ちかごろあちこちで、杉勝之助の絵がぬすまれるという記事が出ていたのである。それを読んだときの芳子のおどろきはどんなだっただろうか。
おじさんが、兄のかいた絵をぬすんでまわっている。なぜそんなことをするのかわからないが、それは悪いことにきまっている。
あるとき芳子は泣いておじさんをいさめた。しかし章太は聞こうとはせず、その後も勝之助の絵のありかをつきとめては、ぬすんでくるのだ。芳子は気ちがいになりそうだったが、まさか実のおじをうったえるわけにもゆかない。
ゆうべもおじが家をぬけ出したので、そっとあとをつけてくると、はたしてこの家へしのびこんだ。そこでじぶんもあとからはいってきて、とめようとしたが、章太はその芳子をいすにしばりつけ、さるぐつわをはめてしまったのだというのだ。
「おそらくこの絵を切りとったらいましめをといて、連れて帰るつもりだったんでしょうが、そのまえに発見されたんですね」
三人は話を聞いて、おもわず顔を見合わせた。
「それで、その男はどうしました?」
「あの子から住所を聞くとすぐ行ってみましたが、もちろん帰っちゃいませんよ。ところでここにわからないのは、その男がどうして杉勝之助の絵を、そんなに熱心にさがしているのかということです。杉の絵には、そんなにねうちがあるのですか」
「杉はたしかに天才でした。しかし、それはごく一部のひとがみとめているだけで、世間では問題にしていなかったのですから、いまきゅうに値が出るとは思えませんね」
「だからわからないのです。ひょっとするとその絵には、なにか秘密があるんじゃないでしょうか。絵のねうちとはべつに……」
それを聞くと良平は胸がドキドキした。いままでに読んだ探偵小説などを思いだし、きっとその絵の裏に、なにかたいせつなものがかくされているのだろうと思った。
しかし、すぐそのあてははずれてしまった。一同は悪魔の画像をがくからはずして、ていねいに調べてみたが、しかし、べつにかわったことも発見できなかったのだ。
こうして、一同は、奥歯にもののはさまったような、もどかしさをかんじたが、するとそこへ美也子がみまいにやってきた。美也子は欣三おじさんから、ゆうべの話を聞くと、目をまるくしておどろいていた。
「ねえ、美也子さん。あなたは杉にうらみがあるといってましたね。それはいったいどんな話なの。なにか参考になるかもしれないから、ひとつその話をしてくれませんか」
そういわれると、それ以上かくすわけにもいかず、美也子はつぎのような話をした。
美也子のうちにはエル.グレコの絵があった。エル.グレコというのは、いまから三百年あまりまえに死んだスペインの大画家で、グレコの絵といえばたいへんなねうちがあるのである。美也子のうちにあったのは、聖母マリアが幼いキリストをだいて、雲のなかに立っている図だったが、おとうさんが外国旅行をしたとき、フランスで買ってきたものなのだそうだった。
ところが戦後、うちがまずしくなったとき、その絵を売ろうとして専門家に見せると、いつの間にか、にせものにかわっていたというのだ。
「父が外国から持って帰ったとき、それはたしかにほんものでした。それがにせものにかわっていたとすると、日本でだれかにすりかえられたにちがいございません。そこで思いだすのは、いまから九年まえ、杉さんがその絵を模写なすったことです」
模写というのは原画とそっくりおなじにうつすことで、画家は勉強のために、古い名画をよく模写することがあるのである。
「杉さんは一月ほどうちへかよって、その絵を模写なさいましたが、それはよくできた模写で、原画とそっくりでした。だからうちの絵がにせものにかわっていたとすれば、そのとき、杉さんが模写なすった絵よりほかにあるはずがなく、ひょっとすると杉さんが、だれかにたのまれて……という、うたがいも出てくるわけです。しかし、そのときには、杉さんはずっとむかしに亡くなられていたので、お聞きするわけにもまいりません。ゆうべ杉さんのお名まえをうかがったとき、ふとそのことを思いだし、いまもし、エル.グレコの絵さえあったら、おかあさまを入院させることもできるのにと……」
美也子がなげくのもむりはなかった。エル.グレコは世界的な大画家だから、いまその絵があったら、何千万円、いや何億円するかわからないのである。
良平は美也子の、かさねがさねの不幸に、同情せずにはいられなかった。
さてその日の夕がたのことである。なにかどろぼうの残していったものはないかと、もう一度家のまわりを調べていた良平は、窓の下の花壇のなかから、ふと、へんなものを見つけだした。
それはメガネだった。しかもその玉というのがまっ赤なガラスなのである。
良平はなんともいえない、へんな気持ちにうたれた。青メガネだとか、黒メガネなら、べつに珍しくもなんともない。しかし、赤い玉のメガネなど、いままで、見たことも聞いたこともないからだった。
良平はなんとなく、心のさわぐのをおぼえながら、しかし、これがどろぼうの落としたものだというしょうこもないので、そのままだれにも話さずに、そっとしまっておいた。
しかし、あとから思えばこの赤メガネこそ、すべての謎をとく鍵だったのである。
画像の秘密
良平はねどこのなかで、またハッと目をさました。
どこかでガタリという物音……。
あれからきょうでちょうど十日目。
あの二、三日こそ、きょうくるか、あすくるかと、毎晚ろくに眠れずにいたが、五日とたち、一週間とすぎて、どろぼうの記憶もようやくうすれたこの真夜中……。
良平がねどこのなかで半身をおこして、じっと聞き耳をたてていると、とつぜん庭のほうから聞こえてきたのは、はげしい男のわめき声、それにつづいてピストルの音。
ギョッとした良平がねどこからとびだし、むちゅうになって洋服に着かえていると、なにかわめきながら、またズドンズドンとピストルをうちあう音。わめいているのは上村巡査のようだった。それにつづいて、だれかが裏の道を走っていく足音がした。
良平がやっと洋服を着て、へやから外へとびだすと、
「あっ、良平、あなた、いっちゃだめ」
だきとめたのはおかあさんだった。
「おかあさん、おかあさん、あれどうしたの」
「このあいだのどろぼうがまたきたらしいのよ。それを上村さんが見つけてくだすって……」
「おじさんは……?」
「おじさんは上村さんのかせいにいきました。しかし、あなたはいっちゃだめ。あぶないから」
「だいじょうぶです。おかあさん、ぼく、ちょっといってみます」
ひきとめるおかあさんをふりきって、外へとびだすと、遠くのほうでピストルの音、ひとのわめき合う声。その声をたよりに走っていくと、むこうに陸橋が見えてきた。
そのへんいったいは高台になっているのだが、その一部を切りひらいて、はるか下を郊外電車が走っている。そして、上には、高い陸橋がかかっているのだ。
どろぼうはこの陸橋の上まで逃げてきたが、見るとむこうからもピストルの音を聞きつけて、パトロールの警官が走ってくる。うしろから上村巡査に欣三おじさん、それにさわぎを聞いてとびだした、近所のひとが大ぜい押しよせてきた。
どろぼうは、もう絶体絶命だった。
ズドン! ズドン!
めくらめっぽうに二、三発、ピストルをうったかと思うと、ひらりと橋のらんかんをのりこえたが、そのとたん、古くなってくさりかけたらんかんが、メリメリと気味の悪い音をたててくずれてしまった。
「うわっ!」
どろぼうは、世にも異様な悲鳴を残してまっさかさまに落ちていった。
「あっ、落ちた、落ちた」
「下へまわれ、下へまわれ」
良平はドキドキしながら、はるか下の線路の上によこたわっている、どろぼうのすがたを見まもっていたが、どろぼうはもう、身動きをするけはいもない。そのうちに、線路づたいに、カンテラを持ったひとが四、五人、なにか叫びながら近づいていくのが見えた。
そこまで見とどけておいて、良平が家へ帰ってみると、さわぎをきいて美也子がおみまいにきていた。そこで応接室にあつまって、三人で話をしていると、半時間ほどして欣三おじさんと、上村さんが帰ってきた。
「おじさん、どろぼうは?」
「死んだよ、首根っこを折って。良平、やっぱりあの男だったよ。古道具屋で会った男……」
「どうも残念なことをしましたよ。きっともう一度やってくるにちがいないと、このあいだから気をつけていたんですが、かんじんなところで殺してしまって……これであの男が、なぜ杉の絵ばかりねらうのか、わからなくなってしまいましたからね」
職務に忠実な上村さんは、いかにも残念そうだった。おかあさんがいろいろお礼をいった。
「しかし、上村さん、あいつへんなメガネをかけてましたね。赤いメガネ……こなごなにこわれてましたけど、あれどういうわけでしょう」
赤いメガネ……!
良平はそれを聞くと、ハッとこのあいだひろったメガネのことを思いだした。
ああ、それではやっぱり、あれはどろぼうが落としていったものだったのか。
良平はそっとへやからぬけだして、じぶんのへやから赤いメガネを持ってくると、それをかけて応接室のなかを見まわしてたが、とつぜん、なんともいえぬ大きなおどろきにうたれたのである。
悪魔の画像にベタベタぬられたあの赤い色は、メガネの赤にすっかり吸収されて、そのかわりに、いままで、赤色のために目をおおわれていたべつの色、べつの形が、悪魔の画像の下から、くっきりとうかびあがってきたではないか。
幼いキリストをだいた聖母マリア!
「ああ、エル.グレコだ! エル.グレコの絵がそこにある!」
気ちがいのように叫ぶ良平をとりまいて、そこにどのようなさわぎがもちあがったか、それは諸君の想像にまかせることにしよう。
さて、エル.グレコを模写した杉勝之助は、毎日それをながめて勉強していたが、そのうちに、どうしても模写ではものたりなくなり、ほんものがほしくなった。そこで美也子の一家が軽井沢へ避暑にいっているるすちゅうにしのびこんで、ほんものと模写とすりかえてしまったのである。
しかし、ほんものをそのまま、じぶんのアトリエにおいとくわけにはゆかない。なぜといって、そこには本職の画家たちがよくあそびに来るから、すぐほんものか模写か見やぶってしまうからなのだ。
そこでエル.グレコの絵の上に、べつの絵をかいておいたのだった。
きみたちは白い紙に、赤と青で線をひいて、その上に赤いパラピン紙をあてがうと、赤の線は消えて、青の線だけが紫になって見えることをたぶん知っているだろう。
杉勝之助はその原理を応用したのだ。そして、エル.グレコの絵が見たくなれば、赤いメガネをかけて観賞していたのである。
しかし、そのうちに良心のとがめと、とてもエル.グレコにおよばないという絶望から、とうとう気がくるって自殺したのだった。
勝之助のおじの諸口章太は、そんなことは知らないで、勝之助の絵を売ってしまった。ところがそれから四、五年もたって、勝之助の日記を読んで、はじめてそこに、そんな貴重な絵がかくされていることを知り、はじめのうちはかたっぱしから勝之助の絵をぬすんでまわっていたが、どれもこれも思う品ではなかったので、はじめて赤いメガネをかけて、ぬすむまえに、よく調べることを思いついたのだった。
悪魔の画像は専門家の手によって、きれいに洗いおとされた。そして、もとどおりエル.グレコの絵にかえると、欣三おじさんからあらためて、美也子にかえされた。
美也子はしかし、それを売ろうとはしなかった。売る必要がなかったからである。なぜといって、美也子さんはそれから間もなく、欣三おじさんと結婚したのだから……。
したがって、欣三おじさんは良平のうちを出たが、そのかわり、良平のうちには、また、新しい、よいお友だちがやって来た。
いうまでもなく、それが杉勝之助の妹の、あのけなげな芳子であることは、きっときみたちも想像がついたことだろう。
ビーナスの星
三人の乗客
阿佐ヶ谷でドヤドヤとひとがおりてゆくと、いままでこんざつしていた電車のなかはきゅうにしずかになった。
K大学生|三《み》|津《つ》|木《ぎ》|俊助《しゅんすけ》は、ホッとしたように読みかけの本をひざの上におくと、なにげなく車内を見まわしたが、広い車内には、じぶんのほかに、たったふたりしか乗客がいないことに気がついた。
ひとりは十四、五歳のかわいい少女である。俊助はなんとなくこの少女に見おぼえがあるような気がしたが、どこで見た少女なのか思いだせなかった。もうひとりは年ごろ四十歳ぐらいの小男で、こうしじまのコートのえりに顔をうずめるようにして、さっきからしきりにいねむりをしている。がらんとした電車のなかに、てんじょうの電燈ばかりがいやにあかるい。俊助はおもわずコートのえりを立てると、窓ガラスにひたいをくっつけるようにして外をながめた。
時間は夜の十一時すぎ。電車はいま阿佐ヶ谷と|荻《おぎ》|窪《くぼ》のあいだの闇をついて、まっしぐらに走っている。
秋もすでになかばをすぎて、電車の外にはさむざむとした|武蔵《む さ し》|野《の》の風景が、闇のなかにひろがっていた。
このとき、ふとひとのけはいがしたので、俊助はなにげなくふりかえって見ると、今までむかいがわにいた少女が、いつの間にか俊助のすぐうしろにきて、重いガラス窓をあけようと、一生けんめいになっているところだった。
「窓をあけるのですか」
「ええ」
「あけてあげましょう」
俊助が腕をのばして、重いガラス戸をあけたときである。ふいに、少女のあらい息づかいが、俊助の耳のそばであえぐようにはずんだ。
「おねがいです。助けてください」
「え?」
俊助はおどろいてふりかえると、
「きみ、いまなにかいいましたか」
「あら! いいえ。あの、あたし……」
少女はどぎまぎして、なにか口ごもりしながら、窓からくらい外をのぞいている。
じみなサージの事務服の上に、まっ赤な毛糸のマフラーをかけているのが目についた。目のぱっちりしたりこう[#「りこう」に傍点]そうな感じのする少女で、二つにあんで肩にたらした髪の毛が、ヒラヒラと風におどっている。
――みょうだなァ。たしか助けてくれといったようだったがなァ。そら[#「そら」に傍点]耳だったのかしら?
俊助はふしんそうに、少女の横顔をながめていたが、やがて思いあきらめたように、読みかけの本を取りあげた。すると、そのとたん、美しい彼のまゆねにそっとふかいしわ[#「しわ」に傍点]がきざまれた。見おぼえのない紙きれが一枚、いつの間にやら本のあいだにはさんであるのだ。
俊助はなにげなく、その紙きれの上に目を走らせた。
[#ここから2字下げ]
オネガイデス。|吉祥寺《キチジョウジ》マデオリナイデクダサイ。悪者ガワタシヲネラッテイマス。助ケテクダサイ!
[#ここで字下げ終わり]
あわただしいエンピツの走り書きなのである。
俊助はおもわずドキリとして息をのんだ。考えるまでもない手紙の主は少女にきまっていた。さっき俊助が窓をひらいているあいだに、手早く本のあいだにはさんだのであろう。
それにしても『悪者がわたしをねらっています』というのはおだやかでない。いったい、どこに悪者がいるのだろう。
俊助はふと気がついたように、むこうのほうにいる男のほうへ、ソッと目をやった。するとどうだろう。今までいねむりをしていると思っていたあの男が、帽子の下からするどい目をひからせて、じっとこちらのほうを見ているのに気がついたのである。男は俊助の視線に気がつくと、あわてて目をそらしたが、ああ、その目のひかりのものすごさ。
俊助はおもわずゾーッとしたが、しかしそれと同時に、ふしぎなくらい心のよゆうができてきた。彼はしずかに紙きれをポケットにしまうと、真正面をむいたまま、ひくい声で、
「しょうちしました。ぼくがいるから心配しないで」
と、ささやいた。
電車は間もなく荻窪についた。かれは、そこで下車するはずだったが、かれはおりなかった。
少女は寒そうにマフラーをかき合わせながら、ときどき|哀《あい》|願《がん》するように目をあげて、俊助の顔を見るそのかわいらしい顔を見ているうちに、俊助はフッとこの少女を思いだした。
彼女は新宿堂という大きなパン屋の売り子としてはたらいている、けなげな少女だった。
「きみの名、なんていうの?」
「あたし、|瀬《せ》|川《がわ》|由《ゆ》|美《み》|子《こ》といいますの」
「由美子さん、いい名だね」
ふたりがこんな話をしているうちに、電車は吉祥寺へついた。すると、今までいねむりしているようなふうをしていた例の小男が、すっくと立ちあがると、ジロリとものすごい一べつをふたりのほうにくれて、スタスタと電車から出ていった。
なんともいえないほど気味の悪い目つきだった。俊助と由美子は、おもわずゾーッとして顔を見合わせたのである。
発明家兄妹
「きみはあの男知っているの?」
ふたりがプラットホームへ出て見ると、もうさっきの男のすがたは影も形も見えなかった。
「いいえ。まるきり知らないひとですの」
由美子は寒そうに肩をすぼめながら、
「それが、どういうわけか、このあいだからしじゅうああして、あたしのあとをつけていますのよ。あたしも気味が悪くて、気味が悪くて……。ほんとうにありがとうございました。あのひととふたりきりになったらどうしようかと思いました」
「とにかく、そこまで送っていってあげよう」
乗り越し料金をはらってふたりが改札口を出ると、ゴーッとすさまじい音をたてて、冷たい夜風が吹きおろしてきた。時間が時間だから、どの家も戸をとざして、シーンと寝しずまっている。
「きみのうちはどのへん? 駅の近くなの?」
「|井《い》の|頭公園《かしらこうえん》のむこうですの」
「それじゃたいへんだ。そんなさびしい道を、きみは毎晚ひとりで帰っていくの。だれもむかえにきてくれるひとはないのですか」
「ええ、にいさんが、このあいだから、かぜをひいて寝ているものですから」
「にいさんのほかにだれもいないの?」
「ええ」
由美子はかなしげにため息をついた。
「それは気のどくだ。じゃ、とにかくとちゅうまで送ってあげよう」
「あら、だって、そんなことをなすっちゃ、荻窪へお帰りになる電車がなくなりますわ」
「なあに、そうすれば步いて帰りますよ。さっきのやつがどこかにかくれているかわからないし……さあ、いっしょにいってあげよう」
「ええ、すみません」
そこでふたりはならんで步きだした。
みちみち由美子が問われるままに語ったところによると、彼女はたいへんかわいそうな身の上であった。三年ほどまえまでは、彼女の家庭はひとにうらやまれるくらいゆうふくであったが、父と母があいついで亡くなってからというもの、バタバタと家運がかたむいてしまって、今では兄とふたりきり、びんぼうのどんぞこに、とりのこされてしまったのである。
「それで、にいさんはなにをしているのですか」
「にいさんはたいへんかわったひとですの」
由美子はちょっとためらいながら、
「親戚や知り合いのかたは、みんなにいさんをきちがい[#「きちがい」に傍点]だといいますけれど、あたしはあくまでもにいさんを信じてます。にいさんはただしくて強いひとです。いま、ある発明に熱中しておりますの」
「発明?」
「ええ、親類のひとたちは、てんで相手になってくれませんけれど、あたしにはにいさんに力があることがわかっています。ただ残念なことには、あたしたちはびんぼうなものですから、ろくに研究材料も買えなくて、あたし、それでいつでもにいさんを気のどくだと思っています」
「なるほど、よくわかりました。それできみは、そうしてはたらいて、にいさんの研究を助けているのですね」
「ええ、……おばさまさえ生きていらっしゃれば、こんなことせずともよかったのですけれど……」
「おばさまというと……」
「ごぞんじありませんか? 去年ウィーンで亡くなった声楽家の|鮎《あゆ》|川《かわ》|里《さと》|子《こ》というひとですの」
俊助はびっくりして由美子の顔を見た。
日本人で鮎川里子の名を知らぬ者があるだろうか。日本のほこり[#「ほこり」に傍点]というよりも、世界の宝玉とまでたたえられた、偉大な芸術家である。
その鮎川里子が、このまずしいパン屋の売り子のおばであろうとは!