「小田原に行くんだろ?」
立ち上がって上着を腕に通しながら、「電話ぐらいどこからだってかけられる。そうそう、おまえも電話だ。織田直也だよ。なんとかつかまえろ。一度は出たんだ。しつこくかければ念力も通じる」
念力はなかなか通じなかった。午前中いっぱい机に張りついて十分おきにかけてみたのだが、相変わらず呼び出し音が鳴り続けているだけだ。
痺《しび》れを切らして、無駄《むだ》を承知でNTTに掛け合ってもみた。
「お教えできません」
「じゃ、せめて局番だけでも。この局番は江戸川区のものでしょう?」
「はあ」
「どの電話局の管内です?」
「お教えできません」
いい会社だ。
資料|棚《だな》から江戸川区の個人別電話帳を引っ張り出してきて、「あ」からしらみつぶしにチェックすることにした。あいだに電話もかけ、受話器を顎《あご》の下にはさんで、鳴り続けるベルを聞きながら、細かな数字を追ってゆく。。寄り目になりそうだった。
「虫眼鏡が要りそうだね」
佳菜子が寄ってきてのぞきこみながら、口を出した。
「手伝ったげようか? もう一冊電話帳があれば、半分ずつ分担できるでしょ?」
ご好意に甘えることにしたが、ネをあげるのは彼女の方が早かった。
「ひとつ言ってみていい?」
「なんだ」
「電話帳に載せてない番号かもしれないわよね?」
「悲観的なことばっかり考えてると早く老《ふ》けるぞ」
「自分の方がよっぽど老けてるくせして。最近ね、白髪《しらが》が目立つよ」
「うるさい」
全部チェックし終えても、該当の番号は見当らなかった。
「これより古い電話帳はある?」
「あるけど──まだ探すの? 意外と執念探いんだなあ。これに載ってないなら、古いのにだってないんじゃない?」
「可能性はあるだろ? なにかやってないと間が持たないんだよ」
はいはいと言いながら、佳菜子は古い電話帳を取ってきた。一冊しかないというので、「ありがとう、もういいよ。助かった」
今までなら、あっさり(お礼に昼飯おごるからな)とでも言うところだった。それがあっさりとはいかなくて、ためらっているあいだに、佳菜子は先回りしてきた。
「ねえ高坂さん、お昼おごってくれない?」
「──いいよ」
「よかった。場所、決めてあるんだ」
銀座四丁目の方まで引っ張っていかれた。新しく開店したイタリアン?レストランがあるんだ、という。
少し時間をずらして出てきたので、さほど待たずに済んだが、店は満員だった。席に落ち着くまではなんだかんだと無駄話をしていたくせに、いざ向きあって座ると、佳菜子は急に無口になった。テーブルの上の一輪ざしにさしてある薔薇《ばら》の花に触れてみたりして、視線をそらしている。
しばらくして、「なんでわかったのかな?」と、唐突に訊《き》いた。
「この前のコンサートのこと。あれ、嘘だったの。あたし、最初からチケット二枚買ったんだ。でね、高坂さんを誘う言い訳をいろいろ考えてたの。それ、どうして知ってたの? 立ち聞きしてた?」
透視能力のある男の子が教えてくれたんだよ、とは答えられなかった。佳菜子は二重にからかわれていると思うだろう。
「年の功」と言うと、彼女は楽しそうに笑った。
「やあね。そんなに歳《とし》じゃないわよ。白髪があるなんて嘘だよ。一本もないじゃない」
「それを聞いて安心したよ。ここんとこで急に老けたような気がしてたから」
「ヘンなことやってるからよ。超能力だって。似合わないって言ったでしょ?」
テーブルに両《りょう》肘《ひじ》をついて顎を載せると、口元をわずかにほころばせて、言った。
「もっとびっくりすること教えてあげようか?」
「うん」
「あたしね、あの夜、行ったの」
「どこに」
「高坂さんのアパート」
じっと見ていると、佳菜子は上目遣いでちらっと見上げてきた。まだ笑っている。
「怒った?」
「怒りゃしないけど……」
「確かめたかったんだ。デートだったんでしょ? 先約があるって言ってたじゃない。だからさ、どんな女の人と一緒に帰ってくるのかなあと思って。音楽聴きながらそのこと考えてたら、たまらなくなっちゃって、エイッて行っちゃったの」
あの晩何をしていたかと言えば生駒と飲んでいたのだった。彼がリアルタイムで知っている、昭和四十九年の超能力ブームの話から始まって、最後の方はお互いに何がなんだかわからなくなっていた。帰宅したのは午前三時すぎのことだ。
「何時ごろまでいたの?」
「二時ちょっとすぎだったかな。プー太郎みたいに、廊下に新聞紙を敷いて座ってたの」
翌日遅刻したわけだ。
「高坂さん、帰ってこなかったから」佳菜子は両手で頬《ほお》を押さえた。「ああ、これは女の人のどこに泊まっちゃったんだなあと思って、それであたしも帰ったの。言っとくけど、泣きながら帰ったんだぞ」
料理が運ばれてきたので、佳菜子は身体《からだ》をテーブルから離した。ウエイターが行ってしまうと、「ごめんね」と言った。
「ご飯食べながらできる話じゃないけど、こういうふうにしないと、二人きりで話すチャンスなんて、もう来ないと思ったんだ。あたしのこと、飲みに連れてってくれることなんか、もうないでしよ?」
これまでも、二人きりで出かけたことは一度もなかった。いつもほかに誰かいた。佳菜子の様子がどうも妙だなと思い始めてからは、そういうこと自体がめっきり減っている。
「自分で播《ま》いたタネだね」と、佳菜子は薄く笑った。
「あの夜うちに帰ったらね、お姉ちゃんが起きてて、『あんた大《おお》馬鹿《ばか》ね』って叱《しか》られちゃった。『一人相撲とってるだけじゃない。どうしてもその人が好きなら、もっと巧《うま》く立ち回りなさいよ。駆け引きよ、駆け引き』だって。うちのお姉ちゃん、その道にかけちゃ百戦|錬磨《れんま》の戦士なの」
その道の言葉の意味も、よくはわかっていないのだろう。すぐ間近に見る佳菜子の頬には、まだ産毛《うぶげ》が光っていた。
「ねえ、教えてほしいんだ」と、顔をあげた。「高坂さんの恋人、どんな人? ああこれじゃ負けてもしょうがないやって思える人だったなら、あたし、諦《あきら》めがつくもの。きれいな人? 歳、いくつ? ?お料理上手?」
私が口を開こうとすると、おっかぶせるように訊いた。乗り出している。
「昔ね、いろいろ噂《うわさ》があったってことは知ってる。だから高坂さん、慎重になってるんだって。森尾さんに聞いたの。『よした方がいいよ、高坂さんはカコちゃんの手に負える人じゃないよ』って言ってたわ。ホント? 昔のことって、そんなにひどいことだったの? そんなに傷ついた?」
隣のテーブルの客がこちらを見ている。目顔でそれを知らせると、佳菜子は口を閉じて座り直した。
何からどう話してやろうかと、少し思案してから、私は言った。「連打でくるなあ」
「何が? あたし?」
「カコちゃんじゃないよ。その『昔のこと』ってヤツだ」
佳菜子は日を見開いた。「まだ続いてるの?」
「続いてるわけじゃないけど、思い出す機会が増えてる」
「辛《つら》い?」
その顔が本当に心配そうだったので、心が動いた。こういう話をするのに真っ昼間のレストランを選んだ佳菜子は賢明だと思った。
「カコちゃんにも、人に知られたくない話はあるだろ?」
「……うん」
「俺にもある。本当のところを知られるのが嫌《いや》だし、関《かか》わった相手にも迷惑なことになるから、黙って噂をやり過ごしてるわけだ。どっちにしろ、もう終わったことだしな」
「そうね。そうなんだろうね」
できるだけ言い聞かせるような口調を保って、私は続けた。「森尾の意見は、正しいと思う。俺はカコちゃんの手に負える男じゃないよ」
佳菜子はすうっと青さめた。
「もっとほかに、カコにふさわしい男がいる。カコの気持ちにちゃんと応《こた》えてくれるやつがね」
かなり長いことまばたきばかりしてから、佳菜子はつぶやいた。
「あたし、同年代の人なんてやだ」
「そう思い込むなよ」
「だけど、あたしの友達は、つい最近、十五歳も年上の人と結婚したのよ。すっごく幸せよ。そういうこと、あるもん」
内心、私は生駒の眼力に舌をまいていた。やはり娘を持つ現役の親父だ。どんぴしゃりだった。
「それはその二人だけのことだ。だからいいじゃないか、というわけにはいかないよ」
「高坂さん、あたしのこと嫌い? 嫌いならしょうがないけど、好きなら──」
「好き嫌いだけでいいのか? 先のことは考えない? あとはどうなってもいいやと思うか?」
「うん」
「そんなに自分を安売りするもんじゃない」
今度はまばたきの効果がなくて、佳菜子の頬を涙が一粒滑り落ちた。涙は口の端まで流れ落ちて、やわらかなくちびるの線に沿ってぼやけていく。それが引き金になったかのように、くちびるも震え始めた。
「カコのお姉さんが『駆け引きよ』と言ったのは、もっと自分を大事にして恋をしろ、という意味だよ。突っ走るばっかりが能じゃない。ディフェンスがら空きじゃ、相手がとんでもない野郎だった場合、どうする?」
「高坂さん、とんでもない野郎なの?」
「男はみんなとんでもない野郎だよ。相手に応じて、誰だってとんでもない野郎になる。そう思ってた方がいい」
顔についたゴミでもはらうような仕草で涙を拭《ふ》くと、佳菜子はしゃにむな感じでフォークを取り上げた。
「とんでもない野郎でもいいもん、どうしたらとんでもない野郎になってくれる?」
「俺がとんでもない野郎になるってことは、カコをそういう女として扱うってことだぞ。わかって言ってるのか?」
「いいじゃない、減るもんじゃなし」
意地になって言っていることで本気ではないと思ったが、これには参った。
「そういう考え方があっているかどうか、お姉さんに訊いてごらん」
佳菜子は挑《ちょう》戦的《せんてき》に顎をあげた。「あたし、またアパートへ行くかもよ。どうする?」
責任持てないぞ、と言いかけて、階段の上がり口にあったどぎつい文字を思い出した。
「冗談抜きで、厳禁だ。絶対に駄目だ」
「なんでよ? そんなに──」
「このこととは無関係に、駄目だと言ってるんだよ。危ないから」あわてて言い足した。「あの辺は治安が悪いんだ。若い女の子が夜一人でふらふら歩ける場所じゃない。暴走族の車にでも引っ張りこまれたら、どんな目にあわされるかわかったもんじゃないだろ。いいな?」
何度も念を押して、やっと「はい」と答えさせたが、心《こころ》許《もと》なかった。
「カコの気持ちはよくわかった。うれしいよ。うれしいけど、『はい、そうですか』というわけにはいかない。小学生の交換日記なんかとは違うんだ。それに、カコだってそうだろうけど、好かれて悪い気のする人間なんていないんだからな。だから、気をつけろと言ってるんだ」
うつむいたきり、黙っている。
「お姉さんとよく話してごらん」それしかもう言いようがない。「俺よりうまく説明してくれるだろうから」
軽く鼻をすすってから、佳菜子はつまらなそうに言った。「『その人と話をするんなら、ほかに人の大勢いるところで、昼間にしなさいよ』って、お姉ちゃんが言ったの」
まことに、佳菜子の姉さんは百戦錬磨なのかもしれない。
7
日がな一日電話ばかりしているわけにもいかない。この一回、これで駄目だったら今日は終了だと思って、あの番号へかけてみた。二時五分すぎだった。
「出ろよ、くそったれ」
悪態はついてみるものだ、受話器があがる音がした。
「もしもし?」
また、あのかすかに金属がきしむような音が聞こえる。人の気配もする。
「織田君か? 高坂だよ。『アロー』の高坂だ。話したいことがあって君を探してる。今どこにいる?」
ひと息に言うと、沈黙が返ってきた。
「織田君じゃないの──」
そのとき、軽いとんとんというような音が伝わってきた。指先で送話口を叩《たた》いているらしい。
「もしもし?」
まだ叩いている。少しイライラした感じで、私が話しだそうとすると、しゃべらないでこれを聞いてくれというように、音も強まった。
電話に人が出ている。でも話をしないで、指で受話器を叩いている。どういうことだ?
それで、やっと気がついた。
「言葉がわからないんですか?」
叩く音は早まった。
「そうじゃない? 言葉は通じてるんですね?」
叩く音がゆっくりになる。
「じゃ……」あとはなんだろう?
あっと思った。
「失礼ですが、あなたは話ができない? 声を出すことができないんですか?」
叩く音がまた早まった。そう、そう、そうなんです!
「じゃ、こうしてください。こちらから質問しますから、イエスのときには二回、ノーのときには一回、受諾器を叩くんです。いいですか? そうしてもらえますか?」
二回、叩く音がした。
私はあらためて名乗り、織田直也のアルバイト先の履歴書にこの番号が書かれていたことを説明した。
「あなたは織田直也君のご家族ですか」
ノー
「友達?」
イエス
「彼はこの電話のあるところに住んでいるんですか?」
ノー
「以前、住んでいた?」
イエス
「場所を教えてください。江戸川区ですね」
イエス
「町名を読み上げますから、そこの町にきたら受話器を叩いてください」 東小松川だった。
「じゃ、番地の数だけ、受話器を叩いてくれますか?」
四
「四丁目?」
イエス。次は早かった。
「六十回かな。六十番地ですね?」
イエス。次は二回。
「二号、と。一戸建ですか?」
ノー
「アパートかな?」
少し間があってから、イエス
「織田君がそこからいなくなったのは、つい最近のことですか?」
イエス
「行方をご存じで?」
ノー
「あなたも心配しておられる?」
イエス、イエス
「これから伺ったら、会っていただけますか。侯も彼を探してるんです。手かかりが少ないんで、お話を伺えると助かるんですが」
イエス
「部屋番号を教えてください。三|桁《けた》かな?」
ノー
「一桁だ」
イエス。そして二回受話器が叩かれた。
「二号室ですね。じゃ、これから伺います。ありがどう」
都営新宿線の船堀《ふなぼり》駅から、歩いて二十分ほどの場所だった。荒川を背にして、やや傾いた木造アパートが立っていた。壁のモルタルに、直接ペンキで「第二日ノ山荘」と書いてある。二号室を探す必要はなかった。アパートの入り口のところに、コットンパンツに白のブルゾンを着た若い女性がいて、少し寒そうに両手で肘を抱きながら、通りの方を眺《なが》めている。
私が近づいていくと、その手をほどき、身振りで(電話の方ですか?)という仕草をした。
「ええ、そうです。あなたが?」
彼女は大きく頷《うなず》いた。頭のうしろでゆるく結ってある長い髪も、一緒に頷いた。
織田直也の恋人を見つけたのかな、と思った。
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[楼主] [4楼] 作者:滄炎沁夢2005 发表时间: 2008/04/13 19:53 [加为好友][发送消息][个人空间]回复 修改 来源 删除第四章 予 兆
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1
彼女は足元に、子供がお絵書きに使うような、小さなホワイトボードを置いていた。身をかがめてそれを取り上げると、手早くこう書いた。
<三《み》村《むら》七《なな》恵《え》と申します。このアパートの近くにある、みどり幼稚園をいうところで保母をしています>
了解したしるしに大きく二度|額《うなず》いてから、私は訊《き》いた。
「織田《おだ》君とは古くからのお知り合いですか?」
前の文章をひと拭《ふ》きで消すと、七恵は書いた。
<彼がここへ引っこしてきたのは、半年ぐらい前のことでした。トモダチになったのは、ここ三ヵ月ぐらいのことです>
「親しくされてたんですね?」
ちょっと考えてから、
<そう言っていいと思います>
三村七恵はこうした形の会話に慣れているのだろう。長めの文章でもすらすらと書くし、文字もきれいで読みやすい。面倒な漢字を片仮名で代用するのは、書く手間を省いてスピードをあげるためだろう。
だが、質問の答えをもらうために、相手の脇《わき》に立って綴《つづ》られてゆく文字を眺《なが》めているというのは、少し間のとりにくいものだった。
「面倒をおかけして、申し訳ない」
特に深く考えたわけではないのだが、こちらの早口な質問にテンポを合わせようと、彼女が一生懸命手を動かしているのを見ていて、ついそう言ってしまった。
すると七恵はきょとんとした。(は?)というように首をかしげる。
「いや──その、いつもこんな形で会話をされるんですか?」
七恵は頷いた。
「手話は?」
また頷く。
「僕もできればいいんですがね。それなら、あなたもずっと楽でしょう」
七恵は軽く目を見張った。もの珍しそうに私を見上げ、それからホワイトボードに、<気をつかわないでください。わたしは慣れてますから>と書き加え、にこっとした。
笑うと、目尻《めじり》に薄く笑いしわが浮いた。二十代の半ばぐらいだろう。ほとんど化粧をしていないので、鼻のまわりに散っているソバカスが、はっきりわかる。切れ長の目は一重まぶたのように見えたが、彼女がまばたきをすると、奥二重なのだとわかった。
普通は、初対面でいきなりこれほど顕微鏡的な観察はしないのだが、七恵は別だった。そばに寄らないと会話ができないのだから。そして、彼女から声を奪った横暴な運命も、この点に関しては彼女に譲歩していた。三村七恵は、一見して近寄りがたい感じを与える女性ではない。同時に、近づいていった人間に、必要な礼儀を守らせるだけのしゃんとした雰《ふん》囲気《いき》も備えていた。近づいてゆく人間が酔漢やチンピラでない限りの話ではあるが。
並んでいて私の耳の高さにまで届くくらいだから、女性にしては背が高い方だ。ペンを握る指も長い。右手の薬指に、凝った細工の銀の指輪をはめている。右手の指だということで、ふと安心した自分が可笑《おか》しくなった。
「彼はいつごろいなくなったんですか?」
七恵の返事は、ガソリンスタンドの店長の言葉と符合するものだった。織田直也は仕事を辞め、そのまま住まいも出ていったのだ。
<夜中だったようです。朝おきたら、わたしの部屋のドアの下に書きおきがありました>
もしよければそれを見せてもらえないか──と切りだす前に、ひとつ確かめておく必要を感じた。
「いきなり不《ぶ》躾《しつけ》で申し訳ないんですが、あなたは織田君の恋人だったんですか?」
七恵の方が彼より年齢は上だが、それは関係ない。だが、彼女はクスッと笑うと、はっきり首を横に振った。
「ただの友達?」
頷く代わりに、<そうです>と書いた。<わたしには弟みたいな人でした>
「彼もそう思ってたんでしょうか」
七恵はまた笑った。声を出さないから、理屈で言えば彼女の笑顔はすべて「頬《ほほ》笑《え》み」なのだろうが現実には違っていた。ちゃんと区別がつく。頬笑んでいるときと、可笑しそうに笑っているときと。
<人の考えることはわかりませんが、わたしはそう感じてました>
私があやふやな顔をしていたのだろう。彼女は書き足した。
<織田さんは礼儀正しい人でしたよ>
勘繰らないでください、と言われたようで、黙って頷くしかなかった。
七恵は笑みを消し、真顔に戻ると、私から一歩離れ、書いているあいだは覗《のぞ》き込まれないようにして、初めて途中で手を止めて考えたりしながら、かなり長い文章を書いた。それを私に見せるとき、表情が一段と深刻になった。
<織田さんがいなくなったことと、あなたが彼をさがしていることとのあいだには、なにか関《かか》わりがあるのですか? 彼がどうしていなくなったのか、あなたはご存じなのですか? もしそうだとしたら、わたしはそれを知ることができますか? あるいは、わたしの方であなたになにか教えなければならないのだとしたら、わたしにはすぐには、そうしていいかどうか判断がつかないのですが。どんな小さなことに関してでも>
それを読んでいるあいだ、七恵の巌しい視線を顔に感じた。非常に大きな意味で誰何《すいか》されているのであり、彼女ははっきりと、自分が織田直也の側についている人間であることを宣言しているのだ。これまで会ってきた人たちとは、そこが違う。
ホワイトボードを彼女の手に返して、私は言った。
「彼が姿を消したのは、たぶん僕のせいだろうと思います」
七恵はきゅっと眉《まゆ》を寄せた。
「ただ、僕が彼を探しているのは、まずは心配だからですよ。今はそれがいちばんです。彼、病気のように見えませんでしたか? ひどく身体《からだ》が弱っていたでしょう」
目を伏せて、七恵は頷いた。長い文章を消し、
<それはわたしも心配しているんです>
「医者にかかっているような様子はありましたか?」
かぶりを振る。
「やっぱりそうですか」
足元を見つめ、話すことを組み立ててから、私は訊いた。「織田君の友達の、稲村慎司という高校生のことはご存じですか?」
七恵は驚いたようだった。前の文章を消さず、その上にかぶせるように、<どうして彼のことを?>
「元はと言えば、僕は稲村君を通して織田君と知り合ったんです。顔を合わせたことは一度しかないんですがね」
慎司のことまで話していたのだとすると、織田直也は確かにこの三村七恵を信頼していたのだ。ストレートに話していい相手が、初めて見つかった。
「彼ら、特殊な能力を持っているようでした。そのことは気がついていましたか?」
かなり長いこと、七恵はまじまじと私を見つめていた。
「その能力が、織田君の健康を害《そこ》なっているらしい。その能力のために、彼は有形無形の苦労を味わっているらしい。そのことを、僕は稲村君から聞かされたんです。彼も今、織田君のことを案じています。織田君を呼んでみてくれるように、頼んではあるんですが」
目をそらし、顎《あご》を引いてじっと考えてから、ホワイトボードを胸に抱き、軽く頷いて、七恵はアパートの入り口の方へと身体を向けた。片手で、(どうぞ)というように、奥を指し示すと、先に立って歩いていく。
それまでずっと、彼女が張り番のように立ちふさがっていた入り口を通り抜けて、私は足を踏み入れた。ほんの少し前まで、織田直也の休息の場所となっていた、古びたアパートのなかに。
コンクリートの廊下に沿って、木製のドアが四つ並んでいた。いちばん手前が一号室。三村七恵は、自室である二号室の前を通りすぎ(『三村』という小さな名札が出ていた)、三号室の前に置いてある小さな赤い三輪車をよけて、四号室の前で立ち止まった。
「ここが彼の住んでいた部屋ですか?」
七恵は頷き、背伸びして頭上に手をあげると、四号童のドアの木枠《きわく》の上から、小さな鍵《かぎ》を取り出した。
「勝手に入って、あなたが家主さんに叱《しか》られることはありませんか」
彼女は笑って首を振り、鍵を開けドアを開き、爪先《つまさき》でストッパーを軽く脚《け》って、ドアを開いたままに固定してから、先に部屋のなかに入っていった。入り口の脇で待っていると、窓を開ける音がして、七恵が戻ってくると、私を目顔で促した。
玄関とも呼べない靴脱《くつぬ》ぎのスペースをあがると、すぐ台所だった。板張りで、四畳半程度の広さだ。その向こうに、ガラス戸で仕切られた六畳間がある。
もちろん、家具は何もない。人の痕跡《こんせき》も、匂《にお》いも残っていなかった。
正面にはカーテンのかかっていない窓が開いており、狭いベランダがあるが、すぐ隣に軒をくっつけるようにして別のアパートが立っているので、眺望《ちょうぼう》はゼロに等しい。私の方向感覚が聞違っていなければ、窓は南側にあるはずだが、これでは目当たりも良くないだろう。
だが、この第二日ノ山荘は、見かけよりは遙《はる》かにしっかりした造りのアパートだった。入り口のドアは木製ではあるが、分厚い板で、しかもモノロックの鐘のほかに、チェーンと閂《かんぬき》がつけてある。窓は比較的新しい感じのアルミサッシだし、ちゃんとクレセント型の二重錠でロックできるようになっている。網戸もあるし、のぞいてみると、サッシと対になった防音雨戸も取り付けてあった。
ベランダには外置型の集中給湯器が据《す》えてあり、台所と、小さなユニットバスに二点給湯できるようにしてある。これでエアコンを取り付けることさえできれば、外見はともかく、住心地はちょっとしたマンションと同じ程度に快適だろう。
借家佳まいで転々としているとわかることだが、ときどき、こういう掘出物の物件があるのだ。そして、そういう物件をうまく発見する勘のいい人間もいる。織田直也は、どうやらその種の人間の一人だったようだ。まあ、もしも彼が、(慎司の主張しているとおりに)サイキックだとしたなら、その能力は部屋探しにも役立つものだったのかもしれないが。
これなら、まあ安心だろう──と思って、何が安心なんだ? と考えた。それで気がついた。この部屋のなかを点検しながら思っていたのは織田直也のことではなく、三村七恵のことだった。いったい、こんなぼろアパートに若い女性が一人で暮らしていて危なくないのだろうかと、しきりにそればかり考えていたのだ。
私は意識して思考を元に戻した。何しにきたのかわからなくなっては困る。
「電話機がありませんね」
振り返ってそう尋ねると、七恩が頷いた。彼女は台所の流しの脇に立ち、片手をシンクの縁に置いていた。
「そうすると、僕がかけた番号は、あなたの部屋のものですか? それともどこかに共同のピンク電謡でもあるんですか?」
七恵がホワイトボードに答えを書き始めたので、失敗したなと思った。イエスかノーかで答えてもらえる質問なのに、わざと手間をくうような聞き方をしてしまった。
<あれはわたしの部屋の電話です>
「じゃ、彼と電話を共有なさってたんですね?」
七恵は首をかしげた。
「共有ではない?」
こっくりと頷く。
「履歴書に書く都合上、番号だけ貸してくれと頼まれたんですか?」
七恵は続けて二度頷いた。(いろいろご不審はあるでしょうけど、事実はそうなんです)という顔をしていた。
「だけど、それでもし織田君に電話がかかってきたら、困るでしょう」
七恵は書いた。<まずかかってこないから大丈夫、と言ってました>
「でもね、普通はそう言われても──」
彼女はクスッと笑い、すぐその笑顔を消して、手早く書いた。ホワイトボードを裏返してい私に見せるときの勢いに、初めて、ちらりとではあるが、苛立《いらだ》ちに近い感情が混じっていた。
<どうしても、わたしと織田さんを恋人同士になさりたいみたいですね。でも、本当にそうだったなら、とっくにいっしょの部屋で生活してますよ>
私がそれを読み終えると、口を開くだけの間をくれずに、七恵はすぐ次の文章を書いた。
<わたしたちは友達でした。なかなか理解してもらいにくいでしょうけれど>
「わかりました」と、私は言った。(わかってるはずないわね)という表情で、七恵は書いたものを消した。
「家具の痕《あと》が見えませんね」平らな畳に目をやりながら、言ってみた。
七恵はすぐ答えた。<さいしょから、なにもなかったんです>
「不便じゃなかったんでしょうかね。そんな話をされたことはありますか」
<ありますけど、織田さんはさほど不便には思ってなかったみたいです。近くにはコインランドリーがありますし、食事は外食や、できあいのものを買ってきてすませてるといってました>
ちょっと考えてから、やや面倒臭そうな表情で、<わたしがつくってあげたこともありますけど>と書き足した。
「友達としてね」と言うと、七恵は頑固《がんこ》な感じで頷いた。
ややあって、私は思わずふき出した。と、彼女も笑いだし、笑いながら、<わたしはウソをつけないんです>と書いて見せてくれた。
「ええ、よくわかりました」
押し入れを開けてみた。なかは空で、綿《わた》挨《ぼこり》が隅《すみ》の方で丸まっている。
「彼、出ていってから、ここへは戻ってきてないんですね?」
七恵は頷いた。
「連絡は?」
彼女は目を伏せた。本当に嘘《うそ》の下手な女性だった。
「あったんですね?」
かなりためらってから、<一度だけ、電話がありました>
「いつです? なんて言ってました?」
<一昨日の夜です。わたしがどうしているか気になったから、と言っていました>
「人が訪ねてこなかったか、訊いてませんでしたか?」
<訊きました>
「僕のような人間がこなかったか、と」
<そうです>
「もしきたら、自分のことは知らないと話してくれと言ってませんでした?」
七恵は疲れたように頷くと、私に背を向け、流しの水切り台にホワイトボードを乗せて、長い文章を書いた。
<織田さんは、はっきり、アローという雑誌の記者がくるだろうと言ってました。わたしに、自分のことを話すとヘンなことにまきこまれるから、なにもいわないようにと言いました。でも、それだけで、深い事情についてはおしえてくれませんでした>
「織田君のこと、というのは、彼の持っている、普通の人にはない能力のことですか」
七恵は口を結んだまま、私の顔を見つめていた。さっき、初めてこのことに触れたときと同じだった。
「それについては答えていただけませんか?」
頷《うなず》くという簡単な答え方ではなく、七恵は書いた。
<はい。できません>
「だけど、あなたは知らぬ存ぜぬで僕を追い返しはしなかったでしょう? 電話にも出てくれた。なぜです?」
織田さんが心配だからです──と、彼女は書いた。
<彼は逃げているようですけど、逃げる必要がほんとうにあるのかどうか、わたしにはよくわからないから。なにがどうなっているのか、わたしも知りたいんです。織田さんになにかしてあげられることがあるのかどうか>
「それこそ、僕も知りたいことなんですよ」と、私は言った。
2
監視というのは、どうも性にあわない。
だが、今ほどうしてもそれが必要だった。三村七恵を見張っていれば、必ず織田直也が現われる──そう思ったから。
一度第二日ノ山荘を離れ、ふらふらと辺りを歩きながら、適当な場所を探した。幸い、すぐ近くにかなり広い青空駐車場があり、そこに車を停《と》めておけば、アパートの出入口をまっすぐ見通すことができるとわかったので、すぐに杜に電話を入れた。原稿取りのアルバイターをつかまえて、車を一台都合してきてくれるよう頼むと、一時間ぐらいで、古ぼけた白いカローラがやってきた。
<無断駐車を発見した場合は、その湯で一ヵ月分の料金をいただきます>という看板の下に停めてもらうと、乗りこんだ。彼も慣れたもので、
「一応満タンにしてあります。双眼鏡と、これ、夕飯です」と、ファーストフード屋の紙袋を放《ほう》ってよこした。「誰かに連絡しておく必要はありますか?」
「生駒《いこま》が帰ってきたら、俺がどこにいるか教えてやってくれよ。それと、もしここへ来るんだったら、靴を脱いで手にぶらさげて、おしとやかに来いってな」
「了解。じゃ、頑張ってください。あ、そうそう、ポケベルの音量はさげておいてくださいよ。ピーと鳴って張り込みがおじゃんじゃ、カッコ悪いもんね」
「誰かそんなどじを踏んだやつがいたっけ?」
「デスクですよ」
シートに身を落ち着けて、彼の忠告に従うと、あとはただ待つだけだった。勝算があったわけではなかった。ほとんど勘──それも希望的観測に近いものでしかない。
だが、直也は一昨日電話をかけてきていた。七恵がどうしているか気になったから、と。彼女との連絡を断つ気はない。気遣っているのだ。
今夜も電話をかけてくるかもしれない。あるいは、私が訪ねていったことで困惑し、直也への心配の度合いを深めている七恵の方から、なんらかの手段で彼と連絡をとろうとするかもしれない。