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作者:日-星新一 当前章节:15393 字 更新时间:2026-6-16 01:47

がしたが、ついに見つからない。勘定奉行はため息をつく。

「とんでもないことになってしまった。あの手紙、川へでも落ちて沈んでくれればいいが、だれかに拾われたらどうなる。わが藩の恥さらしだ。商人に対して、返済延期を泣きついている文面なのですよ。あの手紙の内容は事実ではないと、城下に立札を出すわけにもいかず。それ

に、もし万一、あれが本物の隠密の手に渡ったら……」

「その場合なら借金の存在を暗示している文面だから、悪い結果にはならないと思うが」

「いや、そうはいきません。幕府は念のためにと、その商人に会ってたしかめるだろう。商人がその手紙を受け取り、それを証拠に金をかえせと請求してきたらどうなる。勘定奉行の印のあるものを、あれはうそだとも言えない。また、その商人が金など貸してないと答えたら、わ

が藩への疑惑は高まる一方。隠密どころか、幕府の役人が直接、取調べに乗りこんでくるかもしれない……」

 勘定奉行の想像は、悪いほうへとばかり発展する。城代家老がなぐさめる。

「もしそうなったら、貴殿だけの責任にはしない。わたしも城代家老として、いっしょに腹を切る」

「いっしょに切腹していただいても、しようがありませんよ。これが戦場においてとか、なにか悪事をしての死なら、まだ救いがある。しかし、計略のにせ手紙を作っただけのあげくでは、あまりにばかげている。ああ……」

 そのあと何日か、みなは書類の拾得者のあらわれるのを待った。しかし、それはなかった。字の読めない者には重要さがわからず、重要さのわかる者は、読んだなと怒られるのを恐れて捨ててしまったのかもしれない。勘定奉行は、手紙がどうなったのかの不安を忘れかね、いら

いらしはじめた。

 城代家老は言う。

「このあいだは失敗した。もう一回やろう。こんどは風に飛ばされないよう注意してだ」

 勘定奉行は首をふる。

「もう、わたしはごめんです。手紙ならべつな人に作らせてください」

「では、わたしが書こう。江戸屋敷においでの殿にあてた辞職願いだ。病気のため城代をやめたいといった文面。内容などどうでもいいのだ。問題は、やつが拾って読むかどうかだ。読んだらその場でひっとらえる。読まなければそれですむ」

 またも準備がなされた。松蔵が庭へやってくる。物かげから見られているとは知らないらしく、松蔵は手紙を拾いあげた。さあ、どうするだろうか。松蔵はそれで鼻をかみ、ぽいと投げ捨てた。家老や奉行たちは、顔をみあわせて相談する。

「どう判断したものか。読んだのであろうか、鼻をかむために拾いあげたのであろうか。どっちともとれる動作だった」

「拾いあげて鼻をかむまでの、あの短い時間。そのあいだに内容を理解したとなると、相当な学があることになる。でなかったら、まるで無学、字に無関心ということになる。ゆっくりなら読めるというのでないことだけはたしかだ」

「結局、わからんということだ。こんどは、もっとむずかしい内容の、こまかい字の手紙でやってみるか」

「いや、この作戦はもうやめたほうがいい。歩く道に、いつも手紙が落ちてるとなると、隠密だったら、すぐ変だと気づくだろう」

「だったら、変だと思うかどうか、その態度を観察するというのは……」

「見わけられないのではないかな。読まずに、切った枯枝や枯葉といっしょに燃やしたとする。これを怪しいときめられるかどうか、むずかしいぞ。手紙を上下さかさまにながめたとする。これを怪しいといえるかどうか。なにか、もっとべつな方向から手をつけるべきではなかろ

うか」

 城代が言うと、寺社奉行が発言した。

「そもそも、松蔵が栽培しかけている薬草とは、なんなのです。あれを調べてみたら」

「うむ、そうだ。これは大変な手ぬかりだった。あの薬草は、お城の医師の手をへて、殿の口に入る可能性のあるものだ。ゆっくりと作用する毒性のあるものだったら、一大事だ。殿が変死、不審な死だとのうわさが立つ。そして、お家騒動の件よろしからずと、お家おとりつぶし

にならぬとも限らぬ。これにひっかかったら、えらいことだぞ。家臣みな浪人となる。それとなく、医師に聞いてきてくれ。将来の藩の産業計画のために、どんな効用があるのか知りたいとか言って……」

 やがて、寺社奉行が薬草を持って戻ってきて報告。

「どうもあの医師、いい加減ですな。たよりないこと、おびただしい。気力をつける作用があるはずだが、薬草の本の図と少しちがう。さらに効果のある改良品種かもしれませんといった答えです。もっといい医師をやとうべきだ。そこで新しいのをやとうと、それが隠密……」

「その議論は、前にもやった。問題はその薬草だ。貴殿、つづけて飲んでみてくれぬか」

「ごめんこうむります。いかに寺社奉行でも、墓に入るのはまだ早い。また、効果があるにしても、わたしは若く、気力があります。薬のききめのためかどうか、見わけにくいでしょう」

「となると、この役は貴殿に……」

 城代に言われ、最も年長の外交と儀礼担当の家老は、断われなくなった。その薬草を毎日飲みつづけることになった。これもご奉公のひとつと自分に言いきかせ、それをつづける。しかし、変な味で、毒かもしれないと思うと、不安になる。その家老もいらいらしはじめた。いら

いらしてきたのが、薬草のせいなのか気のせいなのか、当人にも第三者にも見当がつかなかった。薬草を手がかりとする調査も、はっきりした結論は出なかった。

「なにか方法はないものか。やつの弱味をにぎって、おどしながら変化を見るとか……」

 と城代が言ったが、町奉行は首をかしげる。

「だめでしょう。それがないんですよ。これといったことをやっていない。江戸でやったかもしれない犯罪の証拠でもあればいいんですがね。いや、それがあれば隠密でないと判明するわけでしたね。弱りました」

「しかし、人間というものは、金と人情には弱いものだ。そこをねらって、おどすのと逆の戦法をこころみてみるか。松蔵のこれまでの功績をねぎらい、金をやる。まあ、一種の買収だ。隠密だったとしても、魚心あれば水心で、当藩のためにならぬ報告を、江戸には送らないでく

れるのではないだろうか」

「ご城代がご自身の判断でなさるのなら、反対はいたしません。わたしたちは、その反応をかげからのぞくことにします」

 金の包みが用意され、松蔵が呼ばれた。城代家老は庭の手入れのよさをほめ、優しくねぎらいの言葉をかけ、金を渡した。松蔵は、頭は何度も下げたがあまり口をきかず、金をもらって帰っていった。城代家老にも他の者にも買収の効果があったのかどうか、よくわからなかった

。もちろん、隠密かどうかも。そのうち、だれかが思いついたように言う。

「かなりのお金を渡してしまいました。買収に役立てばいいのですが、逆効果になったらことですよ。いやに景気がいいと思われてしまう。お城の金蔵には大金があるのかもしれぬとの印象を与えてしまう。そうなったら一大事。ご城代の責任となりましょう」

「うむ……」

 防備担当の家老が、また例のことを言う。

「こうなったからには、切る以外に……」

「いや、待て。松蔵があの金をどう使うか、ようすを見よう。なにかの手がかりになるかもしれぬ」

 それが調べられ、報告がもたらされる。

「あれから松蔵、お寺へ行ったそうです。城代家老から、身にあまるお言葉をいただき、お金をもらったと住職に話し、こんな大金を持っていると不安だから、あずかっておいてくれと……」

「平凡な行動で、また手がかりなしか。散財してくれれば、金めあての強盗をよそおって殺せたのだがな。住職に話して金をあずけたとなると、やつに金があるのを知っているのは、お城の関係者となってしまう。やつをへたに殺すと、住職がわれわれに疑いの目をむけかねない。

住職も道づれに殺さなければならないかな」

 と防備担当の家老が言うのを、寺社奉行が制した。

「やめてください。そんなことされたら、わたしが寺社奉行として責任をおわされる。第一、お寺の住職が殺されたら、領民たちは不安でさわぎはじめるでしょう」

 城代が顔をしかめながら言う。

「だいたい、やつが独身だからいかんのだ。ひとりだと身軽で、いつでも逃げられる。とらえどころがないのも、そのためだ。だれか松蔵に嫁を世話しろ。町奉行、下の者に命じて、それとなく持ちかけさせてみろ」

 その計画が実行された。城下の小さな商店の、平凡な娘が松蔵の嫁となった。その女は親方の遺児ともうまく気があったらしく、家庭は順調のようだった。その経過報告が町奉行からなされた。

「部下に命じ、松蔵の嫁にそれとなくさぐりを入れさせたのですが、要領をえません。亭主の正体についてなにも知らないのか、正体を知ったのだが、結婚によって愛情が高まり、口外しないのか、判断に苦しみます。女をしょっぴき、ひっぱたいて問いつめることはできます。し

かし、それをやると、松蔵は腹を立て、幕府にむけて、あることないこと、当藩についてあしざまに報告するかもしれない。隠密だった場合ですがね。また無実とわかって釈放してからでは、もう手おくれ。こんな藩にいられるかと、親方の遺児を連れて、消えてしまう。庭園はあ

れはて、とりかえしがつかないこと、以前にのべた通りです」

「こうと知ってたら、信用できる家臣の娘にいいふくめ、やつの正体を調べる任務を命じて嫁入らせればよかった。といって、いますぐ離婚させるわけにもいかず……」

「あの病死した植木屋の親方、本当に病死だったのだろうか。怪しまれず住みつくために、松蔵が殺したとの仮定も立つ。いまとなっては調べようもないが。しかし、松蔵は遺児の世話をよくこれまでつづけてきた。偽装のためか、良心の|呵責《かしゃく》のためか、これまた見

当がつかない。使命感にもとづく演技ということもありうるし」

 反省だの疑惑ばかり出てきて、問題は足ぶみをつづけている。しばらく考えていた防備担当の家老が、こんなことを言い出した。

「先日来、なにか別な解答があるのではと考えつづけだったが、ふと頭に浮んだことがある。松蔵は幕府の隠密ではないかもしれない」

「これは新説。なんだというのですか」

「かたき討ちということもあるぞ。松蔵の肉親が、この藩の家臣、あるいは殿という場合だってある、そのだれかに殺された。そのうらみをはらそうとして、目立たぬようこの藩に住みつき、それとなく機会をうかがっているのかもしれない」

「しかし、職人なんですよ」

「だから、なおさらやっかいだ。やつが武士なら、堂々と名乗って切りかかるだろう。しかし、その実力のない職人なのだ。卑怯だろうがなんだろうが、目的のためには手段を選ばない。どんな巧妙な方法を使うか、予測できませんぞ」

 人事担当の家老は、腕組みする。

「わたしの頭を痛める意見が出ましたな。松蔵を呼び、親のかたきを討つのなら手伝って本懐をとげさせてやるともいえない。家臣を見殺しにすることになる。松蔵だって言わないだろう。もし言ったら、藩が当人をひそかに逃がすだろうと思ってるにちがいない。だれがねらわれ

てるのやら、調べようがないから困る。わかれば手の打ちようもあるのだが。かたきとねらわれるような身に覚えのある者は申し出よ、との指示を出すか。だれも申し出ないでしょうな。周囲から変な目で見られ、昇進にもさしつかえる。ひそかに調べるよう心がけてはみるが、あ

まり期待しないでいただきたい。時間がかかる。やれやれ、やっかいな仕事をしょいこんだものだ」

 そうこうするうち、松蔵をめぐってひとつの事件が突発した。そのことについて、町奉行から報告がなされた。

「部下に命じ、ひきつづき松蔵の動きをそっと観察させていたのですが、昨日、こんなことがおこった。川ぞいの道を、松蔵が悲鳴をあげながら逃げまわっている。追いかけているのは、他藩の浪人らしき男。そこで部下は、思わず飛び出し、松蔵を助けて浪人を切り殺してしまっ

た」

「殺してしまったと……」

「それは仕方ありません。領民を守るのが藩の家臣の役目。また、部下には松蔵に隠密の疑いがあるとは言ってなかったのです。腕のいい庭師だから、他藩からさそいの手がのびるかもしれない。その防止のため、そっと見張れと言ってあった。松蔵がやられたほうがよかったのか

どうか。この問題となると議論はきりがありません。浪人を殺してしまったという事実があるだけです。いうまでもなく、その浪人の死体を調べてみましたが、身もとを示すものは、なにもなしです」

「いけどりにできればよかったのだがな」

「いまさら、しようがありませんよ。松蔵は大いに感謝しています。命を助けられたのだから当然のことですがね。しかし、なにごとだと聞いても、答えは要領をえません。川で釣りをしていたら、因縁をつけて切りかかってきたとのことです。話はそれだけです。松蔵の話が事実

なのかうそなのか、浪人が死んではたしかめようがない。あの浪人、凶暴性のある気ちがいだったのかどうかも……」

「その浪人、松蔵にうらみをいだいてやってきたのではないかな。松蔵のほうがねらわれる身だったとも考えられる。妻と不義をしたので、|成《せい》|敗《ばい》してやろうと、浪人に身をやつしてたずねまわっていたのかも……」

「ここのと同一人かどうかは不明だが、江戸から松蔵が失踪した。その原因がわからない限り、なんともいえない。命をねらわれるようなうらみを買っているとなると、本人も絶対に言わぬだろうし」

 外交と儀礼担当の家老が口を出す。

「薬草を飲みつづけて妙な気分なのだが、わたしの隠密についての知識によると、こうも想像できる。松蔵という隠密、使命をおびてここに住みついた。しかし、いごこちがよく、家庭もでき、任務をおろそかにした。そういう場合、江戸からべつな隠密がやってきて、処分するら

しいのだ」

「それは、ありうることだな。いつかの金と人情による買収工作が成功し、心がこっちに傾いたということになるな。今回は命を助けてやり、ますますいい結果になる。隠密だったとしても、わが藩のためになる人物だ。これからは扱いを変え、もっと大事にしなければなるまい」

「いやいや、必ずしもそうとは安心できぬ。隠密となると、裏の裏まで計画してとりかかるものかもしれない。この一件、松蔵への当藩の警戒心をゆるめさせるための、芝居だったとも考えられるぞ。あの浪人、わずかな金に目がくらみ、その犠牲にされたのかもしれない。身もと

不明だなんて、うまくできすぎている」

「ちょっと待ってくれ。さっき、わが藩に寝がえった隠密だから、大事にすべきだとの説が出たが、それはちがうぞ。幕府を裏切った隠密ということになる。その松蔵をわが藩が守ってやるとなると、幕府の心証がはなはだしく悪くなる」

「そうなると、早く松蔵を切ったほうがいいことになるな。しかし、あいつ、武芸がどれぐらいできるのだろう。だれかに切りかからせてみるか。だめだろうな。武芸の達人だったら、ためすために切りかかったのだと察して、平然としているだろう。本気で切りかかって、松蔵が

ただの庭師だったら、首が飛んで終り。危険な|賭《か》けであること、これまでくりかえした議論に戻る。また、武芸がまるでできない隠密だってあるだろうし……」

 城代家老が言う。

「いいかげんにしてくれ。きりがない。混乱するばかりで、わたしの頭もおかしくなりかけてきた。二日ほど休んで、冷静な気分になってから、あらためて相談しよう」

 つづいて、松蔵に関して、またひとつ報告が入った。旅の武士が道ばたで松蔵に話しかけ、しばらく話しあい、歩み去ったと。町奉行はそれを話し、城代の指示をあおいだ。

「どういたしましょう」

「なにを話しあったというのだ」

「松蔵のいうところによると、植木の手入れ法を聞かれたので教えたのだとのことですが、どこまで本当なのやら」

 防備担当の家老が言う。

「その武士を追いかけていって、切り殺すべきだと思う。幕府に報告がとどけられてしまっては手おくれになる」

「わが藩に好意的な報告という場合だってあるぞ。また、殺してしまっては、なぞは解決されずに残る。うむをいわさず殺して、あとで他藩の身分ある武士とわかったら、ことがこじれる」

「その武士をていねいに呼びとめ、いろいろ聞いたらどうであろうか」

 外交と儀礼担当の家老が言う。

「みどもは幕府の役人だと名乗られたら、それ以上どうしようもない。わたしの隠密についての知識によると、隠密どうしの連絡は、すべて口頭でなされるとのことだ。密書など持っていたら、言いのがれができないからな。だから、所持品を徹底的に調べても、なにも出てはこな

いだろう」

 町奉行があせった口調で言う。

「ぐずぐずしていると、その武士は関所を通って藩外に出てしまいますよ。手の届かないとこへ行ってしまうのですよ。どうします」

「うむ。どうしたものかな。よし、こうしよう。町奉行の配下で、最も信用できる者をひとり、すぐ旅に出せ。そして、その武士のあとをつけさせるのだ。どこへ行くかをつきとめれば、手がかりがえられるぞ。うん。これはわれながら名案だ」

 その指示により、それがなされた。しかし、何日かして帰ってきた尾行者は、途中で見失ってしまったと報告した。町奉行は会議の席でそれを話した。

「まことに残念なことです。旅の用意もそこそこに出発させたので、なにかと不便だったらしい。はかまがほころびたが、針と糸を持参してなかった。旅館でそのつくろいに手間どり、そのあいだに見失ってしまったとのことです」

「なるほど。わたしの知識によると、それは隠密宿というものかもしれない。隠密たちが連絡をとりあうのに使う宿だ。主人もなかまだ。だから、わざとはかまをほころびさせ、そのあいだに逃がしたとも考えられる」

 防備担当の家老が言う。

「本当に見失ったのかな。めんどうくさくなったので、切ってしまったのではないかな。あるいは、相手に気づかれ、てむかってきたので切り殺したのでは。切ったはいいが、死体を調べて、他藩のれっきとした武士とわかる。となると、藩に迷惑の及ぶのを防ぐため、その尾行者

、自己の責任で見失ったと言いはることになるぞ」

「たしかに、あの部下はお家を思う念が強いからな。ありえないとはいえぬ」

 迷いはじめる町奉行に、寺社奉行が言う。

「いや、その武士にうまく言いくるめられ、買収されたとも考えられますよ。まじめな人物ほど、だまされやすい。そのすきにつけこまれ買収されたとなると、帰って事実を報告しにくい。見失ったとでも言うほか……」

「なにを言うのです。わたしの部下はそんな性格ではない」

 城代が言う。

「貴殿の責任で断言できるか」

「ええと、そうなると……」

「断言してもらったところで、見失ってしまってはどうにもならない。ああ、またもなぞのままだ。判定を下そうにも、そのもととなる材料が、いまに至るもなにもないのだ」

「そこに隠密側の作戦があるのかもしれません。松蔵は一味のおとり。あいつに皆の注意が集中するようしむけておき、そのすきに、隠密仲間がもっと大きな仕事を進行させているのかもしれない。松蔵はただ目立つように、意味ありげに泳ぎ回っているだけです。現実にはなにも

しなくていい。だから、われわれがいかに調べようとしても、なにも出てこないのです。こういう考え方はどうでしょう」

「ううむ。ありえないこととはいえないな。専門の隠密ともなれば、それぐらいの作戦はたてるかもしれない。しかし、そのすきに、どのような大仕事をたくらんでいるというのだ」

「そこまでは見当もつきません。わたしはただ可能性をのべたまでで」

「いいかげんにしてくれ。不安だけが高まり、ますます泥沼にはまりこんでゆく……」

 城代家老は悲鳴をあげた。

 そのつぎの会議の時、人事担当の家老がこんなことを言いはじめた。

「いままでだれも発言しなかった、あることを思いついた。松蔵は隠密は隠密でも、幕府のそれではないのかもしれない」

「またも新説が出ましたな。で、どこからの隠密だというのです」

「ちょっと言いにくいことですが……」

「気をもたせないでくださいよ。重大問題なのですから」

「つまりです、われらの殿に直属している隠密。殿は参勤交代によって、一年おきの江戸ぐらし。留守中の藩政のことが気にもなりましょう。おざなりの報告文書によらない、その実態を知りたくもなりましょう。留守中、目のとどかないのをいいことに、家臣たちがいいかげんな

ことをやるかもしれない。その監視役を作りたくもなる。幕府の隠密の私的な小型版です。そのため、庭師を江戸でやとい、ここへ送りこんだのでは。松蔵が江戸を出てここに住みついたのには、なにか理由がなくてはならない」

「ううむ」

「殿だって、藩に金の余裕があるのかどうか、お知りになりたいでしょう。だいたい、今回のさわぎのもとは、幕府の役人に景気がいいそうでと声をかけられたという、殿の話です。本当にそう声をかけられたのかどうか、たしかめようがない。殿がご自分でその話を作り出し、わ

れわれにかまをかけたのかもしれません。これまでの松蔵の報告をもとにです」

 みなはうなずく。あれこれ考えすぎると、かえって思考力が失われ、そうかもしれないと考えはじめると、なんだかそれが事実のように思えてくるのだ。

「なるほど、なるほど。ありうることだな。殿がお城の庭を、しきりにほめておいでになる。いまにして思うと、松蔵をお城に自由に出入りさせよ、勝手に処分するな、との意味を含めた殿のお言葉だったともとれる」

 だれかが防備担当の家老に言う。

「貴殿は、松蔵を切れ切れと、さかんに主張なさった。切っていたらえらいことでしたぞ。殿の帰国の時、どう説明するつもりでしたか」

「いまさら、そうおっしゃるな。わたしの発言、殿にはぜひ内密にしておいていただきたい。おのおのがただって、松蔵に疑念をおっかぶせたではないか。わたしと大差ないことですぞ」

 だれかが思いついたように言う。

「そういえば、松蔵と話した武士を追っていって、途中で見失ったと戻ってきたのがあったな。見失ったのでなく、つかまえて問いつめ、そのことを打ちあけられたのかもしれない。追っていった者、たしか江戸屋敷づとめの経験者だったはずだ。そういう事情となると、のみこみ

が早いのではないかな。先日は買収されたのかもしれないとの意見が出たが、その逆、殿によろしくと買収をおこなったとも考えられるぞ。自分の昇進をよろしくお伝え下さいとね」

 町奉行が言う。

「あいつが昇進するとなると、町奉行になる。わたしはどうなるのだ」

「隠居を命じられるか、家老への昇格か、どっちかしかない。貴殿の才能がどう評価されるかの点にかかっている。もっとも、昇格となると、家老に空席がなくてはならない」

 最も年長の外交と儀礼担当の家老が言う。

「わたしはまだまだご奉公できるぞ。しかし、あの薬草、こうなると飲みつづけたほうがいいようだな。松蔵が殿の隠密となると、毒であるわけがない。なんだか気力がでてきた。そうだ、松蔵は城代家老の辞職願の手紙を読んでいるぞ。そのことが殿のお耳に入れば、空席がそこ

にできる」

 そのうち、寺社奉行が口を出す。

「しかしですなあ、殿はご立派なかただ。隠密を使って監視するとは、家臣を信用なさっていないことになる。そんなことを、なさるとは思えない。わたしは、江戸においでの、正室とのあいだにできた世つぎである若君のつかわした隠密ではないかと思う。若君は、正式に相続な

さるまで、藩には来られないのが幕府のきまり。しかし、やがては自分が領主となるのだから、その藩の実情について、とらわれない知識を持っておきたいとお考えになるのは当然だ。将来の藩政改革のための材料を集めておいでになるのかもしれない」

「そうでなければ、やはり江戸にお住まいの、家督をいまの殿にゆずられて隠居なさっておいでの、先代の殿の隠密かもしれない。隠居したとはいっても、やはり藩のことは気になる。いまの殿に対して、こんなことでどうすると意見のひとつもなさりたいだろう。それには材料が

いる。先代の殿はなかなかの名君でしたからな」

 話題が幕府という|漠《ばく》|然《ぜん》たるものから、身近で現実的なものへと移ったため、会議は活気をおびてきた。

 つぎの会議の時、町奉行が防備担当の家老に言った。

「松蔵の監督は依然つづけているのですぞ。部下の報告によると、貴殿は松蔵に庭の手入れをやらせ、大金を払い、なにごとか長い時間にわたって話しこんだとか。これはよろしくない。自分の忠実さを殿か若君に伝えてくれるよう、買収しようとなさったのでしょう」

「いや、決してそんなことはない。松蔵の正体は本当のところなんなのか、それを自分なりに調べようとしたまでのこと。買収だなんて、そんな卑劣なことはいたさぬ」

「しかし、貴殿はさかんに松蔵を切れと主張なさっていた。その穴埋めをしておきたくもなるのではなかろうかな。いちおう、いまのお言葉を信じておきましょう。で、ご自分で調べてみて、なにか判明しましたか」

「それがその、なにもわからぬ」

 疑心暗鬼の空気がしだいに濃くなる。会議が開かれるたびに、それは一段とひどくなる。

「松蔵は、殿や若君のではなく、江戸家老のひとりがよこした隠密かもしれない。やがては城代家老となり、藩の実権をにぎろうと考え、いまの家老たちを失脚させる材料を集めさせているとも考えられる。ことのおこりは江戸からの手紙、殿の話ということにして江戸家老が作り

あげたものかもしれない。とすると、また対策もちがってくる。われわれは力をあわせ、そのたくらみに当らなければならない。内輪で争いはじめたら、それこそ思うつぼです」

「そうとわかれば、力をあわせましょう。しかし、そうだと判明したわけではないのですぞ。ことはもっと複雑かもしれない。ここの中奥においでのご側室と殿とのあいだのご子息も、いま江戸屋敷においでだ。ここのご側室は、殿のお気に入りだ。ご側室の父は、江戸屋敷で殿の

おそばにつかえている。なにか想像したくなりませんか。ご側室、その父、ご側室のご子息、これらが組んで殿をたきつけると、なにがおこるか。ご正室とのあいだの若君をさしおいて、こちらを正式の世つぎになおしかねない。松蔵はその連絡係、中奥に入れる立場にある点が、

どうも気になります」

 外交と儀礼担当の家老が言う。

「お家騒動だな。となると、あの薬草、じゃま者を殺すための毒の作用を持つものとも考えられる。なんだか急に胸がむかついてきた」

「いずれにせよ、これは大陰謀。殿の判断ひとつできまる賭けです。隠居なさっている先代まで抱きこみ、もしこれが成功したら、松蔵にとりいってた者は、はぶりがよくなるでしょう。しかし、失敗に終ったら、反対に反逆者の一味となって、重く罰せられる。えらい分れ道に立

たされてしまった。ご城代はどうなさるおつもりです」

「ううむ……」

 と城代家老はうなるだけ。こうこみいってくると、思考がまるで働かないのだ。そのうち、だれかが城代にこう言う。

「こんなことを申していいのかどうかわかりませんが、ご城代は最初からなにひとつ決定を下さない。ただ、みなの発言を聞いているだけ。慎重を期しているともとれるが、そうでないともとれる」

「なにを言いたいのだ」

「じつは、これらすべて、ご城代のしくんだ芝居ではないのですか。みながどう反応を示すか、それをためすための芝居。ことのおこりは、ご城代ですよ。江戸からの手紙ということで、大さわぎに火がついた。あの手紙、ご城代がお作りになったものではありませんか。そんな気

がしてきた。そうならそうと、いいかげんで幕にしてくださいませんか」

「いや、決して、そんなことはない」

「しかし、松蔵に金をやったり、嫁を世話したりしている。そうでないのでしたら、われわれをなっとくさせる証拠でもお見せください」

「そんなもの、あるわけがない。わたしは本当に、どうしたものかきめかねているだけなのだ」

 会議は開かれるが、しだいにみなしゃべらなくなっていった。相談をつづけてきたが、結論はなにひとつ出ていない。また、へたな発言をしたら、そのむくいがあとでどんな形でわが身にはねかえってくるのか、見当もつかない。こうなると、自分の判断で最悪の事態にそなえな

ければならない。

 城内の各所でささやきがかわされたり、自宅で会合が開かれたりする。仲間や子分を少しでもふやしておこうというのだ。大きな集団となっていれば、どっちへころんでも無事だろう。江戸屋敷へおくり物をとどける者もあらわれる。いろいろな派ができ、それぞれのおもわくで

将来に賭けている形だ。二重に賭けたり、三重に賭けたり、裏でひそかに手をにぎりあったり、手をにぎるとみせかけて、いざという場合に他を没落させようとたくらんだり……。

 藩政の事務どころではない。会議ではなにもきまらない。城内はがたがた。疑惑とその対策のためだけにだれもが立ち回っている。

 城下のようすもどことなくおかしくなり、通過する旅人はふしぎがる。その旅人のなかには幕府の隠密もおり、不審な動きを感じ、帰って報告する。べつな隠密がやってきてみると、たしかにその通り。苦心してさぐらなくても、数日いれば城内の四分五裂はすぐわかる。

 それが確認され、幕府は正式に命令を出し、それが藩にもたらされた。

「幕府への反逆の動きがあるとは思えないが、内部の不一致、藩政をおろそかにしている点はあきらかである。お国替えを命じる」

 もっと別な地方の、|石《こく》|高《だか》の少ないところへ移れという一種の格下げ。この命令は絶対で、さからえない。家臣たちは家族ともども、全員ひっこすことになる。

 大変な費用。移ってしばらくのあいだも、なんだかんだと出費がかさむ。城のなかにたくわえてあった万一の場合への準備金は、そのために使われ、なくなってしまった。

 かわりに新しい藩主とその家臣たちが移ってくる。庭師の松蔵はつぶやく。

「みな交代してしまった。しかし、おれは武士でないから行かなくていい。ついてゆく義理もない。ここは住みよいところだし、いい気候で、のんきでいい」

  薬草の栽培法

 あかるい燭の灯が並んでいる。金色の上に派手な色彩で絵を描いた|屏風《びょうぶ》。にぎやかな音曲。かずかずの料理。酒。そして、いいにおいを発散させている、着かざった遊女たち。三十歳の六左衛門は、なまめかしい夢のなかにいるような気分だった。

 |闇《やみ》の夜も吉原ばかり月夜かな

 どこもはなやかさで満ちている。このようなところへ来たのは、はじめてだった。ついさっきまで、こういった世界があるとは知らなかった。

 六左衛門は、江戸からかなりはなれた海ぞいの地方にある、五万石ちょっとの藩の家臣。おだやかな気候の土地だった。藩内の状態もまた、おだやかだった。彼は百二十石。約三百名の家臣のなかでは、中級の上といったところの家格だった。

 藩内が無事におさまっているのは、ここの城代家老の人柄のせいだった。家柄によって若くしてその職をつぎ、今日におよんでいる。学問や武芸に長じているが、それをひけらかすような性格でなく、人徳があった。もっとも、これはどの藩でも同じことだろう。家老は家老なの

だ。それ以上になれるわけでなく、それ以下に落されることもない。あせることなく、その職務をつくせばいいのだ。安定した地位はそれにふさわしい人柄を作り上げる。

 領主である殿さまも、名君とはいえないまでも、とくにおろかでもなく、まあまあの人物だった。|譜《ふ》|代《だい》の家柄でないため、幕府の要職にはつけない。たまに儀礼的な役をふりむけられるぐらい。参勤交代の制度で、国もとの城に住んだり、江戸屋敷に住んだり

をくりかえしている。

 お家騒動のきざしなどなかった。めったにあることでなく、万一そのたぐいが発生したら、どんなばかげた結果になるか、それはだれもがよく承知している。泰平の世には、目に立つような無茶をしないのが第一。家臣たちはお家大事とつとめている。

 六左衛門の少年時代も、そんななかで平凡なものだった。ほかの家臣の少年たちと同様に、文武の道をひと通りおさめ、それに加えて、彼はそろばんを習った。父が勘定方づとめであり、やがてはその職をつぐという必要上からだった。

 よく遊びもした。といって、たいした娯楽があるわけでもない。野や山をかけまわり、川で魚を釣り、夏には海で泳いだりした。おだやかな風土のなかで成長した。

 しかし、六左衛門には、ひとつだけ平凡でない点があった。非凡という意味でなく、ひけ目を感じなければならない肉体的な特徴のことだ。幼少の時に、ほうそうにかかった。生命は助かったというものの、顔にあばたのあとが残った。

 顔つきなど、武士にとってどうでもいいことだ。そう思いこむようつとめたが、思春期ともなると、やはり心のなかの大きな悩みとなった。城下の町を歩いていて女とすれちがう時、女たちの視線は彼を無視した。くやしさで歯ぎしりしたくなる。

 同類が多ければ、いくらか救いになったかもしれない。しかし、あばたの顔はあまりいなかった。彼の感染した時のほうそうは悪質で、発病した者の大部分が死んでしまったという。

 そのため、命をとりとめただけでも幸運だと言われるのだが、六左衛門には幸運の実感など、まるでなかった。どう考えても不幸だ。あばたのあとの残る自分の顔を、どうしようもなく持てあましている。

 やがて父が死に、六左衛門は勘定方の職をついだ。産業や会計をあつかう役だ。

 毎日お城へ出勤し、仕事にはげんだ。どうせ女性にはもてないのだ。彼は自己の存在価値をここで示そうと、それだけ職務に熱を入れるのだった。だから、しだいに周囲からみとめられてきた。

 領内の耕地をひろげる計画や、特産品の増産など、調べたり、くふうしたり、いちおうの成績をあげることができた。そして、自分なりの満足をあじわう。

 そのような六左衛門に、藩の財政関係を担当する家老が目をつけた。ある日、彼を呼び寄せて言った。

「よく働いてくれるな。かげひなたのない仕事ぶりだ。感心している」

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