「森尾さんなんかに、おまえ呼ばわりされることないわよ!」
「預かったものって?」
佳菜子は反抗的に顎《あご》を突き出し、「あの人が誰だか教えてくれなきゃ渡さない」
森尾がすごい勢いで部屋を横切ってくると、佳菜子のうしろにまわり、彼女が背中に隠していた茶色い封筒をもぎとって、私に差し出した。
「バカ。ここは女学校じゃないんだぞ」
ちらっと私と視線をあわせると、
「その女性、言葉がしゃべれないみたいで。筆談で、それを渡してくれればわかるって教えてくれました。帰ったのは七時ごろですよ」
「ありがとう」
封筒を開けてみると、見慣れた七恵の字で書かれたメモが出てきた。
<また、あのグレイの車を見かけました。昨夜です。うちのアパートの方を監視しているようでしたので、写真を撮りました。インスタント現像に出してプリントしましたが、ネガも一緒に入れておきます。わたしには、まるで心当たりのない顔です 三村>
写真は六枚あった。連続写真のように、場面がつながっている。
間違いなく、あのグレイの国産車だった。運転者の顔はぼやけているが、あの時と同じ人物であるようだ。一枚目、二枚目では斜め右の方を見ているが、三枚目でははっきりレンズと視線があっている。四枚目で手のあたりがブレ始め、五枚目、六枚目では車は走りだしていた。
夜の写真だ。距離があるのにこれだけ撮れているところをみると、七恵はフラッシュを焚《た》いたに違いない。それに気がついて、相手は逃げだしたのだ。
なんてこった。
七恵は、万にひとつでも、撮られた人物がネガを取り返しにくるかもしれないとは考えなかったのだろうか?
第二日ノ山荘の七悪の部屋には、明かりが点《つ》いていなかった。ドアを叩《たた》いても返事がない。そのうちに、隣人が起きだしてきて、ドアから顔をのぞかせた。年配の女性だった。
「三村さん、お留守みたいですよ」
「どこに行ってるかご存じですか?」
「さあ……」と、平和そうにあくびをしたりした。「そこまではねえ」
「申し訳ない、ベランダの方からでいいんです。ちょっと隣をのぞいてみてくれませんか? 三村さんが留守なら留守でいいんです。確かめたいんですよ」
しばらくじろじろと私を品定めしてから、「ちょっと待っててよね」
隣人はすぐ戻ってきた。眠気がすっとんだという顔だった。
「窓が開いてるわよ。七恵ちゃん、そんな不精なことをする娘《こ》じゃないのに」
急いで建物の裏手に回り、建てこんだ家の隙間《すきま》を縫って窓の方へと近づいた。一階は、ほかの部屋の窓も真っ暗だったが、隣のアパートから漏れる光で、雨戸が引いてないことがわかった、。窓が半分ほど開いているのが見えた。
ちょうど鍵穴《かぎあな》の脇《わき》に、丸い穴が開いているのも。
部屋のなかを覗《のぞ》き込むと、足を天丼に向けているテーブルが目に入った。タンスの引き出しが抜き出され、部屋のなかは気の違った洗濯屋《せんたくや》の仕事場のようになっていた。
靴《くつ》を脱ぎ、ハンカチで手をくるんで部屋にあがると、明かりをつけ、扉《とびら》という扉を全部開けてみた。七恵はいない。姿が見えない。
そして、足元の畳の上に、血痕《けっこん》がふたつ。
本当に総毛立ったのはその時だ。
「おたくの電話で一一〇番してください」
入り口から覗き込んでいる隣人に頼むと、バネ仕掛けの人形のようにすっとんでいった。途中でなにか蹴飛《けと》ばしたのか派手な音が響いた。
畳の上の血痕は乾いていた。ほかにもあるかと探してみると、洗面所の床にもうひとつ残っている。私の頭のなかもこの部屋同様にひっくり返ってしまって、まともにものが考えられなくなった。
「一一〇番しました!」戻ってきた隣人が、大声で言った。
「三村さんの勤め先の電話番号をご存じですか? 近くですよね?」
「ええ、みどり幼稚園。でも、こんな時間には誰もいな──」
言いかけて、隣人は唐突に口を閉じた。廊下の先の方を見ている。そして、「あら」と声を出した。
「帰ってきた」
ドアの陰から、びっくりしたように目を見張った七恵が顔を出した。
4
「何も盗《と》られたものはない、と」
駆け付けてきた警官は、首をひねりながら言った。七恵はこっくりと頷《うなず》いた。
「現金も無事、通帳も無事」警官はにやっと笑う。「阿呆《あほう》な空き巣が、ガラス切りを使って自分の手を切っただけだったというわけだ」
そういうことだった。ガラスの断面にも血がついているというのだ。大山鳴動、どじな賊が一匹。
「ちなみにお嬢さん、大事なものはどこに隠しておいでです?」
警官の問いに、七恵は彼を促して台所へ連れてゆき、小さな瓶《かめ》を指差した。
「糠床《ぬかどこ》ですか?」
頷いて、今度は米櫃《こめびつ》をさす。警官は破顔した。「たいへん結構」
警官には写真のことも含めて事情を説明したが、そばで聞いている七恵がいちばん驚いており、頭の冷えてきた私と、こういうことに慣れている警官は、どうやら同じことを考えているらしかった。
「ははあ」警官は部屋のなかを見回した。「私はかなり空き巣の手口を見ているが、これはどうも芝居がかってると思いますな」
その通りだった。
一見して、テーブルまでひっくり返っていたものだから動転してしまったけれど、ここにこうして七恵が無事でいる以上、乱闘も暴力|沙汰《ざた》もなかったわけだ。そして、彼女の留守にただ写真を探していたのなら、引き出しのついていないテーブルをわざわざひっくり返す必要など、どこにもなかった。しかも、隣人に気づかれないよう、音をたてずに。
これは、ふり[#「ふり」に傍点]だ。
写真を探しているようなムりをしてみせている。そう思った。たまたま今夜、七恵が友達の結婚祝いのパーティで夜遅くまで部屋をあけていなかったなら、こんなことはしなかっただろう。
だいいち、もし本当にせっぱつまって写真が欲しかったのなら、部屋のなかに潜んでいて、帰宅した七恵を捕まえればよかったのだその方がずっと手っ取りばやい。これだけ部屋をヒステリックに荒らしながら、それをためらうほどお人好《ひとよ》しではあるまい。
ということは──
尾行者は、顔ぐらい見られても痛くもかゆくもないわけだ。
ただ、痛いしかゆいと思っていると、こちらに信じ込ませたがっている。それほど重大なことがかかっていると思わせたいのだ。
なぜだろう?
「難しいですなあ」と、警官は言葉とは逆なのんびりした口調で言った。「ここを監視されてたって言ってもね。あんた、マスコミの人でしょ? いろいろあるでしょうからな」
「ただ、三村さんは無関係ですからね。ですから、写真を探しているようなふりをしたということより、それ以前に、昨夜《ゆうべ》彼女を監視してたということの方が気になりますよ」
「だって、あんた、しょっちゅうここに出入りしてるんでしょう?」警官はなんでもないことのように言った。「そんなら、あんたが来るんじゃないかと思って張ってたんでしょうが。違うの?」
違うんですよ、と言っても、ほとんど信用されなかったようだった。
「ま、パトロールは強化しましょう。明日また伺いますからね」
警官たちが引き上げていき、隣室の女性も、
「七恵ちゃん、今夜はうちに泊まりなさいよ布団《ふとん》、敷いておいてあげるから。こんなところじゃ寝られないもんね」と言って消えてしまうと、彼女と二人になった。私は、ひとつだけ正常な位置で生き残っていたフロアソファに陣取り、七恵はスカートを広げてぺたんと床に座っていた。ちょっと途方にくれているように見えた。
「無鉄砲な人だ」
苦笑しながら、私は言った。七恵はくたびれたように首をあげてこちらを見た。
「いいですか、今度誰かに監視されるようなことがあっても、簡単に写真なんか撮っちゃいけませんよ」
七恵はあちこちをきょろきょろと見渡して、ホワイトボードを探しているようだったが、どこにもぐりこんでしまったのか、見当らない。私は手帳を出し、ボールペンを抜いて手渡した。
<わたしも、あなたを監視してるのは、商売がたきの人だとばっかり思ってました>
「我々は普通、そんなことはしませんよ」
七恵は大げさに(あらまあ)という顔をした。
<なぜ、あなたは監視されたり尾行されたりしてるんですか>
「さっぱりわからないんですよ」
<心当たりがないんですか>
「全然ね」
<織田さんはあの夜、あなたがたの仕事にはこういうことはつきものだから、あなたはご自分で、どうして監視されているか、理由を知っているだろうと言ってました>
「彼は勘違いしてるんですよ」
<織田さんはかんちがいなんかしません。人の心を読むんだもの?
ストレートに来たので、私は七恵の顔を見た。彼女はきっぱり頷いた。
<あの夜だって、そうです。あなたを監視している人がいることも、空気のなかにその人の考えが流れていて、それを読んだから、わたしを通して教えてきたんですよ>
「へえ」と声に出して言うと、七恵はちょっと気を悪くしたような目付きになった。
「じゃ、教えてください。彼、僕を監視してたのはどういう人間だと言ってました?」
<その人は、ただ退屈してただけだって>
「ははあ。なるほどね。それなら、今夜から枕を高くして眠れるな」
<本当です。だから、そんなに危険は感じなかったけど、気分のいいものじゃないから教えてあげたらって、わたしに言ったんですから>
それだけ書くと、(ご不満ですか?)という手つきでぐいと手帳を差し出してきた。
私はゆっくり言った。「あなたはずいぶん彼を信頼してるんですね」
大きく頷く。
七恵の手から手帳を取り上げて、彼女が書いた文章を読みなおしてみた。
(空気のなかにその人の考えが流れていて)
直也は危険なくらいしょっちゅうオープンになっていると、慎司は言っていた。オープンになると、夜、人けの絶えた駐車場で張り込んでいる人間の思念など、酔っ払いの胴間声と同じようにはっきり聞き取れるのかもしれない。
本当にサイキックだったなら[#「本当にサイキックだったなら」に傍点]。
七恵がそばに寄ってくると、私の手を下敷きに文章を書いた。
<織田さんの能力のことはご存じなんでしょう?>
「ええ、知ってますよ。でも、信じてはいませんね」
七恵は驚いたようだった。<どうして?>
「目の前で見せてもらったことがないんですよ。それに、彼自身、そういうカを持っているとは言ってなかったし。むしろ否定的でしたよ」
<こわがってるからです>
「どうして?」
七恵はしばらく考えた。そしてこう書いた。<一眼国《ひとつめこく》というおはなしをご存じですか>
つかまえて見せ物にしようと、一つ目の人間の住む国を探しにいった人間が、逆につかまえられて見せ物にされるという話だ。
「知ってます」
そういうことです、という表情で、七恵は私を見上げた。
<わたしは、盲腸にかかったときに、彼と知り合ったんです>
「盲腸?」
<夜中にお腹が痛くなって、どうしようもなくていたときに、彼がドアをノックして、具合が悪いんですかときいてくれました。びっくりしましたよ。それで、あとになって、どうしてわかったのかきいてみたら、はなしてくれたんです>
一字一字、確かめるようにして書いてゆく。
<わたしは、こどものころに、家の近くの化学工場で爆発があって、それが原因で、声をなくしました。田舎に帰ると、ほかにも何人か、同じ障害をせおった人がいます。薬品のまじった煙で、喉《のど》が焼けたんです。でも、命が助かっただけ、運がいい方でした>
「ご家族は?」
<父はその工場の技師でした。事故で亡《な》くなりました。母は、事故のために、肺を半分とってますから、寝たり起きたりのくらしです。兄夫婦といっしょに住んでいますけど>
「なぜ、あなた一人が東京へ?」
<地方では、なかなかわたしにできる仕事がないんです。やっとこちらで見つかったので、出てきました。いつまでも、兄をたよっているわけにもいきませんし>
「子供たちを教えてるんですね?」
七恵は頷いた。<ろうあの子供たちに、手話をおしえたり。みどり幼稚園は、とてもめずらしいんですが、そういう子供たちを健常者といっしょにあずかっているんです>
こうして見ると、「健常者」というのは嫌《いや》な言葉だった。性根の腐った人間でも、五体満足なら「健常者」なのだ。
<織田さんの話をきいたとき、おどろきました。わたしみたいに、あったはずの能力が消えてしまったからじゃなくて、余計な能力があるから、あの人は苦労してるんです>
少し考えてから、
<それでわたし、世の中への考え方が少し変わりました>
「彼は最近、連絡してきますか?」
七恵は首を横に振った。
「まったく?」
<あの夜いらい、呼んでもダメみたいです。近くに来ていることはあるのかもしれないけど>
「あなたが心配だから」
<きっとね。やさしい人ですから>
七恵は目を伏せた。ひどく心細げに見えた。
佳菜子があれだけ苛《いら》ついてくれたのも、不思議ではないと思った。祝いごとがあったからだろうが、今夜の七恵は薄化粧をして、仕立てのいいスーツを着ている。髪はきれいに編んで、頭のうしろでまとめてあった。よく似合っていた。
<織田さんとわたしは>
と書いて、七恵は手を止めた。そのあとをどう続けていいか、わからないようだった。二人のあいだの信頼関係は、簡単に言葉にできるような種類のものではない、と言われているような気がした。
ボールペンを握りながら、こちらに横顔を見せて、じっと考えている。
もしも慎司がいて、このときの心理を読まれたなら、(妬《や》いたんだね)と言われるだろう。私は手帳を脇に置くと、唐突に七恵の腕をつかんで、彼女を身体《からだ》ごと自分の方へ引っ張り寄せた。そのまま強くくちびるを重ねた。七恵の手からボールペンが落ち床に転がった。
驚いて、一瞬びくっとしたが、七恵は私を押しのけようとはしなかった。かすかにワインの味がした。
くちびるを離したあとも、しばらく彼女を手放す気になれずに、そのまま抱き締めていた。七恵はおずおずと私の肩に頭をあずけてきた。彼女の方からも離れようとはしなかった。
身体をずらして抱きなおそうとしたとき、ドアにノックの音がした。今度は七恵がパッと離れた。
「七恵ちゃん? 布団、敷けたわよ」
結局、朝まで第二目ノ山荘にいた。アパートの入り口のドアにもたれて、所在なく煙草《たばこ》ばかりふかしながら、白々と明けてゆく空を眺《なが》めていた。
あのグレイの車。運転席の男、何が狙《ねら》いなのかわからないし、それほど恐れる気持ちはなかったが、今夜はもう七恵の眠りを破る者はいないと確信が持てるまで、気になって離れられなかったのだ。
(重症だね)と、慎司に笑われるかもしれない。
5
「ここんとこ、よくよくツイてないな。また行き違ったぜ」
出先から戻ってくると、前の席の同僚が声をかけてきた。第二日ノ山荘の騒ぎから数日後のことで、もう夕暮れだった。
「誰と?」
「この前のときは美形が来てたらしいけど、今日はかわゆい坊《ぼ》っちゃんだ。さっきまで、そこで」と、私の椅子《いす》を顎《あご》で示し、「座って待ってた。三十分ばかり前に帰っていったよ。稲村君とか言ってたな」
ああ、やっぱりと思うた。
「どんな様子だった?」
「えらくしょんぼりしてたな。元気なかったよ」
昨日発売の他社の雑誌に、垣田俊平が手記を発表しているのだ。「苦い後悔?友への祈り」という題で、事件のいきさつから宮永聡の自殺にいたるまでの経緯を綴《つづ》ってある。もちろん、慎司と私についてはまったく語られていないし、本人が書いたものではなく、インタビューをまとめただけではあろうが、読んでいて気分のいいものではなかった。
こういうものを取り上げた側の意図も不《ふ》明《めい》瞭《りょう》だった。彼らのぽかんとした常識のなさを揶揄《やゆ》しているようでもあり、二人の友情とやらを持ちあげているようでもある。斜め読みした生駒は、「クズだ」と吐き捨てていた。
いちばん気に入らないのは、望月大輔とあの子の両親の心情を思いやる気配りに欠けていることだった。おまけに、垣田の作品がいくつか写真で紹介されている。若手の美術評論家が、「鋭敏なセンス」を誉《ほ》めるコメントを寄せていた。
扱いもメインではないし、大広告を打てるほど大手の雑誌ではないから、慎司がこれに目をとめないでいる可能性もあった。気づかないでいてくれるといいんだがと思っていたのに、そうは問屋がおろさなかったらしい。元気がなかったというのは、また、あれこれクヨクヨと考えているからだろう。
「俺《おれ》も途中でちょっと出ちまったからわからないが、カコちゃんと話し込んでたぜ。聞いてみたら?」
ところが、その佳菜子の姿も見当らなかった。早退したらしい、という。
「あれ? じゃ、あのかわゆい坊っちゃんといっしょに帰ったのかなあ。頭をくつつけて、いやに親密にしゃべってたからね」
彼らがにわかに友好条約を結んでしまったというのも解《げ》せない話だ。
このところ、佳菜子もひっそりと口をつぐんで暮らしていた。私とは決して視線を合わせはようとしないし、話しかけてもこない。多少は窮屈でも、もう放《ほう》っておいてやるしかないと諦《あきら》めていたので、そのままにしておいた。
それが、一昨日《おととい》の夜、深夜帰宅するときに、乗っていたタクシーが軽い追突事故に遭ったとかで、昨日は一日休んでいた。怪我《けが》はしていないと言っていたが、今朝顔を見ると、ひどく青ざめていた。デスクが驚いて呼びつけたほどだった。やはり具合が悪いのかもしれない。
時間を見計らって、慎司の自宅に電話してみたが、まだ帰っていないという。稲村徳雄に訊《き》いてみると、やはり問題の手記のことを気にしているらしく、
「慎司はえらく怒っていました。もう関《かか》わるなと言ってきかせておいたんですが」
「怒ってた?」
「はあ。こんなのひどいよと口を尖《とが》らしておりました」
「うちに来てたときは、しょぼんとしてたようですよ」
「あれも気分が不安定なんでしょう。例の警察の方とは、来週お目にかかることになったそうですね?」
「ええ」
慎司の方からそう指定してきたのだが、これがいかにも学生らしくて可愛《かわい》かった。
(試験があるんだ。それが済んでからにしてくれる? そしたら、何にも気にしないで集中できるもんね)
ほっとすることでもあった。彼は普通の生活もちゃんと送っている。
「帰ってきましたら、お電話をさせます。少し話相手になってもらいたかったんでしょう。ご多忙のところを申し訳ないんですが」
「かまいませんよ。今夜は夜中まで社にいますから、こちらからも折りを見てまた連絡してみます」
今とりかかっているのは今年に入って連発した悪質なひき逃げ事件の特集だった。全体に交通事故が増えているとは言え、あまりにも多発しすぎている。もう事故と言い捨ててはおられないのではないかというデスクの発案で、年末まで通しで六回の集中連載をやろうという企画だった。
たいがいそうなるのだが、編集部から会議室へ、最後は行きつけの店へと流れていって、運転免許を持っていないデスクと、大学時代には陸送のバイトで学費を稼《かせ》いていたというカーマニアの記者との喧々諤々《けんけんがくがく》を拝聴していると、「電話ですよ」と呼ばれた。慎司からだった。
「編集部にいた人に、こっちにかけてごらんって言われたんだ」
声が小さい。時計を見ると、十時を過ぎている。
「家にいるの?」
「うん。今帰ってきたんだ」
「ずいぶん遅いね」
「ちょっとね」
本当に元気がない。
「垣田俊平の手記のことなら、もう気にするな。あの事件のことじゃ、散々話合ったじゃないか。彼のやっていることに腹を立てたって、なんにもならないぞ」
「……それはわかってた。でも、僕……」
言い淀《よど》むように口をつぐんでしまう。
「試験勉強があるんだろ? 頭を切り替えろよ」
慎司は唐突に言った。「ねえ高坂さん、最近、不愉快なこと、ない?」
「え?」
「嫌なこと。ない?」
脅迫状の一件がちらっと頭をかすめた。「どういう意味かな」
「うん……べつに、いいんだ」
「おかしいね。なんだい?」
「いいよ。ホントにいいんだ。あのさ、来週、行くからね。刑事さんに会いに。その時にね。じゃ、さよなら」
逃げるように電話を切ってしまった。
一時間ほどたって、また電話に呼ばれた。今度の相手も、慎司と同じような台詞《せりふ》を吐いた。
「こちらにかけてみるように、親切に教えてもらいましてね」
あの、誰のものともわからない声だった。
「もしもし? 聞いてますかね?」
「聞いてますよ」
奥の座敷を占領して、スタッフがおだをあげている。デスクの声が大きい。やりあっている同僚も声を張り上げている、電話の声は、ともするとその騒音にかき消されてしまいそうだった。
「もしもし? いやにお賑《にぎ》やかですな」
「あんた、何を狙ってるんだ?」
「わかりませんか」
「わからないね。人を尾《つ》けまわしたり、ペンキで落書きしたりして、何が面白い?」
相手は声をたてて笑った。「このあいだは、とんだ失敗をしましたよ。写真を撮られるとはねえ。でも、まあそんなことはどうでもいいんだ。あたしには顔がないんだから。高坂さん、あんたが思い出さない限り、誰にもあたしの正体なんかわからないよ。あんた、死に物狂いで考えてみたかい? 自分のやってきたことをさあ」
「生憎《あいにく》だが、そんなこけ脅しにはのらないね」
「ほう、強気に出ましたな。何が起こったって、あたしは知らないよ」
落ち着けよと、自分に言い聞かせた。
「なんと言われても、身に覚えがないものはないんだ。でも、あんたがそれほど恨みに思ってるんなら、言ってみちゃどうです? いったい俺が何をやったのか。話してくれるなら、いくらでも時間を割いて聞く用意はあるんだ」
離れたところから、デスクが私の顔色を読んだらしい。脇《わき》で熱弁していた記者の肩をぴしゃりとはたくと、(黙れ)と示した。それで全員がこちらを振り向いた。
「あたしがどうして、あんたにそんな親切にしてやらなきゃならんのです? ごめんだね。せいぜい、頭を悩まして考えてみなさいよ」
デスクが客を押《お》し退《の》けるようにして近づいてくると、傍《かたわ》らに立った。(例のです)と目顔で教えると、耳を寄せてきた。
「小枝子さんには会いましたかあ」
面白がっているような口調で、相手は続けた。
「元気だったでしょう? 幸せに暮らしてるよねえ。気の毒に、彼女もあんたなんかに関わりさえしなけりゃよかったんだよねえ」
「俺と彼女はもう何の関係もないんだよ。なぜ彼女にこだわる?」
「そりゃ、あたしの勝手さ。あたしの好きに選ばせてもらうよ」
選ばせてもらう[#「選ばせてもらう」に傍点]。
「勝手もクソも──」
「あと一週間だけ、時間をあげますよ」妙に平たい声で、相手は言った。「一週間、よおく考えてごらんなさい。それで答えが出なかったら、お気の毒だね」
「おい!」
電話はそこで切れた。叩《たた》きつけるように受話器を置くと、デスクが赤い顔を振り向けてきた。目が光っている。
「本当に身に覚えがねえのか?」
「あったらこんなとこにいやしません。」
「隠し立てするとただじゃおかねえぞ」
「よしてくださいよ。いちばん苛々してるのは俺なんだ」
デスクは太い眉《まゆ》を寄せた。「敵は本気だ」
「本気──」
「期限を切ってきてる。椥《かせ》をかけてきてる。本気で何か仕掛けてくる腹なんだ。おまえもそのつもりでいた方がいい。一週間たって何も起こらなかったら、笑ってしまえば済むことだ。小枝子さんてのは、あの小枝子さんだろ? 彼女に連絡はとってみたか?」
「ええ、事情は話してあります。気をつけてもらうように、周囲にも頼んでありますよ」
「ほかには? ほかに、とばっちりを食いそうな心当たりはないか? 家族はもちろんだが、ほかによ? 念のためだ。いないのかよ?」
七恵しかいない。
6
彼女は在宅していた。まだ寝支度にかかってはいなかったが、こんなに遅くいったい何事かという態度でドアを開けた。
そして、パッと花が咲いたように明るい顔になった。身体《からだ》の前で素早く両手を動かし、問いかけるように見上げてから、あわてて奥に行き、ホワイトボードを手に戻ってきた。私は言った。
「残念ながら、織田君が見つかったわけじゃないんです」
七恵の手が下がった。目に見えてがっかりしている。
「面倒なお願いがあって来たんですよ」
不思議そうに首をかしげると、手振りで(どうぞ)と示した。靴《くつ》を脱いているとき台所にかけてある小さな鳩《はと》時計から鳩が飛び出し、零時を報《しら》せた。
部屋のなかはきれいに片付けられていた。何事もなかったかのように、ちゃんと整頓《せいとん》されている。あれから何度か連絡も取り合ったし、隣人からも話は聞いていたので、窓ガラスを針金の入った丈夫なものにしたこと、アパートの出入口にも鍵《かぎ》をつけ、入居者にはキーを配って、毎晩零時になったら施錠《せじょう》することにしたということも、聞いていた。今夜はギリギリだったわけだ。
「向こう一週間、この部屋を空けて、どこか友達のところにでもいらしていてほしいんです。あるいは引っ越すか。もしあてがなかったら、僕の方で手配してもいい。お願いします」
七恵はこちらに背中を向け、やかんに水を満たして、コンロにかけた一連の動作を終える間に、考えていたらしい。振り向いてテーブルに近寄ると、すぐに書いた。
<この前のどろぼう騒ぎのことだけで、そんなことをおっしゃるわけじゃなさそうですけど、理由をきかせてもらえなかったら、返事はできません>
「質問抜きでは駄目《だめ》ですか」
<だめです>
「あの泥棒《どろぼう》のときにも、できたら引っ越した方がいいとお願いしたはずですけどね」
<わたしみたいなのが部屋を借りるのは、案外たいへんだってことを忘れてるでしょう>
ちょっと文句を言うように上目遣いで私を見て、
<嫌《いや》がる大家さんが多いんです。ここの持ち主のような方はめずらしいんですよ>
間抜けな話だが、そんなことは一度も考えもしなかった。七恵は、きれいに暮らしているしっかりした店子《たなこ》だろう。勤めもきちんとしている。それが、障害があるからといって、ただそれだけで、それほど嫌《きら》われるとは。
<ごめんなさいね、でも、例外を認めるときりがないからって、言われますよ>と書いて、質問の答えを促すように、小さく頷《うなず》いた。
結局、全部説明することになった。七恵はまばたきひとつせずに聞いていた。途中で一度だけ立ち上がり、コンロの火を止めて、熱湯をポットに移し替えた。そういう家庭的なことをしている彼女を眺《なが》めていると、話して聞かせていることの真実味が薄れてしまうような気がした。
「と、いうわけです」私は軽く両手を広げてみせた。「笑い事じゃありませんよ」
七恵は微笑して、書いた。<笑ってません>
「一週間でいいんです。どこか安全な場所にいてくれませんか。相手はここを知っているし一度踏み込んでもきてる。心配なんですよ」
<あれは写真のことがあったからでしょう?>
「そうとは限りませんよ」
軽くくちびるを噛《か》みながら、ペンの先でホワイトボードをぽんぽんと叩き、考えている。
<あなたご自身には、危険はないんですか? それがいちばん気になると思うけど>
「わかりませんね。こっちにきてくれるならいいんですが。ただ、あの様子だと、僕を直接標的にするんじゃなくて、僕の周囲の人間に狙いをつけてるようなんです。正直言って、そのほうがはるかに怖いんですよ。どういう理由であれ、身から出た錆《さび》を自分で引き受けるなら、まだ気が楽なんです。ほかにとばっちりが行くことのほうが恐ろしい、それはわかるでしよう?」
七恵はゆっくり頷いた。
<脅迫される理由に、心当たりはないんですか>
「ない、と百万回も言ってるような気分ですよ。あるいは、ただ単に僕が能天気に忘れてるだけのことかもしれないんですがね」
<一週間、考えてみるんですか>
「必死でね」
しばらくのあいだ、七恵はテーブルに頬杖《ほおづえ》をついて、じっと「黙って」いた。ホワイトボードを見つめている。
やがて、書き始めた。<織田さんが>
自分でも驚くほどの勢いで、私は言った。「彼は関係ない」
七恵は手を止めて私を見上げ、軽く首を振ると、書き続けた。
<わたしに、あなたとは関わるなと言ったことがあります>
「彼の件では知らん顔をしろってことでしょう?」
<それだけじゃなく、あなたと関わってもいいことはないから、と>
彼女の言葉を二度読み返して、目をあげた。「どういう意味だろう?」
<わかりません>
ゆっくり手を動かして、七恵は文章を拭《ぬぐ》った。いいことはないからという文字が消えてゆく。
「彼はあなたに忠告したんですね」
七恵は答えなかった。部屋のなかに沈黙が落ちた。
そっとボードを引き寄せて、彼女は書いた。<わたしはここにいます>
「でも──」
<一週間なにごともなくても、それで済むとはかぎらないでしょう? 相手が約束を守る人かどうかわからないですよ。それに、身のまわりには、ちゃんと気をつけます>
「怖くないんですか? この前のようなことじゃ済まないかもしれないんですよ」
<あなたはこわくないんですか>
同情してくれているような、悲しそうな顔をしていた。
「怖いですよ」と、私は答えた。
<わたしなら、平気ですから。あなたを脅している人が、どうしてわたしに目をつけるのか、その理由がわからないし>
彼女の顔を見つめて、私は訊いた。「本当にわからないですか?」
七恵は目を伏せたまま、文章を書いた。ボードを私の方へ押しやると、立ち上がってシンクの方へ行った。
<あなたにはわかりますか>と、書いてあった。
また、こちらに背を向けたまま、背伸びをして、食器|棚《だな》の上の方から客用に揃《そろ》えてある茶器をおろし、扉《とびら》をしめる。七恵が移動すると床に小さな足音がした。
私が立ち上がり、彼女のそばに嵜っても、手を止めようとしない。背中からそっと腕をまわして抱き寄せると、やっと手をおろした。
束ねて編んだ髪を右肩に垂らしているので、華奢《きゃしゃ》なうなじが見えていた。うつむいている頭から、甘い香りがする。
蛇口《じゃぐち》から、ぽとりと水滴が落ちた。
七恵は私の腕のなかで静かに振り向くと、顔をあげた。そのまま、何か懸命に捜し物をしているかのように、しばらく私の目のなかをのぞきこんでいた。
「答えが見つかったかい?」と、私は訊《き》いた「気が済むまで探していいよ」
彼女の目の縁が、ふっと緩んだ。
力を抜いて、私の襟元《えりもと》に額をつけ、安心したように小さくため息をもらした。私が腕に力をこめると、七恵も抱擁を返してきた。首を下げると、彼女の頬と耳たぶが、やわらかく頬に触れた。
七恵を抱いて、明かりを消すと、部屋のなかに闇《やみ》が満ちた。この闇のなかには、敵意も危険もなく、考える必要さえなかった。あとはただ、頭のなかに夜が溢《あふ》れるのにまかせれば、それでよかった。
「──ちゃんと五十音があるの?」
そう尋ねると、七恵は頷いた。それを肩で感じた。
並んで横たわり、天井を見上げていると、ひどく平和な気分だった。私の片腕を枕《まくら》に、ぴったり寄り添っている七恵の体温が、じかに伝わってくる。
私からよく見えるようにと、彼女は布団《ふとん》から少し手を出した。日の前の薄闇のなかに、彼女の細い手が影絵になって浮かんでいる。
手話のあかさたなを、ゆっくりやって見せてくれた。