饭饭TXT > 海外名作 > 《龍は眠る/龙眠(日文版)》作者:[日]宫部美雪/宫部美幸/宮部みゆき【完结】 > 龍は眠る.txt

第二章 波 紋 .14

作者:日-宫部美雪/宫部美幸/宮部みゆき 当前章节:15411 字 更新时间:2026-6-16 01:47

「あなたは留守にしてたんですね」

「君に咎《とが》めだてされる筋合いはない」唾《つば》を吐くようにしてそう言うと、頭を抱えた。「大事な会合があったんだ」

「それに、一週間という期限も過ぎていた」と、伊藤警部が口をはさんだ。

「たった一日ですよ」

「たしかに。しかし、それが怖いところです」今度は中桐刑事が言った。「どんなことであれ、誰が相手であれ、一度期限を切られると、人間はやはりそれに寄り掛かってしまうものだ。期限が過ぎれば、どうしても気が弛《ゆる》む。こればかりは人情でどうしようもありません」

「それに、最初から、私はさほど深く気にしていたわけじゃなかった」首を落としたまま、川崎が言った。彼が長いため息をもらすと、吐いた息からアルコールが匂《にお》った。

「どうして今さら、君のことで家内が狙われなきゃならない? 筋が通らないじゃないか。脅迫してきている人物が、小枝子と君が別れたことを知らないでいるのなら、まだわかる。だが現実にはそうじゃない。おかしいじゃないかね」

 しばしの沈黙のあと、伊藤警部がゆっくりと私に顔を向けた。「正直に答えていただきたい。川崎小枝子さんとあなたは、本当に関係が切れていたのですか?」

「切れていました」と、私は答えた。「三年間、まったく音信不通です。最初の脅迫電話で彼女の名前が出されて、そこで初めて連絡をとりました。それまでは、彼女が結婚していたことも、ここに住んでいることも知らなかったんですよ」

 いっそにこやかとでも言いたいような口調で、警部は言った。

「ほかの人間ならともかく、我々には嘘《うそ》は通じませんよ。余計な手間がかかるだけだ」

「嘘はついていません」

「私は信じない」川崎が不意に言って、顔を上げた。とろんと曇ったような目で、私の左耳の辺りを見ていた。「君の言い草など信じない」

「それはあなたの勝手ですが」

 二人の刑事は素早く視線を交わすと、私と川崎をじっと見比べた。秤《はかり》の両端に我々を載せて、どちらの方が重いか調べているかのような目付きをしていた。

「なんとおっしゃられても、僕は本当のことしか言ってない。奥さんとはもう無関係の関係だった。それだけです」

 川崎は急に声を張り上げた。「じゃ、なんで家内がさらわれた? え? なぜだ? 君と関係がなかったんなら、なぜだよ?」

 掴《つか》みかかってきそうな勢いの彼を、中桐刑事の腕がそっと押さえた。

「おやめなさい」と、刑事は言った。「少し休んだらどうです? 電話がかかってきたら、すぐお知らせしますよ」

 川崎はまだ私を睨んでいたが、視線を動かして刑事を見ると、空気を抜かれたようになった。彼はぐったり立ち上がった。「顔を洗ってきます」

 ちょうどそこへ、三宅《みやけ》令子がやってきた。あわただしく玄関のドアを開《あ》け閉《た》てする音が響き、顔をあげると彼女が立っていた。

 化粧気のない白い顔に、まっすぐ結ばれたくちびるが一本の線を引いていた。地味な仕立てのワンピースを着ていたが足は裸足《はだし》だった。とるものもとりあえず、目に付いたものを身につけて飛んできたという感じがありありとしていたが、それでも彼女はひどく美しく見えた。

 中桐刑事が素早く立ち上がり、洗面所から戻ってきた川崎と令子の肩を抱くようにして、台所へと連れていった。低い声が聞こえたが、何を言っているのかはわからない。令子が「副理事長──」と話しかける声を残して、中桐刑事が台所のドアを閉め切った。

 伊藤讐都はゆっくり振り向くと、私に向き直った。

「さて、これがどういうふうに始まったものなのか、聞かせていただかなくてはなりませんな」

 私はこれまでの経緯を説明した。説明のあいだに警部は二度私を遮った。一度は白紙の脅迫状について話しているときで、

「今、それはどこにあります? 捨ててしまったのですか?」

「編集部の机のなかに置いてあります。八通全部」

 警部は部下に指示を出し、取りに行かせた。二度目に遮ったのは、稲村慎司の負傷について話したときだった。

「その少年は、あなたのまったく個人的な知り合いですね?」

「そうです」

「古くからの?」

「いえ、最近です」

「彼とは今、話のできる状態ですか?」

「昨日はまったく駄目《だめ》でした。まだ半分|昏睡《こんすい》状態のようですね」

 警部は頷《うなず》き、手元の手帳を繰った「三村七恵さんですか、あなたと親しい女性ですね。彼女とは?」

「ここ一ヵ月ぐらいの付き合いですよ」

「なるほど」警部はぽんと手帳を閉じた。「妙ですな誰にしろ、恨みをもってあなたをつけ狙《ねら》い、脅迫している人物は、あなたとの関係がいちばん古くなっている女性を狙ってきたということになる」

「ええ。それが妙なんです。最初から変だと思ってました。なぜ今さら小技子さんの名前を出してきたのか、さっぱりわからないんですよ」

 警部は人差し指で窪《くぼ》んだ顎《あご》を叩《たた》きながら、しばし考えた。

「あなた方お二人でしたことが、誰かの恨みをかっているという可能性は考えられませんか」

 私は即座に首を振った警部が(ほう)という表情を浮かべた。

「自信がありますか?」

「このことが始まってから、嫌《いや》になるほど何度も考えてみたんですよ。口調べてもみた。でも思い当る節がないんです。少なくとも、自分で考えつく範囲内ではないんです。これが僕個人のことじゃなくて、たとえば『アロー』全体に対する脅迫で、たまたま僕がその具体的な標的として選ばれただけだというならまだ理解もできるんですが」

 伊藤警部はゆっくり頷いている。

「わからないことだらけです。なぜ僕なのか。なぜ小枝子さんの名前が一緒に出てくるのか。これまで、相手から僕に直接電話がかかってきたのは二度だけですが、そのときにも訊《き》いてみたんです。どういうことだ、話してくれるなら聞く用意はある、とね。だが、まったく答えてくれない。手がかりになる言葉ひとつ投げてこないんです」

「相手の声は聞き分けられますか? つまり、もう一度聞いたらそれとわかりますか?」

「わかります」

「となると──」警部は指先を合わせ、上目遣いに天井を眺《なが》めた。「あとは犯人に訊いてみるしかありませんな」

 私は反射的に電話に目をやったが、それは沈黙していた。隣の部屋から、部下の一人が警部を呼んだ。彼は身軽な感じで腰をあげた。

 ややあって戻ってきたときも、表情にはなんの変化も表れていなかった。声音も変わっていない。

「なかったそうです」腰をおろしながら、警部は言った。

「何がです?」

「八通の脅迫状ですよ。あなたに教えてもらった場所には、見当らなかったそうです」

 電話がかかってきたのは、午前三時二十分のことだった。夜のいちばん深いところから抜け出しかけ、緩みかかっていた緊張の糸が、音を立てて張った。その音が電話のベルよりはっきりと耳に届いた。

 川崎が受話器に手を起き、伊藤警部を見る。ヘッドホンをつけた中桐刑事が録音をスタートさせて、警部に向かって頷いた。

「川崎です」

 かすれた声を出して、川崎が応対した。右の眉がひくひく動いている。相手の言業に、そうだ、そうだとせっかちに二度返事して、

「小枝子は無事か? 無事でいるのか?」

 相手は答えていないらしい。川崎は疲労でうっすらと脂《あぶら》の浮いた顔を私に向け、受話器を差し出してきた。

「君と代われと言っている」

 耳をつけると、人間の肉声とは思えない、嗄《しわが》れた声が聞こえてきた。

「やあ、こんばんは。いや、おはようと言った方がいいかな?」

 過去に二度聞かされている、あの誰ともわからない声とは違っていた。それに意表をつかれて、すぐには返事ができなかった。私を見つめている伊藤警部が前屈《まえかが》みになって乗り出し、(どうしました?)というように眉を上げた。

「もしもし? 高坂さんだろ? 俺だよ。久しぶりだな」

「前と声が違ってるな」

「そうかい? ちょっと調整の仕方を変えてみたからね。そんなに驚くなよ。ちゃんと予告しておいたとおりになっただけじゃないか」

 伊藤警部に頷いてみせて、私は言った。「一週間の期限は過ぎてるな」

「こっちにもいろいろ都合があったものでね」

「小枝子さんは無事か?」

 相手は低く笑った。「気になるかい?」

「当たり前だ。なんで彼女を巻き込む? どういうつもりだ」

「あれ、まだわからないの? おめでたいな。あんた、自分のやったことのツケを払ってるだけなんだ。思い出せないのかい?」

「思い出せないね、まるっきりゼロだ。そっちこそ、何か勘違いしてるんじゃないのか?」

「挑発してみれば少しは反応があるかと思ったが、相手はまた笑っただけだった。だが──どうもそれだけではないような気もする。息を切らしているような感じなのだ。

「もしもし?」

「電話を長引かせるつもりなんだろうけど、そうはいかないよ」急に早口になって、相手は言った。「川崎小枝子はたしかに俺があずかってる。証拠を見せてやるよ。一度しか言わないからよく聞けよ。佃《つくだ》大橋をこえて、清澄《きよすみ》通りに出る。商船大学を通りすぎてしばらく行くと、永代通りに出る小さい交差点の少し手前に、『アイリス』っていう深夜営業のレストランがあるんだ。そこの男用の洗面所をのぞいてみな。ただし、あんたが行くんだぞ。ほかの人間じゃ駄目だ。いいな。これからだってそうだぞ。要求に従わなかったらすぐわかるんだからな」

「要求? いったい何を要求──」

 こちらには最後まで言わせず、じゃあな、待ってるぞと素早く言って、電話はいきなり切れた。が、その直前に、また息をはあはあ言わせているような音声が聞こえた。

「どうだ?」と、伊藤警部が隣室に声をかけた。ちょっと間があいて、厳しい顔立ちの若い刑事が顔をのぞかせた。彼の背後で、無線機に向かって早口にやりとりしている声が聞こえる。

「つかみました。湾岸の埋立地の公衆電話です。向かっています」

 私の斜向《はすむ》かいにいた川崎が椅子《いす》の肘《ひじ》を握り締めた

「わかるんですか?」

「わかります」

「こんなに早く?」

「逆探知の技術は進歩してますからね。一分もらえれぱ充分です」

 伊藤警部は立ち上がり、無線犠のある部屋に移動した。中桐刑事と我々は居間に残ったが、ここで今なにを待てばいいのかはわかっていた。川崎は何度も顔の汗を拭《ぬぐ》い、中桐刑事はテープを巻き戻してはヘッドホンで聞きなおしている。

 急行するパトカーと、走る警官たちの姿を想像した。ここには数人の刑事たちがいるだけだが、夜の闇《やみ》のなかにはもっと大勢の男たちがいる。銀色の電波の声が飛び交っている。たったひとつの公衆電話目指して突進する彼らの足音を聞きつけた犯人が逃げるよりも早く、そのうちの誰かの手が彼の襟首《えりくび》に届くかもしれない。

 心がふと現実を離れ、報道協定という壁の向こうで待機しているであろう、同業者たちのことを考えた。私自身は誘拐《ゆうかい》事件の報道を扱った経験がなかったが、話は耳にしたことがある。この川崎象の近くでも、そこここに、新聞販売店や喫茶店を借り切って前線基地を設けた彼らが、協定解除の瞬間を待ち、短距離走者のように身構えているはずだった。

 十分か十五分ほどの待機だったが、長かった。警部が戻ってきて元の場所に座ったとき、全貝が号令をかけられたように頭をあげた。

「惜しいところでした」と、警部は言った。平坦《へいたん》な口調だった。

 川崎は深々とため息をもらすと、頭を抱えてうずくまってしまった。彼の背後に寄り添っていた令子が手をのばし、彼の背に手を置いた。彼らがそういう形で触れ合うところを見せたのは、初めてのことだった。

 何事もなかったかのような顔で、中桐刑事がテープを巻き戻し、再生した。伊藤警部は東京二十三区の地図を取り出し、相手が指定してきた場所を確かめている。こちらも冷静な様子だった。

「次の機会を待ちましょう。望みは充分にあります」と、川崎に言った。彼は顔をあげて頷いたが、最初は目を閉じていた。まぶたを開けると、

「かえってまずいことになったのではありませんか?」と、震える声で訊いた。

「それはご心配なく。我々も細心の注意を払って行動しています」

 響部は私の方を振り向いた。「相手の声が違っているというのは本当ですか?」

「確かです」

「いずれにせよ、ボイスチェンジャーを通しているようですな」中桐刑事がテープをにらみながら言った。

「しかし、妙だな」

「なんだね?」

「犯人ですよ。いやに息遣いが荒くありませんでしたか」

 私は頷いた。「ええ、そうでしたね。まるで喘息にでもかかってるようだ」

「以前にもあんなことが?」

「ありません」

 川崎明男がいきなりテーブルを叩いた。「そんなことはどうでもいい! 犯人の心配なんて──」

 三宅令子が、そっと彼の腕をつかんだ。「副理事長」

「行っていただけますかな?」と、警部が私を見た。

「ええ、もちろん」

「危険かもしれませんよ」

「向こうは僕の顔を知ってるんですよ。ごまかしはきかない」

「よろしい」立ち上がりながら、警部は言った。「車と尾行班を手配します。マイクをつけていっていただく。周囲を気にしないように。もし接近してくる人間がいて危険を感じたら、すぐ逃げてください。いいですね?」

「冗談じゃない」悪意を剥出《むきだ》しに、川崎が言った。

「もとはと言えぱみんな君のせいなんだ。何があってら逃げずに小枝子を取り戻してくれよ」

「そのつもりですよ」と、私は言った。「でも、あなたに頼まれたからやるわけじゃない」

 彼は蒼白《そうはく》になって引き下がった。川崎よりもはるかに落ち着いている令子が、目顔で私に謝罪するようなそぶりを見せた。

 装備を整え細かいが巌しい指示をいくつか受けたあと、捜査指揮本部と捕捉《ほそく》班からの準備完了の連絡を待っているあいだに、私はそっと中桐刑事に訊いてみた。

「もうひとつ、気になったことがあるんです」

「なんですかな」

「あの電話の主は、ひとことも言いませんでしたね。警察には報《しら》せるな、あるいは、警察には報せてないだろうな、報せたらただじゃおかないぞ、と」

 ずんぐりした刑事はゆっくりと顎を頷かせた。

「そんなものですか?」

 彼は首を振った。「これまで、私はそういうケースにぶつかったことはありませんな」

 しっくりこない気がしたんですがね──と言ってみるまでもなく、刑事がそれを考えていることはわかった。眉間《みけん》に、かすかにしわが寄っていた。

「アイリス」はすぐに見つかった。道路沿いにくるくる回る看板が出ている。店は総ガラスが張りで、ところどころにペイントでポップアートを気取った絵が描《か》き殴ってあった。

 また偽装タクシーで近づき、わざと店の裏手の方から行ったので、正面に停《と》まる前に、専用駐車場をぐるりと半周することになつた。停められている車は三台。そのうちの一台は明らかに改造車だ。

「ゆっくり降りるんですよ」車の前後を確認してから、運転手役の刑事が言った。「うしろを振り返らないこと。店内には先発した捕捉班が何人か詰めています。彼らを目で探さないこと。あとは指示にしたがってください」

 この時刻だというのに、店内には客がばらばらといた。席を決めるような素振りで、素早く見渡した。窓際《まどぎわ》のひと組みは、あの改造車に乗ってきたらしい、崩れた服装のティーンエイジャーたちだった。あとは中央の二人がけの席にアベックがひと組み。端のボックス席では中年の男が一人、新聞を広げている。手前のカウンターには若い男が二人、それぞれ面白くなさそうな顔でコーヒーをすすっている。そのうちの一人が、私と同じように、左耳にコードレスのイヤホンをつけていた。

 カウンターに肘をついて頭をもたせかけ、巧みにそれを隠すような姿勢をとっている。その気で探さなければわからないだろう。

(すぐ洗面所には行かないように)と指示されていた。(できるだけ引き伸ばして行動してください。犯人が、本当にあなたがやってくるかどうか確かめるために、どこかで観察しているかもしれない)

 ウエイターが出てきて、窓際の席へ案内してくれた。ティーンエイジャーたちのそばを通り抜けると、彼らのふかしている煙草《たばこ》と、汗の匂いがむっと鼻をついた。

 席に腰を落ち着けてコーヒーを頼むと、左耳のイヤホンが囁《ささや》いた。「店内に、見覚えのある顔はいますか?」

 口を動かさないように簡潔にしゃべれと言われていたので、そうした「いません」

「よろしい、では、探してください」

 ゆっくり立ち上がり、通路を歩いていると、入り口のドアを開けてまた一人客が入ってきた。ぴったり五分後だった。刑事だ。

 洗面所は狭かった。個室がひとつ。小便器がひとつ。曇り止めしたガラスに洗面台。ペーパータオルのホルダー。洗面台の上には何もない。タイル張りの床の上にも何も落ちていない。クズ入れに手を突っ込んでかきまわしてみたが、出てくるのは使用後のペーバータオルだけだった。

 個室に足を踏み入れた。掃除が行き届いていない。ご多分にもれず、ここでも物臭な客が結構多いらしく、ペーパーホルダーの紙は切れており、剥出しの使いかけのロールが狭い三角|棚《だな》に載せられていた。タンクの蓋《ふた》まであげてみたが、なかには水が溜《た》まっているだけだ。

 何もなし。

「見つからない」

 ワイシャツの衿《えり》の下になっているワイヤレスマイクに話しかけると、イヤホンが言った。「よく探してみましたか」

「ええそれに、物を隠しておけるような場所じゃないですよ」

「もう一度よく見てください。落ち着いて」

 あちこち動き、ひとつひとつ確かめた不自然なものは何もなく、発見もない。屈みこんで洋式便器の裏側を覗《のぞ》き込んだとき、脇《わき》の下に吊《つ》ってある小型の無線機が、スッとあばらを撫《な》でた。

 不意にぶうんという音がした。振り返ると、さっき新聞を広げていた中年の男が、おぼつかない足取りで入ってくるところだった。酔っ払いだ。彼が入り口のスイッチを入れたので、換気扇が回り始めたのだ。

 男は眠たげな目付きで私を眺め回し、ぼんやり立っていた。やがて、平たい口調で言った。「あんたに金を払わねえとクソもできねえの?」

 道を開けて彼を通すと、ぶらぶら歩いていって個室に入り、大きな音をたててドアを閉めた。

 イヤホンが言った。「どうしました?」

「人がきたんですよ」声を殺して言った。「部外者みたいでしたが」

「わかりました。出てください。婦警が婦人用の方も探してみましたが、何も発見できませんでした。かつがれたのかもしれない」

 廊下に出ると、さっきのティーンエイジャーたちがレジで支払いをしているところだった。彼らが出てしまうのを待っている間に、考えた。

 奥へ戻ろうとするウエイターを呼び止めて、訊いてみた。「ちょっと。今夜、そうだな、ここ一時間ぐらいのあいだに、洗面所に何か忘れ物はなかった?」

 ウエイターはすぐに答えた。「ああ、あの財布ですか?」

 レジの下をのぞきこみ、すぐに取り出した。「でも、女性物ですよ」

 革製の赤い札入れだった。まだ新品で、革が光っている。

「なかを見ていいかな? 連れが忘れたらしいんだけど」

「どうぞ。でも、お金もカードも入ってないし……」ウエイターは妙な笑い方をした。「男性用トイレのクズ入れのなかに捨ててあったんですよ」

 開けて探ってみると、たしかに現金はなかった。薄いプラスチック製のカードが一枚あるだけだ。

 産婦人科の診察券だった。「川崎小枝子」と、名前が書いてあった。

「あったろう?」

 電話の主は、開口一番にそう言った。午前五時になるところだった。

「俺は約束は守るんだ。ちゃんと彼女をあずかってるってわかったか?」

「声を聞かせてくれ、無事かどうか確かめたい」

「無理だね。今、眠ってるから。睡眠不足は胎教によくないんだ。知らないのかい?」

 できるだけ引き伸ばすように言われていたから、あれこれ考えてはいた。ゆっくりと機嫌《きげん》をとるような口調を保って、私は切りだした

「なあ、取引しないか」

「取引?」

「そう。理由は知らないが、あんたは俺を恨んでるんだろ? だったら、俺が小枝子さんの代わりに人質になろうじゃないか。その方が筋だ。彼女は関係ないんだから。どこへでも指定の場所に、俺一人で出かけていくよ。代わりに、彼女を返してくれ。どうだ?」

 電話の向こうの人物の荒い息遣いは、前の電話のときよりはおさまっていた。だがいくぶん苦しそうに呼吸していることに変わりはない。ヘッドホンでモニターしている中桐刑事が、顔をしかめてその呼吸音に聞き入っている。

「駄目《だめ》だね」と、相手は答えた。

「どうして」

「あんたじゃ金にならない」

 伊藤警部がぐっと乗り出した。

「金? なんだ、結局はそれが目的か」

「当然だよ。俺はあんたに人生をめちゃめちゃにされたんだ。その償いはしたもらう。そして、取れるものは取れるところから取る。だから、川崎夫人を選んだんだからさ」

 相手の言葉の内容より、言葉の選び方が気になった。違う、と、直感で感じた。

 以前の二度の電話の相手ではない。しゃべり方が若いのだ。

「俺がどういうふうに君の人生をめちゃめちゃにした?」

 不可思饒な心理の加減乗除の法則に従って、川崎明男が私を「あなた」と呼ばずに「君」と呼び捨てるようになったのと同じように、相手を呼んでみた。すると素早い反応が返ってきた。

「君なんて呼ぶな!」

「なぜ」

「そんなのどうでもいい! 俺をバカにするなって言ってるんだ」

「バカにしちゃいないさ、それでいくら欲しい? めちゃめちゃにされた人生を修復するのにいくら必要だ?」

 片目で壁の時計の秒針をにらみながらしゃべっていた。一分になるところだ。川崎が食いつくような顔つきでにじり寄ってくる。早い息遣いが耳元に届いた。

「一億円」と、相手は言った。「またかけるよ、警察がうるさいからな」

「警察? なんの話だ?」

「報《しら》せたんだろ? わかってるぜ」

 そら来た[#「そら来た」に傍点]、と言ってがつんという音が響いた。受講器を放《ほう》り出したらしい。一分二十秒経過。すぐに、大きな雑音に続いて別の男の声が聞こえてきた。私は伊藤警部に受話器を差し出し、ほとんど同時に彼が受け取った。

「今まで話してたんだ。必ず近くにいる!」

 初めて、警部の声が大きくなった。表情が険しく変化し、目がきつくなった。

 しばらくして、信じられないという顔で、彼は言った。「なぜ見つからないんだ」

 警部が受話器を置いたとき、川崎が訊《き》いた。顔が汗で光っていた。「今度はどこです?」

「北区です。赤羽駅前の電話ボックスだ」

 依然として無表情のまま、中桐刑事はまたテープを巻き戻している、そして、ぽつりと言った。「羽根が生えてるのかもしれませんな」

「だが、人間であることに聞違いはない」伊藤警部は言って、川崎を、そして私を見た。「電話ボックスの床に、真新しい血痕が残っていたそうです。犯人は負傷しているらしい」

 朝がやってくると川崎明男は金策のために動きだした。

「一億円、工面するおつもりですか」

 伊藤警部の質問に彼は気色ばんで答えた。「当然です。犯人がまた連絡してくるまでに、金を揃《そろ》えておかなければ」

「わたしが参ります」と、三宅令子が立ち上がった。

「副理事長はここにおいでになった方がよろしいでしょう」

 川崎はちくりと私を見ると、「僕はここでは用なしだよ。できるのは金の用意ぐらいだ。それに、何か動きがあったらすぐ連絡してくれるでしょう?」

「もちろんです。では、護衛を手配しましょう。くれぐれも用心なさってください」

 彼が出かけてしまうと、令子は遠慮がちに警部に声をかけた「よろしければ、何か食べるものを用意しましょうか。いかがです」

「有り難い、お願いします」

 陽《ひ》が射《さ》してくると、町が目をさまし、さまざまな音が窓の向こうを行き交うようになった。壁ひとつ隔てたこの家のなかでは、命懸けのやりとりをするために、人間と器材がスイッチを入れて待っているのに、町にはなんの変化もない。

 午前七時に、川崎家の郵便受けに新聞が落ちる音が聞こえた。中桐刑事がぼそりと言った。「今、配達か。うちの方より遅いなあ」

 朝食を済ませると、とにかくあとはまた待つだけの状態に戻った。刑事たちは無線や電話で連絡を取り合い、ときにはひっそりと足音を忍ばせて出入りもしていたが、それもちょうど車のアイドリングのようなもので、彼らも待機を強《し》いられていることは同じだった。刻々と入ってくる情報は、ふたつの公衆電話を中心とした捜索の結果や経過の報告だろうが、芳《かんば》しいものはない。

「三宅さん、お疲れでしょう」中桐刑事が令子に呼びかけた。朗々たるバリトンで、できるかぎり優しく歌っているという感じだった。「お宅にお帰りになっでもいいんですよ。誰かに送らせましょう」

 令子は丁寧に辞退した。「わたしはここにおります。何かお手伝いできることがあるかもしれませんし、奥様のことが心配ですから。家にいても落ち着きませんし」

「学校の業務の方には差《さ》し支《つか》えありませんか」

「はい」

「あなたは?」と、刑事は私を振り向いた。

「編集部の方は承知していますから、かまいません。それに、ここから動くわけにはいきませんよ」

「そりゃそうだ。あなたにいなくなられたら困る」とぼけた感じで刑事は言って、また令子に向き直った。

「三宅さん、せめて仮眠をとってください。そうしてくださいよ」

 令子はためらっていたが、刑事に強く勧められて、結局は二階へあがっていった。それを待っていたように、中桐刑事が私の脇に移動してきた。伊藤警部もこちらを見ている。

「ひとつ伺いたい」

 そうだろうと思った。「なんです」

「三宅令子という女性は、ただの秘書ですかな」

 近くで見ると、頬《ほお》も鼻もずんぐりしている。全部鈍角で、鋭いのは目だけだった。

「なぜそんなことを僕に訳くんです?」

 刑事はニッと笑った。「部下が情報をつかんできました。一部では有名な話だそうですな。商売|柄《がら》ご存じかもしれんと思いました」

 私は息を吐いた。「知ってます」

「なるほど。川崎氏と愛人関係にあるそうですな。四年以上になるとか」

「もうそこまでつかんでるんですか?」

「私らは長い腕と特大の耳たぶを持ってますからな」

 この家に詰めている被害者対策班以外の刑事たちがどこをどう動いているのか、ふと悟らされたような気がした。鼻をうごめかせて走ってゆく、油のきいたベアリングでできたロボット犬の大群が。

「そこに何か意味がありますか」

 バリトンの刑事は濃い眉毛《まゆげ》を動かした。「あなたはどう思われます」

 ちょっと返事に詰まった。伊藤警部が割り込んできた。「ナカさん、何を考えているね?」

 我々はひそひそ声を出して話していたが、中桐刑事はさらに声を低くして、ひとりごとのように言った。「何も考えてはおらんです。ただ、ゴシップが好きなだけですわ」

 ちらっと伊藤警部を見ると、無表情のなかに、少し興味を惹《ひ》かれたような色が浮いていた。長い釣《つ》り糸の先につけた浮きが、わずかに動いたのを感じた釣り師のようだった。

「あなたに人生をめちゃめちゃにされた、と言ってましたな」

 私の方に目を向けると、言葉とは不似合いな穏やかな口調で、刑事は言った。

「言ってましたね」

「心当たりは?」

「全然」と、首を振った。「無責任のようですけど、とてもそんなことがあったとは思えないんです。僕個人には、まだそんな影響力も馬力もないですよ」

 刑事はすんなりと頷《うなず》いた。「わかります。よくわかる。私らも人の恨みをかうことのある商売だが、さて具体的にとなると、案外思い当らないものです」

 生駒と同じようなことを言っている。

「それに、不自然だと思うのは──」

「なんですかな」と、警部と刑事がいっしょに訊いた。

「犯人はこれだけのことをやってるわけでしょう? そして、こっちはこれだけしつこく<理由はなんだ?>と訊いている。それなのに、ひと言もしゃべってきませんね。匂わすことさえしない。人生をめちゃめちゃにした、なんて、三文小説の台詞《せりふ》みたいなもんです。その程度なら誰でも言える」

 二人の警官は顔を見合わせ、警部が言った。「と言うと?」

「利用されてるんじゃないかと思うんですよ」

「あなたが」

「ええ。犯人は、小枝子夫人を誘拐した本当の理由を悟られないために、僕を口実に使ってるんじゃないかと。それなら、今までの僕に対する中途|半端《はんぱ》な脅迫の仕方や、恨みの内容をまったく口に出そうとしないことにも筋が通ってきませんか」

 警部は顔をしかめて電話機をにらんでいる。中桐刑事は天井を仰いで「ふうむ」と言った。

「これまで、何度か怒鳴りこまれたり、迷惑を受けたという人物から苦情を言ってこられたこともあります。それがどういう根拠のもので、どういう理由のものであれ──こっちから見ればまったく笑止千万なものでも──相手が本気なら、僕にもそれがわかりますよ。ふざけてるんじゃないってことは、ちゃんと通じてきます」

「この犯人には、それがない?」

「ええ。昨日からここへ電話をかけてきている人間には、そういう意志が感じられないんです。相手と話してみての感想にすぎませんから、あてにはできないかもしれませんが」

「いや、そうでもないと思いますな」警部が言った。「我々と同じく、あなたも他人の話を聞く──もしくは聞き出すのが商売だから」

 二階が気になったので、ちょっと視線をあげてから、私は続けた。

「僕がこう考えるのは、たぶんに希望的観測も入ってるとは思うんですよ。責任逃れに通じますからね。とても川崎さんや三宅さんの前では口にできることじゃない。ただ──」

「わかります」と、警部が遮った。「私もその可能性はあると考えますな。犯人には、あなたを恨んでいる理由など、言いたくても言えないのかもしれない。そんなものは最初から存在していないのだから。下手に嘘《うそ》をつけば、すぐにばれてしまうでしょうし」

「しかし、あるいは」と、中桐刑事がまだ天井を睨《にら》んだまま言った。「本当に恨みを抱いており、あなたには絶対にそれを知らせず、一生苦しめてやりたいのかもしれん」

 頭が重くなった。「ええ、それはあるでしょうね」

「ただ、それならなぜ、もう関係の切れている小枝子夫人を狙《ねら》ったんだと思うね? ナカさん、私にはそれがどうも納得がいかないよ」

 中桐刑事はまたニヤリとした。「警部、ご結婚して何年になられます?」

「なんだね、急に」

「いやいや、そう驚かんで。三十五年でしたかな」

 警部は鼻白んだ。「そんなところかなあ」

「私は三十三年目ですわ」刑事は可笑《おか》しそうに目をぐるぐる動かした。「よく保《も》ったと思いますな。まあ、しかし、真面目《まじめ》に聞いてください」

 私に向き直ると、

「警察やマスコミ、医療関係、法律関係の商売に携わっている人間を身内に持ちますと、それなりに家族の方も腹が据わってくるもんです。大げさなことじゃありませんが、無意識のうちに覚悟している部分はある。ですからな、高坂さん。仮に私があなたと同じような立場に置かれて、家内や息子たちが危ない目にあったとしてもです、まだ諦《あきら》めはつくんですよ」

 ちょっと考えてから、私は頷いた。ふと、アパートの大家が(私は正義の味方だ。何があったって言論の自由を守りますよ)と張り切って言ってくれたことを思い出した。

 刑事は続けた。「そうでしょう? そういう仕事を選んだ人間を選んで一緒に生活していたわけだから、家族だってわかってくれる──そう思う。いや、そう願っておりますよ。もちろん、平気ではない。まったく平気ではない。非常に辛《つら》いです。しかし、自分のために赤の他人が迷惑するよりは、まだ呑《の》み込みやすいわけです。わかりますな?」

「ええ、わかります」

「ですから、あなたの場合でも、あなたの家族や友人や恋人が狙われるより、今の事態の方がずっと身に応《こた》えておられるはずだ。今はもうなんの関《かか》わりもなくなっていて、幸せに暮らしている小枝子さんが、あなたのせいでひどい目にあっているわけだから。覚悟のないところを狙われたわけですからな。あなたの肩にかかってくる罪悪感の種類が──重さじゃないですよ種類が違ってくるわけだ」

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