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作者:日-星新一 当前章节:15379 字 更新时间:2026-6-16 01:47

 それを考えると、わたしのような外様大名のほうが、まだしもいいかな。つねに幕府の役人に気を使い、江戸にいる時は人質としての気分を味わわされ、時にはつまらなくもなるが。

 聞くところによると、京都の朝廷もあまりいいお暮しではないらしい。将軍家は豪勢なものだが、ご本人はべつに好き勝手なことができるわけではない。商人はせっせとかせぐが、大名たちに返ってくるあてのない金を貸しつづけなければならない。

 みなが好き勝手なことをやったら、どうなるのだろう。考えただけで恐しくなる。だれもが耐えているのだし、それによってこの泰平の世が保たれているわけだろう。耐えるという|枠《わく》がはずれたら、どんな形でかはわからないが、戦国時代がふたたび訪れるにちがいな

い。

 廊下を女が、火の用心と小声で告げながら歩いてゆく。殿さまは眠くなってくる。からだがあたたまり、こころよい気分で、目をあけたりとじたりしている。これで一日が過ぎたのだ。べつになにも失敗はなかったようだ。これが今までずっとつづいてきたのだし、これからもず

っとつづいてゆく。自由なことのできる日など、一日もないのだ。いや、自由とはどんなことなのか、それすら殿さまは知らない。平均寿命五十歳として、あと何日これがくりかえされることだろう。いや、死んだあとにおいても、あとつぎが同じことをくりかえしてゆくのだ。

 殿さまはつぎの間にすわっている二人の女の不寝番をながめ、それから、座敷のすみのちがい棚の上に飾ってある古びた|壺《つぼ》に目をやる。領民が新しく農地を開墾しようとして地面を掘っていたら、これが出てきた。なわのあとが模様のようについている土器。おもしろ

いので藩主に献上すると持ってきたものだ。たしかに、めずらしいもののようだ。素朴な形がいい。ずっとむかし、このへんに住んでいた人が使ったものらしいという。

 殿さまはそれをここに飾ることにした。眠る前に、なんということなくながめるのだ。あれを使っていた、ずっと大昔の人たちは、なにを考え、どんな一日をすごしていたのだろう。あわれな生活だったのだろうな。そう想像しかけ、いまの自分の考えをあてはめようとしている

のに気づく。あわれだなんて言ってはいけない。昔の人たちは、それなりにせい一杯に生きていたはずだ。それに対していまの考えをあてはめられ、あれこれ批判されては迷惑にちがいない。

 ねむけが殿さまをやわらかく包む。人というものは、眠る時と目ざめる時と、どっちが楽しいものだろう。ふとそんなことを思いかけるが、押しよせたねむけのなかに、それは消えてゆく。

  ねずみ小僧次郎吉

 曇った夜。その|闇《やみ》にまぎれて次郎吉は|塀《へい》を乗り越え、大名家の屋敷へと忍びこむ。なれた動作。動作ばかりでなく、精神的にもなれきっている。何回もくりかえしていると、面白くもおかしくもなくなってくるものだ。

 こんなことをはじめてから、もう八年にはなるだろうか。もちろん最初のうちは、刺激と興奮のきらめきを感じたし、緊張でからだがふるえるほどだった。そのため時には失敗もあった。だが、体力の若さがそれをおぎなってくれた。つまり、逃げのすばやさ。二十代の終りにな

ると、やや体力がおとろえたが、それは気力でおぎなうことができた。

 そして、いまは三十歳ちょっと。なれがあるだけだ。体力も気力もない。自信という肩ひじを張ったものでもない。惰性とでもいうのか、からだが自然に動き、最も安全な道を選んでいる。どんな仕事でもこんな経過をたどるのではなかろうかと、次郎吉はふと考える。

 塀の内側におり、植込みのかげに身をかくす。暗さのなかで目をこらし、建物に近づく。小窓の雨戸を音をたてることもなくはずし、なかへと入る。

 上品な香のかおり、髪油など化粧品のにおい、女のにおい。それらが彼の鼻をくすぐるが、べつになんとも感じない。この建物は屋敷のなかの|中奥《ちゅうおく》という部分。男子禁制の場所。ここに入れる男性は殿さまと、その子息である幼児以外にない。奥方、側室、それ

らの侍女たち、奉公人など、すべて女性ばかりの世界だ。

 静まりかえっている。どこかの座敷の燭の光が障子ごしに廊下にもれ、くすんだ金色のふすまに反映し、わずかだが明るさとなっている。次郎吉は廊下のはじをそっと歩く。中央を歩くとみしりという音がたつからだ。ふすまの引き手、柱の天井の金具、それらは金ぴかであり、

一種の道しるべとなっている。

 大名家の中奥の構造には、どことなく共通点があり、どこになにがあるかを、次郎吉はこれまでの体験で知っている。不用意に近づいてはならない場所についても。

 それは殿さまの寝所のことだ。殿さまが正室あるいは側室と寝ているのをのぞき見ることは、たしかに好奇心を刺激する。しかし、そこに近よるのは最も危険なのだ。寝所のつぎの間には侍女が少なくとも二人、不寝番として控えている。少しでも不審な物音をたてたら、たちま

ちさわぎだす。不寝番としてのつとめだから当然だ。それに、その殿さまの護衛役である侍女の強いこと。普通の男など、たちうちできない。

 大名家にとって貴重なものは一つしかない。お家の血すじ、すなわち殿さまとあとつぎの生命だ。これに事故があったら、えらいことになる。殿さまが死亡し、あとつぎがなければお家は断絶となる。あとつぎがあったとしても、|曲《くせ》|者《もの》に殺されたり毒殺され

たり、殿さまが不審の死をとげれば、やはり同様。取締り不行届きだの、武士にあるまじきことだの、お家騒動は好ましからずだの、幕府の役人は待ってましたとばかり因縁をつけてくる。そして、おとりつぶしにされたら、江戸屋敷どころか藩の家臣たち何百人が|禄《ろく》を

失って浪人となる。したがって殿さまの命だけは、なににかえても護衛しなければならぬ。

 すべての警備体制は、殿さまのためにある。殿さまという中心にむかって、注意は内側に集中しているのだ。だから、その外側はすきだらけとなる。

 このことを実感で知ってしまうと、ばかばかしいほど簡単だ。次郎吉は廊下を進む。時たま、手洗いに行く女、見まわりの女などがあらわれる。しかし、それらはみな手燭を持っている。あかりが動けば、それは人がやってくる前ぶれ。彼にとっては安全のための警報のようなも

のだ。身をかくすか、光の限界まで戻るかすればいい。

 老女のお座敷へ侵入する。中奥の事務長の執務室とでもいうべきところで、夜はだれもいない。だが、あまりに暗い。厚手の布の風呂敷のなかで火うち石を使い、火なわに火をつける。布で音が防げると知っていても、この一瞬だけは神経がたかぶる。

 しかし、そのあとはきまりきった作業、錠のついた箱をさがし、細い|釘《くぎ》でそれをあけ、なかの金を手にすればいい。きょうの収穫は二十両。商店にくらべて、なんという容易さ。次郎吉はかつて商店に忍びこんで、ひどい目にあった。まず戸締りが厳重すぎる。箱の錠

も複雑だし、あけたとたん大きな音をたてるしかけのもある。内部の者の使いこみへの警戒のためかもしれない。物音と同時に、店じゅう、はちの巣をつついたようなさわぎとなりかねない。

 商店から金を奪うには、数人で組んだ力ずくでの強盗以外にない。しかも、それだって確実とはいえぬ。金銭は商店の生命。主人や番頭が死んでも、金銭さえあれば店はつづく。もし番頭が死ねば自分が昇格できるかもしれない。その期待と、倒産失業への恐怖から、だれかがそ

とへ飛び出して大声をあげないとも限らない。そうなったら収拾がつかぬ。また、数人で組むと仲間割れもあるし、発覚もしやすい。強盗などは頭の悪いやつのすることさ、と次郎吉は思う。

 二十両を風呂敷に包んでからだに巻きつけ、次郎吉はふところから紙片を出し、箱のなかに残す。〈ね〉の字を書いたもので、ねずみの形にも見える。ねずみ小僧が盗んだのだとの証明。これを残しておかないと、あとで内部のしわざと、だれかが疑いをかけられる可能性もある

。奥女中独特の陰にこもった責任のなすりあいがあり、ひとのいい女が犠牲にされたりしては気の毒だ。疑われた女が、身の潔白を示すために屋敷の井戸へ身を投げ、亡霊が出はじめたりしたら、義賊としてのねずみ小僧の名に傷がつく。

 引きあげようとし、彼は鼻をぴくつかせた。きなくさいにおいがする。いま消した火なわのにおいともちがう。それをたどってゆくと、あかりのついた座敷があった。のぞくと、火鉢にもたれた女中が居眠りをしている。夜中に殿さまがお茶を飲みたくなった場合の、その係の女

かもしれない。退屈のため眠くなったのだろう。読みかけの|草《くさ》|双《ぞう》|紙《し》が火鉢のなかに落ち、くすぶっている。ほっておくと火事になりかねない。ねずみ小僧が犯行をくらますため放火したなどとのうわさが立っては、これまた困る。彼は近づいて肩をた

たく。

「もしもし、お女中」

 女ははっと目ざめ、くすぶっている草双紙に気づき、あわてて消しとめる。それから、ほっとして言う。

「出火となったら重い罰を受けるところ。ご注意いただき、助かりました。なんとお礼を申しあげたものか。ご恩は決して忘れません。ぜひ、お名前を……」

「ねずみ小僧です」

「ねずみ小僧さま……」

 つぶやいているうちに、ねむけと火事への驚きが消え、女の頭は正常に働きだした。黒い布で顔を包んだ男を見て、大声をあげる。

「……あ、泥棒の……」

 飛びついて口を押えるひまもなかった。

 声は静かさを破り、各部屋でざわめきが起る。泥棒よ、との声が伝わってゆく。だが、あわてることはない。寝巻姿というあられもないかっこうで、女たちが飛び出すわけがない。

 服装をととのえた警備の女たちは、十何人かが起きている。そして、くせものの叫びとともに、訓練どおりに行動する。殿さまの寝所の応援に何人かが、奥方や世つぎの部屋へと何人かが。だから、声の発生地へむかってくるのは三人ほど。むしろやっかいなのは、口入れ屋から

やとった下働きの女たちだ。寝巻姿も平気だし、賊をやっつけるのが第一と思いこんでいる。なかには次郎吉に飛びついてくるのもある。だが、ねぼけているので身をかわせる。適当にあしらい、雨戸をあけて庭へ出る。内側からなら雨戸はすぐあく。

 警備の女が三人、|長《なぎ》|刀《なた》を振りまわしてあとを追ってくる。逃げまわるが、板塀のところへ追いつめられる。背の高さぐらいの板塀だから、飛び越すのは簡単だ。次郎吉はそうする。しかし、女たちはそこで止らざるをえない。この板塀は中奥と他の部分との

境界線。塀を越えれば女人禁制の区域。男の侍が中奥へ一歩でもふみこめば謹慎になるが、それと同様、女もここは越えられないのだ。

 中奥と他の建物をつなぐ出入口は、殿さま専用の通路、そこはお錠口といい、ふだんは戸が締めてある。中奥側の女の連絡係が鈴を鳴らし、むこう側の侍に伝え、戸があけられ「曲者が侵入、お出合い下さい」と言い、それからはじめて屋敷じゅうが大さわぎとなる。しかし、そ

の時まで次郎吉がぐずぐずしているわけがない。塀ぎわの木にのぼり、道へと出る。あとはゆうゆうたるもの。家臣の一団がおっとり刀で追ってくるはずがない。そんなことをしたら、深夜に不穏な行動であると、幕府の役人にこっぴどくしかられる。殿さま一族の安泰が判明すれ

ば、これ以上さわぎを大きくしないほうがいいのだ。

 次郎吉は帰宅する。「ねぼう屋」という屋号の、小さな古物商。朝っぱらから店をあける必要のない商売。ふざけすぎているかもしれないが、決して他人に警戒心をおこさせない屋号だ。彼は今夜の収穫である金をしまい、酒を飲む。これでまた一仕事おわった。酔い心地のなか

で、これまでのことを回想する。

 次郎吉は歌舞伎のある一座の木戸番のむすことして生れた。だから、ものごころがついてから、いやその前から、芝居の世界を知っていた。白く美しく顔を作り、きらびやかに装い、たくさんの燭台の光を受け、名文句をしゃべり、演技をし、虚構の宇宙を作りあげ、観客たちを

うならせる。幼い次郎吉にとって、魂を奪われるような、あこがれの世界だった。そして、また舞台裏の世界も知った。舞台で緊密なまとまりを示す役者たちも、それがすめば普通の人物。欲望や感情に生きている。そのことを知っても、いや知ってから一層、彼は芝居の世界が好

きになった。見事さと平凡さとの、いさぎよい転換。そこがいいのだ。楽屋と舞台とを往復するたびの、役者たちの変身ぶり。どちらが真実なのかわからぬ。そこに彼はあこがれたのだ。

 次郎吉はひとりで、あるいは近所の子を相手に、芝居のまねごとをして遊んだ。父親はそれを見て、いい気分ではなかった。変に器用なところがある。木戸番をしていると、高度の批評眼がそなわっている。下手くそでもなく、大物になる素質もない。そういうのが一番しまつに

悪いのだ。この子は早く芝居の世界から遠ざけたほうがいい。地道な人生を送らせるべきだ。

 そして、次郎吉は|建《たて》|具《ぐ》|屋《や》へと修業に出された。不満ではあったが、父に反抗できる年齢ではない。しかし、親方はいい人だった。星十兵衛という、|苗字《みょうじ》を許された大名家お出入りの建具屋だ。仕事の上ではきびしいが、人徳のある人だ

った。次郎吉は修業にはげんだし、器用さもあった。

 あるていど技術を身につけると、次郎吉は親方に連れられ、大名屋敷へ行って仕事をするようにもなった。はじめて大きな屋敷のなかを目にし、彼は親方に言った。

「立派なものですね」

「われわれとは身分がちがうものな」

 そう親方が答えたのを、いまでも次郎吉はおぼえている。あのころのことが、いま役に立っているというわけだ。大名屋敷のなかがどうなっているのか、くまなく知ることができたのだから。中奥へも入ることができた。女の職人のいるわけがないから、修理する箇所ができれば

、男子禁制といってもいられない。もっとも、仕事の時は人払いをし、監督の係の中年女がつきっきりではあったが。

 建具屋という仕事のため、雨戸、障子、ふすまなど、自分のからだの一部と同じぐらい知りつくした。暗やみのなかで音をたてずに雨戸をそとからあけられるのも、戸締りの方法を知っているからこそだ。ふすまを見ただけで、軽くあくか音をたてるかわかるし、このような絵の

ふすまのむこうは、大体どんな座敷でどんな用途かもすぐわかる。仕事に関連し、錠のとりつけもたのまれ、錠前屋ともつきあいができ、その方面にもくわしくなってしまった。

 十六歳の時に一人前の職人となり、親方のもとをはなれ、自分で注文をとって仕事をするようになった。腕がよく、あいそがいいので、収入も悪くなかった。

 しかし、次郎吉の心のなかには、なにか満たされないものがあった。あまりに平凡すぎ堅実すぎる。あの、幼時にあこがれた芝居の世界とは、あまりにちがう。いくら仕事をしても、雨戸や障子をあけるたびに、おれの名を思い出して賞賛してくれる人などいないのだ。

 彼は建具職をやめ、|町《まち》|火《び》|消《け》しの|鳶《とび》となった。それを知った父親は、怒って意見をした。

「これまでの修業がむだになる……」

 それに対して次郎吉は、あれこれ弁明した。若いうちに各種の体験をしておくのはいいことだ。火災において建具はどうあるべきか、実際に知っておきたい。見聞もひろまるし、友人が豊富になる。父親は言った。

「仕方ない。しかし、二年たったら、またもとの建具屋に戻ることを約束しろ。戻らなかったら勘当するぞ」

 かくして、次郎吉は火消しの鳶になれた。もともと身が軽く、動きのすばやいところのあった彼は、その才能を発揮しはじめた。しかも、望んでなった火消し、熱心に練習し、はしご乗りの名手となった。垂直のはしごをかけのぼり、その上で|軽《かる》|業《わざ》的な動作

をやってのける。正月の|出《で》|初《ぞめ》式では、その派手なのをやってみせ、かっさいをあび、彼はやっといくらかの満足感を味わった。

 火消しには気の荒い、けんか早いやつが多かった。父親が反対した理由のひとつだ。しかし次郎吉は、芝居ごころがあり、周囲の連中とうまくつきあった。けんかをしかけられると、彼はたちまち近くの家の屋根にかけあがる。これでは相手もどうしようもない。

 快感をおぼえるのは、現実の火事の時だ。火の粉をあびながら屋根から屋根へ渡り、防火につとめる。刺激があり、生きがいがあり、わけもなくぞくぞくする。消火したあとも気持ちがいい。みなは上を見あげ、働きに対して感謝の声を送ってくれる。そんな時、やはり役者にな

ればよかったと、つくづく思う。役者なら、毎日がこれなのだ。しかし、いまからではやりなおしもできない。

 まったく、おやじのおかげで、おれは人生をあやまった。性格にあわない人生を押しつけられた。子供のときから、おやじに怒られつづけだ。あの、こっぴどく怒られた時のことなど、いまだに忘れられない。

 まだ建具屋へ修業にやらされる前のことだ。お祭りの日、おれはもらった小遣いを落してしまった。なんにも買えず、にぎわいのなかで、ひとりさびしく物かげで泣いていた。その時、通りがかった若い侍がやさしく声をかけてくれた。

「坊や、どうしたんだい」

 おれがありのまま話すと、その人は金をくれた。いくらだったか忘れたが、子供にとってはかなりの額だった。

「ありがとう。おじちゃん、名前なんていうの」

「ねずみこぞうだ」

 侍は|和泉《いずみ》甲蔵と答えたのだが、次郎吉には、ねずみこぞうと聞こえた。うれしくなって金を使っていると、父親があやしんだ。

「そんな金、どうしたんだ。拾ったのか」

 次郎吉は事実を説明したが、父親は信用しなかった。

「拾ったなら拾ったでいい。もらったらもらったでいい。しかし、ねずみ小僧だなんて、ふざけた話をでっちあげることは許せない。親をばかにしている。うそは泥棒のはじまりと言う。よく反省しろ」

 母や弟妹の前で、さんざん怒られ、食事抜きで押入れに一昼夜とじこめられた。その悲しさ、くやしさは、金をくれた侍の顔とともに、心の底に焼きついている。

 そのあとで、おれは建具屋の親方にあずけられたのだ。あのことがなければ、おれは役者になれてたかもしれない。あそこで人生の道が狂ったのだ。建具屋の親方はいい人だったので、修業中は忘れかけていたが、火消しとなってからは、なにかにつけて次郎吉は思い出し、しき

りにくやしがった。

 そんな時、ばくちをしないかと彼は仲間からさそわれた。はじめてやったのだが、いくらかもうけることができた。ひとつ景気よく飲むかと思いながらの帰り道で、あわれな子供たちを見かけた。どうやら、火事で焼け出された子供たちらしい。火消しの一人として、気がとがめ

る。よし、あいつらにめぐんでやるか。

 その気まぐれを次郎吉は実行した。腹のすいている子供たちは、喜びを顔にあふれさせ、感謝の視線を集中した。信じられぬほどの親切にとまどった表情。甘美な感覚が、その瞬間、彼をしびれさせた。そして、思わずひとつの言葉が口から出ていた。

「おれは、ねずみ小僧って名だよ」

 どうだ、ざまあみやがれ。ねずみ小僧は、いまや確実に存在するのだ。この時を境に、次郎吉の人生が確立した。およそ趣味道楽のなかで、金をめぐむということほど、豪華にして|傲《ごう》|慢《まん》、楽しく強烈なものはない。彼はその味をしめてしまった。

 ねずみ小僧という、あわれな子供に対して気前のいいやつがいるそうだ。そんなうわさが回り回って、次郎吉の耳に入ってくる。その満足感もまたすばらしい。

 しかし、ばくちでいつも勝つというわけにはいかない。勝った時に金をとっておくのならまだしも〈ね〉と書いた紙に包んで、あわれな子供のいる家にほうりこむのだから、たちまち金がなくなる。知りあいから金を借り、それも使ってしまう。

 ついに借りる先がなくなり、次郎吉は妹のことを思い出した。このじと言い、大名の前田家の中奥へ奉公にあがっている。面会に出かけたが、門番に追いかえされた。

「だめだ。ここは商家ではないのだぞ。しかも、中奥の女はきめられた宿下りの日以外は、たとえ兄妹でも面会は許されぬ。用件があるのなら、手紙ですませろ」

 よし、それなら勝手に会うだけだ。なにしろ、ほかに金を借りるあてがない。次郎吉は夜になるのを待ち、塀を越えて乗りこんだ。火消しの体験で高所も平気になっている。屋根を伝い、前に聞いていた妹の部屋へ行き、そとから小窓をあけて声をかける。

「おい、このじ。おれだ、次郎吉だ」

「まあ、兄さん。よく来られたわね。もっとも、大名屋敷って、内部の警備はわりといいかげんなものよ。で、なにか急用……」

「すまんが、少し金を貸してくれ。困ってるんだ。少しでいい。すぐ返すよ」

「だけど、これ一回きりよ。もう来ないでね。男が入ってきたと知れると、あたし大変な罰を受けるわ」

「わかったよ」

 まもなく次郎吉は、父親から勘当される。次郎吉に貸した金を返せという連中に押しかけられ、このじの手紙で兄が屋敷に来たことを知らされ、父親はきもをつぶした。大名家へ侵入したとなると、ただごとではない。発覚すれば知らなかったではすまず、家族まで連座で処罰さ

れることになる。いまのうちに公式に縁を切っておいたほうがいい。債権者への言いわけも簡単になる。

 一方、次郎吉はここしばらくつきが回り、順調だった。ある日、ばくち仲間にさそわれた。

「おい、次郎吉。変ったところでばくちがあるが、いっしょに行かないか」

「どんなところだ」

「ある大名屋敷のなかだ。武家屋敷のなかは、町奉行の管轄外。同心や目明しが手入れにやってくる心配もない。絶対安全、ばくちを楽しめる」

「うむ。そういう方法があったのか。ひでえ世の中だが、名案は名案だな」

 興味を持って行ったはいいが、その晩、次郎吉はさんざんに負けた。ついに着ているものまではがれ、追い出された。いくらなんでも裸では町を歩けぬし、第一ころがりこむあてもない。勘当と同時に、町火消しもくびになっている。

 もう彼はやけだった。せめて着物だけでも取りかえそう。ひらりと塀を越え、さっきの部屋にとってかえす。勝手はわかっている。連中はばくちに熱中していた。手入れの心配もなく、まさか大名屋敷に侵入するやつがあるとも思わず、なんの警戒もしていない。つぎの間には、

ばくちのかたに取ったものがつみあげてある。次郎吉はそれらをごっそり抱えこみ、屋敷を抜け出した。

 品物を調べると、高価そうな|印《いん》|籠《ろう》や羽織、財布もあったし、刀もあった。驚いたことに、そのなかに十手もまざっていた。

 あれが盗みのはじめだったな、と次郎吉は思い出す。やがておれは小さな古物商を開き、それをかくれみのとし、大名屋敷あらしを専門にし、現在に及んでいるというわけだ。ばくちは、もうほとんどやらない。つまらなくはないのだが、金をめぐむほうがずっと面白いのだ。

 盗むのは簡単なことだし、いまや型にはまった行動。しかし、めぐむ方法となると、つねに頭を使わなければならない。第一に発覚への警戒。金をめぐんだことから足がついては、こんなばかげたことはない。第二に、死に金になってはつまらない。たとえば、大酒飲みや女道楽

で貧乏になった家に金をやるべきではない。そんなとこへ金をほうりこんだって、酒や女に消えるだけのことだ。

 一番いいのは、まじめで貧しい子供にやることだ。このお金で寺子屋へ入り勉強しなさいと書き〈ね〉と署名した紙に包み、条件にあった家へほうりこむ。その調査は大変だが、それなりの効果はあるはずだ。その子供たち、学問をすることのできたのはだれのおかげか、一生忘

れまい。

 寺子屋の先生たち、収入がふえて喜んでることだろう。いや、困ってるかな。盗みはいかんと教えねばならぬし、その金は奉行所へ届けろとも言えない。苦しまぎれに、学問は大切であり、大名から盗むのは例外だとか声をひそめ、子供の期待と、道徳の原則と、自己の利益とを

、むりに調和させた妙な理屈をこねあげてるにちがいない。

 しかし、そこまではおれの知ったことじゃない。おれはめぐむこと自体が楽しいのだ。それにしても、どの大名家も被害届けを出さないのには驚いた。お家の不名誉だからだろう。大さわぎを予想していたのに。手ごたえ、つまり行為の確認感がない。これは面白くないことだっ

た。そこでおれは、年に二回、収支の計算書を江戸の数カ所にはりだすことにした。名はあげないが、大名家から何十件の盗みをした。一方、これだけの金をめぐんだと、双方の金額をぴたりと一致させた。この点は良心に誓って真実だ。生活費はどうなってるんだと思う人もあろ

うが、それはついでに持ち出した物品を売った金さ。

 この計算書をはりだすようになってから、ねずみ小僧の人気は爆発的となった。町人たちは、自分たちは安全地帯にいて楽しめるのだと知った。話に尾ひれがついて広まる。口から口への伝達というものは、妙な迫力があるものらしい。伝達する当人も楽しいのだ。おれは満足だ

った。遊興よりはるかに面白い。金より名声だ。金なんかむなしい。

 ついに生きがいをみつけた。しかし、おれは舞台裏だけで演技をする役者だった。舞台の表では、そしらぬ顔をしていなければならない。あこがれていた芝居の世界、それにたどりついてみると裏がえしのそれだった。しかし、まあいいさ。この新形式を完全なものに仕上げる。

それは先駆者の喜びでもあるのだ。

 大名屋敷に忍びこんで盗みをはたらく時、いつも次郎吉はものなれた動作だった。といって、なにもかもいいかげんにやっていたわけではない。準備には入念だった。目標の屋敷をきめると、侵入の前にくわしく調査をした。塀のまわりを何回も歩き、人通りがたえると飛びあが

ってなかをのぞきこむ。いつだったか、うろついているのを目明しにとがめられたこともあった。

「おい。さっきから屋敷のなかをうかがってるな。怪しいやつだ。わけを言え」

 しかし、次郎吉はあわてない。

「お話ししますとも。しかし、内密にお願いしたい。じつは、あだ討ちなのです。五年前にわが父を討った、にくむべきかたき。それがここに仕官しているのをつきとめた。あとは出てくるのを待ち、名乗って討ち果せばいいのです。こんな町人姿に身をやつし、やっとここまでき

たわけです。これがその、あだ討ちの証明書です」

 物語をでっちあげ、かねて用意の書類を出す。ある大名家で、盗むついでに白紙に印鑑を押してきた。それをもとに作ったものだ。目明しは感心する。

「こういう証明書を見るのははじめてだ。あだ討ちという大望をお持ちとは知らなかった。ひとつ、お手伝いしましょうか」

「いえ、大丈夫です。だが、かんづかれたら苦心も水のあわ。ぜひ、内密に」

「わかってますよ。ご成功を祈ります」

「ご声援、ありがとうござる」

 芝居ごころがあるだけに、次郎吉の応答はもっともらしい。調査がすむと実行だが、雨の日だと屋根がすべる、月が明るいと見つかりやすい。天候にも注意する。

 侵入の前には、その近所の常夜灯の油をへらしておく。逃走の時に、ちょうど油がきれ消えるようにしておくのだ。

 また、道すじの三カ所ほどに、火の用心のチョウチンと、拍子木とをかくしておく。いつでもそれを持ち、夜回りに化けられる。夜道を歩くには、夜回り姿が最もいい。怪しまれないし、夜回りが金を持っているわけなどないから、すれちがいざま浪人者に切りつけられる心配も

ない。

 このような準備があるからこそ、落ち着いて仕事ができるのだ。逃走の手はずなしだったら、不安で気が散り失敗しかねない。

 しかし、思いがけぬ不運も、ないことはない。屋敷内を追われ、ひらりと塀の外へ出たはいいが、そこをたまたま目明しが通りがかっていた場合など。これはもう逃げる以外にない。目明しは|呼《よび》|子《こ》を吹きながら追ってくる。その音を聞きつけ、加勢が出現する

かもしれない。だが、かねて用意の細工によって、あたりの常夜灯が消えはじめる。闇になればしめたものだ。次郎吉はふところから呼子を出して吹く。そして、自分も十手をふりまわし、戻って目明しにあう。

「おい、あっちへ行ったようだぞ。はさみうちにしよう。むこうへ回ってくれ」

 相手はまんまとひっかかる。変だなと気づいて戻っても、その一瞬のうちに次郎吉の姿は消えている。そばの武家屋敷の塀を越え、なかにかくれればいいのだ。町奉行所の配下の者には手が出せない。目明しが門に回り、賊が侵入したと注意することはできるが、そのすきにゆう

ゆう逃げられる。

 万一にそなえ、次郎吉は各所のお寺の屋根裏に、|飛脚《ひきゃく》の服装をかくしておく。数人の目明しに追われ、自宅へ帰れそうにない場合、ひとまずそこに逃げこむのだ。ここも町奉行所の手がとどかない。追手はまわりをかため、寺社奉行の許可か応援を待たねばならぬ

 そのあいだに次郎吉は変装し、暗いうちにそとへ飛び出し、かけだすのだ。大名家が国もとの藩との定期連絡に使う、大名飛脚の姿になっている。そのための手形も盗んで入手してある。どこの関所も通過できる。文箱のなかを見せろなどと強要されることもない。盗んだ金が入

っているのだが。

 さらにあとを追われたとしても、江戸から一歩そとへ出れば、またも目明しは手が出せない。江戸のそとは代官の支配下で、それは勘定奉行の管轄。ねずみ小僧が逃げたらしいと、町奉行から勘定奉行、そして代官にまで通達がとどくには、けっこう日時がかかる。そのころには

、次郎吉は江戸に舞い戻っているというわけ。

 多くの大名屋敷のなかには、警備の厳重なのもある。邸内にひそんでいるところを、腕のたちそうな家臣に発見されることもある。しかし、次郎吉は平然と言うのだ。

「じつは、将軍直属のお庭番、|隠《おん》|密《みつ》なのです。この家に不穏な動きがあるらしいと、わたしが派遣された。しかし、隠密に証明書などあるわけがない。侵入者として切られても文句は言えない。だが、わたしを殺しても、また、つぎの隠密が派遣されるわけで

、きりがないことでござるぞ」

 隠密と聞くと、どの大名家もびくりとする。とっつかまえて、本物かどうか問いあわせようにも、将軍直属ではそれもできぬ。へたに殺して、本物だったらことだ。どことなく怪しいが、怪しいからこそ隠密なのかもしれぬ。穏便にすませておいたほうがいいというものだ。

「お役目ご苦労にござる。当家に不穏な動きがあるなど、事実無根のうわさ。将軍家には、なにぶんよろしくご報告を……」

 などと、かなりの金をつかまされることにもなる。まったく、みごとな芝居。

 そのうち、次郎吉の耳に、こんな評判が入ってきた。

「ねずみ小僧、なかなかやるなあ。痛快です。しかしねえ、大名家あらしばかりとなると、いささかあきてきますな。たまには、景気のいい商店から、ぱっと金を巻き上げてもらいたいものですよ。派手な豪遊をしている金持ち連中、それをへこましてくれると、胸がすっとするん

ですがね……」

 くりかえしだけだと、大衆は満足しなくなるものらしい。なにか変ったことをやってみせぬと、刺激にならない。こうなると、ねずみ小僧としては、人気を高めるために新しいことをやらなければならない。

 次郎吉は幕府の要職にある役人の屋敷から盗んだ衣服を着て、大小をさし、めざす商店へと出かける。

「主人はおるか。分不相応のおごりをしているとのうわさがあり、真偽をたしかめるために来たのだ。事実であれば家財没収。だが、商店は信用が大切であろうと存じ、ただのうわさにすぎぬ場合、さわぎを大きくしては気の毒。よって、供も連れずに来たしだいだ。主人に内密に

お会いしたい」

 主人はあわてて奥へ案内する。

「担当のお役人には、いつもそのための付け届けをしておるはずでございますが。あなたさまは、どのようなお役職で……」

「じつはだな、このところ、各奉行所の縄張り意識がひどすぎ、横の連絡がいいかげんになっている。目にあまるほどだ。そこでこのたび、勘定奉行町奉行連絡評定組という役が作られた。みどもは、その|吟《ぎん》|味《み》取調筆頭の者である。これがその任命書だ」

 次郎吉はもっともらしい書類を出す。主人は恐れ入るが、話のわかる役人らしいと察し、いくらか包んで差し出す。その時そわそわして引きあげかけると、かえって怪しまれる。おもむろに印籠をはずして渡すのだ。

「ただ金をいただいては|賄《わい》|賂《ろ》となる。許すべからざることだ。これはみどもが老中よりいただいた印籠。進呈いたそう。良心もとがめないというわけでござる」

 主人は手にとり、高価な品と知る。

「これはこれは、お気前のよろしいかたで。では、手前どもも、さらに気前よくさせていただきませんと……」

 と、すごい大金を出された。次郎吉はそれを持ち帰り、あわれな子供たちにばらまき、号外をはりだす。強盗や傷害をやらなくても、かくのごとく商店から金を巻きあげられるのだとの〈ね〉の署名入りのやつをだ。

 江戸中がわっと沸く。

「みごとなものですなあ。金持ちがだまされる話ぐらい、痛快なものはない。どこの商店か書いてないが、あそこの店かもしれないと推理する楽しさもある。たしかに新手法だ。このつぎには、どんな事件を起してくれるでしょう。わくわくしますなあ」

 新しいことをはじめると、さらに一段とすごいものでなければ、大衆は満足しなくなる。みなの期待が次郎吉をかりたてる。彼は悪循環に巻きこまれはじめた。

 そのころになると、ねずみ小僧の人気につられ、何人かの亜流が出現していた。うさぎ小僧、かすみ小僧、しみず小僧など、まぎらわしい小泥棒がうろうろしている。次郎吉は腹を立てた。この手法の義賊は、おれの考案になるものだ。勝手に模倣するのはけしからん。彼はそい

つらの家をつきとめ、奉行所に密告した。

 亜流の小僧たちは全員逮捕。盗みためた金もろとも、奉行所に運ばれた。亜流とはいえ、これだけの泥棒をいっぺんに逮捕できたのは珍しいこと。奉行所の役人、与力同心目明したちは祝杯をあげた。ほっとした気のゆるみ。それに、奉行所に侵入をくわだてるやつがあるなど、

考えもしない。

 そこをねらって、次郎吉は忍びこんだ。押収してあった金銭を、ごそっと持ち出す。それを見て、仮牢のなかの亜流小僧たち、声をかける。

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