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東 峰夫オキナワの少年
目 次
オキナワの少年
島でのさようなら
ちゅらかあぎ[#改ページ]
オキナワの少年 1
ぼくが寝ているとね、「つね、つねよし、起《う》きれ、起《う》きらんな!」 と、おっかあがゆすりおこすんだよ。「ううん……何《ぬ》やがよ……」
目をもみながら、毛布から首をだしておっかあを見あげると、「あのよ……」 そういっておっかあはニッと笑っとる顔をちかづけて、賺《すか》すかのごとくにいうんだ。「あのよ、ミチコー達《たあ》が兵隊《ひいたい》つかめえたしがよ、ベッドが足らん困《くま》っておるもん、つねよしがベッドいっとき貸らちょかんな? な? ほんの十五分ぐらいやことよ」 ええっ? と、ぼくはおどろかされたけれど、すぐに嫌な気持が胸に走って声をあげてしまった。
「べろやあ!」 うちでアメリカ兵相手の飲屋をはじめたがために、ベッドを貸さなければならないこともあるとは……思いもよらないことだったんだ。 ミチコーとヨーコは、前の、カウンターのとなりの四畳半を寝室にとっている。部屋いっぱいにダブルベッドをおいて、客とねる時もかわりばんこにそのベッドを使っていたんだ。けれども、ふたり同時に客がつくと、おっかあは困ってしまってぼくの部屋にくることになる。しょっちゅうというわけではなかったけれど、そのたびにぼくはゆすり動かされて、ああ、そのことあるを思ってかくごしておくべきだったんだ。「……並んで商売せえ済むるもんにゃあ」 ぼくはおきあがりながらいってみた。「まさか! さあ、早《へえ》くせえよ。儲《もう》けらるる時に儲けとかんとならんさに?」
おっかあは糊のきいたシーツカバーをパリパリひろげながら、ぼくをいそがせた。「こん如《ごと》うる商売は、ほんとに好《す》かんさあ」「好《す》かんといっちん仕方あんな。もの喰《く》う業《わざ》のためやろもん、さあはい!」「いかにもの喰う業のためやってん、好《す》かんものは好《す》かん!」 泣きたくもなってくるさ。にんげん喰わんがためには、どんなことでもせんならん場合であろうか。ぼくは机の上のかばんや帽子をベッドの下におしかくした。「ごめんなあ!」 ミチコーが兵隊の手をひっぱって、腰にくっつけながら、目だけで笑ってこっちをみていた。
2
(ヒヤヒヤヒヤ! 我《わ》あがベッドで犬の如し、あんちきしょうらがつるんで居《お》んど!) ぼくは心でそう叫びながら、外に飛びだしていったんだ。家にいると、うめき声やギシギシベッドのきしむ音が聞えてくるから、逃げよう! コザ小学校へくだっていく坂を走っていると、「わあっ、ひと驚かしてえ! つねよしね、この夜中からどこいくの?」 山里さんの門口からでてきたチーコ姉《ねえ》の乳に額をうちつけた。「マラソンしに!」「髪頭《かんとう》バアバアしているから、驚いたさあ、明日はかならず散髪《さんぱち》にいきよ」 スカートをなおしながら、まるで本当の姉さんであるかのように、ぼくを叱っていうんだ。
「………」 ぼくは、余計なお節介だよ、と思ったから何もこたえずにまた走りとばした。が、すぐ走るのをやめてチーコ姉がのぼっていった坂の方をふりかえった。親身にいわれたことが、ちょっと有難くもあったんだろう。 ネオンの光でほのあかるんだ空が、坂道の上いっぱいに見えて、チーコ姉のスカートが落下傘のようにひろがっていたよ。すずめのチョンチョン足に似ている細い足が、スカートから出ていた。
「あれっ?」 道の片側にたっていた兵隊が、ついっとチーコ姉によると、チーコ姉はその腕にぶらさがって、そのまま角をまがって見えなくなった。
3
コザ小学校は、小さな谷間に息苦しくはさまっている小さな学校だよ。そして庭といった方がいいくらいの小さな運動場がついている。あたりを囲んだ山は、すすきがバッサリ茂って、てっぺんには露出した石灰岩がチクチク夜空をさしていた。ハブが暮らしやすい山だ。谷間にはまっくらの闇がおりていて、こども達が踏固めた二百メートル?トラックの白い線もよく見えなかった。
ハアハアする息をもとにもどすために、朝礼台の上にゴロッと寝ると、井戸の底から空をみているような感じだ。空には星ばかりがひかっていて、すがすがしい風がすぐに汗をとってくれた。
4
部屋に帰ってくると、女の匂いがプンプンして、ぼくは息がつまってきた。「おっかあ! 腕時計が無《ね》んなっとんでえ!」 その時計はチーコ姉がくれたもので、文字盤にはポパイの絵がかいてあったんだよ。「ええっ? 持っち行かんたんな?」「ううん、壁の釘にかけたまんま、置《お》ちあったんよ」「あんすりゃ、床《ゆか》にゃ落《おて》てや無《ね》んな?」
おっかあは前かけで手をふきながらやってきた。床には洗浄の時の水がたれているきりだ。おっかあの前かけから米粒がふたつぶみつぶころげ落ちた。「だあ? 落《おて》てや無《ね》んせえ! あんやこと好かんといったえさに?!」
口のはたに白い汁がついているから、おっかあはまた生米をたべているんだろう。虫がわくるもん生米たべてはならんど、といいながら自分はちょいちょい食べるんだ。「あーあ、好かん好かんとばっかりいっち、この童《わらば》あは! 親がこん如《ごと》し苦労すしん諸々子達《もろもろこた》あのためやあらんな?」
いつもそういうんだ。親が苦労、親が苦労! そればっかり聞かされていると、もう親の厄介になるのはやめて、家をけりとばして出ていきたくなる。「あーあ、我《わん》も働き欲《ぼ》さぬならんさあ、学校んやめて……」「いいっさ! 学校やめて働けえ! 教育も無《ね》ん者は、糞肥桶《くそごえおけ》かついで畑作《はるさ》をするほか無《ね》えんさっ!」
5
ぼくは夢をみていたんだよ。台風の……。戸のあいだから外をのぞくと、吹き暴れる風が隣りの山羊小屋のかや屋根をむしっていた。小屋の中では山羊がうちこむ雨をかぶって、メエメエ鳴いていた。首もきらんばかりに綱をひっぱって、戸口に向かってあがいていたんだよ。「つね、風が暴れこむるもん、早《へえ》く閉めれ!」 と、おっかあがいったけれど、ぼくはバンバンうたれている山羊から目がはなせないでいた。
(山羊に草やらんとならんがなあ、山羊が餌欲《やほ》さぬ餌欲さぬって鳴いてるがなあ) 小便を我慢してる時みたいに、ぼくはジリジリしていたんだ。
(はあもう! 早く草刈りにいかんとならんがあ!) そう阿鼻《あび》しているうちに、胆がホトホトしてきて、ヒイーッヒイーッヒイーッ。泣かされてしまっていた。胆がいたくて、うめいて、苦しさのあまりに目をさますと、ぼくはベッドに寝ている。ほっとした。目尻がジクジクしているのが自分でもおかしかった。
6
山羊を飼っていたのは、一年以上も前のことだ。いなかの……美里という村で……四頭も束《つか》なっていたんだよ。 実際には風が暴れる日に、山羊の草刈りにいったことはない。それよりも先に、風をだしぬいて山のように刈ってきて、余分に投げあたえておくのだった。 風が暴れる日には、山羊はおとなしくうずくまって、ググーッとたべものをだしてはもくもく|
※[#「歯+台」]《にれか》んでいた。それなのに何の故にあんな夢をみたんだろう。ほっとするより以上に、こんどはさびしくなってきた。
山羊は二頭が外国の山羊だったよ。なんとか援助物資で送られてきた山羊だといっていた。栗色の毛並の……大きな茶色の目、たちあがると腹の下に乳房がみえて、島内産の白い山羊はそのかげに隠れてしまう。角がグルッとまがって、その先が耳のつけ根にささり、そこだけ皮がむけてしまうのだった。だもんだから、ある日おとうが金切鋸でギコギコ角をきったよ。欲ばって短くしすぎたので中の肉芽を傷めて、血がにじんできた。山羊はいやがった。山羊の首を抱いておさえていたぼくも、痛ましくて目をつぶっていた。するとおとうは、もう一度、今度は先の方をきった。
それからしばらくして、子山羊がうまれたんだ。栗色の……可愛らしい子山羊だったよ。幼いものはぜんぶ可愛いけれど……。それがある日草を刈って持っていくと、そばの畑の肥溜めに落ちて死んでいたんだ。親山羊は乳をポタポタたらしてばかりいた。そしてもう子をうまなかった。
おじいが死んで、うちは町へ引越すことになったんだ。家を売った。山羊も村の誰かに売った。子をうまなくなったあの山羊は、すぐ殺されてくわれたのではないだろうか。どっちにしても、今のぼくとは何の関係もない。もう町へ引越してきてるんだもの、あの山羊のことで心配することがあるもんか。
(さあ、もう眠ろう。朝は五時に起きなければならないんだから) ぼくは新聞配達のアルバイトをしているんだよ、この前から……。家計を助けるために……。緊張しているんだ。そうだ、緊張のあまりにあんな夢をみたのかも知れないね。
7
いなかの炊煙でまっくろになった蝿帳やたんすや、垢よごれた布団蚊帳をトラックにつんで、明ら昼の軍用道路を走って、町へ移動してきた時には、ぼくは気恥かしくてならなかったなあ。なきわらいの時のようなおかしさと悲しさがあったよ。飛行機の発着もできるように作った、と皮肉られた軍用道路をアメリカ女が運転する乗用車が走っていたし、島の人たちをつめこんだバスも通っていた。
道路の両側には、横文字の看板が並んで、スーベニヤ?ショップだとか、レストランだとか、テーラー?ショップだとか、ホテルだとか……道路には音楽が流されて、兵隊たちが歩きながら手舞い足舞いしていたよ。 そんな町の中にあたらしい家はあったんだ。窓から空をあおぐと、映画館の屋根のスピーカーが見えて、アメリカの歌が町中にひびいていたよ。昼間から洗面器を持って風呂屋へいく姉さんたちが歩いていた。
それから、おとうはいろいろ商売をはじめたんだ。
「町に出《いで》て来《き》ちょるもん、ひと儲《もう》けせにゃなゆめ?」というわけなんだろう。 こんにゃく製造、雑貨商店、どれもだめだった。そして、今度の風俗営業だ。そのことについては、ゲート通りでバーを経営している山ノ内叔父さんによく教えられたと思うんだ。「乳摩訶《ちいちまが》の女子《おなご》、蜂鎌首《はちがまく》のおなごから選んで三、四名は集めらんとならん筈や」「うちのスージー如《ごと》うる色白うの、尻曲《ちびまが》り屋が見つかれば儲けたるもんやがな」
この山ノ内叔父さんは、たんすを銭箱がわりにしているという噂であった。おとうは山ノ内叔父さんのあとについて、よく出かけていった。大工を頼みにいったり、女をさがしにいったり、役場に営業許可の札をもらいにいったりしたのだろう。
ある日、学校から帰ってくると女たちがきて、もう店の方で何かして笑っていたよ。おとうは、めしを口いっぱいにくくみながら、おっかあに話していた。「どこのバーでも……よく売れるおなごにゃ……銭をどんどん貸らしち、借金で縛りつけておるもんやあ……売れらんおなごは借金もできらん……あっちのバーこっちのバーと……転々しよる」 女が借金で縛られて身動きできないでいるなんて、それは奴隷とおんなじじゃないか。借金をいれて女をつれてくるというのは、人身売買じゃないか。ひとの不幸を話しながら、どうしてうまそうにめしがくえるのだろう。ぼくはゴクッゴクッと動くおとうの喉仏をみつめながらふかく考えていたんだ。
8
「つね、つねよしよ、起《う》きてとらせえ!」 そういってたたきおこされるのが、この頃のぼくの生活なんだよ。「あ、またかあ……ちきしょう。べろやあ、やな香気《かざ》し……いつまでん、プーンとやな香気《かざ》しならんもん!」 と、うめいていると、「つね! 新聞配達に遅《うく》れゆんど!」
あ、もう朝なのだ。ぼくはバネじかけで起きた。起床ラッパではねおきる大和魂の兵隊の如《ごと》く元気よくおきりよ、とおとうにいわれてるから。そのおとうは、早おきて、きのうの新聞を口に泡ためて読んでいる。アジ演説するみたいに……興奮して。字の読めないおっかあに自慢しているんだろう。おっかあはコンロの前にうずくまって、湯気のたっている鍋にねむけトロトロ、味噌をといていた。
朝の町は誰も歩いていないから、顔は洗わなくてもいいだろう。すぐにサンダルをつっかけた。「集金帳を持っちいかんな?」「朝から新聞代集めて歩《あ》っけや、悪口《あつく》さらんかや?」「あんしても、夕暮《ゆうくわ》から集金しに行《い》けや、バーなんか縁起|悪《わ》っさやといっち呪《のら》わんな? 持っち行けえ」
先月から集金してない分が、まだのこっている。とても代金のとりにくいところばかりで、それをひき受けることで、友達から配達の仕事を継がせてもらったんだ。
9
朝露でぬれて、ひえびえした風がよどんでいる通りに走りでたら、いろあざやかなハンカチが落ちていたんだよ。なにもひろうつもりではなかったけれど、ちょっと足でひっかけてみると、あれっ、それはパンティーだったんだ。かわいた路面がその下にくっきりのこっていた。 波照間《はてるま》島からきたおじさんは、いつものように歯ブラシをくわえて店の前をはいている。「おじさん、おはようございます!」「おわよう!」
文房具や雑誌、本などで狭い土間に、とびこんで、部数をかぞえて奥の上り框《がまち》に揃えてくれてある新聞を脇にかかえた。「おじさん、けいぞうくんはもういった?」「けいぞうくんはもういった! あ、つねよしくん、吉田のにいさんは仕事いきがけに新聞持ってったからね!」「うん!」「新聞代もおいていったからね!」「うん!」
10
「あの、新聞代お願いします」「え? あ、新聞は毎日いれとるんか、まったく見たことないけど……」「はい。おもての戸のすきまからいれてます」「え? おもてのお? あれえーあそこはたんすが置いてあるから、いれてもわからんよ」
バーテンをしているような感じの男のひとは、こうすいの臭いのする部屋にひっこむと、黄色くなった新聞をひとつかみしてきた。「じっさいもう、毎日たんすのうしろにいれてたんか!」「すみません、たんすがおいてあるとは知らなかったんです」「こんどから、台所の方へいれてくれよ」「はい……あの……」「なんだ?」「新聞代を……」「このつぎだ!」
ぼくは逃げながら舌をだして、その家をふり向いた。下水溝のように汚なくなった小川の石橋をわたろうとしたら、足のふみ場もないくらいにガラスの破片が散乱している。誰か酔っぱらいが力まかせに酒瓶をたたきつけたのだろう。朝日にキラキラしてなかったらふむところであった。
11
「あ、けいぞうくーん!」 ぼくはなつかしさにたまらなくなって、子犬のような気持でかけよっていった。「……やあ……」
どうしたというのだろう。級長の政一と話しこんでいる恵三は、ぼくの方にちょっとふりむいてくれたきりだ。ぼくは気持がへんになった。「今朝は、配達におくれたろ?」 それでも、しばらくしてそういってくれたので、ぼくは、「うん、ねぼうしたから! ハハハ」
諂《へつら》って、とてもおくれたかのようにいって頭をかいた。「あ、匂うぞ、匂うぞ」「えっ? なにが?」「知ってるだろ、セイエキの匂いがするんだよ」 政一は笑っていた。道には粉のような花がおちている。見あげると白い花をさかせた木が、道の上に枝をのばしていた。恵三はとびあがって葉をちぎると、それをかんでしかめっ面をした。ぼくもとびあがって葉をむしりとり、かんでみた。青芽のような苦い匂いがした。
「セイエキのにおいがするだろ?」「セイエキって?」「おい、知らないのかよ、遅いな。よし、それじゃ、きょう波照間の店にいったら、辞典でセイという字をぜんぶ調べてみろよ。おもしろいから……このセイだよ」 恵三は掌にその字を書いた。「けいぞうくんは、すけべえ!」「なにいってるんだ。じゃ、きみはすけべえじゃないのか。ちょっとぼくを指さしてみろよ、ほら、人さし指以外の指はどこをさしているんだ? きみ自身じゃないか。ひとにすけべえといわば、きみはその三倍さ!」
何の気なしにいった言葉なのに、そんなに強く反撃されるとぼくは泣きたくなる。絵を通じてあんなに親しくしていた恵三は、この頃政一と数学に没頭しているんだ。ぼくはつまらないので、学校につくと便所に入って、授業の鐘がなるまでかがまっていた。カンカンカン。月曜日であったのか朝礼の鐘がなって、校庭に走る生徒たちの息がきこえた。
12
ホームルームの時間がおわると、安里先生は男生徒の席のところにはいってきた。「たけしくん、休み時間にちょっと職員室まできてくれない? 聞きたいことがあるから、あ、つねよしくんもいっしょにきてね」 何の用事があるんだろう。先生によばれたことは中学生になって初めてのことなので、ぼくは晴れがましかった。
職員室にいって先生のうしろにたつと、先生はすぐに気づいて、「ちょっと……」 そういって先になって、校舎のうらのガジマルの下に歩いていった。先生はぼくの肩に手をおいて、武からひきはなした。「……あのね……」 相
談するかのように、ぼくの顔をうかがっている。「……今朝ね、副会計のなつこさんのカバンからおかね盗《と》ったひとがいるのよ。つねよしくんこころあたりない? あなた朝礼にでなかったでしょう? 遅れてきたの?」「いえ、ぼく、けいぞうくんたちといっしょにきて、それから、トイレにはいっているうちに朝礼になって、そのままずっとはいっていたんです」「……そう……」
隣りの組の女生徒たちが駈けてきて、象の鼻のようにたれさがったガジマルの枝にとびついた。象の鼻は生徒たちの手でみがかれて、スベスベになっている。「ゴリラ!」
ひとりの女生徒は、畑をへだてた向うの金網を指さして勇敢に叫んだ。そこにはアメリカ軍の無線塔があって、黒人兵のガードが金網に両手をかけてたっていたんだ。女生徒たちを見ていたガードはフッと片口《かたくち》笑いをした。
「……あのね、朝礼の時間になつこさんの席に髪をのばした男生徒が、うつぶせに顔かくして、ねているのを見たというひとがいるのよ」「えっ? じゃぼくもうたがわれているんですか。ちがいますよ! ぼくは!」 ただ、髪をのばしているということだけで疑われるなんて、なんたることだろう。ぼくは固い地面にはえているおおばこを踏みしだいていた。これでもか、これでもか、青い汁を土になすりつけた。「なつこさん、泣いてるのよ、生徒会費は大金なだけに……」「だれですか、その、みたというひとは。ぼく、あってきますよ!」「………」「………」「いいわ、つねよしくんは、もうかえっていいわ、ごめんなさいね」
教室にかえると、会計の正夫がうしろの席で漫画をよんでいた。肩ごしにのぞいてる者もいる。ぼくもみせてもらおうと、正夫の肩に手をのせた。正夫は胸のポケットをおさえた。そこにはお金がはいっていたんだ。ぼくが先生によばれた理由をはや知っていて、それで警戒したんだろう。ぼくは、もういやだと思って……恵三は離れていくし、先生には疑われるし……逃げていったんだよ。
13
すすきの茂った丘の斜面を、ぼくは這いのぼっていった。すすきの下葉はふみしだかれて、小さなトンネルの道になっているのがおもしろかった。野良犬がつくった道かもしれないんだ。
(つねよしくん! まいにちやまがっこうして。もどりなさい!) ぼくは安里先生が、そこまで追っかけてきているかのように空想していた。(いやだよ、せんせい!) トンネルの道をハウハウと頂上の方へにげていると、泣きたいような得体の知れない強い感情が、こころの芯にあつまってフワラフワラとしてくる。
こころがいそいで……いそぎながらガサガサのぼっていると、急に明るい場所にでた。小便がしたいのかも知れないと思ったが、なぜかしら先の方に力がつまっていて、小便はでない。
海には勝連半島が手をのばしている。その手の先には、その手につかまるまいとするかのように、津堅島や久高島がうかんでいる。
背のびをして裾の方をみおろすと、畑のこちらに美里村がかたよせてあり、浜には漁師部落がちょっぽりとあって、ふたつの部落を隔てるかのごとく滑走路が横にのびている。捨てられた滑走路は、アメリカ兵がオートバイを乗り飛ばすいがいに使いみちがないのであろう。ここにたっていると、空に舞っているこころもちだ。
「ああっ」
こどもがするみたいに、それをいじくっているうちに、不思議な、夢にみたことのある快感がよせてきたんだ。見ると青芽の匂いがする液が草にかかっていた。 ぼくには、その時になってすべてがわかったんだよ。そうなんだ、それは単なる摩擦にすぎなかったんだ。凸《とつ》には凹《ぼこ》がなければ快感が得られないということではなかったんだ。それなのに……兵隊たちは……なんという……もう……。 渇いた喉に水をながしこんだ時のような和《なご》んだ気持がして、ハアーと草のうえにねてみた。
14
太平洋の水平線からはモックリモックリと入道雲がのぼって、海と空が一本の線でわけられていたよ。陽炎にもえた海! そのかなたには楽園のような島々がある。裕福なオーストラリアがある。ぼくが生れそだったサイパンもあるんだ。パパヤなんかだれも食べるものがなくて、小鳥がつっついている。バナナは油であげてたべるんだ。(いきたい、いきたいなあ) ぼくはうすらぎかけたサイパンの思い出をまたとりだして、はっきりたしかめるかのように目をつぶった。
(こかげで土人のこどもと、いちんちじゅう粘土細工をしてあそんだね。せんとうきやぐんかんを作って、ゆかしたにならべてほしたね。ゆかしたには、たくさんのせんとうきやぐんかんがならんでいたね)(海に泳ぎにいったこともある。かえってくるなり、ぼくはおっかあにいった。ぼくねえ砂つかんで泳いだよ。おっかあは笑っていた)
(艦砲におわれて、ジャングルに逃げこんだときには、背中に毛布を背負い、両脇にはにわとりをだいていた。みんなにおくれまいと走るたびに、にわとりはキョトキョト首をふった)
(戦争がおわってジャングルをでてきた時には、服をきた骸骨がそこらじゅうによこたわっているのをいっぱいみたね) けれども、ぼくは戦争のときのことはあんまり思い出したくなかったので、気持をかえてかばんから地図帳をだしてみた。太平洋の潮流をあかい矢印でしめしてあるページをひらくと、赤道からの潮流はフィリッピンにつきあたって北へむかい、沖縄を洗いながして四国沖をとおり、小笠原島から南にくだって、南洋の島々にながれいたっている。
(船を潮流にのせればいいんだよ。河の水に流されていれば海にでられるように、黒潮に流されていれば南洋の島にたどりつけるにちがいないんだ) どこかで子犬がクンクン鳴いていた。それは下の村から聞えてくるものとばかりに思っていたのに、あれっ? 意外にちかいことに気づいたんだ。
(そのへんに、野良犬の巣があるかもしれんぞ) すすきの下葉のふみしだかれた小道は、はんたい側へものびていた。そこを這っていくと、いきなり、ハイエナのような母犬が牙をむいていた。びっくりしてあとずさると、母犬もあとずさった。それで、ぼくはあとずさるのをやめてじっとしていた。母犬は負けてさっていった。巣にはムクムクした子犬がかさなりあっていて、羊水と乳のいりまじったなまなましい臭いがしたよ。いちばん大きいのから選んで、ふところにいれた。「ああっ、夕刊だあ!」
ぼくは子犬といっしょに、ぐっすりねむりこんでいたんだ。丘の斜面をずりおりて、ごぼう畑をつっきっていたら、ひろい葉っぱのあいだにいくつもいくつも、白いものがひっかかっている。なんだろう。みどりの葉っぱをかきわけてよくみると、ウヘッ、ゴムサックであった。町の肥をくみあつめてきて、畑にまいたんだろう。肥溜めにもたくさん、大きなうじむしみたいに、プックリ空気をふくんで浮いていたよ。
そのひとつひとつには、まだ性欲がまといついているような感じがして、ぼくの空想をかきたてた。するとズボンがテントをはってしまって……。
15
山学校からかえってくると、隣りの部屋にチーコ姉がきていたんだよ。「わたしシミーズぬいでさあ、ふりかえったらさあ、部屋のすみにふるえてかがんでいるんよ。××ポつかまえてさ、ハッハッハ、どうしたのよ、ワッツマラユーと聞いたらさ、こわいアイムスケーヤ、メイビーユアV?Dっていうんさ」
ぼくにはチーコ姉の声は、どこからでもわかるんだ。「V?Dってなに?」「V?Dって性病のことよ。ヘン、こどものくせしてさ、あんまりバカにしたこというんでさあ、アイショーユー、ルック! パッとあけてみせてやったらさ、ハッハッハァ!」
ああ、チーコ姉の声はなんて大きくて、あまくて、さわやかなんだろう!「アッハッハ、それでどうしたの?」「ハッハッハッヘビみたいにはいだれてさ、スルリッと股くぐってひんにげていったよ! ハイスクール生ぐらいのさあ、もやしみたいな子だった!」「アメリカーはからだが大きいから、早くなから色気づくもんねえ」「ほんとさあ、ズケランの家族部隊でメイドしてた時もさ、スタップサーズンでミュラーという、いいにんげんだったけどさ、そこの子で十二になるのがいたんよ。わたしがトイレにはいるとドアをいたずらするしさ、シャワー浴びてるとのぞきにくるんよ、手をあらうふりしてさ。あんまりうるさいから、ママさんがミーリングにいってるあいだにさ、とっつかまえて習わせてやった!」「ばれておこられなかった?」「へいきさあ、わたしだって十四のときに習わせられたんだから、ううん、そこのパパさんじゃなかったけどさ。前のハウスでだったけど……かたきとるつもりで、ようく習わせてやったんさ。……あ、おばさん、またおじゃましてます!」
「あい、チーコな? 風呂屋にろ行《い》んじやんな?」「うん、風呂屋でミチコーねえさんにあって、はなしに気とられてあがりこんでしまったさあ……あれえ、美味《うま》さげの大根やあ?!」「はいな、ゆうゆうとよどんでいきよ、大根の肉煮汁《ししにじる》つくゆるもん……」 それから、おっかあはぼくの部屋の戸をあけたよ。
「つね! 夕刊配達は? いま波照間のおじさんにそこでおうて、つねよしはまあだ学校からかえらんねと聞《ち》かったんど! あれ! ふところでムクムクすしは何《ぬ》やがよ? 呆《あ》っ気《き》さめよ! 犬の子やあらんな? この前から青臭《おおぐさ》さぬならんと思ったりや、犬の子でやったえさや。まあだ眼も開《あ》かんもんとって来《き》ちものも思わん、すぐ返《けえ》ちこうっさ!」「したら、夕刊は?」「はあもう! あんせやなんで寝んておるかっさ!」 ぼくは、ヌルッとした手をズボンにふいて出ていった。
16
波照間のおじさんは、指につばをつけてはキユナ百貨店のチラシをぜんぶの新聞にさしはさんでいた。店で雑誌や文房具をうっても、まだ、東京の大学へいっている息子さんに送る金がたりないらしかった。
「おじさん、この本なんセントな!」「なんちゅう本ねえ?」
大きな声でよんでも、儲け仕事から顔をあげないで聞いている。「ロビンソン漂流記!」 その時、大通りの仲宗根商店の前あたりから、ドシーンと大きな音がつたわってきた。「ロビン……、あれ、いまの音はなんだね、台風でもないのに家でも倒れたんかね、ロビンソンはいくらだったかな、うしろにいくらとかいてあるう?」「二二〇円!」「そんなら、それを四で割ったらいい!」「……五五セントな。あ、五セントたりないや」「いいよ、いいよ!」「ほんとうな?」「うん、あとでいいよ。ほかならぬつねよしくんのことだ、好きな本からもっていきなさい!」
また、なにかの騒動がもちあがったのか、ひとが走っていった。「あ、つねよしくん、見にいくひまはないよ。はい、きみの分はすんだからね、さあいっといで!
ゆうかんおそくなってすみませんって、声をかけるんだよ!」 ぼくは、夕刊を脇にもって大通りにいそいだ。せっけんの匂いをさせてブラブラしている兵隊やはしゃいでいる兵隊のなかを、すりぬけたりかいくぐったり、ぼくはフットボールの選手が、いさましくゴールに突進している時の気持であった。
仲宗根商店の前には、レストランの、糊でピカピカする制服をきた女たちや、こうすいくさいドレスをきた女たちが、兵隊たちの間にはさまってなにかを見ていた。
「めちゃくちゃだがねえ、もう!」
泣いているような声がきこえるので、ちょっとのぞいてみると、タクシーが電柱の前で倒れていた。ガラスがダイヤモンドのようにとびちって、「ふんだりけったりだがねえ、もう!」 運転手らしい男は、まがったフロントをたたいていた。遠くサイレンをならしてMPカーが走ってくる。
17
夕刊を配達しおわってかえってくると、ぼくは腹がへってグッタリ窓框にすわってしまうんだ。いろがうすくなった空には、夕暮れの町のざわめきがひびいていた。坂をあがる車のエンジンの音や、客をよびこむバーの音楽や……。ぼくは竹笛をとりだして吹きはじめた。「わっ!」 いつの間にきたのか、チーコ姉が窓框にとびついてぼくをおどろかしたよ。
「どれ、かしてごらん」 チーコ姉はしごきとった笛を、よだれでしめっているのもかまわずに吹いている。 ぼくが窓辺で笛をならしたりするのは、ほんとうはこのチーコ姉にきかせたいためなんだ。けれど、もうバーに行ったのかなあと思っていると、こうして傍ちかくにやってきて、紅のはみだした唇でぼくの笛を吹いたりするのでドギマギする。 やっぱりぼくは、空想のなかだけでチーコ姉をすいていたんだろう。笛をかえしてくれたけれど、ぼくは口をつけなかった。
「魚《いお》や買《こ》うみ候《そう》らんなあ」 前の通りを呼び売りする女が歩いていったようだ。 チーコ姉は両手をくんで窓框にのせ、その上にあごをおいて目をまるく動かしながら、部屋じゅうを見まわした。時計のことは忘れてくれているのであろうか。「あの絵、あんたがかいたの?」「うん」「へえ、ちょっとうまいじゃないのさ、どうしてどこもかもあかくぬったの?」「夕やけだから……」「あはあ、馬車屋さんが夕やけの道をかえっていくところなのね。だから馬車もおじさんも道もむこうの山も、まっかなのね」 チーコ姉は目をひっくりかえすようにして、下からぼくの唇を見あげている。いつだか、ぼくに習わせてくれてもちっともいやじゃない、と考えたことでぼくは恥かしかった。「ああ、わたしも絵がかきたくなったさあ、わたしうまいのよ」「つね! 水汲みにいかんと! 直江はなあ行《い》んじまっちょんど!」
戸のむこうでは、おっかあがよんでいる。チーコ姉はなにをさとったのか、ふっと悲しそうな顔をした。「ほら……おかあさんがよんでる……じゃバイバイ!」
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井戸は二十三ひろもの深さで、そこからつるべで汲みあげるのは、腕の力がいる仕事なので、ぼくが専門に汲みあげて、妹の直江が専門にかついで台所の飯銅甕《はんどうがめ》に運ぶ。肩荷棒をビタビタさせ、ヨロヨロかついで行く妹をみると、あれじゃ背がのびないのも無理ないなあ、と思って可哀相になるけど、ぼくがかつげばぼくものびなくなるので、知らんふりして井戸の底をのぞいたりする。
「おーい!」 深い底のほうでは、月の大きさぐらいの水あかりがユラユラしている。 ぼくが井戸のふちにもたれているとも知らずに、チーコ姉が山里さんの門から、兵隊といっしょにでてきた。兵隊はズボンにシャツのすそをおしこんでいる。 担桶《たあご》の十二杯もいれなければ、飯銅甕はいっぱいにならない。飯銅甕をいっぱいにしておかないでは、あしたいちにちの使いみずが足りないので、おっかあがゆるしてくれないだろう。おっかあは担桶《たあご》から飯銅甕《はんどうがめ》に、水をあけるのを手伝ってくれてるから、番をしているようなものだ。水汲みがおわらないと、夕飯にならない。
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夕飯をたべていると、突然おっかあが、「やあ、ほんに!」といった。「あんすりゃ、幸吉も大損害やろもんなあ」 おとうは片膝立てをして、その上に箸をもった腕をのせ、胴体をかしげたまま食べていた。「して、銭もはらわんでひん逃げたる兵隊は、捕《ちか》めえららんでな?」 おとうは、なにもいわないで、油いための味噌を箸でえぐりとっていたよ。「何《ぬ》やがよ、幸吉にいさんは……」
ぼくは、こらえきれなくなって聞いた。幸吉にいさんは、おとうのまたいとこで、個人タクシーを経営しているんだ。「酔《い》うとる兵隊がくるまのなかで暴りて、電柱に衝突せしめたんとよ!」 そういえば大通りの仲宗根商店の前で、倒れていたタクシーは幸吉にいさんのだったんだ。ぼくはなぜ気づかなかったのだろう。「そばの兵隊が膝踏《ひさふ》ん付《じ》けて、くるま走《は》い飛ばしめたんとよ!」「えっ? アクセル下《くだ》めとる膝な?」「うん、ハアバー、ハアバー、ハヤク、ハヤクといっち……」「幸吉にいさんは五体《ぐてい》があるもん、押し転ばさらんたる場合がや?」「押し転ばさるるかや、相手はうしの如《ごと》うる三人組のマリンやったといゆるもん!」
その時、おとうのげんこつがぼくの額にとんできた。「この膝はまがらんな!」 ぼくはちゃぶ台の下に足をのばして、楽にたべていたんだ。「不作法もんや!」 それがくやしくて、おとうだって片膝立てして楽にたべてるくせに、といおうとしたが、おとうはとっくに片膝立てをなおしていた。
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「つねよし、起《う》きれえ!」「えっ?」「あれ、起きておったんな? なあいっかい水汲んでおかんとならんごとなっとうさ!」「水? さっき汲んだろもんな?」「あれや、兵隊が小便たらして使えららんもん、タッ返《けえ》らしたせえ」「えっ? 小便?」「うん、酔《い》うとる兵隊が……」「なんで外《ほか》んかへ、しょびき出《いだ》さんたる場合がよ。おっかあは何《ぬ》しおったかっさ!」「何《ぬ》しおったかといっちん、忙《いそが》さぬならんしわからんな? ビール買《こ》うたり湯《ゆう》わかしたり……。さっき、その兵隊《ひいたい》が吐きあげて雑巾かけておったんよ、ママサン、ベンジョベンジョといっち這《ほ》うていきよるもん……」「アウトサイド、アウトサイドといっち声浴びしたんな?!」「やさ、アウトサイド、アウトサイドと浴びして、すぐあと追うたしがまにあわんよ。隅にむかってたらしておるもん」
「飯銅甕にむかってな?」「うん、飯銅甕にむかって。ビールくささぬならん蒸気がいっぱいたっちよ。あいな、この狂《ふ》れもんはと押し転ばしたがとまらんよ。もう、台所《だいとこ》いっぱい小便はねちらかして。しかたが無《ね》えん水はタッ返《けえ》らしたせえ。はいよ、起きてなあいっかい、カッ汲んでおけえ。直江もすぐ起《う》こすさ」「べろや、べろやあ!」「べろやあといっちんしかたあんな? さあはい、まあだ八時前やろもんだいじょうぶやさ。本はあとから読めえ!」「きょうの分は、もう汲んだろもん。知らん!」「知らんといっちん、水汲《みじく》んでおかんとあさは困らんな?」「………」「あんすりゃ、済むさ。あさはごはん炊《た》からんことよ、嚼《か》まんけよ!」「………」「あんすりゃ、おとうに汲ますさ。幸吉はたからじき帰《けえ》てくるはずやろもん!」