「奥様はとても胎教に気をつかっていらっしゃるんです」と、令子が言った。「ですから、こんなことでご心配をかけるわけにはまいりません」
「賢明ですな」生駒が彼女に笑いかけた。「あなたは立派な秘書だ」
初めて、令子がかすかに微笑した。生駒の言葉を真に受けたわけではなく、彼女の「優秀秘書マニュアル」のなかに、「無礼な客に誉《ほ》められたときの微笑の浮がべ方」という項目があって、それに従っただけだろうが。
妊娠してからは特に、夜間自宅で小枝子を一人きりにするようなことは避けていること。日々の生活のペースは決まっており、何か変わったことがあればすぐにわかること。それらのことを確認し、多少談笑して、私と生駒は腰をあげた。長居する場所ではない。
玄関に出るために客間を横切ったとき、傍《かたわ》らの飾《かざ》り棚《だな》の上に、花嫁姿の小枝子を写した写真が飾ってあることに気がついた。足を止めはしなかったし、首をよじって見ることもなかったが、大きなブーケを手にした彼女が、満面に笑みを浮かべていることだけはわかった。式は盛大だったのだろう。
「惚《ほ》れてるな」と、生駒は言った。
道路に出て歩き始めると、二人ともまた上着を脱いで、せいせいした気分になっていた。信じられないようなことだが、今日は蒸し暑い。川崎家を出て、改めて感じた。
「惚れてないよ」
「いや、惚れてる」
「なんで」
「目付きでわかる」
「冗談じゃない」私は上着を肩に担《かつ》いだ。「大外れだよ」
生駒は目を剥いた。「誰もおまえが未《いま》だに小枝子さんに惚れてるとは言っとらん。早合点するな」
「じゃ、誰の話だ?」
「秘書だ、秘書」
私は立ち止まった。「三宅令子が?」
「そう」
「川崎に?」
「そうだ。ほかにどの組合せがある? それとも、おまえさん秘《ひそ》かに俺《おれ》に惚れてるか?」
「実を言うとそうなんだ」
「すまんが、俺は不倫は嫌《きら》いだ」
すれちがった女子中学生の二人連れが、珍奇なものでも見るように生駒と私を振り返ってから、どっと爆笑した。生駒は歯を剥いて笑うと、彼女たちに手を振ってみせた。
「それでなくても恥をかきかき生きてるんだ。道を歩くときぐらいは恥をかかないでいたいね」
「同感だ。真面目にやろう。高坂よ、秘書はボスに惚れるもんだよ」
生駒が私を姓で呼ぶのは、なにがし訓戒をたれようというときだ。
「惚れなきゃ働けねえからな。ボスがどんなにチンケな野郎でも、なにかの形で惚れる。どこかに惚れる。仕事ぶりかもしれないし、男ぶりかもしれない。機嫌《きげん》のいいときのボスにだけ惚れる秘書もいる。だが、必ずどこかに惚れる。彼女は、川崎の全部に惚れてるな、やつはいい条件が揃ってる。男前だしな」
「それが何か、この件と関《かか》わってくると思う?」
「さあな。ただ、俺は思ったことを言ってるまでだ。いい女を見ると、どんな男に惚れているか気になるから」
どこへ行くのでもそうだが、往路よりは復路の方が短く感じるものだ。我々はすぐに、「町」から「街」へ戻ってきた。和光の時計台が見えた。
「惚れてないな」と、生駒が言った。今度は私も引っ掛からなかった。
「誰が」
「おまえだよ」
「うん」
「俺はとっくにそうだろうと思ってたよ。いちばん確信がなかったのは、おまえさん本人だったんじゃないか?」
「そうでもない。そんなに未練たらたらに見えたか?」
「そうではなかった。ただ、小枝子さんにはえらく自尊心を傷つけられてるからな。傷ついたプライドを取り返したいばっかりに、人に惚れる──惚れ続けるってことはある。敗者復活戦を狙《ねら》うわけだ」
「それほど執念探くないよ」
四丁目の交差点で足を止め、信号待ちをしている人込みのなかに混じった。
「さっき、笑いをこらえてただろ? 俺と川崎が睨みあってるときに」
「おう」
「何がおかしかった?」
「男ってのは、こんなくだらねえことでも面子《メンツ》の張り合いをするんだなと思ったからだ」
私は笑った。
「本当だ」
「ただ、ちとひっかかるな」
同じことは私も感じていた。逆の立場だったら──と考えて。
「女房の昔の男が目の前にいる。しかも、自分の仕事の関係で、あんたの女房に迷惑をかけることになるんじゃないかと言ってきてる。俺だったら、理屈ではわかっても、感情的にはまず『図々《ずうずう》しい野郎だ』と思うね」
「うん」
「女房はもうてめえとは関わりねえよと思う」
「その通り」
「外面《そとづら》では抑えても、どっかで不愉快そうな態度をとっちまうと思うな」
「俺もそう思う。ところが、川崎にはそれがなかった」
「なかったな。檜《ひのき》の一枚板みたいにしゃんとしていただけで、一度だっておまえを汚ねえものでも見るような目で見たりはしなかった」
信号がかわり、人込みが一団となって動きだした。
「川崎明男は」
「よほど」
生駒は横断歩道に足を踏みだして、同時に同じ台詞《せりふ》を吐いた
「人間ができてるんだ」
そう言いながら、横断歩道の今渡ってきた側に、その言業だけでは割り切れないものを残してきたように感じていた。そして、生駒も同じ気持ちを抱いていることを、彼が肩ごしにちらっと新富町の方を見やったのに気づいたとき、確信した。
やがて私は、このとき残してきたかすかな疑問を、拾いに戻ってくることになる。
5
社に戻ると、机の上に伝言がふたつ残されていた。ひとつは、以前にインタビューした「ミス?コンテストに反対し──」の会の代表者が、掲載された記事を見て連絡してきたというものだった。電話を受けてくれた記者がそばにいたので訊いてみると、
「わりと、喜んでるみたいでしたよ」と言う。
「こっちの言ってることを曲解しないでストレートに書いてくれてた、って。『そういうことはめずらしいんです、特に男の記者さんだとね』だって。取材に来た人と記事を書いた人、両方にお礼を言っておいてくださいって言うから、『あれはコラムだから、インタビューした野郎が記事も書いたんですよ』って教えてやったら、『へえー』なんて感心してた」
へらへら笑いながら話す彼の頭を、デスクが一発張りながら通りすぎて行った。
「外様に口をきくのに、『野郎』とはなんだ、『野郎』とは」
あの会の代表者は、その記事を書いたときの私が、一人もしくは二人の「サイキック少年」に振り回されていて、ほかのことを深く考えている余裕がなく、だから彼女の言ったことをそのまま書いただけだったのだと知ったら、そう喜んではくれないだろう。耳から手に降ろすだけなら、作文の得意な中学生でもできることだ。
そこで、はっと気がついた。
「インタビューか」
声に出してつぶやくと、乱雑極まる机の上をかきわけながら灰皿を探していた生駒が顔をあげた。
「なんだ。なんか思い出したか?」
「インタビューなら、名前が出る」
ちょっと考えてから、生駒は大きく頷《うなず》いた。「ああ、出る。『文 高坂昭吾』ってな」
署名記事と、大上段に振りかぶって考えていたから思いつかなかったのだ。
「八王子支局時代に、何本か書いてるか?」
私は頷いた。支局の記者はなんでも屋である。選挙も、スポーツも、犯罪も、地元の教育問題も、上下左右硬軟取り混ぜて扱うのだ。
「ただ、そう数はないよ。俺はインタビューは苦手なんだ。まるっきり拝聴するだけで帰ってくるか、突っ込みすぎて怒らせるか、どっちかでさ。それに、あの手の穏便なインタビューは、たいてい相手を持ちあげなきゃならないけど、それも下手だったしな」
「三年前にヨイショの記事を書いてもらった人間が、今になって『心にもねえことを書きやがって』と怒り狂って脅迫状を出す──」生駒は首をひねった。「ありそうもねえ」
「まあ、でも読み返してみるか。何かとっかかりになるかもしれない」
あまり気乗りしない思いで、そう言った。
もう一本の電話は、織田直也が辞めたあのガソリンスタンドの責任者からのものだった。折り返しかけてくれという。
電話すると、やや急《せ》き込んだ感じで、彼が出てきた。直也の行方がわかるかもしれないというのである。半信半疑ながらも、私は椅子《いす》を引いて座り直した。
「本人に会ったとか?」
「いやいや、そんなんじゃないんだけどね」
今日の昼すぎ、織田直也を訪ねて客が来たのだ、という。
「彼が半年ばかり前にアルバイトしてたコンビニの店長さんなんですよ。以前に一度、車でうちの前を通りかかって、織田君を見かけたことがあったもんだから、まだいるだろうと思って寄ってみたっていうじゃないですか。『うちを突然辞めていった子だから、見かけたときにはびっくりした。ここも辞めちゃってるんですか』って、驚いてましたよ」
「その店長、どこの誰だか訊《き》いてみましたか?」
「それは訊かなかったけどね、もっと役に立つことを訊いたんだよね、あたしゃ」
得意そうに笑って、
「織田君がそのコンビニを辞めたあと、半月ぐらいして、彼を訪ねて興信所の人間がやってきたって言うんです。『そのときは、興信所なんてうさんくさいものに、彼のことをしゃべるのは気が進まなくて、なんとなくいい加減な感じで追い返しちまったんですけどね、マスコミの人まで出てきて彼を探してるんじゃ、放《ほう》ってもおけないでしょう』って、難しい顔してましたよ」
直也が、ガソリンスタンドの麻子ちゃんに、「以前、興信所に追いかけられたことがあって」と話したというのはあながち嘘ではなかったのだ。
「あたしゃね、その興信所の名前と電話番号を教えてもらいました」ガソリンスタンド氏は気分よさそうに続けた。「その興信所の人間はね、『彼の消息をつかめるようなことがあったら、ぜひ連絡してくれるように』って頼んで、コンビニに名刺を置いていったんだそうです。興信所の名刺なんざ珍しいからさ、店長さん、それをずっととっておいたっていうんです。だから正確にわかりますよ。教えましょうか? コンビニの店長さんは、私はこんなことに関わるのはイヤだから』って、ほうほうのていで逃げていっちまったけどね、あたしは平気だからさ」
教えられた電話番号で応対してきたのは、中年の女性の声だった。さよう、ここは「有東京リサーチ」である。いえ、興信所ではなく、失踪人《しっそうにん》を探し出すことを専門としているれっきとした調査会社であり、私は社長であると、きびきびと答えた。
用件はすぐ通じた。だが、織田直也については、現在は捜索を中断しているという、社長が個別の依頼の件について即答できるところをみると小さな事務所なのだろう。
「なぜ中断したんです?」
「依頼人の希望ですよ。決まってるじゃないの」
生駒といい勝負のがらがら声で、女社長は断言する。
「ということは、彼が見つかったんですか」
「見つけられなかったわ」
それなのに依頼人が降りたとは、どういうことだろう。
「織田直也は、中学を卒業するとすぐに家出してるんですよ。ご存じでしょうが」
女社長は黙っているが、それは肯定のしるしだろう。
「ですから、おたくの依頼人は彼の家族でしょう? そうじゃないですか?」
まず間違いないはずだ。彼の家族になら、なんとしても会ってみたい。
「なんとか連絡をとれませんかね」
女社長はムッとしたような声で言った。「依頼人の身元なんて教えられませんよ」
「わかりますよ。そこを曲げて頼んでるんです。記事にしようという気はないんですよ」
「信用できないわね」
「こちらも、まるっきり白紙というわけじゃないんです。彼の両親は、彼が子供のころに離鰭している。その際、なにか財産争いのようなこともあったらしいですね」
女社長は、かなり長いこと押し黙っていた。やがて話しだしたとき、辺りをはばかるような低い声になっていた。
「まあ、いいわ。しつこく付きまとわれちゃかなわないから。でも、依頼人の名前や居所を教えるわけにはいきませんよ。だいいち、お宅が出かけて行ったって、彼女は会ってくれないに決まってるから」
「彼女?」
「ええ。依頼人は、織田直也の母親だったんですよ」
女社長の話は、簡潔で要を得ていた。直也の両親は彼が八歳のときに別れたのだが、その大きな原因はふたつあった。
ひとつは、母親と、直也にとっては祖母にあたる姑《しゅうとめ》との折り合いが悪かったこと。
「織田さんの家っていうのは、代々、板橋の滝野川でかなり大きな酒屋さんをしてたそうなんですよ。直也って子の父親はそこの四代目でね。一人息子。ところが、母親は元ホステスをしてて、ひとまわりも年下だったんです。そんなこんなで姑さんとは最初からうまくいかなかったんでしょう。刃物|沙汰《ざた》になったこともあったそうよ」
離婚のもうひとつの原因は、その酒屋を廃業しなければならなくなったことだった。
「織田さんが友達の借金の保証人になってましてね。夜逃げされちゃって、全部自分でかぶったというわけ。で、奥さんが愛想をつかしてね。別れるとき、確かにお金のことでも多少はもめたみたいだけど、それよりは、子供の親権争いの方が深刻だったみたいですよ、母親の方は、どうしても直也って子を引き取りたかったんだけど、認められなくてね」
その母親が、今になって直也を探している──
「ずっと気になってたって言ってましたよ。少し自由になるお金ができたんで、それで決心したんだって」
「じゃ、なぜ依頼を取り下げたんだろう?」
女社長はやりきれなさそうに言った。「今の旦那《だんな》に止められたんですよ。彼女、再婚しててね。彼とのあいだにも、子供ができてるから。今さら、昔残してきた子供を探しだしてどうするつもりなんだ、ということになったわけ」
まあ、理詰めでいけばそういうことになるのかもしれないが……
直也の母親は、ほとぼりがさめたらまた調査を依頼すると言っているという。女社長も、その時には絶対に探しだしてみせると断言した。
「父親の消息は?」
「とっくに死んでましたよ。最後は野垂れ死にね。アル中で」
電話を切ったあと、舌の上に苦い後味が残った。
なんという環境だったんだろう。直也が育ってきた家庭は。
(離婚するし財産争いはあるし──サイキックがそんなとこにいられるわけがないじゃない)
それだけに、直也の母親に会ってみたいという未練は残った。なんとか方法はないか……と考えてみたが、あの女社長の壁は厚そうだ。ドリルが要るだろう。
気分転換に、誰かがそばに放り出していった今日の夕刊を広げた。漫然と見出しを目で追っていって──
そのまま、息が止まった。
ベタ記事だ。紙面の片隅《かたすみ》に、見逃してしまいそうなぼど小さく載せられている。心の内の逃げ腰で卑怯《ひきょう》極まりない部分では、なんでこんなちっぽけな記事を見てしまったのだろうと思っていた。気づかなきゃ良かった。
「白昼 聖橋《ひじりばし》から飛び降り」
小さな見出しに続いて、
「──午後一時ごろ、神田川にかかる千代田区御茶ノ水の聖橋の上から若い男性が飛び降りるところを通行人が目撃し、駆け付けた神田消防署のレスキュー隊員等の捜索により──まもなく引き上げられたがすでに死亡しており──所持していた運転免許証から身元が──」
宮永|聡《さとし》、二十一歳。私立東京国際教育大学教養学部二年生。
あの、兄弟のような絵描《えか》きの卵の片割れ。
マンホールの蓋《ふた》を開けた二人組の片割れ。
頭のなかに、彼の描いた大きな信号が浮かんだ。永遠の赤信号、永遠のストップ?サイン──
[#改ページ]
[楼主] [5楼] 作者:滄炎沁夢2005 发表时间: 2008/04/13 20:05 [加为好友][发送消息][个人空间]回复 修改 来源 删除第五章 暗 転
[#改ページ]
1
葬儀の日は曇天だった。頭のすぐ上まで空が下がってきているかのように、雲が低く垂れこめていた。
宮水|聡《さとし》の自宅は、京葉線の海浜幕張駅から車で五分ほどのところにある。週末だったので、駅には、幕張メッセで行なわれている何かのイベントに向かう若者たちの姿が目についた。陽《ひ》が射《さ》していないというだけで、気温は今日も比較的高く、若者たちはみなカラフルな色合いのシャツやブルゾン姿だ。そのなかに、ぽつりぽつりと喪服が混じる。みな、宮永家をめざしてゆく弔問客であるはずだった。
検死や事情聴取などの警察の手続きがあったためと、あいだに友引をはさんだために、聡の自殺から、命日の葬儀まで四日が経過していた。その四日間も、衝撃を鎮《しず》めてはくれたものの、痛みを癒《いや》してはくれなかった。むしろ増してゆくような気がした。打ち身が濃い青痣《あおあざ》になってゆくように。
父親に連れられて駅の階段を降りてくる稲村慎司の顔にも、その青痣がはっきりと浮いていた。笑いさざめくカップルたちや若者たちのグループに混じってやってくるのに、稲村|父子《おやこ》二人がいるところだけ、色彩が消えている。駅前で落ち合う約束をしてあったのだが、二人の顔を見た途端、やはり、一緒に来たいという父子の申し出を、とことん撥《は》ねつけるべきだったと後悔した。
慎司は学生服を着て、詰《つ》め襟《えり》のボタンをきちんと上までとめていた。その上に、病みやつかれた月のように蒼白《そうはく》な顔があった。ほとんど眠っていないのだろう、頬《ほお》の辺りがけば立ったように荒れていた。
「やはり、おいでにならない方がいいと思います」
会釈《えしゃく》しながら近づいてきた稲村|徳雄《のりお》に、私は言った。そして、うつむいている慎司の目をのぞきこもうとした。
「こんなことになった責任は、君にはないよ。全部|俺《おれ》の責任だ。宙ぶらりんにしないで、彼らを警察に突き出してやるべきだった。その判断を誤ったのは俺なんだから」
慎司は黙って首を振った。
父親は言った。「高坂さん、それは結果論というものですよ」
「結果論以外に、何が言えます?」
「責任は、慎司にあります」稲村徳雄の静かな語調は変わらなかった。「あなたがどうお考えになろうと、私はそうだと思います。あなたがおいでになろうとならなかろうと、私は慎司を連れて参ります。ですから、どうぞ」
慎司は我々から離れ、少し危なっかしい足取りでタクシー乗り場の方へと歩いてゆく。彼に続こうとする父親の肘《ひじ》をつかんで、私は言った。「息子さんは十六歳なんですよ。まだ子供です」
「ですが、普通の子供じゃあない」
稲村徳雄はきっぱりと言うと、私を見つめ返した。
「行きましょう」
葬儀が行なわれている家というのは、どんな邸宅でも、いくらか小さくなって見える。たぶん、普通の状態ではその家が迎え入れるはずもないほど大勢の人間が、一度に出入りするからだろうが、詩的な表現をするならば、死者を悼《いた》んで家も肩をすぼめているのだ──とでも言えるかもしれない。
しかし、宮永聡の葬儀には、詩的な部分はどこにもなかった。山ほどの花と、多数の会葬者と、年若い死者の遺影と、あとは悲憤があるだけだ。
祭壇の前に座っている遺族のなかに、我々にはわからない特殊な宗教のための祈りを捧《ささ》げているかのように、ずっと床に臥《ふ》すようにして頭を下げている中年の女性がいた。周囲の会葬者の囁《ささや》きから、その女性が聡の母親であるとわかった。
この件に絡《から》んで、悲嘆に打ちのめされている母親の姿を見つめるのは、これが二度目のことになる。望月大輔の母と、宮永聡の母と。そして死んだ二人の子供に共通していることは、なぜ死ななければならなかったのかわからないということだった。
彼らの死の理由と原因を、誰も知らない。私と慎司を含む、ほんの数人の例外を除いては。
望月大輔は、誰がなんのために開けたかわからないマンホールに落ちて死んだ。
宮永聡は、突然自殺した。真っ昼間に衆人環視のなかで聖橋《ひじりばし》から飛び降りて。なぜそんなことをしたのかわからないと、会葬者たちが囁いているのを、私は耳にした。
そう。彼は遺書を残していなかったし、死にゆく理由を家族に語ってもいなかったのだ。
四日のあいだに、彼の死の前後の状況について、得ることができるだけの情報を掻《か》き集めた。そこでわかったのは、彼が口をつぐんだまま死んでいったということだけだった。同時に、なんとかして垣田《かきた》俊平と連絡をとれないものかと手を尽くしてもみた。それも徒労に終わった。
そして今、辺りをどれほど注意深く見渡しても、垣田俊平の姿は見当らない。喪服に身を包んだ人たちのあいだから頭ひとつ飛び出しているはずの、彼の顔を見つけることができなかった。
腹の底にこたえるような読経《どきょう》を聞いていると、七歳の子供の死も、二十一歳の画家の卵の死も、どちらも等しく自分の責任であるような気がしてきた。
稲村慎司は父親と並んで、私から少し離れたところに立っていた。二人のすぐそばに、声をあげてしゃくりあげながら泣いている若い女性がいた。友人らしい女性が彼女の肩を抱き、同じように泣きながら、相手の背中を撫《な》でていた慎司は自分自身を責めるために、わざとその女性たちのそばにいて、彼女らの悲嘆の声を聞いているのだろう。
宮永家は今風のつくりの家ではなかったが、建て増ししたのか、家屋の脇《わき》に、そこだけはやや新しい感じのする、シャッター付きの車庫を持っていた。シャッターはずっと降ろされたままだったが、焼香の途中で一度、葬儀会社の人間らしい腕章をつけた男が二人、何か用でもあったのか、かがんで通り抜けることができる程度まで開けて、なかに入っていった。そのとき、車のタイヤがちらりと見えた。
身を屈《かが》めてみると、暗がりのなかに、うっすらと赤いポルシェ911の車体を見ることができた。
マンホールの事件のすぐあと、車に詳しい同僚に、ポルシェは我儘《わがまま》で神経質な車だと教えてもらったことを思い出した。毎回毎回、エンジンのかかり具合や走りっぷりが違う。生きものなんだ、と言っていた。
その車が残って、乗り手が死んだ。
腕章の男たちが出てきてシャッターを元通り降ろすまで、あの台風の大雨をついて走る赤い車体をを思い浮べていた。草叢《くさむら》のなかに転がっている黄色い傘《かさ》を思い浮べていた。
そのとき、誰かに背後からそっと肩を叩《たた》かれた。振り向いてみると、垣田俊平の痩《や》せこけた顎《あご》が、目の前にあった。
「俺が一緒にいたら、止められたのに」
最初に、被はそう言った。私に向かって言っているというよりも、遠くに見える親友の遺影に話しかけているように見えた。
彼は私を、会葬者たちの輪の外に引っ張っていった。途中で、慎司が我々に気づき、表情を大きく崩して、近寄ってこようとした。すると、私が何か言うよりも先に垣田がゆっくりと首を横に振って、(来るな)という意思を示した。慎司はじっとこちらを見たまま立ちすくみ、その肩に父親が手を置くのが見えた。
「出棺まで時間がある。少し歩こう」と、私は垣田に言った。できるだけ、この場から遠くへ離れたかった。理屈抜きでそうしたかった。慎司は、その気になれば、姿の見えないところにいても我々のやりとりを聞くことができるのだ──そう思ったから。
「あの子ですね」と、垣田は低くつぶやくように言った。「あの子、見てたんでしょう? 俺たちのしたこと。見てたから、ハイアライまで追いかけてきたんだよな」
宮永家のある区画から二区画ほど離れたところまで来て、我々は歩調を緩めた。傍《かたわ》らの電柱に、宮永家への順路を示す表示が貼《は》ってあった。
いささかも迷わずに、私は「そうだ」と答えた。そうしておこう、と決めた。
「でも、そのあとどうするかを決めたのは彼じゃない。俺だよ」
酔っ払いのような足取りで歩きながら、垣田は黙っていた。
「君たちがやったんだな。あの子の言っていたとおり、車のエンジンを濡《ぬ》らしたくないからマンホールの蓋《ふた》を開けて水を流した──」
そう尋ねると、黙ったまま頷《うなず》いた。やがて、目を宙に泳がせたまま、小さく訊《き》いた。
「どうして警察に話さなかったんですか」
私は答えなかった。どう答えても言い訳に聞こえるだろう。それなら、彼が思っていることを、そのまま答えとして受け取ってもらった方がいい。
すると、垣田は言った。「俺たちに同情してくれたからかな。そうでしょう?」
「同情……」
「そうです。俺たち、馬鹿《ばか》みたいなことをやったんだけど、あの時はそれに気がついてなかった。とことん馬鹿だったから。だから、俺たちのこと、警察にしゃべっちゃ気の毒だと思ってくれたんでしょう? そんなことしなくても、俺たちが自首すると思ってたんでしょう?」
わかってましたよ、と言った。「少なくとも、俺はわかってた。せっかく猶予《ゆうよ》をもらったんだ、自分たちでなんとかしなきゃいけないって、ずっと思ってた」
「宮永君はどう言ってた?」
垣田は質問には答えなかった。
「俺たち、『アロー』の記事、読みました」そう言った。「それでまた、聡に、『白首しよう』って言ったんです。まだ間に合う、今ならまだ間に合うぞ』ってね……」
風向きのせいか、ここまで離れても、まだ線香の香りがした。宮永聡も一緒についてきているのかもしれない──と思った。
「静かたな」と、私は言った。「落ち着いてる。感情的には、こっちは君に殴り飛ばされても文句は言えないところなのに。なんであんな生殺し的なことをやったんだって、ね」
垣田は薄く笑った。くちびるの端でものを切ることさえできそうだった。
「そんなことしても、聡は戻ってこないからね」
そう言って、まぶたが弛《ゆる》んでしまった──というようにまばたきをし、手の甲で顎をこする。その手が震えているのがわかった。
「それに、聡を自殺させちゃったのは、俺だもの。俺が自首するって言うと、あいつは『おまえは俺の人生までめちゃくちゃにするつもりか』って言った。聡は怖がってたんです。警察に本当のことをしゃべったら、もう画家になる夢だって捨てなきゃならなくなる。何もかもがおしまいだって。その気持ちと、俺との板挟《いたばさ》みになっちまったんだ」
目撃者の証言によると、宮永聡は、飛び込む直前まで、欄干にもたれて神田川を見おろしていたという。
発作的に、ぷつんと糸が切れるようにして、死へ落ちていったのだ。
「『檸檬《れもん》』へ絵の具を買いに行くっていって、出かけてったんだ。次の──作品を描くのに、どうしてもカドミウム?イエローが欲しいからって」
言葉を切って、また宙を見つめている。目の前にある家の門や壁や道端の看板を見ているのではなく、そのときの様子を頭のなかで再生しているのだ。そして考えている。もし、いっしょについて行っていたなら。もし、俺が行ってやると言っていたなら。
「マンホールの蓋を開けようって言い出したのは、聡だったんです」
淡々と、説明するだけの口調だった。
「俺、『そんなの無理じゃない?』って言ったんだけど、やってみたらできた。バールとジャッキを使って、挺子《てこ》にしてね。案外簡単だなって、二人で笑ったんです。あの時は本当に、そこに誰かが落ちるなんて考えてもみなかった。あそこは少しくぼんでて、大きな水溜《みずた》まりになってたから、ああしておいた方がかえって危なくないって思ってたんだ」
(近所の人たちだって、きっと喜んでくれる)
「でも、そんなの誰も信じてくれやしないって、聡は言ってた」ほとんど聞き取れないほど低い声で、垣田は言った。「無理だよ、そんな言い草、警察が信じてくれるわけがない。俺たちは犯罪者にされちまう、って。それほど怖がってたんです」
立ち止まると、やっと私の方を見た。
「こうも言ったんですよ。『黙ってりゃわかりゃしない。あいつらだって、なんにも証拠を握ってるわけじゃないんだ』。あいつらって、あなたとあの子のことですよ。もっとひどいことも言った。『俺があいつらを片付けてやるよ。そうすりゃ、もう心配しなくていいだろ』」
「彼、本気でそう言ったのかな?」
ちらりと脳裏をよぎったのは、尾《つ》けてきたあのグレイの国産車のことだった。後頭部の辺りを一瞬見ただけだったが、運転者はたしかに男だった。万にひとつ、ひょっとして、ということはある。
だが、気が抜けたように、垣田はだらりと首を振った。「言うだけはね。だけど、実行なんかできるわけない。だからあいつは、自分が死んでいっちまったんだ」
そう──現実に彼は自殺してしまった。
垣田俊平は、数日間まともな睡眠をとっていないようだった。疲労のせいで、足をひきずるようにして歩いている。どんなに日を選ぼうと、やはり今日は友引の葬儀であるに違いなかった。
何か言おうとして言葉に詰まり、垣田は何度も唾《つば》を呑《の》み込んでいた。
「俺たち、すっごい気があってたんです」
声を励まして、彼は続けた。
「友達になったのはでっかくなってからだったけど、なんか、ほかのヤツとは全然違うって思ってた。聡は言ってましたよ、オレたちのおふくろは、きっと、同じ粉ミルク、同じ紙おむつ、同じタルカム?パウダー、同じ離乳食を使ってたに違いない、って」
すっごい気があってた──そう繰り返して、低く付け加えた。「意見が正反対になったのは、今度が初めてでした、俺は自首したかった。聡は嫌《いや》がった。絶対に嫌だって。初めて意見が食い違っちゃった」
気が合ってた、でも意見が違ってた。どこかで聞いた台詞《せりふ》だと思ったら、稲村慎司と織田《おだ》直也のことだった。
「俺、聡の葬式が終わったら、警察へ行きます」
足元に視線を落としたまま、垣田俊平は言った。
「聡の自殺の原因がわからなくってみんな首をひねってるんです。でも家の人たちは、あいつの様子がこのごろおかしかったことを、事情を訊きにきた刑事さんに話したそうですよ。自殺の仕方が劇的だったんで、警察も気にしてるんだな。放《ほう》っておいても、そのうち『何かある』ぐらい感付かれちまうかもしれない。俺、そんなことにはしたくないんです」
宮永家の方を振り向くと、何かがしみているかのように、目を細めた。
「もう聡は死んじゃってて、弁解はできないんだ。勝手なことを憶測されたくない。自首して打ち明ければ、警察だって、そうじゃない犯人を取り調べるときとは違って、少しはこっちの言い分にも耳を傾けてくれるでしょう?」
「そうだね」と、私は言った。
「だから、お願いします。俺たちに会ったこと──あの日、ハイアライであったことは、忘れてくれませんか? 俺──いえ、俺たち、あくまで自主的に警察に話したんだって思ってもらいたいんです。いけませんか?」
その頼みをきくのは易しいことだった。ずっとそれを期待していたからこそ、彼らのことを誰にも話さないできたのだから。
私は頷いた。「ただ──」
「ただ、なんですか?」
「その気持ちがあったなら、宮永君を説き伏せて、彼が自殺なんかしないうちに一緒に警察に行けたらよかったろうに、と思ったんだよ」
垣田が素早く目をそらしたので、私は続けた。「もちろん、自戒をこめて言ってるんだけどね。俺ももっと君らに働きかければよかったんだ。放っておかないで」
「ヘンに説得されたりしたら、俺たち、余計に逃げだしたくなって、もっとひどい結果になってたかもしれません。だからそれは、いいんです」
ひと言ひと言、噛《か》みしめるようにして、そう言った。それを聞いて気分が軽くなったわけではなかったが、これ以上、何もできることはなくなったということは、確認できた。
「俺、あの子にも話します。警察に行くよって」
垣田はやって来た方へ引き返し始めた。
「だから、もう何も気にしないでくれって、話します」
宮永家に戻り、彼がそのとおりにするのを、私は眺《なが》めていた。何も言わなくても、慎司はすべて察知しているかもしれない──と、生駒《いこま》に聞かれたら「また、はまってるな」と言われそうなことを考えながら。
話の終わりに、垣田が慎司の手をとって、握手するように握り締めた。感動的にも思える光景だったが、私は今ひとつピンとこないものを感じたし、慎司もほとんど無表情だった。垣田に右手を握られたまま、粘土細工の人形のような平たい顔つきで、じっと見上げているだけだった。
私がピンとこなかったのは、垣田が最初から最後まで、死んでしまった七歳の子供について、彼の言葉で語ろうとしなかったからだった。「たいへんなことをしてしまった」と言っているのも、子供が死んだからではなくて、自分が法に触れることをしてしまったから──だから「たいへんなこと」なのだと言っているように聞こえた。
今の若者は、案外そんなものなのかもしれない。
出棺のとき、人に押されて前の方にいたのと、学生服を着ていることとで、慎司は身内の者と勘違いをされたらしい。業者が白い菊の花を彼に手渡して、「棺に入れてあげてください」と言った。