饭饭TXT > 海外名作 > 《龍は眠る/龙眠(日文版)》作者:[日]宫部美雪/宫部美幸/宮部みゆき【完结】 > 龍は眠る.txt

第二章 波 紋 .12

作者:日-宫部美雪/宫部美幸/宮部みゆき 当前章节:15410 字 更新时间:2026-6-16 01:47

「『未知との遭遇』みたいだな」

 右手をあげて、一緒にやってみた。

「あなた、は?」

 七恵は一本指で私をさした。

「わたし、は?」

 自分の胸の中央をさす。

「その辺はわかりやすいんだな……。どれぐらいで覚えられる」

 七恵はびっくりしたように首を持ちあげ、私を見た。

「そうだよ。覚えるさ」

 首をかしげ、指を一本立てる。

「一ヵ月?」

 違う、違うと手を振る。

「一週間か」

 今度は軽く胸をぶたれた。

「一年? そんなにかかる?」

 七恵はこっくりした。

 長いな……と思った。七恵と楽に意思を通わせることができるまでかなり辛抱しなければならない。少しも億劫《おっくう》には感じないけれど。

 織田直也にはそんな必要はなかったはずだと、また思った。

「俺《おれ》もサイキックならな」

 そうつぶやくと、七恵の肩が動いた。うつぶせに姿勢をなおし、肘《ひじ》をついて、ゆつくり首を横に振っている。

「よくない?」

 絶対に、という感じで深く頷く。私も肘をついて半身を起こした。

「教えてくれないか。彼、どんなことをやって見せてくれた?」

 七恵は足からそっとベッドを抜け出ると、足元に落ちていたシャツを拾って袖《そで》を通し、台所からホワイトボードを持って戻ってきた、私は枕元の小さなスタンドをつけた。

 枕の上にボードを置いて、まぶしそうに目を細めながら、七恵は書いた。

<わたしの考えてることは、みんなわかると言ってた>

「そう。じゃ、手話もボードもなしで話ができたわけだ」

<近くにいるときはね>

「ほかには? 稲村慎司に聞いた限りじゃ、彼、移動することもできたらしい」

 七恵は目を見張った。

<テレポーテーション>

「そうだね」

 見たことないわ、というようにかぶりを振った。そして、私のこめかみを指で軽くつつくと、口の前で手をぱっと動かす。我々がよく、(あの人は口が軽いから)というときに示す動作と同じだった。

「頭に──直接話しかける?」

 七恵は頷く。

「慎司と交信してたらしいからね」

 違う、と首を振って、自分の胸を指さした。

「君と? 君の頭のなかに直接話しかけてきたの?」

<できるの>と、書いた。

 私は笑った。「君も能力者かな」

 まさか、というように七恵も笑った。

<それに、能力者ではない人間と交信するのはすごく大変だから、織田さんも、わたしには一度しかやってくれたことがなかったわ>

「大変というのは? 彼が?」

<どっちも>と、七恵は書き、思い出したように顔をしかめた。<ほんの二、三こと話しただけだったけど、あとで一日頭が痛くて動けないくらいだった>

 そんなことがあり得るのかと、考えてしまった。七恵も(信じられないでしうね)と言いたそうな顔をしている。

 やがて、こう書いた。

<わたしも能力者なら、もうちょっとあなたの役に立てるでしょうにね>

「今で充分だよ」そう言いながら、頼にかかっている後れ毛をかきあげてやると、彼女は小さく手刀を切るような仕草をした。

「ありがとう?」

 そう、と頷く。そして子供のように頬杖をつき、しばらくぼうっとしているようだったが、やがてペンを握りなおすと、考え考え書き始めた。

<織田さんは>と書いてちらっと私を見た。

「うん」

<以前、よく言ってたことがありました>

「何を?」

<わたしに>と書いてまた考え、<ふさわしい人を見つけてあげるからねって>

 七恵の文字を見つめながら、私も考えた。

「彼、自分じゃ駄目だと思ってたのかな?」

 彼女はちょっとくちびるを引き締め、見えない目盛りを読むように目を細くした。

<というより、たぶん、わたしじゃ駄目だったんでしょう>

「どういうことかな」

<織田さんがいてくれると、わたしは安心だったけど>と書いて、七恵は真顔になった。

<それって、あの人を便利に使ってることでもあって>

 虚をつかれるような言葉だった。

「──ずいぶん巌しいね」と言ってみた。「誰にだってそういうところはあるよ。隠してるだけで」

 七恵はゆっくり頷いた。

 だが、織田直也にはそれが見えた。見えたから──

 ひどく場違いな感じではあったが、頭に浮かんだのは、ガソリンスタンドの麻子ちゃんの顔だった。あの屈託のない、よくも悪くも自分のことしか考えていない娘。直也は彼女と親しかった。

 それは、麻子が文字どおり裏も妻もない娘だったからかもしれない。<薄っぺらい>と言う人は多いだろうが、その軽さのなかに、直也を安堵《あんど》させてくれるものがあったのかもしれなかった。

<わたしは織田さんのこと、好きだったけど>

 そう書いて、七恵は私を見上げた。私は黙って手をのばし、彼女の髪に触れた。

<あの人が怖かったし、かわいそうでもあったわ>

「彼が苦しんでたから?」

 いいえ、と首を振って、<ときどき、ひどく意地悪になったから。あの人には何でも見えてたから、人を信用することが、とでも難しかったみたい。それを、わたしにも言うことがあったの>

「たとえば──」考えると、自然と顔が歪《ゆが》んだ。「君が信用している人間や、友達のことを悪く言うというか──彼らの本音はせいぜいこんなもんだよと君に教えたりしたとか」

 七恵は大きく頷いた。

 自分はどこまで見抜かれていたのだろう──不意にそう思い、身体《からだ》の芯《しん》が冷えるような気がした。直也は何を以《もっ》て、七恵に、私と関《かか》わるといいことはないと忠告したのだろう。

 彼は何を見ていたんだ?

 一眼国に住む、たった一人の二つ目の人間。

 七恵の顔に、私の抱いた不安がそのまま映ってしまっていた。それを消すためだけにちょっと笑ってみせると、彼女はちゃんとそれを承知しているように、少しだけ微笑した。そして急に真面目《まじめ》な表情になると、起き直り、私を指さし、続いて両手で胸をかきむしるような仕草をした。

「何かな、それは」

 七恵は同じ動作を操り返した。

「あなたが──」

 勘というより、彼女の表情でわかった。

「心配?」

 そう、と頷いた。

「俺のことなら心配しなくていい。大丈夫だよ」

 今度はなかなか頬笑《ほほえ》んでくれなかった。

「てめえでてめえの過去を調べるっていうのは、案外離しいもんだなあ」

 生駒の感想を待つまでもなく、私もそれは実感していた。他人のことを調べる技術ならそこそこ身につけているつもりだが、いざそれを自分に応用しようと思っても、そううまくはいかない。鼻の頭をよく見ることができないのと同じようなものだ。

 生駒が中世の異端審問官そこのけの厳しさとしつこさで追及してくるので、三日もたつと、いささか疲れてきた。

「もっと吐け」と、簡単に言ってくれる。

「もう胃袋まで吐いたような気分だよ」

「うちの由美子が便秘で悩んでよ、とっかえひっかえいろんなメーカーの薬を飲んでるんだ。腹はぺったんこになってるのに、『まだ溜《た》まってるみたいな感じがするんだもん』。腸まで出しちまわねえとスッキリしねえんだろう。この際、おまえもそうするといい」

「他人ごとだと思いやがって」

「そりゃそうだ。俺には後ろ暗いことが山ほどあるからな。こんなに苦労しねえ」

 とは言うものの、「じゃ、たとえばどんなことがあるんだよ」と訊いたら、彼も首をひねっている。

「案外ねえんだよ。いや、以前に話した超能力ブームのころの、自殺した子供、な? あれはある。でも、言い逃れをするわけじゃねえが、あれだって俺一人でやらかしたことじゃねえ。そうなんだよ俺らの商売は確かにいろいろ人の気に障ることをやるが、一人でやるわけじゃない。うしろに雑誌や新聞の看板を背負ってるからやれることでな」

 こりゃ反省材料だなと、大きな手で頭を抱えている。

 ひとつふたつ、「これかな?」と思うものが見つからないではなかった。ひとつは民事裁判に関わるもので、四年ほど前に取材したものだ。よくある境界争いだが、相続が絡《から》んで泥仕合《どろじあい》になったケースだった。ちょうど、八王子の地価が異様に高騰《こうとう》し始めたころのことだったので、土地問題の特集のなかで取り上げたのだ。

「原告側を取材しているところに、被告側の家の主人が殴り込んできた、と」

「そう。へベれけに酔ってて、金属バットを持ってた」

「怒り酒だな、乱闘になったのか?」

「多少ね。でも、すぐ収まった。バットを取り上げたら急におとなしくなったよ。ただ、『覚えてろ!』と怒鳴られたな」

 あまりあてにしないで調べてみると、当のご本人はもう死亡していた。裁判の方はまだ続いていたが、双方ともくたびれていて、今は和解調停の最中だという。

 もうひとつは、多少被害|妄想《もうそう》の気のある女性の件だった。

「これが、最初はちょっとヒヤッとさせられてね」

 市内のラブホテルで小火《ぼや》があり、消火の現場を写真に撮って掲載したのだが、そこに偶然写されていたために、上司との不倫がばれて退職させられた、と訴えてきたのである。

 ところが、調べてみると、彼女は依願退職であり、社内には不愉相手などいない。言い分に、まったく根拠がないのだ。

「なんだ、デタラメじゃねえか」

「そうだよ。ただ本人は大真面目で、日に涙まで浮かべて食い下がってくるんだ。ディテールちゃんと話してくれる。非常に秩序立った妄想というやつですな」

「でも、それなら恨まれるのは写真を撮ったカメラマンじゃねえのか?」

「彼女が支局に乗りこんできたとき、最初に応対したのが俺だったんだ」

「要領が悪い」

「しょうがないじゃないか。問答無用でいきなり掴《つか》みかかってこられたんだぜ。おまけに、そのあとで強姦《ごうかん》罪で告発されかけたんだ。笑うなよ」

「無理だ、無理」生駒は吠えるように笑った。

「支局のフロアで、十人近くの人間の目の前でそんなことをやってのける方法があるんなら、教えてもらいたいと思ったね」

「すげえ早業だ」

「ただ、結果的にはそれで助かったんだ。彼女の親が出てきて、娘の様子がおかしいことに気がついてくれたから。父親はただカッカしてたけど、母親はすぐピンときたらしい。おがげで警察に引っ張っていかれないで済んだよ」

「おまえも結構、渡《は》欄《らん》万《ばん》丈《じょう》の人生を送っとるな」

「あのときの親父《おやじ》の方が、いまだに娘の言い分を信じて俺を疑ってるとすると、恨んでるかもしれないな」

「そりゃねえだろう。馬鹿馬鹿《ばかばか》しくってやってられねえ」

 生駒の言うとおりだった。支局に訊いて調べてもらうと、すぐわかった。彼女は専門の医者にかかり、すっかり健廉を取り戻して、結婚もしている。「一度、挨拶《あいさつ》に来ましたよ。謝ってました」というのである。

「なんにもねえなあ」と、生駒はそっくり返って天井の蛍光灯《けいこうとう》を仰ぐ。「おい、高坂。おまえよ、どっかで女の子をひっかけて、犯して殺して山のなかにでも埋めてるんだったら、吐くのは今だぞ」

 椅子《いす》を蹴《け》とばしてやった。

 川崎家とほ頻繁《ひんぱん》に連絡をとった。応対するのはいつも明男か三宅令子だったが、二人とも異口同音に、その後は何も起きていないと答える。のみならず、令子は少し笑ってさえいた。

「たいへんですね」と言われると、間抜け面《づら》して「はあ」と答えるしかない。

「でも、本当に笑い話にできるように、気は抜かないでいてください」

「承知しています。任せてください」

 このところ密に関わっているという点では、稲村慎司も除外するわけにはいかない。ただ、いたずらに彼を混乱させることは避けたかったので、父親にだけ、簡単に事情を話した。彼は真面目に仰天した。

「そりゃいけない。あなたは大丈夫なんですか」

「はあ、なんていうことはないんです。ただのこけ脅しである可能性も大きいんですよ。ただ、念のために」

 あたしの好きに選ばせてもらうよ──不気味なのは、その台詞《せりふ》だけだった。

「よく気をつけるようにいたします。ご心配なく。慎司はこのところ、試験勉強で家にこもっておりますし、学校からも早めに帰っておりますからね」

「頑張《がんば》ってるんですね」

「はい。勉強のことで頭がいっぱいなのか、ろくに話もしてくれません。それほどむきになることもないと思うんですが。たまに、ふらっと散歩に出かけることもありますが、陽《ひ》のあるうちに帰ってきます。とにかく、こちらは大丈夫ですよ」と請け合ってくれた。

 生駒は、「いちばん心配なのはおまえさん本人だな」と、顔をしかめる。

「そりゃ、なんとでもなるよ。なるようになるさ」

「そういやあ、おまえ、大学時代には陸上の選手だったんだもんな。逃げ足は速いか」

「駅伝だぜ」

「ちょうどいい。襲われたら、箱根まで走って逃げろ。往路の新記録がつくれる」

 結局最後は笑い話になってしまうのは、切迫感がなかったせいだった。一週間という期限は気になるものの、なんと言われてもこちらに思い当る節がないものだから、今ひとつあわてふためく気分になりきれないのだ。

「逆恨みってのがいちばん怖いんだ、阿呆《あほう》が」と怒る、デスクがいちばん真剣だった。もっとも、「全部片がついたら迫真のルポが書けるだろう」とも言っているから、ちゃんと計算はしているのだ。

 七恵とも頻繁に会った。というより、毎晩通っていた。どうしても抜けられない用があるときだけ電話をかけたが、あとはもう彼女と同居しているようなものだ。

「照れることねえや。一緒にいてやれそれがいちばん安心だ」と、生駒は真顔で言う。四日目の夜には、「一度俺にも紹介しろ」と主張して、第二日ノ山荘までついてきた。

 彼の与太話に、七恵は笑い転げていた。声が出ないので、あまり笑わせるとかえって身体に毒なんじゃないかと、見ている方がハラハラするほどだった。

 七恵が笑いすぎて涙をふきながら台所に立った隙《すき》に、生駒はしみじみと、「いい娘だなあ」と言った。

「金星《きんぼし》を当てたな。俺も十年ばかり若返りたくなったよ」

 あとで七恵も、<いい人ね>と言っていた。<いつもあんなふうに、二人でかけ合い漫才をやってるの?>

「たまにおひねり[#「おひねり」に傍点]が飛んでくるよ」

 私といるときに、怯《おび》えた様子ではないが、ふと電話を気にしたり、窓の方へ目をやることがあった。

「彼[#「彼」に傍点]か?」と尋ねると、うんと頷《うなず》く。

「連絡が来そうな気がする?」

 わからない──と、首を振る。そのときだけは、少し淋《さび》しそうな顔になった。

 そうやって過ごしていると、期限はみるみる近づいてきた。あと一日を残すだけとなった六日目の午後が、慎司と元警察官を引き合わせることになっている、約束の時だった。

 村田薫は、古い映画を連想させるような風貌《ふうぼう》を持っていた。「鉄の男」である。

 日焼けして、半白の見るからに剛《こわ》そうな髪を短く刈りこんでいる。この年代の人にしては長身で、肩が厚い。挨拶を交わしたとき、彼の着ている銅色《はがねいろ》のウールのスーツから、ほんの少しナフタリンが匂った。

「東京は久しぶりです」少し嗄《しわが》れた低音で、ゆっくり言った。「いつ来ても、よくわからん街です」

「迷われましたか」

「いえいえ、そういう意味ではありません」と、微笑した。

 午後三時、社の会議室のなかだった。村田薫は窓を背にして椅子にもたれ、佳菜子が日本茶を持ってくると、小声で礼を言った。

 慎司は三十分後に来ることになっている。陽射《ひざ》しは明るく、細く開けた窓の向こうから、新橋の街のざわめきが立ち昇ってくるようだった。

 広いテーブルの上には、こちらで用意した小さなテープレコーダーがあるだけだ。村田氏は何も持ってきていなかったし、何も必要ないと言っていた。

(私は科学者じゃありませんし、彼と話をするだけで充分ですよ)

 元刑事はテーブルに両手を載せ、口の端を少し歪めて、ほとんど表情のない真っ黒な目で、私の顔を見ていた。この人物が刑事だったときには、こうしてまともに見つめられただけで、(すみませんでした)と白状してしまった犯罪者が何人もいただろう。強い視線だった。心のうちにある感情を瞳《ひとみ》に映さずに他人を見ることができるのは、優秀な刑事か、一片の良心もない犯罪者か、狂人だけだと思う。

「それで」と、彼は静かに訊《き》いた。「今はどうです。あなたは彼を──いや、彼らですな、二人いるのだから。彼らを信じておられますか」

 私はテーブルに視線を落とした。

「正直言って、まだわからないんです」

 そう答えたとき、自分の声が緊張していることに気がついた。まるで面接試験だった。

「信じてやりたいとは思うんですが」

「それはよくない」まったく語調を変えず、首も動かさずに、村田は言った。「それがいちばんよくないことです」

「なぜです?」と、生駒が問うた。

「そういう感情に寄りかかって判断をためらうと、そこに隙ができるからですよ。保留するのはいい。だが、ためらってはいけません」

「隙ができる──」

「そうです。他人を騙《だま》す人間は、その隙に手を入れて、相手を操りますからね。ちょうど指人形のように。だから、あなたが彼らに騙されているのだとしたら、それはあなたが、彼らに手をつっこむ隙を与えたからだ。信じてやりたいと、好意的に──ある意味では上から見下ろして考えることでね」

 それは違うと言いかけた私を、軽く手のひらを見せただけで遮《さえぎ》ると、村田は続けた。

「信じてやりたい、などと逃げてはいけない。そんなふうに思うのは、彼らに本当に騙《だま》されていた場合、あなた自身の面目を救いたいからでしょう。こっちにもその気があったんだ、まったく足をすくわれたわけじゃないと、自分に言い訳したいからです。だが、それでは駄目《だめ》だ。信じるか、信じないか、あるいはまったくデータを集めるだけの機械になりきって、すべての予断や感情移入を捨てるか、どれかに徹することです」

 これには参った。「そんなことができますか? 彼らをじかに見ていて」

「できませんな」人を食ったようにあっさりと言って、微笑した。「できません。ですから、こういうことが繰り返し起こっているわけだ」

 生駒がふっと吹き出し、頷いている。

「稲村慎司という少年が本当のサイキックだったなら、あなたのなかのそういう保身的な感情も、ちゃんと見抜いているでしょう。彼があなたに、くどいほど何度も『信じてくれ』と言ったのは、そういう甘い感傷を抜きにして、事実として自分を認めてほしいということです。それをあなたは理解しておられない。また、彼が非常に奸智《かんち》に長《た》けたペテン師だったとしても、彼があなたのそういう感情を見抜いているということには変わりありません。それを利用して、あなたの鼻面をとって引き回しているわけだから。どちらに転んでも、あなたにはあまり面白い話ではありませんな」

 猛烈に反駁《はんばく》したいと思いつつも、方法が見つからなかった。こういうのを「グウの音も出ない」というのだろう。

「気持ちはわかる」と、生駒がにやつきながら言った。「グウ、ぐらい言ったらどうだ?」

 村田が笑った。穏やかな笑顔だった。「同じ失敗は、私もずいぶんやりました。あなただけのことじゃありませんよ」

「何人ぐらい知っておられます? いわゆる『サイキック』を」

 村田は首をかしげながらうなじを撫《な》でている。「さあ……三十五年間警察にいて……そう自称している人間で、五、六人というところでしょうか。本人がそれと気がついていなくても、『ああ、これはそうだな』と思う人物になら、十人以上出会っていますよ」

「まさか。そんなことがありますか? 本人が気づいていないなんて」

「ありますとも」と、頷いた。「能力が非常に小さくて、現われ方が偶発的だからわからないだけです。ひょっとすると、あなた方お二人だってそうかもしれない」

 思わず生駒と顔を見合わせた?彼は言った。「俺《おれ》は違うが、女房はそうかもしれん。あいつには何も隠し立てできねえから」

「それはまた別の話だ」村田が笑った。「但《ただ》しこれは、『家族も騙される』ということには関連してきます。生活を共にしている人間同士は、自分でも無意識のうちに、たくさんの情報をやりとりしているものなんですよ。この椅子に座るときはいつもどんな姿勢をとっているか。どんなふうに靴《くつ》を脱ぐか。風呂《ふろ》上がりには、どれくらい身体《からだ》を冷ましてから服を着始めるか。お互いにちゃんとわかっている。ただ、それを情報としてとらえていないだけでね。だからある日、たとえばあなたが椅子に座ったとき、いつもと違う足の組み方をしたら、奥さんは違和感を覚えるわけです。何かあったのかな? と思う」

 村田の声は低いが聞き取りやすく、言葉は明快だった。

「そういう人間の目を眩《くら》ますのは、非常に易しいことです。ネタがたくさんありますからね。密着して暮らしているのだから、ひっかけられたらすぐにわかると思うのが間違いです。テーブルマジックというのがあるでしょう? 目の前で、コインやカードを消したり出したりする。すぐそばで。でも、タネを知らなければ見抜くことはできません。それどころか離れた舞台の上で同じものを演じて見せられたときよりも、はるかにどきりとします。それと同じだ。とりわけ、親の場合は、この子のことなら何でも知っていると思いがちですから、隙だらけになっていますしね」

 彼は湯呑《ゆの》みを取り上げ、ゆっくりとすすると、テーブルの中央あたりに視線を向けながら続けた。

「今までお話を伺ったかぎりでは、これからやってくる少年は、封を切っていない封書の中身を読んだり、目隠しをして黒板に書かれた文字をあてたりしているのではない。そういう、立会人についての情報がなくてもできる種類の離れ業を見せているのではありませんね。ですから、ペテンかどうかを見分ける方法は、簡単です」

 顔をあげ、私を見た。

「彼に、あなたも答えを知らない質問を[#「あなたも答えを知らない質問を」に傍点]投げてごらんなさい。あなたにもわからない、情報を持っていない事物について、何が読み取れるかを訊いてみるんです。そして、少年がそれについて話したことを、あと追いで調べていけばいい。但し、調べてゆく過程を彼に見せないこと。それを繰り返すんです。一回や二回ではいけない、調子が悪いんだと言われたらそれまでです。しつこく、辛抱強く、何回も繰り返すんです。そうすれば、ペテンは続きませんよ。残るのは本物だけです」

 村田はふうと息を吐いた

「ところが、これが案外難しい。まったく答えを知らないが、その気になれば調べることができるという事柄《ことがら》は、なかなか見つからないものですよ。心当たりはありますか」

 私より先に、生駒が言った。「あの封書はどうだ?」

「今それを考えてた」私はつぶやいた。「でも、あれじゃ大きすぎるよ」

 生駒には黙っていたが、最近ちらりとそれを思ったことがないわけではないのだ。

 ただ、恐ろしかった。もしもまた、マンホールの事件と同じようなことの繰り返しになったら、慎司をとことん傷つけることになる。彼を試しながら便利に利用するのは、いちばん避けたいことだった。

「そんなことはあるもんか。その辺に転がってる机や椅子の来歴より、はるかに調べやすいしな」生駒は力んだ。「それに、もしもあれが解決できればこっちだって助かる。やってみる価値はあるぞ。慎司を危険に巻き込むわけじゃないんだから」

「気が進まないな。ほかのものだっていいじゃないか」

「妙な手加減をするな。それが禁物だと言ってるんだ」

 黙って我々のやりとりを聞いていた村田が静かに割り込んだ。「あてがあるんですね?」

「あります」と、生駒は断言した。

「では、それは私にも教えないでください。彼と話してみて、よしと思ったら私が切りだします。それから、見せてください」

 非常に厳格だった。慎司が怖がらなければいいが、と思った。

「あなたが透視者を使って解決されたというのは、女栓の失踪《しっそう》事件でしたな」椅子を鳴らして乗り出しながら、生駒が言った。

「そうです。もう二十年近く昔の話ですが」

 そのころ、神奈川県下で、十八歳から二十五歳ぐらいまでの女性が突然行方不明になるという事件が、四件連続したことがあったのだ。県警は威信にかけて大捜査網をしいたが、手がかりは少なく、解決は望み薄だった。

「私は当時、捜査の本流からははずされていました」と、村田は言った。「失踪女性の一人には、多少いりくんだ男関係がありましてね。その方面を洗っていたんです。ただ、あの事件では犯人が被害者の知り合いである可能性はほとんどなかった。識とは考えられなかったんです。ですから、念のために調べているという感じてした」

「透視者とは、何がきっかけで知り合われたんです?」

「彼女は──仮に名前を明子としましょうか。明子は被害者の一人の友達でした。聞き込みにいったとき、出会ったんです」

 彼女の方から、(ひょっとするとわたしは役に立てるかもしれません)と言ってきたのだという。

「最初は、私も信じることができませんでね。世迷《よま》いごとだと思いました。しかし、明子は熱心で、必死でした。それに……ほだされたとでも言いますか。まあ、害になることでもないだろうと考えたわけです」

「彼女はなぜあなたに?」

 村田は私に笑いかけてきた。「村田さんを信用できると思ったから、と言っていました。私と話しているときに、私の内側に、非常に厳重に管理されているスクラップブックみたいなものを見つけたんだそうです。ああ、この人は口が堅いなと思ったそうですよ。それに、私なら怖くない──とも感じたそうでした」

 生駒がちらりと私を見て、何か言いたそうな顔をした。

 村田は続けた。「私は明子を、彼女の友人が最後に姿を目撃されている場所へ連れてゆきました。ボウリング場の専用駐車場でしてね。彼女はそこに、恋人と遊びに来ていたんです。帰るときになって、恋人が忘れ物をしたことに気がついて、彼女をその場に待たせたまま五分ほどいなくなった。で、戻ってきたら彼女がいなくなっていた──というわけです」

 他の失踪事件も、それと似たり寄ったりの状況で発生していた。手がかりは皆無に近かったという。

「明子はそこで──幌《ほろ》つきのトラックを見ました[#「見ました」に傍点]」記憶をたぐるように、わずかに顔を否《ゆが》めながら、村田は言った。「緑色の幌に、黄色いペンキのはねがついている、というのです、私はがっかりしました。彼女をからかいましたよ。<なんでナンバーを見てくれないのか>とね。明子は黙っていました。そして、ほかの女性たちがいなくなった場所にも連れていってくれというんです」

 他の三ヵ所のうち、二ヵ所で明子は同じトラックを見た[#「見た」に傍点]。一ヵ所では、太股《おおまた》で歩み去る男の後姿を見た[#「見た」に傍点]。その背中に、鳥が大きく翼を広げた形のワッペンがついていることも。

 そして、(すごくヘンな臭《にお》いがする。まるでものが腐ってるみたい)と言った。(どろどろの──真っ黒な水も見えるわ。池かしら。まわりにゴミがいっぱい積んであるの。古タイヤとか、車輪みたいなものもある……)

「自動車のスクラップ工場かと思いました。その周囲に、池か、川が、とにかく水があるところ。作業服に鳥の形のワッペンをつけているところ。とりあえず、それを目星にして探してみたんです」

「で、見つかったんですね?」

「二ヵ月かかりました。烏山《からすやま》の奥の方でしてね。倒産した小さな運送屋でしたよ。社員寮だけがまだ残っていて、再就職先のない社員が、追い立てに抵抗して、一人だけ残っていました。寮の裏手に小さな汚水だめがありました。とても人が暮らしているとは思えないような、バラック同様の寮の窓に、背中に鳥のワッペンがついたジャケットが干してあるのを見つけたときには、さすがに足が震えたものです」

 しばしの沈黙のあと、私は訊いた。「その男が犯人だったんですね?」

 村田は頷いた。「四人の女性の遺体は、その汚水だめの底に沈められていました」

 生駒が腕組みをして、低くうなった。

「もっとも、それはあとになってわかったことです。私一人の力では、ど、うすることもできませんでしたからね。幸い、捜査本部の方も、女性の失踪現場にいつも同しタイヤ痕《こん》が残っていることに気がつきまして、そこから車種を割り出し、ローラー作戦で調べていたんです。彼のところにも、遅かれ早かれ捜査員が訪ねていくことになっていました。私はそれを口実に、彼に会いました。そして、緑色の幌つきトラックを見ましたよ。黄色いペンキがはねていた。元の会社の車だったんです。名前だけ消して、勝手に乗り回していたらしい。私は彼にかまをかけてみました。『トラックの荷台に、女性の髪の毛が落ちてるな。恋人のかい?』と彼は真っ青になって逃げだしましたよ。それで御用でした」

 軽く肩をゆすって、

「あとで同行した刑事に訊かれましたよ。『たしかに変り者ではあったけど、おとなしそうな男で、実際、これはシロだなと思ってた。どうしてわかったんですか?』とね。私は本当のことを答えることができませんでした。明子との約束でしたからね。彼女は、世間に騒がれることは望んでいませんでした。ただ友達の仇《かたき》を討ちたかっただけだから、と」

「しかし、その後も──」

「ええ、ときどき彼女の力を借りました。当たったこともあるし、はずれたこともある。そろこうしているうちに、仲間のあいだでは隠し切れなくなって、一度は捜査課長に会ってもらったこともあります。でも、我々のあいだでは、彼女の存在は極秘扱いになっていました」

「現在は?」

「彼女は幸せに暮らしていますよ。結婚して、子供もいます。そこにこぎつけるまで、たいへんでしたがね。『他人のことがわかりすぎると、恋もできない』と嘆いていたことがあります。実際、明子は一度、自殺をはかったことがあるんです。彼女が三十歳のときでした。それを境に、私は彼女に頼ることをやめたんです。非常に酷なことを要求しているのだとわかったからですよ」

「それは──わかるような気がします」

 村田の意志の強そうな顎《あご》の線に、初めでゆるやかな表情が表れた。グラスのなかの角氷が、かたりと溶けたような感じだった。

「昔、明子は私にこんなことを言ったことがあります。村田さんは一人しかいないし、わたしも一人しかいない。できることには限界があるわよね、と。もちろん、私と出会っていっしょに仕事をするようになる以前から、彼女はその特殊な能力を持っていました。少女時代からです。そのころから今までに、山ほど恐ろしいものを見てきたというんですよ。スーパーのレジに並んているとき、すぐうしろに立っている主婦が、怪しまれずに姑《しゅうとめ》を殺してしまうにはどうしたらいいかしきりと考えている──夜道ですれ違った車の運転席にいた若い男が、手ごろな若い女性を物色している──」

 たじろいだような顔で、生駒が額を撫でている。

「すべてわかったし、放っておけば彼らがそれを行動に移すだろうと確信も持てた。でも、どうしようもなかったと言うんです。『わたしには何にもできないもの。その人たちを追いかけていって、そんな恐ろしいことはやめなさいって言ったところで、どうにもならないでしょ? 黙って見過ごすしかなかったんです。それだけだって、死ぬほど辛《つら》いことだつた』──そう言いましたよ」

 慎司の言葉を、私は思い出していた。(直也はね、全部自分一人でしょって立つ気構えがないんだったら、他人の身に起こることに関《かか》わっちゃいけないって言ってたよ)

「そんな彼女に、さらに重荷を負わせるように、私は、起こってしまった悲惨な出来事を再構成させてきた。そのたびに、彼女は被害者たちといっしょに、少しずつ死んでいたのかもしれません。彼女がすり切れてゆくように、私は拍車をかけていたんですよ。辛い──そう、本当に辛いです──彼女は、年齢を重ねるに連れて、少しずつ能力が衰えてゆきました。あるいは、制御する力の方を強くしていたのかもしれない。そして彼女が三十二歳のときに、我々は協力関係を断ちました。その後は、年賀状のやりとりをする程度です。それで良かったのだと思っています」

 確認するように、ゆっくり頷《うなず》いている。

「ただ、私と彼女とのことは、県警の一部では有名な話になっていました。超能力ブームの頃《ころ》新聞に取り上げられてしまったのもそのせいですし、その後何人かのサイキックに知り合うことができたのも、そのおかげです。ただ、彼らのなかには、明子ほど強い力を持っている能力者はいなかった。もし、今日これから会う少年が本物だったなら、明子と同じだけのことができるサイキックに、久しぶりに巡り合ったということになります」

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