おきなわから出てきて、まだ半年にもならないのだから、東京の街はほんの一部分しか知らなくて、広大にひろがった街のどこにどんな楽しい場所があるのかわからない。たとえば安くて気楽にとびこめる映画館は南明座しか知らなくて、もっと知っていれば選択ができるのにと残念なのだ。そしてぼくは草深い田舎や野山が好きである。しかしそんな田舎や野山がどこにあるのか、どのようにしてそこへたどりつけばいいのか、わからなくてもどかしい。
桜の花も散りつくして、野や山に濃い緑がはえるきょうこの頃となりました。ごぶさた致しておりますが、いかがお過しでしょうか。お伺いもうしあげます。 さて先日来、お約束(私が勝手に決めた)致しておりましたお友達紹介の件ですが、三人の方におたずね致しましたところ、いずれの方もO?Kの由ですので、一応お知らせ致しておきます。
直接、私のお友達ではございませんので、よくはわかりませんが、とにかくおとなしくて気持のよい方たちだそうです。いちどお逢いしたいとの由ですので、いつかご連絡いただければさいわいです。
私の方は多忙をきわめておりますが、ご連絡いただければ都合をつけて、その方たちをご紹介致します。また、ご迷惑でなければ私がお電話してもよろしいのですが、いかがでしょうか? お返事をお待ちしております。
一日すわりどおしというのもつらいことです。なれるまでは……。一時間半の授業筆記もつかれます。五時限まである日はつかれて腕を動かすのもだるくなります。しかし何といってもやはり学生生活がよいです。古巣にかえったような気分で毎日の授業を楽しんでおります。今年は四年で卒業論文もひかえておりますが、あるかぎりの力をふりしぼってない頭を働かせて、最善の努力をするつもりでおります。頭をつかうばかりでなく、時には一切をはなれ運動やリクリエーションをすることがあるでしょうが、最後の学生生活を楽しみながら過そうと思っております。
ごめんなさい、自分のことばかり並べて……。そちらの生活はいかがでしょうか。ご無理なさらぬよう、おん身ご自愛のほどお祈りもうしあげます。乱筆乱文お許しのほど、ひがしさまおんもとへ、恵美子拝。
恵美子さん、お手紙ありがとう。元気で学生生活を楽しんでいるとのこと、それは何よりです。手紙がくるということは、大原君からきいて知っていましたので、心待ちにしていました。お手紙には友達を紹介してあげるとありましたが、ぼくはそこを読んで心に痛みを感じてくすんとしました。その親切さが心にしみたのです。
しかしいまのところ、ぼくは友達をほしいとは思いません。じつは最近失恋したばかりなので、そんな気力もないのです。いまは〝ぼくはだめだ?としきりにつぶやいていて、はた目にもそれとわかるほどしょげきっています。残業も休んでばかりいます。
失恋の相手というのが(もう何もかもうちあけてしまいます)、しばらくのあいだ当田中製本にアルバイトで通ってきていた女子大生の町野豊美さんです。この人を最初みた時、〝あれ?
妹に似ているなあ、額や眉や目が似ているなあ、東京にも妹に似た人がいたのか?と、うれしくなったりおかしかったりしました。しかし豊美さんをみているうちに、だんだんわかってきたのですが、気質としては似ていませんでした。
ぼくの田舎の妹というのは、今年高校二年ですがとても内気で人見知りをします。自分の家と高校をいきかえりするだけで、どこへも遊びにいききれないのです。学校の運動場も市立の図書館も歩いていけるほどの近さにあるのに行きたがらないのです。人前にでるとまるっきり口がきけなくなる性質を、ぼくは歯がゆく思って図書館へひっぱっていったこともあれば、映画へつれていったこともありました。こんな|田舎の豊美《ヽヽヽヽヽ》も遠くはなれてみるとなつかしい。
しかし町野豊美さんのほうは何と明るく、てきぱきした性質であったことでしょう。さすが人の多い東京に住んでいるだけのことはあると思いました。誰にも愛嬌があってそして親切で、ちっとももじもじしたり人おじしたりしない。まるで妹を理想のかたちにしたような人だったのです。そんなことでやがてぼくは、豊美さんに恋愛感情をもちはじめました。
恋愛というものは苦しいですね。ぼくはこの妹のような人に、自分のそんな感情をみせてもいいものかどうかと迷いました。こんな高校生のような人に、ぼくのようなものが近づいていってもおかしくはないかと思案していたのです。ところがその時すでに、大原君と彼女はデートしていてふたりは親密になっていました。大原君がいちいちそれを報告するのです。そこでぼくはふたりを邪魔しないようにひっこんでいました。そのうち彼女はアルバイトをやめて去っていきました。ぼくは心が急に軽くなって虚しいくらいでした。
さて、もうわかってもらえたと思います。ぼくは自分を傷つけて〝やぶにらみだ?といってみたり、しかしまた〝豊美のやついまに見ておれ?といってみたりして、ずいぶんと混乱した状態にありました。そしてようやく近ごろ平静をとりもどしかけているのです。そういう時期にあるぼくには、いかなる友達も必要ではありません。恵美子さんの親切はとても有難く思っても、以上のような理由で辞退したいのです。どうぞぼくの気持をくみとってわるく思わないでください。
恵美子さんへ[#地付き]常夫より
散歩のつもりで夕方六時ごろ、仕事着のままぶらっと住込み部屋をでた。三崎町の都電のりばから、巣鴨行きにのった。誰かに会いたいと、心はふつふつとなっているのに、会ってくれる人がどこにもいなくて、ぼくはなきわらいのような、ひどい顔をしていたことだろう。巣鴨につくと、こんどは志村坂上行きにのった。志村坂上で下車して、長後町一丁目まで歩いていき、大通りからそれて町中へと入っていった。
もはやアルバイトで通ってきていた、あの女子大生の家をめざしていることにまちがいなかった。しかし彼女に会おうということではない。家のあたりをぶらついてみようという、いたずらな気持を抱いていただけだ。できたら、垣根の外から家のようすをのぞいてみたい。そう思って地図の記憶をたよりに、ひたすらそこへ足を運んだのだ。
衝動的にこんなところまでやってきて、ひょっこり彼女と出会いはしないかとぼくは恐れていた。うわあー、わるいところで会ったなあ、はずかしい立場にたたされた時の、とまどいの声をじっさいに練習してみたりしながら、通りを歩いている人に遠くから注意をはらっていた。できることなら会わないほうがいいのだし、ぼくのほうで注意してさければいいのである。
長後町から蓮根町一丁目はかなり遠かった。徒歩三十分ぐらいはあった。そして電柱にはられた住居表示を見ながら、一の四をさがしまわったのだが、どうしてもみつからない。もう暗くなっていたので、人の家の前をうろつくのは気憚られた。挙動不審な男だと思われて、警察へ通報されては困るのである。
うっそうとした欅《けやき》にかこまれたお寺があって、地図でみた記憶では、それは蓮華寺だったのだが、ぼくはそのあたりの風景と、だいたいの様子を印象して、帰ることにした。
路上に猫が血まみれになって死んでいた。金色にひかる鋲をうたれた首輪をはめて、ずいぶんと大事にされていた猫と見受けられた。血糊はまだ乾いていなかったから、轢かれたばかりにちがいない。どこの車が轢いたのだろう。塀のそばに奥さんのような女性がたっていたのでぼくはきいた。「あの、一の四はどのあたりでしょうか」「もっと……向うじゃない?」
彼女はそう答えてくれたが、あまりにそっけない教えかただったので、ぼくはたちどまったままでいた。その時になって、彼女が胸に毛布を抱いてることに気づいたのだ。彼女は猫のそばによっていってうずくまった。「あ、その猫、おたくのですか?」 そう話しかけたら、彼女はきゅうにひいーッと泣いた。それまでこらえていたのだろうが、ぼくには奇異に思われた。「まだ……こねこだったのよ……」 毛布で死骸をおおいはしたけれど、それ以上は手が動かせないでいる。「すみませんが……包んでくださらない?」
泣きながら頼むので、これは当然悲しみにあたいすることだろうと自分にいいきかせて、猫を包んであげた。「ひどいことをするものですねえ」「くるま……見ませんでした?」「いえ、見ませんでしたが、いまさっきだと思いますよ」「とても……かわいかったのに……」
彼女がどんなにこの猫を可愛がっていたかを思うと、可哀想になってきた。たとえ猫の子でも一緒に暮らしていれば、愛着がわいてくる。そして、それが突然死ぬようなことにでもなれば、泣くのは当然であろう。毛布にくるまれた猫を抱いて、彼女はすすりあげながら帰っていったが、すぐそこが家で、門を入ってゆく時にはよろけて、しばらくのあいだ門にもたれかかっていた。
ぼくは何ともいえない気持で歩いていった。そんなに猫を可愛がるのはよろしくない、と思いながらも、いやこの都会ではそれは当然なことであろうとも思われたのだ。バスにのっても電車にのっても、人々はひからびた表情で、顔をそむけあっていたり、無視しあっていたりするのだ。それにくらべると、一緒に住んでいる猫の方が、どんなに可愛いか知れやしない。
心のやさしい人々が、愛のやりばに困って、それをペットや鉢うえの花に向けるのもやむをえないことではないだろうか。そうであるならば、ぼくはもっと彼女に同情して、一緒に泣いてあげてもよかったのだ。ぼくは頭の片隅では、たかが猫の子が死んだぐらいで、そんなに泣くのはおかしいと思ったから、何の同情のことばもかけてあげることはできなかった。おかしいといえば、この都会全体がおかしなものにみちているのだから、しかしそれもどうしようもないことなのではあろう。
彼女の家はみつけることができないままに、志村坂上まできた。バス停には池袋駅行きのバスがとまっていたので、走っていってとびのった。彼女の家をみつけて、どうしようということでもなかったのだ。ただ東京のいなかだとかいう、そこまで散歩にいってみたかっただけのことだ。とはいってもなぜかしら心が淋しかった。
バスのいちばんうしろの席にぽつねんと坐って、うつりかわる夜の町の燈明りをみながら、口笛をふいていた。すると車掌さんはうしろをふりかえって、ぼくにいうのだ。「お客さんッ口笛はやめて下さいッ」
他の迷惑をかえりみずにいたことを恥じながらも、心からはうわぁーとするようなうめきがもれそうだった。ぼくはバスを捨てて、見知らぬ町中に自分をほっぽりだした。ぼくの口笛はぼくのひとりごとなんだのに……なぜひとりごとをいってはならないんだ? 向うの客だってべちゃくちゃしゃべっていたじゃないか、どうしてぼくがしゃべってはいけないのだ?
そんなことを思いながら、バス通りにそむくようにして町中へと入っていったのだ。わからずやだなァ、わからずやのギスギス女だよ、そうつぶやきながら家々のたてこんだ小路を歩いていると、にぎやかな笑い声がきこえてきた。首をあげてそこをみると、ガラス戸にテレビの蛍光がうつっていた。一家じゅうで夕食後のひとときを楽しんでいるのであろう。なつかしくなってくる。うつむきこんで歩いていると、ある家からは煮物の匂いがながれてきたり、ある家からは防臭剤の臭気がふっとただよってきたりする。
裸電球の下に洗濯ものをほしてあるのがみえたり、閉ざされた部屋から赤ちゃんの泣声がきこえてきたりした。みんな箱のなかに住んでいるのである。右にも左にも、そんな箱がびっしり並んでいるのをみるともなくみながら、ぼくはどこをどう歩いたのかわからない。ただ、この方向へいけば神田だろう、夜っぴて歩けばいつか住込み部屋にたどりつけるだろうと、歩きつづけたのだ。いりくんだ小さな通りを歩いていると、見当をつけた方向がわからなくなってきたけれど、それでも前へ前へ歩いていった。
と、突然に広い通りにつき出て、ゆるやかなのぼり坂が向うにみえた。きらめく街燈が二列になってつらなり、あかるい光のなかを貨物自動車が疾駆していたのだ。
(海?) ぼくはそうつぶやいた。その向うには港があってそこへ貨物自動車が入っていったり、出てきたりしているのではないだろうか。そんな感じがしたのだ。(あそこには海がある!)
ぼくは急ぎ足になった。(ほら、潮風もふいてるじゃないか!)
そしてぼくは走った。いつかどこかの海辺の町で、こんな光景にであったことがあったのだ。坂をのぼりきったら、向うに開豁《かいかつ》にひらけた海がみおろせたのだ。心から先になって、坂をのぼり、そして海をみようとして目をみはった。けれども、そこに海はなかった。 こんなところに海があるはずはなかったのだ。ぼくはふるさとの小さな町を思いうかべていた。(ああ、海がみたい。潮風にふかれながら、すわって夜の海をながめていたい)
眼前にひろがる霧の街並みに向かってたっているといつのまにかそれは海のようにみえなくもなかったのだ。月明りにひかるいらかの波、夜光虫やほたる烏賊《いか》の海に……。
山は牛がふせったように黒々として小高く、海は草原のように広々として、のたうつ波は風にゆれる穂先のようだった。貞三は窓ガラスに額をくっつけて寝入っている。牛の鼻づらのあたりにちかっと、車のライトがあらわれた。けれどもすぐに首のあたりに入りこんでいって、見えなくなった。そんなふうにして何台かの車が、山裾からあらわれたり、山襞に消えたりした。消えたと思ったら突然に、前のカーブからあらわれることもあった。
土地の人々はそこを名護曲りとよんでいた。七十七曲りもあるということだったが、しかしそれは確かではないだろう。沖にむかって走っていると、海風が窓からはいった。それからカーブして山にむかって走ると、風はとだえて、車内の匂いが鼻にきた。酒や汗やシートの匂いだ。彼についてきてしまったことをぼくは悔やんだが、しかし深夜、こういう風景のなかを走るのはわるくなかった。行こう行こう。金はぼくがだす。千津という店なんだ。いい子だぜ、きみもきっと気にいるよ。ぼくはポケットの有金を貞三にあげてしまっていて、帰りたいからバス代をくれといいたかったが、いいそびれていた。コザ吉原という飲み屋街をひやかして歩きまわったが、店に入るたびに薄暗い奥の方にきらきらする瞳が待っていたりして、ぎくっとする。 そういう場にすっかり慣れている貞三が、ぼくには遠く感じられた。カウンターにむかって坐ると、女たちがよってきてもたれかかる。貞三は女の肩に手をやって、飲んだりしゃべったりした。ピーナッツ売りの少女が入ってきたので貞三に買ってもらう。ピーナッツばかりくってないで、飲めよ。貞三はぼくを叱った。飢えてるわけでもあるまいに!
ぼくは酔わないように用心していたのだ。酔ってしまって何もわからなくなり、えいくそッとばかりに女に巫山戯《ふざけ》たりするのはいやだった。そんなふうにはしたくなかったのだ。ぼくはつらい気持になったが、そうかといって、貞三をつっぱねることもできなかった。おいッ、もっと面白い店にいこう。千津の店がいい。彼も不愉快そうだった。外にでると首や腕の汗がすっとひいていくのがわかった。あんな脂肪ぶとりはだめだよ。豚の油でふとりやがった、あんな、あッ、あのタクシー捕まえろッ。
車に乗ってみると、行き先が名護だということがわかったのだ。コザから名護まではバスで二時間以上もかかる。大きな半島のつけ根、農山村のはじっこにある遠い町だ。中学生の頃、修学旅行で島の北部巡りをしたことがあったが、山間の小さな谷や海に傾いた狭い台地に村は危かしく寄りあつまっていて、びっくりしたものだった。彼らはいったい何を生業にして暮らしているのだろう。心細さに目をあっちこっちにやると、山の斜面に小さな畑があった。浜べには小舟がひきあげてあった。そしてそれっきりだったのだ。それから何年かすぎて、ひとりでふらっと名護行きのバスに乗ったことがあった。山の端には潮風にひんまげられた喬木がへばりついていた。途中の村におりたつと、黒い節あとをいっぱいにつけた強そうな木々があって、それに取りかこまれて茅葺きの家が隠れているのだった。道も石垣も家壁も白っぽかった。潮風にふきさらされ清められて、すっかり白くなったという感じだった。村内には人の姿が見えなかった。道にはにわとりが餌をあさっていた。浜べに出ると千のスポットライトを浴びたかのようにまぶしかった。小さな人影が二つ、浅瀬で貝をとっていた。手をかざして見ていると六つぐらいの男の子と三つぐらいの女の子で、男の子は貝をみつけると、石で叩いてむき身を潮水で洗って、女の子に与えるのだった。
村の姿はちっとも変っていない。きのこのような家々はいま深い眠りのなかにあって、生活の疲れをいやしている。ぼくはとりとめもないことを考えながら、それらの村に大丈夫かいと声もなく呼びかけていた。地の果てにまできているみたいに淋しい村だ。
名護の町に入って、絵はがきにもなったヒンプンガジマルの下を通りすぎ、道を左に折れて、小さなバーやキャバレーがかたまっている、一角に止った。涼しい風にふかれて清々しながら、そこらあたりの建物に目をやると、壁や戸板には泥水がはねかけられている。はねかけられてはかわき、はねかけられてはかわきして、との粉をぬったようになっている。千津の店には窓ガラスにもはねのあとがあった。軒は額をうちつけるくらいに低く、ドアを開けると黒いカーテンがつるしてある。あいなア、いいところに来てくれたさア。そういって千津は貞三とぼくを大急ぎで中にひっぱりこみ、外の様子をうかがってから鍵をかけ、カーテンをしめた。 あんた、こんな遅くまで遊んでからに、奥さんに叱られないね?
千津はさも親しそうに貞三にいうのだ。ヘッ奥さんか、聞いてあきれる。あんなやつのことは二度と口にするなよ。おい、彼はぼくの親友なんだ。サービスしろ。うんとサービスしろ、まだ初心なんだ。へえー、こんなハンサムがね? 信じられないさ。あ、立ってないで、こっちに坐りなさいよ。
貞三は彼女との離婚については何もはなしたがらなかった。高校時代に知りあって卒業後すぐに結婚したのに、二年もたたないうちにもう別れてしまったのだ。名護の町からさらに北へ、バスで一時間も行った渡久地という漁村の派出所に勤めながら、そこで世帯を持っていたのだが、彼女は田舎の生活に耐えられなかったのだろうか。
千津は酔っていて、ぼくの膝の上に上体を寝かせると股のあいだに手をさしこんで猫のようにひっかいた。貞三はそばの女の首を抱き、口を割ってグラスのハイボールを流しいれようとしている。カウンターでは漁師のように陽焼けした男がバーテン相手に飲んでおり、奥のテーブルには三人づれのアメリカ兵が、二人の女を間にはさんで騒いでいた。名護湾の向うには伊江島があり、軍の射撃演習所があったので、アメリカ兵はそこからボートに乗って飲みにきたのにちがいなかった。
千津の背に手をふれると温かくて、気持が乱れてくるのだったが、それが金でわけなく買えることが、安っぽく思われていやだった。ぼくはえいくそッとばかりに、ハイボールをあおった。あんた、いつもジーパンはいてるのオ、かたいさアと千津はいった。胸苦しくなってトイレに入り、口をふきながら席へもどろうとすると、貞三が千津に何かを手渡していた。千津は思いのほかしゃんとしていて、ぼくの手を引いて裏口から出ようとする。貞三は女を膝の上に坐らせたまま、行けよ行けよと手をふっていう。
家と家の間を、下水溝にかけわたされた板をふんで、よろけながら行った。通りに出て、泥水のはねで粉をふいたブロック塀にそってしばらく歩いた。 ぼくはたちどまった。塀の上にはホテルの看板があり、角をまがればもう玄関になっているらしかったのだ。いやなの?
と千津はいった。塀にもたれかかって、また吐いた。袖で口をぬぐった。あんた酔ってるのオ?
しっかりしてよ、さあはい。ほこりがつくのもかまわずに背中を塀にくっつけて、ぐらぐらする頭をたれてうつむいていると、千津は両手でぼくの顔をはさみ、首をたてようとしながら、うちのどこがいやなのさアといっていた。うちがきらいならいいさア。きらいなら……。でもよかったというのよ。お金を払って何もしなかったといったら、笑われるから。わかった?
体をすりよせ手のひらでささえた顔をのぞきこみながらそういうのだ。とてもとても、よかったというのよ。みんなそういうんだからさ。 もうろうとした頭をあげて、過ぎたとぼくはつぶやいた。これで終った。そういって通りの向うをみると、ほの明るい海があったのだ。ぼくはふらふらする足で歩いていった。もう貞三にあうこともない。それは終ったんだ。海からの風が、きゅうに肌寒く感じられて身震いした。海原の上には半分に欠けた月があって、青白い光を放っていた。どよめきのような声を秘めた海は、無数の光る波にみちていて、それは群衆の瞳のようでもあった。ゆるしてほしいとそれらに向かっていった。あいつ、彼女とのことで自棄をおこしていて、ぼくは目がはなせなかったんだ。下駄の下で砂が鳴った。そのまま海に入り、手を洗い顔を洗い、それからうがいをした。非番の日には家にいるのに耐えられなくて、バスにとびのり、コザの彼女の家までやってきて、窓を眺めるというんだから、よっぽど苦しいんだろうと思っていたのに、結構たのしんでやがるんだ。波はしずかにうねりながら寄せてきては、砂の上にきゅうにひっくりかえって、白い腹をみせた。
護岸の近くまでもどって、坐るところをさがした。坐ろうとして手をつけると砂が夜露にぬれているのがわかった。そこらにはごみも散らかっている。ひきあげられたサバニ舟によっていき、その下に坐った。あいつ、自分を楽しませることを、もうおぼえてしまったんだろう。酒をのんだり女といちゃついたり……。いや、それが悪いというんじゃない。そうしたいやつは、そうすればいいさ。ただ、ぼくは……。
海風は耳の端できれてひゅうひゅうと鳴っていた。酔いと寒さのせいで頭が痛くて、じっとしてもいられない。たちあがって名護岳の上をみると、だいぶ明るくなっている。町の中を走りさるトラックの音がきこえた。二度とあいつと論じあうこともないな。魂としてここに在るっていったって、あいつにとってそれが何だっていうんだ。そんなことでは決して満足しなくなってるし、それだけのことでは……。護岸をはいあがり、こめかみを押えながら町へはいっていった。すかすかになったアダンの防潮林のそばを通り、土ぼこりをかぶって、白くなった仏桑華の生垣をみながら歩いた。遠く近くで雄鶏が鳴いている。公民館があった。広い庭の隅に石灰のふきだした水タンクをみつけたので、もう一度手足を洗った。背中のほこりを払い、うがいをし、水を腹いっぱいのんだ。さあ歩こう。ひとのことなんかほっとけばいい。平気だよ歩けるさ。ああ、それにしても、それにしても……。
大原たちと、四名で江ノ島へ海水浴にいった。海は高波があって、波うちぎわは濁っていた。女子供が、そんな水の中ではしゃいでいた。天気は快晴だった。久しぶりにはめをはずしてみた。若者たちが、砂に竹串をたてて、走り高とびをしていた。ぼくも仲間に入れてもらった。最初はよかったが、しまいには砂を蹴上げて自分に目つぶしをくわせてしまった。大原たちともよくはぐれた。勝手に浜辺を歩きまわり、焼きいかだの、とうもろこしだのを食べた。
自分を楽しませようと思えば、こんなこともできたんだとぼくは思った。小田急線で新宿に帰ってきた。ジーパンにタータンチェックのシャツ、ゴムぞうりばきで人混みの中を歩いた。何も恥ずかしいとは思わなかった。顔は日にやけてテカテカしていた。海水浴からの帰りらしいことは、一見してわかるはずだ。海水浴の興奮はまだ残っていた。はめをはずしても誰もとがめはしまい。人にぶつかるときも、おもいっきりぶつかった。相手がよろけるのをふり返って、ぼくは笑った。
最高に楽しかったよと、日にやけた顔をほころばして住込み部屋のみんなにいった。あかくなった背中を見せてあげた。世の中にはいろんな楽しみがあるものだ。それが判ったような気がする。ぼくは文学だけを追っかけていた。それが苦しみの多いこととは知りつつも……。
常夫君、初手紙有難う。其れを今日か明日かと待ち兼ねて居った時、二十九日月曜日の午後四時五十分頃、配達人より受取って見た時の喜び、其れは云うに云われぬ気持。
一体お父もお母も内心は君よりの手紙を待ち兼ねつつも、出航日より五カ月も音沙汰無しで、真実両親は考えさせられたよ。其の後も大元気で仕事にはまりこんで居るとの事と存じ、一家中で喜んで居る。
手紙に寄れば東京も名所旧跡の風景や其の風俗も知って勉強に成って居るとの事だが、お父うも其れは良いと思うて居る。
また、都会とはどんなに美しく、面白く、愉快な所であろうと、案じていた様で、其れでない事が記されて居るが、本当の事、其れは古里を離れて見れば、良く了解できる事だ。
お父も昭和二年十九歳の頃、比律賓《フイリツピン》に新渡航の時に思い知らされた事では有る。他国は如何に良い所かと思って居ったが、第一に頼る人のない事が大変で、親兄弟の有難さをヒシヒシと感じた。
ま、其れはそれとして、今後も良く注意する事は、万事に気を付け、身体の健康を維持して働かねばならない。
普天間の貸住宅は今月の二十八日に、ヘンリー君達が出て帰米、其の後の新規準の評価はとても厳しくて、家賃も二十五%位、値下げするそうで、色々と金掛りで困って居る。 話は別だが、高原の初姉さんも今回長女が出来ましたよ。由美と命名。 他に沖縄の情報や状勢が、何かテレビやラジオからでも知ることが出来るか、又は東京の新聞でも見て居るか、もし新聞を取って居るなら、毎月一、二回位に分けて送る事が出来たら良いが、此々の新聞も守礼の光も送る心算で居るが如何。 毎日の食物は栄養のある食が得られて居るか、もし欲しいものが有れば、必ず手紙で知らせなさい。 返事は早速出す心算で居ったが、普天間の貸住宅のペンキ塗りやら修理やらを急いで居ったので、少々遅れました。父母より。
ぼくは父からきた手紙を読んで憤然とした。父に送金を頼もうか、無心しようかと思っていたやさきに、(色々と金掛りで困っておる)といってよこしたからだ。(もし、欲しいものがあれば手紙で知らせよ)とも書いてくれてはいるが、これはどういうことなんだろう。お金を送ることはできんが、その他のものなら送ってやってもいいということなのだろうか? それとも、お金を送ることはいやだが、しかし困ったはてのことであれば送ってやってもよいということなのだろうか?
そんなふうにも受取られたが、小心者であるぼくは、金掛り云々を読んで、途端に無心することを断念し、そしてそれをあきらめながら憤然としたのだ。 郷里の家でも、ぼくは小心ゆえにひねくれて、変に意固地になり、父母を困惑させたものだ。小遣いが欲しいのにもかかわらず、すなおにそういって、貰おうとはしきれなかった。小遣いをせびりきれなくて、部屋のなかで、しくしく泣いていたのだ。小遣いをくれようともしない父母をうらみ、自分の小心さをあわれんで、胸をやいていた。そして気をとりなおして、部屋からでると、ぼくは白けきって、父母に対するのだった。小遣いが欲しいなどとは、これっぽっちも思ってないという顔をしていたのだ。どうしても、すなおに何がほしい、かにがほしいとはいえなかった。そんなことをいえた義理ではないと思っていたのだ。
兄も家にはいくらも金をいれていなかったので、家計は父の給料だけでまかなわれているかたちだった。小遣いをくれなどといえば、すぐに(仕事にも出ないくせしてようそんな事がいえるな)とやりかえされることも知っていた。(仕事に出て働け、そうすれば、いくらでも小遣いは使える)そういわれるだろうことを予想して、ただ部屋にかくれて、切ない気持におちいるほかになかったのだ。そしてぐすぐすしくしくしながら、自分はひょっとして、フィリッピンの移民地に住んでいた頃によそから貰われてきた子かも知れん、そうでなくっては、こんなに冷たくするわけがない。まるで血のつながりのない他人みたいじゃないか、などと考えて、自分で自分の涙をさそっているのだった。
また我ままをいって叱責されることが、ぼくには耐えられないことでもあった。親のいい分がもっともであり、そのいい分には筋がとおっていると、ぼくはすぐに納得して、やり返すべきどんな言葉もみつからない。叱られればぐしゃりとつぶれてしまって、もう何の文句もいえなくなり、泣きだしそうな顔で部屋に逃げこんでしまう。母はそんなぼくの気持をさっして、部屋にやってきてはとりなし言をいう。もし、それが小遣いのことであったならば、ほれッといって小銭を投げてよこす。ぼくは気持をなおして、その小銭をポケットにいれて、それを使いに出ていくのであったが……。ぼくはふるさとの家での、そんなこんなを思いだして、憂うつな気持におちいったのだ。
立川というところまで行ってみようと思った。ふるさとの感じに似ているだろう基地の町をみてきたい。それから多摩川の河べりをずうーと上流のほうへ歩いてみたい。歩きながら考えごとをして、帰ってきたい。ずる休みといわれたってかまわない。
それで今朝は早く起きた。いつもは仕事開始のベルがなってからはねおき、みそ汁でごはんを流しこんで、ころがるように階下におりるのだったが、今朝は一時間も早くおきたのだ。工場の二階に住みながら、毎日のように遅刻するというのは、これは怠惰だろうか。いや、それはぼくのレジスタンスだと思う。そんなことが何になるのかよくはわからないが、それでもぼくはこれを試みずにはいられないのだ。
みんながまだ寝ているうちに外出のしたくをして、ぼくはそそくさと外へ出た。都電通りは学生たちであふれている。通勤通学のラッシュ時だから、電車も混雑しているだろうと思われたが、郊外へ向う電車は案外にすいていて、気持を楽にすることができた。中野というところで乗りかえて、ひたすら郊外へ郊外へと走っていった。
立川ではまずゲート通りを見た。そこが基地の町であるならば、ゲート通りがもっとも繁華にちがいないと思ったからだ。ところがどこを向いてもひっそりとしていて、ゲートから出入りする車も少ないのだ。なぜこんなに淋しそうなんだろう。そんなことを考えながら歩いていると、日本文字と横文字の看板が半々にかかっている。そのことでふるさとの町のゲート通りとは、雰囲気がすこしちがっているのだった。途中で三人づれの米兵にあったが、彼らは遠慮ぶかそうにして歩いているのだ。肩ひじをはって、大手をふってのし歩くということではないらしい。
やはりちがうんだなとつぶやきながら、ぼくは駅の方へひきかえした。と、向うから草色にぬった軍用トラックが走ってきた。それが古い型のトラックなので、ぼくは目をみはったのだが、よくみると日本の自衛隊員がのっていた。着ている軍服だって、米軍のお古を使っているのだ。沖縄の米軍ではそんな古い型のトラックや軍服は、もう見られなくなっていたのだが……。
北口から南口へいくバスにのった。市内をぐるっと廻ってみようと思ったのだ。ボーリング場があった。それから金網の柵と、広々とした飛行場が見えた。みどりの芝草と白ペンキの格納庫が目をひいた。ぼくはなつかしいような気持で、それらの風景に見入ったのだ。しばらくいくと農業試験場という停留所があったので、ぼくはとっさに手をあげてブザーをおした。農業試験場! 何という好ましい名称だろう。そこがいいそこがいい、そこに行ってみよう。
バスをおりると、欅の大木が何本もそびえていて、道の上に涼しそうな木陰をつくっていた。片側は急な傾斜で、それはむかしの多摩川の沿岸なのだろうか。木の葉ごしに広々とした田畑や河原が見おろせた。試験場の入口には、無用の者立入禁止の立札があったので、柵にそって歩きながら川の方へとおりて行った。あぜ道の草をふみつけていくと、草の種がズボンのすそにつく。どこからともなく、草の匂いもただよってくる。川が近いせいか空がひろくて、あたりはぼんやりとした明るさにみちていた。すずめの一群がナシ畑の上をかすめて、向うの草原にとんでいく。ぼくは何度も吐息をついた。すると自分の吐く息吸う息がはっきりと聞きとれるので、ふっとおかしくなったのだ。
ぼくは土手に坐って、ぼんやりとあたりを眺めていた。川下には鉄道橋があって、おもちゃのように小さな貨物列車が、ゴトゴトと橋をわたっていく。上流の方にも橋がうすがすみのなかに見えて、豆つぶのような自動車がゆきかっている。空はたかぐもりで、全体が黄色く輝いていて、とてもむしあつかった。遠くの方には、たなびく雲かと見まちがう山並みがあって、いく重にもうちかさなっている。すべてのものが眠っているかのように静かだった。そんな自然のなかにぽつんと坐っていると、なぜかしら声をだしてみたくなるものだ。奇妙な声を空にはなってみると、河原の水鳥がばさばさと飛びたって行くのが見えた。
動かない山にかこまれゆるぎない大地の上で、いままで何をしていたのだろう。青草の上に寝転がって考えるともなく考えにふけっていたら、いつのまにか寝入ったようだった。目がさめると風がでていて雲がながれ、雲のきれめから西陽がつよく照りつけている。ずっきんずっきんとする頭痛があって、とても疲れてしまっていた。久しぶりに陽にあたったからだろうか。頬もひりひりと痛かった。たちあがって草ぼこりを払いおとした。さて、帰ろうかと思ったのだが、たちさり難い気持でもあった。
沖縄のコザの町の琉米親善センターという建物のそばには、高さ十五メートルほどの岩があった。岩というよりも、石灰岩に土がかぶさってできた突起というべきだろうか。その突起の上にのぼって立つと、町の二階だての建物の高さよりもわずかに高く、町の屋根々々が見わたせるのだった。突起のすぐそばには、映画館が二軒ならび、それにひきつれられたように商店街がかたまっていた。島民相手の商店街はひっそりとして、買物客は少ないようであったが……。それらの商店街をとりまいて、住宅風の瓦屋根が並んでいた。ただ単に、町は暮らしやすいからと集まってきた人々の住む家々であろうか。そういう家々のあいだを縦につっきる軍用道路があった。その両側には米人相手の店々が並んでいて繁盛しているようだった。カルテックスだのスーベニヤ?ショップだのファーニチャ?ショップだの、いろいろな横文字の看板が並んでいて、ガソリンから金網まで売っているのだ。そういう店に働く人々が住んでいるのが、これらの住宅なのだろうか。
西方の、町のすぐ裏手には広大な米軍基地も眺められた。嘉手納空軍基地である。それらの基地に勤める人々も、この町にはたくさん住んでいた。空軍基地の向うには、塚山のような緑の小山がいくつも見られたが、それは知花の弾薬倉庫地帯ということであった。そこには核弾頭をつけた大陸間誘導弾の発射台もあり、核爆発物も貯蔵されているという噂であった。米軍は深夜に核爆発物を搭載して出撃する緊急発進の演習も、ときどき行うということであった。空軍基地と弾薬庫地帯は隣りあわせていて、牧場のなかを流れる小川のような軍用道路が、そのあいだを走りぬけている。島の東海岸と西海岸を結ぶ主要な道路でもあるので、住民をのせた乗合いバスも走っていればタクシーも走っていた。タクシーの運転手は深夜の演習にときたまぶつかったりして、通行止めをくらうこともあるということだった。タクシーの窓から、米軍のものものしい演習を見物することができて、原爆だ原爆だと眼をひからせて見るという、そんな話を運転手をしているという人からきいたことがあった。