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作者:日-星新一 当前章节:15408 字 更新时间:2026-6-16 01:47

 なぜだろう。吉兵衛もふと疑問をいだいた。みなの信心のたりないせいだろうか。あるいは、九星の理屈だけでは律しきれないためかもしれない。世の中、しだいに複雑になってきてるからな。

 それをおぎなうためだろう。昔のえらい人たちの知恵によって、さまざまなご神体が作られ、信仰がなされている。

 だが、まだなにか不足のようだ。もっとずっと強く的確な、お寺なり神社なりが作られていいはずだ。何十年か何百年あとには、そんなことになるのだろうな。みながそこに祈れば、犯罪や火事や不幸が、この世からなくなってしまうといった……。

 早くそんな時代になってほしい。しかし、それまでは、いまの信心を守るしかない。手をこまねいていたのでは、事態は少しもよくならない。現状のなかで、せい一杯の努力をする。それが、まともな生き方というのではなかろうか……。

 地蔵さまにつく。そばに小さな店があり、ナワと札とを売っていた。それを買い、吉兵衛は札に自分の名前を書く。その石の地蔵は、ナワで何重にもしばられていた。いろんな人が願をかけにくるようだ。吉兵衛もナワをかけ、ねがいをとなえた。本心からだ。長屋の秩序が乱れ

ては困る。

 どこかの商店主らしい男がいて、地蔵のナワをほどいている。吉兵衛は声をかけた。

「うまく盗難品が戻ったのですか」

「ええ。なかばあきらめていたのですが、岡っ引が犯人をつかまえ、取り戻してくれました。ほんとに、この地蔵さまの力はすばらしい」

「大黒さまのおふだは使いましたか」

「いや、わたしの店は京橋でして、近くに釣船神社があります。そこへ|絵《え》|馬《ま》を寄進しました。賊を釣りあげる。盗難にはききめがありますよ」

「そうでしたか。わたしもさっそくと言いたいところですが、不意に来られては、神さまも迷惑でしょう。あまり勝手すぎますものね。そのうち、心がけて参拝するようにいたしましょう」

 かなり歩いたので、吉兵衛は腹がすいてきた。茶店に入り、団子を注文する。お茶がつがれた。茶柱が立っている。

「これはえんぎがいい。釣船神社に対して遠慮を示したことがよかったのかもしれないな。おまえは感心だ、助けてやるぞとのお告げにちがいない。なにかいいことが……」

 なんとなく立ち去りがたい感じがし、団子を食べたあと、もう一回お地蔵さまをおがみに行く。そして、そこで見た。

 さっきしばったナワを、ほどこうとしている女がいる。吉兵衛はかけつけ、つかまえた。

「まて、そんなことはさせない……」

「あら、大家さん……」

 吉兵衛の長屋に住む老婆だった。亭主に死なれ、ひとりむすこは左官の職人。しかし、不器用であまり収入がよくない。ちかごろは目が悪いとかで、よく壁のぬりそこないをやってしまい、親方におこられてるという。

「なんだ、おまえか。なぜこんな……」

「申しわけありません。悪いとは知りつつ、お金に困り、あの家なら、どうせ飲んでしまう金と思って、つい……」

 夜中にそっと盗みだした。しかし、地蔵の話を耳にし、気にしてやってきたというわけだった。老婆は泣きはじめた。周囲の人たちが興味を持ちはじめる。

「まあ、こんなとこでは落ち着いて話もできない。あっちのほうで……」

 吉兵衛は木のかげに連れていって話す。

「……おまえがやったとはね」

「その財布はここに持っています。おかえしします。なかは一文も手をつけてありません。どうかお許しを。お奉行所へは連れてかないで下さい。わたしがいなくなると、むすこが……」

「それにしても、とんでもないことをしてくれたね。長屋のなかでそんなことをされると……」

「長屋から追い出されると、行くところが……」

「本来なら追い出すところだが、わたしにだって人情はある。ことを荒立てたくない。この財布は、わたしからかえすことにする。しかし、そんなにお金に困っているとは知らなかった。今月の家賃はまけてあげよう。しかし、だれにも言うなよ。それをまねするやつが出ないとも

限らぬ」

「もちろん、決してしゃべりません。ありがとうございます。なんとお礼を……」

「しかし、むすこさんの眼病には弱ったね。井戸のそばにザルをつるすという、まじないをやってみなさい。それから、毎朝、神棚に水をあげ、その前で宙に指で字を書く。目という字をたくさんだ。そのあと、その水で目を洗う。ききめがあるよ。目という字はこう書くんだ……

 吉兵衛は教えた。

「……そして、なにより信心だよ。もっと神を恐れなければならない。またこんなことをしたら、それこそ、むすこさんの目がつぶれるよ」

 いろいろと老婆に教えさとし、地蔵にあやまらせた。吉兵衛は地蔵のナワをほどき、さいせんを供えた。いずれにせよ、ききめはあったのだ。老婆はさきに帰す。

 帰り道、吉兵衛は弘法大師と清正公とに参詣した。いつなんでお世話になるかわからない。おがんでおくに越したことはない。江戸には神社が約四百、寺は千以上もある。稲荷や地蔵は数しれない。人びとにとって、それほど親しい必要物なのだった。

 犬がほえかかってきた。吉兵衛は手のひらに虎の字を書き、犬にむける。ききめはあり、犬は退散していった。

 吉兵衛は長屋に戻り、大工職人の女房に財布を渡す。

「霊験たちどころだ。ほら、この通り」

「ほんと。まあ、すごいこと。いったい、どこにあったんですの」

「それはだな、しばられ地蔵からの帰り道、犬にであった。なんと、その犬がこの財布をくわえていたではないか」

 吉兵衛は老婆をかばい、適当な作り話を口にした。

「だけど、犬はこの家に入ってこれなかったはずですわ」

「近所のネコがしのびこんで、くわえて持ち出したのかもしれない。あるいは、ネズミが引っぱり、それをネコが、さらに、それを犬がとりあげたのかもしれない」

「きっと、ネズミのせいですわ」

「ネズミは悪い動物ではないが、こういういたずらは困る。家の下の土を水でこねて、ネズミの穴をふさぎなさい。すると、三カ月は出てこないはずだ」

「そういたしましょう。ちゃんと財布が戻った。お礼の申しようもありません」

 この話は、たちまち長屋じゅうにひろまる。地蔵さまの力、大黒のおふだのききめ、それが現実に示されたのだ。すばらしい。そういう方面にくわしい大家さんもえらい人だ。

 吉兵衛はみなに言う。

「これで、みなさんも信心の力がわかったでしょう。目に見えぬ力は存在するのです。日々のおこないに気をつけるのが第一です」

「あの、大黒さまのおふだはどうしましょう。ご用ずみになりましたが」

「二またの大根を供えなさい。野菜売りの売れ残りにあるはずだ。そのあと、火で焼くのがきまりだ」

「おっしゃる通りにいたします」

 四時をすぎた時刻。そろそろ職人たちが仕事をおえて帰ってくるころだ。夕食の仕度などで、長屋もいそがしくなる。

 吉兵衛も自宅に帰る。

「やれやれ。一件解決のため、きょうはしばられ地蔵まで行ってきたよ」

「お疲れになったでしょう……」

 妻が迎えて言う。

「……さきほどから、お客さまがお待ちです」

 座敷で浪人者が待っていた。吉兵衛が聞く。

「どんなご用で……」

「こちらの長屋に、あいた家があるそうだが、入れてはもらえないか」

 浪人ぐらしが長いらしく、かたくるしさが少なかった。たしかに一軒あいている。職人として腕をみがき、修業し、独立して|棟梁《とうりょう》となって出ていったのがいる。人を使う身分になると、長屋ずまいはできないのだ。あとにだれかを入れないと、家賃がとれない。

このあいだから気になっていたことだ。

 しかし、浪人者とは。かたきとねらわれているやつだと、ことだ。また、武士をやめさせられたのだから、なにか欠陥があったとも考えられる。どうしたものだろう。

「なぜ、お引っ越しに……」

「易者に見てもらったら、こちらの方角に越すといいことがあると言われ……」

「それはいいお心がけで。出世して出ていった、えんぎのいい家があいてはおりますが……」

 吉兵衛は相手をながめ、あれこれ考える。信心ずきの性格のようだ。あつかいやすいかもしれない。浪人者がひとりいると、なにかと力強いし、長屋の子供たちに字を教えてくれるかもしれない。しかし、それはうわべだけで、へたをすると、逆にぶっそうな存在にもなりかねな

い。それを察してか、浪人は言った。

「生計はどうしてるのか、ご心配なのでしょう。うちわ作りをやっています。うまいものですよ。それに絵と字を描く。町人風でないというので、武家屋敷に好評だと、注文が多いのです。なぜ浪人になったのかも、ご不審のようですな。わたしは六男、家はつげず、養子の口にも

ありつけなかった。占ってみると、武士をやめたほうがいいと出て……」

「なるほど……」

 まともに信用していいものかどうか。調子がよすぎて気がかりな点もある。けさ、妙な夢を見た。これと関連があるのだろうか。どうにも判断のしようがない。

「二日ほど考えさせて下さい。お名前と生年月日とをうかがっておきます。そこの紙にお書きになって下さい……」

 それを持って、信用できる易者に意見を聞くことにしよう。それ以外に方法はないではないか。いままでの大家に問い合わせても、持てあまし者だったら、これさいわいと適当なほめ言葉がかえってくるだけだ。浪人はしゃべっている。

「最初は|傘《かさ》はりをやっていたのですが、ためしに作ったうちわの出来がよく……」

 そんなことはどうでもいいのだ。吉兵衛はキセルで火鉢を三度たたく。これは合図なのだ。長っ|尻《ちり》の客を帰すために、妻がホウキをさかさに立て、下駄の裏に|灸《きゅう》をすえてくれる。

「では、二日後にまた……」

 ききめはあらわれ、浪人は帰っていった。

 妻子とともに夕食をとる。そとでカラスの鳴き声がした。

「夕ぐれにカラスが鳴いた。あしたは晴れだぞ。そうそう、節分の時にまいた豆はどこにしまってあったかな。あれを口に入れると、雷にうたれない。外出の時には少し持ち歩くことにしよう。なにごとも用心。おまえもそうしろ。十歳は気をつけなければならない年なのだから」

 と、またもむすこに注意する。

 食事がすめば、もうすることがない。|爪《つめ》切り、障子のはりかえ、夜はしてはいけないことが多いのだ。眠るのが一番。江戸の住民たち、朝も早いが、夜も早いのだ。灯火の費用もばかにならない。吉兵衛は家賃の計算でもしようかと思ったが、あしたの昼にのばすこと

にした。

 吉兵衛は寝床の枕をおがみ、となえる。

「|小《さ》|夜《よ》ふけてもし訪れるものあらば引き驚かせわが枕神」

 これをしておけば、火難や盗難の時に、すぐ目がさめるのだ。それに頭をのせ、横たわり、眠くなるのを待つ。

 きょう旅立った若者、どこまで行ったかな。お伊勢さまのおみくじを引いてきてもらうよう、たのんである。豊作かどうかを早く知らねばならぬ。凶作とあったら、長屋の者たちに、米を早目に買いこんでおくよう、教えなければならぬ。大家はそんな面倒まで見なければならな

いのだ。

 人生とは気疲れの多いものだ。なんだかんだで、わたしも四十歳。来年は前厄だ。厄はらいをしなければならない。最も霊験のあるのはどこだろう。

 しだいに眠くなる。やれやれ、きょうもぶじに終った。あしたもぶじであるといい。そのために、あらゆる努力をしているのだ。目に見えぬ力が、わたしを見まもっていて下さる。

 今夜の夢がいいとありがたいのだが。

  島からの三人

 すみきった空、遠くまでひろがる海。いずれも青く美しい。潮のかおりや波の音さえも、すがすがしい青さをおびているようだ。ここは江戸の南、伊豆七島と呼ばれる島のひとつ。温暖な気候で、ながめはよかった。

 しかし、島に住む者たちのすべてが、楽しく毎日をすごしているというわけではなかった。もとからの島の住人たちは、まだよかった。田畑を持ち、家を持ち、船で漁業に出かけることもでき、生活に困ることはなかった。精神的にもゆとりがあった。

 それにくらべ、あわれなのは|流《る》|人《にん》たちだった。江戸で犯罪をはたらいたやつら。死罪で首をはねられても仕方のないところ。しかし、特別の慈悲をもって、罪一等を減じられた。おさばきのあと、町奉行が言う。

「遠島を申しつける」

 その一瞬は、心の底からほっとする。判決があってから船の出航までの期間は、|牢《ろう》内にとどめられる。準備がととのうと、手をしばられたまま、船底に押しこめられる。人数も多い。そして、ゆれつづける何日かの航海。分散させられて、島々に上陸させられる。ここ

で、やっとナワがほどかれるのだ。

 といって、自由の身になったとはいえない。逃げようにも、周囲は海。生きるため、すなわち食を得るための、つらい努力の日々がはじまるのだ。いっそ死罪になっていたほうがよかったのではとさえ思う……。

 流人たちは上陸の時、ひたいに字を書かれる。島の各村からやってきた名主たちは、その字を見て、何人かずつ自分のところへ引きとってゆく。物品のようなあつかいだった。もっとも、流人の多くは字が読めない。だから、おまえはどこの村への配属だといった|札《ふだ》を

渡すなど、無意味といえた。

 彼らはまず、前からいる流人たちの小屋にとめてもらう。それぞれ、島送りの時、奉行所からいくらかの米や銭をもらってはいる。しかし、そんなものはたちまち使いはたしてしまう。もっとも、親類や知人からもらった、まとまった量の米や金を持ってくることはみとめられて

いる。だが、みな犯罪者たち。そんな余裕のある流人は、現実問題として、めったにいなかった。

 島において、労働を強制させられることはなかった。しかし、なにもしないでいることは死につながる。食物が手に入らない。働かざるをえないのだった。

 大工とか左官とかの腕に職のある者は、それをいかして仕事をする。読み書きのできる者は、名主の事務の手伝いをする。そして、わずかな食料をもらう。島に米はとぼしい。麦のぞうすいが主食。サツマイモの収穫期になると、それで飢えをしのぐ。空腹感はつねにつきまとっ

ている。

 手に職のない者は、もっとあわれだった。畑仕事や漁業の手伝いをする。島には小作農もいるが、流人はその下という地位だった。自分で作物を育てても、それを存分に口にすることができない。

 また、漁業の手伝いといっても、海藻や貝の採取、魚を船から運ぶ、そんなたぐいの仕事だった。決して船に乗せてもらえない。かつて船上であばれ、船を奪って島から逃げようとした者があった。それ以来、警戒がきびしくなっている。

 なにかの仕事をする体力のない連中は、さらに悲惨だった。村人や流人たちのあいだを、ものごいしてまわる。泣きつきながら食をねだり、それで一日一日を生きのびるのだ。凶作になると、流人へのほどこしは、まっさきにへらされる。不安の連続だった。

 一方、あたりの風景は明るく、気候はいい。それが皮肉な対照を示していた。

「遠島を申しつける」

 奉行は、それだけしか言い渡さない。何年間という期限もつかない。神妙にしていれば早く帰れるともつけ加えない。原則はあくまで終身刑なのだ。

 完全な終身刑なら、それなりのあきらめや覚悟もつく。しかし、実際はそうでない。将軍家の慶事などがあると、何人かに赦免状がくる。また、ある年月をすごすと、奉行の裁量によるのだろう、許されて島から出てゆく者もある。すなわち、すべてお|上《かみ》のおぼしめし

、気まぐれ。許される日のめどがつかないのだ。

 一般の流人で四年、武士の流人で二十年、ほぼそんな見当なのだが、必ずしも確実ではない。流人たちはだれも、島へついてからの年月をかぞえつづけている。そんなことは意味がないのだ。しかし、そうは知りつつも、やはり、かぞえなければいられない。

 忘れようとしても、江戸の町のにぎやかさが、頭のなかにあざやかに浮びあがってくる。思わず、つぶやきももれる。

「おれよりもっと悪いことをしたやつが、つかまることなく、江戸にはたくさんいるはずなのに……」

 まったく、精神的に残酷な刑罰だった。それにたえかね、三年に一回ぐらいの割で、どこかの島で脱走さわぎがおこる。夜にまぎれ、船を奪って沖へこぎ出すのだ。しかし、ほとんど成功しない。島からの船に追われ、銃で殺される。黒潮を乗り切れなくて難破。幸運にも本土へ

たどりつけたとしても、そこでつかまって死罪。みずから死を選ぶ行為ともいえた。

 そんな流人たちのなかで、良白だけはいくらかちがっていた。比較的、優雅な生活だった。彼は医師。島にとって貴重な存在で、治療の謝礼により、食物に困ることがなかった。また、いちおうの尊敬も受けていた。

 良白はかつて、江戸でそれなりの腕をみとめられていた医師だった。気を静める作用のある薬草を知っており、それを秘法として、多くの患者をなおした。

 その薬草をせんじて飲ませ、病人の心がやわらいだ時、やさしく話しかける。

「これで、あなたは楽になる。眠くなる。痛みを忘れる。苦しみは去ってゆく……」

 それでなおるのが、けっこういた。

「あなたは、わたしの言う通りになる」

「はい……」

「あなたはこれから、元気になる……」

 当時の医師たちは、それぞれ技術を秘伝としていた。だから、この療法は彼だけのものだった。

 ある日、ある商店から呼ばれた。そこの嫁が、たびたび胃痛をおこす。それをなおしてくれとたのまれた。例の手当をやる。

「あなたは眠くなる。気が楽になる。わたしの言うことに従うようになる……」

「はい……」

 医師への信頼感で、嫁はすなおな返事をした。

「あなたの胸のなかでつかえているものが、口から出てゆく。そのあと、さっぱりする。さあ、口から出してしまいなさい……」

 そのとたん、嫁はしゃべりはじめた。

「もう、がまんできないんですの……」

 亭主の女遊び、しゅうとめへの不満のあれこれ。それらについて、とめどなくはきだした。なにもかも話し終ると、ぐっすり眠り、やがて目がさめる。自分がなにを口にしたのかはおぼえていず、すっきりした気分だけが残る。

 もはや胃痛は再発しない。良白は面目をほどこした、と言いたいところだが、不運というか、悪い結果になった。治療中の会話を、となりの部屋の家人に聞かれてしまったのだ。病人をキツネツキのような状態にさせた。一家の恥をなにもかもしゃべらせた。あやしげな医者だ。

世をまどわす……。

 そんな評判がいつしかひろがる。お上の耳にも入る。幕府は、世をまどわす行為とか新奇なものに対して、最も警戒する。捨ててはおけない。奉行所へ呼び出され、良白は言われた。

「遠島を申しつける」

 危険人物であるというのが、その理由だった。島へ流してしまうことが、最良の解決。異議の申し立てなど許されない。

 かくして、島へ送られてきた。ほかの流人たちと同様、最初の数カ月は、内心の苦悩との戦いのうちに過ぎていった。江戸での生活が忘れられない。夢に見る。しかし、目ざめての現実は、いつ帰れるのかわからない流人なのだ。

 気をまぎらすために、食うために、医師の仕事をはじめた。島へ送られる時、彼はそれまでにかせいだいくらかの金と、薬草とを持ってきた。小屋をたて、そこで患者をみた。江戸での失敗にこり、治療中はだれも近づけないようにした。なおる患者が多く、生活はなんとかなっ

た。

 薬草をとかすために必要だと、酒を持ってこさせることもできた。しかし、酒の酔いも、いらだつ心をやわらげる役には立たなかった。

 島へ送られてから八カ月ぐらいたったある日、良白のところへとどけ物があった。流人にむけて、江戸の者が食料や衣類などを送ることはみとめられている。なかみは、かなりの量のアズキだった。食べてもいいし、島の住人との交換品に使ってもいい。とにかくありがたかった

 しかし、その送り主の名に心当りがない。かつてなおした患者からかとも思ったが、その名は浮んでこなかった。ふしぎがりながら良白がアズキを容器へ移していると、なかから手紙が出てきた。

〈これは内密だが、おまえは遠からずご赦免になる。仕事にはげむように。島抜けをたくらんだり、水くみ女と深い仲になったりせぬように。だれにも話すな。返信は無用〉

 そんな内容のものだった。どこまで信じていいのだろうか。そんなに早く許された前例など、聞いたことがない。しかし、文面にはそうある。こんな手のこんだいたずらをする者がいるとは思えない。だれからか不明だが、それだけになにか説得力もあった。彼はその指示をすな

おに受け取ることにした。希望というものは、ないよりあったほうがいい。たとえ幻でも。

 なお、水くみ女とは、島の住人の娘のこと。水がとぼしく、山からわき水をくんでくる仕事をやる。そのなかには、流人と仲よくなり、世帯を持つ者もあり、それは黙認されていた。流人の気持ちはいくらか、それでやわらげられるが、一方、許されて島から出る時、別離の悲痛

を味わわなくてはならない。

 良白はそれを避けるよう注意した。そのくせ、脱島の話には耳も貸さない。

「あいつは、この島に腰をすえるつもりなのだろうか。それなら、なぜ女と暮さない。まったく、医師には変り者が多い」

 そんな評判をよそに、良白は仕事にはげんだ。島の住人ばかりでなく、流人の患者もみてやる。謝礼の払えそうにない者まで、親切にあつかってやった。

「あなたは楽になる。わたしを信用する」

「はい……」

「やまいは心の疲れからくる。言いたいことを口に出してしまいなさい。がまんするのはよくありません」

 この療法しかできないのだった。

「おれなんかより悪いやつが、江戸にたくさんいる。そいつらは島に流されることなく、のうのう暮している。面白くない……」

「そうでしょう、そうでしょう。その気持ちはよくわかります。もっとお話しに……」

「このまま島でくちはてるのは、くやしい。おれは江戸で大金を盗んだ。あるところにかくしてある。取調べの時、おれは決してしゃべらなかった。十両ぬすめば首がとぶきまりだからな」

「それが、なぜ遠島に……」

「その金をひとりじめしようと、仲間がおれを密告しやがった。しかし、おれもそんな場合を考えて、そいつと打ち合せたのとちがう場所へかくしたというわけさ。江戸へ帰れたら、なんとかしかえしをし、豪遊もしたいが、こうからだが弱っては、その望みもむりなようだ」

「きっと戻れますよ、わたしより早く。ところで、そのかくし場所はどこです……」

 病人は、夢うつつの状態でそれをしゃべった。めざめれば、その記憶はない。そして、まもなく死んでしまった。いままでは執念で生きてきた。しかし、内心のもやもやを口にしてしまうと、気力も消えた。治療が逆効果を示したといえるかもしれない。良白はその話を自分の胸

にしまいこんだ。

 やがて、船が島をおとずれた。江戸と島とをめぐる船は、約四カ月おきにやってくる。新しい流人たちを連れてくるし、また、島の特産品の江戸への出荷もやるのである。そして、許された流人を乗せて帰りもする。

 良白は村の名主のところへ呼び出された。

「おまえに対し、ご赦免のしらせが来た。こんなに早いのは異例のことだが、文書にそうある。読みなおしてもまちがいはない」

「はあ……」

 やはり、あの手紙の通りだった。良白はひとりうなずく。

「いやに平然としているな。夢ではないかと飛びあがって喜ぶかと思っていたのに。おまえは変り者だな」

 当然のことながら、ほかの流人たちは、うらやましがり、くやしがった。

「なんだ、あいつ。このあいだ島に来たばかりだというのに、もう帰れる。どういうことだ。不公平だ」

 やむをえず、名主は理屈をこじつけた。

「不平を言うな。お上のなさることに、まちがいはない。いいか、医師の良白は、島に来てから、まじめな生活をした。みなの病気をなおすために、損得ぬきでつくしてきた。わたしはそのことを、島奉行への報告書にしるした。そのためだ。だから、おまえたち、早く江戸へ戻り

たいのなら、島抜けなど考えず、おとなしく働くのだ」

 良白はみなに別れを告げ、船に乗る。

 江戸へのその船のなかには、ご赦免になった男が、ほかに二人のっていた。よその島から戻されるところだった。話がかわされる。三十歳ぐらいの男に、良白は話しかけてみた。

「おたがいに、帰れてけっこうですな。わたしは医者でしたが、つまらんことで島へ流されましてね。で、あなたのご職業は……」

「わたしの名は菊次郎、役者でした。うまれつき、その方面にむいていたのでしょう。いろんな役を器用にこなしましたよ」

「それがなんで遠島に……」

「面白半分に、役人に変装してみた。つまり、武士になりすましてみたのです。いい気分でしたよ。大きな商店を順におとずれ、いかにも役人らしく尊大なあいさつをしてまわった。すると、下へもおかぬもてなし。そのうえ、金までくれた」

「役所に対し、なにかうしろ暗いところのある連中ですな」

「でしょうね。世の中には発覚しないでいる悪人が多い」

「やつらはあなたにおどされ、穏便にとそでの下をさし出した」

「とんでもない。おどしたりしませんよ。意味ありげにだまっていると、むこうが気をまわし、勝手に金を出したというわけです。こっちは、それをいただいただけ。役人だと名乗り、おどしたりしてたら、ふとどききわまると打首だったでしょう」

「軽くすんだわけは……」

「芝居の服装のまま買物に寄ったのだと申しひらきをしたからです。また、商店のほうも、大目に見てほしいからそでの下を出したとは言えない。金額がうやむや。世間をさわがせたとの理由で、遠島となったのです。それにしても、こんなに早く帰れるとは。少なくとも三年の島

暮しは覚悟してたのに。すると、あの手紙は、やはり本物だったのだな……」

 低い声のつぶやきとなるのを耳にし、良白は言った。

「なんのことですか。ここまでくれば、もう大丈夫。話して下さいよ。わたしにも思い当ることがあるのです」

「じつは、島にいる時、江戸からとどけ物があった。心当りのない人からです。手紙が入っていた。遠からずご赦免になるから、じたばたするなといった文面の。それをたよりに、なんとか生きてきたというわけです」

「食べ物はどうして手に入れました」

「芝居のまねごと、いや、身ぶりつきの物語といったものを考え出しました。ひとり何役でいそがしかった。物まねもやりましたよ。島ではだれもかれも、娯楽に飢えている。そんなわけで、なんとか食物にありつけましたよ。しかし、それにしても、あの手紙だけはふしぎでなら

ない」

「それだったら、わたしも同様です。それと同じ手紙をもらいましたよ。他言するなと書いてありましたが、もうしゃべってもいいでしょう」

 良白もそのことを告げた。すると、そばでだまっていた武士が口を出した。

「あなたがたもそうでしたか。じつは、わたしもそうなのです。そんな手紙の入ったとどけ物があった。しかし、武士の遠島は、そう簡単にご赦免にはならない。半信半疑ながらも、それに望みをつないで生きてきた。文字が書けるので、名主のところで文書を作る手伝いをし、ま

た、寺子屋のようなものを開いて、子供たちを教えた。信用され、弓を作ることを許されたので、それで鳥をとり、食べたり売ったりしてすごしてきた。しかし、こう早く帰れるとはな……」

「おさむらいさんは、どんな罪で遠島になったのですか」

「わたしの名は、尾形忠三郎。ある|譜《ふ》|代《だい》大名の江戸屋敷につかえる者だった。若殿のお守役。武芸の指南などをしていた。街を見物なさる時などには、そのお供をした。つまり護衛係。ところがある日、ばくちをしてみたいと若殿が言い出した……」

「それはそれは」

「そこで、出入りの町人にたのんで、ある夜、案内してもらって出かけたのだ。そう面白い遊びではないな、あれは。まだ碁のほうがよろしい。若殿もそんなお気持ちのようだった。不自由なく育った若殿には、金を|賭《か》けて熱中する気分がおわかりにならぬ。今夜の一回だ

けでやめようと言われた。ところが、その時、不運なことに……」

「なにが起ったのです」

「町役人の手入れがあった。岡っ引たちがふみこんできた。表ざたになったら、お家の一大事。わたしは若殿に、早くお逃げ下さいと言い、灯を吹き消し、大乱闘をやった。しかし、相手は大ぜい。奉行所の与力も配下を連れて乗り込んできた。わたしは若殿の逃げたのを見きわめ

、おとなしくつかまえられたというわけだ」

「お武家さんだったら、そんな時には切腹するんじゃ……」

「切腹とは、主君のためにするものなのだ。そこでそれをやったら、かえって主家に迷惑がおよぶ。あくまで、わたしひとりの行動だと主張しなければならない場面だ。もちろん、若殿のことはしゃべらなかった。お家のほうもあわてたらしい。日付をさかのぼらせて、わたしにひ

まを出したという形にした。つまり、ただの浪人のしわざ。岡っ引を投げ飛ばしはしたが、傷つけたわけじゃない。それと、ばくちの罪。で、遠島を申しわたされた」

「お家のために、罪をしょいこんだのですな。お武家さまとはつらいものですね」

「仕方ない。そういうものなのだ。まずはお家安泰だったが、この件の報告が上のほうに伝わったらしい。家臣への監督不行き届き。おかげで、殿は奏者番に任命されることに内定していたのだが、それがとりやめになってしまった」

「なんです、奏者番とは……」

「江戸城内で、儀式の時に各大名の世話をする重要な職だ。これをうまくつとめると、寺社奉行、さらに上の職へと昇進する。早くいえば、殿は幕府のいい役職につく道をとざされたというわけだ。お気の毒でならぬ」

「若殿のわがままのために……」

「いや、わたしがおとめしなかったのがいけなかったのだ」

「主家から島へのとどけものは……」

「なにもなかった。内心で同情はしても、公儀をはばかったのだろう。そのかわり、まったく名も知らぬ人から、ふしぎな手紙が来たというわけだ。あなたがたのように」

「いずれにせよ、われわれ、運よくご赦免になったのです。なにかの縁でしょう。江戸に帰ってからも、三人おたがいに助けあうことにいたしましょう」

「もちろん異議はない」

「手紙のなぞも、そのうちわかるでしょう」

 船はぶじに江戸へつく。海から街をながめた時、三人はうれしさのあまり、涙ぐんだほどだった。なつかしい江戸に、いま、やっと帰れたのだ。

「おい、こっちへ来い。お奉行さまが、おまえらにお会いになるとのおおせだ」

 町奉行所の一室に連れてゆかれた。取調べではないので、そばに書記役のたぐいはだれもいない。奉行はにこやかに言った。

「どのような気分か」

「申しあげるまでもありません。このように早く帰れたとは。まだ信じられません」

 だれも同じ答えだった。

「あの手紙を見て、どう思ったか」

「半信半疑でございましたが、こうなってみて、本当だったとわかりました。しかし、お奉行さまが、なぜそれをご存知なので……」

「じつは、わたしが送ったのだ」

「ああ、なんという、ありがたいおなさけ。それは本当でございましょうね」

「そうだ。流人のご赦免の決定は、わたし以外にできない。その気になれば、いまここで、その取消しをすることだってできるのだぞ」

「なにとぞ、それだけはお許しを。もう、二度と島へ行きたくはありません。島の住人の同情にすがり、食いつないで生きる毎日。いいことはなにもない。思い出したくもない。どんな言いつけにも従いますから……」

「そうであろう。これからは、まじめに人生をすごすことだな」

「それは、よくわかっております。しかし、それだけではございませんでしょう。わたしたちだけに、これだけ特別のおはからいをなさったからには……」

「その通りだ」

 うなずく町奉行に、三人は聞く。

「では、なにをしろと……」

「その前に聞くが、島の流人たちは、どんな気分で毎日をすごしておるのか」

「ご赦免の日を待ちつづけでございます。それと、自分たちよりもっと悪いことをしているやつがいるのに、そいつらは発覚せず、江戸でいい気になって暮している。そのことへのくやしさでございます」

「そうであろうな。世に悪人のたねはつきない。巧妙なやつもいる。奉行所もなんとかしようとつとめているが、網にかからぬのがいるのは、どうしようもない。そのことについては、わたしも悩んでいる」

「悪人はかならずつかまる。そんな世の中が一日も早く来るといい。島での生活で、それを痛感させられました」

「そこなのだ。そういう心境だと、話がしやすい。おまえらはそう悪事をはたらいたわけでない。また、どこかみどころがある。取調べの時から、わたしは目をつけていた。島でむだな人生をすごさせるのは惜しい。そこで、あのような手紙を出したのだ」

「お礼の申しようもございません。で、いったい、どのようなことをしろと……」

「つまり、巧みに法の網をのがれている連中を、あばいてほしいのだ。ひそかに役所の手先をつとめるということは、いやかもしれない。それならそれでいい。おまえたちを島へ戻し、かわりの者を作ることにする」

「やります、やります。ぜひ、やらせて下さい。江戸にいられるのでしたら、どんな苦労もいといません」

 それは実感だった。島には生きがいがなく、変化がなく、まさに半分死んだも同様の日々。みな進んで引き受けた。

「では、よろしくたのむ。定期的に報告に来てくれ。しかし、この役所では人目もあることだし、さしさわりがある。わたしも小さいながら下屋敷を持っている。そっちのほうに来てくれ」

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