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我々が初めて出会ったのは、九月二十三日の夜十時半ごろのことだった。佐倉工業団地の近くで、路肩に自転車を倒し、彼はしゃがみこんでいた。
時も場所も、事前にアリバイを用意しておいた犯罪者のように正確に覚えているのは、その夜その時刻、間東地方に大型で強い台風が接近しつつあったからだった。私はカーラジオをつけっぱなしにして、三十分ごとに放送されるニュースを聞いていたが、いつもふがいない空振りを繰り返している天気予報とは違い、台風情報は小憎らしいまでに正確だった。
予報官の言葉とおり、午後七時ごろから西風が強くなり始め、やがて暴風雨がやってくると、ライトをつけていても一メートルほど先しか見えないような有様になった。叩《たた》きつけるように降り注ぐ雨もさることながら、道路にできた水溜《みずた》まりに車輪がつっこむと、ちょっとした噴水顔負けの水飛沫《みずしぶき》があがり、それがまたフロントガラスにざぱりとかかっては、視界をさえぎる。どこか安全な場所を探して車を停《と》め、暴風雨が峠を越すまで待った方がよさそうだと、私も考え始めていた。
そのとき、彼を見つけたのだ。
私が、いっそ歩いた方が早いくらいの低スピードで車を転がしていなければ、我々の出会いは最悪の形になっていただろうと思う。私は彼を轢《ひ》いてしまい、顎《あご》をがくがくさせながら救急病院を探し回る羽目になっていたはずだ。だいたい、そんな時刻に、台風のど真ん中を、それも車ならまだしも自転車で横切ろうとしている人間がいようなどと、普通は考えられない。ライトの向こうにぼんやりと浮かび上がった人影を見つけたときも、最初は、田舎道でよく見かける、警察官の形をした人形だと思ったくらいだった。
だが、その人影は、私の単にむかって手を振った。警察には、バッテリーで動く警官人形を道端に据《す》えっぱなしにしておくほどの予算はない。だから、生身の人間だとわかった。薄いビニール製の雨合羽を着ていたが、フードは頭から吹き飛び、袖《そで》も裾《すそ》も暴風にはためいていた。髪が濡《ぬ》れて頭にぴったりとはりついているうえに、豪雨に顔をしかめ目を細めているので、ストッキングをかぶった強盗のような顔に見えた。どうやら男であるらしいことと、年配者ではなさそうだということが、かろうじてわかるだけだった。
彼は道の左端にいたが、私の車が近づいていって停まると、大急ぎで運転席側の窓に近づいてきた。窓をさげると、吹き降りが顔を打ち、私もしかめ面《つら》をしないではいられなくなった。
「こんなところで何してるんだ?」
そのときはまだ叱《しか》るつもりはなかったが、風の轟《とどろ》きに負けないために、私は怒鳴った。
「パンクしちゃったんです!」
彼も怒鳴り返し、大雑把《おおざっぱ》に自転車の倒れている方向を指した。
「動けなくなっちゃって。すみません、どこか修理のできるところまで乗せてってくれませんか?」
「とにかく乗りなさい」
私が大声で言うと、彼は前屈《まえかが》みになって風に逆らいながら自転車の方へとって返し、すべったりぶつかったりしながら自転車を起こすと、こちらへ戻ってくる。水溜まりを横切るとき、自転車の前輪が十センチほど沈んでしまい、車輸が回るたびに小さな波がたつのが見えて、私は少しばかり気味悪くなった。この台風と豪雨をみくびっていたという点では、私もこのヒッチハイカーと同じかもしれない。
「ちょっと待っててください。これ、折り畳めるんです。そしたらトランクにも乗せられるから」
「自転車なんか放《ほ》っとけ!」
「でももったいないし......」
「あとで取りにくりゃいいだろ?」
「飛ばされちゃったらどうしようかな」
私は声を張り上げた。「地べたに寝かせておきゃ飛んでかないよ。とにかく早く乗ってくれ! ぐずぐずしてると置いてくぞ!」
実際、こんな場所で長く停まっていたら、うまく走りだせなくなる可能性が高かった。私の車は新品でもなく高性能でもなく、私がもっともそうしてもらいたくないときを狙《ねら》ってエンコするという、性悪な癖を持っていた。私とこの車は、刑事とタレ払み屋のように、互いを全然信頼しないまま、ただとりあえずは便利で、ほかにお代わりがいないということだけでくっついていた。
「早く、早く!」私は彼をせきたてた。彼はなんとか満足のいく位置に自転車を横たえると、走って戻ってきた。助手席のドアを開けようとして、ひどく苦労している。雨で手が滑るのかと思って手伝うと、強風に押されてドアが開きにくいのだとわかった。
まったく前代未聞だった。こんな暴風雨は経験したことがなかった。気象予報官の「三十年ぶりの大型台風です」という台詞《せりふ》を、なんとなく聞き過していたことを後悔した。
彼がなんとかドアを開け、身体《からだ》を通り抜けさせるのを見計らって、私は彼の雨合羽をつかみ、内側にひきずりこんだ。
「脚をはさむなよ!」と怒鳴るのと同時に、恐ろしいほどの勢いでドアが閉じた。コメディ映画によくあるように閉まったと同時に、ドア全体が壊れて落ちてしまうのではないかとさえ思うほどだった。
「あー」彼は声を出してため息をついた。「スゲエや」
私は車をスタートさせた。車輪が何度か空回りをし、悪い予感がした。ようやく、がくんと前のめりになりながら動きだしたときには、思わず安堵《あんど》のため息が出た。
「なんて天気だ」
私が拾ったヒッチハイカーは、全身から均等に水を滴《したた》らせていた。耳たぶからも、鼻の頭からも。彼は顔のまわりの水滴をぐるりと手の甲でぬぐってから、やっとまともに私を見た。
「どうもすみません。助かりました」
そのときにはもう、私にも、自分が拾ったのが年若い少年だということがわかっていた。ハンドルにしがみつきながら、彼の方は見ずに、頷《うなず》いてみせた。
「無鉄砲にもほどがあるぞ。こんなときに自転車を乗り回してるなんて。この辺に住んでるんだろ?」
「ううん。東京です」
呆《あき》れ返った。「じゃ、自転車でこっちまで?」
「そうです」
「学校を休んで?」
「連休だから。明日も休みですよ」
言われてみればその通りだった。仕事|柄《がら》、そういう意味でカレンダーを意識することがないので、忘れていたのだ。
「東京から千葉のこの辺までなら、僕にとっては近距離です。もっと遠くへ行ったことが、何度もあるもの。だから、べつに宿のことなんか決めないで、フラッと出てきたんです。野宿したっていいし、いざとなったら安く泊まれるところを探せばいいしね。今夜だって、パンクさえしなければ、自転単を押していって、雨をしのげる場所を見つけられたのに」
口調は落ち着いていて、とくに嵐《あらし》を怖がっている様子もなかった。
「それにしたって無諜じゃないか。台風が来ることはわかりきってたんだから」
私が咎《とが》めても、あっけらかんとしている。「おじさんだって」
男女を問わず一般に、二十五歳をこえたら、「おばさん」「おじさん」と呼ばれても仕方がない。が、三十五歳になるまでは、一応ムッとした顔をする権利はある。だから私はそうした。
「あ、スミマセン」少年は笑った。「おじさん......って呼び方は、すごくキャパシティが広いから。えーと、あの、お名前は──」
びっしょり濡れた頭をかくと、「それより、先に自分が名乗らなきゃ失礼ですよね。僕は──」
さっきの自転車と一緒に名前も置き去りにしてきてしまったとでもいうように、うしろを振り返った。私は気をきかせた。
「嫌《いや》なら名乗らなくてもいいよ。べつに補導しようという気はないから」
「やあ、そんなことはないです。イナムラシンジっていいます。『稲村ジェーン』の稲村に、慎重の慎に司会の司」
「高校生だろ?」
「はい。一年です。ところで、今どっちに向かって走ってるんですか?」
「東関東白動車道へ向かってるんだよ。方向さえ間違ってなければね」
佐倉街道へ出て南へ走れば、インターチェンジはそれほど遠くないはずだった。
フロントガラスにぶつかる雨の勢いは、いっこうに衰える様子もない。ワイパーは徒労を操り返しているだけで、ものの役にたたなかった。ふたつ並んだ明かりが見えない限りは、対向車がいないと信じて進んでゆくしかない。
「東京へ行くんですね?」
「そうだよ」
「こんな天気のなかを、よっぽどの急用ですか?」
「まあね」
実際には、こんなやっかいな目にあいながら急いで帰る必要はなかった。台風が通過するまで、実家で待っていても良かったのだ。車の性能をあてにできないのだから、なおのこと。だが私は腹を立てていて、とにかく家を出たかった。だから、仕事にかこつけて、無理に帰ると言ったのだ。
稲村慎司は、いくぶん不安そうな顔をしていた。それが、車全体を揺さぶるような強風のためだけでないことに、しばらくしてから気づいた。
こんな夜に自転車でツーリングしようとしていた少年を拾った私は、呆れながらも鷹揚《おうよう》に構えていられる。だが、こんな夜に自家用車を走らせている見ず知らずの男に拾ってもらった少年の側は、運転者の正体を知りたいと思うのが当然だ。はっきり答えてやるべきだった。
「べつに、トランクに死体や麻薬を積んでるわけじゃないよ」私は前を向いたままちらりと笑ってみせた。「怪しい者じゃない。ダッシュボードのポケットをのぞいてごらん。免許証と名刺が入ってるから」
口で説明するより、その方が確実だ。慎司は言われたとおりにして、薄暗い車内で私の名刺を見つけた。
「高坂《こうさか》昭吾《しょうご》」と、読み上げる。「へえ......雑誌記者さんなんだ」
「さんは要らないよ」
正直なもので、慎司は目に見えてほっとしたようだった。
「仕事があるから帰るんですか? それとも、取材からの帰りですか?」
「私用でこっちへ来てたんだ。それに、無理に今夜中に東京へ帰らなきゃならないこともない。行けるところまでは行ってみようと思って出てきたんだから」
それは本当だ。
慎司はまだ私の名刺を見ている。「『アロー』なら、僕、よく知ってます」
「へえ。キヨスクや本屋で見かけるくらいだろ?」
「アロー」は、発行部数も知名度もそこそこの週刊誌である。フリーランスの契約記者も入れて四十人ほどの所帯で、形としては独立採算制をとっているが、実態はある大手の全国紙のコブみたいなものだ。そこから弾《はじ》かれたり、落ちこほれたり、あるいは天下ったりした記者たちが、「アロー」に送り込まれてくるのである。
私もその一人だ。異動がかかって三年、「出向」という言葉の辞書には載っていないニュアンスを、骨身にこたえて知らされているクチである。
「見かけるだけじゃないですよ。読んでまず。ときどきだけど。店に置いてあるから」
「店?」
「うち、喫茶店をやってんです。父さんが──父が毎週『アロー』を買ってくるんです」
「それはごひいきにどうも」
じりじりと、だが確実に、私は車を走らせた。何度か角を曲がり、一度は多少広い道に出て、そこで地図を確認した。もう少し南へ走らなければならない。
「この辺、それほど田舎じゃないのにな。夜になると真っ暗ですね」
「天気のせいもあるんじゃないか」
「高坂さんはどこから来たんですか?」
「船戸」
「へえ。霞《かすみ》ヶ|浦《うら》の方じゃないですか」
「よく知ってるな」
「行ったことありますよ。でも、あっちの方から東京へ帰るなら、成田街道を通ればいいのに」
「いつもならそうしてるんだけどね。事故で封鎖されてたんだ。上座《じょうざ》のあたりでトラックが荷崩れを起こして、うしろの車が何台か巻き込まれたらしい」
「うひゃあ」慎司は声をあげ、それから可笑《おか》しそうに笑いだした。「わかった。そうすると、僕を拾ってくれた辺りで、高坂さんも道に迷っちゃってたんじゃないですか?」
私は苦笑した。「当たり」
と、そのとき、何かに乗り上げたのか、タイヤをとられたのか、車は大きくバウンドした。座席の下から一撃を食ったような感じがして、身体が揺れた。
「おっと、ごめんよ」
「何か櫟いたのかな?」慎司は素早く言った。
「まさか。木の枝か何かだろう」
そう受け流しながらも、私もなんだか嫌な感じがした。車はまだじりじりと前進していたが、私はゆっくりとブレーキを踏んだ。車体がすうっとスリップしながら停まるのが、はっきりわかった。
白状すれば、私一人だったなら、そのまま走りすぎていたことだろう。隣に慎司が乗っていることで、私のなかの分別──いや、大人としての見栄《みえ》のようなものが、車を停めさせたのだ。
思い切って運転席側のドアを開けると、とたんに豪雨が殴りかかってきた。肩まで外に突き出してうしろをのぞいても、何も見えない。周囲は漆黒の闇《やみ》で、そのなかにまばらに点在している弱々しい明かりは、人家や街灯のものだろう。
「見えますか?」
「駄目《だめ》だ」
埒《らち》があかない。仕方ない、降りてみようと、足元を見おろして驚いた。急流ができている。雨水が早瀬のようになって流れているのだ。道路の真ん中を。
頭をあげ、周囲を見回してみた。ちょうど斜め前に細い間道が伸びていて、車のヘッドライトの明かりのなか、雨が盛大に路面を叩いているのが見える。そこからも雨水が流れてくるが、ここほどひどい流れになっているわけではない。
「おかしいな」私は慎司を振り向いた。「そっちのドアを開けて、地面を見てみてくれないか? 降りちゃ駄目だ。のぞいてみるだけでいい」
慎司は私の指示どおりにすると、目に入る雨をまばたきしてふりはらいながら顔をあげた。
「すごいよ。川みたい。ちょっとおかしいんじゃないかな。ほら」
見えない何かを指すように人差し指を立てて──
「ごうっていうような音がしてますよ」
私はもう一度ドアから身を乗り出して、道路の上を透かして見た。たしかに、慎司が言ったような音が聞こえる。かすかではあるが、風のうなりとは違う。
「その辺に懐中電灯があるはずなんだとってくれないか」
慎司に頼んでおいて、私は上着と靴《くつ》を脱いだ。
「出てみるんですか?」
「うん」
「傘《かさ》は?」
「傘なんかさしたら、かえって危ないよ」
「それもそうですね」
左手に懐中電灯を持つと、右手でしっかり車のドアにつかまりながら、私はそっと道路に足をおろした。思いがけないほど水は冷たく、爪先《つまさき》も踵《かかと》も沈むほどに深くなっている。その場でズボンの裾をまくった。
「気をつけて」慎司は運転席の方へ移動してきて、私がしっかり地面に立つまで、ズボンのベルトをつかんでいてくれた。
「大丈夫だ、いいよ、離してくれ」
慎重に、ゆっくりと、右手で車に触れながら車体に添うようにして進んだ。雨で冠水した道路がこれほど歩きにくく、危険なものだとは思っていなかった。
それにしても、これはちょっとひどすぎる。もっと海寄りの、埋立地みたいな土地ならまだわかるが──
そして、見つけた。路上に、懐中電灯の明かりを照り返すものを。金属だ。大きい。
「どうですか?」
慎司が大声で訊《き》いた。私はまだ見つけたものの正体をつかむことができず、明かりを動かしていた。
「何かあったんですか?」
車の尾部まで来ると、ごうっという音がもっとはっきりした。私はトランクの端につかまったまま、声を張り上げて返事をした。
「わかったよ!」
「何です?」
「マンホールだ。蓋《ふた》がずらしてあるんだよ!」
ぞっとするような眺《なが》めだった。マンホールの蓋がずらされて、道路に半月形の穴があいている。そのなかに雨水が流れこんでゆく音が、強風の下でも聞こえるほど大きく響いていたのだ。私の車は、その蓋に乗り上げてパウンドしたのだろう。
そばまで近寄って、のぞきこんでみる勇気は出なかった。うっかりすべって流されたら、なかに落ち込んでしまうだろう。この雨量だ。マンホールの下を流れている下水の水位も、相当あがっているはずだ。落ちたら、まず助かるまい。
濡れついでに、私は頭上を見上げた。雲は早いスピードで西から東へと流れてゆく。これだけの雨を含んだ、これだけ厚く重い雲を、やすやすと動かしている大気のエネルギーは、まだ当分尽きることがないように思えた。
朝になって雨がやんでも、下水に流れこむ水の量がすぐに減るわけではない。マンホールの蓋をあのままにしておいては危険だった。
手にした懐中電灯を動かして、周囲を照らしてみた。そのとき一段と強い風が吹き付けてきて、私は首を縮めた。そして、視界の隅《すみ》を何か白っぽいものがふわりと横切るのを見た。
素早く首をめぐらせて、探してみた。顔を打つ雨を片手で遮《さえぎ》りながら見回すと、また何かがふうっと動いた。
傘だった。
子供用の黄色い傘だ。集団登校の小学生たちが、揃《そろ》ってさしているような傘だった。開きっぱなしになって、道路|脇《わき》の草叢《くさむら》のなかを、風にもてあそばれながら転がってゆく。
動悸《どうき》が早まった。開いたままの傘と、開けっぱなしのマンホール。
傘の持ち主はどこへ行った[#「傘の持ち主はどこへ行った」に傍点]?
不吉な予感にとらわれて、私は車の周囲を歩き回った。懐中電灯を動かし、「誰かいますか?」と呼んでもみた。答えはなく、草叢のなかで傘だけが人を|小馬鹿《こばか》にしたようにあっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。
「高坂さん」運転席のドアから身を乗り出して、慎司が私を呼んだ「向こうから、誰か来ます」
私の車が向かっていた方向から、前かがみになって風雨のなかを抜けてやってくるのは、大人の男だった。慎司のよりはずっと上等の防水コートを着こみ、フードで頭を包み、長靴を履いている。手には大型の懐中電灯。彼が声の届く距離に近づいてくるまで、実際にはほんの一、二分しかかからなかったのだろうが、その時の私にはずいぶんと長く感じられた。
彼は長身を丸めるようにして頭を下げ、「すみません」と呼びかけてきた。
「このあたりで、小さい子供を見かけませんでしたか? 男の子です。背はこのぐらいで──」と、自分の腰の辺りをさす。「黄色いレインコートに、黄色い雨傘をさしています。。見かけませんでしたか?」
ちょっとのあいだ、私は口をきくことができなかった。風のうなりも雨音も耳から消えた。聞こえるのは自分の心臓の鼓動だけだった。
慎司が不審そうに私を見ている。男は我々の顔を見比べている。
顔中ずぶ濡《ぬ》れなのに、くちびるも喉もカラカラに乾いてしまったような気がした。ようやく、私は訊いた「あなたのお子さんですか?」
男は大きく頷《うなず》いた。「ええ、そうで──」
そこで言葉が途切れた。男の視線をたどり、私は反射的に振り返って、あの傘が道路の方に転がり出てくるのを見つけた。
男の顎《あご》が、がくんと下がった。懐中電灯を持っていた手から力が抜け、身体《からだ》の脇にだらりと下がる。そして一瞬の放心のあと、背後から誰かに鞭《むち》でどやされでもしたかのように突進してきた。
私は危ういところで彼を引き止めた。「待ちなさい! 危ない」
「危ないって──」
「マンホールがあるんです。蓋が開いてるんだ」
言葉の意味が男のなかで焦点を結ぶまで、数秒かかった。そして、前にもまして強い力で私の腕を振り払うと、闇雲に傘の方へと近づいてゆく。私は、今度は彼の防水コートをつかみ、口を開けたまま茫然《ぼうぜん》としている男に近寄ると、怒鳴った。
「あれは子供さんの傘ですか?」
男は返事をしない。「大輔? 大輔?」とつぶやいている。子供の名前だろう。私は男の腕をつかんでゆさぶった
「あなたの子供さんの傘ですか?」
男はゆっくりと首をよじると、私を見おろし、何度も頷いた。「そう.........らしい」
彼をその場に残し、転がっている傘に近づいて、拾い上げた。柄《え》のところに「一ねん二くみ もちづきだいすけ」と名前が入っていた。男が私の手から傘をひったくると、わめくような声をあげて握り締めた。
彼と私は、急いでマンホールへと近づいた。私はまた彼の防水コートの端をつかんだ。男は蓋のそばにしゃがみこみ、全身に雨水を浴びながら、地中にぽっかりと開いた穴のなかを照らし、流れ落ちてゆく水を照らした。
それから、二人で足元に気を配りながら周囲を歩き回り、子供の名を大声で呼んだ。何度も呼んだ。だが答える声は聞こえず、小さな人影も、黄色いレインコートも見えない。
「お宅はどちらです? ここから離れてますか?」
返事をもらうまで、何度も怒鳴らなければならなかった。
「向こうの──向こうの方です」
男はさっきやってきた方向を指さした。その指は、重度のアルコール依存症患者のそれのように震えていた。彼の差した方向には、ひとかたまりのカラフルな光が見えた。終夜営業のレストランかガソリンスタンドの明かりのようだった。
半ば男をひきずるようにして草のそばに戻り、不安そうに見つめている慎司の手に、黄色い傘と私の懐中電灯をおしつけた。
「すまないけど、ここにいてくれ。人が通りかかったら、明かりを動かして警告するんだ。誰も近づけちゃいけない。すぐ戻ってくるからな。いいか?」
慎司はぽかんとしていた。小さな傘をしっかり握り、私の方を向いていながら、目は百メートル先を見ていた。
「おい、しっかりしてくれ。聞こえてるか?」
もう一度大声を出すと、慎司はぶるっと身震いして我に返った。まるでそれが彼の命綱であるかのように、固く傘を握り締めて。
「君も気をつけるんだぞ。マンホールのそばに寄っちゃ駄目だ」
「わかった」と、蒼白《そうはく》な顔で頷いた。
慎司を道端に残し、男を車に押し込むと、エンジンをふかした。男は大きなゴム人形になってしまったかのように、だらしなくシートにへたりこんでいた。話しかけてやらないと、そのまま正気を失ってしまいかねないように見えた。
「しゃんとしてください。まだそうと決まったわけじゃない。電話をみつけてお宅にかけてみるんです。いいですか? 子供さんは傘を飛ばされただけで、無事家に帰ってるってこともあるんですからね。そういうことがよくあるんです。いいですね?」
生まれて初めて、私は大声で嘘をついていた。男は返事をしてくれなかった。
2
やはり、子供は家に帰っていなかった。
三十分ほどすると、問題のマンホールのある場所は、人と車とライトで溢《あふ》れた。パトカーが三台、水道局の緊急作業車が一台、頭を寄せるようにして停車し、てんでに赤と黄色の回転灯をひらめかせている。場違いににぎやかな色の組合せでくるくる回るその光は、捨て鉢な女のヒステリー笑いのように、やたらに明るかった。
もうひとつ、台風のど真ん中に出現した月のように丸く、真っ白にまぶしい光を投げかけているのが、警察が運んできた投光器だった。今はいっぱいに開けられているマンホールの穴に向けられており、腰に命綱を巻いた水道局員が一人、地下にのびている垂直の穴をのぞきこんでいた。
私と慎司は、車のなかで事情を訊かれた。話すことは大して多くなかった。慎司は大事に持っていた黄色い雨傘を警官に渡し、私がそれを見つけたくだりを説明しているあいだ、ずっと下を向いていた。
風は依然として強く、投光器の白い光のなかに浮かび上がる雨は、畳針のような形をしていた。気まぐれな強風にあおられた畳針の大群が吹き付けてくると、警官たちも水道局員たちも、さながら機銃掃射を浴びているかのように首をすくめ、それが通りすぎると、また頭を上げて作業を続ける。
「見込みはどうです?」
私が尋ねると、防水コートを着込んだ警官は、残念そうに頭を振った。行方不明になっている子供の祖父にあたるくらいの年配者で、額に何本も深いしわを刻んでいた。
「ほとんどないね......どうしようもない。一応、下水の本管の方へも人が降りて捜索してはいるが、まず見つけられないだろうよ。汚水処理場の取水口で網を持って待ってたほうが確実かもしれん」
わざとぞんざいな言い方をしていた。その気持ちはわかった。
マンホールに落ちた「望月大輔」は七歳。小学一年生だった。両親の名は望月雄輔?明子。ここから二区画ほど北にある公団住宅に、親子三人で住んでいるという。
「なんでこんなときに、子供が外を歩いてたんだろう」
「それなんだが、親も取り乱してて、まだよくわからん。いなくなったペットを探そうとしてたとか言ってるが」
慎司がちょっと頭を上げて、小声で言った。「モニカっていうんだ」
「モニカ?」
「猫《ねこ》です。可愛《かわい》がってたんだ。それがこ人な天気に外へ出ていって、帰ってこないから、心配して探してたんですよ」
私と警官は顔を見合わせた。慎司は抑揚のない声で続けた。「さっきその辺で、ほかのおまわりさんが話してるのを聞きました」
「そうか」警官はまた頭を振った。白髪の目立つ髪から水滴が落ちた。「子供ならありそうなことだ。可哀相《かわいそう》に。親も辛《つら》いだろうな」
「犯人、つかまりますか?」と、慎司が訊いた。きちんと頭をあげて、警官を見つめている。
「犯人って?」
「決まってますよ。マンホールの蓋を開けておいたヤツです。まさか、水道局の人が閉め忘れてたわけじゃないでしょ?」
「そっちの確認もとってるところだ」警官はちょっと言い淀んだ。「なぜ蓋が開いてたのか、調べないとな」
「もし誰かの悪戯《いたずら》だったなら、警察が放《ほう》っちゃおかないよ」私は慎司に言った。「必ず捕まえる」
慎司はまたうつむいてしまい、その彼の頭ごしに、私と警官は共犯者のようにこっそりと視線をあわせた。
これがもしも悪戯だったなら、仕掛けた人間を探しだすことはほとんど不可能と言っていい。目撃者も期待できず、手かかりもない。出会い頭に人を刺したとか、女性に悪さをしたとかいうことなら、その手の犯罪の前歴のある者や、似たような傾向の事件を洗ってゆくことで道が開ける場合もあるが、ただ「マンホールの蓋を開けました」では、探しようがないのだ。極端な話、酔っ払った男が気まぐれに──かなり力の要る気まぐれだが──ちょっとやってみただけということかもしれないのだから。
人間というものは、ときどき、自分でも思いがけないほど強い誘惑にかられて、くだらないことをしでかす癖がある。四年ほど前、まだ私が日刊紙の方にいて、都下の支部で記事を書いていたころ、そんな例にぶつかったことがあった。団地のベランダから鉢植えが落とされ、そのために人が一人死んだ、というものだ。
べつに、殺意だの恨みだのという大げさな意図がからんでいた事件ではなかった。その団地の五階に住むサラリーマンが、ベランダに出て、妻が花屋で買ってきた鉢植えをながめているうちに、不意にむらむらと、(これを下に落としてみたら面白いだろうな)と思った──というだけのことだったのだ。ちょうど、我々がハイキングなどで高いところに登ったとき、無意味に大声を出してみたくなるようなもので、本人はいたって軽い気持ちでやったことだった。それが誰かにぶつかるかもしれないなどということは、頭をかすめもしなかったのだ。
人間はときどき、そんなふうに致命的に無責任に──いや、楽観的になる。誰でもそういうエアポケットを持っているのかもしれない。鉢植えを落とした男は裁判の前に精神鑑定を受けたが、異常は発見できなかった。比較的大手のアパレル会社の経理課長をつつがなく勤めていた人物で、私もじかに本人と話をしたことがあるが、どこにでもいる平凡な男であり、夫であり、父親だった。
その当時のことを思い出して、私はふと、声に出してつぶやいていた。
「悪意があってやったことなら、まだいいが」
「え?」慎司が顔をあげる。
「いや、なんでもない」
警官は黙って鼻筋を指でかいていたが、ひとつ咳払《せきばら》いをして、窮屈そうに膝《ひざ》を動かすと、手帳を閉じた。
「とりあえず、あんたたちはもうここから離れてもいいよ。というより、こっちの坊やは家に電話をかけた方がいいんじゃないか? 親御さんが心配してるだろう」
うっかりしていた。そうに決まっている。
「さっき聞いた気象情報だと、嵐《あらし》はまだまだ続くそうだ。あんたたち、その格好で東京へ帰るのは無理だと思うぞ。だいいち肺炎になる。どこかに宿をとったらどうだ?」
どのみち、私は今夜はここへ居座って、捜索の模様を見届けるつもりだった。
「泊まれるような場所がありますか?」
警官は、節くれだった指で、車のうしろの方をさした。さっき望月雄輔と出会ったときにも見た、ひとかたまりの明かりの方向を。
「あっちに、二十四時間営業のレストランと、ビジネスホテルが一軒ある。しけたところだから、満室なんてことはあるまいよ」
我々は礼を言って警官と別れ、バックで車を出すと、教えられた方向へ向かった。ホテルはすぐに見つかった。「ピット」──いや、「ピット?イン」というホテルだ。「イン」のところはネオンが消えている。建物そのものがどこかでピット?インした方が良さそうなつくりではあるが、とにかく屋根と電話があり、自動ドアの内側には雨が降っていなかった。
フロントには、眠そうな顔をした若い男がいて、傍《かたわ》らに置いた液晶テレビを横目で眺《なが》めながら、どこでも好きな部屋を選んで泊まれますと言った。ツインをとって、前払いの料金を払い、慎司と並んで宿泊カードを書いた。ボールペンを持つ慎司の指がひどく震えているので、私は手をとめて声をかけた。
「大丈夫か?」
彼は声を出さずにこっくりと頷いた。打ちのめされているように見えた。
「なんかあったんすか?」
少しばかりテレビから興味をそらして、フロント係が訊《き》いてきた。我々二人を、どういうか関係なのかと訝《いぶか》っているような節も見えた。
「さっきはパトカーがわんわん言いながら走ってったし......」
「近くのマンホールに、子供が落ちたらしいんだ」
フロント係は背中をのばした。「ホント? 地元の子ですか」
「そうらしい」
「ひでえ話」と、眉《まゆ》を寄せる。「お客さんたち、その子の家の知り合い?」
「いや、そうじゃないけど」私は上着の内ポケットから名刺を取り出した。湿っていた。
「ああ、取材かあ」フロント係は理由《わけ》もなく感心したような顔をした。
「そうなんだ。こっちの子は俺《おれ》の拾ったヒッチハイカーでね、このまま泊まるけど、俺はまた現場へ戻らなきゃならない。なんでもいいから着替えと、雨合羽みたいなものを貸してもらえると助かるんだが」
「いいですよ、お安い御用だ。そのまんまじゃ、二人とも怪奇雨男だもんな。脱いだ服はそっくりフロントへ持ってきてください。裏にコインランドリーがあるから、そこで乾かしてあげますよ」
私は自分の上着を見おろした。雨水を吸いこんで、灰色から黒に変わっている。
「スーツも?」
「当然」
「いくらなんでも──」
フロント係は手をのばし、「失礼」と言ってから、私の上着の襟首《えりくび》を折り返し、ラベルを見た。
「これなら大丈夫。いざとなったら雑巾《ぞうきん》の代わりにもなるくらい丈夫だからね」
やりとりを聞いていた慎司が、やっと、少しだけ笑い顔になったそれでほっとして私も苦笑をもらした。フロント係だけが大《おお》真面目《まじめ》な顔をしていた。
着替える前に、私の部屋の電話から、慎司の自宅に連絡した。彼が事情を説明したあと、私も代わり、自分の身元を明らかにして、明日には彼をそちらに送り届けることを約束した。電話に出ているのは慎司の父親で、丁寧な口調で話し、しきりに恐縮していたが、私が予想していたほどひどくは心配していなかったようだった。
「腹の据《す》わった親父《おやじ》さんだな」
慎司は弱々しく笑った。「自分もツーリングが趣味だから、結構いろんな経験をしてるんです」
シャツを脱いでタオルをかぶっていると、ひとまわり小さく見えた。もともと、小柄《こがら》な少年だったのだ。身体《からだ》つきもほっそりしている。
「でも、こんなに親切にしてもらえることはめったにないです。本当にありがとう」
そう言って、きちんと頭をさげた。躾《しつけ》のいい子だった。私はあいまいに手を振って、「どういたしまして」と言う代わりにした。
「風呂《ふろ》に入って暖まって、ゆっくり休んでるよ。どうせ俺は一晩中外にいることになるから、遠慮しないでいい」
フロント係が貸してくれたのは、洗い晒《ざら》しのコットンパンツとトレーナーだ。た。その上に、彼が出勤するときに着てきたというオイルクロスのヨットパーカをつけ、「風呂場の掃除をするときに使ってんです」というゴム長靴《ながぐつ》を借りて履き、私は現場へ戻った。
「アロー」の編集部へ連絡し、カメラマンをよこしてもらうことを、考えないではなかった。だが、部屋でちらりと眺めたテレビのニュースでは、台風のためにあちこちで被害が出ていることを報じていた。みな出払っていてつかまらないかもしれない。つかまっても、風雨をついてここまで来たがらないかもしれない。結局、この目で事件の一部始終を見ておくのがいちばんだと決めた。
分秒を争う日刊紙とは違うので、何がなんでも捜索現場の写真が欲しいということもなかった。あとで記事にするとき通信社からでも都合すればいいことだ雑誌には速報性は要求されない。「アロー」に移ったばかりのころは、それがピンとこなくて、ずいぶんとんちんかんなことをやったものだった。