「はあ? あれがすることなすこと、まったくわけがわからんサ!」「……学校がつまらんとヨ」「学校がつまらん?! 勉強せん者に学校がつまらんとナ、授業うけらんでンぜんぶ判っておるとナ?!」「………」「やめさせろイ! 授業受けらんだりゃ、何の用面《ようつら》して学校に行《い》ンじおるか! 何の用面も無えン!」「眼の悪っさることやろもん、皆の勉強に追いつかぬわけやあらぬかヤ?」「なら、なせばなると、ひといちばいに頑張り通すしが本当やあらぬな、なせばなる、なさねばならぬなにごとも、なら」
「ときどき、頭がガンガンするといいよるもん……」「ええッ?……ああ!」
*
ここに一ルーブルを持っている者がいる。その隣りに一億ルーブルを持っている者がいる、と仮定して(いや実際、それはこの社会にはざらにあることなのだ)、一ルーブルを持っている者は、それをポケットにねじこんで酒屋で一杯ひっかけるなり、一膳飯屋で腹をみたすなりしていて、別段に政治権力のありがたさを意識したりはしない。ところが一億ルーブルを持っている者は、一ルーブル持っている者の一億倍の意識で政治権力のありがたさを感じるのである。一億ルーブルがいかなる方法で集められたかは、ここではいうまい。ただ、ポケットの一ルーブルを使ってしまうと、またぞろ労働を売りに出かけなければならない多数の人々の中で、一億ルーブルを抱えて豪邸に住み、ぜいたくな生活を営むことができるのは、拳銃を持った警察官、黒衣をまとった裁判官、威容をほこる牢獄が二者のあいだにあって、一方をおさえつけ一方を助けているからであることは一目瞭然である。結論をいうならば、政治権力の確立と運営を必要とした者は、彼ら少数の一億ルーブル族であったのである。決してその逆の一ルーブル族の多数ではなかったということだ。富というものは権力によって守られていなければ、たちまち水のように平面にひろがる性質を持つものである。
*
「あら、つねおくん、どうしたの? 学校を休んでばかりいて……、病気かしらと思ったわよ、あ、教室へいきましょう」 いずみ先生は二年六組の教室へはいり、椅子を二つ廊下にだしました。「なかは暑いから、ここがいいわね、あんまり休むものだから、心配に……」
誰もいなくなった放課後の教室は窓をしめきって、ほの暗いなかに机椅子が整頓されています。顔をのぞかせて息をすうと、ほこりの臭いといっしょに、「心配になって、また手紙を書いたのよ、恵二くんに持ってってもらったけど、会えた?」
机椅子についた手汗のにおいでしょうか、なつかしいようなにおいがします。「……顔がすこしあおいようだけど、病気じゃないんでしょ、どうしたの、ほんとに」
教室の裏っ側の運動場からは、野球部員の蛮声がきこえてきます。ぼくは何もいわない先から、胸がつまってうつむいてしまいました。トルストイから受けた感銘を先生にもわからせることができるでしょうか。いいえ、決してできないにちがいない、ぼくにはことばが少ないし、思っていることを明瞭に話すことにもなれていないし、それに、それにトルストイのことばは鋭いメスです。不用心にふり廻せばきっと先生を傷つける、そう悟っていました。「……ぼく……」
それでも、このことだけは、はっきりといわなければ、と思って、「……やめたいんです」 いってしまいました。「どうして、やめたいの?」
「……経済的……理由なんです……父が……商売に失敗して……いま、金を借りたひとと裁判沙汰なんです。……高利貸で、利子の払いが遅れると、それを元金に加算して証書をかきかえさせて……それがつみかさなって、大きくなって……利子に利子をとっていたんです」
とっさにいい理由がみつかったもんだ、と、ぼくは胸をなでおろしました。
「……で? おとうさんは、仕事はしてないの?」「カデナ空軍基地に仕事をみつけて、通ってますけど……親たちがそんな風に苦労しているのに、学校でのうのうとしてるのは、ぼくたまらないんです」 教室のにおいがそうさせたのか興奮したせいで、涙がでてきます。「……でも、おとうさんは、やめさせるとは、いわなかったんでしょ?」「………」 やめさせろイ、何の用面《ようつら》もないッ、とおふくろにいってたことばを、ぼくは思いだし……ましたが、もう、胸を苦しめることしませんでした。
「……せっかく高校に入ったのに、やめてしまうのはもったいないじゃないの? もうすぐ夏休みだし、夏休みじゅうに少し勉強して、頑張るつもりはないの?」「………」
「……そういうことでしたら、とにかく、おとうさんとも相談してみましょう。あしたつれておいでなさい。やめるにしても、一時休学という方法もあるんですから」
*
東西の先人たちが究めてくれた知識や、経験からわりだしてくれた知恵のすべてを、われわれは学びつくすことができないし、またその時間も持ちあわせてはいないのである。だからここで大事なことは、ぜひとも知りたい事柄は何か、それをわきまえて、それから先に学ぶことが必要である。人体は不思議なもので、塩分が不足すると塩っからいものが食べたくなるように、頭の方も何が知りたいかをわきまえているものなのである。そして、ぜひとも知りたい事柄を先に学び、それから、次に知りたい事柄を学んでいくという風に、順序よく学んでいくならば、よしそれがわずかな学問にしかすぎなくても、学んだ事柄は生活にいかされるであろうし、十分役だつであろう。
*
学校をやめる手続きは、簡単なものでしたよ。いずみ先生につれられて校長室へいき、休学願いの用紙に名前をかき、はんこをおせばそれでよかったんです。
おやじは手続きがすんでからも、なかなかたとうとはしませんでした。わざわざ仕事を休んできてみたのに、手続きはあっさり片づいてしまったので、何かもの足りなく思ったのでしょうか。茶碗をもみながら、うちのつねお君は、つねお君は、と話すんです。自分の息子に|くん《ヽヽ》をつけるというのは、どういう了見なのでしょうか。
「うちのつねお君は、これは眼が悪いという条件から、いわんや結局、のちの勉学にそれが影響して、みなに追いつけないという困難さゆえに、学校がいやになったのではないかと、受取っておりますのですが、なんと申しますか、親がなあ、せっかくりっぱに作ってやった目を」 あ、またはじまったとつぶやいて、ぼくは窓のそとにその目をやりました。ウンカが、風にまきあげられたほこりのように、ひかりの中で舞っています。
「いためたんですか、目は」「はあ、これがおさないという年頃に、山羊の草刈りをやらしておったのですが、原っぱからさびた拳銃をひろったという日に、危険もわきまえずに石でたたいたとかで、突然もなにもなく暴発しましてな、はあ……バンという音で気がついたら、もう右の目は割れていたという、これはつねお君のはなしで、よくおぼえとるのですが、自転車のうしろへのせて医者へはしりましても、はっきりともう駄目になっとるというありさまで、のちの時分といういまごろに、なにぶんにも、もったいないことをしてくれたと、親はチャン、チャンしておるのですが」「そうですか……そうでしょう、そうでしょう」
「ま、そのことからして、医者通いのために半年ほど、学校を休ませておったのですが、事実上、勉学におくれをとって、ただもう強情になるばかりで、わけもわからぬ家出をこころみたり、きちがいみたいにキリスト教を信心したり、はあ、もうつねお君のすることは、親の理解にあまりあることばかりで、手をこまねいているという毎日で……このたびのことにしても、趣味でもないのに、勉学をおしつけるのは無理なことであろうと、家族会議の結果、一時休学というかたちに決めた実情ですが、もったいないことではあります」「そうそう、しかし、勉強したければ復学できるんだし、いいじゃないですか」
「はあ……ま、そういうご考慮のもとに、これが手続きをとっていただいたいきさつを、先生がたにはまことに感謝しておるしだいです、また、校長先生にもご多忙なところをはばかりまして……では、ま、つねお君、先生にごあいさつしなさい」「え、あ、どうも……お世話になりました」「うむ、また、勉強したくなったら、もどってきなさいよ、うむ」
余計なことなど、いわなくてもよかったのです。 おやじは、面目をたもつことができたと思う気持からか、新聞からよせ集めた教養をひけらかすことができた満足からか、ふだんになくやさしい顔をして、「あれに寝ておるのは……あれもやっぱし高校生か?」
授業時間のあいた生徒たちが、芝生のうえにころがって、本を読んだりしゃべったりしているのに目をとめました。「……みんな気楽なごとしておってからに……ああ」
この学校は、台場のはずれにあるので、門を出るとすぐに眺望がひらけます。ゆるやかにカーブして台場の下へと走る道路の向うには、裾野があり村があり、半島があり湾があり、小島があり大きな空と海があるのです。 もう、これで学校にくることもない、そう思って眺める風景は、ひとしお目にしみました。海をわたってきた風が、坂道をはうようにして涼しくふいています。
Ⅲ
で……その年の暮れから、ぼくはカデナ空軍基地につとめることになって、おやじのあとを追いかけながら、第二ゲートをはいっていきました……けれども。うーん。基地につとめて、軍隊に奉仕することの是非について……ですか?
それは、もう、もちろん……いえ、うすうすに、というべきですね。とにかく、ぼくは基地につとめることになったんですから。
人間、まず食わねばならぬ、働かねばならぬって、自分にいい聞かせたんですよ。それで仕事口をみつけようと頑張ったんですが、仕事口はなかなかみつからないし、それほどの才覚もなかったし、結局、おやじがみつけてきた仕事に……おやじに従うよりほかになかったんです。
農業するには資金が必要です。まあ、二、三年辛抱して……金をためて……と、そう思ったんです。
たはーッ。はじめてみる基地の奥は、牧場のように広い感じでしたよ。朝日にそまるやわらかい芝生の牧場です。
芝生の中にこんもりとしたガジマルの木やフク木がたっています。戦争前にそこに住んでいた人たちが、屋敷のまわりにうえた木なのでしょうか。戦火にも焼けずにのこっていたのにちがいないのです。整地するブルドーザーも立木だけはのこしておいたのでしょう。
ぼくは、ちょっと誇らしいような気持でした。なぜかなら、誰もが自由にそこにではいりできるわけではなかったからです。たとえば、あの木をうえた住人たちだって、自分の屋敷あとにきてみたいだろうのに……。けれども、十何年もみないうちに、そこがすっかり変ってしまって、外国になっているのでびっくりすることでしょう。 おやじは小脇に弁当包みをかかえ、あいた片手は大きくふりながら、うつむいて歩いていきます。おやじが歩くときの癖です。近道をして、一直線に芝生の海を歩いていきます。
「KEEP OUT GRASS」と立て札がありますが、頓着なしです。そこには人の歩いたあとが、一本の線になってついています。しかし、それはおやじだけがふみ固めた道だということではないのですよ。そこを歩く人はたくさんいますから。
ぼくは、つかずはなれずにおやじを追いかけます。おやじがB?O?Qの兵舎の角にきえるころ、ぼくは芝生の海を歩いています。ぼくがB?O?Qの角にくると、おやじはP?Xの駐車場をよこぎっています。
ある日、芝生の道で小犬を追っかけてくる金髪の婦人にあいました。
"Boysan!, boysan!, catch my doggy, please!"(ボーイさん! わたしの小犬つかまえて!) ええッ、と思ってぼくはたちどまりました。
"Catch Charley!, It's my doggy!"(チャーリイつかまえてよ! わたしの小犬なの!) オー、オーケイと、ぼくはいいました。胸も尻も大きいくせに、腰と足は細くて弱々しい婦人です。手伝ってあげずにいられるでしょうか?
ぼくは弁当づつみをなげだして追いかけました。
小犬は芝生のなかを有頂天になって、はねまわっています。ながいこと散歩にだしてもらえなかったので、どうしても(今しばらくは)つかまりたくないと、いってるかのようです。人間より足が二本多いだけに二倍も早く、その上安定性があるので、右に左に自由自在です。ぼくはやたらに追いかけるのをやめて、人間の強味である知恵をつかいました。小犬は、さあ、もっと追いかけっこしようよと誘いかけています。ぼくは向うの方からまわりこみ、婦人の方へ追いこんでいきました。 そうすれば、婦人がみずからつかまえるでしょう。
"Now!, catch!"(そら!、つかまえろ!) 何という運動神経のにぶさ! むなしく空間をつかんだだけです。それからも、何度か追いこみましたが、空間を手さぐりするだけで……二本足が四本足をつかまえようなんて、どだい無理かもしれません。それに、ぼくは仕事におそくなってしまいます。
"I'm sorry, I……late for job!"(ごめんよ、ぼく、仕事におくれるんだ!)
"Oh, you!"(まあ、あんたって!) ぼくは、弁当づつみをひろって逃げました。芝生の朝つゆでズックシューズはびしょぬれです。それでも、すまなく思ってふりかえると、
"Charley!, come back!, Charley!"(チャーリイ! おもどり! チャーリイ!) 婦人は危っかしい足どりで、朝日にかがやくみどりのなかにきえていきました。
*
それからまた、ある日、同じ芝生の海で、向うからやってくるひとりの兵士にいきあいました。航路は一本の細い線です。海のなかを歩くと靴がぬれるので、ぼくは彼に航路をゆずりました。朝つゆのしめりでズックシューズは、キュッ、キュッと鳴ります。いわば、芝生の大洋で船がいきあったのです。さあ、おたがいの健闘をたたえて汽笛をならしあいましょう、ぼくはそう思って親しみとほほえみをもって兵士をみていました。ところが兵士は、ぼくをみませんでした。犬がそばを通りぬけた時ほどにも、関心を示さなかったのです。つめたく無視しきって通りすぎたのです。ぼくの微笑はそのままこおりついてしまいました。 いったいに、この島の人たちは人の顔をみます。見知らぬ人同士なら、(あれ、あんたはどこのお方で?)というような表情でみつめあいますし、見おぼえのある人同士なら、(おや、また会いましたな)、(あ、あんたですか)、目の奥にそういう思いをこめて見合わすのです。いえ、見合わすというほどのことでもなく、ただちょっと見るのです。
小さな島にながいあいだ住んで、どこもかもよく知り、すべての人に親しみをもち、島全体をすっかり胸のなかにくるんでしまったような、そんな気持でいる人たちですから、無理もないのですが……。ひとに対する関心と興味は、その人への礼節であり、ひいては尊重でもあるんだと思っているのです。 そばを犬が通りすぎた時ほどにも、気を動かさなかった兵士の心は、はもののような鋭さとこわさを感じさせました。彼はこの小さな島の気風や習俗を知らなかったのでしょう。いいえ、ひょっとしたら、彼はアメリカの大都会からやってきた兵士かも知れないのです。人間が、顔をそむけたくなるくらい、うじゃうじゃいて、ぼくはほかの世界をみたような気がしました。
*
三月五日。今深夜の三時だ。奇妙な夢をみた。闇の中の巨大な塀。泣叫ぶ人々。そこをかきわけて走る騎馬警官。例のルジャノフの貧民窟の国勢調査で私は疲れていたのかも知れぬ。騒然。動揺。空気をきりさく銃砲の音。私は深く考えこんだ。涙を流しながらいそいでメモをとっておく。
政府とは、金持の屋敷をとりかこむ塀のようなもの。支配者、塀の必要性を民衆に説く。盗賊から財産を守り、外敵から生命を守るために。なるほど塀は必要かも知れぬ。欺瞞《ぎまん》。策謀。民衆、塀をつくることに協力。えんえんとのびる巨大な塀。奇妙にいりくみ、複雑にまがりくねり……。気がついて塀の機構を調べてみると(それさえ困難をきわめたのだ!)、それはすっかり支配者の家をとりかこんでいる。民衆は、どこかで塀がきれているので守られてはいない。工場も銀行も倉庫も、支配者の財産物権はすべて塀の中。しかし、民衆の生活は……。
塀の中には贅沢安楽な支配者の生活。塀の外には貧困にあえぐ暗愚な民衆の生活。
塀は常時、多数の警官によって見回られている。飢えた者が金持のたべのこしでもいいからと塀に手をかけると、不法侵入、窃盗罪で逮捕。裁判。投獄。廃人だ。
民衆も塀の維持費、拡張費は徴収されるので銭がいる。賃労。農民も都市へ落ちていき賃労。
(支配者は待ってましたとばかりに、蟻地獄に落ちてきた蟻をくいつくすごとく、労働を搾り血をすいつくしカスになると外へほうりだす)
塀の中の工場で支配者の私腹をこやしてやりつつ、稼いできた賃金を税にとられる都市労働者は、二重の責め苦と重荷をおうこととなる。……一つは税のかたちによる略奪、もう一つは工場での搾取による略奪。 めざめた民衆が大挙して塀の破壊に馳参じることがないように、非常時にそなえて出動する軍隊が、大砲、戦車をもってひかえている。軍隊の大砲の筒先は、まず、内側の民衆にむけられている。
この夢は神の啓示だ。いつか、これをもとにして論文を書かねばならぬ。
「我、黙すあたわず!」
×××枕もとのローソクをふきけして眠りにつこうとしたけれど、闇の中でますます頭はさえてき、思考がむらがりおこる。涙。煩悶。舌うち。戦慄。勇気。またおきだしてメモを書く。 われわれは、鎧をまとい剣をつりさげ、貴族階級にこびる武士連中が、貧民のうごめく町々や村々を、パカパカと騎馬でけちらしながら、農奴制《ヽヽヽ》を守っていた時代のことを、暗澹とした気持なしに思いみることができない。
それと同じように、戦車や小銃、軍艦や大砲をかかえて、支配者の生活を守るべく訓練を受けた何十万の兵士たちが、平安を願ってほそぼそと暮らしている市民のあいだを地響きたてて通ったり、演習で農地や漁場をあらしたりしながら、外には敵対し、内には反政府的な人々に威圧を与えつつ、ようやく保つことができている資本制《ヽヽヽ》の現代を、暗澹とした思いなしにかえりみることのできない時代がくるであろう。
そうだ、われわれはまだ暗黒の時代をぬけだしてはいないのである。
*
コールメン?ジム(体育館)の裏口からとびこむと、ぼくはすぐにクーラーの水をのみます。外には、まだ八時だというのに、はやくも炎熱地獄を予想させる太陽がかがやいています。光と水で育つといわれる草木も、まもなく、ふんだんな光にうんざりして、しおれることでしょう。 バスケット?コートの向うからは、サーズン(軍曹)ボブがどなります。
"Hey, get'o work!, everybody!, hurry up, hurry up snail!"(おい! 仕事にかかれ! みんなだ! いそげいそげ、かたつむり!) サーズンボブは、フィリッピンで日本車の捕虜になり、さんざん苦しめられ、飢死寸前にアメリカ軍に救いだされたという経歴の持主ですから、彼があかい顔でどなったりする度に肝をつぶします。
"God-damn snail!, you're late this morning too, huh?"(かたつむりめ! おまえは今朝も遅いじゃないか、ええ?)
"No!, never!"(いえ! とんでもない!) ぼくのつねおがなまって(アメリカ人は|ツ《ヽ》という発音ができないのです)、|ス《ヽ》ねおになり、それがさらに発展して、スネィルになったのです。なお、スネィルには、のろのろしたなまけ者という、かくされた意味もあります。
"All right snail, clean up floor……!"(いいぞかたつむり、床をみがけ……!)
ぼくは階段の下の掃除道具いれから、モップをだして、それにワックスオイルをしみこませ、バスケットコートをみがきにかかります。モップをひきずって歩いたあとのコートは、高窓からの光を反射して、鏡のようになっています。 "Hey
Ansco!"(おい、アンスコー!) サーズンボブは、安行《アンコー》さんのしぐさに目をとめます。
"Number one go-brake Ansco!, you at all time sleeping Z-Z-Z!"(一番聞かん気のアンスコーめ! おまえはいつでもグーグーグーと眠っとるな!) サーズンボブは、安行さんの帚をとりあげると、彼がやっているまねをしてみせます。たち眠りをしながら、むなしく帚を動かしているの図です。そのしぐさがあまりにうまく、しかも大げさなので、ぼくたちは笑います。当人の安行さんも笑いながら帚をうばいとり、その帚でひっぱたこうとします。サーズンボブは、満足して事務所に逃げこみます。
館内の掃除がおわると、今度は広い庭や駐車場へでて pick up trash(ちりひろい)をやります。コーラの紙コップやタバコのすいがらをひとつのこらずひろうんです。 芝生の庭に坐りこんで(もう、朝つゆはありません)、毛をわけて塩粒をさがす猿のように、すいがらをひろう仕事はみじめなものです。向うがわにうずくまって、まじめにすいがらをひろっているおやじがうらめしくなります。おやこ並んで、こんな仕事をするのは、恥かしいことなので、ぼくはできるだけ離れて(五メートルぐらいも)ひろいます。そして、おやじが東をむいてる時は、ぼくは西をむきます。ぼくは、たえず心のなかで、
(あーあ、いやだなア。つまらないなア)といっています。もし、みんながおたがいの福利を願って……おたがいに奉仕しあって……いる、そういう世の中でしたら、どんな下っ端の仕事をしていたって、その仕事がよろこばしく……それこそ、はりきって働いてしまいますよ。ほまれがありますからね。……でも、ここ……この社会では、みんな、自分の腹をみたすために、だとか……利己的目的のために働いているんです。雨の中でにわとりが、胃袋をみたすために餌をあさっています。その行為がにわとり自身にとって何のほまれでしょうか? そしてぼくは、炎天の草の上で餌をあさっている毛なし猿なんです。
*
──あなたのそのわずかな土地、古ぼけた家、手垢のついた家財道具、あなたのその貧しい貯えを、こそどろから守るために、あの巨大な政治制度がつくられ、運営されているのだ、と思いますか? そうではないのです。 こそどろを追っ払うには、犬の一匹もかえばいいし、それでも心配だといわれるなら、隣り近所の人々をよび集める鐘のひとつもあればいいのです。現に村では泥棒がはいれば鐘をたたくんですからね。
一般民衆がだきかかえている、そんな小さな個々の財産を、個々の人から(おたがいに盗賊とみなして)守るために、あの強大な政治制度がつくられたのではないのです。
法律の目的は、私有権を確立し、その権利を犯す者に対するさまざまな罰則をもうけることです。そう、あなたのその手垢のついた家財道具も、わずかな貯えも、あなたの私有物であるとして、紙に書きつけた権利として確定するのです。ところが、それと同時に、かかえきれないほどの財産、つみかさねられた膨大な資本を持った支配者のそれも、私有物として認められます。 あなたは、その苦しい家計からお金をひねりだして、こそどろを追っ払ってくれる政府へ納税します。支配者もほっとくだけでもふえつづける利益のなかから、わずかの金を納税します。
あなたは、その家具をこそどろにとられなくて、これで安心、と胸をなでてほっとしてるでしょうけれど、支配者は、ダッハハハ、これでやつらは奪いかえせんぞ、と肥満体の腹をかかえて笑ってるんですよ──
*
"Hey!, everybody, get'o work!"(おいッ! みんな、仕事にかかれ!)
サーズンボブのくちまねをしながら、PFC(一等兵)ゲイリーが、ボイラー室のドアをけっとばして入ってきます。ぼくたちは塵ひろいがおわると、もう何もすることがなくて、ボイラー室を詰所にしてとじこもっているんです。ゲイリーはみんなの間にわりこんできて、一緒にうたたねします。白人兵はプライドを持っていて、決してそんなことはしないのに、黒人兵は……黒人兵にはしたしみがもてます。
ゲイリーは、ぼくの登山帽をとりあげて、自分の頭にちょこんとのせます。額と目がすっかりかくれるまで、前の方にずらしてかぶるんです。ゲイリーがそんなかぶり方をすると、とてもよくうつります。黒い肌に白い帽子、無造作にちょこんと、前にずらして……。
"Gary, teach me English, please!"(ゲイリー、英語をおしえてくれよ) 占領軍の国語なんか、ならいたくもないのですけど、退屈になると、ゲイリーをそそのかしてみたくなるんです。遊び半分になら、まあ、ならってもいいな、と思って……。
"Gary, wake up!, come on, teach me English!"(ゲイリー、おきろ! さあ、英語をおしえろよ!)
"Yeah, sure, sure, come on!"(うん、そうだ、そうだ、さあ!) 安行さんも、笑いながら賛成します。ゲイリーは、しぶしぶ承知します。
"All right, now children, repeat a word after the teacher, right?"(よろしい、それではこどもたちよ、先生のあとについていうんですよ。いいですか?)
"All right." "All right."(いいよ)(いいよ) 安行さんもぼくも、チェリーボーイ(さくらんぼ少年?童貞の意味)の正二君までもが、
"All right."(いいよ)といいます。
"Sunday, Monday, Tuesday, come on, repeat me, Wednesday…"(日曜日、月曜日、火曜日、さあ、くりかえせよ、水曜日) なあーんだ、つまらないな、と思ってぼくたちは笑うだけです。
"Sandal, mandolin, cheek-dance."(サンダル、マンドリン、チィークダンス)
"Shut up, snail!"(だまれ、かたつむり!) すぐに、とっくみあいがはじまります。 ………………。
ゲイリーは、そこらに散らかっているアメリカ雑誌をとって、ページをめくります。美しい写真や絵がたくさんあるので、それを眺めるために、ちりばこからひろってきて、おいてあるんです。
"This is the western country."(これは西部だ) のぞきこみながら、たどたどしい、ぼくのせいいっぱいの英語でいいます。砂漠の中にあらくれ男が水に渇していきだおれになっているんです。
"A hard sunshine, no water, the soldier is dying! Gary, where is your country?"(きびしい日光、水はなし、兵士は死にかけている! ゲイリー、君の国はどこ?)
"Tunisia!"(チュニジアだよ!)
"Tunisia?"(チュニジア?) アメリカにチュニジア州ってあったかな、としばらく考えていました。
"I don't know Tunisia, where is……?"(ぼく、チュニジアって知らないよ、どこに……?)
"In Africa!"(アフリカだよ!)
"Oh, oh no!,……I mean where are you from?"(あ、いや! ぼくがいうのは……きみはどこからきたんだ?)
黒人に、きみの国はどこか? などときくべきじゃなかったと思います。百何十年も前に、奴隷としてアメリカへつれてこられた彼らは、アメリカに住みながらも、心はアフリカなのかも知れません。ゲイリーはぶつくさして黙っています。
*
──政府は紙幣を印刷し、それを自分の金庫に納めながら、国民に租税として紙幣を要求します。国民はニセ紙幣を作ることを禁じられているので、どこかから紙幣を手にいれなければなりません。
政府の役人、軍人になって紙幣をもらうか。政府の必要とする施設建造物をつくって、紙幣をもらうか。あるいは、建築屋に雇われて紙幣をもらうか。生産した農産物を、政府役人に売るか、あるいはその他の紙幣を持っている者に売るか。とにかくどこかから、紙幣を手にいれなければ、税金がはらえません。
納税しなければ財産を没収され、はては投獄されますからね。大変なことですよ。
つまり、政府はただの紙っきれで(ピョートル大帝だとか、エカテリーナ女帝だとか、暴君や女奸の肖像が精巧に印刷されている)、たくさんの人員、労力、施設建造物、食糧、武器、事務用具、その他、政府に必要ないっさいのものを集めることができたわけです。
紙っきれに「百億ルーブル」とインクですりつければ、たちどころに百億ルーブル分のいっさいのものを生産したことになり、欲するものを入手できることになるのです。ゆえに、政府が印刷し、他のいかなるものにも印刷することをゆるさない紙幣とは、明らかに略奪の具なのですよ──
*
"Snail, get on the truck!"(かたつむり、トラックにのれ!)
"What's?"(何です?)
"Get on the truck!"(トラックにのれよ!)
"Why?"(なぜ?)
"God-damn snail!, I tell you, get on the truck, that's my order!"(かたつむりめ! トラックにのれっていうんだよ、命令だ!)
"Yes, sir, commander, sir!"(はいです、司令官どの!) ぱっぱっと機敏よろしく、ぼくは助手席にとびのります。
"Are you ready?"(用意はいいか?) "?"
"Say, 'yes, I'm ready'."(はい、いいですといえよ)
"Yes, I'm ready, sir."(はいです、用意はいいです)
ゲイリーは黒い手で器用にハンドルをきって、トラックを大通りにだします。コーヒーの匂いがながれてくるので、窓のそとをみると、大きなメスホール(兵営食堂)があって玄関わきのガジマルの木の下に兵隊たちがたむろしています。
"Where are we going?"(どこにいくんだい?)
"Just sanpo sanpo!"(ただの散歩さ!)
"That's good!"(それはいいな!)
この島の空白な部分を埋めあわせることは、ぼくにとって楽しいことなので手をたたいて喜びます。窓の外には、「ここより先機密保持のため撮影禁止」というたて看板が五〇メートル間隔にたっています。
"Yipe! Whow!"(フェーッ、ホォーッ!)
ゲイリーは、ハンドルの上にさいふをだして調べながら、さかんにうなっています。それからお金を胸ポケットにいれ、写真や紙っきれなどは投げすてています。しまいにはさいふをも、おしげなく投げました。
"Da, dum, de da. Da, dum, de, da."(ダ、ダム、デ、ダ。ダ、ダム、デ、ダ)
バスケットをしにくる兵隊たちが、事務所に貴重品をあずけると、何者かによって時々持ちさられていたのです。 建物のあいだから、キラリ、キラリと戦闘機の胴がみえます。こちら側には瀟洒《しようしや》な住宅がならんで、家のぐるりが草木でふちどられています。芝生の庭には人形がおきわすれられ、舗道には三輪車がころがされています。
*
──戦争はつくられるものなんだよ。いいかい?
工場という工場がいろんな物資を、何年も何年も競争しながら生産する。需要はみたされ飽和状態になる。もう、生産しても売れないし販路がない。景気がおちる。工場主は生産をしていなければ、経済競争に負けるから何か生産したい。で、政府に働きかけて軍備増強をはからせる。武器は政府が注文するというかたちで商談はまとまる。
そこで造船所は軍艦を、自動車工場は戦車をという具合に、いろんな工場でいろんな軍需品をつくりはじめる。しかし、軍需品もすぐに飽和状態になる。景気がおちる。で、どこかに、焼却炉のような戦場をつくる必要が生じてくるんだ。戦争に火をつける謀略工作員は暗躍する。外国のちょっとしたいざこざに目をつけて軍需物資を売りこんだり、自ら介入しようとしたりする。そして火はつけられるんだ。さあ、投げこめ、投げこめ、もやせやもやせ!
戦場とは生産競争によってありあまった資本主義経済社会の物資を、燃やすためにつくられた焼却炉なんだ──
*
バスケット?トーナメントのシーズンが、まためぐってきました。試合は毎週、土、日曜日におこなわれます。駐車場はお客の車で埋まり、体育館にはたくさんの着飾った人たちが出入りし、ワーッ、ピリピリピリ、パチパチという大音響が館内をゆるがします。 ぼくたちは、日曜日も出勤して掃除をします。選手がころんで、汗でコートをぬらしたりすると、とびだしていってモップで拭きとります。
どうしたわけか電光スコアボードが故障して、ゲイリーが板のスコアボードの前にたっています。得点があるたびに、数字板をさがしだして釘にかけるのです。ぼくはモップの柄を杖にしながら、そばにひかえて、たまには数字板をさがす手伝いをします。
"Snail, keep watching the score-board. Okey? I want to go, buy the hot-dog"(かたつむり、得点掲示板を見張りしていろ、いいか? ホットドッグを買いにいきたいんだ)