「さあな」と、私は低く言った。「どこかにいるんだろうけど」
「こいつらが犯人か?」
救急車のサイレンが近づいてきた。右往左往している刑事たちのあいだを割って、走ってくる。
ストレッチャーに乗せるとき、直也がもう一度、力をふり絞るようにして私の手を握った。ほとんど同時に、頭の奥に声が聞こえた。
(あとを……)
承知したしるしに、堅く握り返してから、彼の手を離した。ドアが閉まった。
捕捉《ほそく》班の指揮官が私に近寄ってくると、血走った目で食いつくように訊《き》いてきた。
「彼を発見したとき、何を言っていました? 何を聞いたね?」
刑事にではなく、砂地に座り込んでいる川崎に、私は言った。
「人質は無事だと」
「どこにいると言っていました?」
私はかぶりを振った。「でも、彼女は生きてるんですよ。あとは発見できればいい」
川崎が首をあげて私を見、目が合うと、ゆっくりと海の方へと視線をそらした。這《は》うようにして立ち上がると、刑事の一人に支えられて、来た方へと戻り始めた。
風のうなりと頭痛のために、目が霞《かす》んできた。歩きだすと、ふらりと視界が揺れた。
どこへ行けばいいのかはわかっていた。
7
病院の夜間通用口へ近づいてゆくと、ドアを入ってすぐ脇のベンチで、誰か頭を抱えているのが見えた。
垣田俊平だった。
立ち止まって見おろすと、彼は目をあげた。ひどく憔悴《しょうすい》していた。痛みをこらえているかのように、身を縮めている。
それでわかった。なるほど[#「なるほど」に傍点]。そういうことだったか[#「そういうことだったか」に傍点]。
「頭が痛いんだろ」
尋ねると、彼は怯《おび》えたように頷いた。「声が聞こえてきて……」
直也が彼を使ったのだ。見えない思念の手をのばし、彼一人ではカバーしきれなかった部分を、垣田にやってもらったのだ。
「なんであなたがここに?」
さあな、と言ってやった。
「<アイリス>ってレストランへ行ったか?」と、訊いた。「そこの洗面所に赤い札入れを捨ててきただろ? 今夜江戸川区の水上公園の近くで、一一九番通報したのも君だな?」
信じられないというように目を見張りながらも、垣田は頷いた。
「そのこと、忘れてしまえ」
「え?」
「もう終わったんだ。忘れちまえよ。それでいい」
「だけど……だけど、俺《おれ》……」
「君がどうしてその声に従ったのか、当ててみようか」
私は慎司が入れられている集中治療室の方へ目をあげた。
「君が彼をあんな目にあわせたからだ。そうだろ?」
長身の垣田が、ひどく小さく見えた
「俺……あの子に言われたんだ。あの、手記のことで」
「なにを」
「あの子、俺に会いに来て──本当は、自首したがってたのはあなたじゃなくて宮永さんの方だったって、わかってるよって。全部わかってるって言うんだ。わかってる人間がいるってことを忘れるなって」
慎司は見抜いていた。見抜いて──言わずにいられなかったのだ。
(あいつ……正義感ばっかり強いから)
「宮永さんが自殺して、あなたはちょっぴりホッとしてるんじゃないのって、そう言われた。俺──俺──」
動転して、気がついたら慎司を叩きのめしていたというわけか……
「頭が痛いんだ」垣田は泣きだした。「あの声──慎司にすまないと思うんだったら、言われたとおりにしろって。俺、怖いよ。あの子に謝ればいいの? 痛いんだ。すごく」
「そのうち治るよ」そう言って、歩きだした。「家に帰ってろ。もう全部終わったんだから」
垣田の声が追いかけてきた。「なんだよ? どうなってんの? あいつ、何者なんだよ?」
「人間だよ」と言って、階段をあがった。
ナースステーションをうまく通りぬけ、人けのない廊下に立った。明かりも落としてある。すぐそばの角を、人声が通り抜けてゆく。壁に身を寄せてやり過ごしてから、ガラスの向こうをのぞきこんだ。
慎司は眠っているように見えた。傍らのモニターに、細い緑色の光が走っている、点滴の壜《びん》には薬が八割ほど入っており、眠気を催すようなゆっくりとしたテンポで、慎司の腕のなかへと送り込まれていた。
小さいな──と思った。ベッドが盛り上がっていない。痩《や》せて小さなこの身体の内側に、途方もないエネルギーが隠れているのだろうに。
呼んだら起きてくれるだろうか。それとも、意識を内側に閉じこめて、ずっと直也とやりとりをしていたのだろうか。
ガラスに額をつけ、心を自分の内側のいちばん深い場所に沈めた。波立たない場所にいた方が、慎司がつかまえやすいかもしれない。
脳波か、と思った。慎司の脳波をチェックしていた医師たちは、そこに何を見ただろう?
(──さん?)と、声が<聞こえた>。慎司の声が。
(そう)
(僕わかる?)
(ああ、わかるよ)
破裂しそうなほど頭が痛んだが、爽快《そうかい》だった。自分が笑っていることに気がついた。
慎司の目は閉じている。長い、長い昏睡《こんすい》状態にいる小さな少年。
(ああ、ひどいね。負担をかけてるね)と、彼は<言った>。(よく聞いて。一度だけしか言えないよ。高坂さんが倒れちゃうから)
彼は教えてくれた。場所と、日印を。
(ずっと知ってたんだな?)
(うん)
(ありがどう)
さっと撫《な》でるような感触を残して、慎司の意識が離れた。
すぐには動けなかった。ガラスに手をついて呼吸を整え、よろめかないと自信が持てるまで、待った。
それから歩きだした。
廊下を戻っているとき、抑えた悲嘆の声を聞いた。頭のなかでそれを感じた。まだ接続が切れきっておらず──そう、ちょうど電話を切る寸前に相手が何かを言った時のように、きわどく感じ取ったのかもしれない。
(今、直也が死んだよ……)
教えられた場所は、小さな倉庫だった。
晴海《はるみ》の埋立地の端っこで、今はもう使われていないらしい。夜のど真ん中に、死んだ犬のように見捨てられていた。
廃材が積み上げられている一階のフロアを抜け、階段をあがった。明かりはないが、なかに入ると、上の方のどこかから光が漏れているのがわかった。
小枝子のいる場所だろう。
二階にあがると、使われていないがらんとしたスペースが広がった。はずれかけたドアが一枚、廊下に斜めにはみ出ている。
その陰に腰をおろして、あとはまた待つだけだった。
足音は、すぐに聞こえなっくなった。だが、気配はした。
廊下の小さな明かりとりの窓を通して、隣のビルのの常夜灯の光が差し込んでくる。その光で、腕時計を見た。午前二時四十五分。
案外早かったな──と思った。向こうも必死だからな。
壁にもたれ、腕を組んで息を殺していると、誰かが階段をあがってゆく。靴《くつ》を脱いでいるのか、足音は聞こえない。充分に間をおいてからそっと立ち上がり、私も階段をのぼった。
三階の、いちばん奥まったスペースから、黄色い明かりが漏れていた。 なかをのぞきこまず、外側に開け放たれたままになっているスチールのドアに張りついて、耳を澄ませた。
「誰?」という声が聞こえた。記憶に間違いがなければ、それは小枝子の声だった。かすれていて、伝えていた。
「誰よ、ねえ」
そして、彼女は言った。「三宅さん[#「三宅さん」に傍点]……」
やっと救《たす》けにきてくれたの、と小枝子は言う。ねえ、早くほどいてよ。ずっと待ってたの。怖くて怖くて──ねえ──警察は──警察は──
「それ、なあに?」
問いつめるような小枝子の声が、にわかにひび割れた。
「ごめんなさいね」と、三宅令子が言った。ことここにいたっても、彼女は冷静だった。「本当なら、もっと早くにケリがついてるはずだったのに」
「どういうこと? ねえ、なんであなたがナイフなんか持ってるのよ!」
「あなた、とっくに死んでるはずだったの」
令子は平坦《へいたん》な口調で言った。感情を態度に表すことのない、聡明《そうめい》で慎み深い女性。利発な女性。
今ここで二人の女のやりとりを聞いていると、表面上はどうあれ、二人のうちのどちらが主でどちらが従だったのか、はっきり知らされる思いがした。
「計画は失敗しちゃたけど、小枝子さん、やっぱりあなたには死んでもらわなくちゃ」
最初からこうすればよかった──と、令子はつぶやいた。
「狂言誘拐だのなんだのって、明男さんは考えすぎてたのよ。もっと単純にすればよかった。そうすれば──」
「なによ……」
震えている小枝子の声が聞こえた。過去に一度も、彼女がこんな声を出すのを聞いた覚えはない。
「どうしてあなたが……あなたがわたしを……明男さんが考えすぎてたってどういうことよ? あの人、何か関係があるの? わたしをここへ違れてきて、閉じこめた男と関係があるの?」
「あの男は、明男さんがお金で雇ったの」令子は静かに答えた。「あなたが誘拐されて殺されたってお芝居をでっちあげるために、お金を払って雇ったのよ」
いったいどのぐらいの報酬を約束したんだ? と、私は内心で独りごちた。皮肉なものだな、とも考えた。警察による電話の逆探知があれほどす早いものだということは計算外だったのだろう。だから川崎は、<犯人>から電話がかかってくるたびに青くなっていたのだ。
「明男さんとあの男とで、いろいろ小細工を考えて──うまくいくと思ったのに、どうしてあんな邪魔が入ったのか──どうして知られてしまったのか全然わからないわ。本当に気をつけて、警察にだって絶対に気取られないように計画を進めてたのに」
小枝子は声を張り上げた。
「どうして……どうしてわたしがあなたや明男さんに殺されなきゃならないのよ?」
青写真は狂うこともあるもんだからだよ──と、私は考えた。
「あなたが邪魔なの」令子は素朴《そぼく》に言った。「目障りなの。いてほしくないの。子供なんて産んでほしくない。明男さんはもう一人立ちよ。自分の権限でなんでもできる。だから、もうあなたは要らないの」
子供に言い聞かせているかのような、噛《か》んで含めるような話し方だった。
「今あなたに死んでもらえれば、誰にも真相は悟られないで済む──誘拐《ゆうかい》犯人に殺されたんだってことで済むものね」
そして、小さく、令子は付け加えた。「どうして、離婚話を笑い飛はしたりしたのよ」
小枝子ほひきつったような笑い声をあげた。「あんな──あんな話、わたしがどうして本気にしなきゃならないのよ?」
「それが真実だからよ」
ドアの陰からそっと顔をのぞかせると、令子は私に背を向けていた。目測で、四歩あれば。彼女に近づける。
呼吸をはかり、令子がナイフを振り上げかけたとき、思い切って動いた。
彼女は背後になんの注意もしていなかった。所詮《しょせん》、慣れないことをしているのだった。おまけに手袋まではめて。振り上げた腕をつかんでうしろへねじると、あっけなくナイフは床に落ちた。それを部屋の端に蹴《け》り飛ばし、それから両手で彼女の腕を押さえた。
何が起こったのかわかると、令子は気が違ったように身もがいた。
「諦《あきら》めなさい」口をきくと頭ががんがんした。「警察も、狂言だっていうことは見抜いてる。なんにもならないですよ」
それでやっと、令子は暴れなくなった。背中でねじりあげている彼女の腕があまりに細いので、嫌《いや》な気分だった。
彼女の膝から力が抜けてゆく。「そんな……そんな……なんでわかったのよ?」
「私らは、三宅さん、あなたを尾《つ》けてましたからな」
振り向くと、入り口の薄闇《うすやみ》のなかに、中桐刑事が立っていた。
「高坂さんがなぜ知ってたのかはわかりませんが」と、彼は笑った。「どちらにしろ、もうゴタゴタするのはおやめなさい」
数人の刑事がすべるように近づいてくると、私の手から令子を受け取り、両脇《りょうわき》から抱えるようにして連れ出した。彼女はようやく震え始めたようだった。
中桐刑事は近づいてくると、ゆっくり小枝子のそばにしゃがみこんだ。彼女は両手首と足首を縛られていた。刑事がそれをほどくと、紐《ひも》が食い込んだ痕《あと》が残っていた。
「お怪我《けが》はありませんか? 今、救急車が来ますからね」
小枝子はほとんど変わっていなかった。二日もここへ閉じこめられていたにしては、きれいに見えると言ってもいい。昔より少し太ったかな──という程度だ。髪型も変えてない。
「ずっと、ずっとここに──」きょろきょろ目を動かして、中桐刑事と私の顔を見比べながら、うわごとのようにつぶやいた。「縛られてて、叫んでも誰も来てくれなくて……」
「かわいそうに。もう大丈夫ですよ」刑事は言って、私を見上げた。「なぜここがわかりました?」
答えるのも面倒なほど、急に疲れた。「聞いたんです。あの──怪我を負っていた青年に」
「早く教えてくれればよかったのに」
「自信がなかったんですよ。本当かどうか」
「あの青年って?」刑事にしがみつきながら、小枝子が訊いた。「ずっとここにいた人? あの──わたしがここへ運れてこられたとき、ここで待ってて──わたしを連れてきた男と格闘になって──あの男が刺し殺されちゃって──」
やっぱりそうだったか──と思った。
直也は、川崎と令子と、彼らに雇われた男の計画を知ると、先回りしてここで待っていたのだ。そして本来なら男を倒し、彼をここから動けないようにしておいて、小枝子を救けだし、いっしょに警察へ飛び込む予定でいたのだ。
だが──そうはいかなかった。
格闘になったとき、直也は刺された。それだけでなく、相手を殺してしまった[#「相手を殺してしまった」に傍点]。
そうなるともう、その男が何を企《たくら》んで、小枝子をどうしようとしていたのか、そもそもは誰が練った計画なのか、証明できる人間がいなくなってしまったことになる。小枝子を救けだしたところで、川崎明男と三宅令子が無傷で残っているところへ返したならば、そのうち彼らはほかの手段で小枝子を殺してしまうだろう。それは目に見えている。
どれほど言って聞かせても、小枝子は信じなかったに違いない。ご主人とご主人の秘書があなたを殺そうとしてるんですよ──などということは。
それは彼女の青写真にはないことだから。
だから直也は、川崎と令子の計画をそっくり踏襲したのだ。すべてうまくいっていると見せ掛けるために。
そして、最後の最後のところで引っ繰り返すために。
その力が残っていたのなら、彼は自分でここへ戻ってきて小枝子を殺しにやってくる令子か──川崎か──あるいはその二人と渡り合うつもりだったのだろう。その場を小枝子に見せてやれば、いかな彼女でも現実を悟る。
でも、その前に直也は力尽きてしまった。
「あの青年──」
近づいてくるサイレンに耳を澄ませながら、中桐刑事がつぶやいた。
「いったいどうやって、川崎たちの計画を知ったんでしょうな」
「さあね」と、私は言った。「もう、永久にわからないことじゃないですか」
急に我に返ったように、小枝子が私を見上げた。
「ねえ、なんであなたがここにいるのよ?」
表に出ると、立っていられないほどめまいが激しくなってきた。時間の感覚もなくなってきて、ぼんやりと路肩に座り、騒々しく駆け付けてくるパトカーや、行き交う刑事や警官たちをながめていた。そのうち、頭上で爆音が響き始めた。ヘリだ──協定解除かな──と思った。
誰かに肩を抱かれたので顔をあげた。
生駒だった。
「ひでえ顔色だ」
彼は言って、ほとんど担《かつ》ぐようにして立ち上がらせてくれた。「デスクが狂喜してるぜ」
「なにを」
「迫真のドキュメントだとさ」
「誰が書くもんか」
倉庫から少し離れた小さな橋の上に、彼は車を停《と》めていた。私をそこに寄り掛からせると、ポケットを探って煙草《たばこ》を取り出した。私も一本受け取ったけれど、ほとんど味がしなかった。
「織田直也が死んだよ」
「ああ、聞いた」
「彼が何をやってくれたかも聞いたか?」
「まだよくは知らん」
「説明する元気が出てくるまで、ちょっと待っててくれよ」
私は目を閉じた。めまいも頭痛もまだおさまらなかった。あらためて、直也の、慎司の背負っているものを思った。これほど──辛《つら》いものか。
「ただ、ひとつだけはっきりしてることがあるんだな」
自分の声が、速く聞こえた。
「なんだ」と訊《き》いて、生駒は煙を吐いた。
「例の賭《か》け、覚えてるか?」
かなり長いこと、生駒はまじまじと私の顔を見ていた。それから、吸いさしを足元に落として踵《かかと》で踏んだ。
「これで十年は寿命が伸びるかな」と言うと、手にしていたハイライトのパッケージを、大きく勢いをつけて川面《かわも》に放《ほう》った。
「畜生、おまえの勝ちか」
そうだよ──と、心のなかでつぶやいた。すうっと気が遠くなった。
[楼主] [7楼] 作者:滄炎沁夢2005 发表时间: 2008/04/13 20:15 [加为好友][发送消息][个人空间]回复 修改 来源 删除エピローグ
病院の中庭には、季節はずれの、どう見てもツツジとしか思えない花が咲いていた。いい香りがした。
師走《しわす》もなかばを過ぎていた事件は新間を賑《にぎ》わして、もう次の話題に取って代られている。
「今度は失敗したくないって──そう思ってたんだ」
車《くるま》椅子《いす》に寄りかかり、ぼうっと遠くを見ながら、慎司は言った。
村田薫が会いに来て、私と入れ違いに、たった今帰ったところだと言う。慎司は少し泣いていたようだったが、泣いたことで肩の荷をおろしたようにも見えた。
「マンホールのときみたいにね……。うっかりと、この力を持ってない普通の人を巻き込んじゃいけない、かえってややっこしくなるだけだもの。村田さんも、それは正しいと思うって言ってた。ただ、一人でやろうとしたのは無謀だねって。でも、ほかに考えつかなかったんだ」
慎司の言いたいことはよくわかった。
あの八通の脅迫状──三宅令子が出していたのだった──から読み取り、それを手がかりにして知ったあの二人の計画を、慎司が私に、あるいは警察に話していたらどうなっていただろう。
警察は信じなかったろう。多少その気になってくれて、たとえば川崎家をつついてみてくれたとしても、なんにもなりはしなかった。川崎と令子を警戒させ、表向きは憤慨したり笑ったりしながら計画を引っ込めさせ、また別の計画を練る機会を与えてやるだけのことに終わっていたはずだ。
では、私が聞かされていたなら?
やはり多少はごたごたしても、慎司を信用したかもしれない。が、それでどうなる? 私が小枝子《さえこ》に、旦那と愛人に殺されかけてるよと教えたところで、彼女が本気にするわけがあるまい。
「土壇場《どたんば》で、ぎりぎりのところで首ねっこを押さえなきゃ駄目《だめ》なんだ」と、慎司はつぶやいた。「そう思ったから、僕……」
ベンチにそっくり返って、私は空を見上げた。癪《しゃく》にさわるほど平和に青く澄んでいた。
「僕がこんなことにならなきゃ、直也を巻き込まないで済んだのに」
慎司は車椅子を見おろした。
「これだって、もう放《ほう》っておけって忠告されてたのに、どうしても我慢できなくて垣田《かきた》さんを責めたりしちゃったから起きたことだったんだ。僕、自分を何様だと思ってたんだろう?」
「もう止《よ》せよ」
「だって……」
一度、きちんと言っておきたかった。私は座りなおして姿勢を正した。
「ありがどう」
慎司は黙っていた。
「それに、本当にすまなかった。君も直也も、結局は俺《おれ》を救《たす》けてくれようとしたばっかりにこんな目にあったんだよ。謝っても取り返しのつくことじゃないが──」
「やめてよ」慎司は穏やかにさえぎった。「高坂さんのせいじゃないよ。だって……だって、あなたには、僕たちみたいな力がないんだもんね」
「でも、直也を死なせちまった」
慎司はくちびるを噛《か》むと、首を振った。「それは僕のせいさ。僕が助けを求めたから。自分が動けなくなっちゃったから、もう頼れるのは直也しかいないと思ったんだ。それで、あとはずっと、できるかぎりずっと、力を使って直也を追いかけてた。モニターするみたいに」
慎司がうわごとで(殺されちゃうよ……)と繰り返していたのは、川崎小枝子のことだったのだ。
(なんとかして、直也、手伝って。そうでないと、殺されちゃうよ)
「小枝子さん──おなかに赤ちゃんがいたよね」
私は頷《うなず》いた。
かすかに微笑しながら、慎司は言った、「直也、赤ん坊は好きだったんだよ」
だから救けに行ったんだよ……と、つぶやいた。
「それにね、彼、死んでしまうときにね……僕の頭のなかから離れていくとき……へへ、って笑ってた」
「本当?」
「うん。ちょっと気持ち良さそうだったな……。なんていうのかな、やることはちゃんとやったぜって、得意になってたみたいな感じ」
ちょっぴり羨《うらや》ましかったな──と、慎司は言った。
そうだったと願いたい。それしかないことに、どうしようもない侘《わび》しさを覚えはするけれど。
事件の直後に、中桐《なかぎり》刑事と交わした言葉を、私は思い出していた。
(織田直也という青年は、ほとんど捨身で川崎小枝子を助けたことになるわけですな)
(ええ、そうですよ)
(しかし、あんな狂言|誘拐《ゆうかい》など、我々だって確実に見抜いていましたよ。彼は警察を信用しとらんかったんでしょうか)
(ひとつ、大事なことをお忘れじゃないですか)
(なんです?)
(警察は、あとになって川崎と令子を逮捕することはできても、殺人を食い止めることはできなかった[#「殺人を食い止めることはできなかった」に傍点]──それだけは、彼にしかできなかったことでしょう?)
「彼がいなくて、寂しいよ」
慎司は何度もまばたきをした。もう泣かないと決めているようだった
「寂しいけど──それは僕が受ける罰なんだと思う。直也のことを忘れちゃいけないよってね。だから僕、今度自分の番が回ってきたときには、精一杯やる。そうでなきゃ、存在意義がないもんね?」
存在意義か。久しく、そんなことは考えたことがなかった。
「僕、誰かの役に立てると思うよ。僕だけじゃないや、み人な、そのために生きてるんじゃないの? すっごく気障《きざ》かもしれないけどさ、でもね、一年に一度ぐらい、夜中、一人っきりになって、そんなふうに考えてみるのも悪くないよ。きっとね」
長い長いいきさつを、最初から通して語って聞かせた相手が、一人だけいる。三村七恵だ。
話を始める前に彼女はちょっと変わった装飾品を見せてくれた。モビールだった。金属片をいくつか組み合わせてつくってあり、ぶらさげると不安定な動き方をして、ときどききしむ[#「きしむ」に傍点]ような音をたてる。私が何度か彼女の電話の向こうに聞いたのは、この音だった。
<織田さんがつくって、わたしにくれたの>と、彼女は書いた。<うるさくって飾っておけないねって笑ってたけど、わたし、織田さんがいなくなったあと、彼を呼んでみたくなると、これをぶらさげてながめてたの>
話しているあいだ、彼女はじいっと聞き入っていた。両手で頬《ほお》を押さえ、ときどき空に目をやりながら。
話し終えると、もう何も言えなくなってしまった。私と七恵は、言ってみれば、織田直也という青年を通して、たまたま緒びついていただけなのだ。彼という輪が失《な》くなってしまった以上、私には彼女を引き止める権利もない。
これからどうしたい? と訊《き》いてみる勇気が出せなかった。君はどう思ってる? 俺が君を手放したくないと言ったら、それはやっぱり君に中途|半端《はんぱ》な人生を押しつけることになるのかな?
七恵は立ち上がり、ホワイトボードを取ってきた。すらすら。と書いて、私の方へ向けて見せた。
<知ってた>と書いてある。
「何を?」
また、なんにもためらうことなく書いた。
<あなたが、小枝子さんと別れることになった理由>
息が詰まるような感じだった。
「直也に聞いたんだね?」
彼女は覗いた。
<あなたは、そのことでひどく傷ついてるし、人を寄せ付けないようなところもあるから、すっごく面倒臭い男だ、と。だから関《かか》わってもいいことないよって言ったんだと思う>
ボードを見せながら、七恵はちょっと笑った。
すっごく面倒臭い男、か。七恵にはふさわしくない男か。
いや、それだけだったかな──と思った。直也はもっと先まで見ていたんじゃないか。慎司に報《しら》されるまでもなく、彼にもわかってたんじゃないだろうか。あの尾行者の思考を読んだときに。川崎たちに雇われた男が何を考えているかを読んで、俺が未来に巻き込まれることになっている計画を知っていたんじゃないか。
ただ、口に出さなかっただけで。
だから、七恵には忠告したのだ。私に関わるな──と。
川崎たちの計画がもし成功していたら、私はこの先一生、見えない枷《かせ》をはめられて生きてゆくことになっていたろう。自分が誰かに恨みを抱かれたがために、周囲の人間を死なせるような羽目になってしまった──という枷を。しかも、その恨みが何だったのか、見当さえついていない。
そんなものを背負いこむことになっている男と一緒にいたって、七恵が幸せなはずがない。
だが──
あの病院で、直也は見たのかもしれない。その忠告が無駄になったようであることを。彼の目から隠し通せるものなど、何もないのだから。
だから──だから彼は、川崎と令子を阻止し、小枝子が殺されないように手を尽くしてくれたんじゃないのか。
私のためではなく、慎司に頼まれたからだけでもなく、七恵のために。
だから、(へへ)と笑っていた。私が一生かかっても七恵にしてやれないことを、彼はやってのけたのだから。
「君はどうしたい?」
やっと、そう訊いた。
「これからどうしたいと思ってる?」
七恵は考えている。
頭の上で、直也のモビールがかすかに鳴った。
「で、仲人《なこうど》は誰に頼むんだ?」
生駒《いこま》は気が早い。取材先を出てから、ずっとその話はかりだった。
笑ってしまった。「まだそこまで考えてないよ」
「俺には頼まんでくれよ。女房に新しい留袖《とめそで》をねだられちゃかなわん」
今年も残すところあと一週間だというのに、世間は相変わらず騒がしかった。下町の方でぶっそうな放火が連発し、その件で午前中から焼け跡行脚をやっている。
「ちょうど昼時だな」と、生駒は時計を見た。「おい、ここからだったら、みどり幼稚園はすぐそばだろ? 七恵さんを呼べよ。俺にいっちょう豪華な昼飯をおごらせてくれや。前祝いだ」
子供たちはちょうど自由時間らしかつた。園の庭いっぱいに、紺色の制服が飛び跳ねている。七恵は同じ色の上っ張りを着て、滑り台で遊ぶ子供たちのそばについていた。
そこだけを別にすれば、以前に見た夢の光景と、そっくりそのままだった。
直也がそばにいるんじゃないか──そんな気がした。
「ほら、ぼうっとしてねえでくれよ。こんにちは」
生駒が手を掘る。七恵はこちらに気がついて、軽く頭を下げながら笑顔を返してきた。
ようやく板につきかかってきた手話で、ただしスピードはきわめてゆっくり、話しかけてみた。
(昼、外に、出られるか?)
七恵は笑って頷き、(ちょっと待ってて)と手を動かした。
「便利なもんだ」と、生駒が笑った。
大勢の子供たち……これからさまざまな人生を歩んでゆくはずの小さな身体《からだ》が楽しそうにはずんでいるのを眺《なが》めているとふと思った。
織田直也は生まれ変わってくるだろうか。
今度はまったく別の人生を。まったく違う──別の道をたどるために。
きっとそうだ──そう思った。楽観的な願いにすぎないものだとしても、そう信じたい。そして、彼がもう一度この世に降り立ってくるときがあるならば、願わくばそれは、もう少し歩きやすい楽なものであってほしい。彼を苦しめないものであってほしい。今度は彼が人の役に立つだけでなく、人に助けてもらうことによっても幸せになれる人生であってほしい。
我々は身体のうちに、それぞれ一頭の龍《りゅう》を飼っている。底知れない力を秘めた、不可思譲な形の、眠れる龍を。そしてひとたびその龍が起きだしたなら、できることはもう祈ることだけしかない。
どうか、どうか、正しく生き延びることができますように。この身に恐ろしい災いのふりかかることがありませんように。
私の内なる龍が、どうか私をお守りくださいますように──
ただ、それだけを。
[#改ページ]
* 冒頭のエピグラムは、スティーブン?キング著「キャリー」(新潮文庫 永井淳訳)より引用したものです。
* この作品はフィクションであり、実在する個人、法人、団体等とは何らの関係もありません。
[楼主] [8楼] 作者:滄炎沁夢2005 发表时间: 2008/04/13 20:18 [加为好友][发送消息][个人空间]回复 修改 来源 删除解説
長谷部史観
本書『龍は眠る』は、一九九一年二月に出版芸術社から書き下ろし刊行され、翌九二年に第四十五回日本推理作家協会賞の長篇部門を受賞した。後でも述べるように、私はこの作品の成立過程において、いささかの関《かか》わりをもっている。そんなわけで、まず個人的な事情を開陳することから始めるのを、お許し願いたいと思う。
受賞式ならびに祝賀パーティーは、東京の飯田橋のホテルで行なわれた。招待状を貰《もら》って駆けつけた私は、スポットライトを浴びて祝福されている宮部さんの姿を、遠くから口を開けて眺《なが》めていたものである。ちなみにそのときには、まさかその翌年に私自身が壇上に立たされることになろうなどとは、夢にも思っていなかった。単にこの作品が受賞作として評価されたことに対して、自分なりにささやかな満足感を抱いていたのである。
すでにいろいろなところで活字になっているので、今さら繰り返す必要はないかもしれないが、宮部さんのデビュー作は一九八七年にオール讀物推理小説新人賞を受賞した「我らが隣人の犯罪」であった。同じ年には「かまいたち」によって、新人物往来社の歴史文学賞で佳作の座も射止めている。周知のように現在の宮部さんは、推理小説の作者としても、また時代小説の作者としても存分に活躍しているわけだが、そうした多才ぶりは、すでにデビューの時点で実証ずみであった。
しかるに、小説雑誌主宰の新人賞という難関をくぐり抜けても、ただちに新進作家としての道が自動的に与えられるわけではない。そこから先は、やはり自力で切り拓《ひら》かなければならないのである、今や押しも押されもしない人気作家として、衆目の一致する宮部さんの場合とて、実のところわずか数年前には苦闘の日々を歩んでいた。
振り返ってみると宮部さんの作家活動には、いくつかの節目が思い浮かぶ。前に挙げたオール讀物推理小説新人賞と歴史文学賞に始まり、八九年に『魔術はささやく』によって日本推理サスペンス大賞を受賞した。さらに九二年に『本所深川ふしぎ草紙』で吉川英治文学新人賞、そして本書『龍は眠る』で日本推理作家協会賞を受賞し、翌九三年には『火車』による山本周五郎賞受賞と続く。まさに順風満帆といった様子だが、宮部さんに最大の転機をもたらしたのは、何といっても『魔術はささやく』であろう。
たまたま私は、作家としてデビューする以前の宮部さんと面識があった。そもそも小説を書こうと志した心意気や、修行時代の苦労話の数々も聞いている。たとえばステイーヴン?キングの作品への人気が、まだ日本では爆発していなかった段階で、いつかはこのようなものを書いてみたいという心情の吐露も耳にした。それゆえ、オール讀物推理小説新人賞を受賞した際にも、早々に電話で報告を受けている。むろん偶然のなせるわざに相違あるまいが、私は宮部さんが作家として旅立つ局面に立ち会う仕儀となった。
あれは、一九八八年のころのことだったであろうか。ちょうどその年には、日本推理サスペンス大賞がスタートしている。記念すべき第一回は、乃南《のなみ》アサ氏の『幸福な朝食』が優秀作と決まり、秋に催された受賞パーティーの会場には宮部さんの姿も見られた。それ以前にも、同賞に応募してみたいとの意向をもらしていたが、決意を固めたのはたぶんこのころだったのではないかと思う。その会場で私は、冗談まじりに宮部さんに「来年は向こう側に立って下さい」と言ったような覚えがあるが、冗談ではなくなってしまった。
正確な日付は記憶にないが、明けて八九年の春まだ浅いころ、私は宮部さんと出版芸術社の社長との仲介役を買って出ている。待ち合わせ時刻に現れた宮部さんは、重そうな紙袋を手に下げていた。中身が何かといえば、実は後の『魔術はささやく』の草稿の束である。かなり前に脱稿して、さる出版社の編集者に預けたままになっていたのを返してもらい、推蔽した上で第二回日本推理サスペンス大賞に応募する予定だとのことであった。誤解を避けるために書き添えると、後に名作と呼ばれるような作品の草稿を手にしながら、ついに本にすることができなかった編集者の鑑識眼が曇っていたなどというつもりは毛頭もない。一冊の本が書かれてから書店の店頭に並ぶまでには、一般の読者の想像を絶するほど多くの人間が携わっており、小規模ながら一つの事業にひとしい。それゆえつねに産みの苦しみがつきまとい、最先端部分に位置する著者や編集者は、ときとして悔しい思いを味わう。誰のせいというよりは、経済構造上の宿命のようなものであろう。