我々が黙りこむと、廊下を隔てて向こう側にある編集部から、ざわめきや電話のベルが聞こえてくる。向こうとこちらとが同じフロアにあるとは思えないほど、雰《ふん》囲《い》気《き》が違っていた。それはそのまま、この能力に関わっている者と関わっていない者との差を象徴しているようにも感じられた。
「私のお守りをお見せしましょうか」
明るい口調を取り戻して、村田が言った。上砦の内ポケットに手を入れ、小さな白いものを取り出してみせた。
首にかけることもできるように、紐《ひも》がつけられていた。小指の半分ぐらいの大きさで、象牙《ぞうげ》かプラスチックか──不思議な形をしている。動物の牙《きば》のようにも見えるが、それにしては先が丸まっているし、根本に穴があいている。そこに紐を通してあるのだ。
「なんだと思います?」
村田の質問に、生駒は考え込んでいる。「わかりませんなあ」
「ダッフルコートに、ボタン代わりについているやつじゃありませんか?」
と、私は言ってみた。
「ええ、ええ、そうです。たぶんそうだったんでしょう。誰かが落としていったんでしょうな」村田は笑った。「四年ほど前、まだ現役でいたころに、六歳になる私の孫が、近所の岬社の境内で拾ってきたんです。その神社のご神体は、昔そこにあった池に住んでいた龍《りゅう》だと言われてましてね。だから、『おじいちゃん、これなんだろう』と訊《き》かれたとき、私は言ったんですよ。『これは龍の牙だよ』とね」
「龍の牙──」
「ええ。孫は不思醸がりましてね。籠ってどんな生きものか、怖いのかと尋ねるんです。『怖くはないよ』と、私は答えました。孫を脅かしたくはなかったのでね。『これを持っていると、おまえを守ってくれるよ、きっと』と言いました。すると孫は、『だったらおじいちゃんが持ってなよ。悪いヤツに怪我《けが》させちれたりしないようにね』と言ったんです。それ以来、ずっとお守りにしてるんですよ」
大事そうにそれを手のなかに包み込むと、村田は言った。
「ときどき思うんですがね……。ことによると、我々は本当に、自分のなかに一頭の寵を飼っているのかもしれません。底知れない力を秘めた、不可思譲な姿の龍をね。それは眠っていたり、起きていたり、暴れていたり、病んでいたりする」
私は黙って彼の顔を見ていた。生駒も同じだった。
「我々にできることは、その龍を信じて、願うことぐらいじゃないですかね。どうか私を守ってください。正しく生き延びることができるように。この身に恐ろしい災いがふりかかってきませんように、と。そして、ひとたびその龍が動きだしたなら、あとは振り落とされないようにしがみついているのが精一杯で、乗りこなすことなど所詮《しょせん》不可能なのかもしれない。なるようにしかならんのです」
老刑事は、自分が通りすぎてきた様々な過去がそこに映し出されているかのように、自分の手を見つめていた。
「稲村君というその少年がサイキックであるならば、彼もまた龍を起こしてしまった人間なのだろうと思います。彼はそれを乗りこなそうとしている。少なくとも、自分の望んでいる方向へ頭を向けさせようと。私はそれを手伝うことができるかもしれない。最後の最後のところでは、彼を救えるのは彼自身しかいないんですが、それでも、手を貸すことぐらいはできるかもしれません」
そして、優しいと言っていいような笑みを浮かべた。
「早く彼に会ってみたいものだ」
だが、慎司は現われなかった。待っても、待っても。
彼が病院に担《かつ》ぎこまれたという報《しら》せを受けたのは、それから時間後のことだ。
9
佐倉市内の救急病院だという。
とりあえず駆けつけてはみたものの、最初はよく事情がつかめなかった。慎司の両親も取り乱していて、話が通じないのだ。
「警察から電話をもらいまして──」
「この地元のですね?」
「はい。夕方五時半ごろ、工業団地の近くの倉庫の裏手で慎司が倒れているのを、通りかかった人が見つけてくれたそうで学生証から身元がわかったというんです」
十一月なかばの午後五時半といえば、もう陽《ひ》はとっぷり暮れている。
「そんなところで何をしてたんです?」
「わからんのです」稲村徳雄は額に浮いた冷たい汗を拭《ぬぐ》いながら、震えていた。「まったく見当もつきません。学校に問い合せてみたら、今日は休んでいたというし──朝ほ普通に出て行ったのに」
佐倉工業団地と言えば、あのマンホールの現場のすぐそばだ。嫌《いや》でもそれを考えた。まだ終わってないとでもいうのだろうか。
同時に、やはりあの脅迫の件が頭に浮かんだ。とばっちりは、慎司の方へと向いていったのだろうか。
「あわてるなよ。今日はまだ六日目だまだあと一日残ってる」
生駒に肩を叩《たた》かれたが素直に頷く気にはなれなかった。
「敵が律儀《りちぎ》な野郎だとは限らないだろ」
「あの子を狙《ねら》う理由がねえ」
「理由なんか──」
「いいから、ちょっと落ち着け。表へ出て二、三回深呼吸してこい」
重傷だという最初の漠然《ばくぜん》とした説明が、詳しいものに変わってゆくと、状況はますます暗くなってきた。医師の説明によると、慎司は何者かによって相当激しく殴打《おうだ》されているという。
「脳震盪《のうしんとう》を起こしていますし、全身のあちこちに打撲傷があります。それと、発見現場はかなり急な坂を降りたところでして、坂の脇《わき》に狭い階段もついているんですが、どうやらそこから落下したようですね、左の大腿骨《だいたいこつ》骨折は、そのとき生じたものでしょう」
「助かりますか?」と、父親がすがるように訊いた。
「若いですからね、筋肉もやわらかいし、心臓も強い。大丈夫ですよ。ただ、頭を打っていることが気になります。詳しい検査は、とにかく今の状態を乗り切ってからでないとできませんからね。警察から事情をきかれましたか?」
「はい。ただ、こちらにも何がなんだか……」
「救急車のなかで、息子さんはうわごとを言っていたようですよ」
稲村徳雄は妻の手を握り締め、おろおろと私の方を見上げた。
「なんと言ってたんです?」
「殺されちゃうよ[#「殺されちゃうよ」に傍点]、と。二度繰り返してそう言ったそうです。よほど恐ろしい目に遭わされたんじゃないでしょうかね……」
手術室と集中治療室は、長いリノリウムの廊下のつきあたりに位置していた。そこまで近付くことは許されず、手前の廊下のベンチに沈み込んで、ただ、待った。
警察の話では、所持品は荒らされていないという。現場付近には目撃者もない。慎司を発見してくれた人物も、最初は酔っ払いでも寝ているのだろうと思ったという。日頃から人通りの少ない場所なのだ。
殺されちゃうよ[#「殺されちゃうよ」に傍点]。その言葉の意味を考えると、じわじわと首を絞められているような気がしてきた。
夜十時ごろになって、また医師が出てきた。稲村夫妻が駆け寄った。
「ひとまず集中治療室に移しましたが、面会は当分無理です。ご両親も一度帰宅されてはいかがですか?」
そのとき、廊下の反対側の端から、不規則な足音が簡こえてきた。近づいてくる。私と生駒は顔を見合わせ、振り向いた。
明かりを落とした白い廊下をやってくるのは、七恵と──
「誰だ?」目を細くしながら、生駒が低く訊いた。
信じられない反面、やっと来たかという気もした。
「彼が織田直也だよ」
初めて会ったときと同じように、シャツに色褪《いろあ》せたジーンズを穿《は》いて、七恵に支えられるようにして歩いてくる。左足をひきずり、頭が痛んでいるかのように、顔を歪《ゆが》めて。ちょうど──今、この廊下の先で慎司が味わっているのと同じ苦痛を、彼もそっくり引き受けているかのようだった。
まるで鏡。まるで双子だった。一人が傷つけば、もう一人も同じ場所から血を流す。
棒立ちになって、彼らがやってくるのを眺《なが》めていた。彼の方がずっと背が高いので、肩を貸している七息も、どうかするとよろけそうだった。我に返って駆け寄り、手を貸すと、それまで我々の姿など目に入らないかのように廊下の向こうばかりを見ていた直也の目が、やっと動いた。
「やあ」と、かすれた声で呼びかけてきた。胸の奥の方のどこかに血がからんでいるような声だった。
「もういいよ」と、彼は七恵に言った。「ありがとう。手を離してよ」
七恵はすぐには離さなかった。彼女も蒼白《そうはく》で、逆に直也にしがみついているかのようにさえ見えた。
「いいんだ」直也は目元で薄く頻笑《ほほえ》んで、七恵の手に手をかぶせ、優しく引き離すと、壁に手をついて身体《からだ》を支えた、私が手を出して抱えようとすると、目を閉じて首を振った。「いいんです。触らないで。大丈夫だから」
「医者を呼んでこよう」
踵《きびす》を返しかけた生駒にも、「いいんです」と断った。「俺《おれ》、怪我《けが》はしてないから。本当に平気ですよ」
壁にもたれたまま、よろりと手をあげ、廊下の先を示して、私に訊いた。「慎司はこの向こうにいるんだね」
私は頷いた。「でも、会えないよ。重傷なんだ」
「うん。わかってる。ただ、できるだけそばに行きたいんだ」
直也はゆらりと足を踏みだした。「聞いてやらなくちゃ」
七恵が半泣き顔で手を差し伸べたが、直也はそれをやんわりと振り払った。そして、壁伝いにゆっくり歩いてゆくと、手術室へ続く廊下がコの字型に折れているところで、蟹に頭を持たせかけ、立ち止まった。
そのまま、微動だにしない。お互いにすがりつきあっているような格好で、稲村夫妻が彼を見ていた。
「何があったんだい?」
小声で七恵に尋ねると、彼女は最初、ただ首を振るだけだった。やがて、やっと気を取りなおし、震える指で病院の白い壁に、<夕方、急に訪ねてきたの>と書いた。
「来たときからあんな様子で?」
七恵は頷いた。<しばらく、起き上がれないくらいだった>
壁にそら[#「そら」に傍点]で書く文字と、身振り手振りと、少しだけ私にも読み取ることができる手話とをちゃんぽんにして、彼女は説明した。
<起き上がれるようになると、この病院のことを話してくれて、連れていってくれ、と。一人じゃ歩けなかったんです>
「なんでここがわかったんだ?」と、生駒が目を見張った。
「彼にはわかるんだよ」
今や、直也は身体を丸めるようにして、ベンチに座り込んでいた。頭を垂れているので、骨張った背中しか見えない。
近寄ることさえはばかられるほど、彼は深く自分のなかに入りこんでいた。七恵が近づいてゆき、遠慮がちにその背中に手を置いたが、彼は頭を上げることも、身動きすることもなかった。
そうしているうちに、次第に、空気が重くなったように感じ始めた。
気のせいだ──そう思った。だが確実に、両肩に、腕に、負の電荷のかかった空気がじんわりと降ってくるのを感じる。見えない輪がすぼまってくるように。病院のこの一角だけ、重力の法則が狂ってきたかのように。
生駒がネクタイを緩めながら、「息苦しくないか?」と訊いてきたときにも、返事ができなかった。
大きな、でも我々の目には見えないものが、空を行ったり来たりしている。丸まった直也の背中が、それを受けとめ──
(さながらパラボラアンテナのように)
投げ返し──
(慎ちゃん、あんたはこれを頭のなかに持ってるんだよ)
それが自分のすぐそばを通過してゆくのを感じる。
(こめんねやっぱりがまんできなくて)
稲村夫妻は、身を寄せあったまま、じっと直也を見つめている。直也の背中に手を置いていた七恵が、怯《おび》えたようにさっと手を離し、彼から離れた。後退《あとずさ》りしてきて、壁ぎわにいた私の肩にぶつかると、また飛び上がりかけた。腕を抑えてやると、振り向いて身体を寄せてきた。
「なんだ、これは」生駒の顔も強《こわ》ばっていた。
そのままで、十数分ほどたったろうか。直也がゆっくりと身を起こした。それとほとんど同時に、端のドアが開いて医師がやってきた。
「ご両親だけ、どうぞ。顔を見たいでしょう? ガラスごしですし、まだ昏睡《こんすい》状態ですから話はできませんが、容体は一応安定しています」
稲村夫妻は飛んでいった。あとに残された我々も、ドアのすぐそばに立っていた。直也がゆっくり立ち上がった。
「どこへ行く?」
生駒が呼び止めると、彼はほんの少しだけくちびるを動かして、
「帰る」と答えた。「もう大丈夫だよ、慎司は」
彼はまだふらついていた。左足も引きずつている。壁に沿って手をつっぱりながら、かろうじて歩いていた。
「一人じゃ無理だ。ここにいなさい」
「平気ですよ」
そして、いくぶんぼうっとした顔を私に向けると、
「あんたのせいじゃないよ[#「あんたのせいじゃないよ」に傍点]」
すぐには意味がわからなかった。「なんだって?」
「慎司のこと。あなたのせいじゃない。あなたには関係ない。慎司のヤツ、ちょっと失敗したんだ。それだけ」
小さな声で、何かつけ加えた。(あれほど言ったのに)とつぶやいたように聞こえた。「あいつ……ホントに……正義感ばっかり強いから」
両手で肘《ひじ》を抱いていた七恵が、一歩踏みだして彼に近づいた。直也は頼笑んだ。
「心配しないで。大丈夫だよ。いろいろありがとう」
そっと手をのばすと、七恵の肘に手を置いた。
「そんな悲しそうな顔しないでよ。ね?」
目を上げると、直也は彼女の肩ごしに私を見た。きれいに澄んだ目で、この目から隠しおおせるものなど何もないように思えた。
直也はまた七恵に視線を戻し、彼女の肘を優しく叩くと、くるりと背中を向けて、歩きだした。はっとしてあとを追おうとすると、鋭く振り向き、
「ついてくるな」と言った。
七恵が両手で口元を押さえている。彼はしばらく彼女を見つめてから、
「さよなら」と言った。
ゆっくりと、一歩一歩遠ざかってゆく。追いかけよう、と思いながら、彼の落とすひょろ長い影が廊下の向こうに消えてゆくまで、私も生駒も動くことができなかった。
片開きのドアが、音もなく閉まる。
「おい」
夢から醒《さ》めたように生駒がつぶやき、私は走りだした。廊下を突っ切ってドアを押すと、そこは救急車用の車寄せだ。コンクリートの地面に、私と生駒の足音が響いた。
なんの遮蔽物《しゃへいぶつ》もない灰色のコンクリートの地面に、背中に救急病棟の明かりを背負い、痩《や》せた影を案内人のように身体の前に落として、直也がゆっくりと歩いてゆくのが見えた。足取りは少しふらついており、両肩が落ちている。
声をかけようとしたとき、彼が足をとめた。そして──
その姿が、足元から消え始めた。
ほかに表現のしようがない。夜が目に見えない消しゴムになり、彼を消していこうとしている──
大学の卒業前に、最後の呑気《のんき》な貧乏旅行だと思って、一ヵ月ほど中国へ行ったときのことを思い出した。敦煌《とんこう》のあたりでも、観光コースからもう一足のばすと、延々と続く黄色い砂漠《さばく》だけの土地がある。そこで出会った砂嵐《すなあらし》は、手をのばせば届く距離にいる人の姿さえかき消してしまった──
それと同じだった。
消えてゆく。だが、直也が透明になっていくというのではなかった。足元から目に見えないほど細かい粒子になり、夜風にさらわれて飛び去ってゆくかのようだった。それもほんの一瞬のあいだ、脈がひとつ打つほどの短い時間に。
彼が消え去るのを見届けたとき自分が息を止めていたことに気がついた。
直也が立っていた場所から見通せる位置に、点滅している赤信号が小さくあった。さっきまでは、彼がいたからそれが見えなかった。
今は見える。
そして、直也はいない。
姿が見えなかった。隠れる物陰さえないがらんとした駐車場に、背後には病院の明かり。救急専用入り口という看板が明るくともっている鉄柵《てつさく》の向こうにも、彼はいない。
「今のはなんだ?」
荒い鼻息と一緒に、生駒の声が聞こえた。
あたりを見回している。そうしなくても、もうここで直也を見つけることはできないことが、私にはわかっていた。
「消えたんだ」
「なんだと?」
「見ただろう? 消えようと思えば消えられるんだよ、彼は」
そして、行きたい場所に行くことができるのだ。
<非常口>のランプの青い光の下で、生駒の顔は粘土のような色に見えた。
「気でも狂ったか?」
「ああ」彼と視線を合わせて、私は言った。
「狂ったのかもしれないな」
[楼主] [6楼] 作者:滄炎沁夢2005 发表时间: 2008/04/13 20:12 [加为好友][发送消息][个人空间]回复 修改 来源 删除第六章 事 件
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1
うつらうつらしながら、夢を見ていた。
何処《どこ》ともわからない街だった。少し風が吹いている。空は曇っているようなのに、辺りは妙に明るい。
夢だな──と思いながら、街角に立っている。
低いブロック塀《べい》の上にスチール製のフェンスが立てられていて、私はそこにもたれていた。フェンスの向こう側には小さな公園のような開けた場所があった。色褪《いろあ》せた感じの水色の上っ張りを着た子供たちが大勢いて、手をつなぎ輪になっている。その中心に、同じように上っ張りを着た七恵がいて、手を打って歌いながら子供たちに笑いかけていた。
彼女は歌っている。
初めて七恵の声を聞いてるんだ……と思った。それがちっとも不思議ではなく、ごく当たり前のことのようにも思えた。夢のなかでなら彼女も歌うことができる。話すことも、声をたてて笑うことも。
聞き覚えのない歌だった。童謡のようでもあり、賛美歌のようでもあった。賛美歌など一度もまともに聴いたことがないのに、そんな気がした。
七恵は私に気がついていなかった。呼んでも聞こえないようだった。やっぱり夢だ……聞こえないはずはないからな。そう思って、何度か声をかけた。そうしているうちに、きっと目が覚めてしまうだろう……
そのとき、歌っているのが七恵ではないことに気がついた。歌声は、どこか外から聞こえてくる。
子供たちの輪から少し離れた場所に、白いシャツを着た織田《おだ》直也がいて、じっと彼らを、七恵を見つめながら、歌っているのだった。
彼の声だった。
直也も私には気づいていなかった。そこでは、私は全然居ない人間だった。直也は口元にかすかな笑みを浮かべながら歌い続け、子供たちは飛び回り七恵は笑っている。
彼を呼んでみた。
直也はゆっくり頭をあげ、私を見つけた。
彼は歌うのをやめず、微笑を消すこともなかった。ただ、そのままゆっくりと背を向け始めた。回転する台の上に乗っているかのように、すうっとうしろを向いてしまう。そして遠ざかってゆく。彼の足が見えないのに、彼は行ってしまう。
追いかけようと、フェンスを越えようと思う。するといつのまにかフェンスは高くなっていて、見上げると、そのてっぺんは雲のなかに消えている。急いで直也の背中を目で追いかけると、彼は遠くに行ってしまっている。
それでも、その背に何か赤いものがついていることはわかる。ペンキのように赤く、乾かずに流れ続け、彼が遠ざかってゆくその道に、何か重いものを引きずった跡のように、それがうっすらと残されてゆく。
血だ。
そう気がついたとき、足元がふらりとした。身体《からだ》が揺れ始め、視界がぶれ、直也を呼び止めようとして声を出すと、その声も震えている。何度も彼を呼ぶ。次第に声が出なくなり、あまり身体が揺れるので周りが白っぽくぼやけてゆく──
目を開けると、七恵がのぞきこんでいた。彼女も目を見開いている。
私の肩に手をかけ、揺すぶっていたらしい。最初に意識したのは、その手のぬくもりだった。熱でもあるんじゃないかと思うほどに温かい。
やっと現実が戻ってきて、彼女の部屋の天井が見えた。もう一度確認するように、ああ夢だったんだと思った。
スタンドが点《つ》けてあり、光が目に痛くないように、少し向こうへ押しやってある。七恵はだいぶ前から目を覚ましていたのかもしれない。
「ごめん。起こしちゃったらしいな」
七恵は首を振り、指先で私の額に軽く触れた。汗をかいていたらしい。
「うなされてた?」
うん、と頷《うなず》く。
「夢をみてたんだ」
七恵は、(どんな夢?)というように首をかしげた。夜中に病気の子供のそばに付き添っている母親みたいな顔をしている
「今、何時かな」
首をのばすと、枕元《まくらもと》の日覚まし時計が見えた。午前二時だった。ということは日付もかわり、例の「一週間」という期限が過ぎて、二日目に入ったということになる。
今まで、慎司の大《おお》怪我《けが》というアクシデント以外は、何も起こっていなかった。
彼は危険な状態を乗り越え、一度は意識も戻っていた。が、そのとき顔を見ることができたのは両親と担当の警察官だけだったし、口をきくことはまだできないようで、ぼんやり目を開いてはいたものの、何も見ていないように見えたと、稲村|徳雄《のりお》は肩を落としていた。その後はまたとろとろと眠ったままだというから、いったい何があったのか、正確に彼の口から説明を受けることは、まだ当分できそうにない。
そんな状態だから、彼を襲ったのが、やはり、私を脅迫している名無しの人物であったのかもしれないという疑いも捨てきれなかった。
「俺《おれ》はそうは思わねえな。例の脅迫はやっぱりブラフだよ」と生駒《いこま》は言う。
「おい、考えてみろよ。敵は何もしなくたって目的を達したようなもんだ。一週間の期限を切って、俺たちをおたおたさせたんだからな。案外、最初からそういう狙《ねら》いなのかもしれねえ。こっちを混乱させて楽しんでるんだ。こんなことを続けられたら、結構じわじわ効いてくるぞ」
たしかにそれには一理ある。が、私はすんなり納得しきれない。本当にそれだけだろうかと思う。「狼《おおかみ》が来た!」ごっこに興じているだけだとは──
七恵がまだ心配そうな顔をしているので、私はちょっと笑ってみせた。
「夜中のこの時間帯は、悪い夢を見やすいんだ」
彼女は右手を立て、人差し指の側で顎《あご》を二度叩《たた》いた。(本当?)という手話だった。
「ホントさ。一日のうちで、血がいちばんゆっくり流れる時間帯だから」
七恵は(怪しいなあ)というように顔をしかめた。それでも、毛布を引っ張り上げて肩を包んでやると、うつぶせのまま、すとんと枕の上に顎を載せた。
彼女も、このところずっと眠りが浅いようだった。寝ているんだろうと思ってふと見ると、ぱっちり目を開いていることもある。そんなときは、(どうした?)と訊《き》いても、返事をしない。
「学生時代の友達に──」
天井を向いたまま話しかけると、七恵は首を動かして私を見た。
「夜中、どんなに熟睡してても、地震が起こる前には必ず目が覚めるっていうヤツがいた。トイレに行きたいわけでも何でもないのに、出し抜けに目が覚めたときには、一〇〇パーセント確実に地震がくるっていうんだよ」
ようやく、七恵はクスッと笑った。
「そう、おかしいだろ。でもヤツは大《おお》真面目《まじめ》でね。眠っているときには、脳の普段使ってない場所が起きて活動してるから、そういう勘が働くんだと言ってたな……。だからひょっとすると、今だってそうかもしれないぞ。グラッと──」
そう言って頭を動かしたとき、電話が鳴った。
七恵はビクッとした。音量を絞ってあっても、闇《やみ》のなかではトーンが大きく聞こえる。私は最初のベルが鳴り終えないうちに起き上がってベッドを出、二度目のベルが鳴り始めたところで受話器を取った。こちらが何も言わないうちに、生駒の声が聞こえてきた。
「起きてたのか?」
「ああ、起きてた」
「いい勘だ」生駒の声は低かった。「今、座ってるか? 座って聞いた方がいい」
彼ははっきり目を覚ましている人間のしゃべり方をしていた。ちゃんと服を着て靴《くつ》まで履いているかのようなしゃべり方を。
「何があった?」
尋ねると、彼はさらに声を落として言った。「今説明してやる。七恵さんには、できるだけ怖がらせないように、順番を考えて話してやれよ」
七恵は起き上がっていた。じっとこちらを見ている。
「よく聞け。警察がおまえを探してる」
あまり驚いたので、すぐには顔に表情が出なかったようだった。
「自宅で連絡がつかなかったんで、連中、あわてたんだ。それで俺にお鉢《はち》が回ってきた。そこの場所を教えたから、おっつけ刑事が行くはずだ」
「なぜ俺を?」
生駒は大きく息を吸いこんだ。「昨夜《ゆうべ》遅く、川崎|小枝子《さえこ》が何者かに拉致《らち》された」
今度は驚きが外に現われたのか、七恵がしゃんと座りなおした。
「俺が知っているのは、今のところそれだけだ。彼女が拉致された。で、警察はおまえを探してる。どっちに転んでも愉快な用じゃあるまい。頭をしゃっきりさせて待ってろ」
生駒が言ったとき、アパートの入り口にノックの音が響いた。
刑事は二人、申し合わせたようにグレイの背広を着込んでいた。一人がしゃべり、一人が観察し、二人で退路を塞《ふさ》いでいた。
説明は簡潔で要を得ていた。小枝子は昨夜十一時半ごろに自宅近くの路上から拉致され、それきり行方がわからない。犯人とおぼしき人物から最初の電話があり、川崎明男が一一〇番通報をしたのが午前一時三十五分ごろのことだった。
「我々はあんたのお迎え部隊だ」と、刑事は言った。「これから川崎家へ行ってくれ。あとのことは、そこに詰めている者の指示に従えばいい」
「どういうことです?」
「川崎夫人を誘拐《ゆうかい》したと連絡してきた人物は、今後の交渉相手にあんたを指名してきてるんだ。理由はあんたがよく知っているはずだとも言っている」
なぜ? と問う必要はなかった。刑事もそれを承知しているようだった。(あたしの好きに選ばせてもらうよ)という声が、耳に甦《よみがえ》った。
「事情は我々も聞いている。川崎明男が話してくれた。まだ断定はできんが、あんたを脅迫していた人間が、いよいよ脅しを実行にかかったようだ」
二人の刑事と私と七恵は、芝居の立ち稽古《げいこ》をしているかのように、台所の床に立ったまま話していた。床の冷たさが足を伝って這《は》いあがってきた。
「かなり面倒なことになると思うが、覚悟していてもらいたい。我々も、あんたと人質を危険にさらさないように最善を尽くすつもりだ」
「と言っても」と、片割れの刑事が口を開いた。「あんたが最初からこれに一枚|噛《か》んでいるという可能性もある。大いにある」
牽制《けんせい》するような口調だった。彼ら二人はこういう分担で縦糸と横糸の役割を果たしているようだ。
「ごもっとも」私が言うと、七恵が(信じられない)というような視線を投げてきた。
刑事は七恵に言った。「我々は疑うのが商売でね。恋人かな?」
彼女は顎を引いて頷いた。刑事が妙な感じで眉《まゆ》を上げたので、私は言った。
「彼女からあれこれ聞き出すなら、手話のわかる人間を呼んできた方がいい。警察にそういう人間がいればの話ですが」
「婦警を呼ぼう」刑事は言って、私に向き直った。
「すまんが、足を肩幅に開いて両手を上げてくれ」
言われたとおりにすると、刑事はさっと検索するように身体検査をし、それが済むと、親指でドアを示した。
「よし、行ってくれ。外に出たら、別のお迎えが来る。ここにも警護をつけるから、あとのことは気にせんでいい」
「お願いします」
片割れが吸い付くように寄ってくると、私の肘《ひじ》をつかみながらドアを開けた。廊下へ出るとき、七恵に何かひとこと言い置いてやろうと思ったが、何も思いつくことができなかった。彼女は軽く手を動かし、言葉を投げてきた。
意味はすぐわかった。(いってらっしゃい)だった。そう言って送り出せば、必ず(ただいま)と帰ってくるはずだと信じているのかもしれなかった。
外に出ると、頭上には星がまたたいていた。夜気は澄んでおり、いい加減な欠け方をした月が、誰かにぽんと投げ上げられ、そのまま空に引っ掛かってしまったかのように、いい加減な角度で見おろしていた。
刑事と二人、早足で表通りに向かって歩いてゆくと、うしろからタクシーが一台静かに追い越してゆき、二メートルほど先で停止してドアを開けた。乗りこむとき、刑事に頭を押さえられた。
「もう一台尾行がついてくるが、うしろを気にしないでください」
運転手に扮《ふん》した刑事は、車を出しながら言った。
「降りるときには、ごく普通にふるまってぼしい。どこで犯人が見ているかわからないから。ちゃんと金を払うふりをするんだ。とにかく落ち着いて行動する。わかりましたね」
「メーター」
「なに?」
「メーターを倒してないんですよ」
刑事はにやりとした。「その意気だ」
2
川崎家には、一階にだけ明かりが点いていた。
真っ先に出てきたのは川崎明男だった。きちんとネクタイを締めていた。仕事から帰ったばかりの格好で、上着だけ脱いだという感じだった。
すぐには言葉もなく、彼は私を睨《にら》んでいた、青ざめ強《こわ》ばった顔で、身体の脇《わき》に垂らした腕がぶるぶる震えていた。その震えを止めようとするようにぐっと拳《こぶし》を握ってから、彼は言った。
「こんなことに──」
なったのはおまえのせいだ、と言いたいのはわかっている。
「申し訳ありません」と、私は言った。彼は力なく首をうなだれ、額をさすった。「すみません。いや──あなたを責めたって仕方ないのはわかってるんだが──」
川崎の背後のドアを通って、ずんぐりした身体つきの男が近づいてきた。灰色のスーツを着ており、上着のボタンはすべてはずしてあった。
「高坂昭吾さんだね」と問いかけてきた声は、見事なバリトンだった。「こちらへ」
ぴったりとカーテンを閉ざされた居間のなかには、スーツ姿の男たちが四人いた。ずんぐりした男は、私を応接セットのテーブルの前に陣取っている小柄《こがら》な男の前に連れていった。相手は立ち上がったが、私の肩までしか背が届かなかつた。
「警視庁捜査一課特殊犯罪捜査班の伊藤《いとう》警部です」
穏やかな声で、ほとんど緊張感が感じられなかった。彼は手早く周囲にいる部下たちを紹介してゆき、最後に「我々被害者対策班では、私が指揮官です。ご面倒をおかけするが、これからは、どんな細かいことでも私の指示に従っていただきたい。よろしいかな」
「わかりました」
先程のバリトンの男が、私に座るように促した。彼は中桐《なかぎり》巡査部長と紹介されていた。覚えられたのは、指揮官と彼の名前だけだった。二人とも五十年配だが、中桐刑事の方が年長に見える。
テーブルの上には、白い電話機が据《す》えられていた。録音機がつないであり、傍《かたわ》らにヘッドホンが置いてある。その横にもう一台、録音機に似た機械が据えてある。たぶん、音声の増幅器だろう。大判の地図が広げてあり、二ヵ所にだけ赤いしるしがつけてあった。川崎家の場所と、小枝子が拉致されたという現場だろう。川崎家を中心に、五センチ間隔ぐらいで円が描いてあった。
この前やってきたときに感じた、部屋のなか全体を支配している装飾的な雰《ふん》囲《い》気《き》が、すべて消し飛んでいた。おそらくは小枝子が丹精しているであろう観葉植物の鉢が、ぞんざいに脇に押しやられている。仕切りのドアを開け放って、二人の刑事が出入りしているが、向こう側の部屋には無線機を置いてあるらしい。小枝子が手本にしていたインテリアの本には、そんなたぐいのものが部屋に持ち込まれたときのことなど書いてなかっただろう。
「とりあえず、現況をご説明しましょう」と言って、伊藤警部はテーブルに手を載せた。身体には不釣《ふつ》り合《あ》いな大きな手だった。
「小枝子夫人がどういう状況で連れ去られたのかは、我々にもまだわかっていません。わかっているのは、今夜夫人が何かの用で家を出て、この地点で──」
と地図の上の赤い印を指で示した。
「何者かに拉致されたらしいということだけです。ここは狭い十字路ですが、人けのない場所で、今までのところ目撃者はおりません。悲鳴や人の争う物音を聞いたという情報も入っていない。しかし、現場には夫人の靴が片方落ちていました」
警部は私の目をまっすぐ見据えて話していた。反応を見られているのだとわかった。
川崎明男がのろのろとやってきて、尻《しり》からどすんとソファに腰をおろした。私はちらっと彼を見上げた。