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第二章 波 紋 .8

作者:日-宫部美雪/宫部美幸/宮部みゆき 当前章节:15390 字 更新时间:2026-6-16 01:47

 なんらかの手段で。

 あるいは彼女は私に嘘をついていて、直也の新しい連絡先を知っているのかもしれない。そして、あの受話器を叩《たた》くやり方で──

 それとも、稲村慎司と同じように、空に向かって彼を<呼ぶ>のか。

 どちらにしろ、直也がここへ現れるか、どこかへ七恵を呼び出すという確率は、賭《か》けてもいいだけの高さになっている。イエス?ノー以上のこみいった話をしようと思ったなら、彼は彼女に近づかなけれぱならないのだから。

 午後六時ごろまで、七恵は一歩も外に出なかった。一度、廊下の窓を通して、ドアを開けて出てくる彼女を見かけたが、出入口のところにある郵便受けから夕刊を取り出すと、すぐに部屋に戻ってしまった。私は緊張を解いた。

 と、そのあとすぐに、今時めずらしい古風な形の買物|籠《かご》をさげて、外へ出てきた。白いブルゾンが、暮れてきた町のなかに、いくぶん寒そうに、くっきりと浮かび上がる。私は車を出て、そっとあとを追った。

 ただの買い物だった。目と鼻の先に、呆《あき》れるほどくねくねと長い商店街があって、彼女はそこへ入っていった。一昔前なら、主婦や子供たちでごったがえしているなかに、背広の男というのはかなり目立ったものだが、最近では帰宅途中に買物をするサラリーマンが、さほどめずらしくなくなっている。人込みに紛れながら、時おり魚屋の店先の品を値踏みするような顔をしたり、電話をかけるようなふりをしていれば、うまく隠れることができた。

 商店街のなかほどに、大きなよろず屋という趣のスーパーがあり、七恵は買物の大半をそこですませていた。一気に重そうになった買物籠をさげ、途中で八百屋に寄り、店先に出されていた柿《かき》を一山買った。商談は手振りで済み、応対した八百屋のあるじは、彼女に挨拶して、 「七恵ちゃん」と呼んだ。彼女の障害など、なんということもないというふうに見えた。

 ここは彼女にとって、住みやすい町なのだ。少なくとも、他所《よそ》よりは。

 八百屋を出ると、七恵の足はまっすぐアパートに向かった。買物籠はたっぷりふくらんでおり、彼女はときどきそれを持ち直しながら歩いた。そのたびに、寵から飛び出している青い葱《ねぎ》の束が揺れた。

 客がくるな、と思った。一人住まいの女性が、これだけ買物の便のいい場所に暮らしながら、買い溜《だ》めをするとほちょっと考えにくい。

(わたしがつくってあげたこともありますけど)

 可能性の目盛が、一段跳ね上がった。

 同時に、ほんの一瞬ではあったが、知り合いなら、そしてこういう目的で尾《つ》けているのでなかったら、近寄っていってアパートまで荷物を持ってやるんだがな、とも思った。

 織田直也なら、そういうことがあったかもしれない。ぽんと彼女の背中を叩き──いや、そんなことをしなくても、うしろからさっと手を出して籠を持ってやれば済むことだ。こんばんはと声をかけて。びっくりした? と笑いながら。

 第二日ノ山荘の二軒手前で、彼女が部屋に入るのを確認してから、車へ戻った。

 八時をまわったころ、雨が降りだした。霧雨《きりさめ》で、窓から手を出してもしばらくは降っているのかいないのかわからない程度だったが、視界は悪くなった。窓を下げて、監視を続けた。

 こういう作業をしているとき、相棒がいれば、無駄《むだ》話《ばなし》をして時間をつぶすことができるが、独りでいるときは、退屈と眠気と戦いながら、ただつくねんとしているしかない。ラジオも音楽もかけられないし、読書など論外だ。

 ただ、今夜に限っては、さほど退屈を感じなかった。しきりと七恵のことを考えていたから。

 声のない生活とは、どんなものだろう──

 電話をかけられないということの不便さは、かなりのものだろう。それでも彼女が自室に電話を引いているのは、外からの緊急な通信を受けるためだろうか。あるいは、親しい友達にでも頼んで、急病や変事のときのために、それに見合うような言葉をテープにでもいれてもらってあるのかもしれない。まさかのときは、レコーダーのスイッチひとつ押せばいいように。

 彼女の親兄弟はどこでどうしているのだろう。娘の独り暮らしは、それでなくても心配だろうに。もう亡《な》くなっているのか。

 保母だと言っていだけれど、どんなふうに仕事をしているのだろう。彼女は聴力を欠いてはいないから、オルガンをひいて子供たちに聴かせることや、いっしょにお遊戯をしてやることはできる。ひょっとすると、同じような障害を持つ子供たちを受け持っているのかもしれない。

 三村七恵には、悲壮な雰《ふん》囲気《いき》がない。ごく自然体で生活しているように見えた。不安や恐怖を抱いているのだとしても、そのために背中を丸めてはいない。それは彼女の精神が強靭《きょうじん》であるからかもしれないし、彼女の置かれている環境が──想像することしかできないが──比較的恵まれたものであるからかもしれない。

 恵まれたもの。

 いや、それが当然なのだ。なにかの形でハンディを背負っている人間が生きやすいようにできていなければ、文明国とは言えまい。

 事故や、病気や、あるいはただ歳《とし》をとっていくだけでも、人は弱くなる。生きていくうえで、さまざまな支えを必要とするようになる。私もこのまま独り身で老いていったなら、いつかは何かの世話にならなければ生きていけなくなるのだ。他人ごとじゃない。

 電気仕掛けで卵を泡立《あわだ》てる機械を作れる国なのだから、なぜもっと、本当に<便利さを必要としている>人間のためになるように、その技術を活《い》かすことを考えないのだろう。自分でなんでもやれる人間を甘やかし、怠脩にさせる道具ばかり発明しているくせに、ある一点、二点で機械や動力の補助を必要としている人間に対しては、やれ強くなれの、やれ我慢しろのと平気で言っているような気がする。たとえばテレビ電話が早く実用化されれば、聴覚障害者はどれだけ助かるか──

 そんなことを考えるのも、つまりは三村七恵に会ったからだし、彼女に出会って、彼女に好意を持たなかったなら、私だって普段はこういうことを意識してはいないのだ。能天気に、そのうち誰かなんとかするさ、と思っているだけで。

 降りしきる霧雨の向こうに、第二日ノ山荘の明かりがぼんやりとにじんでいる。

 あの屋根の下にいたとき、織田直也は、七恵にとってどんな存在だったのだろう、と思った。

 もし──彼が本当に他人の心を読む力を持っていたのなら。七恵は手話を使わず、ホワイトボードもなしで、彼と<会話>することができたかもしれない。それこそ自由自在に、笑ったり、はしゃいだり、ごく当たり前のように<会話>ができた。壁ひとつ隔てたところで、彼女が困っているとき──なんでもいい、どんな小さなことでも瓶詰《びんづめ》めの蓋《ふた》が開かなくて往生しているのでもいい──彼なら、スッとそれを察して手を貸すことができたろう。深夜、近くの駅から、七恵が一人で帰ってこなければならないとき、彼なら、電話で呼ばれなくても、彼女を迎えにいくことができたはずだ。いざというとき大声で助けを呼ぶことのできない女性が、夜道を一人歩くのは、恐ろしい以上のことだろう。七恵は彼に、安心して頼っていたかもしれない。

 彼ならなんでもできた。まさにオールマイティに。七恵の力になってやることが。

 もし本当にサイキックだったなら。

 だが、彼はそれを多くの人に知られることを望んでいない。だから、七恵のことを気にかけながらも、ここを引き払っていったのだ。

 稲村慎司はこのことを知っていたのだろうか──と考えた。もしも七恵の存在を知っていたのなら、彼の行動ももう少し違っていたかもしれない。彼も彼なりに直也を救けようとして、二人いっしょに突破口を開こうとしているのだけれど、根本的なところで二人の意見が食い違っていたのは、織田直也には三村七恵がいたからではないのか……

 そのとき、第二日ノ山荘の出入口に、赤い傘《かさ》の花が咲いた。

 傘が傾くと、七恵の顔が見えた。ちょっと辺りを見回してから、歩きだす。私は身を起こしてじっと様子を窺《うかが》っていたのだが、次第に凝り固まったようになってしまった。

彼女はまっすぐこの駐車場にやってくる。

 赤い傘が近づいてきた。雨で気温が下がったせいだろう、薄手のブルゾンから、ニットのカーディガンに着替えていた。脇《わき》の下に、あのホワイトボードを挟《はさ》んでいる。

 尾行も張り込みも何度も経験しているが、これほど間抜けなバレ方をした記憶はない、私は窓にもたれ、観念して待った。

 助手席の窓からこちらをのぞきこむと、七恵は会釈《えしゃく》した。手をのばしてドアを開けてやると、身を屈《かが》め、こちらが何も言わないうちに、さっと口元に人差し指をあてた。

「どうしたんです?」

 私は声をひそめて訊《き》いた。彼女はホワイトボードを見せた。

<乗せてください。適当に走ってください>

 そのあとに、信じられないようなことが書いてあった。

<尾行のまき方はご存じでしょう?>

 彼女はそっと助手席に乗りこんできた。(早く)というように、私の顔を見つめて細かく頷いている。とりあえず、私は車を出した。

 駐車場から出て、ゆっくりと街路を流しながら、バックミラーを見た。

 すぐうしろに、ヘッドライトがふたつ並んでいる。ためしにスピードを落として車を路肩に寄せ、やりすごしてからまた走りだすと、次の四つ角を越えたところで、すぐにぴたりと吸い付いてきた。

 やりすごすときに見た限りでは、このカローラと大差ない平凡な国産車で、車体はグレイ。運転者は一人。ただし、ナンバープレートはしっかり泥《どろ》で汚してあり、まったく読み取ることができなかった。

「あれですね?」

 尋ねると、七恵は前を向いたまま頷いた。

「あの車が、ずっとあなたを監視してたんですか? 僕みたいに?」

 七息は素早く書いた。<くわしいことはあとで>

「じゃ、しっかりつかまっててください。振り切りますからね」

 ところが、これがほとんど手間がかからなかった。信号をひとつぎりぎりでつっきり、最初の角を素早く右折してその街区を半周し、近くにあった高架下の空き地にもぐりこんでみたのだが、まったく尾いてこない。

 ウロウロ探しているのかもしれないと、時計を眺《なが》めながら十五分待った。だが、ワイパーの音がするだけで、辺りは静かなものだった。

 素人にしても、いやに諦《あきら》めが早い。

「あっけないな」

 そうつぶやくと、七恵が小さなため息をついた。(ああ、よかった)というふうに感じられた。そしてペンをとりあげると、手早く書いた。

<わたしのうちへ戻ってください。お話があるそうです>

 私はそれを二度読んだ。

「誰が話をしたがってるんです?」

<織田さんです>

「彼、いるんですか?」

 七恵は首を振った。<いいえ。すぐ近くに来ていたんですけど、あなたがいるのに気がついて、帰りました。今は別の場所にいます。電話をくれると言っていました>

 私もため息が出た。「こう簡単に張り込みを見破られるようじゃ、廃業しなきゃならないな」

 七恵は、少しためらってから、こう書いて見せた。

<織田さんは、目で見るわけじゃありません>

 そしてそれを書いたことを後悔しているかのように大急ぎで消すと、次の文章を綴《つづ》った。それを見せられたとき、私はちょっと目を離すことができなかった。

 彼女はこう書いていた。

<あの車は、わたしを監視してたんじゃありません。あなたを見張ってたんです>

 翌日──

 新橋四丁目から新富町の京橋税務署の近くまでというのは、徒歩では案外|馬鹿《ばか》にならない距離があるが、私も生駒も報告しあうことがあったので、歩いてゆくことにした。川崎《かわさき》明男《あきお》?小枝子《さえこ》夫妻とは、午後二時に彼らの自宅で会う約束になっていた。

(小枝子さん一人をどこかに呼び出して、最近身の回りにおかしなことは起こってませんかと尋ねるだけで用が足りるほど、先方は小物じゃねえんだな。ガードが固い)と、生駒は頭をかいていた。

「で、織田直也は電話をかけてきたのか?」

 大股《おおまた》で歩きながら、生駒が訊いた。すぐ前をふさぐようにしている三人連れの制服姿のOLたちを追い越してから、私は答えた。「かけてきたよ」

「なんと言ってた?」

「自分はもうあんたとは関《かか》わる気がないから、放っておいてくれ、と」

「それだけか」

「こっちの言い分も事情も聞こうとはしなかったな。先刻ご承知なんだろう」

 霧雨は昨夜のうちに止《や》み、今日はまた好天だった。十一月が近いというのに、秋の気配などどこを探しても見当らない馬鹿陽気で、生駒も私も上着を肩にひっかけて歩いていた。街路樹も、下がる様子のない気温に戸惑っているのか、真夏と変わらない青々とした棄をつけたまま埃《ほこり》をかぶっている。その様子には、なにがなし、嫁ぐタイミングを逃してしまった女性を思わせるところがあった。

 風が強かった。立ち上がりの悪い温風ヒーターが吐き出しているような、生暖かい南風だ。銀座の街には、もっとも不似合いな風だった。

 風が吹きつけてくるたびに、生駒はうるさそうに手をあげて顔を覆《おお》った。いくぶん出目の気味がある私のこの同僚は、風を嫌《きら》っている。どんなに気をつけていても目にゴミが入るからだそうだ。だが、今のしかめっ面《つら》は、風のせいばかりではなさそうだった。

「何を考えてるんだろうな、あのあんちゃんは」

 そう吐き捨てて、鼻を鳴らした。

「おまえさんを尾けてた車のことは? 訊いてみたか?」

「訊いてみたさ」

 直也は、(スクープ合戦か何かのせいじゃないんですか? 俺《おれ》にはわかりませんよ)と答えただけだった。(ただ、高坂さんが見張られてるってことに気がついただけなんだから。それとも、そのことも報《しら》せない方がよかったですか)

 短い電話だった。直也は平板な声で話し、その口調には、ほとんど感情がこもっていないように感じられた。ただひたすら億劫《おっくう》がっているだけのように。

 意識して、そう装っているのだと思った。

 その証拠に、電話を切る直前に、彼はこう言った。

(三村さんにかまわないでください。あなたがあの人に迷惑をかけるようなことをやったら、俺も黙っちゃいませんよ)

 それこそ願うところだと、私は思った。こっちには君に説きたいことが山ほどある。君が出てきて<黙っちゃいない>としゃべってくれるのなら、行動を起こしてくれるのなら、どれだけ楽になるかわからない。

 だが、私は口に出してそう言わなかった。七恵がずっと心配そうな視線を向けてきていたから。

 彼女の部屋は、間取りも設備も直也の部屋と同じだったが、ちゃんと<住まい>になっていた。掃除がゆきとどいており、台所にはかすかな洗剤の匂《にお》いがした。水切りの上に、大きなざるに入れて、おそらく鍋物《なべもの》に使うのだろう、すぐ調理できるように下拵《したごしら》えした野菜が置いてあり、その上に真っ自な布巾《ふきん》が一枚かけられていた。昨夜は霧雨の肌寒《はださむ》い夜だったから、織田直也のために、彼がやってきたらすぐに食べさせることができるように、支度していたのだろう。丸い小テーブルの中央に、籠に入れたハウスもののみかんがあり、彼女はそれを手にとって、ずっと所在なげに手のひらのなかで転がしていた。

 私を部屋のなかへ招き入れると、七恵はドアをきちんと開け放し、ストッパーをかけた。私に手振りで椅子《いす》を勧めてから、ホワイトボードを手に廊下へ出て、しばらくして戻ってきた。察するところ、隣室に告げにいったのだろう。(来客ですので)と。

 行き掛かり上やむを得ないとはいえ、よく正体のわからない男を、一人暮らしの部屋に入れるのだ。当然の処置だろう。また、そういうとき、隣室の住人が、気軽に頼みにできる存在だということは、彼女にとっては心強いことであるに違いない。

 それでも、織田直也のときはそんな気配りはしなかったのだろうな、と思うと、やはり面白くないような気がした。

「彼女、美人か?」

 いきなり生駒が訊いてきた私は急に現実に引き戻され、ほとんど何も考えないうちに、

「うん」と答えた。

 彼はにやっとした。「誰のことを言ってるんだ?」

「そっちは誰のことを訊いたんだよ」

「三村七恵のことだ」

「美人だよ。とびきりってわけじゃないが」

 はっはあと、生駒は声をあげた。「たまにはいいこともある」

 昭和通りを渡り、東銀座の方へ入ると、銀座の街も少しずつ雰囲気が変わってくる。ビルも多く、しゃれた造りの店も目につくし、堂々たる歌舞伎座《かぶきざ》の建物を仰ぐ街ではあるが、ちょっと脇道にそれると、ごく普通の住宅地の気配がそこはかとなく漂ってくるのだ。

 新富町の方に近づくにつれて、その気配はさらに強まってくる。ビルもこぢんまりとした背の低いものが増えてくるし、あいだに混じるしもたやは、新興住宅地でお目にかかるような国籍不明のタイプのものではない。店先にクーラーの尻《しり》を出したラーメン屋や、小さな開業医の看板を見かけるようになる。口の悪い連中が「銀座のチベット」と称するこの新富町、明石《あかし》町の辺りは、銀座というきらびやかな大繁華街、大企業が社屋を並べている丸の内にとって、ちょうど、都会で一旗あげた人物が故郷に残してきた両親のように、昔の姿を残している懐かしい町なのだった。

「例の警官、連絡がついた。会ってきたよ。なかなか面白い人物だ」

 ときどき住居表示を気にしながら、生駒が言った。

「二人のあんちゃんのことを話したら、ぜひ会ってみたいと言っていた。毎日家にいるだけだから、電話をくれればいつでも上京しますと請け合ってくれたよ」

「透視能力者の手を借りて事件を解決したというのは、本当なのか?」

「本人は、本当だと言っていた、その能力者は女性で、今は結婚して九州の方にいるそうだ」

「じゃ、全面的にサイキックの存在を信じている御仁なわけだ」

「俺も驚いたんだが」と、生駒は首筋をぼりぼりかいた。「稲村|徳雄《のりお》と同じことを言ってたよ。『信じる信じないの問題じゃない。それはそこにあるんです』とな」

 心のうちで、その言葉を反芻《はんすう》してみた。それはそこにあるんです。

「もともと神奈川でとれた人で、定年のときは県警の捜査課にいたそうだ。万年平刑事だったが、腕はよかったらしい。俺もそういう印象を受けた。今六十二歳だが、かなりの切れ者だぞ。名前は村田薫。村に田圃《たんぼ》に薫君《かおるのきみ》の薫だ」

 最後のところで私が変な顔をすると、生駒は破顔した。

「古典を読め、古典を。源氏物語だよ」

「学校を出て以来、お付き合いがない」

「うちじゃ女房がベッドのなかで読んでやがる。おかげで俺は、衣冠束帯で香をたきしめて『今夜よろしいでしょうか』とお伺いをたてなきゃならねえ。歌も詠《よ》んでな。挙げ句、『春はあけぼのものの哀れよ』とかなんとか言われて追っ払われるわけだ」

「何か別のものとごっちゃになってないか?」

「おまけに、財産は全部女に握られてるってところも身につまされる。雅《みや》びやかなあの時代は、男にとっちゃ結構しんどいものだったらしい」

「その代わり、好きなだけ愛人が持てるじゃないか。ありゃ、やり放題の話だったという気がするな」

「源氏物語を習ってそういうところばかり覚えてる。てことは、まともである証拠だ。おい、上着を着ろ」

 生駒は足を止め、真新しい白壁の二階家を見上げた。

「せいぜい男前に見えるようにして行こうじゃないか。この家だ」

 インタホンに応答したのも、ドアを開けてくれたのも男性だった。

 三十代の半ばというところか。糊《のり》のきいた白いワイシャツにきちんとネクタイを締め、折り目のついたズボンを穿《は》いて、薄手のカーディガンを着ていた。教師と聞いたときからなんとなく眼鏡をかけた人物を想像していたのだが、それははずれていた。

「お待ちしておりました。私が川崎です」

 小枝子の夫だ。

 誰かと競っているかのようにきれいに掃除され、飾りつけられ、インテリアに気を配ってある客間に、私と生駒は通された。

 納得はできた。これこそ小枝子の「巣」にふさわしい。私と一緒になっていたとしても、やはりこんなふうに家を磨《みが》き上げ、客に対していつ披露《ひろう》してもおかしくないように、室内を整えていたはずだ。

 ただし、私と所帯を持っていたなら、応接セットのソファーは本革ではなかったろうし、壁にかけてある、美術雑誌で見かけた記憶のあるタッチのリトグラフは、しゃれた画集から丁寧に切り抜いただけのものになっていただろう。一点の曇りも手の痕《あと》もないサイドボードのガラスごしに見える数々のカトグラスは、酒屋の名入りのコップに取って代られているかもしれない。その意味では、小枝子は正しい選択をしたのだ。

 目の前の男は、この家の主人らしいくつろいだ姿勢で肘掛《ひじかけ》椅子にもたれている。左手首に一見しただけではメーカーはわからないが、高価であることだけは確かな腕時計をはめていた。川崎明男は、これみよがしにローレックスを見せびらかすほどの俗人ではないのだ。

「お仕事中に、まことに申し訳ありません」

 生駒が口を切ると、川崎は鷹揚《おうよう》な感じで手をあげた。?

「かまいません。ちょうど授業のあいだですから」

 彼は小枝子の父親が勤めていた私立高校の理事長の一人息子だった。現在はそこの副理事長で、英語の教師もしているが、ここ数年以内に父親のあとを襲って、最年少の理事畏に就任することは間違いない。どこも赤字経営に悩んでいる私立の教育施設のなかでは、彼の学校は異例とも言えるほどの高収益をあげており、それが、この若き二代目の経営手腕によるものだということは、業界では有名だった。

 川崎と小枝子が結婚に至ったいきさつは、さすがの生駒も時間が足りなくて調べきれなかったようだが、どうやら、彼の方かち小枝子を見初めたものであるらしかった。結婚して、約一年半になる。

 彼は我々に灰皿を勧めたが、本人には喫煙の習慣がないようだった。彼の右手の人差し指と中指に、かすかにチョークの白いあとがついていることに、私は気がついた。

 そして、彼はちゃんと結婚指輪をはめていた。

 手のこんだレースのテーブルクロスの中央に鎮座している灰皿は、(ここに汚い吸《す》い殻《がら》など落としたら無礼討ちにしてやる)という雰《ふん》囲気《いき》を持っていた。生駒はいっこうに頓着《とんちゃく》せず、ハイライトを取り出した。

「まことに申し訳ありませんが、家内はお目にかかれません。お話は、私一人でお伺いいたします」

 そう言ったとき、川崎の端正な顔の裏に、ちらっと何かがよぎった。

「あいにく家内は、ここ何日か具合が悪くて臥《ふ》せっておりまして」

「ほう、それはいけませんな。ご病気で?」

 生駒の質問に、一瞬ではあるが、今度ははっきりと動揺を表わして、彼は答えた。

「実は、悪阻《つわり》でして。今三ヵ月目なんですよ」

 生駒は煙草《たばこ》を吸う仕草に隠して、ちょっと息を止めたようだった。

 自分でも意識しないうちに、ごく当たり前のように、私は言った。「それは、おめでとうございます」

 そこで初めて、川崎明男の肩から緊張感が抜けた。彼は口元をゆるめて微笑した。

「ありがとうございます」

 短い言葉ではあったが、それが了解の合図だった。

 本音は知らない。お互いにそれは突っ込まないことにしましょう。過去は問題にならない。我々はお互いにお互いの立場と役割を守って行動しているだけなのだから。

 彼もまた困っていたのだろう。自分が合格した試験に落ちた者と向きあっているのだから。なにがしかの後ろめたさと、優越感がないまぜになった思いを抱きながら。

 私と小枝子のことを、彼がすべて──文字どおりすべて承知しているということは、わかっていた。生駒が連絡をとったとき、彼の方からまずその話をして、よほどのことがない限り、お互いのために、高坂さんと私はお会いしないほうがいいと思いますが、と言ったそうだ。なかなかの紳士である。

 それでも、(いえ、ちょっと風邪気昧で)と言っても済むところを、わざわざ(悪阻)と答えるところに、正直な感情がのぞいているな、と思った。

 それはそれで構わない。正直はいちばんの早道だ。

「ご用件は、電話でも伺っておりましたから」と川崎は切りだした。「だいたいのところは理解しているつもりです。家内のことをお気遣いくださいまして、痛み入ります」

 仕事|柄《がら》だろうか、彼の言葉の選び方、会話の進め方は、やや老成した感じがした。

「それでも、そちらの方で多少不愉快な悪戯《いたずら》を受けておられて、それに小枝子の名前が出ているというだけなら、私もお二人にお目にかかる必要はないと思ったのですが」

 生駒がちらっと私の方を見てから、川崎に視線を戻した。「というと、こちらにも何か?」

 川崎は、生徒の話を聞いているかのように穏やかな表情を保ったまま、頷《うなず》いた。

「家内あてに、白紙の手紙がきたことがありました。一通だけですが」

 私と生駒は顔を見合わせた。

「いつごろのことでしたか」

「一週間ぐらい前でしょうか。その一通だけで、あとは続きませんでしたが」

「その手紙はどうなさいました?」

「申し訳ありません」本当に残念そうに眉《まゆ》を寄せて、「捨ててしまいました」

 ちょうどそのとき、小さなノックの音がして、我々が入ってきたのとは違うドアから、女性が一人顔をのぞかせた。

 一見して、地味な事務員タイプの女性だった。私と同年齢ぐらいだろう。チャコールグレイのスーツを着ている。スカートは節度のある膝丈《ひざたけ》で、化粧も淡い。すっきりと額を出したショートカットの髪に耳元で銀のイヤリングが光っていた。

 ドアを開けてはいるが、室内には踏み込まず、彼女はその場で深く一礼した。社員教育のインストラクターが勤まりそうな、流れるような動作だった。

「私の秘書の三《み》宅《やけ》令《れい》子《こ》と申します」

 川崎の紹介を受け、彼女はもう一度軽く頭をさげると、一度ドアの向こうに引き返し、すぐに小さなワゴンを押して戻ってきた。高級レストランで、客にデザートを選ばせるとき示されるようなワゴンで、その上にティーセットが一式載せられていた。

「彼女には、この家の方のこともいくらか手伝ってもらっています。客を大勢呼ぶときや、盆暮れの贈答品の手配など、私よりも家内と相談してもらった方がいいことがありますのでね。ですから、頻繁《ひんぱん》にここに出入りしておりまして、問題の郵便がきたとき、それを見つけたのも彼女でした」

 川崎がそう言い終えたとき、まるで事前に打ち合せでもしてあったかのように、三宅令子が給仕を終えた。彼女は川崎の言葉を受けて、私と生駒に丁寧に頷いてから、そっとワゴンを脇《わき》に押しやり、いちばん端のオットマンのようなスツールに浅く腰を乗せて、両手を膝に揃《そろ》えた。

「はい。わたくしが見つけまして、すぐ副理事長にお見せしたんです」

 彼女の声には、凜《りん》とした響きがあった。川崎の秘書として指示を受ける立場にあると同時に、他人に指示することにも慣れている女性であるように、私には思えた。

 ふと、この女性と小枝子がどんな主従関係を築いているのだろうかと、好奇心がわいてきた。イニシアティブをとっているのはどちらだろう?

「奥さんにではなく、川崎さんに?」と、生駒が訊いた。

「はい、そうです」

 川崎がフォローするように身を乗り出して、「私も仕事柄、たまに、中傷や嫌《いや》がらせの手紙を受けることがあります。そういうものは、なるべく家内の目には触れさせたくありません。ですから、自宅に来る郵便でも、できるだけ三宅君に先にチェックをしてもらうように計らっているのです。そして、たとえ家内|宛《あ》てであっても、差出人の名前がなかったりして様子のおかしいものは、私に回してくるように頼んであります」

 いくら夫婦のあいだでも、はっきり私信とわかっているものに対して、そこまでするのはどうかと思った。その感想が、私の顔に、そして生駒の顔にも浮かんでいたのだろう、川崎は軽く苦笑して、カップを手に取りながら、言った。

「勝手なことをするものだとお思いかもしれません。私も、普通の状態でしたら、そこまでは考えないでしょう。ただ、今は多少、事情がありまして」

「奥様は普通のお身体《からだ》ではありませんから」と、令子が言葉を添えた。

「そうです。それで、家内はちょっと気が立っております。それに、恥ずかしいことですが、わが校は伝統と同じくらい内紛でも有名なところです。私は近々父のあとを継ぐことになっていますが、まったく波風が立っていないわけではありません」

「金と人が動くところに、怪文書はつきものですからな」と、生駒が大《おお》真面目《まじめ》に言った。

 川崎明男は、初めて歯並びが見えるほどの笑顔をつくった。急に若返って見えた。

「まったくそのとおりです。教育者の集団であるはずなのに、一皮|剥《む》けば何が隠れているかわかったものではありません」

「いいじゃないですか。聖人君子に教えられて育った子供たちじゃ社会に出たら、すぐにバラバラにされちまいますよ。耐久力はつけさせておいた方がいいです」

 生駒はあっさり言って、華奢《きゃしゃ》な金縁のティーカップが嫌がって身をよじるんじゃないかと思うぼどぞんざいな仕草で、がぶりと紅茶を飲んだ

「その手紙は──」私は話を戻した。「はっきり奥さんの名前宛てに来ていたんですね? つまり、旧姓ではなくて、現在のお名前で」

 川崎が視線で促し、令子が答えた。「はい、そうです。川崎小枝子様と書いてありました。住所もきちんとあっておりました」

「しかし、中身は白紙だった」

「そうです」

「で、捨ててしまわれた」

 今度は川崎が答えた。「そうです。家内宛てであるのが不審な気もしましたが、まさかこんなことと繋《つな》がっているとは思いませんでしたので。ただ単に標的が家内になっているだけの、私の方の関係の嫌がらせだろうと思っていました」

「その後は何も?」

「はい。何もありません」

「おかしな電話がかかってきたことはありませんか? 具体的に、奥さんの身辺に気をつけるように言ってきたり、話のなかで私の名前を出してくるような電話です」

 川崎は私の顔にひたと視線を据《す》えて、きっぱり答えた。「ありません」

 私も彼を見つめ返した。一秒にも満たない短いあいだだが、ほとんど睨《にら》みあった。川崎の目は、たとえどんな小さなことであっても、小枝子の生活にあなたの名前が出てくる余地はないと、言い切っているように見えた。

 先に視線をそらしたのは私の方だが、それで引き下がったという感じは持たなかった。その必要もない。

「学校やこのご自宅の付近で、不審な人物を見かけたことはありませんか」

 生駒が静かに質問した。声が抑揚を欠いているのは、笑いをこらえているからだと、私にだけはわかった。

「家の周囲をウロウロしていたり、あなたや奥さんのあとを尾《つ》けてくるような人物です」

「あるいは」と、私は付け加えた。「グレイの国産車を見かけたことはないですか? 手がかりが漠然《ばくぜん》としてて申し訳ないんですが、つい昨夜、私はそういう車に尾けられたらしいんです」

 川崎と令子は視線をあわせた。令子は、目を大きく見張っても理知的な感じが崩れない、めずらしいタイプの女性だった。

「ありませんね」と、川崎が代表で答えた。「まったく心当たりがありません。尾行とか監視とか、我々には縁のない話です」

 生駒は大きな拳《こぶし》を鼻の下にあてがって、しばらくのあいだ小さく頷いていた。おそらくは私と同じことを考えているのだろう。だから、私は心にあったことを言った。

「どうやら、すぐにどうこう心配する必要はなさそうですね」

 川崎明男は、ほっとしたように表情をゆるめた。

「私もそう思います」

「ただ、用心は怠らないでいただきたいんです。相手はどういう人物かわかりません。万が一でも、とんだご迷惑をおかけするようなことになってはいけない。それはご理解いただけますか」

 川崎は顎《あご》を引き締めて頷いた。そんなことはあなたに言われるまでもない、という表情だった。

「近くの派出所に事情を話して、しばらくのあいだパトロールしてもらえるように頼んでみていただけませんか」

「川崎さんは名士だから、交番もイヤとは言いませんよ」と、生駒が付け加えた。

「わかりました。そうしてみます」

 川崎は言い、鼻筋を指でなぞりながら少し考えていたが、やがて目をあげた。

「正直に申しますと、家内は、このことを知りません」

 ほとんど反射的に、私は三宅令子の顔を見た彼女は副理事長の顔を見つめていて、こちらには目を向けなかった。

「今も、臥せっているというのほ嘘《うそ》でして。今日は病院に行く日なのです。実家の近くの病院ですから、今夜は泊まってくると思います。それで、お二人に来ていただくことができたというわけです」

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