饭饭TXT > 海外名作 > 《龍は眠る/龙眠(日文版)》作者:[日]宫部美雪/宫部美幸/宮部みゆき【完结】 > 龍は眠る.txt

第一章 遭 遇.2

作者:日-宫部美雪/宫部美幸/宮部みゆき 当前章节:15405 字 更新时间:2026-6-16 01:47

 現場では、さきほどまでと同じように、大勢の男たちが、マンホールを囲んで右往左往している。バトカーのライトが点滅し、誰かがひっきりなしに無線に応対している。「子供を生還させる」ということだけが目的ならば、すべてが最初から空《むな》しかった。

 投光器がまぶしいので、目をそらすと、マンホールからいちぱん遠く離れた場所に停めてあるパトカーの後部座席に、寄り添い合っている頭をふたつ見つけた。警官は乗っていない。私はそっと近寄っていって、窓を叩《たた》いた。

 望月夫妻だった。妻の方は顔を伏せていて、夫にしがみついている。望月雄輔は私を振り仰ぎ、窓ガラスを下げた。目がうつろだった。

「まだ発見できないようです」

 私は黙って頷いた。と、女が頭をあげて、私の方へ乗り出してきた。

「落ちてないってことも考えられるでしょ?」

 彼女の手は夫の腕をつかんでおり、指の関節が白く浮いていた。パジャマに似たスエットウェアの上に、しゃれた肩章《けんしょう》つきのレインコートという、子供の身に変事が起こったときの母親にだけ似合う格好をしていた。顔は涙に濡《ぬ》れ、目は充血して、身体がぶるぶる震え、いくらかろれつが怪しかった。無論酔っているのではなく、パニックに叩きのめされて、コントロールを失いかけているのだった。

「誰も見てたわけじゃないんだもの。あの子、落ちてないかもしれないでしょ? 違います?」

 私は女の顔を見つめ、目をそらしている彼女の夫の横顔を見つめ、それから言った。

「ええ、そうですね、奥さん。その可能性はあります」

「そうよね?」そう言って、女は急に空気が抜けたようになった。「あの子......ちょっと目を離した隙に出ていっちゃって......」

 夫が彼女の背中を撫《な》で、「おまえのせいじゃないよ」とつぶやいた。

 私は小声で訊いた。「ペットの猫を探そうとしていたそうですね」

 望月雄輔はのろのろと頷《うなず》いた。「大輔が可愛がっていたんです。動物は嵐を避ける方法を知ってるから大丈夫だって言ったんですが、子供のことですから、心配でしょうがなかったんでしょう。女房の目をぬすんで、一人で外へ出たらしいんです」

「子供はペットを可愛がるし、人間と同じように扱いますからね」私は慎司の言っていたことを思い出した。「モニカという名前をつけたのも大輔ちゃんですか」

 望月雄輔は、ちょっと放心した。「モニカ──」

「猫の名前でしょう?」

「いえ、違います」大きく首を振る。それに大事な意味があるとでもいうように。「猫の名前はシロですよ。シロです」

 茫然《ぼうぜん》としていた彼の妻が、低く言った。「大輔は、モニカって名前にしたがってたのよ。だけどわたしがやめさせたの。気取った名前じゃ呼びにくいからって」

 ゆっくりと手で顔を覆《おお》い、頭を抱える。「猫なんか飼わなきゃよかった」

 そしてわっと泣き崩れた。望月雄輔はくちびるを噛んでいる。

 私は(お気の毒です)と言いかけて、やめた。そう言ってしまったら、子供が生きているかもしれないという可能性を全否定することになる。遺体が発見され、子供の死がもう動かしがたい事実となるまでは、誰も彼らを気の毒がってはならないのだった。

「きっと見つかりますよ。きっと」そう言って、私は彼らから離れた。今夜は嘘《うそ》ばかりついているという気がした。

 ちょうどそのとき、地元のテレビ局の中継車が、派手に泥水《どろみず》を跳ね上げながら走ってきて、望月夫妻の乗っているパトカーのそばで急停車をした。彼らがきたところで何の助けになるわけでもなく、彼らの到着を誰が待っていたわけでもないのに、中継車から降りてきた連中はみな、自分たちが、今ここにいる人間たちと行方不明になっている子供にとって、必要不可欠な存在だと信じ込んでいるような顔をしていた。私はうんざりし、気が重くなった。できるだけ彼らの見えない場所にいることにした。

 しばらくして、またさっきの警官の顔を見つけた。道路を封鎖しているロープの側《そば》で、張り番をしている。さすがに野次馬はほとんどいないが、地元の記者らしい男たちが数人、ずぶ濡れになってうろうろしていた。

 あの警官も濡れ鼠になって、ひどく老《ふ》けてしまったように見える。声をかけると、ちょっと顎《あご》を引いて私を見つめた。

「まだこんなとこに──ああ、そうか、あんたもブン屋さんだったな」

「雑誌ですよ」

「どっちだって同じだ。さっきの坊やは?」

「ホテルで寝てるはずです」

「そりゃ良かった。だいぶショックだったようだから」目をしばしばとまたたいて、「俺もこたえてるよ。こういう事件は辛い。子供がからむとな」

 七歳か......と、ため息まじりにつぶやく。

「うちの孫が五歳なんだ。身につまされるよ。なんだってこういうひどいことが起こるんだろうな。あんた、どう思う?」

 警官が多弁になるのは、マスコミをけむに巻こうとするときか、仕事が行き詰まり、疲れて無力感にとらわれているときだ。私のそばにいる警官は今、自分の職業の使命を疑っているかのように、気難しい顔をしていた。

「悪い偶然が重なったんでしょう」

 猫の名前を呼びながら、黄色い傘《かさ》を小さな両手で一生懸命に支え、雨のなかを歩いていく子供の姿が、目に浮かんだ。ひょっとしたらべそをかいていたかもしれない。帰ってこない猫を案じる気持ちと、嵐に怯《おび》える思いとで。

 そんな子が、足元にぽっかり穴が開いていることに気づくはずもない。何が起こったのかさえわからないうちに、闇《やみ》のなかへ落ちていたことだろう。

「小学校で教えるべきかもしれないな」と、私は言った。「横断歩道を信用しちゃいけない。青信号を信用しちゃいけない。道端のマンホールを信用しちゃいけない。とんでもないときに裏切られるから」

「孫にはそう伝えとくよ」と、警官は言った。

 作業は遅々として進まなかった。相変わらず投光器はまぶしく、風は強く、雨はこの世の終わりのように激しく降っていた。たとえ今夜これから奇跡が起こってくれるのだとしても、今のところ、それらしい予兆は何一つ見えていなかった。

 雨がやんだのほ、翌朝の七時ごろのことだった。

 台風は、どうやら、関東地方をその暴風圏の縁にひっかけるようにして通過したらしく、夜中じゅう外に出ていても、「目」に入ったという感じのする時間帯はなかった。吹きまくっていた西風がほんの少し弛《ゆる》んだかと思うと東風に変わり、気がついたら静まり始めていたというところだ。

 雨がやむと、捜索を眺めることは容易になったが、捜索自体は少しも楽にならないようだった。下水に流れこむ水の量はいっこうに減らず、むしろ増してゆくばかりだ。水道局員の一人から、造成したときの手違いか計算違いとかで、この道路は逆|蒲鉾《かまぼこ》形にへこんでいるのだという話を聞いた。だから、道の中央にあるマンホールの蓋《ふた》が開いていれば、そこにどんどん水が流れこんでくるのだ。

 七時半に、警察は、警備に数人の巡査を残して、現場から引き上げることを決めた。捜索計画を練り直し、範囲を広げるのだろう。いよいよ汚水処理場の取水口に網を持ってゆくのだ。

 それを聞いて、私もホテルに引き上げた。この格好のまま誰かを抱き締めたりすると、間違いなく相手は溺死《できし》するだろうと思うほどのずぶ濡れで、歩くとゴム長のなかでがぽがぽと音がした。

 昨夜のフロント係はまだカウンターにいて、やはり従業員らしい中年の女性としきりに話し込んでいたが、私の顔を見ると、さっと立ち上がった。

「見つかったんすか?」

 私は黙って首を横に振った。フロント係はそれとわかるほどに肩を落とし、中年の女性は「ああ、ヤダヤダ」と言いながら奥の通路へ引っ込んだ。

「あのおばちゃん、掃除に来てるパートさんなんすけどね行方不明の子と同じ公団に住んでんだって」

 フロント係はそう言いながら、私がヨットパーカから抜け出すのに手を貸してくれた。

「団地じゅう大騒ぎらしいっすよ。何人か出て捜索を手伝ったらしいけど......みっけたのは猫《ねこ》だけだったって」

 私は思わず彼の顔を見た。「猫が?」

「ええ。シロって名前の」

「生きてた?」

「もちろん。動物ってしぶといもんね」

 望月夫妻にとっても、シロにとっても、「最悪」を絵に描《か》いて額に入れたようなものだ。

「ホントは団地じゃ飼っちゃいけないんだけど、そんな決まり、みんな守ってないっすからね。すごく可愛《かわい》がってた猫らしいっすよ」

「君んとこは? ペット飼ってるか」

「おふくろが、動物はオレだけでたくさんだって」

「じゃ、その猫もらってやれよ」

 きれいに乾かしてもらった衣類を受け取り、私はエレベーターへ向かった。急に、がっくりと疲れた。

 部屋に入ると、慎司は起きていた。というより、一晩中眠らないでいたようだった。

「見つからなかったんですね」

「うん」

 まっすぐバスルームへ行って、浴槽《よくそう》の蛇口《じゃぐち》をひねった。熱い湯に触れると腕に鳥肌《とりはだ》がたち、震えがきた。それほどに冷えきっていた。望月大輔も同じように冷たくなっているだろうなどと考えてしまったので、慎司が呼んでいる声が聞こえなかった。

「なに?」

 彼はバスルームのドアの脇に立っていた。

「チェックアウトは十時だけど、オーナーにバレないかぎりは午後までいたってかまわないって、フロントの人が言ってました。高坂さん、ちょっと寝た方がいいんじゃないですか」

「ひと風呂浴ひれは平気だよ。早く帰らないと、君のご両親だって安心できないだろう。俺も、ずっとここにいるわけにもいかないんだ」

 現場で「アロー」の親元の新聞社の支局員を見つけたので、捜索に進展があったら連絡してくれるように頼んであった。

「天気になったからツーリングして帰るなんて言い出さないでくれよ。俺は君の親父さんに約束しちゃったんだから」

 それで思い出した。「忘れずに自転車を拾いにいかなくちゃな」

「あ、そのことですけど、これから取りに行ってきます」

「場所がわかる?」

「ええ。夜中に、フロントの人に地図を見せてもらったんです」

「だいぶ離れてるだろ?」

「そうでもないですよ。行きは歩いても、帰りは乗ってこられるから、二十分もあれば戻ってこられます。ここにいてください。ちょっちょっと行ってきますから」

 慎司はひどくそうしたがっているように見えて、訝《いぶか》しい気がしないでもなかった。

「そんな手間をかけなくたって、あとで車で行けば──」

「車で行くほうが二度手間ですよ。あと戻りしなきゃならないんだから。いいです、僕行ってきます」

 そう言うと、少しばかりあわてた様子で部屋を出ていった。小さなことではあったが、釈然としない感じで、私は湯気のなかにとり残された。あとになって、彼の口から「どうしてもそうしたかった理由」というのを聞かされたとき、もっと釈然としない思いをすることになるのだけれど。

 風呂に入り着替えを済ませ、いくらか人間らしい気分になって待っていると、慎司が帰ってきた。約束の倍、時間がかかって、四十分ほどたっていた。

 おまけに、ひどく青ざめて見えた。

「自転車、見つからなかったのか?」と尋ねても、反応が返ってこない。日の前でポンと手を鳴らしてやらないとならないかと思った。

 実際にそうする代わりに、腕組みしたまま黙ってじっと顔を見つめていると、突然かくんと首を頷かせ、「ええ、見つかりました」と答えた。僻地《へきち》へ国際電話をかけているときのようなものだった。

「大丈夫か?」

 熱でも出したかと思ってそう訊くと、「何が?」と言う。

「何がって、君がだよ」

「僕? 僕どこかおかしいですか?」

 おかしいところだらけだったが、日は澄んでいるし、ちゃんと背中を伸ばして立ってもいる。

「稲村慎司くん」

「はい」うわの空のようだ。

「元気か?」

「はい」頷いて、口の端でしわしわっと笑った。ちょっと正気に戻りたような感じで、「朝飯、隣のレストランでどうぞ。て、フロントの人が」

「そう」ほかに答えようもなく、私はそう言って立ち上がった。「じゃ、行くか」

 だが慎司はついてこない。ドアのところで振り向くと、まだその場につっ立っていて、さっきまで私が座っていた椅子《いす》の方を向いている。道を歩きながら英単語を暗記している学生のように、頭のなかで何かをこねくりまわしていて、自分がどこにいるか忘れているかのように見えた。口が半分開いている。

 私はその場でしばらく待った。大して長くは待たなかった。慎司はそっぽを向いたまま、唐突に「高坂さん」と呼んだ。

「うん」

 また口を閉じてしまう。私は片手をドアのノブにかけ、片手を腰にあてて、(癲癇《てんかん》か?)と考えていた。

「高坂さん」

「はいよ」

 やや間をおいて、慎司は振り向くと私を見た。

「あの......」

 待っていても先を続けてくれないので、私は眉《まゆ》を上げた。「なんだい?」

 そのとたん、すぐそこまでこみあがっていたものをあわてて飲み込んだように、慎司の喉《のど》がごくりとした。

「ネクタイ、曲がってます」

 拍子抜けしてしまい、すぐにはピンとこなかった。

「え?」

「ネクタイ。よじれてます」

 たしかにそうだった。フロント係がアイロンをかけちがったのか、私のネクタイにはバイアスがかかってしまっていた。

「それを言いたかったの?」

「うん」

 嘘だとわかった。どんな鈍い人間でもわかるだろう。慎司はネクタイなんかと違うことを話したがっているのだ。

「ほかには? 俺《おれ》がズボンをうしろまえに穿《は》いてるようだったら、廊下に出る前に教えてくれよ」

「ほかにはないです」

 そう言って、ドアの方へやってきた。方向を見失ったような表情が、ひとまずは消えていた。なんにせよ私は何かをつかみ損ねたようだった。

 レストランは細い路地をへだててホテルと隣り合っており、建物のくたびれ加減では、ホテルの方が判定勝ちという感じがした。ボックス席が四つとカウンターがあり、十四インチのチャンネル式のテレビが一台、その端に鎮座してニュースを映している。壁ぎわのボックス席がふたつ埋まっていて、ひとつには男女の二人連れが、もうひとつには、男が二人向きあって座っていた。

 窓のそばのボックスに座ると、ちょりとびっくりするほど若く、美人のウエイトレスがメニューを持たずにやってきて、「モーニングは一種類しかないんだけど」と言う。

「そうらしいね」

 客はみな同じような料理をつついている。

「でも、コーヒーはお代わり自由よ」そう言ってにっこりし、「お客さん、ネクタイが曲がってる」

 面倒なので、私はネクタイをほどいてポケットに押し込んだ。斜向《はすむ》かいの席に座っている慎司は、ちょっと目を動かしただけで何も言わなかったし、笑いもしなかった。

 いったん消えたウエイトレスは、すぐに熱いコーヒーをふたつ持って戻ってきた。これは有り難かった。彼女はカップをテーブルに置くと、少し身を乗り出して声をひそめた。

「お客さん、『アロー』の人なんでしょ?」

 驚いた。

「なんでわかるの?」

「ヒバちゃんに聞いたの。ね、あっちのテーブルにいる男の人たちも、どっかの記者みたいよ。ライバルでしょ? なんか聞き出してあげようか」

 私は肩ごしに壁ぎわの二人組を見た。知らない顔だ。

「聞き出すって、何を?」

「スクープよ。マンホールの事件のこと」

 一瞬本気になった。「子供が見つかったとでも言ってた?」

「ううん」ウエイトレスはますます声を低め、私に顔を寄せてきた。「でも、記者の人たちって、こんなときは探り合いするんでしょ?」

 目刊紙の記者は、だ。

「探り合うものがあればね」

「任せてよ」

 厨房《ちゅうぼう》の方から呼ばれて、彼女はいそいで立ち去った。慎司がそれを見送っている。

「テレビドラマの観《み》すぎだな」

 私が言うと、ぼんやりとした視線を向けてきた。

「彼女、カバーガールにスカウトしてくれないかって言ってきますよ」

「まさか」

「ホントです。わかるんだ」

 真面目《まじめ》な顔でそう言うと、目のまわりを指でごしごしこする「僕、たががはずれちゃったみたいだ」

 独り言のように聞こえたので、私は黙っていた。すると、慎司は目の縁を赤くして、早口に、書かれたものを読み上げるような調子で言った。

「ヒバちゃんていうのは、あのホテルのフロントにいた人のあだ名ですよ。顔がヒバゴンに似てるからって。あのウエイトレスさんは、ときどきあの人とデートしてて、お金のないときはあのホテルの102号室を使ったりしてる」

 私は笑った。「昨夜《ゆうべ》、よっぴてフロント係としゃべってたのか?」

 慎司は首を振る。「あの人には、地図を見せてもらっただけです。でも、わかるんだ」

 今度は私の方が方向感覚を失《な》くしたような気がしてきた。

 慎司は目をあげて、私が口を開く前に、おっかぶせるように言った。「ちょっと待っててください。今考えをまとめるから。僕、今までこんなふうになったことないんで、どうしたらいいか──」

 膝《ひざ》の上で両手をおろおろと動かしている。私はテーブルの上に手を置いて、彼の顔をのぞきこんだ。

「わかったよ。なんだかわからないけど、わかった。だから落ちつきなさい」

 震えるように小刻みに頷《うなず》いて、慎司はつぶやいた。

「僕、オープンになっちゃったらしい。こんなこと初めてだ」

 私もこんなに困惑したのは初めてだった。昨夜ははきはきした少年に見えたのに、精神的なトラブルでも抱えているのだろうか。

 ウェイトレスが皿を運んできた。友達に内緒話を打ち明けにゆく女の子のように、くちびるがほころんでいる。皿を置きながら、さっきと同じように接近してきて、ほとんど囁《ささや》くような声で言った。「あっちは東京日報だって」

 息のなかに、甘いガムの香りが混じっている。私も調子をあわせて囁いた。「連中、どんなことをつかんでた?」

「マンホールに落ちた子は、ペットの猫を探してたんだって」

「そう。ほかには?」

「お父さんは市役所の住民課に勤めてるらしいわよ」

「へえ」

「気の審に、お母さんは半狂乱になっちゃってて、病院につれていかれたみたい」

 全部承知していることばかりだったが、私は感心してみせた。「凄腕《すごうで》だな」

 ウエイトレスは、ブラウスの襟元《えりもと》から胸がのぞけそうなほど近くへ寄ってきた。

「役に立つ?」

「ああ。親切だね。でも、向こうの方が大手だぜ」

 彼女はにんまりして私のワイシャツの衿《えり》をはじいた。「あたしはいつだっていい男の味方よ」

「それはそれは」私は笑った。「でも、うちはグラビアに素人《しろうと》の娘は使わない」

 ウエイトレスはゆっくり起き上がった。「なぁんだ」

「悪いね」

「なんでわかったの? 人が悪いったらありゃしない」

 くるりと回れ右する彼女のエプロンのポケットに、指をひっかけて引き止めた。思いついたことがあった。

「悪いついでにもうひとつ。彼ら、子供の探してた猫の名前を知ってるかな?」

 彼女はくるりと目を動かした。「さあね」

「訊《き》いてみてくれる?」

 彼女の頭のなかの計算器が動いた。「チップ?」

 私が頷くと、彼女はぶらぶらとした足取りでテーブルから離れた、これだから、「いい男」などと言われて喜んではいられない。

 ウエイトレスの様子を見ていると、大きな銀色の水差しを手に、東京日報の二人の記者のテーブルに近付いてゆく。お冷やを足しながら、二、三こと言葉を交わし、記者の一人を笑わせてから、そこが定位置であるらしいカウンターの脇に戻ると、水差しを置いた。

 今度は近づいてこなかった。その場で声を出さず口だけ動かして、「し、ろ」と言った。私は軽く片手をあげた。

「猫の名前はシロだ」

 慎司は両腕で身体《からだ》を抱えるような格好をして、目だけ動かして私を見た。

「君は、モニカって名前だと言ってたよな」

「あの子がそう呼んでたからです」

 だが昨夜は、警官がそう言っていたのを聞いた、と話していた。私は身を乗り出した。

「なあ──」

 慎司は出し抜けに立ち上がりかけた動作はのろのろしていた。

「気持ち悪くなっちゃった」

 また蒼白《そうはく》になっていた。コンパで飲みすぎた大学生のようだった。両手で胃を抱え、椅子をがたがたいわせながら通路へ出ると、店の外へ出ていこうとする。さっきのウエイトレスが驚いた様子で走ってきて、彼の背中に手を置いた。私も立ち上がっていた。

「気分悪いの?」

 慎司の顔をのぞきこんでから、ウエイトレスは、あんたのせいだという目で私をにらんだ。私はただ驚いていて、木偶《でく》の坊《ぼう》よろしく彼女を見返すしかなかった。

「トイレ、どこですか?」

 慎司は苦しそうで、額に冷汗が浮いている。

「あっちよ」

 ウエイトレスがカウンターの左手のドアを示すと、慎司はよろよろ歩きだした。手を貸そうとして近寄ると、「触らないでください」と言われた。

「大丈夫です。すぐ治ると思うから、待っててください」

 その声には、こちらが思わずひるんでしまうほどの強い意志がこもっていた。私もウエイトレスも手をひっこめた。慎司はドアの向こうに消えた。

 それなりに痛い目にあいながら生きてきたつもりだが、誰かから「触らないでくれ」という言葉で拒絶されたのは、初めての経験だった。思いがけないほどショックを受けることだった。ウエイトレスも同じ気持ちのようで、唖然《あぜん》としている。

「触らないでなんて初めて言われたわ」

「そう?」

「そうよ。『触らないでよ、このエロじじい』って怒鳴ってやったことはあるけど」

「そりゃ、痴漢だろう?」

「ううん。キャバクラで」

「それじゃ商売になるまい」

「だからウエイトレスなんかやってんのよ」

 彼女はぷりぷりしながら行ってしまい、私は間の抜けた思いで椅子に戻った。東京日報の配者たちもこちらを振り向いていたが、やがて興味なさそうに背を向け、一人が伝票をつかんで立ち上がった。

 モーニングのトーストもスクランブルエッグも冷めかけており、サラダは水っぽくなり始めていた。手をつける気にはなれなかった。いささか不安にもとらわれていた。切実に煙草《たばこ》が欲しかったが、どうにかこらえて、代わりにコーヒーを飲んだ。

 慎司は戻ってこない。

 もうひと組みの男女も席を立ち、店を出て行く。十四インチの映りの悪いテレビでは、ニュースが始まった、そのとき、私は自分がとんでもない馬鹿《ばか》だったことに気がついて、あのウエイトレスを驚かすほどの勢いでカップを置いた。

「お客さん?」

 今度はあんたがヘンになっちゃったの? という顔をして、二、三歩こっちに近寄ってくる。私は口がきけなかった。

 彼か?

 彼がやったのか[#「彼がやったのか」に傍点]?

 閉じたままのトイレのドアに目をやった。ウエイトレスが両手で肘《ひじ》を抱いてこちらをうかがっている。

「なんでもないよ」私はゆっくり言った。「どうもね」

 彼女は首をかしげ、厨房に入ってしまった。もう絶対に関《かか》わるもんかと決めたらしい。

 それでいい。知られない方がいいと思った。

 慎司が、あの子がマンホールの蓋《ふた》を開けておいたのだ。どんな意図があってのことなのか、ちょっとしたイタズラだったのか、それはわからない。だが彼は蓋を開け、あの場を離れ、雨のなかをさまよっているうちに、黄色い傘《かさ》をさして、「モニカ」という名を呼びながら歩いていた小さな子供を見かけた。子供は人が猫《ねこ》を呼ぶときにそうするように、舌を鳴らしたり鳴き真似《まね》をしていたかもしれない。だがそのときはなんとも思わなかった。そのときは。

 慎司は道に迷ってうろうろしていたに違いない。私の車に乗り、たまたまさっきマンホールの蓋を開けてきた場所へさしかかった。私が車を停《と》める羽目になり、黄色い傘を見つけ、それで初めて、慎司も、自分がしたことが何を引き起こしたのかを知ったのだ。

 私は思い出していた。黄色い傘を渡したとき、彼が心臓発作でも起こしたかのような様子だったことを。

「犯人はつかまるかな」と、暗い顔で訊いたことを。一晩中寝ていないらしいことも。そして、自転車を取りにいくと行って出かけ、真っ青になって戻り、それから様子がおかしくなったのだ。

 あのとき、たぶん、あの子は現場へ戻っていたのだ。戻らずにはいられなかったのだろう。そして今も、罪悪感に堪えかねてとり乱しているのだ。

 そのとき、トイレのドアが開いて慎司が出てきた。粘土さながらの顔色だったが、身体ほまっすぐ伸ばしていたし、よろめいてもいなかった。

 私は近づいてくる彼を目で追いかけ、彼が椅子に戻っても、まだ見つめていた。慎司が顔を上げたので、まともに視線があった。

 ちょっとのあいだ、彼は私の目の裏をのぞきこむような顔をしていた。文字どおり、「のぞかれた」という気がした。試験でカンニングをしようとしていて、ふと顔をあげると監督官がじっとこちらを見ていた──というときのようだった。わかっているぞ、おまえの頭のなかの考えは全部筒抜けだ。やめておきな。

 やめておきな。

 だが、私は言った。「君がやったんだな?」

 慎司は黙っていた。だが、目のあたりに漂っていた緊張感がふっと抜けたようには見えた。私はビンゴをあてたのだと思った。

「そうじゃないかって、今気がついたんだ。俺《おれ》も抜けてるよ。そうなんだな?」

 柄《がら》にもなく慈父を気取って優しい声を出していただが、慎司は首を横に振った。

「違う」

「違うって......」

 驚いたことに、彼はやんわりと笑った。肩から力を抜き、大きく息を吐いて。

「違うんです。ちぇ、こういうふうになっちゃうんだな。可笑《おか》しいな」

「何が可笑しい?」

 もう一度かぶりを振ると、慎司はしゃんと首を立てた。

「出ましょう。静かな場所で、ちゃんとお話ししたいことがあるんです」

 私はガラガラの店内を見回した。「ここじゃ駄目《だめ》なのか?」

「僕、今、オープンになっちゃってるから、いろんなものが入ってきちゃってしんどいんです。ほかに人のいないところへ行きたい」

 理由のわからないまま、我々は外へ出た。私も動転の一歩手前くらいの気分になっていたので、ウエイトレスに約束したチップを忘れた。彼女は窓際《まどぎわ》に立って、胸のあたりで腕を組んだまま、ふくれっ面《つら》でこちらを見送っていた。あかんべいをされないだけ、まだましだったのかもしれないが。

「手を貸してください」と、慎司は言った。

 我々はレストランから離れ、しばらく歩いて、道路沿いの広々とした造成地に出ていた。辺りには人の気配がなく、ブルドーザーが二台、中途|半端《はんぱ》にシャベルをもたげて止まっていた。空気には雨と泥《どろ》の匂《にお》いが混じっていた。

 慎司は無言で私の先に立って歩き、「ここならいいな」と言って、ビニールシートをかけられた建築用材のなだらかな山の端に腰をおろした。そして、手を貸してくれと言ったのだ。

「もちろん、貸すさ。俺にしてあげられることがあるなら」私は答え、ズボンのポケットに両手をつっこんで、彼を見おろした。

 彼は苦笑した。「そうじゃないんだ。うん、手伝ってももらいたいんだけど今はそうじゃなくて、本当に言葉どおり手を貸してほしいんです。手を出して、と言えばいいのかな」

 私にはまだ意味がつかめなかった。すると慎司は、少し困ったように間を置いてから、

「こう言えばいいんだ。高坂さんの手を握らせて」

 さすがに、私は少しひるんだ。慎司は笑みを浮かべているが、冗談を言っているようには見えなかった。目は真剣だった。

「俺の手を?」

「そうです」

 私はポケットから右手を出し、手のひらを広げ、ちょっと見つめてから、彼の方に差し伸べた。「女の子を口説くときは、もうちょっとましな台詞《せりふ》を考えた方がいいぞ」

 慎司はゆっくりと私の手を握った。握手するような形で。彼の手の方が小さく、女の子の手のように暖かく、すべすべしていた。

 そのまま、彼は私から視線をそらし、造成地全体を見回すかのように遠い目をして、くちびるを結んだ。肩が一度大きく上下し、息がもれ、そして私は、彼がそこから──

 そこからいなくなったように感じた。

 すぐ目の前に座っているのに、彼の発している人の気配、体温、息遣いがすべて消えたように感じた。あとになってこの時のことを思い出し、うまい表現を見つけようとしてみても、それしか浮かばなかった。慎司はそこからするすると抜け出して、私の立っているこの場所とは座標のずれたところへ消えてしまったかのようだった。

 同時に、私自身は──小さくなったような感じがした。足元にあるはずの地面の感触も、顔を撫《な》でてゆく台風の名残《なごり》の風も、ひどく鈍く、離れたところにあるもののように感じられ、しかもまだぐんぐん遠ざかってゆく。まるで、表皮のすぐ下の神経の末端だけを残して、自分の実体が自分の内側にすうっと吸いこまれてゆくかのように。

 速く、かすかに、車の行き交う音が聞こえてくる。どこかで水が流れている。

(道路が近いんだ。まいったな誰か通りかかったら)

 カン高い子供の笑い声が響き、すぐ消えて、誰かが車のドアをポンと閉める音がする。

(どんなふうに見えることやらどんなふうに)

「子供の時に──」

 慎司が口を開き、私の知らない歌をうたって聴かせようとしているかのように、軽く抑揚をつけて、言い始めた。

「子供──十歳──十一歳かな......学校で決められた肩掛け式の白いカバンを下げてる......でも中学生じゃない......そのころ、交通事故に遭ったでしょう......」

 ぎくりとして、私は目を見開いた足元がしっかりして、慎司の声と一緒に、周囲の雑音も現実の距離に戻ってきた。

 だが、彼はまださっきと同じように、半ば醒《さ》め、半ば夢見ているように視線を浮かして、私の手を握っていた。少し長めの前髪が風に乱されて額にかかり、急に子供っぽい顔に見えて──

「トラック──ダークグリーンのトラックだ。二トン積みの。材木を積んでる。四つに割られた材木で、まだ木の皮がはがしてなくて、切り口から脂《やに》が垂れて固まってる。細い道で──三叉路《さんさろ》で──友達と一緒で──赤いTシャツ──巻き込まれるなんて思ってなかった。離れて立ってたから──立って眺《なが》めてたんだけど、だけど──」

 私の首筋に鳥肌《とりはだ》がたった。今の慎司の様子にいちばん近いものは、覚醒剤《かくせいざい》中毒患者がラリッているとき──「ブッ飛んでいる」とき──薬の与えてくれる柔らかな銀色の幻のなかにひたりこんでいるときの、あの顔。

 本能が危険を報《しら》せ、私は手を引っ込めかけた。が、信じられないほど強く握られていて、びくともしなかった。さながら接続されたかのように。

 不意に慎司の声のトーンが高くなり、たしなめるような調子の、いくぶん震えたものへと変わった。

「だから言ったでしょう? 大きなトラックに近づいちゃいけないって。巻き込まれるから。後輪は前輪よりずっと大きな軌道を描いて回るんだからだから言ったでしょうあれほどあれほど──」

 信じられなかったが、それは私の記憶の底にある母親の声に似ていた。私が十歳のときの母。今より二十年以上も昔の、まだ毎日きちんと薄化粧をしていたころの母。その母の声が慎司の声になり、私の頭のなかで聞こえている母の声と共鳴して──

「だけどそれほどひどい怪我《けが》じゃなかった」慎司は彼の声に戻って続けた。「入院だって一ヵ月ぐらいで済んだ。どうしてかって言ったら子供の骨は──やわらかいから。やわらかいんだよまるでチーズみたい」

 そう言って、彼は軽く舌打ちをした。確かどこかで誰かがこんな癖を持っていた。もうずいぶん昔に、覚えていないほど昔に見た記憶があった。慎司はその誰かが我々二人の共通の知り合いであるかのように、その誰かの仕草を真似して私を笑わせようとしているかのように、いとも気やすい調子で舌打ちをした。

「でもいまだにトラックは苦手だし、道路で並んだりすると避けちゃうんだ。折れたのは左足の脛《すね》だけど、グリーンのトラックを見るとそれが勝手に逃げだすって──言ったことがあるでしょ誰かに──誰かに──その人は──サエコ──」

 そこで慎司は唐突に私の手を離した。ほとんど振り払うような激しい動作で、はずみでビニールシートの上からずり落ちそうになった。

 ただその場にじっと立っていただけなのに、我々は二人とも息を切らしていた。用意どん[#「用意どん」に傍点]でどこかへ走り、どちらが早くここへ戻ってこられるか競走していたかのように。日頃《ひごろ》はどこにあるか意識することさえない心臓がにわかに自己主張を始め、胸の内側を乱打していた。

「いったい──」

 私は左手の甲を押しあて、顎《あご》の震えを押さえて言った。「いったい、今のは何の手品だ?」

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