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作者:日-東峰夫/东峰夫 当前章节:15526 字 更新时间:2026-6-16 01:47

 ぼくはぎごちない思いをしている。ここは暗くてほこりだらけで狭いのだ。ちょっと余計にうごいたりすると、柱につきあたってしまうし、元気よく力をだすと、誰かにぶつかってしまう。力のある男がこんな場所で働くのは、場ちがいのような気がする。そういえば、ここにいるのはみんな年寄りや少年工や女子工だ。仕事の内容もそんな人たちに、ふさわしいもののように思われる。

 ぼくは肩身のせまい思いをしている。(あんまり、張切らないでくれや)つきくずされた雑誌の山を、たてなおす手伝いをしてくれながら、工場長の佐藤さんはいった。ひと棟の工場だったのが発展して、隣りの棟にのびていったらしいこの工場には、まじきりの壁はとりはらわれたが、たくさんの柱がのこり、二階への階段は三つもついている。柱と柱のあいだには折束がつまれ、柱と階段のはざまには機械が据えられ、階段と壁のすきまに雑誌がつまれている。

 ぼくはいごこちのわるい思いをしている。この工場でもう十日働いたが、うんざりするほどの息苦しさなのだ。窓は小さくて光もさしこまず、昼間から電燈をつけて仕事をする。こんなに狭っくるしい場所で、こののち何カ月も何年も、同じ動作をくりかえしながら働くのは耐えられない思いだ。ぼくはとびだしたい衝動をおさえかねている。

 使っている布団は住込み部屋に備えつけのものだ。会社の古布団なので襟には、他人のにおいがしみついている。それを六畳間にしいて寝る。窓はいつも開けはなたれていて、カーテンもない。古くなってすすけた板壁には、外国女優の写真がいくつもはってある。または剥がしたあとがのこっている。六畳の片隅に三段ベッドがひとつおいてあって、うえから新助さん熊さん信さんが寝ている。ベッドからは、ぼくの寝姿が見おろせるのではないだろうか。日記を書いているとそれも見られてしまうので、部屋に誰かがはいってくると布団のしたに隠すことにしている。本を枕もとにひろげておいて、それを読んでいるふりをしている。朝になって布団をあげる時には、日記ノートもそのまま布団にまきこんで、押入れにいれることにしている。このノートは誰にもみせられない。これを隠しとおすのに苦労させられる。

 ベッドのいちばん下に寝ている信さんは、「おれたちは社会の底辺にうごめいているんだ」

 と、たいへん悲観的なことをいった。この人は工場の片隅で、ひっそりと仕事していてめだたない。まえに一度結核を病んで、いまも保養をしているらしい。夕食をたべおわると、枕もとの小箱から三角チーズをとりだしてたべる。薬のようにひとつだけたべるのだ。めがねをかけていておとなしい。無理なことは何ひとつしない。活気がなくて年寄りくさい。まだ保養中だから、活気がないのはやむをえないとしても、この人をみていると、若いくせにもうモソモソしてやがるという気持になる。あるいはこの人は、社会や経済のしくみにおしひしがれまいと、ゆっくり仕事をすることで、抵抗をこころみているのかもしれない。

 明日は出発するという、その日の夕方まで何ともなかったのだ。手足を洗って机に向おうとしていると、たんすの取っ手にひっかけられた背広がふと目について、着てみようという気をおこしたのだった。その背広は質屋業をしている義兄がくれたもので、茶にこまかい格子縞が入っていて、ぼくには地味に思われた。着てみる気もしないで放っておいたのだが、妹は柄がよいとかありふれた生地じゃないからいいとか、さかんにほめていたのだ。それで気が変って、背広をきて台所にいる妹のところへいって見せた。

(ほれ直子、見《み》ち居《お》め? こん如《ごと》し地味《じみ》よ) 

そういうつもりであったのだが、妹は声をあげた。「あいな! いい感じやあらんな。其《う》れやアメリカ製の背広かやア? いい背広どオ! しかし中身は沖縄製やあ」 

背広を着てみたらきゅうに、内地へいくということが実感となってわいてきた。ぼくはそれまで、たいして気にもとめていなかったのだ。たとえば、那覇の町へバスにのってちょくちょく行ったけれど、別段にかわった心がまえもいらなかった。だから東京という街へいくのにも、別にかわった心がまえはいらないのだと思っていた。バスにのって行くところを、船にのって行くだけだと、自分にいいきかせていたのだ。

 ぼくは背広を着たまま居間にたって、台所の妹と東京のはなしをした。デパートのエスカレーターのことや、電車や交通ラッシュのことなどがでてきた。

「東京の車にや、用心さんとならんはずよ」「車な? 生命保険かけて居《う》けや、大丈夫よ」「生命保険? うっ死ぬる時《とち》や、誰《たあ》が其《う》の銭や受けとゆるかや?」「妻《とじ》が名義にしち居《お》くんよ」「まあだ恋人もおらん者《もん》に、妻《とじ》がすぐに見つかゆんな?」

 そんな会話をしているうちに、ぼくの心はだんだん揺らいできたのだ。東京へいくということは、これは大変なことかも知れないぞ。そういう気持になったのだ。しかも出発の日も迫っている。いまのいままで心が揺らぎもしなかったことが、おかしいとさえ思われてきた。せきたてられるような気持で、部屋にもどった。もみ手をしながら部屋をあるきまわった。

 ぼくは秋田からきた人といっしょに仕事をしている。三人ひと組で焼付けの仕事をしているのだが、二人が東北の出身なので東北弁をつかうのである。(そんでねえベー、おめえ)とか、(あれとって下《け》ろじゃー)という。田舎くさい言葉である。(ですよ)とか、(でしょうね)とかはつかわない。あるいは秋田なまりの残った東京弁をつかうのである。とても早口でもって、(ちげえねえじゃねえか、おい)という。野暮ったい言葉である。

 東京の人の言葉は、(あのねえ~)というところに特徴がある。ふつう、ラジオできく言葉は東京の言葉なのだが、それはしかし役所言葉とでもいうべきだろう。東京の人の家庭内での言葉は、もっとくだけていてやさしい感じがするのではないだろうか。あるいは遠慮ぶかい感じがするのでは……。

 ぼくは沖縄で、ラジオやテレビや本などから標準語を身につけていたつもりであったのだが、ここにきてはあまり役だたない。それは秋田の人といっしょに、仕事をしているからなのかも知れないが……。ぼくは早く言葉になれたい。現在のぼくは、いいたいこともじゅうぶんにいえないでいる。おじおじしているのだ。 

ぼくの隣りの部屋には、きのう熊本からやってきた人がいるが、この人もあまり標準語がつかえない。ぼくがつかうほどにもつかえなくて、いつもモゾモゾしている。ものがいいたいのに、うまくいえないもどかしさにモゾモゾするのだ。またこの人の言葉には、熊本弁のなまりらしいのが残っている。(いやあ、よんべは憩《よこ》われんかったです。市電の音がきんきんして)そんなふうにぎごちなく標準語をつかうのである。

 東京にはいろんな土地の人々があつまってくる。そしてそれらの土地の言葉をもちこんでくる。田舎言葉のなまりも、もちこんでくるのだ。そして仲間どうしはだいたいにおいて、田舎言葉をつかっている。ぼくはそんな言葉をよくきいた。そこでぼくは、どっちが本当の言葉だろうと思ったのだ。

 本土就職を申込んで二カ月もたっているのに、なんの音沙汰もないから、もうあきらめかけてはいた。しかしあきらめるにしても、そのままほっぽらないで、なにがどうなっているのか、それをはっきりさせたいと思って、職安にでかけていったのだ。いったい採用してくれるんですかくれないんですか。もし採用してくれないんなら、だした書類で別の職場に申込みたいんですが、とぼくはいった。

 いや待ってくれたまえ。あすじゅうにはなにもかもはっきりしますから。こちらから電報をうってみましょう。送りだしてもいいかどうかの問いあわせだから、あすじゅうにも返事はくるだろう。別のところに申込むにしても、それからにしてください。

 本土就職の係のおじさんは、色がくろく、眉が三日月のようにまがっていて、やさしい感じだった。おじさんのいうとおりにすることにして、では、あしたまたきてみますといって職安をでた。

 そのまま家に帰るのもつまらないのでバスにのった。きっぷを買うだんになってから、さて、どこへいこうかとまよい、結局港にいってみることにした。もし本土就職が決まらないのなら、島のどこかに仕事口をみつけなければならないだろう。港の荷揚げ人夫になってもいいのだ。そこでしばらく働きながら、本土就職の別の職場に申込もう。 泊港は車の出入りがはげしかった。いろんな商品が雑然と陸揚げされていた。岸壁のはたによっていって、網で蟹をとっている男の手もとをのぞいたりした。簡単なしかけだ。わっぱに網をはって、まんなかに魚肉をむすんでおくだけでいい。それを海になげこんでおいて、しばらくして引きあげると、網に足をとられた蟹がごそごそしているのだ。

 そのうちにタグボートに引かれた本土からの貨物船が入港してきた。船首の男が細いロープをふりまわしている。ロープの先には袋(サンドバッグ?)がついていて、弧をえがいてとんだ。岸壁の男はそれをつかんで走った。幾人かの男もくわわってロープを引っぱった。船首から太いロープがひきよせられ繋留杭にひっかけられた。タグボートは船を岸壁のほうにおした。岸壁にはタイヤがいくつもつりさげられていて、船は衝撃もなくぶつかってとまった。

 吃水線いっぱいに杉材をつんでいた。両舷にはガスボンベも並んでいた。人夫たちが船にとびうつる。自分がこの港で働くことにでもなれば、あんなふうに仕事をするだろう。そんな思いでぼくはみていた。船のウインチが動きはじめた。ガスボンベはつりあげられてゴンゴンと鳴った。

 みんなが杉材に手をかけはじめてから、ぼくはそこを離れることにした。用もなさそうに人夫たちをみているのは気がひける。仕事もしない男が、あくせく働いているのをぼんやりみているぜ、と思われてじろっと見返されたりするのはいやなことだ。港の食堂で牛乳をのんだ。外はむしあつかった。午後の日がまぶしく照りつけていた。

 風呂から帰って、すぐに街へ出てみた。風呂屋の板の間の壁に、映画ポスターがはりだされていて、それがぼくを街へさそいだしたのだ。

(映画館はどこにあるのだろう) ぼくは田中製本と風呂屋しか知らないのだった。船旅ですっかり方向感覚を失っていて、外をで歩くのがこわかったのだ。しかし風呂屋へはちょくちょく行った。紙ぼこりと汗を流すため、というよりも息ぬきのために。

(やれやれ、きょうも一日が終ったイ) 風呂屋へ行くにもビルの谷間を通っていく。ビルは印刷工場であったり、商事会社であったりしたが、窓はいつも閉ざされていて暗かった。普段は九時の残業が終ってから、そこを通るのだったから、どこも閉店していて暗いのは当然だった。狭い通りを冷たい風が、ふきぬけていた。

(ほう? ここはおもちゃ屋さんだったんか?) さて、自分の勤める工場と風呂屋しか知らないぼくは、その間ずっと暗澹とした気持で過していたのだ。それが街へでてみてすっきりと晴れた。都電通りをどんどん下っていけば、一丁目向うが軒並みの古本屋街だったのである。

(ひゃあーッ、驚いたなァ。ここがあの有名な、神保町とかいう……) 

本屋のなかは蛍光燈でまぶしく輝き、天井近くまで本が並んでいた。一冊一冊の本は上へ上へとのぼって、入ってくる客におおいかぶさるような姿勢をとりながら、てんでに勝手な自己主張をしていた。

(まってくれ、ぼくは金を持ってないんだよ。ただ、見てまわろうとしているだけさ) たくさんの学生たちが流れ歩いていた。この前、工場長の佐藤さんに、あのひとたちはサラリーマン? ときいたら、学生だろ、神田近辺には大学が多いから、と教えてくれた。その学生たちが背広を着て、本やノートをもって歩いていたのだ。

(へえーッ、ここが本通りで、あそこは裏通りだったんだな) 暗い木造だての工場も、にぎやかなこの神保町の一画にあるのだと思うと、周囲が明るくなったように感じた。ぼくはこの本屋と学生の多い街を、ふるさとの町のように好きになりたくなっていた。(そうだったんか、わかってみれば何てことはない……)

 哲学書は、はいて捨てるほどもあり、文学書も浜辺の砂の数ほどあるらしかった。ぼくはそれらの一冊一冊を必要に応じて、買ってきては利用できる。じっさいメリヤスいっぽん、つっかけ下駄でも、駆けて行ける近さなのだ。(これなら、あそこがどんなにむさくるしくても我慢できるぞ)

 沖縄の田舎町からでてくる時、東京の人口は一千万に達して、世界一になったというニュースを聞いたばかりだった。人口が世界一であるならば、市街の巨大さも世界有数であろう。目もくらむような高いビルが、どこまでもつづいていることだろうと思っていたのだ。 たとえば、ハドソン湾をさかのぼって、ニューヨーク港にはいっていく旅客船からは、マンハッタン街のステッキを大地につきさしたような高いビル群が、視角四十五度の高さに見上げられる。そんな話をアメリカ人から聞いていたし、エンパイヤーステートビルの写真も見せてもらっていたのだ。

 そしてぼくは東京にでてきた。しかしなるほど、繁華街には二十階建てほどのビルがあったが、そんなに高いとも巨大だとも思えなかった。威圧を感じることもなかったし、ことさらにびっくりするようなこともなかった。東京の街といっても、大半はごちゃごちゃと平家や二階家がたてこんでいるだけで、そしてそれが田舎の町よりも広範囲につづいているという、それだけのことだったのだ。

 ぼくはこちらにきて一週間目になって、ようやく街歩きをしたが、そんな街の路地でまよったら、自分のいきつくべき工場がまるっきりわからなくなり、住込み部屋にも帰りつけないのではないのかと不安だった。路地も四方八方にのびていたのだから。

東京の人はみんな色が白い。沖縄では日にまっくろにやけた労務者などよく見かけたが、東京では労務者や土方でさえ色が白い。太陽がないからであろう。東京の空はカラッと晴れあがることがない。少なくとも、ぼくがここにきてからまだ晴れたことがない。毎日うすぐもりだ。朝おきて歯をみがきながら、部屋の窓からむこうの屋根を眺めていると、よごれてくろく見える。煤煙がしみこんでいるのだ。窓べによって手摺りにもたれかかると、手にくろすすがつく。通りの眺望もかすんでいる。こちらでは一キロメートルも離れると、もうぼんやりとしか見えないのだ。太陽はそのような空にかすかに見えてすぐに沈む。

 ぼくは東京にきて色の白い人たちにばかり出会うので、それが目につき気になってしかたがなかった。沖縄では色の白い人は事務員をしているか建物の中で働いている人で、ひとくちにいって尊敬できる人たちなのだ。

 だから東京では会う人ごとに気をひかれ緊張したのである。ここではみんな一様に色白で区別ができなかったのだから。

 高窓の外には、みどりの木の葉がみえた。ビルと工場のはざまの木は、昼頃になってから陽光をあびて、こごえた手足をいそいでもみほぐす。

「大原、あれは何の木だろう?」「さあ、知らないな」「柿の木かな?」「ちがうだろう、柿の葉っぱはもっと濃いみどりだよ」 

小窓はいつしか、いっぷくの絵になった。機械の音にせかされて働きながら、ふとそれを見上げては、どこか知らない遠い緑野を思いみる。

 給料をもらった翌日は、日曜日であった。しかし朝は普段のように七時半に起きた。がさがさ洗面をすませ、生卵のついた簡単な食事をとった。そばにいた熊本からきた松岡くんに、きょうは横浜の港を見物しにいくつもりだというと、いっしょにいきたいと同意したので、ふたりはクリーニング店に行ったり郵便局によったり、さらに飯田橋の原運送店によりみちしたりした。ここには田中製本をやめた二人の沖縄《うちなあ》ン衆《ちゆ》が働いているのだ。店の人に川平くんいますかと尋ねると、二階へかけあがっていって、出かけてしまった、照屋も寝てないといった。彼らも誘おうと思ったのだが、映画でも見にいったのだろう。九時すぎになってようやく飯田橋から横浜へと出発した。

 横浜駅には観光案内の大きな地図があった。その下に名所旧跡の名前がならんでいる。ボタンをおすと地図の上に赤い豆電球がつくしかけである。港の見える丘公園というのがよさそうであった。ふたりは山手の静かな住宅地をあるきまわった。港の見える公園をさがして、丘の方ばかり見てあるいたのである。外人住宅がおおかった。樹林にかこまれた外国風の建物は落着いてみえた。丘のはずれまでいっても公園はみつからなくて、ついに外人住宅の屋敷内から港を眺めることにした。急傾斜の丘の下には貧しい長屋が見えたが、そして外人住宅はそれらを見下すお城のような感じであったが、そんなことには頓着しないで港に停泊する巨大な外国船を眺めた。松岡くんは海はめずらしい、船もあまり見たことがないといった。いま船をみたから、この次は船にのってみたいといった。

 人混みの電車にゆられて出歩くのは、砂漠で水がかれるみたいに、心の潤いを失ってしまうようだ。都会に住む人間はおたがいに顔をみないのである。視線があうといそいでそらしてしまう。心をかよいあわせるゆとりもないというのだろうか。身なりからすると生活がそんなに貧しいということではないらしいのだが……。

電車のなかで前の人の顔をみるのは、それはその人の顔の輪郭をみているのだ。その人の目のひらきぐあい鼻のたちぐあいをみているのだ。その人に心をかよわせたいからではない。ちらっと見かえすと、とまどったように顔をそむけてしまうことからもわかる。無表情なゴムの顔、すましている蝋の顔、無関心なにかわの顔、そんな顔がうじゃうじゃいた。そんな顔のまえでは、自分もそれに感染して感情をころした顔にならざるをえない。出かけるときのにこやかさはどこへやらだ。

 工場長の佐藤さんは、ぼくが沖縄からでてくる二カ月前に、沖縄旅行をしたとのことで、ひめゆりの塔の前では涙がでてしかたがなかったというのだった。そして観光バスでもらってきたというパンフレットをだしてきて、ぼくに見せてくれたのだが、それは南部戦跡めぐりの観光バスでもらったパンフレットにちがいない。慰霊の塔の写真ばかりなのだ。たくさんの日本兵や住民が追いつめられて死んでいった南部の島尻には、いまではびっくりするほど多くの慰霊の塔がたっている。大変なことだなと思いながら、ぼくもそのパンフレットをみたのだった。塔のそばには遺族や学友が詠んだ歌碑もたっていて、たとえば健児の塔の碑には〝みんなみの、いわおの果てまでまもりきて、散りにし龍の子、雲まきのぼる?とあるのだ。ひめゆりの塔には〝いわまくら、かたくもあらん安らかに、眠れとぞいのる、学びの友は?という歌があるのだった。佐藤さんはこんな歌碑になかされたのではないだろうか。ぼく自身もそれをよんでクスンとしたのだった。

 それからカラーで撮ってきた沖縄の風景写真もみせてくれた。それを一冊の写真帖にしてとってあるのだ。佐藤さんは観光のとちゅう町の職安によって、求人申込みをしてきたということだった。運転手一名に製本見習い工三名の求人には、しかし見習い工のぼく一人しか応募者がいなくて、ぼくは他の工場に就職する青少年たちといっしょに、集団就職船で職安長から祝辞をうけて送りだされてきた。佐藤さんはそんな人なので、沖縄の人にはとてもよくしてくれて、パインナップルのおいしかったことや海や空がすんでいたこと、そんなみやげばなしをしたがるのだ。佐藤さんがそんな人であることをぼくはなぜ忘れていたのだろう。腕をだして国際通りで買ってきたのだといって、オメガの時計を見せてくれたりする工場長を忘れて、なぜこんな工場はいやだなどと思っていたのだろう。こんな佐藤さんのもとで、何もできなければぼくは駄目なやつだぞ、しっかりしろよと、感激して自分にいいきかせたのだった。

 失望したくなかったから、あまりあてにはしてなかったのだ。もし不採用ならすぐにでも、港の荷揚げ人夫にいくつもりでいたのだが、採用だった。ぼくはほっとし、それからちょっと笑った。うれしさをもっと表情にあらわそうとしたが、とっさのことでよくできなかった。とにかくよかったといって、職安をでて足早やに帰ってきた。

 それから理髪店にいき、風呂屋にもいってきた。そしてさっぱりした気持でぼくは母にいった。

「とうとう決《き》またんでエ。二十三日に出発とよオ」「何《ぬう》が決またんよ?」

 母はとぼけたような顔をふり向けたが、それにはかまわずに先をつづけた。「百ドルぐれえや持っち行《い》ちゆるもん、準備しちょおけよ」 

ぼくが本土就職を申込むと、父はぼくに持たせるつもりで百ドル借りてきて、母に隠させておいたのだ。ところが一ト月たっても採用の通知はなく、母はそれまでにその百ドルをくずしては使いくずしては使いしていた。「たんすの引出しにや、百ドルあるはずやろもんに」 だから、ぼくは皮肉るみたいにいったのだ。

「百ドル? 其《う》んごとした銭は、はじめから無《ね》えらんよ……大謝名の貸住宅のペンキ塗り仕《し》ちおりや、ペンキ代が浮《う》ち百ドルぐれえや持《も》っち行《い》かったるはずやろもんによ」「ああペンキ塗りな? あれ仕ちょりや百ドルばっかりせや承知ならんよ。財産わけてくれっち談判し、ぜんぶ持《も》っち行《い》くるはずよ」 そんなことをいって出てきたのだったが……。

きのうは一日じゅう、めまいがした。頭痛もしないのに、めまいがした。いや、唾液が口中にじくじく出て、吐き気もあった。唾をはきすてながら、仕事をつづけた。しめきりもまぢかいのに、頑張らなくっちゃ給料少ないだろう。自分にそういいきかせながら、惰性の法則で動いていた。 仕事はあいかわらず、焼付けのおわった雑誌を断裁機のそばに運んで、つみかさねておく役だ。たちくらみする頭で、雑誌を山とつみかさねるのだったから、組みあわせがわるくて倒れそうになったり、割れてかたむいていたりした。きょうその山をみたが、ずいぶんといいかげんな仕事ぶりだったことがわかる。

 ところで、なぜめまいがしたのだろう。住込み部屋の食事では栄養不足なのであろうか。ごはんは二杯も三杯もたべられるのに、おかずの方は、大きな皿にめざしが二、三匹だったり、鮭のきり身がひときれだけだったり、鯨肉がちょこんとのっていたりだ。含水炭素は充分すぎるくらい補給できるとしても、蛋白質は不足しているにちがいなかった。 昼休み前に、ぼくは大原くんにきいた。「卵はどこに売ってるんだろう」

 田舎みたいに店屋にいけば、何でもあるというわけにはいかないからめんどうだ。「八百屋にきまってるだろッ」 焼付機係の大原くんは、そんなふうにこたえた。

「八百屋?」 首をかしげたく思いながらも、ぼくはまたきいた。「八百屋はどこにある?」「風呂屋の向かいにあったろオ」「いや、あそこじゃなくて……もっと近くに」「もう、うるさいな。八百屋をきいてどうするんだ!?」「大急ぎで卵かってきたいんだ」

 彼はちょくちょく卵を借りていながら、まだ一度も返していないことを思いだしたんだろう。きゅうにやさしくなった。「卵? ならさあッ、そこを出てつきあたったら左へいき、すぐに右側に道があるからそこに入っていって、左っ側の四軒目がそうだよ」

 まっくらやみの田舎道を、手さぐりして歩く気持ではあったけれど、八百屋はちゃんとみつかったのである。嗅覚でみつけたのか第六感でみつけたのか、それはいうにいわれない。昼休みにラーメンをつくる鍋を借りてゆで卵をつくり、大急ぎで蛋白質を補給した。パックに入っている全部をゆでて、半分はたべたから、五個ぐらいはたべたことになるだろう。これで蛋白質はあふれるばかりに補給された。もちろんあふれたものは無駄になるわけだけれど、この際はそれも承知のうえでゴボゴボつぎこんだのだ。

 ところでどうしたことか、それでもめまいはなおらない。ビタミンが不足なのであろうか。潤滑油がきれたのであろうか。油も緊急にささなくてはならないのであろうか。やれやれなんということだ。仕事中ではあったがちょっとのすきをみはからって、潤滑油、潤滑油ととなえながら、また八百屋へ走った。走っていると節々がキシキシときしんで、摩擦熱さえ持ちはじめたようだから、けっしてぼくの思いちがいではない。ぼくは一個十五円の温州みかんを二個だけ売ってもらって、走りながら皮ごとたべたのである。しかしどうしたことか、こんどは頭痛もはじまったようだ。たいへんなことだ。ああ、それにしても、生野菜を皿にもってポリポリたべたいものだ。塩をふりかけ……まてよ、塩のかわりに農薬がかけてあったらどうなんだろう。皮ごとたべたみかんに農薬がふりかけてあって、それにあたったのでは……。

「めまいがする!! なぜか頭もいたい!!」 ぼくはたまりかねて、大原くんに訴えたのである。「ガスのせいかなぁ?」 彼はしゃがみこんで、焼付機の下をのんびりと調べている。「ガス!?」 きいただけでも身ぶるいがくる。アウシュビッツの毒ガスだ。

「ときどきさあ、火が消えてもれることがあるんだ。はきけもするかあ?」「するする、めまいにはきけに、頭痛だよ!」「あ、すみっこの穴の火が消えてらあ」

 それでも、頭痛に耐えて仕事はやりとげたのである。そして晩は早目に寝た。きょうも朝のうちは、ずきっとするような痛みがのこっていた。それで用心しいしい働いたのだが、もうなおったようだ。

 ぼくは淀《よど》みに浮いている一片の木ぎれであった。ぼくの周囲はどんよりした水だった。そして動かない水はいつしか、ぷくぷくと泡をたてはじめたようだった。動かない周囲、動かない自分をぼくはじっくり眺めていた。眺める習癖も身についた。それからそれに飽きて、流れを望みそれに身をまかせたのだった。自分を動く水のなかに浮かべてみたいと思ったのだ。しかし流れに入ってみると、激流とでもいうべきもので、ぼくは翻弄されて落着きをなくし、浮沈のなかで休息もなくしたのだ。心の潤いも、余裕もなくなった。

 そんな激流のなかで、もとの淀みを思いおこして、あの頃はよかった、ああ、何とかしてもどりたいといってはみるのだが、それは我ままかも知れない。淀みや流れは、ほんとうのところ、自分に何の影響も与えないものなのかも知れないのだ。どこにでも淀みのような静止はある。ただ静止状態が長いか短いかの違いがあるだけだ。

 あれはいつのことであったろう。中学一、二年の頃のことであったろうか。学校に宣教師がやってきた。放課後校舎の屋上で、キリストの話をするから聞きたい者は集まれということだった。友だちからそれを聞いたのだったろうか。ぼくはおそるおそる屋上へのぼっていった。もう話はおわっていて、こんどはお祈りをしようというのだった。お祈りの言葉を知らないのなら〝ああ?とか〝うう?とかでもいい、神に向かってキリストに向かって叫べばいい、気持を集中させて呼びかければいいというのだった。ぼくの隣りの中学生たちは叫びはじめた。両手をあわせひざまずいて呼びかけていた。ぼくはびっくりしてあたりを見まわすばかりだった。すると宣教師がそばにきて、お祈りしなさいというのだ。ぼくは天に向かってあーあーといった。いつしか自分の声もきこえなくなった。ただ、あなたは救われますという宣教師の声だけがきこえていた。目がさめるとぼくはひざまずいて両手をくみあわせていた。不思議な感じがあった。

 それから近くの教会に通いはじめ、聖書も買って読んだ。ある日曜日の午後、洗礼を受けたい人は泡瀬の浜に集まれと牧師がいうのだった。ぼくはでかけていった。夏ではあったし海にいってくるのもわるくなかった。浜べには二十人ばかりの人たちが集まっていた。牧師はジープでやってきて、服のまま海にはいりひとりひとりを呼んでは洗礼をさずけた。何か大声で叫んでは信者の頭をおさえて海水につからせるのである。海からあがってきた人は、アダンの林にかくれて着がえるのだった。ぼくは着がえをもっていなかった。シャツとズボンをぬぎ、メリヤスとパンツだけになって牧師の前にいった。イエスのみなによって洗礼を授けますと大声でよばわって、ぼくの頭をおさえて海水につからせた。メリヤスとパンツは体にへばりついた。林にかけこんでぬれた下着のうえにそのままシャツとズボンを着た。青い海の向うには入道雲がまきあがっていた。ぼくは海辺をひとまわりして帰路についた。牧師のジープが砂ぼこりをあげながら追いぬいていった。ジープに鈴なりにのっていた人たちは讃美歌をうたいながら手をふった。さんさんごご歩いている人たちを追いぬくたびに手をふった。

 教会は町中をつっきって走る広い軍用道路を前にして建っていた。カルテックス?スタンドのそば。白いペンキのトタン屋根と、白と緑にぬりわけたトタンの壁。石灰岩できずかれた石垣の上、三メートルの高さの台の上にあった。前庭はこれも石灰岩の砕石をしきつめた白い駐車場。日曜日ごとにアメリカ人たちは、奥さんや子供をつれて車で乗りつけてきた。ぼくたちは石垣の上に坐って足をぶらぶらさせながら見物していた。教会の中は劇場のように騒がしかった。英語のおしゃべり日本語の呼び声。 ぼくはまもなく教会にいかなくなった。学校帰りに友だちがこういうので良心がとがめたのだ。おい、クリスマス前《めえ》にや、信者がいっぱい出てくるって本当な?

 プレゼントがたくさんもらえるってからによ。確かにそうかも知れなかったのだ。教会の支持者であるアメリカ人たちは、クリスマスになると靴や自転車や野球グローブやクレヨンや、その他いろんなものを車につんできて、ひとりひとりの信者にプレゼントするというのだった。あるいは教会の建てものでさえ、彼らが寄贈したものであったのかも知れない。なぜなら白と緑は兵舎の配色であったからだ。払い下げになった兵舎をそっくりそのままトレーラーで運んできて、台の上にのっけたものだったのだろう。軍用道路ではバスやタクシーにまじって、演習に出かける兵士たちを乗せたトラックが走った。ときどき戦車も地響きたてて通りすぎた。兵士たちは女を見かけると口笛をふき手をふり白い歯を見せるのだった。

「あれ? 新顔がきてるね? きょうきたの?」「ああ」「いなかは、どこ?」「おれか? おれは深川だよ」「深川? というと……」「浅草の向うだ」「なあんだ。じゃあ東京の人なのか」「なあんだってことはねえだろう? がきのころからずうーっと東京だよ」「いや、ひとりで淋しそうに坐ってるからさ、どこか遠い田舎からでもきたのかなと思ったんだ。製本にはなれてるの?」「おれは運転の方だよ。で? おめえの田舎はどこだい?」「ぼくはおきなわだ」「おきなわ? またえれえ遠くからきたもんだな。おきなわっていやあ、自由にいったりきたりできねえんだろ?」「うん、パスポートがいる」「パスポート? なんだ? それは。旅券のことかあ? へえーするてえと、いちおうは外国じゃねえか」「うん、そうなんだ」「それじゃなにかあ? おめえは外人なのか? それにしちゃ、へんな外人だな」「へんかね?」「日本語もちゃあんとしゃべれるしよ。向うじゃ英語かなんかをペラペラしゃべってんだろう?」「そんなことはないさ。これでもりっぱに日本民族だから」「そうかねえ、おれはまた|えぞ《ヽヽ》あたりの民族かなって思ったんだが」「えぞって?」「えぞを知らねえのか? 北海道のことだよ。頬骨がはっちゃって毛深いから、そうだと思ったんだが、じゃあおきなわには、その手の顔は多いのか?」「一般的にいってね」「どうだい、ここはおもしろいとこかい?」「東京のこと?」「ここといやあ、会社にきまってるじゃねえか。美人もいるんだろう?」「ひとりもいない」「ひとりもいないって? そんなことはねえだろう。いくらなんでもひとりぐらいはいるだろう」「うん。見ようによっては美人に見えるひとも、いることはいるんだが、みんな決ってる相手がいて」「いったい何人ぐらいいるんだ?」「社員か? ぜんぶで三十人ぐらいはいるんだ。そのうち住込みが十九人ぐらいで、男が十人で女が九人」「女のことだけでいいんだよ。野郎のこときいたってしょうがないじゃねえか。それで? おめえも相手はみつけたんだろ?」「いや、みんな相手が決ってるんだ」「決ってるったっておめえ、ほしけりゃとっちゃえばいいじゃないか」「そんなことはできないよ。それにぼくはだいたいにおいて、興味がないんだ」「興味がないってことはねえだろう。男でありゃおめえ、女に気をひかれるのは当然じゃねえか」「うん、それはそうだろうけど、ぼくはもっと教養のある女性が好きなんで、ここにはそんなのがいないことはわかっているから、べつに」「みんなはどこに寝てるんだ?」「女の人たちか? そっちのほうだ」「へえ、めとはなの先じゃねえか」

 ぼくは何とひどい、ちぐはぐな精神状態にあったことだろう。ここに勤めはじめて以来、ずっとはりつめた気持で過してきた。そしてみんなに好きになってもらおうと努めているのだった。ここの人たちに気をもみ、気を使っているのだった。ちいさな会話にもすぐに参加したがった。しかし親切のつもりが、かえってその人の気にさわったりしたこともあった。何気ない気のきいたつもりの言葉が、嫌味にうけとられることさえあったのだ。

 給料袋には一万五千円が入っていた。まずは、給食費の五千円を賄《まかな》いのおばさんに支払う。それから近くの洋服店で、四千五百円のブレザーコートと、千四百円の白ワイシャツを買う。六千円も買物に使ってしまってから、はたと困った。これから最新流行の靴も買いたいし、ラジオと電気スタンドも買いたい。ラジオは古物の安いのがみつかればいいのだが、二千円はするだろう。スタンドだって千円はするだろう。

 日曜日は朝十時から、ラジオと電気スタンドをみつけにいく。この前、映画館をさがして街をうろついていたら、木立ちにかこまれた神社の近くに、古道具屋があったことを思い出した。軒先にいろんな道具といっしょに、大きなラジオも売っていた。四、五日も前のことだから、もう売れているかも知れないと思いながら、歩道橋の上から、神社の木立ちをさがした。あのあたりだ、と見当をつけてから路地へ入っていった。古物商の店はわけなくみつかった。ラジオもまだのこっていて、二百五十円の値札がついている。値札のすみには「教材用に」と書いてある。店のガラス戸をあけようとしたがあかない。このようすでは、店番の人はちょっとそのへんに出かけたようだ。ぼくはガラス戸に顔をくっつけて、しばらくのあいだ、中の商品を物色した。電気スタンドでもあれば一挙に必要なものがそろうのだが、しかし、スタンドはないようだ。それならラジオを買うのもよそうかな、と思ってしまった。こんなに古くてでかいラジオは、きっと物笑いの種になるだろう。それに教材用にというのは、分解して教材につかうのにいいということでもあろう。もしかすると故障していて、鳴らないのかも知れないのだ。ぼくはよくよくそのラジオを見たが、電気博物館にでもありそうな旧式のラジオで、クスッとふきだしてしまいそうなくらいの品物だ。

 神保町の交差点には、質流れの品物を売っている店がある。帰りにはその店にもよってみた。ショーウインドに人がたかり、店内もこんでいて、品物は豊富であったが、安いとは思えなかった。ぼくはみるだけにして帰ることにした。

 食堂でテレビをみながら昼食をとっていると、都合よく新助さんが帰ってきたので、安いラジオを売ってる店を教えてもらった。「あきはばらへいってみな。あそこならピンからキリまであると思うよ。なにしろ、日本一電気屋さんが集まってるところだからねえ」

「へえ? そんないいところがあったの? よし、決心した。そこへいってみよう。そこは近いの?」「すぐそこだよ、ものの十分もかからないだろう」「歩いていけるんだね?」「なにも歩いてくことはないだろう? 電車という便利な足があるんだから」「あれ? ぼくの足をばかにしてるな? これでも田舎では、仕事のいきかえりに二十キロも歩いて鍛えた足なんだからね」「そうか? それならその足で三時間ぐらいで、いけるだろうな」「そんなにかかる? そんなら電車にのっていこう」

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