「ついでに、おれたちも助け出してくれ。同類のよしみで」
「なにを言いやがる。おれは元祖。きさまらは亜流だ。獄門台で模倣の罪をつぐないやがれ」
「ちくしょう。大声で役人を呼ぶぞ」
「おあいにくだ。老中からと称し、おれがとどけた眠り薬入りの酒で乾杯しあい、みなぐっすりだ。あばよ」
これをまた号外ではりだす。しかし、今回はほどこしをせず、べつな形で庶民のために使うとの予告つき。
その約束は、やがて訪れた川開きの日にはたされた。花火の打ちあげが進んだころ、仕掛け花火が点火された。大きな〈ね〉の字が大川の上に輝く。同時に打ちあげられた大型花火が何十発。すばらしい美しさ。
「いいぞ、ねずみ小僧」
「ねの屋あ」
こうなってくると、幕府もほっておけない。奉行所が荒されては威信にかかわる。|火付盗賊改《ひつけとうぞくあらた》めの一隊が出動するらしいとのうわさ。これは重罪犯逮捕のため、管轄にとらわれず活動できる、各奉行所から独立した組織。どこへでも乗りこみ、独自に
処刑もおこなえる。その指揮者は鬼のなんとかと称せられる、頭と腕のすぐれた武士。
次郎吉は少しふるえた。いささか調子に乗りすぎたかな。あいつに乗り出されると、これまでのようにいい気分で動けぬ。といって、一方では民衆が期待している。
機先を制してやろう。彼は老中筆頭の屋敷に忍びこんだ。幕府の最高権力者とはいえ、屋敷内の警備のいいかげんさは、他と大差ない。次郎吉は中奥へ忍びこみ、大金を盗みだした。持ち帰るには手にあまるほどの重さ。しかし、ちょっと運ぶだけでいいのだ。つまり、表御殿の
来客用の座敷に移しただけ。そこで金を包みかえ、紙の表に火付盗賊改めの責任者の名を書いた。老中が見れば、昇進のための運動費とすぐにわかる外見だ。そして、次郎吉は引きあげて待った。
計画はうまくいった。つぎの日、老中はそれを見てうなずく。そろそろ昇進させてくれとの意味であるな。働きぶりもいいと聞いている。口をきいてやるとするか。中奥ではなにか至急に金がいるとさわいでいる。ちょうどいいから、この金はそれに回そう。江戸城へ登城し、若
年寄を呼んで言う。
「そちらの配下の、火付盗賊改めを昇進させてはいかがであろうか」
「は、妥当な人事でございましょう」
老中の意向には従わざるをえない。その交代を知って、次郎吉は喜ぶ。新任者なら仕事になれるまで、しばらくは大丈夫というものだ。どんなやつか、顔でも見ておくか。
しかし、あにはからんや、彼にとってはもっとやりにくい相手。名前は和泉甲蔵。顔をみると忘れるわけのない、子供の時に金をめぐんでくれた武士。おれの今日あるは、あの人のおかげといえる。あの人の在任中、おれが仕事をしてはぐあいが悪い。運動費を使って例の手で昇
進させようにも、いくらなんでもすぐにはむりだ。仕方がない。しばらく旅にでも出るとするか。
次郎吉は店を休業にし、西へむかい、気ままな旅に出た。金がなくなっても、彼にとって入手は簡単。京、大坂、長崎まで見物し、高野山はじめ各寺院に自分の供養料を前払いした。そんなわけで、江戸に戻るころには、もはや思い残すこともなくなっていた。
「さて、そろそろ、ねずみ小僧としての人生の最後を飾るとするか。うんとはなばなしくやろう。後世に語りつがれるような形で。なにをやるかな。うん、江戸城がいい。白昼に公然と乗り込み、城内をあばれまわり、討たれて死ぬとするか。おれがはじめて表舞台へあらわれ、そ
れが最後でもある。江戸の町人たち、あっと叫んで手をたたくぞ」
次郎吉はまた武士の服装をし、御門からゆうゆう歩いて入った。外見がきちんとしているので不審に思われなかった。やがて表御殿、すなわち幕府の政庁の建物があった。その玄関からあがりこむ。大ぜいの武士たちが、もっともらしくなにかやっている。そのうち、次郎吉は老
人に呼びとめられた。
「みなれないかただが、貴殿はどなたでござるか」
「勘定奉行町奉行連絡評定組の、吟味取調筆頭の者でござる」
「聞いたことのない役職でござるな」
「じつはな、じいさん。おれはねずみ小僧次郎吉ってんだ」
「しっ、小さな声でお願いいたす。ばか話をしていると上役に思われたら、みどもはお役御免になる。せっかくここまで出世したのだ。それが本当の話であれば、なおのことだ。なんにも聞かなかったことにいたす。早くあっちへ行って下され。みどもを巻きこまぬよう、お願い申
す」
「ひでえもんだな」
どこへ行っても同じこと。|外《と》|様《ざま》大名たちの|控《ひかえ》の間を抜けても、だれも見て見ぬふり。お家が大事だ。へたにさわがぬほうがいいのだ。次郎吉はさらに奥へ進んでみる。えらそうなやつが見とがめ、注意する。
「このあたりは、そちのごとき身では入れぬことになっている。刀を持ちこんでもいかんのだ。無礼であるぞ」
「なにいってやがる。おれはねずみ小僧次郎吉、見物したいんだ。とめられるものなら、とめてみやがれ」
刀を抜いて見得を切る。背景は金色に絵を描いたふすま。芝居の大道具とはちがって、高級にして本物だ。次郎吉はうっとりとなった。それを見た周囲の連中はきもをつぶした。殿中で刀を振りまわしたのは、浅野|内匠《たくみの》|頭《かみ》以来の大事件。
「なんたること。だれか出合え」
さわぐ者はあっても、いまや文弱の世。殿中の係には、組み付く勇気のある者はない。切られて死んではもともこもない。せめて刀さえあれば、あいつを切ることぐらいはできそうだ。しかし、このへんは刀を持ちこんではいけない場所。まして抜いたりしたら、あとで事情のい
かんを問わず切腹ものだ。
「これは一大事。担当者に報告して参る」
要領のいいのは、さっそくその場をはなれ、便所に入る。巻きぞえにならぬのが一番だ。便所はたちまち一杯。だれも入ったきり出てこない。本当に便所に入りたい者は、遠くまで歩いてゆく。
それでも、やっと城中警備の担当者のところへ報告がもたらされる。担当者は飛びあがり、気を静めるために、処世訓の狂歌を書いた紙をふところから出して読む。
〈世の中は、さようでござる、ごもっとも、なにとござるか、しかと存ぜず〉
三回くりかえし、おもむろに言う。
「さようでござるな。一大事とは、まことにごもっとも。なにがどうなっているのでござるか。しかし、なにしろ前例なきこと、前任者からも聞いておらず、しかと存ぜぬしだいでござる」
「そんな場合ではないようでござるが」
「なにをおっしゃる。みどもは老中に属する役職。貴殿の指示で軽々しく動くわけには参らぬ。まず老中の指示をいただいて参れ」
だれかが別な係の前へ、ゆっくりとあらわれる。殿中でかけ足は禁止なのだ。それを破ると、あとで問題にされる。
「早くなんとかすべきではござらぬか」
「みどもは儀式の時に限る警備係。賊にたちむかってもいいが、これが前例になる。その責任は貴殿にあるが、よろしいか」
「いや、それは困り申す。御門番の一隊、お庭番などは動いてくれぬものであろうか」
「御門番の一隊を殿中に入れた前例はござらぬ。お庭番は上さまじきじきの命でなければ動かぬ。貴殿、上さまに伝えたらいかが」
「その取次ぎ係が見当たらぬのでござる。上さまはお昼寝の時刻なれば、あ、あ、なんだか急に腹ぐあいが悪くなり申した。下城して休養いたすゆえ、あとはよしなに」
かかりあいを恐れ、みんな逃げ腰。いつも逃げまわっていた次郎吉、表舞台にあらわれたとたん立場が逆になった。刀を振りまわしながら進むと、奥のほうに広間があった。一段と高いところへすわってみる。将軍以外にすわれないところだ。それを見た者、大声をあげかけ、あ
わてて口を押える。大声禁止の広間なのだ。それに、飛びかかってふすまに穴でもあけたら、首がとぶ。
「大変でござる、大変でござる」
と小声でつぶやきながら、どこへともなく去ってゆく。その声を聞いても、だれも出てこない。ただただ時が流れてゆく。
次郎吉としては、こと志とちがい、張り合い抜けだった。あたりにはだれもいなくなった。押入れに入り、そこから天井裏にかくれ、しばらく休む。
これからどうしたものだろう。大奥へ行ってみるか。女ばかりの住居は、大名家では中奥だが、将軍の江戸城では大奥と称する。しかし、大奥ほどぶきみなところはないという。年に一度の大掃除に、男と女が顔を合わさぬよう、厳重な監督のもとに鳶の人足が入るが、出てくる
時には人数がへっている。このうわさを次郎吉は、火消しにいる時に聞いた。女たちにつかまり、おもちゃにされたあげく、消されてしまうらしい。そんな死にざまでは、ねずみ小僧の印象を悪くする。
ひとまず帰るとするか。天井裏を移動し、玄関近くの座敷にあらわれる。そして、出あった相手に言う。
「くせものはお庭のほうにかくれたようでござるぞ」
「そうでござるか。貴殿、すまぬが御門番の一隊に知らせてくれぬか。お庭なら、御門番が出動してもかまわぬと存ずる」
「かしこまってござる」
次郎吉は御門にむかい、そのまま出てしまう。
家に帰った次郎吉、さわぎの結果を待つが、ちっとも町のうわさにならぬ。みっともないので役人たちがだまっているのだろう。そのうち、幕府で大はばな人事異動があったらしいとわかるが、それで終り。万事うやむやになってしまったようだ。面白くない。
彼は殿中でのさわぎを、おもしろおかしく物語にまとめた。それを持って草双紙の版元へ行く。
「ねずみ小僧を主人公に、こういうものを書いた。売れると思うし、後世まで残るんじゃないかな。出版してもらいたい」
草双紙屋の主人、それを読み、顔をしかめる。
「こりゃあ、なんです。でたらめもいいところ。あまりにばかげてるので、お上も出版禁止にはしないでしょう。しかし、ねずみ小僧は庶民の偶像ですぜ。その印象をこんなふうにぶちこわしたら、わたしゃ、江戸っ子たちにぶんなぐられる。本にはできませんな。ねずみ小僧につ
いては、ちゃんとしたものを書くよう、ある作者にたのんであります」
せっかく書いたものは、目の前で破り捨てられた。次郎吉はがっかり。それから数日は、酒びたり。二日酔いつづきでごろごろしていると、そとで叫びながら走る声。
「大変だあ。ねずみ小僧さまがつかまったそうだ」
次郎吉は起きあがる。外出すると、どこでもそのうわさでもちきり。なんでも、浜町の松平|宮内少輔《くないしょうゆう》の屋敷に忍びこみ、殿さまの寝所に近づき、護衛役の女たちにとっつかまり、町奉行所の者に引き渡されたという。
なんということだ、と次郎吉はつぶやく。殿さまの寝所に金などあるわけがない。それに、そこが最も危険な場所。おれがつかまらなかったのは、そこを注意して避けたからだ。わざわざつかまりに行くようなものだ。どこのどいつだ、そんな気ちがいじみたことをしたやつは。
しかし、つかまったやつは、気ちがいではなく、わざわざつかまりに入った男だった。大名家出入りの建具屋、星十兵衛のどら息子。両親の死んだあと、家業そっちのけで遊び暮し、店をつぶした。そのあと草双紙の作者となり、でまかせ話を書いてかすかに食いつないでいた。
そのうち同情した草双紙屋の主人に、実録物を書きなさい、いま人気のねずみ小僧がいい、売れますよとすすめられ、調査にかかった。
調査しはじめてみると、どうも、かつておやじのところで修業していた次郎吉がくさい。芝居の木戸番の子、建具の修業、火消しの鳶、条件がそろっている。聞きまわると、すごい人気だ。どう物語にまとめようか、訴えたらいくら金をもらえるかなど思案しているうちに、もっ
といいことを思いついた。おれがねずみ小僧になればいい。物語にしたってうまく書けっこない。おれが主人公になれば、後世に残るというものだ。
そして、松平家の屋敷に忍びこみ、不器用につかまったというしだい。だから、拷問にかけられると、すぐに白状した。大名家からの被害届けはいいかげんだから、その気になればいくらでもつじつまがあわせられる。次郎吉の弟妹が奉行所に呼ばれ、あれが兄かと聞かれた。二
人は実の兄が処刑されるよりはと、そうだと答えた。
そして、処刑の日、薄化粧をさせられ、しばられて馬に乗せられ、町じゅう引回しとなる。
通りでの民衆の声はすごかった。
「庶民の神さま」とか「世なおし大明神」
「われわれの光だ」
「さよなら」とか「なむあみだぶつ」
「その仏さまのようなお顔は、決して忘れず、いつまでも語りつぎますぞ」
手を振るやら、ふしおがむやら、泣き出す者やら、老若男女の人の渦。
しかし、そのなかでただひとり、こうどなったやつがいた。
「この大泥棒のばかやろう」
これこそ次郎吉。おれが苦心さんたん、だれも傷つけず、殺さず、火もつけず、亜流をやっつけ、ここまで築きあげた人気と伝説。それをあのにせ者め、さっと盗みとりやがった。
民衆も民衆だ。おれからめぐまれたやつが、いっぱいいる。おれは盗んだ金のことは忘れても、だれにめぐんでやったかはみんなおぼえている。
まわりの民衆が次郎吉をどなる。
「あんた、なんてことを言うんだ。江戸っ子の恥さらしめ。ねずみ小僧さまは立派なかただ。あんた、あのかたから金を盗まれたか。あのかたは、あんたのような人から金を盗むわけがない。このばか。ぶっ殺すぞ」
殺気だったまわりの連中に袋だたきにされながらも、次郎吉は馬の上のうっとりした表情のにせ者にむかって、叫ぶのをやめない。
「この、うすぎたない泥棒やろうめ。あんなやつを出現させるなんて、神も仏もないのか。やい、泥棒。きさまなんか人間のくずだ。犬畜生よりも劣る……」
江戸から来た男
江戸からかなりはなれた地方の、ある藩。さほど大きな藩ではない。しかし、よくまとまっており、なにも問題をかかえこんではいない。平穏と無事のうちに日々が過ぎてゆく。
しかし、いま城中の奥まった一室において、藩の上層部の者たちによる会議が開かれていた。会話が盗み聞きされないよう、厳重な警戒の上でだ。上層部とは城代家老と、そのほか三人の家老、さらに町奉行、勘定奉行、寺社奉行、合計七人。藩の要職といえば、このほかに藩主
と、江戸づめの家老二人がいる。だが、殿はいま|参《さん》|勤《きん》|交《こう》|代《たい》で江戸に出ており、江戸家老もそちらの仕事でいそがしい。つまり、藩の運営の実質的な責任者はこの七人といえた。
年配の城代家老が、手紙を示しながら、しかつめらしく深刻な表情で言った。
「じつは、江戸屋敷から手紙がまいった。内容はこうである。先日、殿が江戸城へ登城した時、幕府の役人から、貴藩はこのところ景気がよろしいようで、けっこうでござる、と話しかけられたとのこと。それに対し殿は、いや、とんでもござらぬ、わが藩でゆたかなのは将軍家へ
の忠誠心のみとお答えになった。このことを殿から聞き、江戸家老はさっそくこちらに報告してきたというしだいだ。どうも心配でならぬ」
若い寺社奉行が発言した。
「そのようなことが、なぜ問題となるのですか」
「景気がいいとなると、藩に対して工事をおおせつけられる。江戸城とか将軍家ゆかりの寺院の修理をだ。それによって藩の力を弱め、幕府に反抗する力を芽のうちにつみとっておこうというのだ。余分な金をはき出させようという計画。あまりよろしい政策とは思えぬが、これが
幕府の方針なのだから、いたしかたない」
「幕府の方針への批判は許されていませんからな」
「ここにおられるみなさまだけがご存知のことだが、この城内の金蔵にはかなりの金銭がたくわえてある。長いあいだかかって、節約に節約を重ねてためたものだ。戦国の世は、もはや遠い昔となった。現在、いざという時に役に立つのは金銭だ。金がなければどうにもならない。
そのための準備金だ。このことは、われら役付きの者だけの秘密、殿にさえ知らせてない。そして、外面的には地味に地味にしている。貧しさをよそおっているわけだ。時どき領民たちが|一《いっ》|揆《き》を起しかけさえする。これも巧みな演出。つまらない工事をおおせつ
かり、ごそっと金を出させられてはつまらないからだ。たくわえた金のことは、ほかに知る者などないはずだ。このなかのだれかが、外部にもらさない限り」
みなは口々に言う。
「役につく時、決して他言はしないと、われわれは武士の名誉にかけて誓った。誓いを破ったら、切腹となり家名は断絶になってもいいと。家族にさえも話してない」
寺社奉行がまた言う。
「それでしたら、心配に及ばないのではないか。幕府の役人は、ただのあいさつとして、殿にそう言っただけなのではないでしょうか。お元気でけっこうとか、いいお天気でとかと同じような意味で」
城代は答える。
「そうかもしれぬ。殿からのまた聞きを、江戸家老が手紙にし、それによってわれわれが知ったことだ。幕府の役人の言葉の裏にある微妙さまでは、わたしにはわからない。殿にくわしく問い合せたいが、それもできぬ。あまりくどく殿に聞くと、不審にお思いになる。そのあげく
、秘密の準備金のことが、殿に知られてしまう。そうなると、ことだ。幕府の役人に聞かれた時、ついしゃべっておしまいになるかもしれない」
「殿はお人がよろしいからな」
城代は手紙をながめながら言う。
「あいさつにすぎなければいいのだが、どうも気になってならない。あるいは、と考えると」
「あるいは、なんなのです」
「藩内に隠密がいるのではないかと思う」
「隠密……」
その言葉を口にしながら、みな不安そうな表情になる。そのなかにあって、城代家老はつけ加える。
「しかも、藩内に住みついているたぐいの隠密だ。藩内を通過してゆく旅人はたくさんあり、当然そのなかには隠密もまざっていよう。しかし、通り過ぎるだけなら、城内のたくわえまでは気づくまい。なにしろ、貧しげなようすをよそおっているのだからな。だが、藩内に住みつ
き、じっと観察している隠密となると、話はべつだ。金のあることを、うすうす察したかもしれない。その報告が幕府にもたらされ、幕府が殿にかまをかけ、あのあいさつとなったのかもしれない。殿は金のあることをご存知ないから、その手に乗らないですんだ形ではある。しか
し、金があるという事実をつきとめられ、報告されたら、もう手の打ちようがなくなる。早いところ、その隠密がだれかを明らかにし、なんとかせねばならぬ。まさか、家臣のなかにまぎれこんではおらぬだろうな」
人事担当の家老が言う。
「ここ数十年のあいだに、新しく召抱えた者はありません。怪しげな者はいません。藩を裏切るような家臣はひとりもいないと断言できます。中奥のほうはどうでしょうか」
中奥とは、殿の側室やその侍女たちの住む、女ばかりの一画。藩の外交と儀礼を担当し、さらに殿の側近や中奥の管理をも分担している、最も年長の家老が言う。
「公私の別はあきらかになっている。殿の私的生活に属する中奥のことがわれわれにわからぬごとく、中奥の女たちも公的のことはなにも知らない。そもそも、殿さえ金のことはご存知ないのだからな。中奥を取締る老女はしっかりした女だ。変なそぶりの女がいれば、女同士の|
嫉《しっ》|妬《と》から必ずつげ口があるはずだ。そんな報告が老女からないところをみると、大丈夫と断言してよいと思う。それより、農民の中にまざっているのではなかろうか」
農民はすべて勘定奉行の支配下にあり、その戸籍もできている。勘定奉行は言う。
「他藩から流れてきて住みついた農民も、ここ何十年のあいだありません。そもそも、農民にばけたとしても、農民たちのあいだにとけこみ、心おきなく話ができるようになるのは容易でない。二、三代、すなわち百年近くかかる。また、農民にまぎれていたのでは、城内のことを
知りようがない。藩内の|年《ねん》|貢《ぐ》の合計を聞きまわったりしたら、目立って、すぐに怪しまれる。こうも能率が悪く手間のかかることを、隠密がやるとは思えぬ。ばけるとすれば商人のほうがいい」
商人を監督する立場にある町奉行は言う。
「藩内を通過する商人はたくさんいるが、ここへ住みついて商売をはじめる者は、必ず届け出るようきめてあり、やはりここ数十年のあいだ届け出はない。いままでの同業者が利益を奪われると文句をつけ、それをさせないからだ。可能性として考えられるのは、商人が弱味をにぎ
られるか買収されるかして、隠密の手先となっている場合だ。しかし、ばれたら処刑され財産没収、その危険をおかしてまで商人がそれをやるとは思えない。隠密のほうでも、商人をそう信用しないのではないか。藩に通報されたら、隠密本人はすぐつかまってしまう。そもそも、
城の物品購入係も藩が貧しいと思いこんでいるのだから、そこから秘密のもれるわけがない」
「藩内に他藩の浪人が住みついていないか」
「そういう者たちには、ある期間以上の滞在を許していない。金がなければ、藩外までの旅費を与え、追い出している。なにしろ、浪人にうろつかれると、治安が乱れ、ろくなことはない。ところで、寺社奉行の管轄のほうはどうか」
「それは大丈夫。身もとはすべてはっきりしている。みなこの藩のうまれ。他国へ修行に出た者もあるが、戻ってきた時に他人にすりかわっていたという疑いのある例などもない。他国から藩内の寺に修行にやってくる者はあるが、一年以上の滞在者はいない。第一、修行僧が藩政
について聞きまわったら、たちまち話題になってしまう」
「となると、隠密がいるとなると、どんな職業をよそおっているのだろうか」
その城代のつぶやきに、勘定奉行が言う。
「職人ということになりましょう。勘定奉行の管轄ともつかず、町奉行の管轄ともつかず、調査が不充分になっている。腕の修業のためにやってきて住んでいる者もあり、いつのまにか出てゆく者もある。また、藩内に産業をおこすため、指導してくれるよう呼び寄せた者もあり、
いろいろだ。産業面で役に立っているわけで、あまりうるさくは取締れない。隠密がいるとなると、このなかだろう」
「なるほど、もっともな意見だ。職人関係を洗いなおしてみるべきだな。そう人数も多くはあるまい。やってできぬことではない。勘定奉行と町奉行とで部下を出しあい、ひそかに調べてもらいたい。藩内にいる他国から来た職人の名を書き出し、怪しくないのを除いてゆけば、疑
わしい者が浮び上ってくるだろう。それをやってもらいたい。しかし、内密にだぞ。城内に変なうわさが流れても困るし、隠密に気づかれても困る。うるさい藩だとの印象を与え、職人たちに出てゆかれたら、産業がおとろえてしまうし」
城代家老はこう言い、その日の会議は終った。
つぎの会議の時、その報告がなされた。
「職人の調査をすませました。最近やってきたばかりの者、城下以外に住んでいる者、他藩からやってきて技術を習得するのだけが目的らしい者、これらをつぎつぎに消してゆくと、ひとりだけ残りました」
「それはどんなやつだ」
「庭師の松蔵です」
「なに、あの松蔵……」
みなその名前は知っていた。三十五歳ぐらいの男で、十年ほど前にこの藩にやってきて、なんとなく住みついてしまった植木屋だった。城下の植木屋の親方のところに修業に住みこみ、親方が病死したあと、その幼い男の子を育てながら生活している。親方の妻はその前に死んで
おり、幼児をほっておくことができず、仕方なしに住みついたという形だった。無口だが腕のいい庭師。
「で、その松蔵の生国はどこか」
「それが、江戸なのです」
「ううむ。となると、疑わしくなるな。まったく疑わしい」
その意見はもっともだった。腕がいいため、城の庭の手入れもまかせている。名園といっていいほどの、みごとなものに仕上げてくれた。殿の私的生活の場所である奥御殿や中奥の庭も作り、殿からおほめのお言葉もたまわっている。城内に出入りできる、家臣以外の人物となる
と、松蔵ぐらいなものだ。若い寺社奉行は言った。
「あの男は、ご家老たちのお屋敷のお庭の手入れもしています。盆栽作りの才能もあり、ご家老の夫人がたは、それをお求めになって喜んでおられるとか……」
家老たちはいやな表情になる。城の防備を担当する家老は、弁解をかねて言う。
「そのご心配は無用だ。われら家老は、藩の秘密など、妻子にも絶対に話していない。こうとなったら、面倒なことにならぬうちに、松蔵を切ってしまおう。疑わしい人物を城内に出入りさせておいては、よろしくない」
勘定奉行がそれをとどめた。
「しかし、松蔵が隠密でなかった場合、殺したりしたら大損害だ。いまでは名物ともいえる、わが藩の誇りのお城の名園が、荒れはててしまう。殿も帰国なさってがっかりされるだろうし、中奥のご側室も不快になられるだろう。しかし、それはまあいい。松蔵は肥料にくわしく、
農民たちの相談にのってやっており、藩内の農作物の収穫を高めるのに役立っている。また、山のほうで薬草栽培もはじめている。これは藩が依頼してやらせていることだ。やがては藩の産業のひとつになると思われる。いま松蔵を殺したら、将来にかけて藩の財政上、かなりの損
害となる」
「それはそうだろうが、もし松蔵が隠密で、その報告により幕府から工事をおおせつかったら、それ以上の大損害となる」
「その点はいうまでもないこと。しかし、隠密でなかった場合の損失、悪人らしからぬ松蔵をなぜ殺したかについてささやかれる藩内のうわさ、それらを計算に入れると、軽々しく切るのは考えものだ。もちろん、なにか疑わしいとの証拠でもあればべつだが」
その議論を城代家老が仲裁した。
「では、さらに調べることにいたそう。だれかを江戸にやり、松蔵の出生地で、本当に町人のうまれかどうかを聞き出してくるのだ。寺社奉行の配下の者に、その仕事をたのみたい。松蔵の先祖の墓のある寺にも当ってもらいたいのだ」
その結論にもとづき、ひとりの家臣が江戸へと旅立っていった。
その結果が、やがて寺社奉行から会議の席で報告された。
「どうにも判断がつかないので、ありのままをお話しする。その町名のところに、たしかに松蔵という男が、かつて存在はした。しかし、なにぶん十何年も前のことなので、人相についても近所の人の記憶もぼやけており、問題の松蔵と同一人物なのかどうか、確認できなかったそ
うだ。松蔵の人相書きを見せたが、似てるようだと言う者も、別人だと言う者もある。十何年も会わずにいるのだから、かりに本人を見せても、すぐにわかるかどうかだ。それに、この人相書き、へたくそな絵だ。もっとましな絵師をやとうべきだ」
寺社奉行の出した人相書きを見て、だれかが言う。
「わたしが見せられても、似てるような似てないようなとの感想をのべるだろう。しかし、旅の絵師をやとったはいいが、そいつが隠密だったなんてことになったら、えらいことだぞ」
「話を混乱させないでくれ。ところで、江戸の町人たちの言う松蔵は、腕はまあまあの植木職人だった。ところがある日、不意にいなくなったとのことだ。うわさでは、なにかしでかし、江戸にいられなくなったのではないかとの話。金の横領か盗みか、密通か人殺しか、そこまで
はわからないが」
「なるほど。そういえば、松蔵から身上話を聞いたことがないな。そのたぐいのことをやっていたとすると、発覚すれば死罪。当人は口がさけてもしゃべるまい。江戸から消えた松蔵と、ここのが同一人だったとしてだが」
「それなら、こうしたらどうだろう。もし本人が本当のことを話してくれるなら、当藩が、江戸の町奉行から追及されないよう保障してやると約束したら」
「いや、それは無理だ。話すわけがない。かりに話したとしたら旧悪を知る者が周囲にいることになり、いごこちの悪いことおびただしい。姿を消して他藩に行ってしまうだろう」
また、防備担当の家老が言った。
「どうだ、なにはともあれ、松蔵を呼び出し、問いつめてみるか。おまえは町人のうまれなのかと」
「それも無理だな。町人だと答えるにきまっている。町人なら当然のこと。隠密が、自分は隠密だと言うわけがない。みとめれば、その場で殺される。ただの庭師だったら、疑いがかけられただけでいやけがさし、他藩に移る。当藩の損失だ」
最も年長の、外交と儀礼を担当している家老が発言した。
「わたしは江戸家老を勤めたことがある。だから、幕府の隠密に関していくらか聞いている。隠密とは、お庭番という役職。ふだんは江戸城のなかの庭の管理をやっている。つまり、庭師なのだ。だから、松蔵が庭師であることを考えあわせると、疑わしいように思えてならない。
話があう。江戸の松蔵の|失《しっ》|踪《そう》をいいことに、お庭番の者たちを各藩に出むかせたのではなかろうか。もしかしたら、ほうぼうの藩に、江戸から来た松蔵という庭師がおり、隠密の役をはたしているかもしれない」
「しかし、なあ、話があいすぎるような気もするな。お庭番が庭師では、あからさますぎる。藩に潜入するのに、本職のままでというのは芸がなさすぎる。なにか他の職人に身をやつしたくなるのが、人情ではなかろうか」
防備担当の家老がそれについて言う。
「いや、それを逆手にとるという作戦もあるのです。あからさますぎると、かえって盲点となる。兵学にもよく出てくる。巧妙な侵入者をとらえるのは、なにくわぬ顔で堂々と入ってくる者をとらえるより容易だと。やはり、松蔵の処分は早いほうがいい」
「本当に隠密だった場合、やつを殺せば、そのことが江戸の幕府の耳にいずれは入る。隠密を切ったとなると、幕府は、さてはなにかやましい点があるのだなと思うのではないだろうか」
「では、山の中ででもひそかに殺そう。足をすべらせて谷に落ちて死んだ形にしておけばいい。隠密は事故死や病死をしないものだときまってはいない。やつが隠密だったら、死後かわりの者がやってくるだろう。よく見張っていれば、つぎに当藩に住みついた者が後任者となる。
それからは扱いやすくなるぞ」
「名案です。ただし、松蔵が本当に隠密だった場合だけですがね。また、つぎの隠密、もっとすごいやつが、もっと巧妙な手段で潜入してくるかもしれない。松蔵が隠密だったとしても、くわしいことを知られていないのなら、注意しながら、いまのままおいておくほうが得策とも
いえる。比較の問題です。それに、庭の手入れにすぐ困る。せめて、親方の遺児が松蔵から技術を学びつくすまで待てればいいのだが」
議論はきまらず、城代がしめくくった。
「もう少しはっきりするまで、判断を待ちたい。信用できる町奉行配下の者を何人か使い、ひそかに松蔵の動きを監視してくれ。隠密の疑いだなどと教えずにな。なんとかうまい理屈を考えて命じてくれ」
「やってみましょう。しかし、中奥での動きまでは監視できませんよ。中奥の庭仕事となると、庭師は老女の監督の下で入れるが、われわれは入れません」
松蔵の動きが調べられ、その報告がなされた。会議の席で町奉行が言う。
「これまでの中間報告というわけですが、松蔵にはあまり友人がいない。趣味といえば、ひまな時に魚釣りをする程度。庭作りとなると、お城とか家老屋敷の仕事が多い。そんなわけで、ほかの職人たちにつきあいにくいやつとの印象を与えているのでしょう。お城や家老屋敷に出
入りしていると、言葉づかいがていねいになってしまったりしてね。ほかの職人たちとつきあい、酔ってばかさわぎをしたり、ばくちをしたりすると、お城へのお出入りをさしとめになるかもしれないと、松蔵が気をつけているようでもある。というわけで、やつがどんな性質なの
か、だれもよく知らないのです」
「なるほど」
「友人が少ないという点、仕事大事と松蔵が考えての上だったら、やつは怪しくない。しかし、正体を知られたくないためにそうしているのだったら、怪しいといえる。ここは依然としてなぞなのです。やつがどんな性格かは、ご家老はじめ、お城の上役のご夫人がたのほうがくわ
しいようです。庭の手入れをしている松蔵と話をかわしておいでのはずだ。その方面から聞き出すことはできませんか」
「うむ、弱ったね。女たちから聞き出すとなると、うわさが変にひろがりやすい。夫人たちが下働きの女に、松蔵ってどんな人だねなどと聞いたら、たちまち話題になる。また、松蔵に警戒されることになる。こっちの武器は、やつにまだ怪しまれていない点にあるのだ」
防備担当の家老が言う。
「やはり、このさい切るほうが……」
「切るのがお好きですねえ。しかし、切るとですよ、松蔵が隠密だったということになる。すると、上役たちのご夫人がたが、その手先としてあやつられていた形になる。しこりが残りかねません。われわれの妻子が、気づかなかったとはいえ、利用されていたという点でね。でき
うれば、殺すのは、はっきりした上でが望ましい」
「ことは少しも進展していない。いったい、松蔵は字が読めるのか。読めるのだったら、隠密と断定してもいい。隠密は字が読めなくてはだめだろうし、ただの庭師なら、学問は不要だろう」
と城代が聞き、町奉行が答えた。
「それもわからないのです。ひらがなで自分の名ぐらいは読み書きできそうだが、それ以上どうかとなると、なんともいえない。松蔵がだまって立札に目をむけているとする。読んでいるのか、ながめているだけなのか、当人以外には知りようがない」
「それなら、ひとつわなをかけてみよう。やつがやってきた時、お城の庭に重要そうな書類を一枚、そっと落しておく。やつがどう反応するか、物かげから観察するのだ。拾いあげてしげしげと見たら、読んだときめていいだろう。やってみることにしよう」
「で、どんな書類を作りますか」
「そうだな。江戸の商人にあてての、借金の返済延期を求める手紙なんか、どうだ。勘定奉行の印を押した、もっともらしいのを作ってくれ」
その計画は実行に移された。松蔵のやってくるのを待ちかまえ、城の庭にその手紙をおき、物かげから見ている。しかし、その時、運が悪いというべきか、とつぜん風が吹いた。あれよあれよといううちに、手紙は高く舞いあがり、どこかへ飛んでいってしまった。手わけしてさ