慎司は少し戸惑った顔をしながらも、言われたとおりにした。ただ、菊を棺に納めるときには、左手でそうした。それに何か意味を感じているかのように。
霊柩車《れいきゅうしゃ》が出ていったあと、三々五々散ってゆく会葬者たちに混じりながら、稲村徳雄がそっと訊いた。
「慎司、おまえ、あの人から何か読んだのかい?」
慎司はぼうっとした目を父親と私に向け、「なんにも」と答えただけだった。そして、先にたって歩きだした。
私は稲村徳雄に、元警察官で、私よりはずっと頼りになるかもしれない人物を、慎司に引き合わせることができるかもしれない、と話した。あくまで、それを慎司が望むならばの話だが。
「それは有り難いことです」と、父親は言った。「その人が、私よりもうまく慎司を助けてくださるといいんですが」
「あまり期待されると辛《つら》いんですが。我々にもまだ、どんな人物なのかわからないんですから」
「藁《わら》にもすがりたい気分なんですよ」稲村穂雄は、淋《さび》しそうに笑った。「こういうことがありますとね」
「慎司は小さな背中を見せて、我々より先に歩いてゆく。殺風景な埃《ほこり》っぽい道を、一人、てくてくと。
垣田俊平は約束を守った。
葬儀から三日後、彼の名前は新聞に載った。刑法に詳しい昔の同僚にあたりをつけて訊いてみると、あまり大きな罪に問われることはないだろう、と教えられた。
「マンホールの蓋を開けておいたら、そこに人が落ちて死ぬかもしれない──という危険を認識してなかったわけだろ? たしかにドジな話だがね。過失致死だから、ま、二十万円以下の罰金刑だな。法律より、むしろ社会的な制裁の方が大きいだろうけど、最近は世間も忘れっぽいしなあ」
ひとつケリがつくと、ひとつお代わりがくる。ぼうっとしている場合じゃないよ、とでもいうかのように、その日の午後、またあの封書が届いた。八通目だった。
今度は「怒」と書いてあった。
その三日聞は、「たまには働け」というデスクの仰《おお》せで、慎司のことも直也のことも棚上《たなあ》げにして過ごしていた。
「ここで他人の倍働いとけば、あとはまたしばらく勝手に泳がせてやるからな」
というわけで、多忙だった。おまけに、ぎりぎりになって五折の特集記事を全部差し替えるという離れ業をやってのけなければならなくなり、編集部全体がほとんど殺気立ってさえいた。うっとうしい手紙になど神経を立てていられる気分ではなかったから、ろくすっぽ見もしないで、他の七通といっしょに輪ゴムで束ね、今までどおりに机のいちばん下の引き出しのいちばん奥に放りこんでしまった。郵使物を配りに来ていた水野|佳菜子《かなこ》が、なかば咎《とが》めるような表情でこちらを見ていたが、彼女にも声をかけはしなかった。
あれから、電話はかかってこない。通話録音できるようにつないだレコーダーは開店休業で、埃をかぶっている。生駒がまめに川崎明男に電話を入れて様子を訊いてくれているのだが、あちらも平穏無事だという。私の自宅の方にも、赤いペイントで物騒な落書きをされることはない。三日間、かなりあちこち飛び歩いたが、気がついた範囲内では、尾行されたこともなかった。
二日目の夜、一度だけ三村七恵に電話をかけた。といっても、また受話器を叩いてもらうだけだから、簡単な話しかできなかったが。
「何か変わったことは起こってませんか?」
ノー
「織田君が連絡してきたということは?」
ノー
「もし連絡があったら、頼むから教えてください。こちらも、決して彼のためにならないことを考えてるんじゃないんです」
返事なし。
「駄目《だめ》ですか」
黙っている。
「三村さん、ひょっとしてあなたは、織田君はもうあなたには連絡をとってこないと思ってるんじゃないですか?」
イエス
「なぜです? 彼、それほどまでして隠れたいんだろうか」
ややあって、イエス
直也の件では、稲村慎司からも連絡がない慎司は彼を引っ張りだしたがっているのだから、精一杯<呼んで>いるはずだ。それでも通じないというのは、直也が応《こた》えていないからだろう。
さもなければ、最初から、空に向かって<呼ぶ>などということがあり得ないのか。
何があり得て何があり得ないんだか、自分でもわからなくなってきている。
コツコツ、と受話器が鳴った。もしもし? という意味だろう。
「すみません。三村さん、謝りついでにひとつ訊きます。あなたは織田君を呼んでみたことがありますか? 彼と連絡をつけるために、頭のなかで彼を呼ぶんです。やってみたこと、ありますか?」
七恵はずっと返事を寄越さなかった。受諾器を握って待っていると、かすかな雑音に満たされた沈黙のなかに、またあの金属のきしむような音が聞こえる。ごく小さいが、最初にかけたときと同じ音だった。
これは何の音ですかと訊《き》いても、うまく答えをもらうためには、一晩かかるだろう。もどかしいものだ。だが、七恵はこのもどかしさのなかで、過去を生きてきた。現在も生きている。未来も生きていかねばならない。
やがて、ゆっくりと二回、指先で受話器を叩く音が聞こえてきた。
イエス。
私が「ありがとう」と言うと、電話は切れた。
2
鼻先にぶらさがっているスニーカーの爪先《つまさき》に、私は言った。「危ないな。降りてこいよ」
スニーカーの持ち主は稲村慎司で、まだ緑色をした葉をびっしりとつけたすずかけの木に登り、大振りの枝にまたがって足をぷらぷらさせているのだった。
「大丈夫ですよ。落ちやしないもん」と、呑気《のんき》に答える。
彼が直也と会ったり、一人で頭を冷やすときにくるという、あの小さな児童公園だった。慎司が言っていたとおり、好天の秋の午後だというのに、閑散としている頭の上を走っている高遠道路のために、陽射《ひざ》しはほとんどさしこんでこない。傍《かたわ》らのブランコの支柱に手をかけると、ひんやりと冷たかった。
「君の趣味が木登りだとは知らなかった」
「子供の頃《ころ》、やりませんでした?」
「うちの近所には柿《かき》の木しかなかったもんでね」
「柿の木って、登っちゃいけないの?」
「脆《もろ》いんだよ」
「へえ、知らなかった。世代の差ですね」
気持ちよさそうな顔をしている。すずかけの棄の色が頬《ほお》に映り、青ざめたように見えるが、降ってくる声は元気だった。
「お父さんから聞いたかい?」
「警察官だった人のこと? うん、聞きました」
「会ってみる気はあるかい?」
慎司が大きく頷《うなず》くと、黄色味を帯びた葉が二、三枚落ちてきた。「いっぱいあります」
「よし、じゃ、セッティングするか」
「取材する?」
座り直し、足を並べて揺すりながら、見おろしている。真剣な目だった。
「僕のこと、『アロー』に書くんですか?」
「書いてほしいの?」
「──わかんない」
「じゃ、こっちもノーコメントだ」
「ずるいなあ。でも、面白いね。僕が嫌だって言ったら書かないの? 普通はそんなことないんでしょう」
「ノーコメント」
あはは、と笑う声が聞こえた。「政治家みたいだね」
公園に来るなんて、ずいぶん久しぶりだった。腕を組んで歩く女性もおらず、手を引いて連れてくる子供も持っていないと、縁のない場所である。
「以前、言ってたよな。こんな能力を持って生まれてきたからには、他人のために役立てたいって」
ややあって、「うん」と返事をした。
「今度会うその元警察官が、君のためにそういう道を開いてくれることになるとしたら、当局は君の存在を世間から隠したがるだろうと思うよ」
「そう?」
「そうさ。顔を知られてちゃ、サイキック探偵《たんてい》も何もあったもんじゃない。芸能人と同じぐらい追いかけ回されるぞ」
「サイキック探偵か」慎司はつぶやき、また足を揺すった。
「カッコいいじゃないか」
「全然。てんでカッコ悪いよ。フィリップ?マーロウとは違うもん」
久しく、(僕を信じてくれる?)という台詞《せりふ》を聞いていない。慎司も疲れているのかもしれなかった。
「わざわざ来てくれて、ありがとう。だけどさ、うちの父さんも母さんも、どうして、高坂さんの顔を見るとあんなにうろたえちゃうんだろうね? ヤクザでも来たみたいにさ」
私に会えば、嫌でも状況を思い出すからだ。もう慎司を──慎司の能力を、家のなかだけのものに止めておけなくなったことを、改めて思い出すからだ。
「もう、あんまり高坂さんを悩ませないようにするからね」
「それほど悩んじゃいないよ」
「そうがな。でも、緊張してるよ。わかるもの」足の揺れが止まった。「あ、そうか。ほかに心配事があるんだね」
手をあげて、彼のズボンの裾《すそ》を引っ張った。「降りておいで。さっきからそれが心配なんだ。枝がみしみしいってるぞ」
慎司は動こうとせず、黙っている。やがて、静かにこう言った。
「落っこちて死ぬなら、それでもいいんだ」
夕暮の風が吹き抜けて、すずかけの木を騒がせていった。
「僕がどうして台風なんか見に行くんだと思う?」
私は頭上を見上げた。「台風を見に行く?」
「うん。あの夜も、ツーリングの計画違いで台風に巻き込まれたわけじゃなかったんだ。最初から、嵐《あらし》を見に行ったんだもの」
「妙な趣味だ」
また、枝が鳴った。
「ほっとするんだ。ああいう──自然の大きさを見てると。僕なんか、取るに足らないちっぽけなものなんだってわかるから。僕、ときどきすっごく自分が偉くなったような気がしちゃうからさ。他人のこと、なんでもわかるから。そういう選ばれた人間なんだって思っちゃう。それって、嫌なことだよ」
最後の台詞は、苦い自己|嫌悪《けんお》に満ちていた。
「直也、僕が呼んでも返事をしてくれないよ」
「そうか」
「もう、お別れなのかもしれない。僕ら、選んだ道か違うんだ。彼はね、この力を他人のために役立てることなんか不可能だって、いつも言ってた」
三村七恵の顔を思い浮べながら、私は言った。「そうでもないと思う」
「もし、本当にそうしようと思うなら、普通の人の力を借りようなんて思っちゃダメだって。マンホールのことで、僕が高坂さんにしたみたいにね。全部自分一人でしょって立つ気構えがないんだったら、他人の身に起こることに関《かか》わっちゃいけないってさ」
織田直也は、どういう試行錯誤を経た上で、その結論にたどりついたのだろう。いさかいを繰り返す母と祖母の姿を見、人生の目的を見失って酒に搦《おぼ》れてゆく父親と暮らしながら、彼らの本音を、苦悩を、夢や希望をまのあたりに知り、なおかつ自分の力ではどうしようもないとわかったとき、すべてを切り離して生きてゆく道を選びとったのだろうか。
「僕、わかんなくなった」と、慎司は小声で言った。「直也の言うことが正しいような気がしてきたから、わかんなくなっちゃったんだ」
その直也にも、君には見せてなかった一面があったんだよ、と言いかけたとき、今度は本当に不吉な音がして、枝がぐらりと傾いた。
「うわっ!」
叫びながら、なかば飛び降りるようにして、慎司が尻《しり》から落ちてきた。飛び付いて受けとめると、すずかけの葉が雨のように盛大に降ってきた。
枝は完全に折れはしなかったものの、幹との分かれ目がささくれだったように弾《はじ》けて内側の白い肌目《はだめ》がのぞいている。
手を貸して立ち上がらせると、慎司はズボンをはたきながら、
「ああ、びっくりした。公共物破損かなあ。悪いことしちゃった」
そして、私の手を離すときに、ちょっと首をかしげて笑みを浮かべながら言った。
「誰か女の人のこと、気にかけてるね」
「え?」
「今、わかった。ごめんね。盗み見しちゃった」もうしないよ、というように手を背中に隠して、「悪いクセだなあ、僕の。でも、その人、いい人みたいだね」
「なんでわかる?」
「あったかかったから。僕が触れた<記憶>が、さ。この前の<サエコ>って人とは違うよ。全然違う」
そこまで言われてしまうと、その女性が直也のガールフレンドだよとは話せなくなった。
「嫌《いや》なヤツだ」そう言ってやると、慎司は微笑した。
「そうだね。ホント、やなヤツだって自分でも思う。──だけど僕、ひとつわかったことがあるんだよ」
僕は原石を見るんだ、と言った。
「心のなかにいっぱい隠されてる原石をね。その人の心をつくってる原石。だから、それだけじゃ完全じゃない。その人が、それを取り出して研《みが》いていかなきゃね。前に<サエコ>って人をスキャンしたときは、まだそれがわかんなかったから、高坂さんがずっとその<サエコさん>のことで苦しんでるんだと思ってた。でも違うんだね。それはとっくの昔にしまいこまれてて、もう研かれたり取り出されたりすることのなくなった原石だったんだ」
あの時、慎司にひどく謝られて、逆に動揺したことを思い出した。俺はまだそんなにも小枝子《さえこ》にこだわっているのか、と。
「だから、迂闊《うかつ》に過去をほじくり返して突き付けたりすると、かえってその人を混乱させちゃう。それがわかったんだ」
本当に久しぶりに、見ているこちらも気が軽くなるような笑顔をつくって、慎司は言った。
「今、すっと撫《な》でるみたいに触っただけだったけど、あったかかった。気持ちよかったよ。だからきっと、その女の人は高坂さんに必要な人なんだと思うな」
結局、三村七恵のことは話せないままになってしまった。
3
学友社の教育雑誌「みらい」の編集部は、神田須《す》田《だ》町《ちょう》にある共同ビルのワンフロアを占領して、なおかつ混雑をきわめていた。
「おう、ここだ、ここだ」と手を振る清《し》水《みず》正《まさ》紀《き》のそばに近寄るまで、紐《ひも》でくくられたまま床に積み上げられている雑誌の山を、ふたつ乗り越えなければならない。私は首尾よく跨《また》ぎこえたが、生駒は見事に失敗した。
「ベルリンの壁は崩れるもんだ」と、彼が、そばの机で校正刷りをチェックしていた女性編集者に笑いかけると、相手は赤ペンで生駒の腹を突き刺す仕草を返してきた。
「だから無理に来なくてもいいって言ったのに」
「そうはいかねえ。俺《おれ》はスキャンダルは大好きだ」
清水は私が「アロー」に移ってからできた友人で、「みらい」の副編集長をしている。パラボラアンテナのような耳を持っており、お堅い雑誌で全国の善良な親たちに子供の正しい青て方を説く一方、教育業界の裏話に通じている人物だった。
「狭くてどうしようもないんだ。悪いね」
椅子《いす》を二脚、適当に拉致してきて勧めてくれながら、清水は言った。
「でも、<洋明学園>のプロフィールを知りたいっていうんなら、うちの特集を読むだけだって用は足りると思うぜ」
<洋明学園>こそ、小枝子の夫川崎明男が副理事長を務めている名門高校である。
「もうちょっとプライベートなことまで聞きたいんだ。活字にできないような」
「たとえば?」
「川崎副理事長の女間係とか、さ」
清水は大笑し、大きな耳にはさんでいた煙草《たばこ》をとった。いや、禁煙パイポを取ったのだった。
「禁煙したのか」
「試みてんだよ。やり抜けそうだぜ」と、得意そうに鼻をうごめかす。ついでに耳たぶも。彼の耳をパラボラアンテナだというのは、象徴的な意味だけではないのである。
「編集者が禁煙するようじゃ、この世の終わりだ」生駒は不《ふ》機《き》嫌《げん》そうにうそぶいた。
「俺が肺癌《はいがん》で死んじまうと、日本のよい子たちが将来を誤る──なんてことはないけどさ。赤ん坊が生まれたんで、決心したんだ」
「これだから、親父《おやじ》の権威ってもんが失《な》くなるんだ。だから教育雑誌が必要になる」
生駒は頑張《がんば》ったが、顔は笑っていた。
「で? 副理事長の女関係?」
「そう。スキャンダルがあるんなら、もろもろ何でも結構」
よっこらしょと足を組みながら、清水はずばりと言った。「彼は秘書とできてる[#「できてる」に傍点]」
生駒が横目で私を見た。
「三宅《みやけ》令子か?」
「そうだ。会ったことがあるのか? いい女だったろ」こめかみに指をあて、「ここも切れる」
「夫人はそのことを知ってるのかな?」と、生駒が訊いた。
「知らないんじゃないかなあ。我々のあいだじゃ有名な話だが、こっちも、わざわざ夫人の耳に入れようとするほど馬鹿《ばか》じゃないですからね。みすみす家庭の平和を壊すこともないし、うちはその手のスキャンダルで儲《もう》けてるわけじゃないから、腹の足しにもならないし」
「どれぐらい続いてるんだろう」
清水は頭をかしげた。「俺が副編になったときには、もう始まってたよ」
これには驚いた。清水が「みらい」の副編になったのは四年前の春だと聞いている。それきり、べた凪《なぎ》の海のヨットのように動かないままでいるのだ。
「それじゃ、結婚前からじゃないか」
「そうさ。もともと川崎は、三宅令子と結婚したがってたんだ。親父の理事長の大反対にあって、拉く泣く諦《あきら》めたんだぜ」
「理事長はなんで反対したんだ?」
「身分が違う」清水は言って、ふき出した。「時代劇じゃないぜ。現代の話だ上の方じゃ、そういうことがあるんだよな」
三宅令子は埼玉県草加市の出身で、地元の県立高校を首席で卒業し、すぐに洋明学園の事務局に就職して、二年後に副理事長の秘書になった。三年前に当時の副理事長が職を退いて、あとを川崎が襲ったときも、彼女はそのまま動かず、現在も彼に直属しているというわけだった。
「人柄《ひとがら》は申し分ないが、まず本人が高卒だろ? おまけに家が小さいんだ。町の文房具屋でね。親父さんは中学しか出ていない。たしか兄貴が一人いるはずだが、彼もトラックの運転手かなんかをやってる。俺なんか、それでいいじゃないかと思うけど、毛並みの良いおうちはそうもいかないんでしょうよ」
「しかし、明男の夫人だってあそこの教師の娘だろ?」
「なんだ、詳しいじゃないか。そうだよ。でも、少なくとも大学出の両親で、親父はなかなか優秀な教員だ。相馬《そうま》さんって言ったっけなあ。もう定年退職してるけど、恐い先生で有名だったらしいし、がっちがちの理事長派でもあった。その娘なら、まあいいだろうというところだったんじゃないか。で、理事長が音頭《おんど》をとってまとめた結婚だ」
生駒は目をぱちぱちさせていた。「俺がつかんだ情報じゃ、明男が今の夫人を見初めたんだってことになってたぞ」
「ああ、そりゃ表向きのことですよ」清水がひらひらと手を振る。
「そうかねえ。俺も、表向きのことに騙《だま》されるほどヤワじゃねえつもりだが」
「ただ、フィールドが違うでしょう。いくら名手でも、象射《ぞうう》ち銃を持って南極へ行ったって、鯨は捕れないやね」
あっさりといなされて、生駒はむくれ顔になった。
通りかかった不運な女の子に「おーい、コーヒー三つ」と頼んでから清水は乗り出してきた。
「ここだけの話だぞ。どうやら、密約があったらしいんだな」
「密約?」
「そう。理事長と副理事長の父子《おやこ》のあいだにね。三宅令子とは結婚させない。彼女と結婚するなら、おまえをここから迫い出す。だが、俺の選んだ女性と所帯を持つのなら、ゆくゆくは理事長の席もすんなり譲るし──」
清水は意味ありげに目くばせをした。
「水面下でなら、令子との関係を続けていても、何も文句は言わないよ、ってなもんだ」
呆《あき》れたような沈黙のあと、生駒がうなった。
「とんでもねえ親父だ」
「そうですねえ。俺も、自分の娘をそんなところに嫁に行かせようとは思いませんよ」
「なぜ、そんなに三宅令子を嫌《きら》うんだ?」
怒る生駒に、私は言った。
「東大への進学率を自慢にしている高校の理事長夫人が県立高校卒じゃ、絵に描《か》いたような自己矛盾じゃないか。諸君、学歴なぞ問題ではない。人柄と能力こそが大切だ。東大なんぞへ入らなくたって、人生を切り開くことはできますぞ」
「そういうこと」と、清水が頷《うなず》く。「もともと、川崎明男は、東大、東大とわめく親父さんのやり方にかなり反発してた。それでも、反発しきって親父の懐《ふところ》を飛び出すだけの覇気《はき》はなかったから、結局言いなりになるしかなかったんだ。理事長の椅子には、それだけ魅力があったんでしょうよ」
「事実、明男はもうすぐ理事長になるんだろ?」
「十中八、九確実に。ひょっとすると年内かもしれない」清水は残り少ないカレンダーを見上げた。「今年の春、今の理事長が卒中で倒れてね。軽かったんで入院は短かったんだが、事実上、もう引退したも同然だ。今だって、明男が理事長を代行してる。ただ、彼の親父さんにはとりまきが大勢いるからね。明男が理事長になったとしても、いろいろうるさいことはついてまわるだろうな」
「呆れたな。彼ら、親父と息子だろうが。親子でいがみ合ってるわけか?」と、生駒が目を剥《む》いた。
「よくある話ですよ。<学校だ>と思うからピンとこないんでしょうけど、ただの法人だと割り切ればいい。どこにでもゴロゴロしている内輪揉《も》めと同じです。言うことをきかない身内の二代目よりは、腹心の部下の方が頼りになる、というわけ」
女の子がコーヒーを持ってきてくれたので、清水は愛想よく礼を言った。彼女の肘《ひじ》をつつき、私の方へ手を振って、「俺の友達。独身だぞ」と余計な注釈をした。
「だよな? それともあてができちまったか?」
女の子は「あら、でもあたしには彼がいるもん」と言いながら去って行った。
「理事長は息子に、今みたいな余計なおせっかいをしたわけだ」
「そういうわけ。ただ、親父にして権力者であったからして、ただ<どうだ?>なんてつっついただけじゃなしに、横車を押し切ったわけなんだ」
「しかし、今の夫人もよくそんな縁談を承知したもんだ。小枝子さんとか言ったっけな。まだ若いたろう?」
生駒の質問に、清水は頷いた。
「そうですね。まだ二十四、五じゃなかったかなあ。やっぱり美人ですよ。世間知らずのお蟻さんて感じの女性だから、こちらもお父さまの言いなりだったんじゃないかなあ。それとね、これは確認がとれないんで大きな声じゃ言えないんだけど──」
と、さらに身を乗り出してきた。
「小枝子夫人の方にも、ちょっと事情があったようでね。過去に一度──今から三、四年前らしいけど、結婚式の直前に話がつぶれたことがあったようなんですよ。もち、別の男だけどね。それが尾を引いてて、副理事長との縁談なら願ってもない、まとめちまおうという計算があったんじゃないかなあ。その相手がどんな男だったか、俺も知らないんですけどね。ガード、堅いから」
顔をしかめている清水に、(それ、俺だよ)と言ってやったら、椅子ごとひっくり返るかもしれない。同じようなことを思っているのか、生駒がにやついた。
「ははあ、あんたにも知らないことがある」
「そりゃね。だいいち、夫人のスキャンダルなんて、価値ないからね」
「価値のあるスキャンダルの方を聞かせてくれよ。川崎明男がつつがなく理事長になれそうなのは、今の夫人と結婚して、親父さんの意に逆らわず学校を運営しているからか?」
「とりあえずはね。それでバンバン繁盛もしている。でも、彼の代になったら、洋明は変わると思うよ。その変革のための資金を貯《たくわ》えておくために、今は明男も目をつぶって偏差値エリート養成所をやってるような節もある。だから、俺としちゃ、その変革は歓迎してやりたいけどね」
いい店があるからと言って、清水は我々を近くの居酒屋に引っ張っていった。そこはどうやら「みらい」のスタッフの溜《たま》り場《ば》であるようで、だんだん人数が膨れあがり賑《にぎ》やかになって、なかなかお神輿《みこし》をあげるきっかけがつかめず、生駒と二人で店を出たときには、そろそろ十一時になろうとしていた。
「教育雑誌の編集者が、あんなに飲んだくれるとは」盛大にげっぷをもらしながら、生駒が言った。「日本の未来は明るいな。少なくとも、おかみが酒税を取りっぱぐれる心配だけはねえ」
人通りの絶えた道を靖国《やすくに》通りの方へ歩いてゆくと、さすがに夜気が身に沁《し》みた。
「えらく正気だな。酔ってねえだろう」
「うん」
「何を考えてんだ?」
「計算が狂った」
「じゃ、電卓を使え。俺はそろばん三級だからあんなものはいらねえが。なんの計算だ?」
「三宅令子かと思ったんだ」ちらっと見上げると、生駒は金時の火事見舞いを地でいくような顔色をしていた。「あの脅迫状」
「なんでまた」
「やり方がセコいだろ? ありゃ、本物の脅迫じゃないよ。本当にその気があって俺を震え上あがらせようと思ってるんなら、もっとやり様《よう》があるじゃないか」
「いきな。ズドン、か?」ちょっと笑い、生駒は顔を引き締めた。「確かになあ」
「尾行にしたって、いやに諦めがよかった。赤ペンキの落書きだってそうだ。わざわざ自宅までペンキを持って来てるんだぜ? 恨みを持って他人をつけ狙《ねら》う人間にしちゃ、えらく可愛《かわい》らしいよ」
「想像すると、そうだな。サロペットなんか着てきてたりしてな」
靖国通りに出ると、地下鉄の入り口はすぐそばだった。そこだけ煌々《こうこう》と明るい。
「ふりじゃないかと思うんだ」
「ふり?」
「うん。脅迫のふり。目的はまったく別のところにある」
「どんな」
「ああいうことをやって、さも俺を昔の恨みでつけ狙ってますというふりをして、そこに小枝子の名前を出せばさ、遅かれ早かれ俺は彼女とコンタクトを取ることになる。常識で考えればな。やっぱり気になるからさ」
「そりゃそうだ」
「それが狙いだったんじゃないかな」
私が言うと、生駒は足を止めた。
「あん? どういうことだ?」
「この前も話したじゃないか。俺がこういうことを言っていったら、彼女の亭主は、たとえ理屈では割り切っていても面白くないに違いないって。それだよ。川崎明男を不愉快にさせる。火のないところに煙をたてるんだ」
駅の階段を降り始めると、急に自分の声が大きく聞こえだしたので、声を落とした。
「俺の方は、彼女とはもう何でもないってことがわかってるから、なんで今さら小枝子の名前が出てくるんだろうと首をひねってる。でも、川崎明男がそれを報《しら》された場合、そうストレートに納得するかな? 形として、俺を恨んでるぞ、仕返ししてやるぞという人間がいて、<小枝子さんにも気をつけてあげた方がいいですよ>と言ってるんだ。川崎も一緒に、ただ<おかしいですねえ、なんで今さら女房が?>とだけ思うかな?」
生駒はぽんと手を打った。「それより、<ひょっとするとあの野郎と女房は、いまだに何かあるんじゃねえのか?>と勘繰るのが自然だ」
「そう。少なくとも、少しばかり疑われてもしょうがない。その方が筋が通ってるからさ」
がらんとしたホームに出た。油と金属の匂《にお》いがする。
「こっちも、漠然《ばくぜん》とそれを心配したからこそ、小枝子とだけ話をしようとしたんじゃないか。まだ、今の段階ではそれでいいと思ったから。ところが、先方のガードが堅くて、結局は川崎に向かって話すことになった。で、彼の反応があんまり淡泊だったんで、ついうっかりしちまりたけど、普通はあんなもんじゃないはずだ」
「そうそう、そうだった」
「仮に、こっちがこっそり小枝子にだけ事情を話せていたとしても、彼女だってそう平気な顔をしてはいられないだろうと思う。気味が悪いからな。遅かれ早かれ川崎に打ち明けてしまうか、悟られるかするだろう。そうなりゃ、ことはもっと面倒になる」
生駒は芝居のように声色をつくって言った。「川崎は言う。<なんでもっと早く話さなかったんだ?>。小枝子は答える。<心配かけたくなかったのよ>。で、川崎は勘繰っちまう」
「そういう結果を招いて得する人間と言ったら、三宅令子しか思いつかなかったんだ。尾行してきたのは男だったけど、そんなのは金で人を雇ったってできる。電話の声も変えられる──」
「夫婦の仲をまずくして楽しめるのは、愛人だけだからな」
「だろ? ところが、彼女は確信犯だ。もっと肝が据《す》わってる。そんなまどろっこしい手を使って、川崎と小枝子のあいだをまずくしようなんてしなくてもいい。彼女はがっちり川崎を掴《つか》んでるわけなんだから」
「言ってみりゃ、彼女には<川崎明男アパート>の先住権があるんだからな」
「つい昨日、八通目がきた。<怒>という文字は書いてあったけど、戦術としては後退してる。電話もなし、尾行もなし、ペンキもなし。これは、期待どおりの効果がないと見てるのかな、と思った。で、考えたんだけど──」
「大外れだったというわけだ」
「そう。ご破算だよ」
轟音《ごうおん》をたてて電車がホームに滑りこんできた。
このままだと、今日はまったく編集部に顔を出さないことになるので、わざわざ戻ってきたのだが、そんな必要はなかったようだった。机の上には伝言メモ一枚ない。郵便物もゼロだ。
慎司と例の元警官を引き合わせる段取りができたなら、直也が見つかるまでこれでしばらくは手を引くことになるだろう、と思った。織田直也の捜索は、東京リサーチでもやってくれる。そうなれば餅《もち》は餅屋だ。あとの心配は、彼を見つけてからでもできる。
これまで泳がせてもらっていた分のツケが回ってくるのは、恐ろしくもあり楽しくもあった。なんだかんだ言っても、やはり好きでやっている仕事なのだ。
机の上を片付けているとき、ふと、置いてある本の位置が昨日と違っていることに気がついた。
おかしなもので、自分では勝手放題に散らかしていても、誰か他人の手が入ってそれをいじられたりすると、すぐにピンとくる。縄張《なわば》りを荒らされた野良《のら》犬《いぬ》みたいなものだ。
動かされているのは、あとから買い足したサイキック関連の本だった。失くなっているわけではない。位置が変わっている。
部屋の隅《すみ》の方で、記者が数人、椅子を引き寄せて、資料にでも使うのかビデオを観《み》ている。乗り出して机ごしに声をかけてみた。
「ここにある本、誰かいじったか?」
いじりませんよぉ、という返事が返ってきた。森尾だった。
「面白そうだとは思ったけど、勝手にそんなことはしませんよ」
あとから買ったのは、みな俗っぽい本ばかりだ。「よくあたる霊感占い師百人」などという、頭から信じられないようなものまで混じっている。
「なにか失《な》くなってんですか?」
「いや、そうじゃないけど」
まあ、いいかと思いながら椅子を元へ戻して振り向くと、目の前に水野佳菜子が立っていた。
「お帰りなさい」
ぎょっとした。足音もしなかったのだから。
「猫《ねこ》みたいだな。まだ残ってたの?」
「用があったから待ってたんだもん」
両手を背中に回して、すねたような顔をしている。視線をさげて、机の足の辺りをにらんでいるのが険悪な感じだった。
「そりゃ、悪かった。なんだい?」
森尾がちらっと頭を動かして、こちらを見た。苦笑している。
「なんだよ」
佳菜子はふくれている。ふん、とくちびるを尖《とが》らせて、
「お客さんが来てたの」
「俺《おれ》に?」
「そうよ。五時半ごろに来て、ずっと侍ってた。よっぽど大事な用だったみたいね。何時に帰るかわかりませんって言ったのに、ずうーっと待ってたわよ」
佳菜子は「ずうっと」のところでいやに力んだ。誰だろう?
「ポケベルで呼んでくれりゃよかったのに」
森尾が明るく、だが真面目《まじめ》な顔で声をかけてきた。
「カコちゃん、仕事の邪魔をするのは良くないよ。ちゃんと話せよ」
「女の人よ」と、佳菜子は言った。また机をにらんでいる。「あたしじゃ、用を訊《き》いても教えてくれないの。しようがないかな、しゃべれないみたいだったから」
七恵だ。
私を見上げる佳菜子の目が剣を帯びた。
「へえ、心当たりがあるんだね。ふーん」
「ああ、あるよ。で、その人、どうした? 何時ごろまでいたんだ?」
「ずいぶんご熱心ですこと。あの人、だあれ? どういう人?」
「いい加減にしろよ。ふざけてる場合じゃない」
「そーんなに大事な人なんだ。へえー」
「カコ!」と、森尾が怒った。「やめろよ、馬鹿《ばか》だな。早く預かったものを渡せよ。仕事なんだぞ。おまえ、給料もらってんだからな」