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第二章 波 紋 .6

作者:日-宫部美雪/宫部美幸/宮部みゆき 当前章节:15365 字 更新时间:2026-6-16 01:47

「そいつはちょっと強引すぎる」

「なぜ? ぴったりじゃないか」

「あってるのはブルーのBMWだということだけだ。日本中にどれだけ走り回ってるかわかったもんじゃない。ただの偶然だよ」

「それだけじゃないさ。ジャズは?」

「あの娘にはジャズと行進曲の違いもわからんよ」

 平板な声で、あっさり言う。私は一歩詰め寄った。

「じゃ、なんでその夜に限って直也が彼女を誘ったんだ。『今夜はよせ、あいつにはついていくな』とまで言ったんだぜ?」

「彼が麻子を口説《くど》きたかったからだろうよ。だからこじつけたんだ。そういうことはあるもんだ身に覚えがあるだろうが」

 喧嘩に近いような大声を出していたので、残っている連中が何人か、怪訝《けげん》そうな顔を向けてきた。生駒は私の肩を叩《たた》き、声を穏やかにした。

「考えすぎた。予断を持つと、なんでもそう思えてくる。怖いと思えば、とりこみ忘れた洗濯物《せんたくもの》まで幽霊に見えるのと同じだよ」

 私は唖然《あぜん》として彼の大きな顔を見上げた。「信じられないな」

「俺は信じられるよ」と、大きな肩をそびやかす。「俺も昔、今のおまえさんとそっくりなはまり方をしてたからな」

 ちょうどそのとき、「電話だよ」と呼ばれた。私の机だった。腹立ちまぎれに、差し出された受話器をふんだくるようにして受け取った。

「はい、電話代わりました」

 何も聞こえない。

「もしもし?」

 沈黙。

 夕方の電話の件がちらりと頭をよぎり、思わず耳から離して受話器を眺めた。が、あの番号で出た先方がかけ返してこられるはずがない。

「どなたですか?」

 すると、嗄《しわが》れた声が、かろうじて聞き取れるほどの大きさで、こう言った。

「あんた、高坂さん?」

「ええ、そうですよ」

 性別さえはっきりわからないほどかすれたその声は、私の出向元である新聞社の名をあげ、「もとは八王子支局にいた高坂昭吾さんだね?」と続けた。

「そうです。ご用件は?」

 笑ったのか、耳障りな声をたててから──

「七通目の手紙、読んだかね?」

 自分でも、一瞬顔が強《こわ》ばったのがわかった。離れたところでハイライトをふかしながらこちらを見ていた生駒が、煙草《たばこ》を捨てて身体《からだ》を起こした。

「読んだかね?」相手はもう一度そう言い、今度こそ、かすかに笑った。

「読んだよ」私はゆっくり答えた。それで察したのか、生駒が巨体に似合わぬ素早さで近付いてきて、隣の電話に手を置き、割り込んだことを相手に悟られないように、慎重に受話器をあげた。

「あんた、誰だ?」

 尋ねると、嗄れた声はまた笑った。「誰でしょうねえ」

「手紙はあんたの仕業か?」

「さあねえ」

「なんであんなことをしてる?」

 生駒が手振りで(どんどんしゃべらせろ)と合図してきた。私は止めていた息を吐き出して、できるだけ温和な声を出した。

「あれじゃ、意味がわからない。困ってるんだ。目的はなんです? 何か話があるのなら、ちゃんと聞こうじゃないですか」

 やや間があって、ため息のような音とともに、相手は言った。「もう、そんな段階は過ぎちまったから。気の毒にねえ」

 その言い方が真に迫って残念そうだつたので、瞬間、冷たい指でスッと背中を撫《な》で上げられたような気がした。たった一本の指だが、正確に背骨の上を。

「どういうことです?」

「身に覚えがないのかねえ。音のことだから、忘れたか」

 八王子支局にいたときなら、「アロー」に移る直前だ。三年前ということになる。

「支局にいた頃に、何かあったというわけですか? そんなはぐらかすような言い方じゃ、こっちにはわかりませんよ。あそこには丸二年いたんですからね」

 じゃあ教えてやろうか、と相手が開き直るのを待ったが、無駄《むだ》だった。ヘッヘッと、馬鹿にするように声をたてている。

「もしもし?」

「ま、気をつけることですな」

「だから──」

「あんただけじゃなくて、ほら、なんて言ったっけ? そう、小枝子さんね[#「小枝子さんね」に傍点]。あの人もね、気をつけてあげた方がいいと思いますよ」

 電話はそこで切れた。ツー、ツー、という音をたてている受話器を握ったまま生駒を見ると、彼も私を見上げていた。

「聞き覚えのある声か?」

 私は黙って首を振った。。

「男だか女だかわからん感じだな。それに妙な声だ。ボイスチェンジャーを通してるのかもしれん」

 受話器をフックに戻すと、椅子《いす》に腰を降ろした。まだ怖いとは思わなかったが、腹立たしいのとじれったいのとで、机に片肘《かたひじ》ついたまま、しばらく電話機から目を離すことができなかった。

 ちょっと姿を消した生駒が、インスタントコーヒーの紙コップをふたつ持って戻ってきた。

「で、どうだ? 八王子支局時代のことで、心当たりは?」

「今、思い出そうとしてる」

「あそこには地裁と地検があるよな?」

「うん」

「関《かか》わったことは?」」

「一年ほどクラブに詰めてた。強《し》いて取り上げるほど大きな裁判にぶつかったことはなかったな」

「じゃ、あとは要するに町ダネ拾いか」

「そう」

 生駒は顔をしかめた。「暴力団はどうだ? ドンパチがあったじゃないか」

「山口組は、俺と入れ違いに八王子に来たんだよ」肘をはずして身体を起こした。「それに、これは暴力団のやり方じゃない」

「そうとも言い切れん。陰湿な連中だっている。俺は昔、地上げがらみの取材で不興をかって、毎晩夜中に電話をかけられたことがある」

「脅されたのか?」

「いんや。テープ録音したお経を聞かせてくれたんだ。一ヵ月だぞ。しまいには一緒に唱えられるようになった。おかげで極楽行きは決まったようなもんだ」

 ちょっと笑うと、肩から力が抜けた。

「俺の勘じゃ、またかけてくるぞ」と、生駒は言った。「かけてきたら、できるだけ引っ張ってしゃべらせるんだ。今のままじゃ雲をつかむようなもんだからな。あて推量したって始まらん」

「そうする」

「録音をとれるようにしよう。うちのこの旧式な電話にもつなげるレコーダーがあったはずだ」

 生駒は立ち上がりかけ、机に手をかけて、私を見た。「ひとつだけ、今のうちでもできることがある」

 なんだかわかっていた。

「小枝子《さえこ》さんに連絡をとれ。彼女の名前が出てるんだ。とにかく、所在だけでもつかんでおいた方がいい」

 ため息が出た。「わかったよ」

 その夜はもう、妙な電話はかかってこなかった。読み切れなかった分のプリントアウトを持って、十一時すぎに編集部を出た。

 JR線の市川駅からアパートまで、十五分ほどてくてく歩く。この辺りはぎっちりと建てこんだ住宅地だし、夜遅くまで店を開けている居酒屋や、レンタルビデオ?ショップ、コンビニエンス?ストアもたくさんある。街灯も多い。

 それでも、アパートの入り口が面している十メートルほどの袋《ふくろ》小路《こうじ》に入る前に、一度うしろを振り向いた。尾けられていると思ったわけではない。ただ、なんとなくそうしたくなった。

 一区画先の狭い交差点を、自転車に二人乗りしたティーンエイジャーのカップルがふらふらと横切っていく。頭の上の方のどこかで、ばしゃばしゃと湯の跳ねる音が聞こえる。誰か入浴中なのだ。いたって平和なものだった。

「馬鹿らしい」

 声に出してそう言うと、少しすっきりした。

 鉄筋コンクリートの四階建て、部屋数十一といえば、普通はマンションと称してもいいと思うのだが、一階に暮らしているここの大家は、頑固に「アパート」という名称を守り抜いている。建物の名前も「田中アパート」

という素っ気ないものだ。

「マンションなんていうふにゃふにゃした名前は気にくわないんでね。名前がイヤなら借りなきゃいいんだ」

 何についてもひとこと言わねば気が済まないというタイプの老人だが、その代わり管理はしっかりしていた。過去に二度、空き巣|狙《ねら》いの検挙に協力したことがあり、地元の警察署からもらった感謝状を、玄関の脇《わき》に恭《うやうや》しく掲げている。

 私が引っ越してきてちょうど二年になるが、不動産屋に連れられて初めて部屋を見にきたとき、大家は、朝日新聞の支局に散弾銃を持った賊が押し入り、記者二人を死傷させた事件の話を持ち出して、「危険な商売ですな」と、盛んに言った。

 こりゃ断られるかなと思っていると、これが大違いで、むしろ張り切ったような顔をして、「わたしは正義の味方ですからね」と言う。「何があったって言論の自由は守りますよ。大船に乗った気で引っ越していらっしゃい」

 あとで不動産屋に、大家さんはもとは学校の教師で、剣道の有段著ですよと聞かされて、なるほど気骨があるはずだと思った。最近は、さすがにもう道場へ行くこともないようだが、たまに、庭に干した布団《ふとん》をたたいているところを見かけると、腰も据《す》わってるし、まだまだ意気|軒昂《けんこう》のようだ。

 大船に乗った気でいて、本当に迷惑をかけるような羽目になるだろうかと、考えた。今のところ手紙も電話も編集部あてにきているが、自宅の方まで波及することもないとは限らない。なにしろ、相手がどういうことを考えているのか、こちらの状況をどこまで調べあげているのか、まったくわからないのだから。

 以前、一度泊まっていったことのある生駒が、「これぐらい何もねえといっそさっぱりしりていい」と評した部屋のなかで、直接床に腰をおろして、ベッドサイドのランプだけ点《つ》け、缶《かん》ビールをあげながら、しばらくのあいだ、ああでもないこうでもないと考えていた。印象の強かった事件や、取材の過程でトラブルのあった人物の顔を思い浮べたりしてみても、パチンとはまる手《て》応《ごた》えがない。

 デスクは、「憤怒《ふんぬ》のスイッチはいつ入るかわからない」と言った。それは同時に、「何がきっかけで入るかわからない」ということでもある。極端な場合、こちらにはまったく科《とが》がないことだってあり得るわけだ。

 それにしても、なぜ今さら小枝子の名前が出てくるのだろう? それがいちばん不思議だった。

 彼女の所在をつかむのは造作ないことだった。共通の知人がいる。電話一本かけれぱ済むことだ。何もうしろめたいことがあるわけもなし、事情を率直に話せばすぐ教えてくれるだろう。

 それでも、気が重いことには違いなかった。

 ただの失恋や破談なら、そのときは大きくても、過ぎてしまえば忘れることができる。あとに何も残らないからだ。

 だが、我々のあいだにあったことは、あとに残った。

 以前にこの話をしたとき、生駒は小枝子のことを「身勝手な馬鹿女だ」と吐き捨てた。「そんな女とは縁がなかった方が幸せだ人をなんだと思ってる」

 あの当時は、私も自分にそう言い聞かせていた。だが、今は違う。彼女には彼女なりの見事な「信念」があって、それが私とは相《あい》容《い》れないものだった──というだけのことだと思っている。

 それに、まったく自由な恋愛で始まった関係だったなら、ことがあれほどこじれることもなかっただろう。二人のあいだだけの問題で済んでいたことだ。彼女とは、大学の先輩の紹介で知り合った。というより、引き合わされたと言った方が正解だ。あらたまって写真を交換し、一席設けて顔を合わせるという形でこそなかったが、要するに見合いである。当時小枝子はちょうど大学を卒業したばかりでいわゆる「家事手伝い」をしながら、適当な結婚相手を探していたのだった。

 彼女の父親は、関東では東大への進学率が高いことで有名な高校で教鞭《きょうべん》をとっており、やはり私と同じ大学の卒業生でもあった。秀才の誉れ高い人だったという評判を聞いたが、私の目から見るかぎり、一人娘を大切にしている、穏やかな父親でしかなかった。

 最初の印象は、とにかくおとなしい娘さんだということだけだったような気がする。愛くるしい顔立ちと、ちょっと強い風が吹いたら飛ばされてしまうんじゃないかと思うような華奢《きゃしゃ》な身体つきのせいで、余計にそう見えたのかもしれない。

 私自身、そろそろ家庭を持つことを考えていたし、悪い話ではなかった。

「ほかに決まった女性がいないなら、まあ、固く考えないで、しばらく付き合ってみろよ」という勧めに、素直に従える気分でもあった。その少し前に、大学時代から交際していた女性と別れたばかりだったから。

 頭に血が昇るような恋愛だったわけではない。離れているとき、彼女のことばかり考えていたということもなかった。ただ、一緒にいるとき小枝子が与えてくれる安《あん》堵《ど》感《かん》──彼女を取り巻いている温かな雰《ふん》囲《い》気《き》は、貴重だった。かと思えば、ときどきぽつんとこぼすように鋭いことを言って、私を驚かせることもあった。

 育ちがいいと言っても、小枝子の家は決して金満家ではなかったが、彼女を見ていると、「お蚕ぐるみ」という言葉の意味を悟らされるような気がした。世間の風に当たらないようにズレないように大切に育てられてきたから、普通の人間が生きる過程で振り捨てたり切り落としたりしてくるものを、小枝子は小さな両手のなかに全部包み込んでいた。それは、私のように雑駁《ざっぱく》な育ち方をして、殺風景な仕事をしている男を、手品のように惹《ひ》きつける力一を持っていた。

 同時にもうひとつ、私はやっかいな勘違いをしていた。年下の世間知らずの女性を「保護している」という錯覚だ。これはひどく気分のいいもので、一度かかるとなかなか抜け出せない。小枝子と結婚することは、すなわち彼女を一生自分の翼の下に入れることだ、というふうに考えていたのだから、いい気なもんだった。

 交際を始めて半年で、結婚を決めた。小枝子はすぐに承諾の言葉をくれたし、双方の親も賛成していたから、問題はなにひとつなかった、とんとん拍子に話は進み、結納《ゆいのう》や挙式の日取りも決まった。仲人《なこうど》は、当時の本社の社会部長が引き受けてくれた。まったくの偶然だったのだが、部長は小枝子の父親と同郷の出身で、県人会を通して古くからの友人だったのだ。(やっぱり何か縁があったのね)と小枝子は喜んだし、私にしても言うことはなかった。これがあとで裏目に出るなんて、知る由《よし》もなかったから。

 当時、私は八王子支局に移って二年目だったのだが、異動がかかったときから、本社の社会部のデスクの一人に、二年たてば必ず俺《おれ》の下へ引っ張ってやるという約束をもらっていた。警察回りの時代の上司で、どういうわけかウマが合い、私を見込んでくれていた人だったし、言ったことは実行できるだけの力も持っている人物だった。

 本社の社会部といえば、事件記者を目指している人間にとっては夢のポジションだ。デスクの思惑通り二年でとはいかなくても、そこへ通じる道がはっきり開けたということで、私は有頂天になっていた。

 不満も不安も、まったくなかった。なにひとつ。

 それがひっくり返ったのは、挙式の一ヵ月前のことだった。理由は簡単。健康診断で、私にはどう頑張っても子供をつくることができないと──その能力が欠けているとわかったからだった。

「だからどうしたってんだ、え?」と、生駒は怒鳴ったものだ。

「子供のない夫婦は世間にいくらでもいる。それで仲良く暮らしてる。それなのに、ほかのことは一切棚《たな》上《あ》げにして、それだけで駄目《だめ》だなんて、よく言えたもんだ」

 生駒の怒りはまっとうだが、やはり本質からははずれていると思う。彼には可愛《かわい》い娘が二人いて、すでに父親としての責任を肩に負っている。良くも悪くも、その立場からしか考えることはできまい。

 子供を持つ──というのは、女性にとって、それほど大きな意味のあることなのだ。今なら少しは冷静になっているから、それがわかる。

 破談の話を出すとき、小枝子はこう言った。

(あなたはいいわ、仕事があるもの。でも、わたしはどうなると思う? 何もないのよ)

 何もないのよ──と言われて、じゃあ仕事をしたらどうかとか、趣味を持てばいいとか言ってみても始まらない。それは単なる論旨のすりかえだし、仕事を持ち社会に出ている女性たちを、逆に侮辱することになる。彼女たちは、独身だから、結婚していても子供がいなくて暇だから働いているわけではないのだから。

 小枝子は家庭をつくりたがっていた。そして、彼女の考える「家庭」には、子供が不可欠な存在だった。

 彼女は青写真を持っていた。完壁《かんぺき》な子供時代。完壁な青春。完壁な恋愛。完壁な結婚。すべて「完壁」でなくてはならない。そして私は、彼女の完壁な人生のプランを実現する相手としては失格だった。それだけのことだ。

 優先するのは常に「完壁な青写真」であって、ひとつでもその基準を満たすことができなけれぱ、ほかにどんないい条件がついていようと、感情的に割り切れなかろうと、そんなことは問題にならないのだった。

 愛情さえ。

「人の親とならない限りは一人前の人間ではない」という通念に──途方もなく馬鹿げた通念だが──従っているかぎり、小枝子の「完壁な人生」には「子供」がなくてはならなかった。それが欠けたら完壁ではなくなる。

 だから別れよう──それだけのことだった。

 理由が理由だけに、仲人は苦りきっていた。私に別の女がいたとでもいうのであれば、まだ収拾のしようがあるのだが、こればかりはどうしようもない。

 小枝子は声を張り上げたり、興奮して言いつのったりすることはなかった。ただ静かに泣いていて、「一緒にやっていく自信がなくなったんです」と繰り返しているだけだった。最後の方では、話し合いの場に出てくることさえなかった。

 ただ一度だけ、電話で話したことはある。冷静に話を聞くつもりだから、なんとか会えないかと言ってみたが、徒労に終わった。

 やっかいなことに、私はいっぱし彼女を保護しているつもりでいたし、彼女を愛しているとも思っていた。彼女が必要だとも思っていた。だから、ありったけの言葉を総動員してかき口説《くど》いた。プレイバックして見せられたらたまらないだろう。

 すると小枝子は泣きながらこう言った。

(あなたには、わたしにそんな中途|半端《はんぱ》な人生を押しつける権利なんかないわよ。勝手なことばかり言わないで。本当に愛してくれてるんなら、わたしが望みどおりに幸せになれるように解放してくれるべきだわ)

 ひっぱたかれたような気がして目が覚めたのは、このときだ。

 中途半端な人生を押しつける。

 彼女はそう言った。

 結局、全部俺の錯覚だったんだな、と思った。最初から愛情も信頼関係もあったわけじゃない。彼女を愛し、彼女を保護して、一緒に人生を送っていこうと思っていたのは、私の方だけだった。小技子にとって最優先なのは、常に自分、自分、自分だけで、彼女の完壁な人生の青写真には訂正の余地もない。

 誰も保護してやる必要などない。彼女は自分の面倒ぐらい自分でみられるのだ。ちょっと良さそうだから使ってみたけど、このタイヤで走ってると、とんでもない方向へ連れていかれそう。だから替えてちょうだい。

 それで終わりか。

(なあ、ひとつだけ教えてくれよ)と、私は訊《き》いた。(破談にするっていう結論を出すまで、君、少しは悩んでくれたのかい?)

 小枝子は泣いているだけで、答えなかった。

 弁議士が出てきてどうこうするようなところまではいかなかったが、事態を収拾するには、かなり手間がかかった。現実問題として、招待状はもう発送済みだったし、こまごまとしたことの手配も済んでいた。

 可笑《おか》しかったのは、小枝子の父親が、慰謝料の請求めいた言葉を発したことだった。(娘を傷物にしてくれたじゃないか)というわけだ。厳格な父親が門限を緩めて娘に夜遊びを許したのも、一緒にいる相手が婚約者だったからで、そうでなくなればそこらの有象無象と変わらないと言いたかったのだろう。

 初めて抱いたとき、小枝子は処女だった。「結婚すると決めた相手としか寝ない」という決めごとも、彼女の青写真のなかにはあったのだろう。結果として、私はその青写真を汚した男になったわけだ。

 いくらなんでもそれは──という仲裁があって、結局慰謝料の話は消えたが、父親には、「あとの縁談に響くようなことになっては困りますから、その点は充分ご配慮願いたい」と釘《くぎ》を刺された。

 面《メン》子《ツ》丸潰《まるつぶ》れの形になった祉会部長は、それでも、その時点ではまだ中立的な態度をとってくれていた。よりにもよって、予定されていた挙式の日に、小枝子が自宅の部屋で手首を切るまでは。

 たいした傷ではなかった。剃刀《かみそり》で撫《な》でた程度のもので、救急車に乗せられるときも、意識ははっきりしていたそうだから。

 その報《しら》せを受けたときには、とっさに、彼女もやっぱりひどく悩み、傷ついていてくれたのだと思った。発作的に死のうとまで思い詰めるほど。が、事情がよくわかってくると、その考えは甘いと思い知らされた。

 確かに小枝子は傷ついていた。が、それは、私との感情的な問題ではなくて、「まとまりかかっていた結婚が直前に壊れてしまった」という過去を背負わなけれぱならなくなったことに対してだったのだ。

 要するに、また青写真だ。見舞いに行った友人に、「こんなみっともないことになって、わたしにはもう辛せな結婚なんてないだろうと思ったら、生きていくのが嫌《いや》になったのよ」と話したそうだから。

 みっともない、か。

 ここまで見事に行き違うと、もう笑ってでもいるしかなかった。

 悪いことは重なるもので、これはちょっとしたスキャンダルめいたものに発展した。私は一介の平記者にすぎないが、小枝子の父親には社会的な立場がある。娘の破談と自殺未遂は、それでなくても派閥争いの激しい有名私立校のなかに身を置いている彼にとって、ひどい重荷になってしまったようだった。

 で、それでどうなったかと言えば──

 私の社会部行きはお流れになった。怒れる旧友と、個人的にはさしたる接触のない部下との板挟《いたばさ》みになった部長は、旧友の顔を立てることに決めたらしい。人事とはしばしばそういうことで動くものだ。それをなじるほどの中学生的正義感は、私のなかにはない。あったとしても、その時はもうどこにしまってあるかさえよくわからなくなっていた。

 一人怒り狂ってくれたのは、私を引っ張ると約束していたデスクだった。部長を怒り、その下で働いている自分を怒り、無気力になっている私を怒った。でも最終的に、私自身も居心地が悪くなり、同僚たちも困惑している八王子支局から、私を引っ張り出してくれたのも彼だった。

「俺の同期の宮本ってやつが、『アロー』のデスクをしている。あそこは姥《うば》捨《す》て山みたいな雑誌だと言われてるし、事実編集長は死んだも同然の腑抜《ふぬ》けだが、宮本は違うぞ。やつは革命を起こす気であそこへ行ったんだ。どうだ、しばらく一緒にやってみんか?」

 その宮本デスクが、「お焼き」のような丸顔でツケの心配はかりしてくれる、今のデスクというわけだ。

 なるほど、「アロー」もそれなりに変わりつつある。だが道はまだまだ遠いし、対外的には「アロー」へ出されるというのは左《さ》遷《せん》と同じ意味を持つ。

 だが、少なくともそれで、小枝子の父親は溜《りゅう》飲《いん》を下げた。そうでなければ、白紙の脅迫状を送ってくる人物の第一候補として、彼の名前をあげているところだ。

「アロー」に移ってからも、私がなぜ飛ばされたか、という理由についての噂《うわさ》は、しぶとくついてまわった。社会部長の方で本当の事情をひた隠しに隠しているものだから、噂はどんどん膨らんで、真相からかけ離れたものになっていた。

 上役の媒《ばい》酌《しゃく》でまとまった結婚を蹴飛《けと》ばしたからだ、というくらいなら、まだ可愛い。いや本当は結婚の直前に男色であることがわかったからだとか、上司の愛人に手を出したのがいけなかったのだとか、とにかくバラエティに富んでいた。生駒をうるさがらせ、若いカメラマンの興味を惹いたのも、そのうちのどれかだろう。

 とにかく、高坂という男は女でしくじったのだ、というのが定説で、やっと落ち着いてきている。それならまあよくあることじゃないの、という受けとめ方をされているようだが、もう一歩進んで完全に忘れてもらうには、結婚でもするしか手がなさそうだ。

 結婚でも。

 言うのは簡単だが、ひどく難しいことになった──と思う。

 ひとつには、とにかく事実として、相手の女性に子供を産んでもらうことができないということがある。小枝子ほど頑《かたく》なでなくても、子供を持つことに夢をかけている女性は大勢いるから。

 そのことで一度、文化部の女性記者と話したことがあった。ベテラン記者で三児の母でも一ある彼女は、「女は子供を産まないと一人前じゃない──その社会通念の方が問題なのだ」と、きっぱり言っていた。

「体外受精や代理母の問題が出てくるのは、そういう手段を使ってでも子供を持たないと、まっとうな人間として認めてもらえないという考えがあるからなのよ。周囲がとやかく言うということと同時に、女性本人もそう思い込んでるのね。おまけに、養子じゃ駄目なわけ。血のつながった子供、お腹《なか》を痛めた子供。それにしがみついてる」

「気持ちはわかりますよ」と、私は言った「男だって侘《わび》しいもんです。自分のうしろに何も残せないというのはね」

 すると彼女は私の背中を張って、声を大きくした。

「あんたね、今そこでそうやってあんたが生きてるってことには、意味を感じないの? あんたはただの繋《つな》ぎってわけ? 子孫を残さなきゃ、あんたの存在意義はないんですかね? みんながそう思ってたらあんた、洞窟《どうくつ》の壁に絵を描いてたころに逆戻りしちゃうわよ」

 私は意地悪く考えたものだ。他人を慰めるにはいい台詞《せりふ》ですが、自分が同じ立場に置かれたら、果たしてそう言い切れますか──と。

 そしてもうひとつ、もっと大きな問題は、私が臆《おく》病《びょう》になっているということだった。

 同じ失敗を繰り返すのは忍びない。そう思っているものだから、心のその部分に、常にカバーがかかっているような状態になった。恋愛も結婚も、半ばは勢いでするものだ。最初から及び腰ではうまくいくはずもなかった。

(あなたにはわたしにそんな中途半端な人生を押しつける権利はないわ)

 子供のいない人生が、果たしてそんなに中途半端なものだろうか? 希望的にしろ「否《いな》」と言いたいじ、実際に「否!」と答える夫婦は多いはずだった。程の周囲だけでも、「とんでもない!」と否定する仲のいい夫婦を、二組知っている。

 だが私は自信がない。もろもろの葛藤《かっとう》を抱えながらも、一緒に「否!」と言ってくれる女性を見つけることができるかどうか──こちちの根深い欠落感を理解してくれるような、そこまで堅い信頼関係を築くことのできる相手とめぐり会えるかどうか──

 それはもう純粋に個人の問題だし、努力でどうなるというものでもない。限りなく保留、保留、保留だよ──というのが、今の本音だった。

 それなのに、その今になって、下手をすると小枝子に会わなければならないかもしれない。

 いったい何がどうなっているのだろう。なぜ彼女の名前が出てきたのだろう。考えても答えは見つからず、気がついたらもう他家へ電話をかけることのできるような時刻は過ぎてしまっていた。

 床にのばした足を組み替えると、靴下《くつした》の先に綿《わた》埃《ぼこり》がくっついてきた。最近掃除してなかったなと思った。だいたいが、寝に帰ってくるだけの部屋なのだ。

 着替えるのも面倒になってきて、このまま寝てもいいつもりで壁に頭をつけた。と、静かな部屋のなかに、かすかに「シュー」というような音がしていることに気がついて、目を開けた。

 やれやれ、まただ。

 どこかで水道が漏っている。口うるさい大家も、建物の老朽化ばかりはどうすることもできない。最近、よくこういうことがあるのだ。

 独特の水漏れ音を聞きつけるのは、たいてい私か、すぐ下の部屋に住んでいる脚本家志望の青年だった。二人とも、他の部屋の住人が寝静まっている時間帯に、起きてウロウロしていることが多いからだ。

 屋上へ上がり、給水タンクの元バルブを閉めて、大家の部屋のドアに、その旨《むね》を書いたメモを貼《は》っておく。夜明けと同時に起きだす大家はそれを見て、いつたんバルブを開けにゆき、住人たちがその朝必要なだけの水を使ってしまったら、またバルブを閉めて水道屋を呼びにゆくのだ。面倒でもそうしておかないと、一晩中どこかの部屋の壁のなかに水が漏れ続け、かえって手間暇くうことになる。

 シューという音は続いていた。かなりはっきり聞こえるところをみると、この部屋のどこしかで漏っているのかもしれない。まったく、今月は「みんなで高坂昭吾を苛《いた》めましょう」月間にでもなったのだろうか。

 仕方ない。慣れているから明かりがなくてもなんとかなる。よっこらしょと腰をあげて部屋を出、屋上に通じる外階段をあがり始めると、階上《うえ》の方で懐中電灯の光らしきものがチラチラした。

 階下《した》の部屋の青年だった。屋上の入り口の片開きのドアの前に立っていた。

「やっぱり?」と笑っている。

「お互いご苦労だよな」

「僕ら水道の見張り番みたいなもんですね。いいですよ、僕がやっときますから」

「じゃ、貼り紙は貼っておくよ」

「あ、そんならこれ使ってください」

 ご丁寧にワープロで打ってあった。

 外階段には、こちらは大家の堂々たる楷書《かいしょ》で書かれた「階段では静粛に廊下は清潔に」という貼り紙がある。厳命に従ってそろそろと降りてゆき──

 そこで見た。

 コンクリートの階段の上がり口に、ペイントか絵の具か、とにかくどぎつい赤色で、文字がひとつ書いてある。

 帰ってきたときにはこんなものはなかった。指で触れてみると、乾いてさえいない。

 文字をまたぎ、急いで袋《ふくろ》小《こう》路《じ》の出口まで行ってみた。誰がやったにしろ、たったあれだけの仕事だから、時間もかからなかったのだろう。猫《ねこ》の子一匹いない夜に、星がまたたいているだけだ。

 アパートの方へ戻ると、階段の脇《わき》に階下の青年が立って、足元を見おろしていた。私が近づくと、

「走っていくのが見えたから。これ、なんです?」

「なんだと思う?」

「普通これは──」彼は恐る恐るという感じで笑みを浮かべた。「僕の知ってる限りでは、『死』という漢字ですね」

「恨」の次は、「死」ときた。

「あんまり夜空がきれいだから、暴走族が浮かれ出てきたのかな? 『極悪』とか書かれないだけ、良かったですよ」

 神、空にしろしめす。なべて世はこともなし。

 嘘《うそ》だ。

「この段階じゃ、まだ警察はかまってくれん」というのが、生駒の第一声だった。

「おまえさんが刺されるか轢《ひ》かれるか撃たれるか硫酸でもぶっかけられない限り──」

「やめてよ、縁起でもない」

 コーヒーを運んできた佳菜子が、眉《まゆ》をひそめて言った。

「二人とも言霊《ことだま》っていうことを知らないんですか? 口に出して言うと、ホントになっちゃうのよ」

「ほほう」生駒は大《おお》袈裟《げさ》に感心した。「じゃあカコちゃんは、早く素敵な彼氏ができますようにって、毎晩唱えてるというわけか」

「サイテイ。だからオジンは嫌《きら》いよ」

 彼女が行ってしまってから、私は言った。「警察をあてにしちゃいないよ」

「そのぶっそうな落書きはどうした?」

 思わず笑った。「大家がこめかみに血管を浮かせて一緒に消してくれた。ただの悪戯《いたずら》だと思ってるけどね」

「事情は話してないんだな?」

「うん。ただ、戸締まりには注意するようにとだけ頼んでおいた。下手に話すと、言論の自由のために散弾銃の所持免許でも取りかねない爺《じい》さんだから」

「そういう爺さんが日本を支えてるんだ、小枝子さんの所在はわかったか?」

 私はメモ書きを見せた。結局、今朝電話したのだ。相手は私と彼女を引き合わせてくれたあの先輩で、本人は商社に勤めている。出勤|間《ま》際《ぎわ》につかまえたので、つべこべ質問されることがなくてちょうどよかった。

「でも、えらく疑うんだ。本当に緊急なのかと何度も訊かれたよ。俺《おれ》もよっぽど信用がないんだな。三年前の仇《かたき》をまとめて取る気でいるとでも思われたのかもしれん」

「いいじゃないか。それだけ先方が後ろめたく思ってるという証拠だ」

 生駒はメモを見た。「彼女、結婚したな」

 川崎小枝子。それが現在の名前だった。中央区の新富に住んでいる。この新橋から目と鼻の先だ。驚きだった。

「旦那《だんな》は?」

「学校の教師らしい。親父《おやじ》さんの弟子かな」

「行ってみよう」生駒はコーヒーを飲み干した。「もちろん俺も一緒に行く。おまえ一人じゃ一一〇番される」

「言ってくれるね」

「早い方がいい。明日でどうだ? 段取りは俺がつけておく。これはおまえ一人の問題じゃない。『アロー』の問題なんだからな」

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