ビルの谷間の、屋敷あとみたいな小さな公園で、ほんのなぐさめ程度の、緑をみながら坐っていても、そばには人の目がある。うるさい人声がある。どこへいってもひとりっきりになれない。電車で遠い郊外へ逃れるにしても、一時間も二時間も人混みを我慢しなければならない。(何もかも投げすてて、ポカンとしていたいのだ。丘の斜面の日だまりにすわり、草むらに隠れるようにうずくまって、何も考えず、何も望まず、誰にも関心を持たずに、いつまでもじっとしていたいのだ。下界を眺めていたいのだ)
こんな都会に住んで、そのうえなお泰然として、隣りの存在にも煩わされず、周囲の騒音にも邪魔されないで、自分ひとりの思いにふけっていることが、できるであろうか。大勢のなかにいても、しかし、ひとりっきりであるという事実は消えないはずなのに……。(それから、あたりに人の目がないのを確かめて、こっそり胸をはだけて陽にぬくもる。最初はひりひりした感触があるだろうか。ぬめぬめとしたしめりが陽と風にさらされて痛いだろうか。しかしやがて、からりとして爽快となり、解放感があるだろう)
ぼくは隣りのおじいさんに、都電はいつごろから走っているのでしょうかときいた。なぜ、きゅうに、そんなことをきく気になったのだろう。都会もやはり、変ることなくそこにあったと、思いこみたかったからであろうか。明治二十四年ごろから走りはじめたとおじいさんはいった。(草の上にそっと体を寝かしつけると、もうそれにも無関心になって、自分の思うままにふるまう。陽に照りはえた斜面の草っ原をみる。草の穂先についた綿毛のような白い実をみる。陽が暖かくそれをつつみ、風がそれを乾かしてふわりと運びさる)
変るものと変らないものは、どっちが多いのだろう。ぼくはその変らないものをポカンとして眺めていたいのだ。ここに二十年も住みついていて、何物にも興味がなく、右往左往する人間にも関心をはらわず、ひとりっきりでいるみたいに、思いにふけっていることができる、というふうでありたいのだ。
ぼくは信さんに怒った。「女の子を部屋にいれないでくれよ」 そう頼んだのに、信さんのほうではそれに素直な返答をしなかったのだ。「おれが入れたんじゃない。おれには関係ないよ。そんなこといいたけりゃ、直接にいえばいいじゃないか」 そんなふうにやりかえしてきたのだ。
女の子というのは十六歳になる長崎出の娘で、少しパアではないかと思われるくらいに明るいのだ。無邪気といえば、そうもいえるのだが、体は一人前になっている。この子をみんながからかって、ふざけ半分にひっぱたいたりする。この子も負けずにやりかえす。追いかけっこをして、大声をあげながら食堂をかけまわったり、笑いあいながら部屋のなかにまで入ってきたりするのだ。
一週間前、男一人女二人で当工場にとびこんできて、社長は子供の勉強部屋を二人の娘に使わせたのだが、夜中に男が這入って一ト晩中もめていたというのだ。翌日、社長にそれを訴えた者がいて、男はすぐにやめさせられた。もう一人の娘も一緒に出ていって、この子だけが残ったのだ。そんな事情を新助さんに聞かされて、いっぺんに彼女を毛嫌いしているのだった。
信さんもこの子に気がないとはいえない。信さんもこの子にふざけていたことがあったのだ。この子はラジオを聞きに、ぼくたちの部屋に入ってくる。ぼくはこの子を嫌って、追払うつもりでラジオのスイッチをきってしまうのだが、するとこの子は信さんにすがっていうのだ。「ねえ、あんたのラジオ聞かして!
はやくはやく!」 ぼくは女の子が出ていってから、信さんにいった。「この部屋に、女の子をつれこむのはやめにしてくれ」 ぼくも嵩《かさ》にかかっていたというべきだろう。「つれこむ?
なにいってやがんだ。冗談じゃないよ」 ぼくはほんとに怒った。素直でないことを怒ったのだ。 ぼくは信さんをつきとばした。信さんはよろけてベッドの板に体をぶっつけた。この際は(ああいいとも、そうしよう)とかなんとかいってくれればよかったのだ。そういってくれないものだから、ぼくは腕をとってねじあげた。いてて、いててといって信さんは卑屈な声をあげた。
この時になって信さんがいかに弱いかということが、ぼくにはわかったのだ。口ほどにもなくというより、口とは裏腹にいててというばかりで、腕をふりほどこうともしないのだ。ぼくが怒りにまかせてなぐっても、信さんは何もできなかったであろう。しかしなぜ、こんな弱い者を相手に怒ったのだろう。ぼくは気持のおさまりがつかなくなっていた。信さんに怒ったことが恥ずかしかった。気がとがめてやりきれなくもあった。
文學界の広告で、「文芸首都」という同人雑誌があることがわかったので、ぼくは入会希望を申込んだ。電話口の女のひとは、すぐに規定書を送るといっていた。毎月、研究会や合評会もあるのだそうだ。もし入会したいのなら、会にきてみてからにしてもいいともいった。
さて、ぼくは会費をだして自分の作品発表のめどをつけなければならない。会費はひと月たったの二百円。会員には「文芸首都」が送られてくる。
研究会にもいってみよう。みんなの顔をみてくるだけでもいいのだ。話しあえそうな人がいたら話しあってもいい。むしろ強い友好関係を結んでもいいのだ。それが女性であるならば……いや、女性には用心しよう。
文学を志望するひとの顔というのはどんな顔だろうか。ひと癖ありそうな顔だろうか。いろんな顔があるだろう。やつれた顔きびしい顔、ふくよかな顔あかるい顔。ぼくはあかるい顔でいたい。健康そのものの顔でいたい。
入会を申込んだら、きゅうに明朗活発になってきた。自信もわいてきて、押しもきくことがわかった。しかし自重して、文学活動でそれを発散させるとしよう。たたけよ、さらば開かれんだ。一段一段のぼってきて、こんどは同人雑誌に入会することにしたのだ。 文學界の同人雑誌評の頁に、こんな文章があった。──見合いの席で、「おたくは何が好きですか」「……うちは……」瞬間、わたしの顔は泣き笑いのようにゆがんだ。どういうわけだか、ふいに涙がこぼれそうになった
。「……うちは……小説書きたいと思ってます」「小説?」「そうですねン、どないしても小説書きたいですねン」──
これは小説への妄執ではないだろうか。ぼくもかつて、いや、いまでもそうなのかも知れないが、ひどい妄執をもっていたのだ。なぜならぼくは小説が書きたいというよりも、小説家になりたいといっていたのだから。
またまた、仕事をずる休みしてしまった。仕事は十二月に入ってとても忙しいのに、社長《おやじ》はおこったことだろう。おきなわのやつ逃げたりして、どこへいったんだ? やっとの思いで郊外へのがれたけれど、住込み部屋に帰ったら社長《おやじ》が待ちうけていて、こういいやしないかとこわかった。しようのないやつだ。お前にゃもうやめてもらうよ!
土ぼこりの田舎道や、畑の畦道を歩いてぼくは心を休ませた。畑のなかにはぽつぽつと新しい住宅がたち、遠くには樹木にかこまれたわらぶきの農家があった。やめさせるというんなら、やめるだけのことなんだが……。
そんな野歩きの途中で、小さな木工所をみつけた。壁のない工場は風通しがよくて、二、三人の大工が機械のこで材木をきっていた。木の香りが鼻をうつ。どこかに、いい仕事口はみつからないかなァ。
またしばらく行くと、川近くにヒューム管やU字溝やL盤をつくっている小さな工場があった。農夫と変らないほど陽やけした人たちが、野中の風にふかれて働いていた。コンクリートの臭いがなつかしくて、ぼくはたちどまって、眺めたのだ。ああ、こんなところで働きたいよ。
河原にはすすきの白い穂がうちつづき、川面は茫洋とかすんでいた。ぼくは郊外で働きたい。食っていくために工場を運営しているという、そんな小さくて貧しい工場で働きたい。
土手したの柵のなかに乳牛がいた。ふみこなされた泥土に靴をうめて牛舎をのぞくと、十頭ほどの牛がものうそうに反芻《はんすう》していた。小山ほどもある雄牛は、ぼくを讃嘆させた。こんな農家で働きたい。農業に関係したところで働きたいのだが……。
あなぼこだらけの堤の上の道を、うつむきこんで歩いていった。養鶏場でもいい。養豚場でもいい。いや田舎の工場であれば何でもいい。
陽が西にかたむいたら、にわかに肌寒くなってきた。けれども、西神田のあのビルの谷間には帰りたくない。ではどうすればいい? どこへいけばいいのだろう? ふるさとへ帰るべきだろうか。胃の腑をみたすことぐらいどこでだってできると思うんだが……。
さて、すっかり暗くなってから、住込み部屋へ帰ってきた。みんなはもう寝ていた。ぼくは卵をやいて食事をした。またあしたから、何の感激もない、あのいつもの仕事だ。ぼくは追いつめられて、ついにどたんばまできたようだけれど、仕事を変るというのか? ふるさとへ帰るというのか? 寝床に入ってからも、やつぎばやに問いかけたり答えたりしていた。では、小説の勉強はどうなる? しかし田舎へいけば勉強できないということではないだろう? いったいお前にとって何が大事なのだ?
勉強だ。では帰ることは考えるな、勉強には都会のほうが都合がいいのだから。
前略。十四日に受取った手紙に依ると、常夫は何処で生まれたか、又、其の頃の生活はどうで有ったかとの問いだが、此れが話はずっと遠くからかね廻して、順序よく楽しく語らんとならぬと思うからして、最初から話すことにするが……。お父《とう》がフィリッピンに渡航したのが、忘れもしない昭和二年十九歳の時、ミンダナオ島はカリナン地方、太田タロモリバー会社の耕地でした。此の耕地で九年近くも働いて資金を貯めて、昭和十一年ついに自立し、タロモリバー耕地の奥、タランダンに森林地を借受け開墾し、アバカ(マニラ麻)の栽培に乗り出しましたが、常夫が生まれたのが此の耕地で、昭和十三年の五月。アバカは植付けて一年八カ月にもなると収穫が出来るので、生産は一回位は済ませて、暮らしは楽になって居ったと思う。
手紙を出したのは、ぼくがこの世に存在しはじめたのはいつからだろう、そう思ったからだ。じっさいぼくがもの心ついたのはいつなのだろう。細胞は日に日に生まれ古い順に死んでいき、九年から十三年後にはすっかりいれ変っているという。何かの本で読んだのだが、それからすればぼくの体は二度も新しくなったのだ。が、それでもぼくはいつも同じぼくだった。そしてぼくの最初の記憶は次のようなものだ。
暑苦しかった。額がちくちくした。目をさますと、戸口から日差しがはいって、額のおできに蝿がうるさかった。おなかは帯でしばられ、一方は柱にくくりつけてあった。家の中はがらんどうで、みんなはどこへ行ったんだろう。えーんえーんと上に向かって泣きはじめた。どうしてぼくを放っぽらかしにするんだろう、おーんおーんと空に向かって訴えたのだが、誰もこなかった。泣きつかれてぬれた膝をかいた。床では蟻が大きな荷物を運んでいる。腹ばってそれを眺めているうちに、ぼくはまた眠りこんだのだった。
現地人のバゴボ族は一人当り二十四町歩の土地を政府から貰って、其れを日本人に貸して開拓させて居ったが、総売上げ額の十五%が地租で、地主は其れで楽しく生活して居りました。が一方では土地を貸そうにも借手がいなくて、其ういう地主は宝の持腐れで働かせてくれという者も居って、お父《とう》は使用人として何人か雇いました。バゴボ族は森林があれば暮らしには困らないから、一般に怠け者ではあったがアガホイとアーターはまじめで、四年も働きに通ってくれて、此れは家族待遇であった。飯時には庭に持出したテーブルで御飯とビスカーオ(干魚)の焼いたのを毎日食べたが、此れが二人の大好物でカーフェカモーテ(コーヒーと芋?)しかなかった彼らには、成程御馳走であったことだろう。
アガホイのことはおぼえている。架空のハンドルをにぎり、唇でエンジンの音をたてながら、広い庭をかけまわっていると、アバカ畑の中の道を腰になたをつるして、はるか向うからやってくるのだった。アガホイはぼくを見ると、黄色い歯をむきだしにして捕えようとする。捕まると食べられると思っていたので恐かった。ぼくは家に逃げこんで、アガホイがきた、アガホイがきたと呼ばわるのだった。
自動車をみたという記憶はないのに、自動車ごっこが好きだった。それらしくエンジンの音を響かせ、たくみにハンドルを切って、そこらじゅうをかけまわる。時には溝に落ちることもあって、あれ、また泥をこねてるかと、母に叱られるのだったが、ぼくは夢中だった。エンジンをふかして出ようとするが、なかなかうまくいかない。タイヤがすべってあがれんもん、おっかあのじろうしゃで引っぱれえ。すると母はうしろをつかんで引きあげる。ぼくは調子もかろやかに、またそこらじゅうをかけまわるのだった。
さて昭和十六年の九月に、戦争の噂もあるのでアバカ山は元金で売ってしまい、錦をかざって故郷に帰ることにし、帰国手続も済ませ、船便も十二月十日の出港と決まって居ったが、其の二日前の十二月八日に宣戦布告で、とうとう帰ることは出来なかった。アバカ山は売り荷物も括《くく》ってあったので、其れではダバオ市に出て商売でも始めようと、貸家をさがしに行ったところ、クラベリヤ街に良い家が見付かったので、カラバーホー(水牛)に引かした車で三日掛りの引越しをしました。此の家の実況を細かく知らせると、屋敷は二百坪位の面積で、家も建坪が五十坪位の二階家、ベランダ付きの白い豪華な家であった。遠いスペイン領時代から代々住みなした家ではあったが、アメリカ領時代からは寂れてもはやペンキも塗れない、はげ落ちたままとても古惚けて居り、家主はパルマヘルという六十歳位のまっ白い髪をし、まるく太ったおばあさんで、兄弟姉妹も沢山居ったと思いますが、生涯未婚で通した程の熱心なキリスト信者の御婦人でした。
家の裏には雨樋があって、その下の穴ぼこには、豪雨がきてたくさんの水が流れおちるたびに、小さなおもちゃが砂の中に洗いだされているのだった。そこは宝物が隠されているぼくだけの秘密の穴ぼこだった。空地の向うには製材工場があって、大鋸屑が山のように捨てられていて、よくそこで遊んだものだ。それから近くの日本人小学校の庭には、戦闘機の頭が台にのせて飾ってあった。
街の中の下水溝で、フィリッピンの少年たちが魚をとっているのを見物したこともある。どろんこになって溝をせきとめ、水を汲みだしたら魚がぴちゃぴちゃはねたのだ。ある日などは兵隊さんからもらった硬貨で、ピーナッツを買いにいったら、持ちきれないほどくれるので、びっくりして逃げだしたのだった。それから父は子豚を飼っていて、ふぐりを自分で切ったのはよいが、消毒がわるかったのか化膿させてしまい、子豚は尻がかゆくなるとペタッと坐って、ひきずってあるくのであれあれと道ゆく人がわらうのだった。
弟は弁護士をして居ると聞きましたが、此のおばあさんも気品があって、二階の居間にはキリストやサンタマリヤという像が大小さまざま、全部で十五体程も並べられ、お母《かあ》は其れを見て驚いたようで、幼児を抱いた母の像はうち眺めても美しくあったが、十字架に磔の青年像は見るだけでも心苦しく、嫌やだから下ろしてとお母《かあ》が頼んだところ、此れは神さまだから心配しないようにと聞かされました。居間の片側には大きなピアノも置いてあり、兄の盛夫や姉の初などがいつも触って居りましたが、おばあさんは誰を見てもボニート?ボニート(可愛い可愛い)で、お母《かあ》にもよく誉言葉《ほめことば》を使って、マリヤの話など聞かせたりして、まるで親子のようになって居りました。其処《そこ》で奮起してお父《とう》お母《かあ》は洗濯屋を経営して見ることにして、家の裏には洗濯用水のために深さが約五|尋《ひろ》位の井戸を掘り、井戸口には角材で橋をかけわたし、八分厚みの板で上を板張りにし蓋も作り、此処から水を汲んで洗濯をやりましたが、聖像のおかげか商売は大繁盛し、程なくしてトマシクラジョウの近く、サンタアナ港に行くロータリーの傍に家を新築することが出来て、引っ越すことになりましたが、パルマヘルの家ではもう一つお母の思い出話があります。其の家を借りて居った頃、お母《かあ》は妊娠していましたが、七カ月目に階段で転んで腹を打ったので、赤ちゃんはどう生まれて来るか、生まれる迄は心配で落着くことも出来ない程でしたが、生まれて見たら身体はまともであったが、頭がひしゃげて居って死産でした。産婆さんは非常に不思議がって、普通なら母体が危ないところであったといって居りましたが、此れも神様に恵まれて居ってのことでありましょう。
みんなが遊びに出たのをさいわいに、ぼくは住込み部屋にひとり寝ころんでいる。外はきのうの驟雨が信じられないほどの秋晴れだ。明るい陽光の蔭を、冷たい北風がふきぬける日だ。東北地方では初雪があって、きのこ狩りの男女が凍死したというニュースを、ラジオは報じていた。
音楽をきいたり、隣りの部屋の理市さんのテレビを見たりして、屈託した気持で日曜日の午後のひとときをすごした。テレビにはみがきのかかった顔の芸能人の顔が映ったり、ニュースの時間には、政治家にちがいない白髪の人の横顔がみえたりした。りっぱな背広をきて、顔はふくよかに輝いている。ぼくは肘枕をして呆けた顔でそれらの人たちを見ていた。それらの人たちにも、食うに追われるような若い日があったろうか。「文芸首都」から、入会規定書がくるのを待っているうちに、ついに研究会の日がきてしまって、ぼくはとにかく出かけていった。会場である代々木の全国家庭クラブ会館を、開会一時間まえにさがしあてた。が、ひっそりとしたビルの窓をみあげてたっていると、だんだんに気おくれしてきた。ぼくはまだ一度も「文芸首都」を買ったことも読んだこともないのだ。そこで駅前にいって本屋を調べたが売ってない。それならば首都社へいってでも買求めなければならないと、たずねていくことにした。もう研究会の開会時間はせまっていたが、とにかく雑誌を持たずに顔を出すのが億劫であるならば、こっちのほうが先決であろう。
そしてへとへとに疲れるまで、首都社をさがしてあるいたのだ。そのあたりは閑静な住宅地で、どこにも雑誌社みたいな建物はなかった。あるいはそれは保高徳蔵氏の私宅かもしれないと、一軒一軒の家をのぞいてあるいたのだがみつからない。離れみたいな部屋に書籍雑誌がいっぱいにつまれ、その隅に机がおかれ電話がのっかっているので、ここがそうなのだろうかと思ったのだが、看板も見あたらないのでちがうようだった。
いつもの癖で、意地になってでもさがしだしてみせると、そのあたりをあるきまわったがどうしてもだめだ。それで小田急線で南新宿まで戻って、家庭クラブ会館の前にいってみることにした。四時半が終会時だというから、ちょうどその頃会場の前をうろついていて、文学志望者たちが会場からあふれ出てきたところに、行きあってみたいと思ったのだ。そして親愛と羨望と賛同のこもったまなざしを投げかけ、彼らのはつらつとした生気を胸いっぱいに吸いとりたかったのだ。会場に入りそびれたぼくは、せめてそんなふうにしてでも、彼らのはなやいだ雰囲気を感じとりたかったのだ。
ところで四時半きっかりに、ビルのガラス戸を押して出てきたのは、四十歳前後の労働者ふうの男が四、五人に、おばさんのような女が二人だった。ああその時、ぼくはどんなに呆気にとられ落胆したことか。いったいみんなはどうしたのだろう。こんな人たちが研究会の主体になっていて、若い男女はひとりもいないのだろうか。文学志望者とは案外にこんなものかもしれないけれど、これでは入会したいという意欲も失われそうだった。
日曜出勤を休んで、テーブルごたつに足をつっこんでポカンとしていたら、社長《おやじ》が、どうした、おきなわくんよ、ときたのだ。やるならやってくれ、やらないならやめてくれ、な?
中途半端な気持ではいかんじゃないか!
社長《おやじ》のいうことは、いちいちもっともなことなので、ぼくには何もいうことがない。 社長《おやじ》はこの木造二階建ての工場を、鉄筋コンクリート建てにしたいと思っている。機械を使って、人を働かせて……。
ぼくはここの捕われ人だ。自ら望んでとびこんではきたのだけれど……。働きのないやつはごめんなのだろう。
さて、住込み部屋にいる以上は、社長《おやじ》のいうとおりにしなければなるまい。それに飽きれば、ぽいっと他所へ逃げるだけのこと。 しかしぼくが休むのは、本が読みたいからなので……そして考えを多くし精神を深くして、小説家になりたいからなので……。
小説家になりたいといっても、仕事をやめて乞食のようにはなれないのだ。それ一辺倒はできないのだ。
中途半端はいかんというけれど、では小説家になるためには、どうすればいいのだろう。どんな努力をすればいいのだろう。「きょうのところは、もう休みますが、あしたからは頑張ります」そういって、ぼくは社長《おやじ》の心をなだめはしたけれど……。
考えなければならないと、荻窪へいってみることにして、井伏鱒二宅の前をうろつき、それから阿佐ヶ谷にきて、上林暁の家の前をうろついたのだ。
ひとりごとが出てしまうのも、かまわずにうろついたのだが……。寒い通りを、考えこみながら歩いたのだが……。
ポケットには二百三十円の金があった。駅前の食堂で百三十円の定食をたべた。水道橋までの電車賃四十円をのこして、六十円のピーナッツをかじった。
社長《おやじ》は、ぼくに有能な片腕になってもらいたいのだ。精だして働き、働きながら丁合機の扱いをおぼえてもらいたいらしいのだ。
もうじき新助さんは世帯をもって、通いになるんだよ。な? 仕事も定時でしまったりするだろう。そこでどうしても住込みの者に丁合をおぼえておいてもらいたいんだけどね……。
ぼくにそれができるか?
ビルを建てたいとしている社長《おやじ》に従って、精勤の働き人となることができるか?
やる気になってくれ、ちゃんとめんどうみてやるから、な?
おきなわくんよ。近い将来、お前も結婚するんだし、そうなればまた、それだけの給料をくれてやる。
ぼくは疑問をもつ。ぼくにはとても勤めきれないだろう。遅かれ早かれここをやめることとなるだろう。
これまでは安穏にしていた。毎日腹いっぱいくって、温かい寝床に休んだ。風呂にいって身ぎれいにしたし、よそいきでちょくちょく外出もできた。
部屋には自分の本を飾っておける棚もあった。枕元の電気スタンドで本が読めた。ラジオといっしょに遅くまでおきていられた。
ああ、これらの満ちたりた生活が、やめろというひと声で、一瞬のうちに消えたのだ。それがどんなにはかない幻影であったかが、ぼくにはわかった。
社長《おやじ》がやらないならやめろ、といってくれたおかげで、ぼくはますますめざめたようだ。ひたすら自分の道をつきすすんでいくこととなったのだ。 黙っておちていくだけだ。自分一人で決めて実行するだけだ。ただ神さまだけがぼくをみている。
散歩がてら神保町の本屋をみて歩いていると、雑誌の台に偶然に「文芸首都」がみつかったのだ。もう投げだしたい気持でいたやさきにそれがみつかったので、ぼくは喜んだ。「東京十一月例会は、女性会員の参加が多く、色どりのはなやかさに比べ……」という文章を読んで、こんどは心が踊った。みんなはやはり、はなやいだ雰囲気をまきちらして散会していったのだ。もりもりと意欲がわいてくるのが、自分でもわかった。
合評会には、それで勇んで出てみたのだ。先生(同人?)が四、五人に、会員が老若男女あわせて四十人ばかり。運転手や大学生やヒッピー風の青年などがいて、同じ電車にのりあわせた人々の顔と、それは何らかわりはなかった。掲載された作品のひとつひとつを批評しあう。というよりも発言しなれた人たちが、勝手なことを述べあうだけだった。ぼくも発言したくてうずうずしていたが、にぎりこぶしをつくって、掌にぎゅうぎゅう押しつけて我慢した。
結局、様子をみにいったにすぎないという結果におわったのだが、それでもよかったのだ。ぼくには自信がわいてきた。いたずらに彼らを畏怖することもないのだということがわかった。
ぼくは仕事をやめようとしている。しかし何のために? なぜ、やめようというのだろう? それは衣食住のことで、あくせくするのがいやになったからだ。あくせくさせられるのがいやだからだ。 では、衣食住は欠乏するだろう。生活は困窮するだろう。それでいいのか? 覚悟はできているだろうか?
(こんな事を書いているうちに、一九六四年の元旦になった。ぼくは部屋で寝てみたり起きてみたり、ぐずぐずしている。ぼくには正月も何もないのだ。いや、というよりお雑煮という料理をはじめて食べた。鶏肉をいれた鍋いっぱいのお汁に、おぼんに盛った伸餅がでたのだ。餅を焼いてお汁にいれてたべるのだが、鶏肉はすでにかけらもなかった。あじけない正月だ。ただ、七日までは休業だから、休みだけはたっぷりある。ぶらりと外へでて、バスに乗っていって、晴海周辺をあるいてこようかと思ってはいるが、なかなか腰があがらない)
(さらに書きあぐねているあいだに、正月二日となってしまった。元旦には昼すぎから外出して、東京タワーへいってきた。タワーの上からは、皇居のあたりに緑が眺められた。明治神宮?のあたりにも、こんもりとした森があった。緑や森を眺望したら、そこへいってみたくなってタワーをおりた。そして九段坂の靖国神社にきたのである。参道の両側には夜店がたちならび、ぼくは腹がすいていたので、おでん屋に立ちよってちくわをたべた。つぎのおでん屋ではごぼうまきをたべた。帰りは都電にのって神保町まできて、そこからあるいてもどった。外をあるきまわったせいか頭痛がして、着がえるのももどかしく寝床にはいった。そしてうめきながら寝入ったのだが、今朝はけろりとなおっていた。朝から寝床に腹ばって本を読んでいる)
そして、仕事をやめたいと新助さんに告げたのだ。つぎの仕事口のあてもないのに、そういってしまったのだ。
この際は最初に、やめるぞという決意を明確にしておこうと考えたのだ。そう告げてしまえば、もうあとへはひきかえせない。
ひきかえせない立場に、自分をたたせたかったのだ。そうすればぼくも本気になるだろう。ぼくの手にはいま七千円がのこっている。
3
新宿大ガード前の横断歩道をわたり、線路ぞいの土手下の道を歩いていたら、西口旭館という安い宿屋をみつけた。枕木の柵にトタンをかぶせ、その下にコンロを置いて魚を焼いているおばさんがいたのだ。そばには子供もまといついている。どうしたのだろう。なぜ、こんなところで炊事しているのだろう。家はどこなんだろう。
あたりを見廻したら、赤茶けた色の宿屋がすぐそこにあったのだ。開いている玄関から番台のほうをのぞくと、一泊百三十円と書いてある。山手レストハウスより七十円も安い。ぼくはここに泊ることにして、とびこんでいって頼んだ。さいわい部屋もあいていて、二階四号室の下の棚に案内された。
洗面台で顔や手を洗い、手拭いでふきながら廊下のはずれまでいったら、そこの窓から大きな東の空が見わたせた。ちょうど山手線と中央線の分岐点になっていて、鉄道敷地がひろいのだ。空が見上げられるだけでも、何となく明るい感じで、土手いっぱいの枯草もよかった。
この宿屋の風呂はいい。まず都の水道水をつかっている。山手レストハウスのように地下水ではない。あれは臭いのする水だった。お湯もあつい。たえず水をうめなければならない。これなら湯に浮いた黴菌もいないだろう。なにしろ一メートル四方の湯舟に、五十人ちかくもはいるというのだから、ちょっと湯がぬるいとすぐ汚なくなる。あがり湯もじゅうぶんにつかえる。ここでは宿屋の風呂だけで満足できそうだ。
この宿屋には二、三の家族持ちもはいっている。ぼくの上のベッドは六十歳ぐらいの夫婦者だ。子供たちが廊下をかけたりする。奥の二タ部屋から子供の声がきこえる。風呂にはいったら子供たちと一緒になった。子供はいい。女の子はほほえましい。子供たちがいることで、この宿屋にはながく住めそうだ。「宿泊者心得」には、(夜間作業をなさる方、残業をなさる方は昼間も投宿できますが、ただし五十円の料金をいただきます)と書いてあった。ひょっとしたら、ここではお金さえだせば昼間もいられるのではないだろうか。もしそうならありがたい。部屋は三畳間で、四人合部屋になっている。人数が少ないというのもいい。
隣りのべッドに寝ている老人に、ぼくははなしかけた。もし、日雇いの仕事を知っているのなら、いろいろと訊ねてみようと思ったのだ。「わしか、わしは某建築会社に、働いとる」
老人はそういった。日雇いをしているのだろうか。それなら都合がいいのだが……。「わしか、いや、わしは係の者だよ」
係の者なら、ねがってもないことだ。ぼくは頼んだ。「いや、わしは日雇いのことは知らんよ」
では、何の係の者なのだろう。係の者といっても、いろいろ名称があるはずなのだが、「わしはわせだを出て、その会社を、後輩とやろうじゃないかといって、やりはじめた者だよ」 要領を得ない人なので、ぼくはもっと問いかけた。きっと顧問かなにかをしているのであろう。それにしては、そんな高給取りがなぜ、こんな宿屋にきてせんべい布団にくるまっているのだろう。しかしこの問いは老人を怒らせたようだ。ぼくは素直にわけをはなした。「あんたは勉強する人だというから、では、つぎのことを聞くけど……」
こんどは老人のほうから、もちかけてきたのだ。「理論と論理のちがいは、なにかね」
ぼくにはこたえられなかった。この老人はひとりでぶつぶついってみたり、え?
うん え?
うんとたえず自問自答していて、精神に異常をきたしているのではと思ったが、よくはわからない。
阿佐ヶ谷の古本屋に、本をかついで売りにきたのである。二千三百円をふところに入れて、さて、とぼくは考えた。この金も四、五日以内に消えてしまうであろう。いよいよ切羽詰ってくるぞ、新聞を買って求人広告を調べたが、適当なところがない。倉庫要員の日払いの仕事があったが遠い相模原だ。トラックの助手の仕事でもやろうかと思うのだが、日払いでの助手の仕事はどこも募集してない。いずれにしても、通勤費や食事代や宿泊費のことを計算すると、住込みの仕事をみつけなくては、困るのではないかと思うのだが、どうしたらいいのだろう。千五百円で日雇いの仕事があるらしいことを同宿のおじさんたちから聞いた。新宿の職業安定所の前の通りは、そんなニコヨンのたまり場で、やくざくずれのあんちゃんが紹介屋をやっているということだが……。歩いているうちに、石神井《しやくじい》公園行きのバスがきたので乗った。別に何のあてがあったのでもないのだ。
石神井公園の池は広い。ボートは土の上にはいあがって、甲羅を冬日にほしている。池面は小さな波にきらきら光り、池上のほうは鏡のようになって、その向うの森影や家の屋根を映している。
何を食べようかと命のことを心配したりするな。空の鳥をみよ。まかず刈らず、倉におさめることもしないのに、天の父はそれを養ってくださっている。あなた達は鳥よりもはるかに大切ではないだろうか。そういうイエスの言葉があるけれど、しかし実際にはどうなのだろう。ぼくは飢えるであろう。ただその飢えるだろうということを、気持のうえで受けとめるか受けとめないかのどっちかだ。しかしほうっておけばどうなるだろう。ほんとうに苦しいであろう。いや、苦しいのを苦しいと感じないでおけというのだ。心配し苦しんだからといって、寿命を一寸でものばすことができるだろうか。するとぼくには、もう何の言葉もない。池端のパン屋であんまんを買ってきてがつがつ食べた。ここのところあまりあごの筋肉をつかってないので、あごがいたい。
見晴らし台からは、向うの森のなかのベンチに女学生が坐っているのがみえた。本を読んでいるのか、うつむきこんで動こうともしないのだ。常緑樹の森はうす暗い闇をつくって、その闇をバックにしてぽつんと坐っているのが淋しそうだった。
おなかはいっぱいであったから、それで満足することにした。その他に何の心配がいるだろう。あしたの心配はあした自らにまかせておけ。いま満ちたりているのならば、それでじゅうぶんじゃないか。きょうはきょうの心配だけでたくさんだ。飢えの苦しみがやってくるであろうと予想して、いまから苦しみを味わうのは馬鹿げている。何も困ることはないであろう。むしろ困ったら困ったで、ぼくにとってその時が意義のある時となるだろう。お金がなければ、仕事さがしにも行けないというのか。二本の足があるではないか。歩いていればいい仕事口にぶつかるさ。おなかがへっても一ト月は生きている。まるまる一ト月だ。
「おいきみ、ちょっとちょっと。元気がなさそうじゃないか」
ふたりづれの警察官によびとめられた。町角から突然にとびだしてきたのだ。「シャツも汚れているし……ちょっとこっちへきな」 元気がないといって、それが何だろう。シャツが汚れているからといって、それが何だっていうのだろう。警察官というものは、ずいぶんと目のきくものだ。そして平気でひとを卑しめる。「どこに住んでるんだ? 住所は?」「新宿の百人町です」「ほう、百人町!?」 いろめきたってきた。百人町は有名なところのようだ。「ちょっとこっちへ、そのバッグをあけて!」
ぼくは小路にさそいこまれた。バッグの中にはトランジスターラジオと、二冊の本とノートしかはいってない。「百人町のどこだ?」「一の十八、西口旭館という宿屋です」「学生か?」「いいえ」「仕事は? 何やっている?」「いまのところ、無職です」「無職!? いなかはどこだ?」「おきなわです」「おきなわか。いなかから出てきて、ぶらぶらしていては、いかんじゃないか、え?」「なぜです?」「なぜ? なぜっていうのか!? そんなことはわかりきってるじゃないか! きみらのようなものが、できごころから犯罪をおかすようになるんだ」「そうですか?」「そうにきまっとる。だからはやく、正業につかんといかん。いいな?」「はあ」「じゃ、ちょっと向うをむいて、手をあげて!」
ぼくには何のことかわからなかった。そのとおりにすると、警察官は体をさわった。それは凶器や盗品をかくし持っているかどうかの調べであった。そしてゆるしてくれたのだが、たくさんの言葉が喉をついて出てきた。ぶつぶついいながら歩いた。
金はだんだん少なくなっていくし、ぼくはやはり心細くなって、仕事さがしに精をだすことにした。時計を質屋へもっていった。千円貸してくれた。履歴書用紙を買って、新宿の図書館で書いた。しかしぐずぐずしているうちに二日がすぎた。日払いの仕事があったが、それは電球のセールスでつまらなかった。もう一泊の宿泊費もなくなっていた。もとより食事などはできなかった。
ぼくは住込みで助手の仕事をすることにした。会社は森永乳業の配達をする運送店であった。朝は六時半出勤、夕方は八時まで残業。一日も休めないことを面接のときにいいきかされた。ぼくはどうしても働きたいと思っていたので、かしこまって係員のいいぶんをきいた。(荷物をとってきます)と事務所をでた瞬間から、もう迷っていた。ぼくはいったい何を約束したんだろう。いまのいままで、勤めたい一心から係員のいうことをきいていたが、それでは条件が厳しすぎるのではないのか。いやになって、そのまますっぽかそうかと思った。厳しくない仕事など、どこにもないことがわかったような気がした。胃の腑のためについに屈服したという思いも胸にあった。