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作者:日-東峰夫/东峰夫 当前章节:15357 字 更新时间:2026-6-16 01:47

 ヨーコがバケツと雑巾とをもって中廊下をとおっていった。が、ふとそこの白い足あとを見つけてしゃがみこんだ。蜂の巣のようにカールピンを頭にいっぱいつけて、短いスカートをはいている。ちらっとぼくの方を見たけれど、ぼくはカバンとメリケン袋の二つの荷物を机の上において、そしらぬ顔をしていた。

 女たちが風呂にいったので、ぼくは茶の間にでてごはんをかきこんだ。「はあもう! 立っちょるまんまな? 行儀|悪《わ》っさや。魂《たまし》いりかえらんだれえ、おとうんかへまた扱《すぐ》られゆんど!」

 気がつくとおっかあが台所からにらんでいた。汗のふきでた顔はいっときの間にやつれたようにみえた。おっかあは飯釜をもってきて、ちゃぶ台のそばにおいた。「味噌汁《んそしる》は温《ぬく》ためらな?」「ううん、済むんよ!」「おかずは足りゆんな? 待《ま》っちょれえ、卵買うて目玉焼きつくらな!」

 おっかあは買物カゴをさげて走っていった。そのうしろ姿を目のちびでみたぼくは、くすんとなってしまった。おとうの厄介になるのはやめようと、あれほど固く決めていたのにごはんものどをとおらないんだ。「いまごろになって心をゆすり動かされて、ちきしょう!」 どうしていいか判らないのでたちあがって部屋にはいると、机のうえにかばんとメリケン袋の荷物だ。「すっかり準備もととのったいまになってもう!」

 ぼくはカバンとメリケン袋をつかんで、心で騒ぎながらも裏庭から通りへでていった。

 メリケン袋の荷物は大きくがさばって、それを背負っているのがおかしかった。巡査にみつかればあやしまれるだろう、道で顔見知りにあうかもしれないし……ぼくはひっかえして、便所のそばの古木材の下にメリケン袋の荷物をかくした。もどって……そうだ、暗くなってからもういちどもどってきて、それからもっていけばいいだろう。

  35

 町をでると風においたてられたちぎれ雲が、イッサンゴーゴーみんな同じ方向にとんでいたよ。ぼくもイッサンゴーゴーにげていった。やっぱりぼくは、親に厄介をかけるのがいやなんだ。

 いそいでとんでいる雲は陽をさえぎって、あたりがパッと暗くなったり、それからまた急に、パッと明るくなったりした。遠くの畑や森のうえをそういう雲の影が、だれにも邪魔されずにはしっていたよ。うしろの、みんなが四苦八苦している町のうえの空には、雲が待ち合わせてもうじき雨をふらせようとしていた。

 いつまでも、あんなおなご商売をしてからに!

 ふりかえったついでにべろでもだしてやろうかとしていると、突然つよい風にうしろくぼをたたかれて、美里村のうえの坂にでていた。

 まっこうから吹きつけるつよい風は、半ズボンのすそやえりもとからいっぱい入ってきて、ぼくはいたずらでもされてるみたいでフワラフワラ……軽くなって空にまいあげられそうだったよ。からだじゅうくすぐられて、あおりたてられて……そう、あおりたてられるばかりでぼくはいやだったんだ。

 海はいまはもう、白い荒波をたてて、こゆいきりでおおわれていた。海のむこうの半島の山襞も潮をふくんだ風につつまれて見えなくなっていた。 浜につくと、ぼくはすぐ桟橋の様子をたしかめに走っていった。監視小屋の前には乗用車がとまっていて、桟橋のうえでは大きなアメリカ人が動きまわっていた。ロープをつかんで引っぱっては、ヨットやボートに渡してしばりつけている。すでに他のヨットやボートにはすっぽりとカバーが被せられ、何本ものロープで頑丈にもやわれていた。

 ぼくはもうひとつの荷物をとりにいかなければならないので、ひっくりかえされたサバニ舟のしたにカバンをおしこんだ。

  36

 突風にまじってパラパラッとおちてくる雨のなかを帰ってきて、金城商店の横から走りでたぼくはあっといってたちどまったよ。四軒目のぼくの家の前では、おとうがげんのうをうちふって表の戸を釘づけしていたんだ。軍作業から帰ってくるなり、すぐ暴風対策をはじめたんだろう。あの汗臭い兵隊作業帽をかぶっている。とすれば角材をとりだすのに、便所のそばの古木材をひっかきまわしたにちがいない。古木材のしたに隠してあったメリケン袋は、見つかってしまったことだろう。

 ぼくは金城商店の横に身をかくして、ぼくをしめだそうとするかのように、戸を釘づけしているおとうをまた憎んでいた。金城商店のおじさんは、屋根にあがって薪をなげおとしている。屋根のうえの電線は風にゆれてビュウビュウ鳴っている。もう、家に用事はない。むさむさしている暇もない。

 37

 風にむかってあがこうとしても、水の中をあるくみたいに気持だけがあがき乗りして、からだの方はままにならなかったよ。鼻も口もブサッとふさがれて……。

 水の中をあがっていくぼくの前には、まぶしい砂浜がひろがって、みどりの島がまっていた。

 あがいてもあがいても、ひとつも前にすすまないから、ぼくはくちおしくなって風にうちかかってやった。すると風の方がまけて、その拍子に前にでられたんだ。肩でうちかかってはふみだし、腹でもたれかかってはおしすすみしてむかっていったよ。

 風は道の砂をまきあげて、砂つぶてにしてうちつけてもきた。チクチクチクチク!

 砂つぶては顔や腕や足につきささっていたかったよ。パチパチパチパチ!

 それは漁師の家の板壁にもはじけていた。

 いまごろになって庭のバナナの葉をきりおとしてる者がいる。どこかの屋根のトタンが風にあおられながら、ガランガラン道をとんでいく。あぶなくてならないから、ぼくはむさっとしないで風にうちかかって、漁師部落をぬけていった。

 メリケン松はうす暗い空に枝をあげてわめいていたよ。みどりの島にあがっていったぼくもワーッとわめいていた。松のしたにたどりついて幹につかまりながら上をみあげると、まるで気がふれた女の髪みたいに枝がふりみだれていた。抱いてやろうにも大きくて……ぼくにはみんな大きくて無理だったんだ。

 監視小屋は三方の窓を戸板でかくし、表のガラス戸だけが電燈にひかっていた。ぼくは松のしたからガラス戸に人影がうつるのをまってみた。もう半島も海も桟橋もまっくらだ。ガラス戸の前を光に照らしだされたしぶきが白くかすめているきりだ。

(おじさん! ヨットはロープがすりきれて流されていったというんだよ。そうすれば責任はないから。ぼくもうまくすりきってやるからね!) 風にわきたつ波頭からふきちぎられた潮は、雨のようにあたりいちめんにふりかかっていた。しおっぱいしぶきとなって……。おじさんは何をしているんだろう。ぼくの心臓はドクドクドクドク脈うって、頭は血でいっぱいになってきた。

  38

 ぼくは這って監視小屋の前をとおりすぎた。かばんの中の水筒に水をつめてくるのを忘れていたけれど、もうひっかえせない。

 桟橋の上でもたつことができなかった。たてばひとたまりもなく吹飛ばされて、わきたつ海にころがし落されそうだった。あせりながらもそのままよつんばいになって、はしごをのぼるような恰好でむかっていった。 ヨットらは思っていた以上に頑丈にくくられていたよ。ロープをつかんで引きよせようとしても寄ってこない。海の中の係留ブイと桟橋の杭とから、両方にひっぱられているんだ。わずか十メートルぐらいの間隔ではある。ぼくは手と足を使って、ロープにぶらさがりながらたぐっていった。

 ヨットの間からは、渦まいた潮がドドーッともりあがったり、ググーッとへりさがったりしていたよ。ぼくの重みでロープがたるんだのか、もりあがった潮がはげしく背中を洗って、もう流されるっと思ってるうちに潮がへりさがってくれた。その間に夢中でたぐってヨットの脇腹につるされたタイヤに足をかけた。 ナイフでカバーをきりさき中にもぐりこんでみると、何と用心のよさだろう。キャビンにはさらに鍵がかけてあった。しかし、ぼくはもう半分は安心していた。体はカバーにかくれているし、鍵をこわす音もきこえはしないだろう。

 キャビンの中にはニスとロープの匂いのいりまじった空気がこもっていたよ。ずぶぬれになって、投げこまれたロープの上にかがみながら、ぼくは心で叫んでいた。

(やったぞ、ついに忍びこんでやったぞ! さあ、吹きあれろ、もっと吹きあれろ! そうして強い吹きかえしになってやってこい!) 風は海から島にむかって吹いていた。台風の目がとおりすぎて、吹きかえしになれば島から海へ風むきが変るんだ。その時ロープをきられたヨットは湾を吹きだされて、ひろい外海へのがれさるだろう。強い吹きかえしであればあるほど、はやくにげられるというものだ。

(沖へ出たら帆をあげよう! ああ、はやく吹きかえしがこんかなっ!) ナイフをにぎりしめてうずくまっていると、ヨットの底をドッドッドッドッと潮がぶちあたり、ゆすりあげ、流れさっていくのがわかったよ。それは足を伝わって、ぼくの体の芯にもつきあげてきて、フッフッフッフッとするようなはげしい武者震いとなってつつみこんできた。[#改ページ]

島でのさようなら     Ⅰ

 そうですねえ、この島のことについて、まあ、ひとくちでいってみるならば、こんな風にでもいえるでしょうか。 ──どこかに向かってまっすぐに歩いていくと、基地の金網にぶつかる。金網にぶつからなければ海へつきでてしまう──

 いや、実際、この島は小さな島ですからね。海だけがひろびろとしていて……。 小高い丘にのぼれば、その海が両方にみえますよ。こちらは太平洋、あちらは東支那海! 二つの大海がいちどきにみえるんです。爽快な眺めではあります。富士山からアメリカとアジヤを眺めているようなそんな感じで……。

 海からの潮風は、この島をひとまたぎします。いえ、ほんとですよ。台風の日などには、潮そのものがとんできて、雨のようにふりかかることもあるんです。すると全島、これあかがれた晩秋のいろ、たそがれのいろですよ。あんなにワイワイ競いあっていたみどりが、一朝にして死のいろですからね。それはもう、悲しい光景です。

 そして、そのかれしおれた島の上に、これはまた、何という強烈な太陽でしょうか。雲ふきはらわれ、ちりも洗いきよめられた、こんぺきの空からジリジリと太陽が島をやきます。うわはは、うわははは。ながねん島に住んで、たびたび目にするそういう光景──島の風物──ではあっても、それでも気が変になりそうで、用もないのに家をとびだして、忙しく外をかけまわりたくなります。    

「はあもう! 昨夜《ゆんべ》のからっ風は、あんしバンバン暴《あば》れたるやア! あねッ、この家は無事やったえさヤ!? いちばんに割らるるかと思ったれヤ!」「呆っ気さめよイ! マサーッ、なりふりは構《かま》って歩《あ》っけヨ。いかに年寄《としよ》いやってン、汚れシミーズのまんまなア。して家は無事イな?」「へいな、大家は無事やしがヨ、豚の屋《や》と便所は持っちいかったんヨ。いい場合やサ、あん如《ごと》うる古屋《ふるや》は早く持っちいかって……。うち壊《こわ》する手間《てま》んかからん……」

「ひたいの汗、取ってはなげ取ってはなげし、急ぎ来よるもん、気がかりやったサ!」「へえ! ひたいにン汗こころにン汗! ただいまから、豚の食物《もの》の心配しおるさア。高潮にやららって、芋も早《へえ》く掘らんだりゃ腐らんかヤ、まあだ三月《みつき》にもならんもんによオ!」「ンでもはあ、思惑《しわ》しても仕方あんな? なんとかなゆる筈やろもん……して、童ァ達やみんな元気イな?」「へいな、あのガキ猫達や、起きる早々から尾をふりたてて浜に走りとばしたせえ! 波にもまって弱《よう》とうるコブシミイカでン、よせてや来ちょらんかやといっち……あれ、よしお! 便所たてなおすることやろもん、あとから手兼《てが》ねしに来《く》うよ!」

 まあ、そんな風なやりとりが島中でよびかわされるというわけです。けれどもマサーというのはぼくのおふくろではありませんよ。念のため。  

* 

浜に走りとばすといえば、ぼくがこども……いえ、ガキ猫のころにもよく走りとばしたものですよ。「つね! おとうの手伝いもせんで! 聞からんな!」 

弱りはてた大きな鯨が、浜でのたうってるかも知れないと思えば、おふくろの声など耳の端《は》でも聞けないものです。 空がふき清められてきれいならば、道もきれいにふきはかれていて、ちりあくたは全部溝にたたきこまれています。はだしで走ったって、けがなんかする道理もないですよ。

 走りながらあたりの様子をうかがうと、この上もなく地上が明るいわけがすぐに見てとれます。風のやつは木の葉や垣根の小枝をもむしりとって田んぼの畦うち、道の側のくぼにはきこんでくれているのです。もっとも、農家の板塀をバラして溝におしこもうとしたり、田の中をころころ転がって稲をたおしたりしたのなどは、ちょっとひどすぎるといえなくもないんですけど……。

 浜はおお騒動です。したりしたり! 風のやつはよいことをしてくれたものです。半島の岬のホワイトビーチ軍港に泊っていた、アメリカ軍の冷凍船をひっぱりだして、暗礁にたたきつけて割ってくれたのです。いろんな罐詰が、箱ごと波にもまれてうちよせてきます。村人たちは波うちぎわにたって、

「寄って来う! 急ぎ来うっさ!」 箱に手招きしています。ひろいあげた箱は砂浜につみあげて、旗じるしに自分のこどもを坐らせています。ああ、こういう時にこそ!……うちの頑固おやじはもう! ぼくはおやじをよびに全速力で飛ばしましたよ。

 ところで、おやじをつれて浜へもどってみると、ありゃりゃ、さっきの騒動はうそのようにしずまっていました。アメリカ軍が回収にこないうちに、箱をかついで逃げたのでしょうか。ひとひとりもいなくなってました。

 それでも浜にたっていると、何やら屍のようなものがいくつも、いくつもよせてきます。見ると、それはまるはだかの豚でした。冷凍ものは腐りやすい。臭いはじめた豚をひきあげて、何とかならないものかと、考えたあげくに油をとってみることにして、おやじは家から大鍋をもってきました。薪はそのあたりに、うちよせられた木っ切れ板っ切れがたくさんあります。豚はよさそうなものから、ためつすがめつ選んで、こまぎれにし、大鍋でぐちぐち煮だして油をとってみたんですけれど、油にも臭いがうつって駄目でした。それでも捨てるのはおしいからと、一斗罐につめてかついで帰りました、が、臭いはだんだん強くなっておふくろにどなられました。「あいなッ、鼻もまがゆる如《ごと》うし。あん臭《くさ》さるものは何《ぬ》やがよッ」

 しかたがないから、うちの豚の餌にまぜてやることにしましたが、豚のやつもいそいで鼻をそむけました。

 それから、そのあくる年でしたか、あくるあくる年でしたか、またまた台風の後のおお騒動がもちあがりました。その時は、浜のほうでではなく、山のほうで、でした。というのはアメリカ軍もだんだん悪がしこくなって(失礼)、台風がくると、いちはやくレーダーでキャッチして、飛行機はもとより、船もほかの島の基地へ逃がして、割られるようなへまなことはしなかったからです。 けれども、飛行機や船は逃げられても、兵舎は逃げられませんよ。丘の上にひとを見下すかのように、威張って建っていたものですから、たちまちうち壊されて、もうトタンはとんでくる。ベニヤ板はとんでくる。毛布や衣類もとんでくる。

 この島の人々は、台風のこわさをよく知ってるものですから、山の風陰や、谷の間にかたまって村をつくっているのです。そこへちりあくたといっしょに、値うちのあるいろんなものがとんでくる、というわけでしてね……。その時ばかりは、うちのおやじも前のことで魂が入ったのか大活躍して、トタンを何十枚も、それにベニヤ板やなんかをひろい集めて、雨の中を、自分の畑に穴をほってかくしました。そして、ほとぼりがさめてから掘りだして、町に新しい家をたてて引越すことができたのでした。

 ぼくの方も大活躍。溝におちているシーツカバーや田んぼに浮いているジャンパーコートを戦果にしました。ジャンパーコートは、とても上質なものなので、これは青年団にはいっていた兄々《にいにい》に献上、兄々が七、八年も着て、それからぼくにさげて貰ったのですけど、ちょっと黄ばんでいただけで、島をさようならする時まで四年ばかりも着ていましたよ。 

 *

 あっちこっち、島は基地だらけです。そして、この基地からあの基地へ、渡り廊下のように軍用道路がかけわたされています。島尻の方のナハ飛行場から、島頭の方の奥間ビーチへつらぬく一号線。その一号線にそってナハ軍港、マチナト落下傘部隊、キャンプ桑江、ズケランハウジングエリア、カデナ飛行場、チバナ弾薬庫、グリーンベレー訓練場などが並んでいます。一号線にはたくさんの分岐があって、クバサキハイスクールへの十三号線、ホワイトビーチ軍港への二十四号線、というぐあいに、島中、ほうぼうに行きわたっています。

 コザという町は、そういう島の中央部、軍用道路が交差するところ、部隊と部隊のはざまにできた町です。(税金がたかい、物価がたかい。やせた土地にしがみついては暮らしがなりたたん。こどもの教育もできん。町へでた方がよろしかろう)そんな目安だけで町へ引越してきた住民で、この町はふくらんで、もう部隊の柵に迫っています。今にも柵をおしたおしそうです。柵がとりはらわれたならば、なだれをうってたおれることでしょう。

 柵の内側には、さつま芋畑や野菜畑がぽつぽつとあります。(このやろう、使いもせんくせして、やたら土地とりあげてからに) 柵内にはいって耕作した人は、そんなつもりなのでしょうか。(あったら地をなア、もったいない。さとうきびでン植えちょかな)

 賃貸料が安いので、もとの地主たちが入りこんで、耕したのかも知れないのです。(借地法にのっとって契約書もとりかわし、立入禁止の札もさげてあるのに、これら愚昧《ぐまい》な民衆どもには手を焼く)アメリカ軍は、黙認せざるを得ないかたちです。

  *

 町へ引越した最初の夏のことです。ぼくは工作の宿題を、すすきのほうきでも作ってもっていこう、と思って柵の中に入っていきました。それがいちばん簡単で、手っ取りばやかったのです。ちょうど、女生徒がぼろきれで雑巾を作ってもっていくみたいに……。そしてそれは、そのまま学校で使えるからよろこばれもしたんです。

 もと、諸見里《もろみさと》の村があったあたりには、すすきがたくさん茂っていました。立入禁止の立札には〈軍用犬の哨戒あり〉と、そえがきがしてありましたが、それは夜間だけのことで、昼間は柵にそった巡察路にガードの姿さえ見えないことを知っていました。 

ジープのタイヤでふみかためられた巡察路は、万里の長城のようにくねくねと、谷にくだったり坂をのぼったりして、陽光にしろく照りはえています。ガードがジープに乗ってとおる以外に、とおる人のいない路はひっそりとして空しいような感じです。

 ぼくはすすきの穂をかりながら、比嘉さん(父の友人)のキビ畑はどのあたりだろう、帰りには二、三本もらっていきたいな、と思っていました。するとうしろで、ピューッと指笛がなって、ぎょっとしてふり向くとガードが仁王だちしていたのです。

 "Hey, what're you doing here, get out!"(おい! そこで何しているんだ、出ろ!) ぼくはいそいで巡察路をわたり、金網がめくれている出口に走りました。

"Hey!"(おい!)また、よんでいます。

 "Come here!"(こっちこいよ!)

 ただじゃすまないのかな、と思ってぼくはびくつきながら、近づいていきました。ガードは洗濯とアイロンでピカピカのカーキーを着て、腰にはピストルをつるし、足には白いゲートルをまいています。みがきたてられた軍靴には、ほこりもついていません。それで、第二ゲートの立番のC?Pであることがわかりました。ぼくが柵の中にいるのをみつけて、ゲートのところからゆっくり歩いてきたのでしょう。C?Pはぼくの鎌をとりあげました。とりあげなければ、それで切りかかるとでも思ったのでしょうか。とんでもないことです。

 C?Pは鎌で草の先をなぎはらいながら、古屋敷の方へ歩いていきます。ぼくも、鎌をかえしてもらわないとおやじに叱られるので、ついていきました。古屋敷は草ぼうぼうで、生垣の仏桑華も大きくなっています。C?Pはぼくの肩をつかんで、門口の古い石段に坐らせると、いきなりズボンをさげて突起をだしたのです。これはどういうことなのでしょうか。ぼくは歯をくいしばって顔をそむけました。なぜ、こんなことをするのでしょう?

 柵内に二度と入らせないために、こういう侮辱を与えてやれと、隊長から命令されているのでしょうか。ぼくは頬のすじをぴくつかせながら、遠いところをみていました。C?Pはこの程度でよいと思ったのか体を離しました。 

ぼくは走りました。もう、射たれてもいい、今に発射音がして背中に激痛がくるぞ! ほら、ねらってる! 走りながら、ほんとうに背中がピリピリ痛かったのをおぼえています。

 柵の外へでて、草をつかみながら土堤をはいあがっていると、頭をかすめて鎌がとんできました。親切気をおこして、鎌をなげかえしてくれたのでしょうけど、ぼくは、腹がたって、ようやく腹をたてるゆとりができて、ふりかえってみたのです。C?Pは笑ってこっちをみていました。ぼくは鎌をひろおうともせずに、いそいで人家の間にはいっていきました。そして、いやなことは早くわすれてしまおう、と思っていました。

 それから四年ほどして、高校を中退したぼくは、おやじのコネでその基地内に働かせてもらうことになって、C?Pにパスをみせながら、同じ第二ゲートをはいっていきました。が……あの時のことをおぼえていたでしょうか。いいえ、おぼえていませんでした。

  *

 これも町へ引越してきた最初の夏のことです。学校から、昼めしを食べに家へいそいでいると、向うからやってくる二人のアメリカ兵が、こんなことをいっているんです。 

"Hey look at!, SAKUHACHE girl."(おっ、見ろよ! サクハチだぜ)

 "Oh yeah? Are you sure?"(えッ、そうかい? ほんとかい?) 嘲けられているのは誰だろうと、顔をあからめながらふりかえると、口紅をまっかにぬったあの女が、上体をゆすりながら歩いていました。 

ふとっているのに、何というすばやさでしょう、ぼくの横をダッとかけぬけると、二人の兵隊の間に体をぶっつけて、腕をつかまえました。

 "Come on."(おいでよ)

 "Are you going to kill me?"(おれを殺すつもりかい?) ふたりの兵隊は笑いながら、腕をふりもぎって両方に逃げました。

 "Come on!"(おいでよ!) 鼻へぬけるような、甘えた声をだします。

 "Boar-shit."(豚のくそッ) その女は、ぼくの家の近所に間借りをしていたのです。マリーという四つの女の児と、ジョージという三つの男の児、ふたりを抱えた四十女で、第二ゲートの通りにでてはアメリカ兵をつかまえているということでした。アメリカ兵をつれてくると、ふたりのこどもを外へ追いだして商売をするのでした。

 ある晩、本屋をめぐって、遅くなって帰ってきたぼくは、そこの家の前で追いだされたマリーとジョージをみつけました。マリーは短くなったスカートから、汚れたズロースをのぞかせて、ジョージは長いメリヤスシャツひとつを着せられて、ふたり並んでたちながら、戸に顔をくっつけています。「かあちゃーん、さむいよー」 

マリーが、のぞいていた節穴からなかによびかけます。「かあーたん、さぶいよー」

 ジョージも、戸のすきまからマリーをまねて、云っています。 ぼくは、うわはははと逃げましたけれど、いつまでも、その声は耳にのこりました。   

 *

 さて、以上が、この島のありのままの、しかし、概略的な姿です。そして……そして……はなしはこれからですよ。

  Ⅱ

……うーん……高校を……逃げだした、については、これはもうトルストイを読みすぎた、という以外にいいようがないんですよ。

 春、二年の新学期がはじまったばかりのある朝、一八番英語教室から二三番化学教室へ歩いていると、向うから膝まであるゴム長をはいた親友の恵二君が、本を読みながらやってくるので、「おおっす!」 と、声をかけたんです。「よオー、きょうはあったかいなア!」

 あったかいというのは恵二君にとって、幸福であるということの同義語なので、ぼくもうれしいのでした。寒い日にうぶ毛をたててふるえている親友をみるほど、つらいことはないですからねえ。「おい、つねお君、ちょっとここを読んでみろよ」「え、なに?」 なるほど、化学室へ通ずる石段の上はやわらかい陽をいっぱいに受けて、風もありません。恵二君がはいているゴム長は、結核療養所へいってしまった彼の兄さんがのこしてくれたものです。

「読んでみろよ、ほら」「ここ? どれどれ……学校は、こどもたちが学びたい事柄を学びたい時に、学びたいだけ学ぶことができるようにとの意図で作られた殿堂ではなく、教職員がすべてのこどもを手際よく鋳型にはめこむことができるようにとの意図で作られた工場なのです。そうです、ここではこどもたちの一人一人を『秩序ある社会人』という鋳型にはめこんで、はみだした部分を容赦なく切りすててしまうのです……ふうーん、ほんとかなア、ふうーん……だれの本?」

 表紙をみると、「人生の糧?春の巻」トルストイとなっていました。「戦争と平和の……か?」「そうだよ」 恵二君は、働き手の兄さんがいなくなったので、学校の寄宿舎のひと部屋に母さんとふたりで仮住いしてるんです。が、大変な勉強家でいつもぼくの先を走っています。

 ゴッホの絵のすばらしさを判らせてくれたのも、もうじき地球に最後の日がくるという「予言の声のキリスト教」を教えたのも彼なのです。(最後の日はなかなか来そうもありませんけれど、その日には燃える大いなる火天より落ちきたり、とあるのです。核戦争を意味しているようで、不安だけはのこっています)ぼくは、彼がもちきたらすものに興味を抱いているのでした。「ふーん、真実をいってるみたいでもあるねえ、この本は」 それから、あてずっぽうにページをめくって、めくられたそこを読んでみるとこんなことが書いてあるのです。

「一八一九年にジェリコーが描いた『メデュース号の遭難』は時のサロンに物議をかもしだしたが、あの遭難事件の地獄図絵は現代の社会生活にもすっかりあてはまるのである。人々は粗末な板で急ごしらえしたいかだの上に、ひしめきあって生きている。ここで生きのびるためには他を蹴落し、他をふみつけながら上へはいずりあがらねばならない。そして最も力の強い者が最も安全な場所に居坐り、その次に力の強い者がいい場所をしめて、いかだのはじにつかまりながら死を待っている者の肉を喰らいつつ漂流し、別のいかだに接近するやいなや、そのいかだを奪うために血なまぐさい闘いをいどみあうのだ」

 うわはは、とこみあげてくる笑いをおさえながら、ぼくはその本をとじて表紙をさすりました。「この本は……読んでやってもいいよ、貸してくれ!」「ぼくが読んでからな、だけどいいかなア」「うん、いいと思う、うん、いいよ、実にいい!」「そんなら、二、三日内に図書館にかえすからな、そしたら借りだせよ」「え? 図書館? 学校のかア?」「そうだよ」「いやア、ほんとかイ?」「上の棚に全集がずらっと並んでるよ、少しかけてるけどな」「いやア、ほんとかア」    

「親愛なるチュトルコフ様、あなたが書いてよこされた事柄について私の(中略)。

秩序ある社会人とはいかなるひとのことをいうのでしょうか。私は官憲を恐れずにはっきりと申しあげます。 先祖代々、労力の大半を搾《しぼ》りとられてきた人々が、わしらの富は流れながれて資本家の倉に集められているぞ、とりかえせと『一揆』や『世直し』などの旗をかかげて集まり騒ぐのを、『暴徒』だとか『秩序破壊者』だとかと称して警棒でたたき、発砲し、逮捕しては監獄にぶちこむという、そのことによって鎮圧させられた人々のことを秩序ある社会人というのです。

 だから、ここでいう秩序とは実に奇妙なことだけれども、要するに支配者が搾取と虐待によってなりたっている自分たちの生活を治安活動によって維持することができている状態のことをいうのです。警官と監獄とを擁している政府とは支配者に結託した暴力組織であり、その政府の教育行政によって作られた学校とは理知と良心に富んだ新しい世代のにない手を無知蒙昧化し、その上で一部の者を組織にとって有用な成員にするための出先機関です。あなたのご子息の進学について(中略)」   

 *

「おッ、つねお君、どうしたんかねちかごろ、まるっきり授業にもでんそうじゃないか! 

いずみ先生が、ちょっといってどんな悩みがあるのか相談にのってやってくれっちゅんでね、きみをさがしてたんだけど……どうしたんかね? 勉強はきらいかア」

 担任のいずみ先生は、絵の好きなぼくとこの美術の先生となら話があうだろう、と思ったにちがいないのです。「……勉強は……好きです」「勉強が好きならどうして……授業も受けんで、ええ?」

「……授業は……受けてませんけど……勉強は……」 ぼくはカバンをいじくってみせました。図書館から借りだしたトルストイの本が三冊に、自分で買ったのが二冊も入っています。それにノートと弁当。「なんだい、教科書は持ってきてないのか?」「………」 目の前の運動場では、女生徒たちがドッジボールをやっています。ぼくのクラスの女生徒も二、三人まじっていて、こっちをちらちらみています。「どうしたんかね、いったい……わけがわからんじゃないか、教科書は持ってこんで、図書館の本ばかり読んで……そんなことでは卒業もできんぞ!」

「……いいんです」 

この先生も片眼がわるくて、ぼくはこの先生をみると自分をみているようで、苦しいのです。だから、クラブ活動の時にもできるだけ顔を合せないようにしてたんですけど、「おどろいたね、まったく……それじゃ学校にはいった甲斐もないじゃないか、え? そうだろ?」「………」

「みんな脇目もふらずに勉強しとるのに、きみだけがこんな木の下なんかに坐って、ぼんやり」「ぼくも勉強してます!」「ほう? 何の勉強かね?」「……生きていて……何をなせばいいのか……人生に対する正しい理解がほしいんです」「人生に対する、理解?」

 うしろの音楽教室からは、ピアノの練習曲がきこえてきます。「生きていて……何をしなければならないか……それがわからなくては……生きていたって……」

 ぼくは、もうこれ以上は何もいうまい、と思って、ワアーッと叫んではボールをよけている女生徒たちをみていました。

 春がたけて、運動場は陽にかがやき、舞いあがったほこりは運動場をかこむ木麻黄《もくもう》のみどりをうすくかすませています。向うの小さな丘に密生した茅草が、風にふかれてサワサワした縞をつくりながら流れています。

「……こないだの映画見学いったかね、真昼の」「いいえ!」「………」「………」「とにかく……授業にはでといた方がいいよ!

 悪いことはいわんから、その本は放課後にでも読みなさい!」「………」「いいね!」

 ぼくは黙って運動場をみていました。先生は顔をゆがめたようすでした。    

「実をいうと、ぼくは露国史と統計学ができなくて、二回も不合格をくらったんだけれどね、そして、ようやく三回目に入れはしたけれど、またまた進級試験に落第して、哲学科から法科へころがりこんだというわけさ、ああ、あんちくしょう、イワーノフ教授のやつめ!」「………」

「歴史なんて退屈な学問だよ、要するに瑣末な数字の山と陳腐な固有名詞の羅列以外の何ものでもないと思うんだ! 統計学も同じこと、その上に無味乾燥ときている! いったい収税局や郡役所に奉職するつもりもない人間にだよ、何の必要があって統計学なんかおしつけるんだろう? きみは数学は好きかい?」「……犯すあたわざるもの、なんじの名は数学なり、さ」

「なるほど、数学は真の学問ではある。嘘のはいりこむ余地がないからね。しかし、しかしどうだろう? 定理や公式にあてはめてたくさんの演習問題をこなしつつ、無限につづく階段をひたすらのぼることを要求されるこれらの学問は、この学問にぼくは鞭の苦痛を感じるんだけれどね……数量的データの処理法を教える統計学はもとよりだよ、ものの形、大きさ、位置、その他空間に関する性質をきわめようとする幾何学、任意にアルファベットで表わした数の関係や性質を研究する代数学、その他解析学など、いったいこれらの深遠難解な学問が一般的な学生に必要だろうか。いや断じて必要じゃない。だいいち実生活になかなか応用されないし、学校を卒業した途端にみんなはそれらの学問をきれいさっぱりと忘れてしまうんだからね」

「さあてね。しかし、そうだとしても誰にも必要じゃないと断言できるだろうか?」「いや、待ってくれ、待ってくれよ。ぼくがいいたいのはそのことじゃないんだ。つまり数学は学生たちを困難と苦痛によって叩きのめす鞭として用意されてるっていいたいんだ。お前らに真の学問の深遠さがわかるか、ピシ! お前らに真の学問の困難さがわかるか、ピシ! こらッもっとしっかり走らんか、ピシ!

 そして学生たちがすっかり打ちのめされへたばらされたところで、嘘の学問、この社会の悪辣な制度を擁護弁明するためにあみだされた政治や法律や経済などの学問がつめこまれるんだ。つまり嘘の学問の嘘が見ぬかれないためには真の学問の鞭でピシピシと叩きのめす必要があるというわけさ」   

 *

「この手紙は……おい、おかあヨ! この先生からの手紙は、いつの手紙かヨッ」「え?……一昨日《おとつい》の……」

「何故《ぬうえ》に、こん如《ごと》うる重大問題の手紙、新聞の間に隠っくちょるッ、おとうにン見《み》しらんでッ」「あんまり、騒《そう》がんしが増《ま》しゃあらんかヤ、そのうち、気持が直《な》うて」「しても、まさか、学校にゃ行《い》ンじおって、授業は受けとらんといいよるもんニ、重大問題やあらぬな? ンだ、ンだ、あん如《ごと》る者はコンコンとものの道理|云《い》っち聞《ち》かさな。叩き起こしち来《こ》うッさ!」

「もう、寝《ね》ンておるもん、そっとしちょけえなア、なおこ、なおこよ」「まさか、まさか! せっかく親が銭カネかけて勉学やらしちょるもんに、親の恩義もわからん、すぐ起こしち来《こ》うッ」「はあ、もう! 騒《さわ》がんけエ! なおこ、流しに置《う》ちある米ガシガシとぎ洗っておかんな」「まさか、はあーあ!」「なおこ、朝の準備しちょけヨ……つねおは……学校やめて農業し」「え? 学校やめて農業?!」「……農業のかたわら、本買うて、本に填《はま》って勉強すンとよ」

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