"No!, I can't!"(だめ! できないよ!)
"Why not?"(なぜだい?) "Because, I don't know score-rule. Hey! Gary, don't go away!"(なぜって、得点規定を知らないんだ。おい! ゲイリー行くなよ!)
"It's all right, it's all right. Don't worry. I'll make a sign at the doorside. Okey?"(だいじょうぶ、だいじょうぶ。心配するな。ドアのそばで合図してやるから。いいだろ?)
さあ、大変です。ぼくはゲームスポーツがきらいなので、バスケットボールはもとより、バレーボールやベースボールのルールを知らないのでした。体育館に勤めるようになってからも、昼休みなどにボールを持ちだして奪いあいをしていると、サーズンボブがおこるので、なおさら嫌いになっているのでした。
ワーッパチパチと歓声があがって、得点があったようです。ゲイリーが玄関の人混みのなかで手をあげて、サインを送っています。けれども、客の頭がサインを横ぎったり、選手がはしりすぎたりして、よく見えません。それでも、彼が八本の指をかかげているのを認めて、八の数を釘にかけました。八対八です。すぐに、また、ワーッピリピリ、パチパチという歓声です。ぼくも、ワーッと叫びたいくらいに動揺しています。ゲイリーは、ホットドッグを買いにでたのか姿がみえません。
"Hey, tell me, what's the score?"(おい、教えてくれ、今、何点だ?)
"I don't know!"(知らないよ!)
"Hey, what's the score?"(今、何点だ?)
そこらにいる誰彼をつかまえて、きくことにしました。
"The score is ten to eight in our favor!"(十対八でわれわれのほうが勝っているぞ!)
少し親切すぎるようですけど、ぼくはいそいで十対八にしました。ああ、ゲイリーのやつ、早くかえってこんかな、と思って玄関のところをみると、ホットドッグをほおばりながらひらひらと手をふっています。こんちきしょう、早くかえってこい!
ぼくも手をふって合図しました。 ワーッ、ピリピリ、パチパチッとまた大歓声です。
"Now, what's the score?"(さて、今は何点?)
"Ten to ten!, oh damn!"(十対十だ! ちぇッ、いまいましい!)
ゲイリーはどこへいったのでしょうか。まさか、事務所の貴重品を盗みにいったのでは……あ、また、大歓声です。
"What's the score?"(今、何点?)
さっきから、親切に教えてくれているそばの兵士だけがたよりです。
"Ten to eleven! No, eleven to ten!"(十対十一だ! いや、十一対十だ!)
あれッと思って、確かだね? ときいてから十一対十にしました。すると、どこかでウーウーといっています。それがだんだん、ブーブーと大きな声になりました。非難するときに発する声です。あ、さては! 嘘を教えてくれたな! と、彼をさがしましたが、姿がきえています。いそいで、十一をおろして、ぼくは困惑してぐずぐずしていました。
"Ten to eleven!"(十対十一!)
"Ten to eleven!"(十対十一!)
向う側の席から、大勢の人の声です。ぼくは動転しながら十対十一になおしました。もう、泣きたくなっています。どうして、彼らの戦いにまきこまれたのか、選手にまけないくらいに汗をかいています。あ、向うでは、サーズンボブにゲイリーが小突かれながらうなだれてたっています。それから、どなられながら走ってきました。
"What the hell are you doing? God-damned snail!
"(いったい、何をしてやがるんだ? のろわれたかたつむりめ!)
"What's?"(何です?) 彼は白目をむいて、怒っています。
"Get'o hell at here! God-damned you mingy-wag!"(地獄へ消えろ! のろわれたミンジイワーめ!)
ぼくはミンジイワーって何のことなのか、知らないのでした。聞いたこともないことばです。
"What're you talking about?"(何をいってるんだい?)
"I said, you're mingy-wag!"(ミンジイワーだといったんだ!)
"What do you mean,
is……?"(何の意味だ? その……)
彼はぼくの登山帽をとりあげると、それを銭受けがわりにして、ミンジイワー、ミンジイワーと、ふしをつけてうたいました。右や左のだんなさま、どうかおめぐみ下されや、哀れないざりでございます!
というようなしぐさをしてみせるんです。
たくさんの兵隊が、こっちをみて笑っています。さいふのことで告げ口をしたというのでしょうか? 彼が送るサインをまちがえたから、というのでしょうか? ぼくには、わけがわからないのでした。
*
──二月二十日。新聞は旅順における戦争の模様を大見出しで報道。悲嘆。愛国心の残滓《ざんし》。新聞を読むと意識がくもり鈍り、脳に塵芥がつまったようになる。客間では大勢の者が議論。マーシャ?スモレンスカヤ県在住の未知なる婦人の手紙を持ちきたる。内容、左記の如し。
「(中略)、あの晩、そう、いよいよ出征というあの晩、わたしたちみなは食卓につきました。ローソクを灯して、ワインを出して、つとめて明るく……わたしは皆の気持をひきたてようとしてたんですよ。ただ、あの子だけは、おこったようにうつむきこんでいて……そして、突然にこんなことを云うんです。『かあさん、ぼくは戦場へいっても、鉄砲は撃たないよ。命令されても……ね……。けれど、そうだな、どうしても撃てというのなら、木や土や壁……そんなものを撃つんだ。絶対に人の胸なんか、狙わないよ……向うは、まっすぐにぼくの胸を狙ってくるだろう。それでいいんだ。ぼくは……骨になって帰ってくるよ。かあさんは泣くかい?
せっかく、これまでに育てて、学校にもやって、さあ、これからという、時になってさ、戦場へやられて、殺されてしまう……骨を抱いてかあさんは、泣くかい? けれど、ぼくは思うんだけど……、かあさんにも責任はあるんだよ。かあさんは税金をだして、戦費のいくらかはまかなったわけだし……そう、ぼくが持つだろう鉄砲の、筒先の突起ぐらいは、かあさんのお金で作られたかも知れないんだよ。あるいは引金の半分ぐらいはね。そして、あの、戦争へかりたてる法律を作った連中を、選挙して議会へ出してやったり、食わせてやったりしたんだからね……だから……だからさ……全部の責任がかあさんにあるというわけじゃないけど……何百万分の一、何千万分の一ぐらいの責任はあるんだ……小さな責任……といわないでくれよ。……どんなに小さくても、責任は責任だからね……
(中略)』ああニコーレンカ、ニコーレンカ。いとしいニコーレンカ。わたしが……お前を……殺そうとしてるっていうのかい?
お前を生み、育てたのは……このわたしですよ。骨を与え、肉をわけ、血を体いっぱいに満たしてやって生んだんですよ。そして、正直で、やさしい子になってほしいって、育てたんですよ。それなのに……わたしが……このわたしが……お前を殺そうとしてるっていうのかい?(中略)人類の(中略)トルストイさま、どうかわたしの息子が(中略)お助け下さい。そして、今後、わたしはどうすればいいのか、どうか(中略)」
マーシャに公官庁職員録を調べてもらって、ニコライ?アンドレーヴッチ?ルサーノフ一等兵の直属する長官に、このひとり息子を、できるだけ危険の少ない地域に配属してもらうよう、嘆願の手紙を書く。母親、ツェツィリヤ?セミョーノヴナ?ルサーノワには、要約して次の五つの事柄をしるした手紙を送る。
(1)税金をださぬこと、(2)投票せぬこと、(3)「権力」に訴えでぬこと、(4)公務につかぬこと、(5)徴兵に応じぬこと──
Ⅳ
いやあ、すきっぱらに酒をのむと、ジューッと腹わたにしみこんで、すぐにまわってしまうものなんですねえ。ぼくは、それを知らなかったもんですから……もう、大変です。「おおーいッ、おっかあよッ」
安行さんの結婚祝いから帰ってくるなり、玄関の戸をガラガラあけて、そう内によびかけました。ドタッ、グニャリ。いたの間に倒れると、板のつめたさが頬にひんやりして、気持いいです。「ああーッ、したたかに酔うたっさア、おおーいッ」
もう、深夜なのでしょうか? 家じゅうしずまっています。「うおーッ、やけ酒のんでよオー、はあーッ」
声だけが、びんびんなかにひびきます。誰だってそうだろうと思うんですが、初めて、酒をのんでふか酔いした時には、大げさになって、わめいてしまうものなんですよ。「茶目よイ! 何《ぬう》のやけ酒かよオ!」
そういって、おふくろは寝間着に夜具のにおいをつけて出てきて、「もう! 皆《ンな》、寝《ね》ンておるもんに、大声《おおご》いださんけヨ、ほれッ、寝《ね》どこンかへ這《ほ》うれエ!」
ぼくのバンドのうしろをつかんでひきずります。
「ハバ、ハバ前ンかへあがけエさ!」「ああー、やけ酒、ゴオン傾《かし》ぎしよオー」「なれらん酒のんで、おとう如《ごと》うし、胴いっぱいにジンマシン掻けえッ」「ヘッ、何のジンマシンかヨ、入れてン入れてン満《み》たん、割れガメの出《いじ》ちょッて、いつのはなしィかヨ!」「若さたいにのことヨ」「四十年めえのはなしィな! ヘン!」「酒に肌が合うわんヨ、酒のむるたんびに胴掻いたさ! はい! 東《あがり》ンかへうち向《ん》かって、寝ンれえ?」「あがり、は、ううッ……ううッ!」「呆っ気よイ! ゲエゲエ食物《もの》吐きあげて、枕よごさんけヨ!」「ううッ……ううッ」「待っちょれえッさ、洗面器とって来《こ》うらな!」 ぼくはもう、病人のようになってました。気持はわるいし、目はまわるし……。「ああー、やまい買《こ》うたる如《ごと》うやサ!」「酒のんで、胴弱《どうよう》らせヤ、仕事ンかへや行かれゆんな!?」「ううん……明日や、仕事にゃ行かんどオ、一日、憩《よこ》ゆんヨ!」「アンして、憩《よこ》うてばっかり居れや、クビにさららんかや?」「クビにすれや、ありがとうやサ、あん如うる嫌《や》な軍作業、ミンジワーミンジワーとあだ名さらって」「何の意味かよ、ミンジワーと云うしヤ……」「……いざりこじきとヨ」「いざりこじき!?」「………」「ンでも、頑張らんだれや、今の仕事口の無《ね》えん時期に、困らんな?」「……ああー、農業し暮《く》らし欲《ほ》さぬならんさア!」「また、狂《く》れたものいいが始《はじ》またせッ……楽な軍作業がつとまらん者《もん》に、難儀な農業がつとまゆんな?」「………」「くわの歯ンたたん、かた地ヨイヨイ耕《だげ》えち、作物《つくりもん》つくれや暴風にかきむしらって……腰まがるか難儀し、痩《や》し枯《が》れてヨ……あん如うる割にあーわん農業が望みな?」「ああ……涙《なだ》、垂《た》れゆるばかりに、ヨ」「やア、ほんに! 農業の苦《く》ちさンわからんやア……。おかあ達《たあ》も、若さたいにヤ、農業望んでヨ、ミンダナオ島に渡って開墾しゃしがヨ、オーイと近《ちけ》え隣りに声かけてン、聞《ち》からんあたりの田舎《いなか》でヨ、日《ひい》が落《う》てりゃ何の楽しみン無《ね》えん、わびしい暮らしやったサ……はい、早《へえ》くうち寝《ね》ンれえッさ」「ああーッ」「はあ……もう!」
*
で、そんな風に(憩《よこ》うてばっかり)のある日、「四日も続けて憩《よこ》うたもん、なア、クビになっておんヨ!」 そういって、うやむやのうちに仕事をやめてしまったんですよ。
仕事をやめて、つぎの仕事口をみつけるまでのあいだが、ぼくにとってうれしい公休日でした。公休日がほしいから、これからもちょくちょく仕事をやめるということをし……いえ、これは、とりけし。 とにかく、つぎの仕事口をみつけるまでの間は、おやじも黙ってみすごすほかにないのでした。 ぼくは、部屋でごろごろしながら、こころゆくまで本をよみます。
「──古代ヘブライ民族は、偉大なる統帥者が山のいただきで、いなづまのなかから神によって授けられ、石にほりつけて持ちかえったという、十の戒律を、民族が守るべき掟としたのである。また、歴史をしらべてみると、いずれの古代民族も、たとえ石にではなく、皮や亀甲や獣骨にではあっても、わずか二十かそこら、少なくとも百をこえない程度の条文をかききざんで、それで生活を律していたのである。
私は現代の法律の数をかぞえてみようと思いたって、モスクワ国立国会図書館にいき、法律の名称を手帳に控え、そのなかの条項をいちいちかぞえてはメモしていったけれど、途中であきらめてしまった。法の種類だけでも三八種類、部厚い本、全五二巻からなり、その一巻の条をかぞえると、なんと千何百条があるのだ。さらにその条の下には項があって、おそらく項もかぞえいれると、一巻につき何万条項という数になるであろう。さらにそれを五二倍しなければならないのである。
われわれは法律を遵奉《じゆんぽう》して、生活すべきであるといわれているけれど、ではその、何百万条項もある法律をひとつひとつ銘記しているのであろうか。そこらの人間、よかったら図書館の地下食堂で、本を読みながら食事している教養ある男をつかまえて、○○法第○○条第○○項には、いかなる事柄がさだめられているか、知っていますか?
ときいてみるがよい。男はきょとんとした表情でしばらくみつめるであろう。それから、悪くすればなぐられるかもしれないけれど……われわれ、一般民衆は法律の二、三条でさえ明確にはおぼえていないのである。しかしその知らない法律ではあっても、それを破ろうものなら警官がとんできて小突きまわす。反抗しようものなら即刻にひったてていく。これらの法律がいかなる人物達によって決議されたか、ということはさておいて、いったい、知らない法律によって捕まえられたり、裁かれたりするというのは、どういうことなのであろうか。私にはどうしてもわからない。
ただ、わかることは、われわれが人殺しをしたり、暴力をふるったり、他人に迷惑をかけたりしてはいけないと決めているのは、法律にそれが定められているからではなく、われわれの理性がそれを教えるからなのである。と、いうことは、われわれは法律とは関係なく、自己の理性によって生活を律してきたということができるのである──」「つねおヨ、アンしおる本は読《よ》まんけエ!」「え?」
おふくろは孫を守りながら、ぼくの部屋をのぞいて注意するのでした。「頭凝《つぶりこ》らしちヨ……宮里の兄さん如うし、学狂《がくぶ》り者《もん》になゆんどオ」
あ、そうだ、その(宮里の兄さん)ですけど、おかしな気違いでしたねえ。いつも、まっ白いYシャツを着て、新しい下駄をはいて、町じゅうを歩きまわり、気がむくとどこの家であろうと、のそっとはいっていっては、洗面器に水をみたし、顔や手足をせっけんできれいに洗い、そこらにある手拭いでふきとり、そして、さっぱりしたというような顔で、そろっとでていくのでした。どこかの町で教師をしていて、あんまり頭を凝らしたために異常になって、帰されてきたという噂でした。 だから(というほどのことでもないんですけど)ぼくにとっても、気分転換の散歩や軽い運動は欠かせないものになっていました。「近《ちけ》え隣りに、恥かぬならんもん、昼日中からフラフラやさんけヨ」 おふくろが、これもまた、注意するので夕方からでていきます。おやじが仕事から帰ってくる時分でもあるので、逃げといたほうがいいのです。
「あッ、つねお兄さん!」
小学校の運動場へエイホッエイホッとかけていると、マリーがおっかけてきます。「自転車と競走しよッ」 誰の自転車をかりたのか、こども用の自転車に、長い足をまげてまたがり、ひっつめにした栗色の髪をなびかせて、勝負をいどみます。「よオーし!」「スットコドッコイ! 負けらんどオ!」「なにオー、まてーッ」 追いついて、荷台をつかんでやろうとしても、「ハハハハ! ヒョイ、ヒョイ、ヒョイ!」 たちこぎをしながら、逃げていきます。
*
「あ、兄ちゃん、この鉄棒につかまらせて!」「そこの、低いところでやればいいだろ?」「いや! たかいとこがいい!」「しようがないなア、よいこらしょっと。さちこのおもいことオ!」「あれェー、こわーい。おろして、おろして!」「だから、いったろオ」「つぎは、ぼくをつかまらせる番だよ!」「よし、どれッ。ちびはかるーい。もう、いいか?」「こんどは、うち、うち、うちあげて! ハハハハ!」「くすぐったがりやだなア。ほら、くねくねするなッ」「ハハハハ、いいよいいよ!……あげて!」「なんだ、どっちにするんだよ。ほら、わきの下をおっぴろげろ! ハハハつかめないじゃないか!」「なら、マリー、マリーあげて!」「ええッ? おおきいこは、自分でとびあがれッ」「いや、ピョンと、はやく。けりあがりするから!」「あれェー、くすぐったくないんかア」「ぜーん、ぜん!」「こちょこちょしてもかア」「ぜーん、ぜん!」「おどろいたなあア、わきの下もてのひらみたいなんだねッ」「ヘヘヘ、マメがあるよッ」「えッ、わきの下に、かア」「ちがうッ、手にさッ、四つずつッ」「あッ、どこもかもまる見えッ」「エッチ!」「まいにち鉄棒やってるんか、うまいな、おんなだてらに」「まいんち、やってるよッ、うち、うちの手エみてッ」「うわッ、ひとォつ、ふたァつ、みッつ。おばさんの手みたいだッ」
*
○ひとは理性を法律として生きればいいのである。各自、自分の肉体と精神を自分の理性によって治め、一国一城の主となり、独立宣言をすればいいのである。
○ひとが理性を法律として自己を治める時、いかなる成文法がそれに匹敵しうるだろうか。
○理性、それは何という柔和な、伸縮自在で、完全無欠な法律であろう。
○それは、ひとの内面にきざみこまれていて、その人が生きている間中効力をもち、変ることなく作用するのである。
○理性の法律は、ものごころついた五歳の児童にも理解され、実行されうるものである。
○それは自分の行為を律するものであって、隣人のやることなすことをとりしまるものではない。
○理性は隣人に何ひとつ強制しないから、一切の罰則を必要としないのである。牢獄も、裁判所も、鉄砲も、必要としないのである。
○それは、でっぷりと肥えふとり、顔を脂ぎらせた連中が、料理屋の二階やホテルの大広間で、酌婦をまじえて酒気をおびつつ、ひそやかに談合し、いそいで議会にもちこむやいなや、議事進行上の策略と、国民に対する二枚舌の欺瞞によって強行採決し、そしてきょう施行し、あすは破棄してしまうかも知れない、あの成文法とは似ても似つかぬものである。
○それは囚人の足にはめられた鎖と鉄弾のように、ひとの自由をうばい拘束するものではなく、鳩にあたえられた翼のように、人間に生きるよろこびと活動力をあたえるものなのである。
○理性をもって生きるのに徒党を組む必要はない。なぜなら、それを実践するかいなかという問題は、純粋に自己裡の問題だからである。それは隣人に協力しないということではない。理性に照らして納得できないことに対しては協力できないということなのだ。
○理性はいかなるかたちの殺人をも、強く否定するのである。そのあまりに、野鳥をうつとか、蟻をふみつけるとか、花木の枝をおるとかというささいな事にまで、干渉がおよびついてしまうのである。
*
「ピカッ、ドーン」 ぼくの部屋の戸をほそくあけて、すきまから目をのぞかせながら、マリーがへんなことをいってるんですよ。「?……」「つねお兄さん、げんしばくだんつくってる?」「え? げ、げんしばくだん?」
マリーは甥っこのつかおを抱きながらはいってきます。「おばさんが……げんしばくだんつくっておるもん、邪魔やさんけヨ!……」「ひえーッ」「とじこもって……ひとりでコツコツ……ピカッドーン!」「たまげたなア」
マリーはぼくのベッドにすわって、甥っこの顔にかぶさったタオルをなおしはじめました。ぼくはそばの机にすわって、うえから甥っこの顔をのぞきこみます。乳のような匂いと汗のような匂いが、ふたりのあいだからたちのぼってくるので、こんどはマリーのうなじをみます。うぶ毛とそばかすのひろがった皮膚のひだには、黒糸のような垢がこびりつき、着ている簡単なワンピースはよごれているし、ぼくはいっしゅん、性にうたれてげんなりしました。安堵のあまり気がぬけたような……世の中がつまらなくなったような、(あ) 気がつくと、すぐ目の前にマリーの顔があって、あおいような瞳がキッとやぶにらみのぼくをみていたんです。
*
マリーは学校から帰ってくると、ちょいちょい子守りをしにやってくるようになっていました。「毎日《めえにち》、来《く》うらんな。小遣いとらす事よ」
マリーにごはんをたべさせながら、おふくろがそういっているのを聞いて、ぼくは内心よろこんだものです。けれど、そういわれても、マリーは気が向いた時にしかこないのでした。 ぼくは明けがたからベッドにもぐりこんで、甥っこの泣き声や、前の通りをはしる車の騒音や、小学生たちの叫び声などに悩まされながら、浅い眠りをお昼頃までむさぼる、という生活をつづけていました。
寝呆けまなこで居間へでていくと、マリーがテレビをみながら子守りをしています。ぼくは自分のむさくるしさを考えて、ゆううつになるのでしたが、いつの間にかそれにも慣れてしまって、ぞんざいにいうのでした。「あ、おばあは、どこいった?」「キューシンかいにいったよ」
のばした膝のうえに甥っこをのせて、思いだしては軽くゆすりながら、テレビ映画に夢中になっています。「なんの映画?」
採光がわるくて居間がうす暗いのをさいわいに、ぼくもテレビに見入りながらそばに坐ります。マリーは照れわらいをしながらも、映画から目をはなしません。 そこにはヌーボー社長が登場し、その社長にすっかりのぼせた女秘書が、ことあるごとに恋情をぶっつけています。「ああ、もう! しめころしてやりたいさア、ギューッ」「え? フフフ」
毛なみのよろしいヌーボー社長は、古い館に母親とふたりで、さみしく暮らしていて、会社のほうもさびれているようでした。それは善良さがそうさせるのにちがいないのです。そして、女性に対しても、自分の欲望をつきつけるのは相手の人格をそこなうものであろうとかたく信じて、とっくの昔にそういうものをこそぎ落しているもののようです。そのうえで、誰にでもやさしく親切さをもって接しているのです、が、女秘書はますますのぼせあがるばかりです。「ああ、もう、まだわからんさア! トンチキ!」「え? あれ?」
真剣になっておこっているので、ぼくはニヤニヤしながらマリーをみました。十三歳の少女にヌーボー社長の精神が理解できるはずはないのです。いちずに女秘書の気持に共感するだけで、(あれ? 恋する気持はわかるのでしょうか?) 頬は上気して汗ばんでいます。瞳はさまざまな思いに暗くかがやき、
(あれ? これは……しかし) ぼくはそこにマリーを強く感じはじめました。そして、だんだん、いたたまれなくなって、たちあがって……。
*
で、そうしたある日、仕事を早引してきたおやじが、「おい、つねおヨ、美浦ンかへ売りいださっとおる畑があんといいよるもん、見いが行かんな!?」
汗をぬぐいながら、そういうんです。 ぼくは、そういわれてもちっともうれしくありませんでした。畑を買うてくれ、そうでなければ、借りるごと相談してくれと何度たのんでも、ひとの望みをうちくだこうとするだけで、ぼくはもう、気持をこじらせていたんです。ぶつくさして、ふてくされて……ふてくされてしまってからでは遅いんです。
でも、まあ、とにかく、浮かない気持で、おやじのあとについていってバスにのりました。おやじは背中にもじっとり汗をかいて、そばにいると体臭がするようなので、ずっと離れた席に坐って窓のそとばかりみていました。
高校の前をとおって、長い坂をおりていくバスの窓からは、大地の暑熱をはこんできた風が、刈草のにおいやかすかな潮の香をおびて、ワッワッととびこんできます。普通なら、夏の陽のもとにひらける鮮明な眺望を、たのしんだのにちがいないのですが、今は心をとざして涼しい風をさえ、うるさく思うのでした。
ひなびた村のバス停におりたつと、おやじは勝手しってる者のようにさっさと歩き、一軒の農家の庭にはいっていって声をかけるのでした。ヘチマのつるのさがったひさしの奥の主座には誰もいなくて、陽の光になれた目で主座をうかがいみると、仏壇の線香壺の水金が暗いなかにひかっていました。何度目かの声で、豚に餌をやる時に使うひしゃくをもったおばさんが、家のうらっ側からまわってきました。
「あ、おくさん、豚にものくわせとる時間ですか。実はそのオこんな時間にいきあわせて、なんですが、こちらさまの売りにだされとる畑のことは、まだ、きまってはおらんのでしょうな?」「はあ」「うちの二男坊のこれが、いつのころからかその、農業したい農業したいとばかりに口癖しておりますもんで、子のたっての願いとなれば、これはもう何とかせねやなるまいと思うて、わざわざ腰をあげてきた次第ですがそのオ、畑は売れとらんわけですな?」「はあ、まだですが……」「何ですか、今の時代に」「あの、ちょっと豚の」「あ、かまわんで下さい、なにも気がねせんで……え」
おばさんは、ちょっとまごついてるようでしたが、おやじが口をつぐんでいるので、ひしゃくを置きにいき、手を洗ってもどってきました。
「あ、の、おちゃでもいれ」「いえ、おちゃも家でのむだけのみましたから、気がねせんでやって下さい。その、ご主人さまは役場から、まだ、帰られんのですか?」「きょうは、とまりがけで北部の方へいきましたんで、帰ってこないんですが」「あ、出張ですか。いや、それじゃ、ま、おくさんにでも、案内役つとめてもらいましょう」
おばさんは、田圃のあぜ道や畑のうね間を海に向かって歩き、おやじがそのうしろをはなしながらつき従い、ふたりからずっとおくれたぼくが肩をすぼめて追っていきます。
「……農業したいという……これはどういう考えか、よく理解が……とどきかねるのですが、……ま、熱心に口癖するもんだから、ひとつやらせてみようかとも思っとるのですが、親のなア……気持としては恥かしくてならないことでもあるんですよ」
おばさんは、はあ! はあ! とあいづちをうちながら、捨てられた畑のあいだを歩き、どんどん海辺へちかづいていきます。しめり気をおびた風が、重っくるしく吹いてきて(親の気持)をきれぎれに伝えるのですが、ぼくは何もきこえないふりして、捨てられて草の茂った畑に目をむけます。
「ま、開発青年隊にでも……海外に雄飛……機械農業を夢みて……大きく儲ける……これには大賛成……しかしながら、うちのこれは……みんなが捨てて町へで……その畑を借りて耕したいという……この望みの細《こま》さ! 世間のみんなが町へでて、少しでも楽して儲けようとしている現代に、なんですか流れにさからってまで農業したいという、このあわれ、この苦労性! これはもう、はあー」
おやじは自嘲しているのです。それがぼくにも伝わってきましたので、なんだか恥かしくなりました。ついに護岸のそばまできて、おばさんはたちどまりました。護岸は台風の被害で決壊したのか、くずれさけて土が波にさらわれ、爆弾あとのような穴の沼になっています。沼には葦の根がはびこり、ドロには蟹のはいまわった爪跡がつき、土堤にはたくさんのドロ蟹の穴があるのです。売畑とはそのきりくずされた畑なのでした。葦沼を中心にして三百坪ほどの砂地には、ちょろちょろした芋づるがたち、そのあいだからは葦の地下茎が芽をだしているのです。
「これが……畑な?」
幻滅でした。現実にしたたかな一撃をくらわされたという感じでした。「どうするかヤ? つねお」 どうするも、こうするもないのです。雨にうたれた表土には、白い貝殻があらいだされていて、それに、こんなに海にちかいのでは、ちょっと海がしけただけでも、それこそ雨のように潮をかぶってしまうでしょう。
ぼくが農業したいというのは、内的な要求からでした。畑を耕していないのに食物を口にしているからには、それは何らかのかたちで畑を耕している者に負ぶさっているのにちがいないのです。正しく生きたければ、まず最初の行為として、ひとに負ぶさるという悪いことをやめなければならない。自分の足でたたなければならない。だから、どんな畑でもいい、今すぐにでも耕したい。いそいでひとの背からおりたい。すぐにも鍬をとって農業しなければ、とかまえていたのですが、いかに内的な要求ではあっても、こんな畑は耕せないのです。「買うてみたいか?」
ぼくは、これはおやじがしくんだ策略ではないか、と考えました。あまっちょろい夢をみているぼくを叩きのめすため、老獪《ろうかい》にしくんだ芝居にちがいないんです。
「……こんな畑エ!」 ぼくはそれだけいうと、先になって歩きました。
(ああ、まいったなア) いつの間にか彼らから遠く離れて、うつむきこんで一人の道を歩いていることに気づきました。
(ぼくは、ひとりで歩いてきたんだ。これからも……)
(いつか、才覚ができたら、自分で、実現するさ) うつむきこんだまま、目を道のはたにやると、よどんだにごり水をためた田圃があって、にごり水だからなおのこと、さえわたった空の青と陽を受けた雲の白が、かっきりとそこにうつっていました。
*
「ンだ、ンだ、つねおヨ、相談があるもん、出《いじ》て来《く》うらんなッ」 ぜんこう叔父がぼくの部屋の前でそういっています。さっきから、おやじと酒をのみながら、(部屋ごもり仕始《しいはじ》めてから一年半としにもなゆるもんヤ) だとか、(この前や──どこそこのおばあに──あれッおじいは、まあだギリギリ働《はたら》ちょる場合な、と笑《わら》アて恥かさぬならんたんヨ) だとかそんな話をしてたんです。
ぼくは一戦まじえるつもりで出ていきました。ついにその時がきたんです。
「ンだ、おじさんが云《い》ゆし、ようく聞《ち》きヨ、つねおヨ。おとうさんやヨ、この際《きや》の年寄《としよ》いになゆるまでギリギリ働ち、童《わらば》ア達《たあ》を十分に程丈負《ほどたけお》わしたン。このうえは子達に養《やしな》わって、隠居すしが普通やあらぬな? な? つねおヨ、親の気持が判ゆらあ、これからすぐに仕事ンかへ出《いじ》て下《く》り。してからに勉強し欲《ほ》されや、隙々《ひまひま》に勉強せエ!」「やさ、やさ、おじさん!」「………」「むかし年《どし》でいえや、つねおもなあ二三。りっぱに衆《ちゆ》のなかまヨ、ウヌ丈《たけ》ある衆《ちゆ》が昼日中から家《やあ》の内シリシリし、働きンさん、技術ン持たん、刀自《とじ》(妻)求《と》めゆる算段も無えん、親の臑《すね》かかじて、もうこれエ、もってのほか!」「旨《うま》! 旨《うま》やさおじさん! よう云ッち取らしたッ」「………」
おやじは、そこッそこだッ、とぜんこう叔父の方へ身をのりだします。「とにかく、おとうさんヤもう、面倒ごめんと云っち居《お》んど。つねおヨ、親の心配が判ゆるもんやれェ、仕事口に構えて働けェ。な? おじさんが頼み、この通りやサ!」
叔父は食卓にぬかずきます。おやじは感涙にむせんで食卓をたたきます。ぼくはにがりきった目でそれをみています。「ああ、今の云言葉《いことば》の、この条理。おじさんがいゆる通りやサ、つねお。おとうからン頼む、あたり前の人間に戻って下《く》り!」「アンせや、云うシがヨ、何故《ぬうえ》におとうは、盛夫|兄《にい》にヤ銭分けて取らしち、我《わ》にンかへや取らさんか!」「はあつねおヨ、寝ンたい起《う》きたいシリシリする者《もん》に、銭が分けられゆんな、頭《つぶり》のあれや考えり!」「おじさんは|嘴 《くちばし》入りらんき!……四年間の我《わ》アが貯金あるはず、分けて取らせェ、その銭し勉強すさ!」「……アン云《い》っちんヨ、だア銭は無《ね》えんせェ。盛夫が質屋につぎつぎ入《い》って、貯金のあるぶんうッ使《つか》って」「それヤ、えこひいきやあらぬな?」「あのうあらぬど、おとうの心算《つもい》や、なア銘々《めいめい》、ツイツイ独立しめ欲《ほ》さたんヨ、アンやしがこの不景気、だア思ゆるごとかなわん世の中やせェ、盛夫も自転車操業ろ仕おるもん」「盛夫兄ばっかあ、ひいきすらア、我にン覚悟があんど。内地ンかへ行ンじ、なア帰らんことヨ、手紙ン書かん、音信不通にし、行方不明になゆことヨ!」
いいたいことはこれで全部だ、とぼくは座をたちました。「ええッ、つねおヨ待てえッ! 盛夫ひいきしおる者《もん》やあらぬど! ンだ、おとうの気持ジュンジュンといい聞かすシが」「はあ、聞かんでンようく判って居《お》んよ!」
追いすがってきたおやじの鼻の先で、戸をぴしゃりとしめました。「つねおヨ! おとうの心配がまあだ判らん場合なッ、え?
日夜勉強々々と、勉強に填っておる様子やしが、ウれや何の勉強かヨ、え? 山之口貘如うし、貧乏文士になゆる心算《つもい》やあらぬな? おいッ」 聞くにたえないことをわめくので、ぼくは窓から外へでました。
「この前《めえ》の新聞にマギマギと、山之口貘三五年ぶりに帰るンち、載って居ったしおとうは読《よ》で、すべて知っち居《お》しがヨ、おわい屋つとめたイ日雇人夫になったイ、苦労のだんだん仕ィかさねて、聞《ち》ち居ンなッ」
腰をかがめて玄関前をすりぬけ、台所へまわって下駄をつっかけます。「山之口貘、あれが如し文学が認めらりれや、これはまた、りっぱなもんやしがヨ、危《あぶ》なさる綱わたて、はたして認めらるるか、才能があるか、そこッそこやサ!」
そして、うわーッと叫びながら、夜の町へ走りでたんです。
(あんちきしょう、世間ていの頑固おやじめ、常識づらのずるおやじめ、農業といえや道ふさぎ、勉強といえやとどめをさす、うわーッ) あんまり苦しいもんだから、ちょこちょこ、ちょこちょこかけながら、(ナユンド、ナユンド、フレモンニ。ナユンド、ナユンド、フレモンニ)