饭饭TXT > 海外名作 > 《龍は眠る/龙眠(日文版)》作者:[日]宫部美雪/宫部美幸/宮部みゆき【完结】 > 龍は眠る.txt

第二章 波 紋 .4

作者:日-宫部美雪/宫部美幸/宮部みゆき 当前章节:15409 字 更新时间:2026-6-16 01:47

 生駒は目をあげて、まっすぐに私を見つめた。

「稲村慎司を救《たす》けてやれよ。引っ張り出してやるんだ。浸りきってる夢のなかからな。離しいだろうが、やらなきゃならん。袖《そで》すりあうも多生の縁でやつで、おまえさん、頼られてる。頼られた以上は応えてやらにゃならん。いや、放っておいたっていいんだぞ、気にならなきゃな。だが、そうは行くまい。胸が痛むだろう?」

 私は目をそらし、吸い殻がくすぶっている灰皿を眺《なが》めた。青い煙がゆらゆらと立ち昇っていた。

「胸が痛むから、困ってるんだ」と、生駒は続けた。「俺は徹底した無神論者だよ。だが、世の中が案外うまくできているのは、何かが上手に計らってるからだと感じることはある。だから、これだけは言える。重荷ってのは、それを背負える肩を選んで乗せられるもんだ。そして今おまえの肩には、稲村慎司って子の将来がかかってる」

 私は顔をあげた。「でも、具体的にどうすりゃいい? こつちは今完全に振り回されてるんだ」

「だから、さっきも言ったろう? 目先のことに惑わされちゃいかん。外堀《そとぼり》から埋めるんだ。十六歳の少年には、十六年の歴史がある。本物のサイキックだったら、それらしい歴史を残しているはずだ。過去には小細工が利かん。これは絶対だ。調べあげて、彼を取り巻いている人間たちの声を聞くんだよ。家族でもいい、友達でも、先生でもいい。もちろん、織田直也ってあんちゃんもだ。彼の声をもっとよく聞くことだ。鍵は彼が握ってるかもしらん」

 大きな指で自分の胸をさし、「もちろん、俺にできることがあれば協力する、この手の問題を扱ったことのある、信頼のできる人間に、二、三心当たりがないわけでもない。だから、そっちの方は任せてくれ。な?」

 目を覚まさせてやれ。もう一度念を押すようにそう言って、生駒は言葉を切った。ちょっと考えてから、こう付け加えた。

「それだけ調べて、まだ彼らが本物のサイキックかもしれないということが──いや、彼らがサイキックだとしか考えられないような要素が出てきたら、俺はきっぱり禁煙する」

 そして、にやりと笑った。「どうだ? この賭《か》けに乗らないか?」

 腕組みしたまま、私は頷いた。「よし、乗った」

[楼主] [3楼] 作者:滄炎沁夢2005 发表时间: 2008/04/13 19:08 [加为好友][发送消息][个人空间]回复 修改 来源 删除第三章 過 去

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 織田《おだ》直也《なおや》が教えていった彼の勤務先は、ガソリンスタンドだった。高層マンションと公団住宅の立ち並ぶ東京の東の町の一角にあった。

 だが、そこには彼はいなかった。仕事を辞めていたのだった。

「よく働いてくれてたんですがね。どうしちゃったんだか」

 店の責任著だという小柄《こがら》な中年の男は、私が直也の名前を出すと、すぐにそう言った。制服と対《つい》になった目びさしつきの帽子を斜めにかぶり、オート洗車機の方から流れ出てくる洗剤の泡《あわ》を、手にしたホースの水で丁寧に洗い流している。

「いつ辞めたんです?」

 小男はしょっと顔をしかめた。「一週間ぐらい前がねえ」

 それなら、私を訪ねてきて、そのあと間もなく辞めだということになる。

 肩透かしをくったという以上に、不安を感じた。このタイミングの良さは、彼がはっきり「逃げた」ということを示している──

「理由は?」

「こっちが知りたいくらいだよね。よんどころない事情があって、と言ってたが。あの年ごろの子にしちゃ、『よんどころない』なんて、気のきいた言いまわしをするもんだと思ったよ」

「転職先のあてがあるのかどうか、言ってましたか?」

「何も」

 そうだろうとも。

「ここには長く勤めてたんですか」

「そう長くはないね。三ヵ月ぐらいですよ」

「住所や電話番号は聞いてありますか?」

「あるけど──」男は下からすくうような目付きで私を見た。「おたく、なんでそんなに彼に会いたいんだね?」

「よんどころない事情がありましてね」

 はは、と笑うと、小男は片手で帽子の目びさしを持ちあげ、かぶり直した。「世の中、よんどころないことばっかりだからね。まあ、いいや。教えますよ。事務所の方へ来てちょうだいよ」

 とり散らかした机の端を借りて、私が織田直也の履歴書から必要な事項を書き写しているあいだ、男はずっとそばに立ち、両腕を腹の辺りで組んで、こちらを見つめていた。爪先《つまさき》がそわそわと働いていた。

 履歴書は薄っぺらな一枚だけのもので、隅《すみ》の方に求人情報誌の名前が入っていた。写真は貼《は》ってない。直也の字は小さめて、あまりきれいな方ではないが、書き間違ったり訂正したりした部分はなかった。履歴書を書くことに慣れているのかもしれないと、ちらりと思った。

「趣味」の欄は空白、「健康状態」の欄には、「良好」とある。「家族構成」の欄には何も書かれていなかった。

「この住所に連絡してみたことはありますか?」

小男は首を振った。「遅刻もしない、欠勤もしない、真面目《まじめ》に働いてたヤツだったから、そんな必要はなかったね。なんで?」

 私は指先で履歴書の住所欄を軽く叩《たた》いた。「電話番号の局番と住所地がずれてる」

「ホントかい?」

「住所は足立《あだち》区だけど、局番は──そうだな、この番号だと江戸川区だろうと思う。とにかく、違ってることは確かですよ」

「参ったね」小男は私の手から履歴書を取り上げると、顎《あご》を引くようにして距離を取り、細がな文字の羅列《られつ》を眺《なが》めた。

「あたしも老眼が始まっててね」と注釈し、言い訳するような口調で続けた。「今日び、この程度のことをうるさく言ってちゃ、人が居着かないから……。今の若い連中には、いちいち身元保証人なんか要求してちゃ駄目《だめ》なんですよ」

 それはわかります、と私は言った。「でも、身元を隠すというのは珍しいことでしょう? 彼、どんな青年でした?」

「どんなって言ってもねえ……」

「真面目でよく働いた」

「ええ。骨惜しみするヤツじゃなかったね。ただ、ちょっと愛想は良くなかった。付き合いもいい方じゃなかったね」

「ほかの従業員のなかで、彼と親しくしていた人はいますか?」

 下くちびるをひっぱりながらしばらく考えて、小男は答えた。「強《し》いて言うなら、麻子《あさこ》ちゃんかな」

「女の子?」

「ええ。うちのマスコットガールみたいな娘《こ》でね。やっぱりアルバイトですが」

「彼女に会えますか」

「遅番だから、夕方になるね。六時ぐらいに来てみちゃどうですか。彼女にはあたしから話しておくから」

 礼を言って事務所を出ようとしたとき、小男があわてたように尋ねた。

「彼何かやらかしたのかね」

「そういうことじゃありませんよ」

「ならいいが……」

 眉《まゆ》を寄せて、しきりと考えているようだった。黙って待っていると、やや滑稽《こっけい》に見えるほど深刻そうな顔をして、こう言った。

「ちょっと不思議なところのあるヤツだったからね。危ないことをやってるあんちゃんなのかもしれないと思ったこともあるし」

「具体的にどんな?」

 小男はまた帽子の目びさしに手を触れた。「あたしにも高校生の悴《せがれ》がいるんだけど、これがまあ、どうしようもない阿呆《あほう》でね。学校にはほとんど行かないで遊び回ってやがって、時時ここへも金をせびりに来るんですわ。親父《おやじ》の仕事場へね。そんなふうに育てたつもりはないんだが」

 つもりはなくても、息子がやってくるのは、来れば金をもらえると思っているからだし、つまりはせびられる度に渡しているということだ。同じことだった。

「織田君がバイトに来てるときにも、一度そういうことがありましてね。で、悴が帰ったあと、彼がいきなり言うんですよ。『シンナーはやめさせた方がいいですよ』ってね。あたしゃびっくりしましたよ」

「息子さん、シンナーを?」

 小男は目を伏せた。「ツルんでる仲間が悪いからねえ。それらしい感じはしてるんだ」

「やめさせた方がいい」

「わかってますよ。でもそう簡単にはいかなくてね。あいつめ、あたしより図体《ずうたい》もデカくなってるし──まあ、そんなことはどうでもいいんだ」

 腹立たしそうに鼻を鳴らすと、「昔通の人間だったら、ちらっと見ただけでね、他人がシンナーやってるかどうかわかるなんておかしいでしょうが。だから、織田君も経験があるんじゃないかと思いましてね。蛇の道はヘビってやつでね。うちの悴よりよっぽど重症なのかもしれんですよ。そういやあ、顔色だって悪かったし、いつも半病人みたいに見えましたからねえ。うちのは、外見には健康だから。わかりゃしませんよ、本当に、外から見ただけじゃ。それを、そばを通りすぎただけで言い当てたんだからねえ」

 そばを通りすぎただけで。

 過去には小細工が利《き》かない。これは絶対だ。生駒《いこま》の台詞《せりふ》を思い出した

「匂《にお》ったのかもしれないし、ラリッてるような顔つきだったのかもしれませんよ」

 試しにそう言ってみると、小男は気を悪くした様子で首を振った、

「とんでもない。だったら、親のあたしが真っ先に気がついてますよ。外見からわかるもんか。絶対に。絶対にだ」

 出社して編集部の時計を見ると、午前十一時になるところだつた。編集長やデスクたちは奥の会議室で企画会議の最中だから、部屋のなかはのんびりしたものだった。

 佳菜子《かなこ》の姿が見えなかった。受付の机の上には、整理されていない郵便物が山になっている。きちんと畳まれた膝掛《ひざか》けが椅子《いす》の背に掛けたままになっているところを見ると、休暇をとったのだろう。

 郵便物をまとめて抱え、自分の机のところまで持っていき、どさっと置いたところを、生駒悟郎に呼ばれた。どこにいるのかと思ったら、窓際《まどぎわ》に据《す》えてある一台しかないパソコンに向きあっているのだった。くわえ煙草《たばこ》でしきりと手招きしている。

「どうだ?」と訊《き》いてきた。

「消えた」

「どっちが」

「織田直也だよ。仕事を辞めてる。完全にどろんだ」

「なんだそりゃ」

「こっちが訊《き》きたいよ。何やってる?」

「高等技術だ。俺《おれ》だってだてに研修を受けちゃいねえ」

 大きな指でディスプレイをこんこんと叩いてみせた。

「昭和四十九年からこっち、新聞に超能力関係の記事がどれぐらい載ってるか見てみるんだ。全部プリントアウトしておいてやるからあとで読め。雑誌の方は大宅《おおや》参りしてみるからな。並べて見りゃ、頻繁《ひんぱん》にコメントを寄せている人間が何人か見つかるだろう。良さそうなのを誰かつかまえて会ってみたっていい」

「ありがとう。でも、專門家なら心当たりがあるんじゃなかったのか?」

「うん。だが、ちょっと思い出したこともあってな」

 顎をぼりぼりかき、キーボードの上に盛大に灰をまき散らしながら、

「超能力ブームのころ、一人だけいたんだよ。ユニークな御仁が。警察の人間でな。お宮入りの事件を透視者に協力してもらって解決したっていうんだ。俺も直接は知らない。どこかに──新聞だったと思うんだが、ちらっと取り上げられてたんだ。それがどこだったかが思い出せねえ。昨夜《ゆうべ》女房に耳の穴をかっぽじらせながら考えてみたんだが、どうも駄目だ。俺はスクラップなんかつくらねえしな。だが、東京の新聞だったことは確かだ。だったら、探せば出てくる。面白いだろう? 興味ねえか?」

「大いにあるね」

 生駒の脇《わき》に立ち、パソコン本体の脇に据えられている小さなモデムの緑色のランプが点滅するのを眺めていて、ふと、そういえばこの仕組みだって何がどうなってるのか全然知らないな──と思った。

 便利に使ってはいるものの、原理も構造もわかっていない。どこか具合が悪くなればシステムセンターに連絡して来てもらうだけのことだ。まさにブラックボックスだった。ただ、コンピュータは明白に人間が作り上げたものであるとわかっているから、(自分はわからないが、どこかにわかっている連中がいるはずだ)と安心して、放っておいても平気でいられる。

 超能力は──もしそれが存在するとしたら──人間が持っているブラックボックスで、それについて知っているのは、その能力を備えている人間でしかないのかもしれない。コンピュータに無知な人間が、ただその働きに感心しているしかないのと同じように、当たり前の五感しか持ち合わせていない人間には所詮《しょせん》理解不可能な手の届かないものでしかないのかもしれなかった。

「よし、と。これでいい」

 掛け声をひとつかけ、生駒がうるさい音をたてるプリンタを動かし始めたので、いちばん離れたところにある電話から、足立区役所の交換を呼び出した。

 織田直也は、履歴書の住所欄に「足立区綾瀬《あやせ》八丁目十──六」と書いていた。地図で見ると、綾瀬には七丁目までしかない。交換手にも同じことを言われた。

「今はないが、昔はあったなんてことは? 区画整理で消える番地もあるでしょう?」

「そういうことはありますけど、綾瀬は昔から七丁目までですよ」

 一度切って、今度は直也が書いていた電話番号へとかけてみた。

 意外なことに、つながった。

 呼び出し音が鳴っている。してみると、まったくデタラメの番号ではないのだ。だが、十回、十五回と鳴らしても、応対されることはなかった。二十回まで鳴らして、受話器を置いた。

 NTTというところは生真面目《きまじめ》で、一般の利用客には、番号からその電話の所在地を割り出すというサービスはしてくれない、誰か出てくれるまで、折りを見て気長にかけ続けてみるしかないようだった。

 では、稲村慎司だ。彼の方からたぐっていった方が早い。

 まず会いたいのは、本人ではなくて両親の方だった。平日のこの時刻なら、良い子の高校一年生はおとなしく学校に行っているだろう。

 呼び出し音が二度鳴っただけで、丁寧な女性の声が出てきたこちらが名乗ると、驚いたのか、ちょっと絶句してしまった。

「突然お電話しまして、申し訳ありません。私のことは、慎司君からは聞いておられないと思いますが──」

「いえ、いえ、聞いております」相手の女性はせわしく言った。「高坂さんでいらっしゃいますね? わたくし、慎司の母です。その節は、慎司がたいへんお世話になりまして──」

 折り入ってお話があるんですがと切りだすと、あわてた様子で電話を代わってしまった。今度出てきたのは、台風の夜にホテルの電話で話した、あの声の主だった慎司の父親である。

 慎司の申し立てでは、父親は彼がサイキックであることを知っているはずだった。いわば最初の試金石というわけで、私は言った

「実は、息子さんから、かなり込み入った奇妙な話を伺いました。そのことで──」

 言いかけたのを遮るように、父親は訊いてきた。「あの子の──その、なんと言いますか、普通じゃない点についてのことですか?」

「──普通じゃないというのは?」

 小さな雑音が入ったので目をあげると、生駒が内線を通して一緒に聴いていた。しかつめつらしい顔で頷《うなず》いている。

「うまく申せませんが、慎司はあなたにはなんと言っておりますか」

「他人の──」

「考えていることがわかると?」

 受話器を耳に当てたまま生駒の方を見ると、彼はまた頷いた。

「もしもし?」

「聞こえてますよ。ええ、そうです。慎司君は私に、ほかの人間の心にあることを読み取ることができると言っています。人間だけじゃなく物質もですね、その辺に転がっている椅子とか──」

「はい、はい、わかります」

「そのことで、彼がひどく苦しんでるようにも見えますんで」

「わたしらにお話が?」

「ええ。できたら時間を割いていただきたいんですが」

 少し間をおいてから、父親は答えた。「そういたします。いつか──いつかそういうときが来るだろうと思っておりました」

 時間を決めて電話を切る前に、慎司の父親は、「さっきから雑音が入るようですが、なんでしょうね」と言った。まさか「同僚の鼻息です」とも言えないので、「すみません、プリンタが動いてるんで」と答えておいた。

 生駒も雪駄を置くと、すぐ言った。「よくあることだ。親も魅せられてる。足下をすくわれてるんだ。一緒に住んでればペテンははすぐにバレるはずだなんて思うなよ」

「それにしちゃ、興奮してるじゃないか」

「スプーン曲げ騒動のころとそっくりだからだよ」

 腹立たしげな生駒の声にかぶって、「誰があたしの仕事を取り上げようとしてるの?」という声が聞こえた。佳菜子だった。積み上げたままの郵便物の山のそばに立ち、両手を腰に当てている。

「なんだよ、カコちゃん」生駒が笑顔をつくって寄っていき、「そう怒るな。俺はな、今日はカコちゃんがお休みのようなんで、ちょっとお仕事の手伝いをしようと思ってな」

 郵便物を仕分けるような仕草をしてみせると、佳菜子はもっとふくれた。

「フンだ」と、言い捨てると、彼を押《お》し退《の》けるようにして郵便物の山を抱えあげ、受付の机の方へと持って行ってしまった。

「この程度の遅刻で立ち直れるなら大丈夫だ。泣き明かしたわけじゃなかろう」

 生駒はそう言いながら、ぶらぶらと近寄ってくると、急に真顔に戻って声を落とした。

「先に気がついて良かったよ。カコに見せるな。また騒ぐ」

 差し出されたのは、あの封書だった。以前にきたものと同じ封筒に、同じ文字の表書き。

「これで何通だ?」

「七通目」

 また差出人の名前はなく、開けてみると、同じ便箋《びんせん》が出てきた。一枚きりだ。

 だが──

「どうした?」

 黙って、生駒に便箋を見せた。彼の口の端がぴりっと締まった。

 今度の便箋は白紙ではなかった、白い紙面にただ一文字、こう書かれていた。

「恨」と。

「喫茶 イナムラ」は、大通りに面した白壁のビルの一階にあった。片開きの白いドアの脇に、コカコーラの商標の入った小さな黒板が出してある。かっちりとした楷書《かいしょ》で、本日のランチメニュー三種類と、コーヒーのストレートサービスがキリマンジャロであることが書いであった。

 午後二時をすぎていたが、店内には意外なほど大勢の客がいた。ドアを開けて入っていった途端、その面々がいっせいに頭を振り向けてこちらを見たので、いささかぎょっとした。

「高坂さんで?」

 カウンターの向こうにいた中年の男が、あわてたように声をかけてきた。やはりコカコーラの商標の入った真っ赤なエプロンをつけている。

「慎司の父です。これが家内でして」

 きちんと整列したサイフォンの向こう側で、小柄《こがら》な中年の女性が頭を下げた。ひどく不安気な表情をしている。そのせいもあるのだろう、客たちはまだこちらを注目しており、何事かと聞き耳をたてている。

「はじめまして」私はカウンターに寄って、少し声を落とした。「ご都合が悪いようでしたら、出直しますが」

 慎司の父親は急いで近寄ってきた。「いえ、いえ、かまいません。大丈夫です。中し訳ないです」

 彼があまりに低姿勢なので、居合わせた客たちは、馴染《なじ》みの店の主人をペコペコさせている私に、カチンときたらしい。奥のテーブルに座っている男が呼びかけてきた。

「マスター、何かあったのかね」

「なんでもないんですよ」と、慎司の父親は愛想よく答えた。「すみませんね」

「慎ちゃんがどうかしたのかい?」と、その男は食い下がった。露骨に私をじろじろと眺《なが》め回している。

「本当になんでもないんですよ」と笑顔をつくりながら、慎司の父親は私の肘《ひじ》を押して、小さな声で言った。「申し訳ありませんが、外へ出ましょう」

 肩ごしに「おい、頼むぞ」と妻君に言い置くと、ドアを押し開ける。まだどこか具合が悪いような顔をしている妻君に会釈《えしゃく》して、私は半ばひっぱられるように街路に出た。

「本当に申し訳ない」

 生《は》え際《ぎわ》がかなり後退した広い額を手でぬぐいながら、慎司の父親はしきりと謝る。窓ごしに、まだあの客たちの不審そうな視線が降ってきていたので、私は囁《ささや》いた。

「そう謝らんでください。サラ金の取り立て屋かなんかのように思われる」

「え? ああ、そうですな。いやはや」

 やっと笑みをもらして、彼は背中を伸ばした。

「いや、覚悟はしておったんですが、やはり緊張しまして……」

 親も魅せられてる、足元をすくわれているんだ──と“生駒は言っていた。確かにそのように見えた、が、慎司の父の実直そうな緊張ぶりには、素直にこちらの心に響いてくるものがあった。

 親とはいいものだ……と思った。

「稲村《いなむら》徳《のり》雄《お》と申します。あらためまして、はじめまして」

 好天の気持ちいい午後だったので、結局歩くことになった。「喫茶 イナムラ」から通り一本奥に入ると、そこには荒川を臨む高い土手がのびており、その上に秋の日差しがいっぱいに降り注いでいる。階段を昇って土手の上に立つと、右手に川面《かわも》が、左手には町並みが開けた。

「慎司が小さい頃、ここで自転車の稽古《けいこ》をさせたもんです」と、稲村徳雄は言った。

「いいところですね。ずっとこちらに?」

「いえ、私の代からですが。こちらに店を構えてからね。今は住まいの方は別にしておりますが、やはりここからすぐ近くなんですよ」

 歩きながら、テレビドラマで見かけたことがあるような風景だなと思っていると、実際に、一時期頻繁に学園物のロケに使われた場所だという。

「ロケ隊が来ると、慎司も見にいったりしておりました。可愛《かわい》い娘《こ》がいるとかいいましてね」

「そういえば、ガールフレンドがいたそうですね」

「はあ。学校の同級生だったようですよ。私も家内も顔を見たことはありません。電話を取り次いだことが二、三度ありましたかな。まあ、良くも悪くも今時の娘さんでしたが、うちの慎司だって、ねえ」

「いや、礼儀正しい、いい息子さんだと思いました」

 稲村徳雄は、手をあげて頭のうしろを撫《な》でながら足元を見つめている。しばらくして、やっと本題に入る気になったのか、顔をあげた。

「それで、お話というのは──いえ、もちろん見当はついておるんですが」

「慎司君からは、何か聞いておられますか?」

「はあ。このあいだの台風の夜に、あなたに助けていただいて、たいへんお世話になったということだけは。それで、あれがうちに帰ってきましたあと、家内と一緒にあなたにお礼に伺おうと思っておったんですが、慎司にひどく強く止められましてね。理由は言ってくれないんですが──」

 当然だろう、と思った。

「じゃ、お話ししましょう。先にお願いしておきますが、慎司君の方から何か言い出さないかぎり、僕からこの話を聞いたことは、伏せておいてください。叱《しか》ったり問い詰めたりもしないでほしいんです。よろしいですか?」

 稲村徳雄は深く頷いた。「お約束します。高坂さん、私も家内も、慎司にかかわることでは、もう何も驚いたりしないと決めているんです」

 私が台風の夜に始まった一連の出来事を話しているあいだ、彼は黙って聞いていた。言葉ひとつはさまず、少し視線を下げたまま、長い土手をゆっくりと歩いてゆく。

 話し始めたとき、前方に遠く大きな橋が見えていた。話し終えたときには、そのたもとまで来ていた。傾いた歩行者用信号が青に替わるまで、我々は押し黙って待ち、何台もの車を見送って、挨《ほこり》っぽいアスファルトの横断歩道を渡った。

 再び土手の上にあがったところで、稲村徳雄は口を開いた。

「そうでしたか……あの子がこのごろふさいでいる理由がやっとわかりました」

「昨日、僕のところを訪ねてきたときも、やつれてましたからね。ご両親も心配されてるだろうと気になってたんです」

「よく、教えてくださいました。本当に感謝いたします」一度頭を下げてから、また額をぬぐう仕草をした。

「慎司君の話だと、ご両親は彼の──その、能力のことをご存じだそうですね。同じような力を持っていた叔母さんがいらしたとかで」

「ええ、ええ。そうでした。私の父のいちばん末の妹ですから、慎司にとっては大叔母にあたります。もう亡《な》くなって、今年で三年になりますが」

「初めて慎司君がその力のことを打ち明けたとき、お父さんはその叔母さんのところへ連れていってくれた、と言っていました」

「そうです。連れていきました。私は叔母を信じておりましたから。叔母の苦労を──知っておりましたからね」

 彼は足を止め、秋の冷たい水の上を渡ってくる風を身に受けながら、川の方へと目をやった。

「稲村さん」

 声をかけると、彼は律儀《りちぎ》に「はい」と答えて向き直った。

「実を言いますと、僕自身はまだ、慎司君の言うことを信じてはいないんです。ストレートに信じていい種類のことではないと思います」

「はい、わかります」

「慎司君が僕を、かなり手の込んだ見事なやり方で騙《だま》したんだという、織田君のタネあかしにも説得力がありました。──織田君のことはご存じなんでしょう?」

「会ったことはありません」と、残念そうに首を振る。「慎司から話に聞いているだけです。父さん、仲間がいたよ、と言っていましたびっくりした、ホントにびっくりしたよ、とね」

「家に連れてくるように勧めてみられたことは?」

「何度もあります。でも、駄目《だめ》ですね。ごめんね父さん、でも直也はそういうことを嫌《きら》ってるよ、と言いまして。それはわかる気もするんです。知らない人間に会うことは、誰にだって気億劫《きおっくう》なものです。まして人の心を読むことができるとなれば、なおさらでしょう。私や家内が織田君に会ったら──自分では決してそんなつもりはないにしろ──きっと腹の奥で考えるでしょうからな。『慎司に悪い影響を与える子じゃないんだろうか、二人ているときどんなことをしてるんだろう、慎司と引き離した方がいいに決まってる』とね。それを聞かされるのは、織田君だって御免のはずです」

 首をうしろに倒し、目にしみる空を仰いでから、私は言った。「すると、二人の言うことを全面的に信じておられるんですね?」

 稲村徳雄は静かに答えた。「信じる、信じないの問題ではないのですよ。私と家内にとっては、それがそこにあるんです」

 思わず顔を見ると、彼はかすかに頬笑《ほほえ》んでいた。

「慎司は私と家内の息子です」と、穏やかに言った。「あの子の問題は、そのまま私ら夫婦の問題になります。私は今まで、あの子が理屈では説明のつかないようなことをやってみせるのを、数えきれないほど見てきました。本当に数えきれないほどですよ。だからもう、信じる信じないを云々《うんぬん》している時期ではないんです。まして、私は叔母をよく知っておりましたからね」

「叔母さんはどんな方でした?」

 少し言葉を探すように間をとって、彼は答えた。

「可哀相《かわいそう》な女性でした。本当に──辛《つら》い人生だったろうと思います。しかし、強い女性でした。鋼《はがね》のように強い女性でした。だからあの歳《とし》まで生き延びることができたんだろうと思います」

 稲村徳雄もまた、「生き延びる」という言葉を使った。

「たいへんな美人でしてね。縁談も降るようにあったそうです。私の祖父──つまり叔母の父は木場の材木問屋でして、なかなか羽振りが良かったそうなんです。親父《おやじ》の話だと、家の裏に土蔵があって、年に一度の虫干しのときにだけ中を見ることができたそうなんですが、日本刀や鎧兜《よろいかぶと》なんかもあったそうで。つづらに入れたどっしりと重い振《ふ》り袖《そで》なんかもあって、それをかぶって庭中引きずり回して、こっぴどく叱られたりしたそうです」

 懐《なつ》かしそうに目を細めていた。

「太平洋戦争で、全部失《な》くなってしまいましたがね。そのころはもう私の親父の代になっておりましたが、残念ながら、親父には事業の手腕がありませんでしたから、世の中が平和だったとしても結果は同じだったと思いますが。いえ、すみません、叔母の話でしたな」

「きれいな方だったと」

「ええ、そうでした、戦争の始まったころにはもうとっくに嫁いでおりまして、山梨の方へ疎開《そかい》しておりましたんですが、大空襲の夜に、東京に残っている親戚《しんせき》が焼け死んだことを言いあてたそうなんです。嫁ぎ先の姑《しゅうとめ》さんたちも最初は本気にしていなかったらしいんですが、実際に焼け跡へ行ってみて、叔母が『ここだ』と言った場所から遺体が出たりしましてね。すっかり気味悪がられて──それがいけなかったようです。昭和二十一年の春ですから、戦後まもなくですな、出戻って参りました。子供も三人もいたんですが、否応《いやおう》なしの離婚でした。叔母は当時──もう三十代の後半だったと思います。私は七つか八つのころです。そろそろ大人の話に興味のわく歳でしたから、よく覚えておりますよ」

「叔母さんは、その──能力が原因で離婚を?」

「そうだろうと思います。そんな気味の悪い千里眼みたいなことをやる嫁は家においておけないというわけで。親父は怒鳴りましたよ。当時は、嫁ぎ先から返されるというのはとんでもない不名誉でしたから」

 なんとなくエプロンの縁を手で引っ張りながら、

「親父はたいへんな剣幕でしたが、叔母も負けてはいませんでした。しょうがないじゃないの、あたしだって好きでやってるわけじゃないのよと、言い張っていましたよ。美人で勝ち気な女性でしたから、もともと姑さんとはうまくいってなかったようで、空襲のときのことほ、いい口実になったのかもしれません」

(あたしだって、好きでやってるわけじゃないのよ)

(僕だって、好きでこんなふうに生まれてきたわけじゃないんだ)

「ちゃんと筋の通った話は、もっとずっとあとになって叔母と再会したときに聞いたんですが、どうやら叔母も、十四、五歳のときから自分の特異な力を意識していたようです。ただ、当時は女性にとっては不幸な時代でしたからね。飯を食うのも、眠るのも、家の男たちの顔色を窺《うかが》いながら、でしょう。自分を殺して生きていたわけです。女が自分の意見を言うなんてもってのほかでした。だから、叔母はすべて自分の腹ひとつにおさめて、口をつぐんで生きていたんです。それが空襲のときに爆発したというか──人の生き死ににかかわることだから、思わず言葉になってしまったんでしょう。

「親父と派手にやりあってから、奥の部屋で、それこそ身を揉《も》むようにして泣いていた叔母一の姿を、よく覚えています。それから間もなくふっと家を出ていってしまいましてね。以来、まるで消息がわからなくなりました。再会したときは、叔母はもう六十に手が届く歳になっていて、私は所帯を持って、家内の腹には慎司がおりました。ですから、十六年ほど前のことですか」

 東京駅の八重洲《やえす》口だったという。

「バスターミナルの方へ歩いていましたら、人込みのなかから、『ノリちゃん』と呼ぶ声が聞こえたんです。私をそんなふうに呼ぶ人間は、そうはいません。振り向いたら、ちょっと離れたところに叔母が立っていました。ちょうど今頃《いまごろ》の季節でしたが、地味な色合いの袷《あわせ》を着てまして──すぐにわかりましたよ。ずいぶんと痩《や》せて、疲れた感じに見えたものでしたが。

「叔母は笑ってましてね……。『ああ、やっぱりノリちゃんだったね。声をかけようかどうしようか迷ったんだけど』と。私も驚きました。近くの喫茶店に入って、小一時間話をしたんですが、叔母は私が何も言わないうちに、『あんた、所帯を持ったんだね。それに、あんたは兄さんと違って商売の才がありそうだから、きっとうまくいくよ』と言うんですよ」

 稲村徳雄はにっこりと笑った。「それだけじゃなんのことかわからんでしょう? 当時の私は、勤めていましたコーヒー豆の卸問屋を辞めて、自分の店を構えようかどうか、迷っていたところだったんです」

「それが今の店ですか?」

「ええ、そうです。驚きましたねえ。すぐ昔のことを思い出しました。『叔母さん、まだあんなことできるのかい?』と尋ねると叔母はにこにこしていました。『できるよ、ずっとできたんだよ。もうこれは、あたしの業《ごう》みたいなもんだよねえ』。そして、私は何も言わないのに、家内の名前と、お腹《なか》にいる赤ん坊が逆子であることまであてるじゃありませんか。慎司は逆子でね。当時家内はひどく不安がっていました。結局帝王切開で生まれたんです」

 思わずため息が出た。稲村徳雄は遠慮がちに笑った。

「当惑されるでしょうなあ。当然です。ほかに、叔母はこんなことも言いました。『ねえノリちゃん。あんた、イシ──イシモリさんとかいう人からお金を借りるのはおよし。紐附《ひも》きのお金は良くないよ。しんどくたって、銀行から借りた方が、結局はいいんだからね。それだけ言いたくて、声をかけたようなもんなんだ』とね。石森という人は、私の知り台いで、私が独立するなら資金を出してやろうと言ってくれていた人だったんです。そして私は、歩きながら、彼の申し出を受けようかどうしようか、ずっと頭を悩ましていたところだったんですよ」

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