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第二章 波 紋 .15

作者:日-宫部美雪/宫部美幸/宮部みゆき 当前章节:15372 字 更新时间:2026-6-16 01:47

 実感だった。

「それが目的か」と、伊藤警部が低く言った。

「それに、ここなら──」

 刑事の言葉のあとを、私は続けた。「大金がとれる」

「そのとおりです」中桐刑事は頷き、また独り言のように付け加えた。「そういうふうに考える利口な人間もいるということですな」

 沈黙が落ちた。居座ったきり、なかなか立ち去ろうとしない種類の沈黙だった。重苦しい圧迫感に急《せ》かされて、何かとんでもない失言をしてしまう前に、私は言った。

「人質が大人である場合は、ほとんど助からないという話を聞いたことがあるんですが」

 痛んでいる歯をわざと突《つつ》き回すような質問ではあったけれど、聞いておきたかった。

「それは本当ですか」

 中桐刑事がゆっくり答えた。「本当です」

 思わず目を閉じた。まぶたの裏にわけのわからない幾何学模様が踊った。

「しかし、昨今は、そうとも限りません」刑事は堅苦しく言った。「子供でも──そういうことが多くなってきました。あまり、そのことはお考えにならん方がいい」

 また沈黙に襲いかかられる前に、今度は伊藤警部が言った。「以前の脅迫者とこの犯人とでは、声が違っているとおっしゃいましたな」

「ええ」それには確信があった。「声だけじゃなく、話し方も違っています」

 自分の感じたことを説明すると、二人の刑事はてんでに違う方向を向いて考え込んでいた。

「それに、怪我《けが》をしているとくる」伊藤警部がつぶやき、中桐刑事はまた天井を睨んでいる。

「昼間は電話をかけてこないんじゃないですかね」

 私が言うと、警部だけがこちらを見た。「ほう」

「負傷しているとすると、目立つでしょう? それに、犯人だって休息や手当てが必要だろうし──」

「病院には手配をしてあるが」と、警部は言った。「確かにそうだ。まったく動けなくなっている可能性もある」

 事実、日中にはなんの動きもなかった。頭の上を太陽が通過していくあいだ、ただ待つのみ。

 夕方になっても、夜に入っても電話はかかってこない。

 次第に、雰《ふん》囲《い》気《き》が切迫し始めていた。うしろ向きの切迫だった。伊藤警部が険しい表情を濃くし、このまま連絡が途絶えた場合の処置について、本部とやりとりを始めた、外部からは、依然としていい情報は入ってこない。犯人の怪我がどの程度のものであれ、病院には足を向けていないのだろう。

 近隣への聞き込みもひそやかに続けられているが、さしたる手応えはないようだった。

「最近、この家の周囲で見慣れない顔の学生を見かけた、という話はあるんですが」と、警部の部下が小声で報告している。

「この家の窓を見上げているようだった、と。具合が悪いような、真っ青な顔をしていたそうです」

 伊藤警部は首をかしげている。それを脇目《わきめ》に、ふっと慎司のことを思ってから、打ち消した。まさか彼が今回のことを察知しでいるはずがない。機会がなかったのだから。

 金策を終えた川崎は帰宅して、銀色のトランクに詰めた現金の脇に座り、疲労と心労で青黒くなった顔を壁の方に向けている。令子はただ放心していた。

 時計を睨んで、同じようなことをぐるぐる考えているしかない。待っているだけで拷問《ごうもん》同様だった。畜生、なんでもいいからとにかく何か言ってこいと呪《のろ》った。言ってくるならどんな要求だってきいてやるから。とにかく、何か。早く。

もう何度目になるかわからないが、立ち上がり窓際《まどぎわ》に寄ってカーテンの隙間から外を窺《うかが》っていると、背後から素早く肩を叩《たた》かれた。中桐刑事だった。

「あなたに来客だ」

 裏口を通って外に出ると、覆面パトカーが一台、塀《へい》に寄せて停《と》めてあった。運転席には刑事が一人。後部座席に座っているのは──

 生駒と水野|佳菜子《かなこ》だった。運転席の刑事を外に出し、中桐刑事が私と一緒に乗りこんだ。こちらが口を開く前に、生駒が重々しく言った。「カコが、おまえさんに謝ることがあるそうだ」

 佳菜子は目を真っ赤に泣き腫《は》らしておりまだ頬に涙が残っていた。化粧もすっかり落ちて、顔が青ざめている。

「どうしましたかな、お嬢さん」中桐胴事が声をかけると、彼女は膝《ひざ》に置いていたバッグを開けた。

 取り出したのは、あの八通の脅迫状だった。

「あたしが、黙って、持ち出しちゃったの」

 しゃくりあげながら、佳菜子は言った。

「ごめん、なさい。ホントに──ごめん──」

 あとが続かなくなって、両手で顔を覆《おお》うと、また泣きだした。生駒を見ると、彼は怖い顔で、

「おまえさんの買い込んだ本のなかに、<よく当たる霊感占い師>とかいうのがなかったか?」

 中桐刑事が妙な顔をした。

「ああ、あった」

「あれを見てて、思いついたんだそうだ。この手紙を見てもらったら、何かわかるんじゃないかとな」

 そういえば本が動かされていた。あっけにとられていると、生駒が佳菜子の肩を抱いた。

「怒るなよ。カコもおまえが心配だからやったことだ。そうだよな?」

「女の子は占いが好きなものだ」と、刑事が優しく言った。「お嬢さん、泣かないでいいんですよ。これが失《な》くなっていたからどうということはなかったんだから」

 佳菜子は声をあげて泣き、合間合簡に息を切らすようにしてしゃべった。

「あたし──なんか──役に──たてるかと──」

「わかったよ。わかった」乗り出して頭に手を置くと、佳菜子が全身で震えているのが感じ取れた。「で? じゃあ、今までカコちゃんが手元に持ってたんだな?」

 佳莱子は激しく首を振った。「失くし──ちゃった」

「え?」

「その霊感占いとやらのところに行った帰りに、タクシーが追突事故にあったんだよ。覚えてないか?」生駒が言った。「それで、事故であたふたしているうちに、手紙をどっかに落としちまったんだ。だから真っ青になってたんだよ」

 佳菜子は身体《からだ》を起こし、手で顔を拭《ぬぐ》うと、ぽろぽろ涙を落としながら説明した。

「どうしようかって──すごく心配で──今さら高坂さんに話すわけにいかないし。そしたら、あの子が来たでしょ。あの、ほら──」

「稲村君か」言いながら、自分でも顔色が変わるのがわかった。

「そう。あの子──来るとすぐに──どうしてだかわかんないけど──あたしが困ってるって──でね、手紙、探してあげるって──言ってくれたの」

 彼らが頭をくっつけて親密に話し合っていたというのは、それだったのだ。

「すごく──不思議だったけど──あの子にはできたのよ。あたしと──手をつないでね──その時行った場所や──タクシーで通った──場所を──もう一度通ったの。そしたら──わかるって──あたしの──行動が──ちゃんと残ってるから」

 生駒が佳菜子をあやすように揺すってやりながら、

「事故現場のすぐそばの煙草屋《たばこや》の店員が拾って、持っててくれたんだそうだ。届けようかどうしようか迷ってたそうだ」

「どうしました?」中桐刑事が私に訊《き》いた。「何か問題が?」

 問題は大有りだった。

「彼、手紙を見つけたとき、どうした?」

 何度か必死で息を整えて、佳菜子は答えた。「なんかね──あたしより真っ青になって──しばらくこの手紙、貸してくれますかって言って──」

「彼が持っていったんだな?」

「うん。あたしハラハラして──でも、二日ぐらいたったら──返してくれた──だけどあたし──高坂さんの机に戻しておくチャンスがなくて──手紙、汚れちゃってて──きっとおかしいって気づかれると思って──」

 確かに手紙はあちこち汚れていた。誰か踏み付けたのか、靴跡《くつあと》がうっすら残っている。

「ごめんなさい。こんな──ことになって──警察が手紙──探しにきたって聞いて──あたし、どうしたらいいかわかんなくって──今日一日──どうしようもなくて──死んじゃいたかった──そしたら生駒さんが──」

「本当に死にそうな顔だったよ」と、生駒が言った。「だから理由を訊いたんだ」

「あたし──ごめんね。ごめん──」

「もういいよ。もういい、気にするな」

 そう言いながらも、ほとんどうわの空だった。手のなかの八通の封書がずしりと重い。

 慎司がこれを見ていた。こちらで見せるまでもなく見ていたのだ。

(ねえ、最近なにか不愉快なこと、ない?)

(この家の窓を見上げて真っ青な顔をしていた見慣れない学生が──)

 彼は知っていた[#「彼は知っていた」に傍点]。間違いない。これを出してきた人間の意図を、間違いなく読み取っていたはずだ。

 そして今、彼は病院のベッドに横たわっている。脅迫は現実のものになつている。

(殺されちゃうよ──と、うわごとを言ってました)

 病院に織田直也がやってきたことを思い浮べた。彼が言っていたことを。彼がやっていたことを。あの夜のことを。

(聞いてやらなくちゃ)

 彼らは知っていた。慎司が知ったことを、あの時直也に伝えたのだとしたら? 報《しら》せて、助けを求めたのだとしたらどうだ? それに応えて直也が現われたのだとしたら。

 彼はどうする[#「彼はどうする」に傍点]?

(自分一人で全部しょって立つ気構えがなかったら、他人の身に起こることに関わっちゃいけないって、直也は言ってた)

 脅迫電話の声が違っている。若くなっている。怪我をしているらしい──

 背中の上に、どすんと音をたてて確信が落ちてきた。

 電話の向こうにいるのは[#「電話の向こうにいるのは」に傍点]、織田直也だ[#「織田直也だ」に傍点]。

 そのとき、車の窓を叩いて、刑事が低く呼びかけてきた。

「デカ長、犯人から電話です」

 午後八時四十八分だった。

 午後十一時きっかりに、指定された場所に立った。電話で説明を受けたとおり、そこには黄色い公衆電話があった。

 江戸川区内にある小さな水上公園のなかだった。元は江戸川の支流だったところを人為的に埋め立て、まっすぐな流れをコンクリートの土手で固めて蛇行《だこう》をつくり、周囲には緑地帯を設けてある。最近盛んになっている再開発事業のひとつだろう。公園は土手から三メートルほど下がっており、両岸から緩やかなスロープを伝って降りることができるようになっている。

 私一人、川崎の車でここまで来て、現金を詰めたトランクを後部座席に残したまま、車を乗り捨てて公園に入ってこい──それが<犯人>の指示だった車を停めろと指示された中古車センターは土手の向こう側にあり、ここから見上げると、夜の闇《やみ》のなかで、対角線に張られた万国旗がはためいていた。

 公園は秘《ひそ》かに、そして厳重に封鎖されているが、それでなくても、日頃《ひごろ》から夜間には人けの消えてしまう場所のようだった。手前を中古車センターに向こう側を食品会社の配送センターに囲まれ、頭上にかかる小さな橋を渡った向こう側にはレストランが一軒あるものの、そこからではこちらを見おろすことはできそうにない。配送センターの前には、深夜トラックがうなりをあげて走り交う四車線の幹線道路が延びている。ぐるりを見回せば、公団住宅の無数の窓明かり、点滅する高層マンションの衝突防止灯、そして、非常用の誘導灯が輝いているだけの都立高校の大きな建物の影。

 おあつらえ向きの夜に、おあつらえ向きの場所。

 中古車センターの車のなかにも、周囲の土手にも、レストランのなかにも、大勢の刑事たち、機動隊員たちが潜んでいるはずだった。直近尾行班の指揮官は、橋を降りたところに路上駐車してあるヴァンのなかにいる。私の上着の下に隠した無線機はじかに彼とつながっていた。

 独りで行かせるわけにはいかないと、最初は言われた。代役を立てよう、幸い暗がりだから犯人も認識できまい、と。

(あなたと金を引き離そうというのが気に食わない。どっちを狙ってくるのかわからんのですよ。金より、あなたに危害を加えようとしてくるのかもしれないんだ)

 何を言われても承知するつもりはなかったし、皮肉なことに、川崎も私を支持してくれた。

(もし代役なんか立てて犯人に気づかれたら、小技子がどんな目にあわされるかわかったものじゃない)

 独りで行って、おまえが死んでくれるなら大いに結構だ──とさえ言い出しかねない勢いだった。

 誰になんと言われようと独りで来るつもりだったし、それが必要だった。神経を逆立てている刑事たちに、言ってやりたい気がした。危険なんてないんですよ、と。

 直感でしかない。だが、はずれているとは思わなかった。<犯人>は織田直也だ。彼がすべて仕切っていることだ。

 問題は、なぜ彼がこんな手の込んだことをやっているのかということ──そして彼が負傷しているということだけだった。

 あの八通の封書から、慎司は何を読み取ったのか。そして、何を直也に頼んだのだろう。彼は何をやろうとしているのだろう。それだけだ。

 十一時五分。

 肘《ひじ》のそばで、公衆電話が鳴り始めた。

「時間どおりだね」

 電話の向こうで、聞き慣れた声がそう言った。だが、かすれている。苦しそうに聞こえた。

「次はどうすればいい?」

「そうだな──」

 逆探知されるぞ、されればまた<移動>しなけりゃならない、また身体に負担がかかる、早く話せよ──そう言ってやりたい衝動をこらえるのに、文字どおりくちびるを噛《か》まなければならなかった。

「上着を脱いでくれよ。ついでに、いろいろくっつけてる装備もとっちゃってくれ。で、今いるところから、もうちょっと上手へ歩くんだ。少し先に小さい池みたいなのがある。そこまで行くんだ」

 電話は切れた。言われたとおりにしていると、左耳のイヤホンが早口に言った。

「何をしてるんです!」

「向こうの指示に従ってるんですよ。ほかにどうしようもないでしょう?」

 やや下り坂になっている道をたどっていくと、水溜《みずた》まりに毛の生えたような池があった。水面は真っ暗で、あたりの草叢《くさむら》がざわざわしている。ほとりで足を止めると、ワイシャツ一枚を通して夜風が身に染《し》みた。

 暗く、静かで、誰もいない。

 声に出してはいけない。頭のなかで──意識だけで呼びかけなければならない。

 闇のなかに一輪、とり残されたように、名前も知らない白い花が咲いている。神経を集中するために、それに目を据《す》えて、ひとつ深呼吸した。

(近くにいるのか?)

 風が鳴っているだけで、返事はかえってこない。

(どこにいるにいる?)

 これまででいちばん大きな賭《か》けの瞬間たった。

 やがて、驚くほど明瞭に、頭の奥で声が答えた。

(捕まらない程度には遠くに)

 直也の声だった。

 無意識のうちに頭をあげて、辺りを見ていた。植えられてまだ間もない若い木立をすかして、かすかに街灯の光が差し込人でいる。今夜も頭上には月。闇が降りているのはここだけだ。

 池の水面が風に波立った。

(気がついてたんだね)と、直也は<言った>。

(びっくりした。そっちから呼んでくるとは思わなかったから)

(怪我してるんだな? どの程度の傷なんだ? 大丈夫なのか?)

(平気だよ)

(なんでそんなことに?)

 直也は答えなかった。

(なぜこんなことをしてる? 何か手伝えることは?)

 後頭部の辺りがじわっと痺《しび》れるようになってきた。

(黙ってついてきてくれれば──それだけでいい。気づかないふりをして)

(本当にそれだけか?)

 痺れが広がってくる。

(そうだよ。そうしないといけない。だから、何があっても絶対に要求に反するようなことはしないで。頼むから何も考えないで。そうでないと──台無しになっちまう)

(わかった。言うとおりにするよ)

 疲れたように少し間をおいてから、ひどく弱々しい<声>で──

(小枝子さん、無事だからね。それだけ報せたかったんだ。だから、安心して最後までついてきてください)

 最後の方は、目を細め追いかけるようにして集中しないと感じ取れなかつた。

 ほとんど声に出して、(もうやめろ)と言った。(やめて、あとはこっちに任せて出てこい。このまま続けてたら死んじまう)

 逃げるように素早く、直也は<言った>。

(俺《おれ》が離れるとき、めまいがするかも。倒れないように気をつけて)

 その瞬間、すっと身体が浮いた。頭の奥のどこかを手で押さえられていて、その手が急に離れたような感じだった。ぱっとスイッチを切られたように目の前が真っ暗になり、本当に半歩うしろによろめいた。

 冷汗をかいて、動悸《どうき》が激しくなっていた。耳鳴りがする。手をあげて頭に触れてみると、後頭部の感覚だけが鈍っていた。

 アクセス──という言葉が頭に浮かんだ。負担がかかるのだ。こちらにも、そして直也にも。

 けたたましいサイレンが橋の方からぐんぐん近づいてくるのを聞きつけたのは、そのときだった。

 まぎれもなく消防車のサイレンだった。唖然《あぜん》として見つめるうちに、梯子車《はしごしゃ》を入れて三台の消防車が中古車センターの方で停車した。赤い緊急灯が閃《ひらめ》く。走って公園の出ロへ向かうと、銀色の耐火服がばらばらと降りてくるのが見えた。レストランからも野次馬が走ってくる。四方から人が──まったく無間係な人間たちが集まってき始めた。

 尾行班のヴァンの扉《とびら》が開けられて、顔をひきつらせた刑事たちが降りてきた。橋の上にも、路上にも、どこにも人がおり、混乱があふれ始めた。

「いったいなんだ……」と誰かが怒鳴り、「通報があったんですよ」と抗弁する声が聞こえた。どこにも火災など起きてはおらず、こんな場面で鉢合《はちあ》わせした警察と消防をとりまいて、夜に火がついているだけだった。

 屈強な体格の若い刑事が一人、混乱を抜け突っ走ってきて私をつかまえた。「無事ですか? 怪我《けが》は?」

「なんでもありませんよ。それより、金は? 車はどうなってます?」

「ヴァンへ戻っていてください!」ひと声わめいて、彼はいなくなった。警察が取り乱しているのを初めて見た。

 走って上着を取りに戻り、イヤホンを拾い上げると、そこでも誰かがわめいていた。さかんに呼んでいる。

「こっちは無事ですよ。いったい何があったんです?」

「わかりません。一一九番通報があったというだけで──」

 私は公園の外に出かかっていた。そこで、野次馬のなかに思いがけない顔を見つけで、イヤホンのがなっていることが聞こえなくなった。

 レストランの側の歩道の人込みのなかに、垣田《かきた》俊平が立っている。

 間違いない。彼だ。怒鳴りあっている男たちの方に目を据えたまま、じりじりと後退《あとずさ》りしてその場を離れようとしていた。

 走って近づくには、人が多すぎた彼のひょろながい影を見失うまいと必死で追いかけ、道を渡り切ったところで誰かに腕をつかまれた。

「どこへ行くんです! こっちへ、こっちへ戻って!」

 刑事だった。真っ赤な顔をしている。一瞬それに気をとられているうちに、垣田の姿は人込みにまぎれてしまっていた。

 電話は午前零時近くになってかかってきた。

「ちょっと確かめさせてもらったんだ」と、直也は言った。声がさらに弱っていた。

「消防署を呼んで騒ぎを起こしてみたら、警察が張ってるかどうかわかるもんな。あんなところに金を取りにいく馬鹿《ばか》はいないよ」

 電話はそれだけで切れた。今度は逆探知も届かなかった。

「どこです?」

「江戸川区内だというところまではつきとめたんですが……」

 もう遠くへは<移動>できないのかもしれない。

「なんて周到な野郎だ」と、川崎が歯噛みしている。「警察をコケにしてるじゃありませんか」

 金も無事、車も無事。犯人は現われなかったというわけだ。

 届くはずはないとわかっていたが、頭のなかで直也に呼びかけた。なあ、なぜだ? なぜこんな余計なことをしてる? どうしてこんなことをしなきゃならない? 早く終わりにしないと、君の身が保《も》たないぞ── それに答えるかのようなタイミングで、三十分後に電話がかかってきた。

「今度こそ、警察なんか抜きで来いよ」激しく息を切らしながら、そう言った。「今度が最後のチャンスだからな──」

 今度は、川崎が行くと言い張ってきかなかった。

「あんな姑息《こそく》な手段を使うヤツなんですよ。私はじっとしていられない。警察の護衛ももう要りません。私が行く」

「指名されてるのはあなたじゃありませんよ」

 指定された時と場所のことだけ考えていたから、私はあっさりそう言った。川崎はいきなり殴りかかってきた。刑事たちが止めに入る前に、顎《あご》に一発かすめたが、大して応《こた》えはしなかった。なんだこんな程度か、というものだ。激高している男の拳《こぶし》らしくもない。

「おやめなさい」中桐刑事がのほほんとした口調で言った。「内輪|揉《も》めしている場合じゃない」

「貴様のせいなんだぞ」と、川崎はうなった。くちびるの端に唾《つば》が泡《あわ》になってついていた。

「わかってるのか? 貴様のせいなんだ」

 とうとう「貴様」に格下げだ。

「申し訳ないとは思ってます。謝って済むなら何度だってそうしますよ。でも、今はそんを場合じゃないでしょう。落ち着いてください」

 川崎はぶるぶる震えながら座り込んだ。令子が彼の腕に手を置き、そっとなだめている。彼女はずっとこの家から動こうとしてはおらず、終始川崎よりは冷静だった。

「護衛は要りません」道路地図を確かめながら、私は言った。指定された湾岸の海浜公園まで、車で小一時間はかかりそうだ。

「そうはいかん」伊藤警部は厳しく言った。

「でも、どうするんです? だだっ広い場所ですよ。尾行してきたって隠れようがないでしょう。また取り逃がしたら今度こそどうなるかわからない」

 とにかく早く、指示に従ってやりたかった。直也が(警察は抜きだ)と言ってきているのだから、そうしてやる。

(黙ってついてきてください)

 ボイスチェンジャーを通した声を聞いているだけで、彼がもう限界に近いのがわかった。ひどく衰弱してきている。弱っている。

「そんなことは我々に任せなさい。あなたが心配することじゃない」鼻息荒く伊藤警部は言って、また無線にかじりついている。肩を叩かれて振り向くと、中桐刑事のずんぐりした顔が見上げていた。

「これを」と、差し出す。防弾チョッキだった。

「要りませんよ。飛び道具なんか出てくるわけがない」

「なんでそう言い切れます?」刑喜はにんまり笑った。「まあ、裕好だけでも着ておきなさい」

 象のような小さな目の奥に、なにか非常に抜け目のない色が浮かんでいた。私だけにわかるように、彼は顔の片側で笑っているのだった。

「中桐さん」私は声をひそめた。「あなた、何か勘づいてるんじゃないですか?」

「ほほう。何を?」

 つかまえられないほど素早く、胸の内側を疑問がよぎった。直也のことを知るはずもないこの刑事が、いったい何をつかんでいるんだろう?

「いいですかな」私にチョッキを着せながら、刑事はひそひそ言った。「誰でも、そう簡単に警察を出し抜けるもんじゃないです」

「どういう意味です?」

「今にわかります」と言って、息が詰まりそうなほど強くベルトを締めた。「おっと、きつ過ぎましたかな。それより高坂さん、さっきから顔色が良くないが、大丈夫ですか」

 直也と<話した>ときに痺れていた後頭部に、じわりと頭痛を感じ始めていた。それも次第に強くなってくる。万力で頭を締め付けられているような──あんな短時間、彼の力に触れただけなのに。今まで経験したことのない、胸の悪くなるような頭痛だった。

 たったあれだけでこのざまなのだ。力をコントロールしなければならない直也がどれだけ激しい消耗を強《し》いられているか、想像するだけで背筋が冷えた。間に合わないかもしれない──と思うと、それでまた余計に頭が痛んだ。

「川崎さんの車を使うそうです。後部座席に刑事を一人乗せてください。大丈夫、隠れていきますからな」

 刑事はてきぱきとそういいながら、今度は無線機をつけてテストしている。空とぼけたような横顔は、はっきりと何かを隠していた。そして、それを教えたがってちらちらさせているようにも見えた。

「中桐さん」

「はあ」

 じっと見つめていると、刑事はちらと表情を崩した。ぽってりとしたまぶたをぱちぱちさせスッと肩こしに周囲の様子を窺《うかが》った。川崎が激しい口語で伊藤警部に噛みついており、自分も行くと言い張っている。

 中桐刑事は、手ぶりで私に近寄るように示した。そして耳元で囁《ささや》いた。

「黙って、犯人に言われたとおりにしていてください。私は、あなたの身に危険が及ぶようなことはないと思っています。感情的な面以外ではね」

「じゃ、やっぱりただ利用されてるだけだと?」

 刑事は頷《うなず》いた。「そしてもうひとつ。残念ですが、小枝子夫人はもう生きていないだろうとも思います。おそらく──拉致《らち》された直後に殺されているでしょう」

 目的は、最初からそれだけです──そう言った。断言だった。

「ただ、それをどの辺でぶちまけてやるか、タイミングをはかっているところです。まだ決め手がありませんのでね。もうしばらく辛抱してください」

 真顔に戻って、私の肩をぽんと張った。

「さあ、行きますかな」

 エンジンを切ると、風のうなりが耳をついた、海風だった。

 午前一時二十分。車を出ると、湿った風が横殴りに吹きつけてきた。上空では雲が急速度で東から西へと流れている。潮の匂《にお》いと、雨の予感がした。

 海浜公園の入口で車を乗り捨て、徒歩で人工浜辺の方へと歩け。それが指示だった。おまえ一人で来い

 金はまたトランクのなかに置き去りだ。

 また、あなたと金を引き離すつもりだと伊藤警部は言っていたが、それは違うと確信が持てた。

 賭けてもいい。この計画の<犯人>には、最初から金など取りにくるつもりはないのだ。

 私に用があるわけでもない。

 全部狂言だ。

 標識に従って浜辺をめざし、歩きだす。舗装道路から逸《そ》れると、すぐに足元が砂地になった。そっけないほど広く、人けのない海浜公園を横切りながら、ときどき顔にくっついてくる砂粒を払い除《の》け、てくてくと歩いた。砂地に足をおろすたびに、後頭部がずきんとうずいた。

 遠く、夜目にはウエハースでできているかのように安っぽく見える建物の、一ヵ所にだけ明かりがついている。まだ建築中の施設の鉄骨が、太古の恐竜《きょうりゅう》の化石のように闇のなかに沈んでいる。その脇《わき》に、異形の歩哨《ほしょう》のように空をついて立っているクレーン。その頂点には赤いライト。それらは巨人を隠すには足りても、地上で闇にまぎれようとする人間には用をなさない。

 隠れようのない場所で、最後の大芝居──

 ゆるいスロープをのぼりきると、眼前に灰色の東京湾が広がった。

 遠く、ちらちらと明かりがまたたく。視界をぐるりと半周して。その灯《ひ》のもとには町があり、ビルがあり、高速が走り、眠っている大勢の人間がいる。ここのこの足の下は土と砂と石。そして肌《はだ》にかかるかすかな波飛沫《なみしぶき》。油と潮の入り交じった東京湾の匂いだ。

 風が吹き荒れていた。早い鼓動の音さえかき消すほど強く。

 ゆるやかな山を描いて連なる砂浜で足を止め、ポケットに手を入れて、待った。

「人影は見えますか?」と、イヤホンが小さく言った。雑音が入った。

「見えませんね」と、私は答えた。見えるはずがないですよ。

 すべて狂言だ。

 昨日の昼間、刑事たちとあれこれ考えていたとき、私はかなり近い線までたどりついていたらしい。そう、恨みがあるの仕返しをしてやるのという言い車は、全部|嘘《うそ》だ。空っぽの、ただのでまかせだ。

 それを口実に、私への報復に見せかけて小枝子を拉致し、殺してしまう──ただそれだけの目的のために、手をかえ品をかえあれこれ策を弄《ろう》していたというだけのこと──報復ついでに金も獲《と》ってやると誘拐《ゆうかい》に見せかけ、あんなふうにひっぱり回しては姿を見せず、気をもたせていたのも、ただただそれらしく見せるだけのためだった。

 小枝子がなぜ殺されなければならないか、その理由を知られないために。

 だが、この狂旨を練った人間は、いくつか計算違いをした。

 ひとつは、私を──マスコミの人間を買《か》い被《かぶ》ったこと。恨みを抱いている人間の存在をほのめかせば、すぐにも(あれか? これか?)と心当たりを持つほど大きな仕事をしている人間だと買い被っていてくれたことだ。

 ふたつ目は、警察はそれほど馬鹿じゃなかったということ。少なくとも、中桐刑事はちゃんと見抜いている。だからこそ、小枝子はもう殺されてしまっているだろうと言ったのだ。

 だが、小枝子は無事でいる。織田直也がいたから。それが三つ目の、最大の計算違いだ。

(どこにいる?)風に逆らって顔をあげながら、彼を呼んでみた。(もういいよ。もう終わりだ。警察も気づいてる。出ておいて)

 出ておいて──もう一度呼んだとき、小さく震えるような声が頭に響いた。

(海のほうへ……)

 ぐうっと頭蓋骨《ずがいこつ》がしめつけられるような感じがして、頭痛が強まった。

(もうちょっと先へ歩いて……あの倒木があるほうへ)

 左手の前方に、ねじ曲がった倒木が横たわり、そこに波がかかっている。近づいてみると、それは人造の海を海らしく見せかけるための装飾品で、同じようなまがいものの倒木が、ほかにも点々と転がっていた。

 その倒木の陰に、泡立つ波に洗われながら、男が一人倒れていた。

 かがんで抱き起こすと、鉛色の顔に、視点の定まらないふたつの目が見返してきた。

 あの、尾行してきた男だった、七患の撮った写真にぼんやり写っていた、あの顔。

 彼が刺し殺されている。

 襟元《えりもと》のマイクに、私は言った。「死体を見つけました」

 イヤホンの奥の声が裏返った。「なんですと?」

「犯人でしょうよ。死人でから、もう二日はたってそうな様子だな。来てみてごらんなさい」

 ざざっと無線が鳴り、彼らが動きだしたのがわかった。立ち上がり、強い風に一瞬目を閉じてから振り返ると、目の前に織田直也が立っていた。

 今でもよく覚えている。血の気が失《う》せ、両腕をだらりと垂らし、風に髪を乱している彼の顔。スローモーションのようにゆっくりと、前のめりに倒れかかってきた。抱き留めると、彼の全体重がかかってきた。頭をそらし、目は開いて空を見ている。身体《からだ》全体が湿っていた。濡《ぬ》れた毛布を抱いているようだった、

「ゴールだね」と、彼は囁いた。ほとんど聞き取れないほどの声だった。最後の<移動>で、まさに精根尽き果ててしまったのだ。

「しゃべるんじゃない」

 頭を抱えてそっと横たえ、上着を脱いで包んでやると、彼はゆっくりとまばたきをした。左の脇腹の下を刺されていた、まだ血がにじんでいる。救急草を、と叫んだような気がする刑事たちが走って近づいてくるのを背中で感じた。

「失敗……しちゃって……このざまです」

「しゃべるな」

 走ってくる刑事たちに手をあげて合図すると直也が私の袖《そで》をつかんだ。

「ナイフは………置いてきちゃった」

 そのあと、何か続けて言おうとした。が、できなかった直也の口が動き、声を出せないと知ると、私の頭のなかに触れてきた。だが、それもほんのわずかな感触で、聞き取れなかった。

 彼の手も頬《ほお》も冷たくなつていた。じっとりと血のしみこんだシャツの上から身体《からだ》を走る弱々しい震えが伝わってくる。

 駆け付けてきた一団が、我々を取り囲んだ。刑事が一人傍《かたわ》らに膝《ひざ》をつき、顎をわななかせながら言った。

「これは──これはいったい──」

「大声を出さないで」

「しかし──この、彼はいったいどこからやって来たんです? どこから現われたんだ?」

 周囲の誰もがそれを口にしていた。どうなってるんだ? この二人は誰だ? いったい何が起こってるんだ?

 私の腕のなかで、直也がうっすら笑った。首を振っている。

「わかったよ」私も声が震えた。「わかってる。もう休め。な?」

 直也は目を閉じた。頭が傾いて、もたれかかってきた。

 一団のなかには川崎明男がいた。目を見張り、今にも倒れそうな様子で、倒木の陰の死体を見つめている。

「小枝子は──小枝子はどこだ? どうなった?」

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