ぼくは乞食をしていてもよかったのではないのか。いや弁解はしたくないのだが、空腹をわすれるために、キャラメルを買ってしゃぶりながら、仕事をさがしてあるいたのだ。迷いながらあるいたのだ。そしてついに採用というのをことわらなかった。ぼくは束縛された。そのことで滅入《めい》った。自分がなさけなかった。
朝、暗いうちに起床。身支度をし、車の手入れをする。手がきれるような冷たい水で、タイヤを洗う。ぬれ皮でフロントガラスを拭く。ぬれ皮はぱりぱりとガラスにへばりつく。六時半にはトラックいっぱいに牛乳をつんで配達にでる。いつも府中コースをいったが、四軒の牛乳店をまわって、それぞれ三十ケースほどずつおろした。そこの牛乳店から、各家庭や商店に配られるということだった。牛乳配達はこの世に必要な仕事だと自分にいいきかせようとしたが、そんなことは慰めにもならなかった。
図書館にかよって勉強したかった。そして気恥ずかしいことだが、もし仕事をやめて飢えるようになったら、こんな牛乳屋のごみ箱をねらおうかなと思っていたのだ。牛乳びんにひびがはいったり、ふたのビニールがとれたりすると持ちかえって取り替える。持ちかえった牛乳は外につまれているのだ。そんなびんから牛乳をあつめたら、二升ほどもあるにちがいなかった。
大和運送は、東村山にある森永工場の仕事をひきうけている。工場は操業してからまだ間もないということで、どこもかしこも新しかった。工場の近くの大和運送の寮も新しかった。二階の窓をあけると、たえず野の風がはいってきた。一望のもとに、きり開かれた平地が見わたせた。あるいは黒土をむきだしにした畑地が見わたせた。樹林がないから、ひろびろと見わたせるのだった。畑中の道をはしる車は、もうもうとしたほこりをたてていた。遠くに山が見えた。そこには狭山湖があるということだった。
運転手の三枝《さいぐさ》は中学を卒業すると、バスの車掌になった。車掌ではあきたりなくなってとびだし、大和運送にきて助手をしながら運転免許をとった。そして助手をしたり、運転手をしたりしていたが、ぼくが来る二日前から一台の車を受けもたされたのだった。彼は張り切ってばりばり仕事をした。ぼくはそういう彼についていけなかった。箱のつみおろしになれていないぼくは、彼に追われどうしだった。 車が左側から追いこしていった時には、(ばかやろうとどなれ)と彼はいった。ぼくは(声がでなくて、どなれない)といった。(声がでなくても、どならなくちゃだめだ)といった。(やる気をださなくっちゃ、だめじゃないか)(いや、こんな仕事にやる気などでないよ。いつまでもやってるつもりはないんだ)(ばかやろう。おれだっていつまでも、こんな雲助稼業をやってるつもりはないんだ。それでも、こうやって頑張ってるじゃないか。やる気がなくて、お前は何になれるってんだ? 助手席で本なんか読んだりしやがってよ)
その翌日から、ぼくはもう車にのらなかった。定時まで雑役しているといって、三枝から離れた。その日は風が強かったが、午後からますます強くなった。吹きっさらしの平野は土色の風景になっていた。すきおこされた工場用地から砂ぼこりがまいあがって、まるで砂漠の嵐のようだった。空には黄色い太陽があった。体温はのこらず奪いとられて、とても寒かった。工場の片隅に焚かれた火にあたりながら、ぼくは首をすくめて考えこんでいた。息苦しかった。
工場のなかのトイレにはいって、さらに考えた。どういう嘘をいって、うまく次長を納得させたらいいだろう。精勤を約束したのにたった一ト月でやめることになるのだ。どういう言訳をしたら、うまくやめられるだろう。新宿に姉がいる。夫が腎臓結石で入院した。昨夜電話したらわかったのだ。姉は二人の子をかかえて、てんてこ舞いしている。すぐに行かねばならない。働いたぶんの給料を払ってほしい。そんな嘘を小一時間もかかってまとめあげた。トイレをでるとさっきまでの嵐はぴたりとやんでいた。
日比谷図書館にきて、ぼくはゆっくりゆっくり本を読んでいる。トルストイの「最後の日記」を読んでいる。読みながら飢えている。ときに疲れると、二十分ばかりうたたねし、ときに気をとりなおして、目を窓の外に転じてぼんやりしている。とりとめのないことを考えている。飢えるのは働かないからだと知っている。そして働かないのは、空腹がそんなに苦痛だとは思えないからだった。
さて、五時になって薄暗くなってきた。日が暮れたらもう寝ることだ。ぼくは帰ることにした。風船のように体が軽く感じられた。新宿へむかって、しずかにしずかに歩を運んだ。空腹をかかえながら、国会議事堂の前をとおった。しかし心は楽しかった。心からの解放感があった。こんな喜ばしい解放感のためには、空腹もやむをえないではないかと考えていた。
いつの間にかぬか雨がふりはじめた。コートがだんだんしめって重くなる。不思議にあたたかい夕べだった。普段なら日が落ちると同時に、寒々とした風がふくのに……。ぼくはちっとも寒さを感じなかった。森永乳業のあの多摩工場での砂塵や寒風がうそのようだった。ポケットには、まだ二百円がのこっていた。新宿の旭館に帰って、百三十円のどやちんを払い、残りで六十円定食をたべようと決めていた。
麹町をとおりすぎ、四谷まできた。とても疲れた。コートが窮屈になった。背は自然にまがり、目はおのずと地におちていた。百円玉ひとつでもみつからないかなあ、どんなに助かることか。下ばかりみて、キョロキョロしていた。人通りの多いところでは、さすがにそんなことはできなかったが……。体はぐったりだるくなり、息はハウハウとあらくなった。つらいねえ、つらいねえと、つぶやきながらあるいた。やがてそれは、リズムになって|ツ《ヽ》ラー|イ《ヽ》ネ、|ツ《ヽ》ラー|イ《ヽ》ネとでてきた。それに節をつけて、うたいながら帰った。
図書館から帰るとちゅう、ぼくは気持が変った。何も宿屋でなければ、睡眠がとれないということではあるまい。夜がすごせないということでもあるまい。眠るのには、どうしても布団と枕がいるというのか。べッドと部屋がいるというのかね。ホンコンの水上生活者は、サンパンでなければ眠れないと考えているだろうか。他の人々を見ないから、融通のきかない考えにとらわれてしまうんだ。睡眠をとるとは、肉体と神経を休めることだ。そしてそれがそうであるならば、どこでだって寝られる。公園のベンチ、運動場の片隅、ガードの下、どこでだっていいのだ。しかも睡眠は夜の八時間と限定することもない。あたたかい昼間だっていい。いや、いつどこででも、寝たいときにちょっと片付いて眠ればいい……。
そんなことを考えたので、ぼくはためしに路頭に寝ることにした。深夜の三時ごろまで街をさまよって、ごみ箱をあさってあるいてみた。あるパン屋のポリバケツには、パンの耳がよごれないままにぶちこんであった。誰かみてやしないかと通りをたしかめてから、盗みとるかのようにさっさとバッグにとりこんだ。最初の収穫だ、最初の収穫だといって、あるきながらたべた。また牛乳屋もねらった。空びんのはいった箱のなかには、たいてい回収した牛乳が一、二本はのこっている。曜日おくれにはなっているけれど、腐ってはいないのだ。ある牛乳店にはヨーグルトがあった。ヨーグルトを飲むのは初めてなので、すっぱいのはすえているからなのかどうなのかわからなかったが、とにかく口にいれた。また別の牛乳店にはコーヒー牛乳が二本もあった。腹が水ぶくれするほど牛乳をのんだ。
途中、パチンコ屋の前に放置された、がたがたの自転車をみつけたので、それを乗りまわした。ひとみんなが腹を上にし横にして寝入っている時間に、ぼくは風にのってビルの谷間をはしりぬける。爽快だった。ビルは巨大な倉庫のようだ。どこへ行こうというあてもないから、パンの耳と牛乳で腹はふくれているのにも関らず、もっと食物を求めてはしりまわったのだ。八百屋の軒先のごみ箱には半分腐ったみかんがたくさんあった。腐ったところをのぞいて、さらに腹につめた。十個ばかりもくいちらしたであろう。
こんどは寝る場所をさがしてはしった。お巡りにみつからないように用心しながらはしった。もしみつかって呼びとめられても、聞えないふりをして逃げよう。職務質問されるのがいちばんつらい。沖縄の人間であるぼくは、東京にでてきて住所は不定だし何の職業にもついていない。どうして食べているかといえば、こんな乞食みたいなことをしている。しかしお巡りはそれを信じまい。何かわるいことをしているのではないかと疑ってかかるだろう。
地下鉄におりる階段をさがしあてた。上には屋根らしきものもついている。階段の奥ではシャッターがしまっていて、午前七時までひらかないと書いてあった。これなら寝られるだろうと膝をかかえてうずくまった。しかしおもしろい冒険をしたために、頭がさえて眠れない。さすがに明けがたは寒くもある。新聞をひろいにはしった。ひとかかえもひろってきて半分は階段にしき、半分は肩にかけた。膝頭と手足の指先がだんだん無感覚になっていく。窮屈な姿勢が血行をとめたのであろうか。とにかくじんじんと痛んでいたのが、丸太ン棒のようなものになっていくのだ。
ぼくはできることなら、毎晩でもこうして路頭に寝てみようと思っていた。寝袋を買って自転車の荷台にくくりつけて、東京じゅうを放浪してあるこうと思っていたのだ。しかしそれは夏ならいざしらず、冬は無理なようだ。やはり日雇いをして、ちゃんと働いて宿屋に泊ったほうがよさそうであった。同宿のおじさんに日雇い仕事のことをきいたら、わかりやすく教えてくれて、ぼくは高田馬場へもいってみたのだ。なるほど日雇い労務紹介所というのがあった。求職係官にあってみると、仕事をもらうにはカードがいるというのだ。そしてカードを作ってもらうには居住証明書がいるという。いったいこのぼくに、どこで居住証明書を手にいれろというのか。残念だった。宿屋の宿泊証明書でもいいというのならまだしも、いや、それでさえも宿泊して間もないぼくにくれるかどうか、とにかくふんぎりがつかないままに、図書館にでかけたりしたのだ。が、何としてでもカードをつくりたかった。
早朝の電車は明りをこうこうと輝かして、陸橋の上を走っていた。いかにも暖かそうだった。あのシートが恋しかった。自転車もそのまま駅へむかった。足がちくちくして、針ぶすまをふむような思いだ。駅の時計は四時四十分。ぼくは苦笑した。こんなに早々と家をでてきているのは、広い駅構内にたったふたりっきりなのだ。
山手線は東京をぐるぐるまわっているだけだから、寝込んでいても安心だった。暖房のきいたシートにすわって、首うなだれた。ぼくはあたかも、泥酔して留置場にひと晩をすごしてきた男のようにみえたことだろう。
誰かにゆすりおこされたようで、目をさましたら、もうかなりの乗客があった。立っている客はひとりもいなかったが、前の席の人たちが、ぼくをじろじろ見ていた。四人分の席をひとりじめにして、ぞんざいに寝ていたのだ。恥ずかしくもあって、はねおきて身じまいをなおした。それから窓の外に顔を向けると、公園のような広場があって、たくさんの浮浪者がいたのだ。
見おぼえのある場所だと思ったら、そこは高田馬場だった。浮浪者にみえたのは、日雇いたちだった。そこへ行ってみることにして、電車をおりた。その前日、求職のことをききにきたのは、昼まえだった。公園はどこにでもある公園と同じだった。が、いまは一変していた
。 雑巾のような手拭いで、ねじり鉢巻きした男。よれよれの紙バッグをさげて、よろよろと歩く男。顔に黒土をぬたくったとしか思えないような男。いかつい肩で人混みをかきわけている男。そんな男たちがたむろしていたのだ。みんながみんな、傷か欠陥か前科か弱点か、そんなものを隠しもっているような感じだった。ぼくは恐くはありながらも、そんな人たちの中にはいっていった。
路上にはむしろがしかれて、出店がひらかれていた。作業着や地下たびや軍手はもとより、古着や古道具もあった。布団や毛布さえ売られていた。露天食堂も三軒あって、戸板でつくったテーブルにはいろいろなおかずが並んでいた。もつの煮込みをどんぶりのめしにかけて売っていた。やきもち屋のおばあさんもいた。やきたてのもちに、きな粉をたっぷりかけて五円だった
。 道路の片側には、マイクロバスやほろをかぶせた車がとまっていた。運転手のような、世話役のような男たちが声をあげていた。ヨ、あんちゃん行かねえか? なんだおめえ、ひやかしか。ほら乗れ乗れ、あと三人できまりだ。おい、アルバイト生、おめえズックか、しょうがねえな乗んな。ほいあと二人あと二人。やろうてめえ、皮靴はいて仕事できるか、なにたび持ってる?
ほんなら乗んな。ほいほい、あと一人、あと一人! 路上のそこここに焚火がたかれて、みんなが手をかざしたり尻をあぶったりしていた。よびこみの声には耳をかそうともしないで、焚火にはしりよってくる者もいた。そしてひたすら立ちつくすのだった。楽な仕事、金になる仕事を待っているのだろうか。あるいはふところに金があるので、働く気がしないのだろうか。線路の向うには太陽がのぼりはじめて、ときどき、通勤客を満載した電車が、光をさえぎって走りぬけていた。
宿屋の主人から宿泊証明書をもらって、日雇い労務紹介所へいって求職カードをつくる手続きをした。宿泊証明書でもよかったのである。カード番号六九四五、雑役夫。失業保険と健康保険の手帳もつくった。あしたから紹介所へいきさえすれば、仕事がもらえる。三日に一日はあぶれるということだったが、まあだいたいは就労できそうだ。
ついにぼくは日雇いになった。一日働いて、二、三日休んでは勉強するという生活がぼくの念願だった。ふるさとの家にいたときから、日雇いの生活がぼくにとって最も適切だということがわかっていた。そしていまこそ、ひどい廻り道をたどってはきたけれど、それが実現できたのだ。天の父がぼくを導いてくださったのだろうか。
都会地では、誰もぼくを知っている者がいなかった。人はみんな見知らぬ他人であった。誰にも恥じることはなく、外聞を気にすることもなかった。汚れた仕事着のままバスにのったり、土だらけの靴のまま電車にのったりしてもかまわなかった。しかし田舎の町ではそうはいかなかったであろう。
路頭に寝ると睡眠不足で頭がいたくなる。まず睡眠はじゅうぶんにとることだ。空腹よりもこっちのほうがこたえるのだ。神経がつかれて夢遊病者のようになる。そんなことでは文学勉強もおぼつかない。食事もとったりとらなかったりでは栄養失調になる。それも必要なだけちゃんと食べることにきめた。働いて、よく食べてよく寝るという生活が、体によいし頭にもいいようなのだ。そして勉強するというのが望ましい。
ぼくは肉体の欲を軽んじることはできるけれど、肉体そのものは軽んじることができない。なぜなら肉体は、天の父がぼくに着せてくれた作業服のようなものだからだ。ぼくはこれを勝手にぬぎすてることも、ひきさくこともできない。そんなことをすれば父の意志に背くことになる。この服をきて地上で働いてるうちに、すりきれたり破れたりするというのならかまわないのだが……。
またまた仕事にあぶれた。カードをもらって二日目なのに……。仕事の紹介は六九三四番で終ってしまった。ぼくは六九四五番。もうちょっとでまわってきそうだったが、日曜日は十四人の求人しかなかったのだ。質屋にいれたブレザーコートの金で、きのうまで暮らした。五百円の金は二日使えた。ここにのこっている六十円は、あした仕事にいくときの電車賃だ。
田中製本にまだいくらか、もらうべき給料が残っていることを思いだしたので、とりにいくことにした。二十日しめきりの月末給料だったから、十日分はある。残業は計算にいれなくても、十日で五千円以上だ。自分が働いた金をもらいにいくのに、何の気がねがいるだろう。とはいいながらも、ほんとうは藁《わら》をもつかみたい気持だったのだ。「お、なんだ、いまごろ給料とりにきたのか。ずいぶんまったぞ。ほれ、ここに計算してある。じっさいお前には、まいったよ。なんだって無断で、でていったりしたんだ。一ト言ぐらいは、ことわってから行くのが礼儀じゃないのか。沖縄の人間ってのは、みんなそうなのか。正月くってにげるとは、ほんとに何ごとだい」
給料袋からは七十二円がこぼれでた。明細書をみると、本給が九日分で五千七百六十円。残業が十八時間で千六百九十二円。あわせて七千四百五十二円。それから失業保険が八十円ひかれ、給食費が十日分で二千円ひかれ、貸し布団代が五千三百円さしひかれて、その残りが七十二円なのだった。「これだけですか?」とぼくはいった。「これだけかってったって、計算のとおりだよ。見りゃわかるだろう?」「布団代もさしひいたんですか? いつもは……」
「あたりまえだ。布団だってお前、使ってりゃ古くなる。貸し布団屋にいってみな、一日百円だ。それから考えりゃ、安いもんじゃないか!」
おそれいった。いまだかつて、布団代をさしひかれたことはなかったのに、こんどにかぎってはさしひいてるのだ。これが無断でとびだしていったぼくへの腹いせなのだろうが、何とも姑息《こそく》なやりかただ。そんなこととは知らずに、七十二円ぽっちをもらいにきて、いい恥さらしだった。もちろんぼくにも非はある。
事務所をでて、工場のなかをとおりぬけたら、新助さんがいった。「どうだった? ちゃんとくれた?」「さんざん叱られて、たった七十二円だ。五千円も布団代をひいてあるんだもんな、がっかりだよ」
それをきいていた大原がいった。「ばかだなァ、そんなのほっぽっとけばいいのに。のこのこもらいにきてさ、叱られるだけ損だろうが?」
「ほんとだ、もう二度とこんなところには、こないでおこう」
あしたはきっと仕事がもらえるだろう。五時半におきて職安にかけつけて、すぐにカードがさしだせるように、いちばん前にたっていよう。もし、あした仕事にあぶれたら……いや、そんなことは考えないでおこう。そんな心配をして何になるだろう?
とにかく、今晩はこの七十二円でめしがくえる。それだけでも有難いと思うことにしよう。
日比谷図書館にきてみたら、長い行列だった。遅れてきてはなかなか入れないことはわかっていたのだ。しばらく行列に加わって立っていたが、いやになってしまった。きょうの楽しみは、何の目的もなく街をさまよい歩くことさ。そんなことをいいながら、ぶらぶら歩いた。道のそばの子供遊園地では、ベンチに坐って子供たちのたわいない野球をみたりした。
それからまた歩きはじめて、けっきょく一日じゅう街をさまよったのだった。[#地付き]〈了〉
初出一覧
オキナワの少年
文學界昭和四十六年十二月号 島でのさようなら
文學界昭和四十七年五月号
以上二篇は、昭和四十七年五月『オキナワの少年』として文藝春秋より刊行された。 ちゅらかあぎ
書下ろし作品として昭和五十一年九月、文藝春秋より刊行された。
〈底 本〉文春文庫 昭和五十五年九月二十五日刊
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