私は苦笑した。「で、借りたんですか?」
「借りませんでした。それで正解でしたよ」
それ以来、稲村徳雄はときどき叔母と会うようになったという。
「うちに来るように勧めても、決してそうしようとはしませんでした。ただ一度だけ、慎司が生まれたときに、病院を見舞ってくれましてね。叔母は独りで──独りきりで、勇敢に生きていました。どんな生活をしてきたのか、詳しく話してくれることはありませんでしたが、とうとう再婚はせずに、ずっと独り身を通していたようでした」
そして、慎司が「力」を見せ始めたとき──
「私はすぐに、叔母を頼ることにしました。最初は家内にも内緒にしましてね。叔母は親身になってくれました。『ノリちゃん、可哀相だけど、仕方ないよ。どうしようもないことなんだ。稲村の家にはね、何代かに一人、こういう人間が出るんだ。あんたのお父さんも、そのことは薄々知っていた、総領息子だから、親戚の誰かから話を聞いていたんだろう。あたしのときだって、物凄《ものすご》く怒りはしたけれど、それほど驚いちゃいなかったものね。これは稲村の家の血なんだよ』そう冒いましてね」
この能力は遺伝する。ちょうど血友病のように、。ひとつの家系の血のなかに潜在的な要素として眠っており、それを外に発現させる遺伝子と組み合わさったとき、表に出てくるのだ──そんな記述を読んだ記憶があった。
「叔母は無学な人でしたから、難しいことを言うことはありませんでした。ただ慎司に、どうやって生きていけばいいか、教えられるだけのことは教えようと約束してくれました。事実、そうしてくれたと思います」
ちょっと言葉を切って薄い頭を撫でると、肉付きのいい肩を上下させて、息を吐いた。
「叔母が亡くなったのは、二月の真夜中の三時ごろのことでした。急でしてね。心不全です。寝床のなかで、眠ったような状態でした」
「どなたが見つけたんです?」
「慎司です。あの子が──感じたんですよ」
「察知した?」
「そうでしょう。叔母は高円寺に住んでいましたし、私らはもうこの町におりました。夜中に慎司が起きてきまして、私を揺すって起こすんです。『お父さん、叔母ちゃんが死んだよ』ってね。『どうしたんだ?』と尋ねますと、『僕、わかったから』と言うんです。あとはただもうおいおい泣いているばかりで──で、行ってみたら、あの子の言うとおりでした」
過去に小細工は利かない[#「過去に小細工は利かない」に傍点]。これは絶対だ[#「これは絶対だ」に傍点]。再び生駒の台詞《せりふ》を思い出し、私は考えた。おい、じゃあこれをどう思う?
「葬式のあとで、ぽつんと言いましたよ『叔母ちゃん、あんまり苦しんだりしなかったよ』と。笑われるかもしれませんが、高坂さん、私はそれで救われました」
私は黙っていた。不用意なことを口にしてはいけないような気がした。
「長い思い出話をしましたが、この叔母のことがあるから、私は慎司の力を認めているんです。そして叔母は、生前に一度だけ、私と家内を並べて、ほとんど頼むようにして言ったことがあります」
ノリちゃん。あんたたちも気の毒だけど、でもね、慎ちゃんの親はあんたたちだけなんだから、心して聞いてちょうだい。あの子が生きていくのは大変なことだと思うよ。あたしのときとは時代が違うから、余計に難しいと思う。だけど、あの子はそう生まれついちゃったんだから、しょうがないのよ。そしてね、あの子が背負っているものは、あの子にしかわからない。親にはどうしてやることもできない。だから黙って見ててやって。で、あの子が相談を持ちかけてきたらできる限りのことをしてやって。それしかないよ。あの子の持っている力は、あんたたちにはないものなんだから。親なんだから子供をどうにか導いてやれるはずだなんて考えたら駄目。あの子はあの子の決めたとおりにしか進めないんだから。だけど、慎ちゃんは頭のいい子だし、気持ちも優しい。あたしも精一杯のことはするつもりだから、きっと真っすぐ育ってくれると思う。だからあんたたちは、あの子のうしろにいてやって、何かあったときには、あの子と一緒にすべてひっかぶるつもりで、それだけ腹をくくっててやってちょうだい──そう言った、という。
「私は、叔母の教えに従うつもりです」
稲村徳雄は静かに言って、私を見上げた。
「それしかしてやれないというのは、親として本当に切ない、情けないことですが。家内は一度、私にこんなことを言いましたよ。テレビで、どこか外国の自動車レースを観《み》ているときでした。日本人のレーサーも出てましてね。クラッシュというんですか、事故があって、車が大破したり燃えあがったりするようなことがあるでしょう? 家内はそれを見てて、『子供がこういう道に進んでいるのを見ている親御さんは、たまらないでしょうね。いつ命を落とすかわからないんだから。でも、仕方ないのよね黙って見てるしかないもの。あたしたちと同じね』と。そこまで──言ってみれば開き直れるまで、長い時間がかかりましたが」
途方もなく長い時間と、事実の積み重ねが。
「今度のマンボールの事件のことで、たしかに慎司は失敗をしたと思います。なまじ手を出したために、ことを複雑にしました。幼い失敗で、あの子は今そのことでひどく悩んでいるようです。でも、それがどういう結果を生もうと、私は慎司と一緒にそれを引き受けるつもりです」
ちょっと笑うと、初めて年長の人間らしい余裕をにじませて、私を見た。
「慎司はいろいろと失敗をしますが、しかしね、基本的には正しい判断をしているという気もします。今度のことで手を貸してもらうのに、あなたを選んだということでもね」
「とても──そうは思えないんですがね」
「いえ、そうですよ。面白おかしく書きたてようと思うなら、仕事|柄《がら》、いくらでもそうできる立場にいる人だ。だがあなたはそれをする前に、立ち止まって考えておられる。だから私にも会いにきてくだすったんだ」
「僕自身が戸惑っていて、どうしていいかわからないからですよ。うっかりするととんでもない恥をかく羽目になるかもしれない」
「それでも書こうと思えば書けるでしょう」
「秤《はかり》に載せて、まだ揺れが止まらないうちは目盛りを読むことはできませんよ」
稲村徳雄は笑みをたたえたまま、「そうですか。なるほど」と言った。「とにかく、あなたのなかに、こちらの信頼に応えてくれるだけのものを、慎司は見つけたんでしょう。私はそう思いますし、その判断を正しいと信じます」
つとくちびるを引き締めて、
「しかし、あなたも官仕えの人だ。いろいろ事情は出てくるだろうと思います。そういうことなら、私は慎司よりずっとよくわかっております。今後どのようになさろうと、それはあなたの自由ですよ。納得されるまで、なんでもなさってください。私と家内は慎司のうしろにいて、起こることを全部受けとめるだけですから、遠慮は要りません」
それに応える言葉は見つからず、私は「わかりました」とだけ言った。
土手下の道路に目をやると、黄色い帽子をかぶった小学生の一団が、手をつないだり走ったりしながら通りすぎてゆくところだった。
「あれぐらいまでが、いちぱんいい」
ぴょこぴょこ揺れながら遠ざかってゆく黄色い帽子を眺《なが》めながら、稲村徳雄はつぶやいた。「親の手のひらのなかにいてくれますからな。守ってやることもできます。ときどき、やっぱりそう思ってしまうんですよ。慎司がずっと小さいままでいてくれたら良かったろうなあ、とねえ」
3
時間的に、六時限目の授業の終盤であるらしかった。行ってもすぐには会えないかもしれないと思いながら足を運んできたのだが、予想はいい方にはずれたらしい。
慎司は校庭にいた。体育着姿で、三十人ほどの他の男子生徒たちと一緒に整理体操をしている。ウエアの膝《ひざ》を土で汚している生徒が目についた。
フェンスごしにじっと眺めていると、教師の号令で、全員が逆立ちを始めた。支え手なしだから、できない子供の方が多い。そのなかで、小柄な慎司はぴたりと倒立を決めていた。教師は大声で三十まで数えたが、そのあいだ揺るもふらつきもせず、「やめ」の合図でぽんと足をおろして、身軽に立ち上がった。そして、私に気がついた。
解散の声がかかると、彼はこちらに走ってきた。走りながら手を振って、左側の方に見えている通用門を指し示す。私がそちらに足を向けると、自分も途中から向きをかえた。「びっくりした」と、開口一番に言った。彼の胸の辺りまでの高さの鉄柵に肘を乗せて、身を乗り出している。
「ずっといたんですか?」
「十分ぐらい前からだよ。たいしたもんだな」
「何が?」
「倒立。うまいね」
「ああ。僕、体操部なんです」と、にっこりした。額に汗をかいており、運動のあとで、頬《ほお》が少し上気している。目の下の黒いくまは消えていないが、表情は明るくなっていた。
「と言っても同好会みたいなもんだけど、やっぱり倒立くらいはできなきゃついていけないからね」
「着替えないでいいのか?」
「うん。このあとすぐ部活だから」
コンクリートの地面には銀杏《いちょう》の黄色い落葉が一面に散っている。足を動かすと、かさこそと音がした。
「直也が消えたよ」
慎司は軽く目を見開いたが、意外だという感想を表わしたというより、だからどうしたの、という様子に見えた。
「よくあることなのか?」
「仕事も住むところもしょっちゅう替えてるもの。今度はやっぱり、高坂さんに訪ねてこられるのが嫌《いや》だったんだろうな」
「君とはどうやって連絡をとってるの?」
慎司は手をあげて乱れた髪をなでつけた。「たいてい、直也の方から電話してくるんだ。僕たち、そう頻繁《ひんぱん》に会ってるわけじゃないし」
「じゃ、居所は知らない?」
「はい」
「電話番号も?」
「全然そんな必要ないもの」
「じゃ、君の方から彼に連絡をつけたいときはどうしてるの?」
ちょっと目を伏せてから、慎司は真顔で私を見上げた。「呼ぶんだ」
どうやって? と訊《き》く必要はなさそうだった。
「それで通じる?」
彼は頷《うなず》いた。「ほら、高坂さん、前に僕に訊いたでしょ? 講かと交信してみたことがあるかって。あの時はっきり答えなかったのは、僕にもこれが正確に交信であるかどうか自信がなかつたからなんだ」
「どうして?」
「なんていうのかな……直也に会いたいなあと思ってると、彼から連絡が来たり、今日あたり公園に直也が来てそうだなって感じて行ってみると、彼がいたりする……そんな、ふうなんだ。はっきり、『至急連絡せよ』なんて電波みたいに飛ばしてるわけじゃないんだよね」
「それでも彼には通じる──」
「うん。たぶん、直也の方が僕より力が強いからだと思う。彼、僕にはできないこともできるし」
「どんなこと?」
慎司は考え込むような顔をした。「知りたい? また混乱するよ」
「どのみち、もう限度一杯まで混乱してるさ。いいよ、教えてくれ。彼、ほかに何ができる?」
まだ少し躊躇《ちゅうちょ》しながら、慎司は言った。「動くこと」
「え?」
「テレポーテーション。そう言うと、もう嘘《うそ》みたいに聞こえるけど、本当だよ。僕、一度見せてもらったことがある」
「つまりその──A地点からB地点へ移動する?」
「うん。すごく身体《からだ》に負担がかかるから、遊び半分にできることじゃないって言ってたけどね。一瞬だよ。僕にやって見せてくれたときは、公園の端のベンチから、反対側のブランコのところまでだった。まばたきするあいだに移ってたんだ。僕もやってみたいと思って努力してみたけど、駄目《だめ》だった。そういう力じゃないんだ僕のは」
「残念だったな」と、私は言った。真面目《まじめ》に言っているつもりだったが、そうは聞こえなかったらしい。
「それができれば電車買がかからないとか、遅刻したとき便利だとか、つまんないこと言わないでよね」
空咳《からせき》でもしてごまかすより手がなかったので、私はそうした。
「公園でいうのは、君が頭を冷やしたくなると行く、あの児童公園?」
「そう。あそこ、日陰だし周りにあんまり住宅がなくて、ちょっと陰気なんです。だから、子供を連れて遊びにくる人なんていなくて、いつもすいてるから、僕たち二人ともリラックスできる」
「なるほど」私はポケットに片手を入れて、なんとなく空を見上げた。「じゃ、またそれをやってみてくれないかな。彼を公園に呼んでほしいんだ。まだまだ聞きたいことがあるし、実際、彼ひどい顔色してたからね。助けが必要なんじゃないか?」
慎司は鉄柵に顎《あご》を載せ、ぽつりと言った。「父さんに会ったね」
彼の視線は、私が片手に下げている紙袋に向けられていた。
紙袋の中身は、慎司の小学校と中学校時代のアルバムだった。稲村徳雄が、別れ際《ぎわ》にわざわざ自宅に寄ってとってくると、そっくり貸してくれたのだ。
(慎司は先生にはなつきません。どうも駄目なようです。でも、親しい友達は何人がおります。誰でもいい、連絡をとってあの子のことを訊いてみてやってください)
中身が見えないように気をつけて持っていたつもりだったのだが、ちゃんと見抜かれていた。
「読んだのか? それとも見たの?」
「読んじゃった。すみません。不作法だってわかってるんだけど」小さく笑って、「僕のこと──調べるつもりだね?」
「君たちのこと、だよ」
「ありがとう」
「礼を言ってもらえるような結果になるかどうか、まだわからないぞ」
「わかってるさ僕はわかってるよ」
屈託のない口調だった。
「バッハ聴きに行った?」
私は首を振った。「途中で居眠りしちゃ悪い」
「そうかな。それでもあのおねえさんは怒ったりしなかったと思うな。あの人、高坂さんのこと好きなんだよ。気づいてると思うけど」
「あまりそういうことはやらない方がいいな」
慎司は少しあわてた。「わざとやったんじゃないよ。昨日の朝、編集部に行ったとき、あのおねえさんの顔を見た途端にわかっちゃったんだ。雪崩《なだ》れかかってきたって感じだったよ。彼女、そのことばっかり考えてたんだ、きっと」
ちょっと間をおいて、「ホントだよ。でも、そのことを高坂さんにしゃべっちゃったのはまずかったよね。反省してます」
あの人、片想《かたおも》いなんだね、可哀相《かわいそう》に──そう言って、足元の落葉を爪先《つまさき》で蹴《け》っている。
「このごろ、しょっちゅうそんなふうにアンテナを立ててるのか? うまくコントロールすれば、何も聞こえなくなることだってあるんじゃなかったの?」
慎司は白い体操着に包まれた肩をすくめた。「アンテナはいつも立ってるもの。それに、初めての場所に行ったりするときは、必ず力を使って探りをいれるようにしてるから。宇宙船から人が降りる前に、探査機を出して様子を窺《うかが》うみたいにね」
私は上着のポケットから名刺を出し、裏側にアパートの電話番号を書いて、彼に渡した。
「直也を呼び出せたら、すぐ連絡してくれ編集部にいなければ、自宅に。何時でもいいよ。ただし、頼むから電話を使ってくれよな。そら[#「そら」に傍点]で呼ばれたって、俺《おれ》には聞こえないんだから」
「わかってる」と、慎司は鼻にしわを寄せるようにして笑った。
「少しは元気を取り戻したみたいに見えるね」
「そうかな。うん、ちょっとはね。あと、天気のせいかな。気持ちいいもの」
鉄柵に足をかけ、腕をのばしてよく晴れた空を見上げた。
「神、空にしろしめす。なべて世はこともなし」
私は「へえ」と言った。
「おかしい? 僕は現役の学生だよ。引用ぐらいできます」
鉄柵から飛び降りると、「じゃあね」と言った。走って遠ざかってゆく。灰色の校舎のなかに、白い運動着が消えるのを見届けてから、私は踵《きびす》を返した。
編集部に戻ると、いきなりデスクに呼ばれた。ちょっと来いと手招きしながら、活動を始めて雑然としてきた室内を抜け、コピー室の方へと大股《おおまた》で歩いていく。
追い付いて歩きながら、私は言った。「ちょうどよかった。休暇をください」
デスクは足を止めた。そうやって並んでみて初めて気づいたのだが、デスクと慎司はちょうど同じぐらいの身長だった。大柄に見えるのは、活動的な人間である証拠だろう。
「なんだ?」
「休暇が欲しいんです」
「だから、なんのためにだと訊いてるんだ」
「記事にできるかどうか全くわからないことを調べたいからですよ」
小鼻の張った鼻をふんと鳴らしてから、「青少年カウンセラーの件か?」
「そうです」
「あれについては、まとまったら聞かせろといったろうが」
「そうするつもりですが、書けないかもしれないんですよ」
「書けないものなんてあるか、馬鹿者《ばかもの》が」髭剃《ひげそり》あとの青々とした顎を突き出すと、「記事になるかならないかを決めるのは俺だ。おまえじゃない」
「だけど、当分のあいだ、俺はここにいたって役に立ちませんよ」
「打ち合せにもいなかったしな」
承知でさほったのだった。
「俺たちが何をやろうとしてるのかも聞かんつもりか」
「見当はつきます。横手の嬰児《えいじ》殺しでしょう?」
デスクは黙った。佳菜子がひそかに「お焼き」と呼んでいるまん丸い顔を歪《ゆが》めている。
「今そこで、桑原が写真を揃《そろ》えてたのを見たんですよ」
「ありゃ二人もあれば充分だ」
「そう思います。だから──」
「休暇はやらん。何を言っても駄目《だめ》、無駄、効き目なしだから何も言うな。おまえが何をやろうとしばらくは文句を言わん。まとまったら聞かせろ、それだけだ」
「えらく寛大ですね」
「有給休暇なんてのは可愛《かわい》いおねえちゃんを連れてどっか南の方へでも出かけるときに使うもんだ。馬鹿が」
「そういうことばっかりしてちゃデスクにはなれなかったと思いますけどね」
「そういうこともしないでデスクになったって何が面白い?」
笑ってしまった。「デスクは面白そうに仕事をしてますよ」
「何が面白いもんか。ただの中毒だ」
吐き捨てるように言ってから、口をぐいと結んで、素早く辺りに気を配った。廊下にはほかに人影は見えなかった。
「七通目が来たそうだな?」
真剣な顔だった。
「生駒に聞いた。やつも心配してる。俺もさすがに気になってきたな。今度は字が書いてあったそうじゃないか」
「ええ、ありました」
「恨むという字だったとか」
「そうです」
「おまえ、本当に身に覚えはないのか? この際だ、みんな吐いちまえ。え? どうなんだ?」
「吐きたいのはやまやまなんですが、思い当る節がないんですよ」
「まるでか? まったく?」
そう問い詰められると返答に困る、誰でも同じだろう。
「どこで恨みをかってるかわからん商売だからな」と、デスクはひとりごちた。「ましておまえば社会部あがりだ。うちへ来てからのこととは限らんぞ。それも考えてみたか?」
「でもそれなら、もっと以前から始まってそうなものじゃないですか」
デスクは腕組みをした。「憤怒《ふんぬ》のスイッチってやつは、いつ入るかわからんものだからな。こっちが忘れたころにパチンと入って、いきなりブンブン唸《うな》りだすことだってある。で、何がなんだかわからないうちにブスリだ」
「それほど大げさなことじゃないと思いますよ。ただの嫌がらせでしょう」
「だといいんだが。だが、嫌がらせにしたって理由があるだろう? おまえを名指しで来てるんだぞ」
ジーンズにサファリジャケットといういでたちの契約記者がそばを通りかかったので、道を開けた。
「思い当らないんですよ。本当です」
いまいましそうにため息をつくと、デスクは言った。
「まあ、とにかく、しばらくは身辺に気をつけろよ。箱入り娘みたいに暮らすことだ。夜道の独り歩きは避けて、ドアには鍵《かぎ》をかけて寝ろよ」
言いながら、自分でふき出している。
「なあ、本当にツケじゃないのか?」
「ないですね。全部デスクの名前でツケてますから。それだけですか?」
「それだけだ。罰あたりが」
机の上には生駒がプリントアウトしておいてくれた資料が山積みになっていた。読むだけで一仕事になりそうだった。
生駒は電話に出ていたが、私が横に座るなり受話器を置いて、
「例の警官、わかったぞ」と言った。「まだ本人とは話してないんだが、退職して娘夫婦と一緒に暮らしてるそうだ。小田原にいる。明日にでも行って会ってみるよ」
「小田原じゃほとんど一日仕事だ。いいのか?」
生駒のグループは今、来る十一月十二日の「即位の礼」に絡《から》んだ連続ものを組んでいた。折からの皇室ブームもあって、読者からの反響もいちばん強いページだった。
「かまわんよ。こっちは手が多いからなんとでもできる。で、どうだった?」
簡単に説明すると、大きな頭をかしげながら聞いている。手にはもちろんハイライト。
「良くねえなあ」と、あっさり言った。「その叔母さんとやら、本当に実在するのかね」
私は眉《まゆ》をあげた。「そこまで疑う?」
「当然だ。まあどっちにしろ、本人が死んじまってたんじゃどうしようもねえがな」
資料に取りかかる前に、直也が残していった電話番号へかけてみた。応答はない。時計を見ながら三十分おきにかけて、四度日に、十回ベルを鳴らしたところで初めて受話器のあがる音がした。
「出た」と言うと、慎司のアルバムをペラペラめくっていた生駒が、素早く手をのばして隣の電話をとった。
「もしもし?」
電話の向こうには、なにか雑音が聞こえるだけだった。かすかだが金属がきしんでいるような、カンに触る音だ。何度か呼びかけても、人の声は聞こえない。だが、気配はしている。
「もしもし? 織田君か? 聞こえてるんなら返事を──もしもし?」
こちらも意地になって呼びかけたのだが、結局、ためらいがちにゆっくりと受話器を置く音が聞こえただけだった。
生駒と顔を見合わせた。
「誰か出てたのは確かだよな。なぜひと言も口をきかん?」
「子供かな?」
「最近の子供は、舌が回るようになったらすぐ『もちもち』ぐらいは言えるぞ」
もう一度かけてみたが、今度は応答がなかった。
「仕方ない。またあとだ。織田直也のガールフレンドとは六時に会う約束だろう? そっちを先に片付けよう」生駒は立ち上がった。
「一緒に?」
「当然」と、ベルトをずりあげる。「若い女の子と会える機会を見逃す手はねえ。彼女に夕飯でもおごってやろうじゃないか」
4
張り切って出てきたわりに、生駒はおとなしかった。面食らったのかもしれない。
小男の責任者が言っていたとおり、「麻子ちゃん」は可愛らしい娘だった。マスコットガールにはぴったりのタイプだ。すらりと長い足、手入れの行き届いた髪、それと、物怖《ものお》じしない態度。
「あたし、ステーキが食べたいなあ」などと言って、こちらが承知すると、店までちゃんと指定してきた。赤坂にある高級レストランで企業が接待に使うので有名なところだ。
「バイトはいいの?」
「平気、平気。店長、あたしには甘いから」
行ってきまーす! と元気に声を張り上げて、当の店長の仏頂面《ぶっちょうづら》を置いてけぼりに、さっさと先にたって歩きだす。通りかかった空車に両手を振って、
「タァクシー!」
目をぎょろぎょろさせている生駒の脇《わき》で、私は笑いを噛《か》み殺すのに苦労した。
「笑うな」と、生駒は歯の間から押し出すようにして言う。
「笑ってないよ。ご感想は?」
彼はフンと言った。「どっちにしろ、俺たちだって夕飯は食わなきゃならんのだからな」
「経費の請求はそっちの名前でしてくれよ、お父さん」
彼女のフルネームは守口《もりぐち》麻《あさ》子《こ》。二十歳。短大生だという。
「家政科よ。将来いい奥さんになるわよぉ」
生駒はテーブルに乗り出して、「どうでもいいが、いつもそんなにバッチリ決めてアルバイトに来るのかね?」
きれいなプリント柄《がら》のブラウス?スーツに、七センチヒールを履いている。スーツの生地《きじ》はポリエステルのようには見えなかったし、靴《くつ》も合皮ではなさそうだった。化粧も念入りにしてあるようだ。
「これ? 違うわよ。ジーパンで来たんだけど、店長から夕方マスコミの人が来るって聞いて、あわてて買いに行ってきたの。だって、このお店に来るのには、それ相応の格好をしないとね。でしょ?」
彼女はよく喰べたし、よくワインも飲んだ。そしてよくしゃべった。ただし、自分のことばかり。どう舵《かじ》を切っても、「でさ、あたしはね──」で始まる話題の方へ流されて行ってしまう。つい最近、横浜ベイブリッジの上で大《おお》喧《げん》嘩《か》をして別れたという彼氏の話が終わったところで、私はやっと割り込んだ。
「その彼氏のことだけど、君、織田直也とも付き合ってたそうだね」
少し赤らんだ頬《ほお》に手をあてて、麻子は「うふん」と言った。
「どっちだ? 背定か否定か」生駒がぶすりと言う。
「やだあ、コーテイだって。聞いた? コーテイ」と、麻子はこちらにしなだれかかってきた。「あたしの行ってた小学校さあ、門のそばに初代の校長センセの銅像があったの。それがさ、夜中になると校庭じゅう走り回るんだって! 有名だったんだからぁ。あたしは見てないけどぉ、ホントの話よ」
「だろうね。で、彼どんな青年だった?」
「誰が?」
「織田直也。付き合ってたんだろ?」
麻子はワイングラスを持ちあげて、深紅の液体をすかすように眺《なが》めてから、「わかんなーい」と言った。
「デートしたことは?」
「あるわよ」」
「つまらない男だった?」
「そうでもなかったなあ」と、古風な梁《はり》の浮きだしている天井を見上げる。「優しかったしね。ただ、お金持ってなくて。あれじゃダメね」
可哀相よねえ、という口ぶりだった。
「優しいって、たとえばどんなふうに? 君の気持ちをよく理解してくれるとか」
麻子はポンと手を打った。「そう、それ。彼って、相談男のタイプだったわね。愚痴こぼしても聞いてくれたしさ。前のボーイフレンドが二股《ふたまた》かけててさ、あたしすっごく悔しい思いをしたことがあったんだけどね、その時なんかもずいぶん慰めてくれたわ」
周囲をちらっと気にしてから生駒がずばりと訊《き》いた。「彼と寝たことはあるかね?」
麻子はしゃんと背をのばした。いくらなんでも怒りだすかなと思ったが、そうではなかった。そうっと前かがみになって顔を寄せてきながら、声をひそめてこう言った。
「あるの。だけどね、彼、ダメだったのよ」
「駄目とは?」生駒が生真面目《きまじめ》に聞き返す。麻子はひらひらと手を振った。
「ヤダぁ。できなかったのよ。決まってんじゃない」
二ヵ月ほど前の話だという。一
「あたしね、夜の方が時給が高いし、お店閉めたあとで飲みにいったりする楽しみがあるから、夕方から勤めてるわけ。夜はヒマだし、カッコいい人に声がけてもらえる率も高いのよ。昼間はダメ。トラックの運ちゃんとか、営業マンとかしか来ないから。そいでさ、その夜も、ブルーのBMW乗ってる男に──」
店を閉めたらドライブに行こう、と誘われたのだそうだ。
「まあまあの顔してたし、カーコンポでちょっとしゃれた音楽かけててさ。ジャズみたいだった。いいかなァなんて思ってたら、織田君が寄ってきて、『よしなよ』なんて言うの。あたし、なんだコイツって思って、『いいじゃないあたしの勝手でしょ?』って言ったら、『今夜だけはよせよ。あいつについていっちゃ駄目だ』なんて言うじゃない? あたしビックリしちゃった。スッゴク真剣なんだもん」
自分でもよくわからないうちに、胸騒ぎがし始めていた。「ブルーのBMW」というところに、なぜかひっかかった。
「でね、あたし思ったわけ。ははん、織田君、嫉妬《しっと》してんのかしら、なんて。それでさ、『だけどあたし、一人で帰るのつまんないんだもん』て言ってみると、なんかあわてちゃってさ、『じゃ、俺とどっか行こう』だって。しょうがなくて、結局映画|観《み》に行ってぇ、近くのお店でご飯食べて、ちょっと飲んだのかなあ。それであたし酔っ払っちゃって、彼にマンションまで送ってもらったの。タクシーだったけどね」
「それでなんとなくそうなっちまったわけだ」と、生駒が言う。
「そうね。彼ってさ、ちょつと痩《や》せすぎてるけどぉ、よく見るとハンサムじゃない? それにさ、優しいしおとなしいってことは知ってたからぁ、一度くらい、いいかなーなんて思ったわけ。あたしもそのころで一人で彼氏のいない谷間だったしね。淋《さび》しかったんだもん」
ところが駄目だった、というわけだ。
「ぜーんぜんよ。気の毒になっちゃうくらいアルコールのせいよって慰めてあげたけどね。あたしもあんなの初めてだった」
「彼、気にしてた?」
麻子はなよなよと首を振った。「どうかなあ……きまり悪そうには見えたけど。どっちかっていうと、ほかのことでビクビクしてるみたいな感じがしたわよ。しょっちゅう窓から首を出し、外をのぞいてるの。まるで誰かに追われてるみたい」
生駒がさっと私の方を見た。
「そのこと彼に訊いてみた?」
「うん。そしたら、『俺《おれ》、ちょっとまずいことがあって、興信所に尾《つ》けまわされたことがあるんだ』って」
「どこの興信所?」
「そんなの聞いてないわ。あたし、寝ちゃったし。朝になったら、彼もういなくなってたしね。それきりよ。それ一度だけ。あたしからは誘わなかったし、彼もさあ、不名誉じゃない? だから二度と声かけてこなかったわね」
あとは、押しても引いても同じことの繰り返しで、結局は彼女にとっても、織田直也という青年は「よくわかんない、不思議な人」だったということがわかっただけだった。
だが、「途中から始まってる小説みたいな人だったわ」と、妙に詩的なことを言った。「過去っていうか、あのお店に来る前の部分がなーんにもわかんなくて。ちょっとスリリングではあったけどね」
麻子はワインを飲み干し、アイドル歌手のピンナップみたいな格好でテーブルに頬杖《ほおづえ》をつくと、笑いかけてきた。
「ねえ、もう一軒つきあってくれたら、もっといろいろ思い出せそうなんだけどなあ」
丁重にお断わり申し上げて彼女をタクシーに押し込んだあと、生駒と地下鉄の駅まで歩いた。
「大出費だ」と、彼はむくれている。「いかれた短大生だ。本当に短大生か?」
私は考えていた。ブルーのBMW。そしてジャズ。それがどうしてこんなに気になるんだろう?
「あれじゃ情報らしい情報とも言えねえ。だいたい礼儀ってもんを知らねえから、ああいう図々《ずうずう》しいことが──そりゃこっちだって若い女の子には甘いかもしれないがそれにしたって──」
私は足を止めた。生駒は大股で三歩ほど行き過ぎて、そこで振り返った。
「どうしたんだ?」
「わかった」
「何が」
「ブルーのBMWだよ。それと、ジャズだ」
生駒を追い越して地下鉄の階段を走り降りた。「確かめてみればはっきりする」
編集部にはまだ人が残っている時間で、電話も頻繁《ひんぱん》に鳴っていた。たぶん先月だと見当をつけて、「アロー」のバックナンバーをさらった。生駒は肩ごしにのぞきこんできた。「何を探してんだ?」
目当てのページを見付けると、私はそれを彼の鼻先に突き付けた。
「ヘッドライン」のところで、ごく短い記事だった。
「ギャルの外車指向につけこんだ前科四犯の悪いヤツ」というリードがついている。
「先月、川越で捕まった連続暴行魔だ。ブルーのBMWを乗り回してたんだよ。殺人まではいかなかったが、わかっているだけで被害者は二十人以上いると言われてた。執着心の強い男で、一度目をつけると、逃げられてもあとを尾けまわして車に引っ張りこんだり、ひどい場合には自宅に押し入ることさえあった。覚えてないか?」
おまけにこの犯人はジャズ?マニアだった。愛好者が聞いたらカンカンになるだろうが、犯行に及ぶとき、いつもアート?ブレイキーの「モーニン」をバックに流していた。
生駒は記事を読み、目をあげて私を見ると、低く言った。
「じゃ、それが守口麻子の言ってる男だと?」
「そうだよ。二、月前の話だと言ってたじゃないか。時期的にもあってる。やつは都内を中心に呆《あき》れるほど広い範囲で獲物《えもの》を漁《あさ》ってた。あのガソリンスタンドに寄ったとしても不思議はないさ」
生駒はゆっくり首を振ると、雑誌を棚《たな》に戻した。