すでに手傷はおわせてあり、やくざ相手に切りあいの経験もつんでいる。首をあげるのは容易だった。仙之助はそれを、藩の江戸屋敷に持ちこむ。
「やりとげましたぜ。これです」
すでに二十年の歳月がたっており、若い家臣たちには確認できなかった。年配の家老が出てきて、やっとたしかめた。
「しかし、よくやったな」
「たぶんだめだろうと、お思いになってたのじゃありませんかね」
「そんなことはない。必ずやりとげると期待していた。さっそく帰参の手続きをとり、相続できるよう、国もとに手紙を書こう。それを持って帰るがいい」
仙之助は藩に帰り、正式に五十石の武士となれた。もちろん大変な話題になったが、それもやがておさまってしまう。彼はお城づとめをしたが、ほかの者たちとのずれがあり、どうもしっくりしない。
少年時代にはげんだ学問は、かたきを求めての旅で、すっかり忘れてしまった。旅の年月で身につけたことは、いま、なんの役にも立たない。言葉づかいや動作も、武士らしくなくなっている。いまさら武士に戻る修業をしようにも、四十歳ちかくなっては無理というものだ。長
い荒れた生活で、そんな意欲もなくなっている。まともなつとめは苦痛だった。かたきを討てば討ったで、またしても被害者の立場に追いやられるとは。青春を浪費してしまい、とりかえしはつかない。
さすらいの旅のことが、なつかしくさえあった。苦労はあったが、自由もあった。ここには、お家安泰、わが身大事のなまぬるい毎日しかない。
ほかの、ずっと平穏にすごしてきた家臣を見ると、この不公平さへの不満で腹が立つ。つい皮肉のひとつも言いたくなる。目つきだって、他人にいやな印象を与えているようだ。言いあいになったら、だれかがかっとなって切りつけてくるかもしれない。そうなると、こっちも刀
を抜くかもしれない。またもかたき討ちが発生する。
仙之助は城内で異分子のような存在だった。彼は苦心談や手柄話をあまりしなかった。まともに話せるしろものではないし、話したところでだれも理解してはくれまい。いまさら武士の娘と結婚する気もしなかった。かたくるしく、うまくゆくわけがない。彼はいろいろと考え、
それを実行に移した。
兄の三男を養子に迎えた。しばらくして、家督を養子にゆずり隠居したいと申し出る。二十年間の疲れのためというのが理由だった。ほかならぬ仙之助のことであり、異分子がいると周囲も気がねしなくてはならず、ちょうどいいとそれはみとめられた。
やっと手に入れたといえる武士の地位だが、それを持ちつづける気も今やない。養父から養子へ橋わたししただけのことだ。それからさらに時期をみて、仙之助は出家して仏門に入ると申し出た。かたきとはいえ、同藩の武士を殺した。その気持ちの整理をしたいというのが理由
。それもみとめられた。
僧となると、修行のためにという名目で、藩から出てゆくことができる。武士であることをやめてしまったのだ。
「……というわけで、ここにいることになったのですよ」
仙之助すなわち仙太は話しおえた。姉といっしょの少年の武士は、こう言った。
「大変なご苦心でしたね。実情はそういうものかもしれませんね。わたしたちの今の考えは、楽観的かもしれません。しかし、手ぶらで藩に帰ることは許されません。使命を捨てて江戸で商人になろうにも、その自信はない。かたきを求めて旅をつづける以外にはないでしょう」
「しかし、わたしの場合、偶然とはいえかたきを討てただけ、まだいいほうです。それでさえ、このばかばかしさ。あなたがたはどうなりましょうか。やみ討ちにあうか、のたれ死にか。あなたはいいでしょうが、姉上のことを思うと、胸が痛みますな」
「ご意見はよくわかりましたが、なんだか遠まわしのようです。問題点をはっきりとおっしゃって下さいませんか」
少年に聞かれ、仙太は身を乗り出した。
「そこですよ。もしお望みならばですが、すべてをうまく取りはからい、帰参できるよう形をととのえてさしあげます。わたしの商売というわけでして、いくらかお金をいただきますがね。しかし、わたしの自己満足のためでもあるので、決して法外な額は要求しませんよ」
「商売といいますと……」
「出家して藩を出る時には、ぼんやりした構想しかなかった。しかし、この寺で働くようになってから、ある日、ひとつの事件があった。五十歳ぐらいの武士。身なりは|乞食《こじき》以下でしたがね。それが小さな墓をなぐりながら、大声でくやし泣きしている。わけを聞いて
みると、かたきを討つため十五年も全国をまわったという。わたしの二十年よりは短いが、としがとしだけに、さぞ苦しいものだったでしょう。国もとに妻子を残してですよ。風のたよりにかたきの所在を知り、やっとつきとめてみると、相手はすでにこの墓の下……」
「そんな場合はどうなるのです」
「どうにもなりませんよ。自分の手で討ちとったのでないから、使命をはたしたことにならず、国へ帰るのは許されない。旅をつづけようにも、かたきはもうこの世にいない。国では妻子が待っている。死ぬに死ねず、生きる目標はなにもない。妻子を江戸に呼ぼうとしても、藩で
は任務を放棄するつもりかもしれぬと、それも許されない」
仙太の話に、はじめて姉が口を出した。
「なぐさめようもありませんわね」
「かたきの死亡を知らないほうが、まだ救いがありますな。こんな例がまた多いんですよ。わたしはこれを現実に見て、同情を通り越して、いきどおりをおぼえました。そこで、その年配の武士のお手伝いをしてあげる気になったのです」
「どうやって……」
「この近くに刑場がある。処刑された罪人は墓を立てることが許されない。死体はここに運ばれ、寺の片すみに埋められるだけです。そのあわれな武士をひきとめておき、似たような首を選ばせてやったわけです。似てないところは加工した。切りあいのあげくのように、耳を切っ
たり歯を折ったりです。その首を|壺《つぼ》のなかに入れ、|焼酎《しょうちゅう》をそそぎこみ、ロウで封をした。当人にも少し傷あとを作り、刃こぼれのある刀を持たせ、国へ帰してやりました。くわしい武勇伝も作ってね。何回も話しているうちに、つじつまがあわなくな
ったりしないようにです。わたしの経験で知ったことですが、人間というものは、作り話でもいいから、もっともらしくはなばなしく、聞いた人が他人に伝えやすい形のものを好むようです」
「それでは藩をあざむくことに……」
「現実にかたきは死んでいるのですよ。だれが傷つくわけでもない。みな無事におさまるのです。このお礼の手紙をごらんなさい……」
仙太は手紙を見せて読んだ。
「……おかげさまで帰参ができ、いまは妻子とともにやすらかに日をすごしている。すぎし日が悪夢だったのか、いまが夢なのか。この夢がさめないよう祈るばかりです。禄高の一割をお送りします。武士の収入は確実ですから、わたしの生きている限りはお送りできましょう。同
じ境遇のあわれな人たちを助けるお役に立てて下さい。こんな内容です。差出人の名は秘密ですがね」
「そういうことでしたか」
「それから、ずいぶん助けましたよ。ばかげた苦労など、短いほうがいい。ここで似た首を手に入れ、品川の宿からすぐ帰国していった人もいます」
「かたきの生死をたしかめずにですか。もし、かたきがのこのこ出現したら、どうなるのです。すぐばれてしまうでしょう」
「かたきがそんなばかなことするわけ、ないでしょう。そのような心配はいりません」
「つまり、あなたはわたしたちに、それをすすめるわけですか」
少年の問いに、仙太は床下をのぞかせ、そこに並んでいるたくさんの壺を指さした。
「これだけ首の用意があります。特徴はフタに書いてあります。年齢、丸顔か角顔か鼻の形などをね。処刑された悪人ですから、みな人相がよくなく、かたきにふさわしい首ばかりです。少し加工すれば、お望みの人相にすぐなおせます。ここにこれだけそろっていることを頭に入
れておいて下さればいいのです。ご自分の手で討ちたいというのを、おとめはいたしません。しかし、のたれ死によりはとお思いになったら、いつでもお待ちしております」
「ううん。考えさせられるな」
「かたき討ちという慣習には、いい面もたしかにあります。しかし、理屈にならぬ不合理な面もある。そのひずみをなおす役に立ちたいだけです。表には裏があるものです。きびしい武士のおきてにも、裏が必要でしょう。形式さえととのっていれば、帰参はすぐ許されるのです。
念のために、粗末な小さな墓石を作り、かたきの名を刻んで立ててあります。かりに藩の人がやってきても、その日付を見せてわたしがうまく証言してあげるから、ばれることはない。あなたがたも、江戸の町奉行所を通じて、幕府にかたき討ちの届けをまずなさって下さい。そし
て、このかたき討ちの仙太を心にとめておいて下さい」
「わかりました。相談の上、いずれあらためて……」
少年と姉は帰っていった。遠からず戻ってくることを仙太は知っている。いままでだれもがそうだった。真実と体験による説得にまさるものはない。
東海道ばかりでなく、江戸からはほかの街道ものびている。そこの宿場には、仙太の子分が各所で網を張っている。そして、うしろをふりむきながらそわそわした態度で歩いてくる武士に話しかける。
「もし、お武家さま……」
「なにか用か、急いでいるのだ」
「ご事情があることは、一目でわかりますよ。わたしもかつて、そうでした。武士の意地で同じ藩の者を殺し、逃亡し、急ぎ足で江戸へ逃げてきたものですから。おっと、刀なんか抜いちゃいけませんぜ。目立ってしまいますよ。まあ、歩きながら、わたしの話を聞いて下さい。い
つ殺されるのかとおびえながらの、終りのない逃亡の旅。いやなものですなあ。その努力をいいほうにむけたら、どんなに世の役に立つことか。わたしは、その恐怖から救われたのです。かたき討ちの仙太という人によってです。品川のお寺のなかですよ。もしお気がむきましたら
。え、すぐ連れてってくれですって。承知しました」
そして、仙太のところへ連れてくる。仙太は床下の壺のひとつをあけ、焼酎につけた首を見せる。
「これの、目のあたりを加工すれば、あなたそっくりになりますな。ちょうどいい。おそらく、近いうちにあなたを追って江戸へやってくるわけでしょう。どんな人が来るか、特徴をうかがっておきましょう。その人を説得して、これを押しつけるのです。その自信はあります。い
かがでしょう」
「ぜひ、たのむ。同輩を殺した瞬間から、反省のしつづけだ。といって、討たれてやる決心もつかない。かたきとなってから、気の休まるひまがない。命以外のことですむのなら、いかなるつぐないもする。なんとか話をつけてくれ」
「おまかせ下さい。しかし、あなたは人を殺しているのです。この反省を忘れてはいけませんよ。オランダ医学を勉強なさい。死んだ気になれば、できないことはない。そして、病人の命を救ってあげるのです。時には、この首の加工も手伝ってもらいますよ」
「いろいろとご指導、かたじけない。あなたは命の恩人、死ぬまで指示に従います」
かたきからは命の恩人と感謝され、討つほうからは人生の恩人と思われ、仙太の仕事は順調だった。
ある日、寺社奉行がやってきて、仙太に言った。
「おい、仙太とやら。うわさによると、かたき討ちに関係して、なにやら首の仲介をしているとか……」
こういう役人を相手に理屈をこねてもむだなことを仙太は知っている。芝居もどきの口調で言う。
「かたき討ち仙太は男でござる。他人に迷惑のかかることは、死んでも口を割りません。いや、ひとつだけ申し上げましょうか。わたしの三代前の、初代の仙太のやったことです。ほら、あの|吉良《き ら》|上野《こうずけの》|介《すけ》さまの首。討入りの寸前、大石|内
蔵《くらの》|助《すけ》さまへ、そっくりに作りあげておとどけしたと聞いております。あれだけの壮挙、最後にかたきの首を取れなかったら、国じゅうの笑いものです。それに、赤穂浪士のなかに、吉良さまの顔を知っている者がいたでしょうか。さすがは大石さま、万一の場
合にそなえて、慎重な準備をなさった。吉良家のほうでも、それですむならというものです……」
寺社奉行はけむに巻かれた。
「なにを言う。そんな話がひろまったら、幕府の威信がめちゃめちゃになる。おまえは頭がどうかしておるようだな」
「はい。そうしておいて下さい。そんな話、わたしの口からはしゃべりはしませんよ。そのかわり、わたしをしょっぴいたりもしないで下さいよ。そんなことになったら、あなたもただではすまない。あなたをだれかのかたきに仕立ててやる。逃げまわるのがどんなにつらいか、お
考えになってみませんか……」
「おどかすな。いよいよ、頭がどうかしている」
寺社奉行はそのまま帰っていった。よく考えた上なのか、気ちがいと判定したのか、保身を考えてか、そこまではわからない。仙太は仕事をつづけることができた。
仙太はやがて死去したが、その仕事をうけつぐ者があり、やはり仙太と名乗って多くの人の人生を助けた。幕末になると、京へ赴任する幕府の役人は、どこから聞いてくるのか、ここに立ち寄り、自分に似た首の入った壺を買いとる者が多かった。「|天誅《てんちゅう》を加え
るもの也」との書とともに、京の町にさらされた首もかなりあったそうだが、本当に殺されたものやら、自分でそうやって姿をくらまし要領よく生きのびたものやら……。
厄よけ吉兵衛
あけがた、吉兵衛は夢を見た。
ミカンを食べながら歩いている夢だ。そのミカンは酒を含んでいて、食べるにつれて酔ってくる。いい気分だった。きれいな|虹《にじ》が空にかかっている。それをながめながら、ふらふらと歩いている。その時、うしろから声をかけられた。
「やい、町人。あり金を残らず渡せ」
ふりむくと、覆面をした武士。まずしい身なり。浪人らしい。どう答えたものかと迷っていると、相手は刀を抜き切りつけてきた。肩のところにぐさり。身をかわそうとしたが、酔っている。足がもつれ、吉兵衛はそばの川のなかに落ちた。つめたい水……。
そこで目がさめたのだった。ふとんのなかで、いまの夢をしばらく頭のなかでいじくりまわした。そとはいくらか明るい。近所のかすかなざわめきが聞こえてくる。
七つ半、すなわち朝の五時。街のめざめる時刻だ。江戸は早寝早起き。七つ立ちといって、大名行列などは四時に出発する習慣だ。勘定奉行は、六時には役所に出勤している。
吉兵衛が寝床から出ると、妻がふとんをしまった。しかし、|枕《まくら》だけは吉兵衛が自分でしまう。眠っているあいだに魂を託す大切な品だ。ていねいにあつかわなければならない。
「おはようございます」
子供たちがあいさつする。娘は十六歳。むすこは十歳だ。みそ汁とナットウで食事をする。食事中はほとんど会話をしない。おしゃべりははしたないことなのだ。それでも吉兵衛は、ひとことだけむすこに言う。
「おまえは十歳。重要な年だ。どの方角も凶。災厄にあわぬよう、よく注意するのだぞ。この一年、むりなことは決してするな」
「はい」
毎朝のことで、日課のひとつになってしまっている。それも、むすこのことを思えばこそだ。いまのところ、唯一のあととり。あらゆる厄よけの秘法をおこなっているとはいうものの、この子にもしものことがあったら、娘に養子を迎えねばならぬ。といって、ぐずぐずしている
と、娘の婚期を逸しかねない。養子を迎えるとなると、良縁の|願《がん》のかけかたがちがうのだ。だからこそ、むすこがこの十歳をぶじに乗り越えてくれるよう、心から願っている。
食事のあと、お茶を飲みながら、吉兵衛は夢占いの本を開く。いつなにが起るかわからない世にあって、これはたよりになるもののひとつなのだ。
〈盗人に切られた夢を見れば、思わぬ方角より吉報きたる〉
〈ミカンの夢を見ることあれば、難あり。警戒が大切、油断すべからず〉
〈虹の夢を見たら、何事も急ぎ片づけるべし。ぐずぐずすれば、こと成りがたし〉
〈酔うて水中に落ちるを見れば、ごたごたに巻きこまる〉
などと似たような項目はあったが、さっきの夢そのものに相当するのはない。吉なのか凶なのか、さっぱりわからない。どちらかといえば凶と考えておいたほうがいいのかもしれぬ。近所の稲荷さまに参詣しておくとするか。何事も急ぎ片づけるべし。
「ちょっと出かけてくる」
そそくさと吉兵衛は出て、近くの小さな稲荷に参詣した。ほぼ三日に一度は参詣している。おかげで、きょうまでなんとか大過なくすごしてこれた。霊験あらたかなのだ。
六時ちょっとすぎ。商店が戸をあけはじめている。営業は八時からだが、それにはいまから準備しておかねばならない。
トウフ屋の前で吉兵衛は足をとめ、なかをのぞきこんであいさつをする。
「おはよう」
「おや、吉兵衛の旦那。お早いことで」
「アブラアゲを一枚くれ」
「どうぞどうぞ。お持ち下さい。お代はいいですよ。朝の一番のお客には、相手の言い値で売ることにしてるんです。それをやっているおかげで、ずっと商売がつづいている。しかも、こんなに早く、吉兵衛さんとなると、お金はとれない」
「そうかい、すまないな。じゃあ、もらってゆくよ。このところお稲荷さまに供え物をしてないことを思い出したというわけさ。ついでに、この店の繁盛も祈ってきてあげるよ」
「よろしくお願いしますよ」
吉兵衛はまた鳥居をくぐり、アブラアゲを供え、トウフ屋のことも祈った。うそをついてはいけないのだ。稲荷のお使いであるおキツネさまは、なんでもお見とおしだ。
弁天さまはヘビ、八幡さまはハト、熊野権現はカラス、|帝釈天《たいしゃくてん》はサル、大黒さまはネズミ。神さまにはそれぞれ動物が所属しているのだ。ここのおキツネさまも、この供え物で喜んで下さるにちがいない。少なくとも、きょう一日は、いくらかすがすがしい
気分になる。
戻る道で、仕事に出かける行商人や職人たちに会う。七時はその時刻。吉兵衛は長屋を持っている|大《おお》|家《や》なのだ。そこの住人たちの姿を見ると、声をかけてやる。
「きょうも、けがをしないようにな」
「わかっておりますとも。いってまいります」
自宅の門口に立って、吉兵衛はながめる。元三大師の魔よけのふだがはってある。つののある人物の絵のふだで、悪魔をはらうききめがあるのだ。サザエの貝殻もつるしてある。このとげで、やってきた鬼は退散することになっている。さらに、三峰神社のオオカミのおふだ。こ
れは盗難よけのためのもの。
不幸の侵入にそなえ、警戒は厳重にしておいたほうがいい。門口を入った内側にも、おふだが並べてはられている。水難を防ぐ水天宮、火災よけの秋葉神社、盗難を防ぐ仁王尊。盗難にはとくに注意せねばならぬ。それらのおふだを点検し、吉兵衛は満足する。
四つに折って、のりで軽くとめてあるのは、赤で描いた|為《ため》|朝《とも》の絵だ。これはホウソウを防ぐ役に立つ。いつもはっておきたい気分だが、そとへはると「さては流行か」と近所が大さわぎになる。だから、このようにすぐはり出せるよう用意しておくのが一番
いい。むすこが感染したら一大事。
座敷にすわると、長屋に住んでいる若い男がやってきて、庭へまわった。旅姿をしている。
「これから出かけてまいります」
まだ独身の、よく働く歯みがき売り。そのうち一軒の店を持ちたいと、|金《こん》|比《ぴ》|羅《ら》さまに願をかけて、仕事にはげんでいた。そのおかげだろう。道で大金の入った財布を拾った。吉兵衛は大家として、それを奉行所にとどける手続きをとってやった。落し
主がみつかり、謝礼が出た。それを若者に渡す時、吉兵衛はすすめた。
「おまえは金比羅さまに願をかけたそうだな。あの神さまは強い霊験があるかわり、へたをするとたたりもある。この機会に、お伊勢まいりをしてくるがいい。ついでに、よその土地での見聞をひろめてこい」
それできまったのだ。吉兵衛は暦を調べ、旅立ちにふさわしい日を選んでやった。それが、きょう。若者は言う。
「おかげさまで、天気のいい日に出発できることになりました。えんぎがいい」
「道中手形をなくすなよ。それはわたしの責任で発行したものなのだから。おまえが旅先でなにかやらかすと、保証人であるわたしも巻きぞえになる」
「よくわかっております」
「道中、キツネやタヌキにまどわされるなよ。馬フンを食わされたり、旅館と思って竹の林に寝かされたりする。変だなと気がついたら、足をとめて深く呼吸するといい。それから、ワラジのうしろに牛のフンをつけておくと、マムシ、毒虫が近づかない。カラタチの葉を寝床の下
に入れれば、ノミにたかられないですむ。足の裏が痛くなったら、ミミズを泥のついたまますりつぶしてぬればいい」
あれこれ旅の注意をする。若者が聞く。
「いったんわかした水であれば、飲んでも腹をこわさないと言う人がいますが」
「そんな話、読んだことも聞いたこともない。だめだ。ききめはないぞ。水にあたるのを防ぐには、タニシをショウユで煮て、乾かしたものを口にするほうがいい。|熊胆《くまのい》と反魂丹をあげよう。腹痛の時に使うといい」
「ありがとうございます。では……」
若者は出発していった。吉兵衛のむすこは、寺子屋へと出かけていった。それにもくどいほど注意の言葉をかけた。
「さて、わたしはうちの長屋を見まわってくるか」
これが吉兵衛の日課だった。先祖代々、長屋を所有し、それを家業としている。長屋とは、同じ型の住居をいくつもつなげ、連続させて一棟とした建物のこと。独立家屋である吉兵衛の住居から一町ほどはなれたところに、それがある。
表通りには商店が|軒《のき》をつらねている。その切れ目の横町を入る。そういう裏の土地に、長屋は建てられているのだ。
入口に木戸がある。そこを入ると、両側に一棟ずつ、むかいあうように並んでいる。中央に下水のみぞが掘られ、そのむこうに井戸がある。少しはなれて、共同の便所とゴミ捨て場があり、もちろん鬼門の方角は避けてある。住居はそれぞれ九尺二間。せまいものだが、これが一
般庶民の住居なのだ。
居住者は二十世帯。そこからの家賃が、吉兵衛の収入となる。しかし、決してのんきな商売ではなかった。居住者のなかから、よからぬことをした者が出ると、それは大家の責任でもある。けんかで人を傷つけたりするやつがあると、吉兵衛も奉行所に呼び出され「きつくしかり
おく」と申し渡される。長屋内でばくちをやった場合も同様だ。
それがたび重なったり、盗賊と知っていて届け出なかったり、放火犯が出たりしたら、大家も江戸追放や遠島になる。まったく、そのことを考えると気が気でない。毎日をびくびくしながらすごしている。とても割りのあう商売ではないが、祖先以来の家業なのだ。
長屋の数をふやせば、それだけ収入もふえるが、神経もまたすりへらさなければならない。だから、そんなこと考えもしない。太っ腹をよそおう大家もいるが、そんな人だって内心は同じこと。
吉兵衛は毎日、ようすを見てまわらないと気がすまない。
まず、左の棟の手前の家をのぞき、声をかける。そこは野菜売りの家。朝、市場へ行って仕入れ、かついであちこち売り歩くという商売。亭主はその仕事に出て、女房が留守番をしていた。ちょっとした美人で、四カ月の身重のからだ。
「どうだね、ぐあいは」
「あ、大家さん。まあ、なんとか……」
「つけているかい、品川の仁王さまのお|祓《はら》いを受けた腹帯を……」
「はい」
「それならいい。この調子だと、うまく安産月に生まれそうだな。母か子か、どちらかが死ぬ月の出産となると、ことだ。そのための|祈《き》|祷《とう》だなんだで、ぶじにすんだところで、金がかかることになる」
「いろいろお教えいただいて……」
「どうやら、すべてうまくいっているようだな」
この女、かつて近くの菓子屋の店の男といい仲になったことがあった。どんなことがあっても、いっしょになるというさわぎ。その仲をさくよう菓子屋の主人にたのまれ、吉兵衛も力を貸したことがあった。
なぜなら、その組合せだと相性が悪いのだ。家に病気がたえず、できそこないの子ばかり生まれることになる。不幸になるとわかっている結婚を、そのまま見すごすことは、良心が許さない。
板橋の縁切り|榎《えのき》に出かけていって祈り、それから説得。冷静になりなさい。いまは熱病にかかっているようなものだ。あの男がイモリの黒焼きを菓子にまぜ、それを食わされた。その、ほれ薬のききめは、すぐにさめる。そもそも、男女には相性というものがあって
……。
好意と信念と理屈とがそろっている。ついに女はあきらめた。そこで、すぐここの野菜売りとの縁談を進め、いっしょにさせたのだ。この女は水性、亭主は木性、うまくゆかないはずがない。しかも、商売が野菜売りとくる。水、木、野菜だ。よろず吉、大福あり、長命うたがい
なく、よい子がうまれる。長屋のため、ひいては世のためでもある。
よいことをしてやったと、吉兵衛は心のなかで満足している。この女だって、きっと感謝しているにちがいない。
「ご亭主の仕事は順調だろうね」
「もう少しかせいでくれるといいんですけど」
「それでいいんだ。やがて景気がよくなるよ。末広がりの運勢の人なのだから」
「でも、食べるものは、売れ残りの野菜ばかりですの」
「妊娠中は野菜のような淡白な食事のほうがいいんだ。けがれが少ない」
「このあいだなんか、ナスの夢にうなされましたわ」
「それはえんぎがいい。鏡や杯の夢と同じく、いい子が生まれる前兆だよ」
「そうだといいんですけど」
「安心しなさい。では、また……」
どうやら、この家はぶじなようだ。亭主の金使いが急に荒くなったら、いちおう疑ってみなければならないところだが。これも、相性で二人を結びつけたからだ。
どこの家の戸口にも、盗難と火災よけのおふだがはってある。いいことだ。各人それぞれが用心するに越したことはない。
そのとなりはカゴかきを業とする家だが、女房から、子供が百日ぜきで困るとこぼされた。吉兵衛は教えてやる。こういうことも大家のつとめなのだ。
「オモチャの犬張子があるだろう。それにミソコシのザルをかぶせ、神棚にそなえるのだ。さらに念を入れ、近所の橋に行って、祈願をしておくといい。ただし、なおった時、その橋の欄干を紙で包み、水引をかけて、お礼の意を示すのを忘れないようにな。おこたると大変なこと
になる」
「なぜ、そんなことで病気が……」
「ご主人が酔っぱらって、お稲荷さんの鳥居に小便をしようとしたら、やりたいようにさせておくかね」
「とんでもない。やめさせますわ」
「それと同じだよ。自然や人間界を支配する原理とは、そんなふうに、どこでつながっているか、きわめて微妙なものなのだ。神を疑ったり、不吉なことを口にしては困るよ。この長屋の和を乱す。出ていってもらうことになるよ」
「いいえ、そんな。あたしだって、ばちが当るのはいやですわ」
「それだったら、どこかの神社にお百度まいりをするとか、厄はらいをしてもらうとか、誠意を示しておくほうがいい。一家のためだけでなく、みなのためでもあるんだ」
「といいますと……」
「たとえばだな、まだまだ幼児の死亡が多い。おとといも、むこうの横町の子が死んだ。幼児を埋葬する時、人形をいっしょに入れてやればいいんだが、それをしないと、死んだ子の魂が遊び相手をほしがり、よその子をあの世へさそう。こういうことをちゃんとしない人がいるか
ら、不幸がたえないんだ。考えれば考えるほど、気の毒でならない。困ったことだ」
「ほんとにそうですわね。それから、あの、もうひとつうかがってもいいでしょうか」
「なんだね」
「大家さんは生活にゆとりがある。なぜなんでしょう」
「毎日を気楽にすごしているわけではないよ。節約が大事、まあ暮しはなんとかなっている。それに、まじないのおかげだろう。一生、金銭に不自由しないというやつだ。うちでは、代々それをやっている」
「ぜひ、お教え下さい、それを」
「六月の十六日に、永楽銭十六枚で食べ物を買い、よその十六歳の子供に、それとなくおごってやる。それだけのことだ」
「そんな方法があったんですか。じゃあ、さっそく、うちの人に……」
女は急に目を輝かせた。
「そうしなさい。しかし、信心をつづけなければ、ききめはあらわれないよ。また、ひまがあるのだったら、なにか内職でもしなさい。ぼんやりしていては、神さまのほうも助けようがない」
「わかりましたわ」
「わかってくれればいいんだよ」
吉兵衛はその家を出る。百日ぜきの治療法を疑ったりし、危険な考えの持ち主かと一時はひやりとさせられたが、これからは、この女も心がけがよくなるだろう。それは亭主にも影響する。そうなれば事件をおこすこともない。すべてにいいことだ。
長屋の住人の職業は、そのほか、牛車ひき、紙くず買い、行商、職人など。店をかまえないでやれる職業の者ばかり。
子供たちは、そのへんや通りで遊んでいる。女房たちは井戸端に集って、洗濯をしながらなにやら雑談にふけっている。しかし、きょうはいつもとちがい、笑い声がなく、どこかようすがおかしい。変なことが発生したのでなければいいが。吉兵衛はそばへ行ってあいさつをする
。
「みなさん、こんにちは」
「あら、大家さん……」
「どなたもお元気なようで、けっこうですね。お変りもなく……」
少しだけ語尾を強めると、女のひとりがこんなことを言った。大工の職人の女房だった。
「それがね、大家さん。困ったことがおきてしまいまして」
「なんです」
「あたしの亭主の財布がなくなったんですの。昨夜、眠っているあいだに」
「おいおい、軽々しく、そんなことを口にするなよ。重大な問題だぞ」
「でも、寝る前には、たしかにあったんです。それが、起きてみると……」
「すると、盗難だな……」
吉兵衛は腕組みをする。どうやら盗難にまちがいないようだ。長屋の入口には木戸がある。夜になると閉じることになっているが、形式的なもの。夜おそくまでソバ売りをしている者もいる。いちばんおそく帰った者がしめることになっているが、必ずしも守られていない。また
、その気になれば乗り越えることもできる。
だから外部からの賊とも考えられるのだが、吉兵衛にはこの長屋の内部の者のしわざのように思えた。ただの賊なら、この家が大工職でかせぎがいいと知っているわけがない。となると、やっかいな事件である。
しかし、そんな推測を口にしたら、疑心暗鬼、住人たちの和が乱れてしまう。また、その犯人がわかってもことだ。監督不行き届きということで、当人の処罰ばかりでなく、吉兵衛も奉行所からしかられることになる。被害者の女はぼやいている。
「なぜ、盗難なんかに。ちゃんと、おふだがはってあるのに」
「日が悪かったのかもしれませんな。それに、あなたのご亭主は、酒を飲みすぎるよ」
「お酒がなぜいけないんですの」
「自分ばかり飲んで、神棚に供えるのをおこたってたのでは……」
「ちゃんと供えてますわ。お酒でたたられるなんて、変ですわ。財布のなかみはしれてますけど、盗まれるっていい気分じゃない。大家さん、なんとかして下さいよ」
女にたのまれ、吉兵衛は言う。
「よろしい。わたしが行ってこよう。しばられ地蔵に祈ってくる。知っての通り、その地蔵さまをしばり、願をかけると、盗品がとり戻せるのだ。地蔵さまがかわって、賊を苦しめてくれるからだ」
「うまくいくといいですわね」
「ききめはある。だからこそ、しばられ地蔵が評判なんだ」
「だけど、ぐずぐずしていると、お地蔵さまの力の及ばないところへ逃げてしまうかも」
「そう心配することはない。だれか、わたしの家へ行って、|下野《しもつけ》日光山の、走り大黒さまのおふだを持ってきてくれ……」
やがて、それがとどく。かすれたような印刷で、立った人物が描かれている。ふつう大黒といえばすわっているが、これはその立った姿らしい。吉兵衛は言う。
「これを壁に、こういうぐあいに、さかさまにはる。そして、この足の部分にだ……」
と針を突きさした。このまじないによって、犯人は逃げられなくなるのだ。女は聞く。
「これで大丈夫なんですか」
「そうだ。ききめがなければ、お上がこんなものの発行を許しているはずがない。さて、わたしは本所のしばられ地蔵まで行ってくるよ」
「お手数をおかけします」
「なに、長屋のことは、わたしの問題でもあるのだ」
吉兵衛は散歩がてらと、ぶらぶら歩く。途中、はっと気がつく。悪い方角にむかっている。わたしとしたことが。時間はかかるが、まわり道をしなければならない。きょうは、このことでつぶれそうだ。もっとも、ほかに急ぎの用もなく、あわてることはなかった。
いったい、世の中になぜごたごたが絶えないのだろう。時の流れによって、三元九星が循環する。それによって、善悪吉凶が発生している。そう本に書いてある。立派な本に書いてあるのだ。だから、真理にちがいない。
わたしはその指示にさからわない。家屋の修理、着物の着ぞめ、病気の全快祝い、みな吉日を選んでいる。おかげで、まあ大過なく今日まですごせてきた。
しかし、世の中には、まだ悪がつきない。九星にさからう連中が多いからだろうか。さっきもだれかが言いかけたが、走り大黒の足に針をさすことで逃亡をとめられるのなら、悪人はみなつかまってしかるべきだ。火災防止のおふだも、多くの家にはってある。それなのに、依然
として火事は絶えない。