慎司はようやく座りなおし、何度か唾《つば》を飲みこみ、辛《つら》そうに空咳《からせき》をした。
「僕もびっくりした」私の手を握っていた右手を見つめ、「火傷《やけど》したみたいだった。こんなこと、初めてですよ。今日は初めてがいっぱいだ」
「初めて──」
「過負荷になったのかな......。僕が踏み込みすぎたのかもしれないけど......」
私は一歩踏みだした。相手がこれほど華奢《きゃしゃ》な少年でなければ、襟首《えりくび》をつかんでしめあげているところだった。
「いったい何を言ってるんだよ?」
慎司は落ち着きを取り戻し、邪気のない目で私を見上げた。
「今僕の言ったこと、当たってたでしょう?」
「何を──」
「教えてください。当たってたでしょう?」
妥協を許さない質問だった。妥協のしようがなかった。当たっていたから。
私は頷《うなず》いた。「たしかに、俺は子供の頃にトラックに櫟《ひ》かれたことがある。バックしてくる後輪に巻き込まれたんだ。学校の帰りに、家の近くの三叉路で。自分ではよく覚えてないけど、材木を積んだトラックだったって、あとで聞いたよ」
「そのときは、荷台の材木をちゃんと見てたはずですよ。残ってたもの」
「残ってた?」
「高坂さんの記憶のなかに」
私は一瞬言葉を失《な》くし、なんということもなく両手を広げた。「俺の?」
「そう」
「俺の記憶に?」
「僕が読んだんです。ちょうど──フロッピーから情報を読み出すみたいにね」
私は声をあげて短く笑った。まるで笑い声に聞こえなかった。
「まさか」
「できるんです、僕には」
慎司は立ち上がった。私は無意識に一歩あとずさった。すると、彼は両手を背中に隠した。
「もうやりません。だから大丈夫ですよ。僕だって、こんなにまともにやってみたことはあんまりないんだ」
「やってみるって、何を?」
「今みたいなことを。僕はそれを『スキャン』って呼んでる。CTスキャンの、あのスキャンですけど」
小さくため息をついて──
「めったにやらない。すごく辛いし、嫌《いや》らしいことだから。でも今はしょうがなかったんです。こうでもしなきゃ、信じてもらえないだろうから」
「何を信じてもらいたいんだ?」
ふらふらっと二、三歩私から離れて、慎司は意を決したように振り向いた。
「高坂さん、超常能力者《サイキック》って言葉を聞いたことがありますか?」
私は棒立ちになっているだけだった。
「言葉は知らなくてもいいんだ。僕を知ってもらえればいいんだもんね。だって──」
慎司はわずかに哀れむような目をした。
「僕がそうなんだから」
あとあとになって、慎司と二人きりで話す機会に恵まれたとき、彼の目に、この時の私がどれほど馬鹿みたいに見えたかを尋ねてみた。すると彼は笑って答えた。
「そうだな......たとえるとね、お医者さんに『あなたは妊娠してます』って宣告されたみたいな顔をしてましたよ」
その表現は当たっているかもしれない。だが、ただ妊娠を告げられただけでなく、ちゃんと悪阻《つわり》まで感じているような顔だったと言った方が、より正確だろう。笑ってごまかして「冗談だろう?」と言いながらも、身体《からだ》では──本能に忠実なごまかしの効かない部分では、無視しようのないものをつかんでいたのだった。
だがあの時、その場では、その感情は無意識の下に隠れていた。意識の上では、私が驚いたのは、いきなり「小枝子《さえこ》」という名前が出てきたことに対してだった。忘れようとしており、忘れたつもりになっており、時間的にも距離的にも遠く離れてしまっている彼女の名前が、まったく彼女を知るはずのない、通りすがりの少年の口から出てきたことにだった。
彼が自分をサイキックだと言ったことを、まともに信じたから驚いたのではない。あるはずのないところからあるはずのないものが出てきたから、単純に驚いたのだ。そして当然の成り行きで、私はその裏を読もうとし始めていた。
驚愕《きょうがく》から立ち直って最初に耳に入ったのは、「座ります?」という慎司の声だった。
「そうした方がよさそうな顔してる」
「いや、いいよ」私は首を振った。なにがなし意地になっていたのかもしれない「大丈夫だから」
「そう。じゃ、僕が座ります」慎司はそうして、またビニールシートの上に腰をおろした。
「膝《ひざ》ががくがくするんだ」
そうしてしばらく私を見上げていた。我々のどちらも、どう話を始めたらいいのか途方にくれていたのだろうと思う。私は大人の──常識人の分別を取り戻そうとしてもがいており、慎司は黙ってそれを見ていた。
やがて、彼は泣きだしそうな表情になった。
「ごめんなさい」両手で目を押さえた。「本当にごめんなさい。凄《すご》く痛いところを突いちゃったんだね?」
「何が......?」
「サエコって人の名前でしょ? 高坂さんをそんなに動揺させたのは」
ややあって、私は深いため息をついた。「それは、べつにサイキックでなくてもわかることだろうな。これだけ顔に出てちゃ」
笑ってみせた。なんとか冷静に、面目にかけて冷静にならなければならない。そう思った相手はたかが子供じゃないか。
「古い知り合いの名前だよ」と、私は言った「もう昔の話だ。いきなり出てきたからびっくりしたけど」
「知り合い......」
慎司は意味ありげに繰り返したが、あとを続けようとはしなかった。明らかに遠慮しているのだった。
こちらも手の内を見せなければ、インチキを暴《あば》くことはできない。その時の私はそう考えた。だから強がりを捨て、正直になろうと思った。そうすることでもっと強がっていたのかもしれないが。
「別れた恋人の名前だ。婚約してた。でも、事情があって破談になってね。今は別の男と結婚してるはずだ。子供もいるんじゃないかな。当然だけど、居所は知らない」
「わかりました」慎司は頭を抱えるようにして頷いた。「もう二度と訊いたりしません。約束します。絶対、絶対」
あまりにも厳粛なその誓いには、かえって私をひるませるものがあった。俺《おれ》はそれほど彼女に未練を残しているんだろうか? まだ忘れられないでいるのだろうか? 不用意に彼女の名前を口に出した少年を、これほど深く後悔させるほどに?
ひどく情けなく、惨《みじ》めな気がした。だから言葉が荒くなった。
「なぜ彼女の名前を知ってた? 遠縁の親戚《しんせき》だって白状するなら、早い方がいいぞ」
慎司は顔を上げ、充血した目で私を見た。「そんな馬鹿《ばか》なことがあるはずないでしょう?」
「どうかな。もし君が彼女を知ってるんなら、俺の子供のころの思い出を言いあてることぐらい簡単だろ? 彼女にはいろいろ話したからね」
記憶のひとつが不愉快な勢いで浮上してきて、脳裏を横切った。あやうく口に出してしまいそうになるほどくっきりと。(そうだよ初めて彼女と寝たときに左足の脛の傷跡はなんだと訊かれたから教えたんだ)
「話せよ」と、私は低く言った。腹立ち始めていた。
「言えよ。どういうペテンだ? なんの目的で俺に近づいてきた?」
つかのま、慎司の顔から表情が消えた。
「ペテン[#「ペテン」に傍点]?」
「そうさ」
「どうして僕があなたをペテンにかけるんです?」
「だからその理由を聞かせろって言ってるじゃないか」
私ははっきりと怒気を表わし、意地悪にさえなっていた。だが彼は挑発に乗らず、座ったまま平べったい声で言った。
「ペテンなんかじゃない。僕が好きこのんでこんなことをやってるんだと思ってるんなら、あんたこそ石頭の大馬鹿だ」
「なんだと?」
驚かされたことの反動で、頭に血が昇った。踏み込んで慎司の胸ぐらをつかみかけたが、ぎりぎりのところで自制できたのは、彼の口の端に薄い冷笑が浮かぶのを見たからだった。
「僕に触らない方がいいよ」尻込《しりご》みしながらも、慎司はゆるゆると首を振った。「またスキャンされたくないなら」
この時の彼の顔を、今でもよく覚えている。抑えても抑えても、意図しなくてもにじみ出る優越感。上から見おろしているような、勝ち誇った表情。それこそが、彼らと我々のあいだを隔てているぶ厚い壁なのだと、今ならわかる。
「そんなもの信じられないね」吐き捨てて、私は慎司に背を向けた。
「じゃ、話を聞いてください。それから信じる信じないを決めればいい。あなたはジャーナリストなんだ。欠席裁判はするべきじゃない」
「生意気な......」
「そうですよ。僕は生意気だ。だけどペテン師なんかじゃない!」
初めて慎司は声を張り上げた。私は奥歯を噛《か》みしめながら振り向いた。
「聞いてください」
慎司はまた弱々しくなり、十六歳よりもっと年少の子供に戻ってしまったかのように、小さく見えた。
「僕自身、どうしてこんな力を持って生まれてきたのかわからない。はっきりと、自分には人の心を読むことができるんだって意識したのは、小学校の五年生くらいのときでした。先生が次に誰をあてるのか、いっつも知ることができたからね」
私は鼻で笑った。「それぐらい、子供ならみんなできるよ。緊張してるからな。第六感ってやつだ。誰だって持ってる」
「第六感で、先生が夏休みに休暇をとってどこに旅行するかもわかりますか? 誰と行くのかも? 生徒の父親の一人とこっそりデートしたことがあって、それをすごくうしろめたく思ってることもわかりますか? 僕たちに掛け算を教えながら、頭のなかでは、給料がもうちょっと高ければ先週見てきた建売住宅を買うことができるのに残念だって、せめてあと三百万頭金を上乗せできればいいのにって思ってるって、わかるんですか?」
沈黙が落ちた。どこか遠くで、クラクションがせっかちに二度鳴った。
「そうなんだ」慎司は頷いた。「僕にはわかった。全部わかった。見えたんです。それに、そんなふうにいろいろわかることが、普通じゃないってこともわかってた。だから凄く怖かった。子供の頃の僕はね、よく教室でおしっこをもらしたり、授業中にトイレに行きたくなって、友達に笑われたんです。それもみんな、怖かったからなんだ。人の考えていることが、言葉で告げられてるみたいにはっきりわかることがね」
ほかにどうすることもなく、私は先を促した。「それで?」
「それで──」慎司はくちびるをなめ、気持ちを集中させるように、目を閉じた。「ある時、もう怖くてどうしようもなくて、父さんに打ち明けた。きっと怒られるだろうって思ってた。だってこれは普通じゃないことだし、子供にとっては普通じゃないことはみんな悪いことなんだから。だけど父さんは怒らなかった。黙って僕の話を聞いて、翌日僕に学校を休ませて、今まで会ったことのない親戚の家に連れて行ってくれたんです」
それは慎司の父の叔母の家だったという。彼女は当時七十二歳で、身寄りもなく一人暮らしをしていた。
「あの時のことは忘れられない。父さんはその叔母さんに、挨拶《あいさつ》も抜きで、いきなりこう言ったんです。『明子叔母さん、どうやらうちの慎司は叔母さんと同しい』ってね」
慎司は目を上げた。「叔母さんは僕を家にあげてくれて、しばらくのあいだ僕の顔を見てた。それでわかったんだ。この力は僕だけのものじゃない、ほかにも持ってる人がいる──。どうしてかっていうとね、叔母さんは一言も口をきいてないのに、僕と話ができたからなんだ。『可哀相《かわいそう》に。いつから始まったんだい?』。そう言ってた。可哀相にって。僕がどれだけホッとしたか、言葉じゃ言い表わせない。叔母さんがいてくれなかったら、僕は今日まで生き延びられなかったよ」
「──生き延びる?」
「そうです」大きく頷く。「僕、思うんだけど、この力を持って生まれてくる子供は、世間の人が考えてるよりも、ずっと多くいるんだ。もちろん絶対数はものすごく少ないけど、それでも、男の子と女の子の双子が生まれてくる確率よりはちょっと下ぐらいの率で存在してるんだと思う。ただ育つことができないんだ。力に押し潰《つぶ》されちゃうから」
「聞いたこともない学説だな」
私は笑ったが、慎司はかまわなかった。真剣そのものだった。
「いえ、力を持って生まれてくる──というのは正確な表現じゃないな。力は誰でも持ってる。潜在的にはね。ただ、たいていの人には、それを表に出す能力が欠けてるんだ。表に出す能力も一緒に持って生まれてくる子供が少ない、と訂正しますよ。そして、両方を併せ持っているのがサイキックなんだ。
「そしてね、僕の場合もそうだったように、サイキックの能力が加速してくるのは、十一、二歳ごろかららしい。第二次性徴期っていうのかな。ほかの能力と同じですよ。芸術的な才能とか、運動能力とかね。それぐらいの歳《とし》になると、子供本人もわかってくる。ああ、僕は人よりも上手にスケッチができるな。駆けっこでは誰にも負けたことがないな。みんなが何度も練習しなくちゃできないことを、一度でうまくやってのけることができるなって。それが才能でしょう? 大人はよくそういうじゃないですか。『この子には絵心がある。親戚の誰誰と同じだ。きっと才能があるんだ、やっぱり遺伝だねえ』なんて」
「おい、ちょっと待てよ──」
「それと同じなんだ」慎司は私を遮《さえぎ》って続けた。「サイキックの能力も、ほかの才能と同じなんです。持ってる人もいれば持ってない人もいる。持ってる人でも、稽古《けいこ》しなければその才能は眠ってしまう。稽古すればうまくなる。たいていはね。
「そして、あるサイキックが持っている能力が小さいものなら、本人が気味悪がったり、周囲の環境が悪かったりして、その力を眠らせてしまったとしても、ちっとも困らない。世界的な画家になれるほど大きな絵の才能を持って生まれてきた人でも、本人がその気にならなければ、一生に一枚も絵を描《か》かないで、平和に幸せに暮らせるでしょう? だけど、あるサイキックが持って生まれた能力が、そんなふうに静かに眠っていてくれないほど大きなものであった場合だけは、そうじゃない。そんなふうに簡単にはいかないんです。本人が必死で努力してそれをコントロールできるように稽古しなくっちゃ、命取りになっちゃうんだ!」
私は呆《あき》れていた。とにかく最後までしゃべらせるしか手がないだろうとも考えた。だから黙って慎司の顔を見つめていたのだが、少年はひどく苛立《いらだ》って、口の端がひくひくしていた。
「僕は明子叔母さんのおかげで生き延びてきたけど、決して楽な道じゃなかった。叔母さんは僕に力をコントロールすることを教えてくれたけど、それだって書き取りを教わるのとはわけが違うんだから、最後には僕自身しか頼りにならないんです」
「コントロールって、具体的にはどうするんだい?」話の方向をしぼるつもりで、質問した。「背中にスイッチでもつけるか?」
「自分が信じられないことにぶつかると、すぐそうやって冗談でごまかすんだ」
私は肩をすくめた。「悪かった」
「明手叔母さんは、僕をKDDの本社に連れていってくれたことがあったんです。パラボラアンテナを見せにね。『慎ちゃん、あんたは頭のなかにこれを持ってるんだよ』。て」
指先でこめかみを軽く叩《たた》いて、
「つまり、僕は受信機なんだ。でっかい受信機。だから、そう、コントロールすることを覚えるってことは、スイッチをつくることですよ。必要に応じて切ったり入れたりすることのできるやつ。気持ちを集中することで、それをやるんです。わかってもらえますか?」
私は足元の泥《どろ》を見つめ、しばらく考えてから、ゆっくりと言った。
「一度、うちで盗聴の特集を組んだとき......」
「ええ」
「自動車電話やコードレスホンは、盗聴のいい標的だって記事を書いたことがある。それを趣味にしてるマニアから取材してね。彼も、電波という電波はみんな拾えると豪語してたし、現実に、まるですぐ隣で会話しているみたいにはっきりと聞き取ることができるんだな」
すべて今なら常識のことだが、そのころはまだコードレスホンが出始めたばかりだったし、私自身、電波関係にはまるで暗い方だから、かなり驚かされたものだった。
「たとえるなら、それみたいなものかな? 周波数さえ見つければ、なんでも聞き取ることができる」
「周波数が合わなくても」慎司は訂正した。「僕が自分のスイッチを入れれば。ただ、発信元の力の強弱で、はっきり聞こえたり霞《かす》んでしまったりすることはあるけど」
「さっき俺にやって見せてくれたみたいに、相手に触らないと読み取れないんじゃないのか?」
慎司は首を振った。「そうでもないんです。どこかに触れた方が確実ではあるけど、そばに立ってるだけでも読み取れることがあります。電車のなかで前に座ってる中年の男の人が、英字新聞を読みながら、頭ではすごく嫌らしいことを考えてるってわかったりね」
「愉快だな」
「たまにはね。たまには」ちょっと笑って、「さっきのウエイトレスさんもそうでした。あの時は僕、オープンになりかけてたから、彼女の考えていることも、すぐわかったんです」
(あたしをグラビアに使ってくれない?)
「その『オープン』てのは? どういうことだい?」
「あれはね」慎司はまだ少しおののいているかのように、くちびるを震わせた。「すごく恐ろしいことです。舵《かじ》をとれなくなっちゃうことだから。スイッチがきかなくなって、なんていうのかな、『来るものは拒まず』になっちゃうんです。なんでもかんでも全部聞こえてくる。まるで津波ですよ」
「どういうときにそうなる?」
「僕は今日が初めてだったけど......動転したり、身体《からだ》が弱ってたり......」首をかしげて、「よくわからないなとにかく、能力が暴走しちゃうんです。制御がきかなくなる」
私は、さっきのレストランでの状況を思い浮べた。
「それは、肉体的にも辛《つら》い?」
「ええ。そりゃもう。いちばん負担がかかるのは心臓かな」
「じゃ、『オープン』でなくても、あんまりしばしばスイッチを入れてると──」
慎司はちょっと笑った。「自殺したくなったら、そうするでしょうね」
その口調には、芝居じみたものが感じられないでもなかった。どうしても、巧妙に仕組まれたペテンにかけられているような気がしてならない──いや、なぜ俺をこんなペテンにかけるんだろう? というふうにしか考えられなかった。
だが、非常によくできている。非常に。
「ひとつ訊くけど、君はさっき、フロッピーから情報を読み出すように人の記憶を読む、と言ったろ?」
「言いました」慎司は座り直した。
「『人の記憶』なのか? 感情とか思念じゃなくて」
「そうです」
「じゃ、いわゆるテレパシーとは違うのかい? 人の心を読む能力ってのを、テレパシーと呼ぶんだとばっかり思ってたんだけどね」
唐突に、慎司は訊いた。「高坂さん、今何を考えてます?」
「え?」
「今、何を考えていますか?」
私は鼻白んだ。「何って──君に質問したのと同じことを考えてたんだろうな。そうでなきゃ口に出せない」
「そうじゃない」慎司はかぶりを振った。「そうじゃないんです。脳はそんなにキャパシティの狭いものしゃないからね。たしかに、僕に質問したことも考えてたけど、それと同時に、数えきれないほどいろんなことを考えてた。ちょっと寒気がするのは風邪をひいたからかなとか、やっと青空が見えてきたとか、望月大輔は見つかっただろうかとか、稲村慎司なんか拾ってやらなければよかったとか。ただ意識してなかっただけで、すべて同時に考えてるんです。しかもそのあいだじゅう、過去の記憶をひっくり返しほっくり返している。過去の経験ていう、比べる対象がなかったら、そもそも『考える』なんてできませんからね。そういう意味では、脳には『今』なんていう時間はないんです」
「──そんなこと、どこで習った?」
「習ってませんよ。誰も正統な学問にはしてくれてないことだもの。いくつか本は読みましたけどね。でも大半は、僕が自分で経験したからそうだと思ってるんです。心を読むっていうことは、すなわち記憶を読むってことです。僕が高坂さんをスキャンすると、四度目の禁煙をして二ヵ月目だってことも、子供のころの事故のことも、昨夜《ゆうべ》誰か家の人とこっひどく喧嘩《けんか》してすごく腹をたててたことも、ごっちゃになって見えてくる。さっきの僕は、そのなかで、いちばん捕まえやすかったものを捕まえただけなんだ。だから、十歳のときの事故の話と、大人になってからその傷跡を恋人に見せたときの話とが、くっついて出てきたでしょう? 高坂さんのなかでは、そのふたつは同じ仕切り棚《たな》の上に並んで載せてあるようなものなんです。時間的には二十年以上も離れて起きた出来事なのにね」
私は黙って頷《うなず》いた。道端で大脳生理学の講義を聞かされるとは。しかも、自分の半分の年齢の「ガキ」に。
「だから、僕のできることは、テレパシーとはちょっと違う。いえ、テレパシーもあるんだろうとは思いますよ。同じ力を持っている人間となら、通信できるでしょうね」
そう言って、ちょっと黙った。誰かの顔を思い出しているかのようで、私から注意がそれていた。
「ほかにも、君みたいな人間を知ってるのか?」
「いいえ」あわてて首を振る。
「いませんよ」
妙にせわしい否定の仕方に、私はちょっと引っかかった。慎司は続けた。
「だから僕は、ただ『スキャン』と呼んでる。真面目《まじめ》にこの分野の研究をしている学者さんたちのなかには、『サイコメトリー』と名付けている人もいますけどね」
軽く肩をゆすって、「また別の意味で、『透視』と呼ぶ人もいます。それも当たってるのかな。あのね、僕がスキャンできるのは、人間だけじゃないんです。物も──物質もね」
「物に記憶がある?」
「ありますとも。ちゃんと残ってる持ち主の感情や記憶がね。全部、場面になってよみがえってくるんです。記憶って、映像ですよ。混沌《こんとん》としてはいるけど、すごく鮮明だ」
記憶は映像だ。それは──それだけは、理解できる気がした。
「物に触れると──そうだな、ちょうど、ほんの今さっきまで人が座っていた椅子《いす》に体温が残ってるのを感じるみたいに、見えるんです。ただ、選ぶのは離しいけど」
「選ぶって、何を?」
「その椅子を作った人の残している記憶、運んだ人の記憶、たった今まで座っていた人の記憶。いろいろあるでしょう? そのどれにするか、僕が選ぶことはすごく難しい。いちばん強いものが、勝手に出てきちゃうから」
慎司は口をつぐみ、(ほかに何かありますか?)という顔で私を見上げている。できの悪い生徒が先生に諭されているようなものだった
「なるほどね」
私は腕組みをして彼を見おろした。
「それで? 弁護側の冒頭陳述は終わりか? それとも君が検察側かな。どっちでもいいよ。いったい俺に何をさせたい? なんでこんな手品を見せてくれて、演説まで聞かせてくれたんだ」
「信じてくれないんですか?」
「悪いけど、無理だね。俺はテレビ屋じゃないし」
慎司の表情が引き締まった。ぐいと顎《あご》をあげ、こう言った。
「赤のポルシェ」
「え?」
「赤のポルシェ911。川崎ナンバーです。プレートは全部見えなかったけど、運転者は脇《わき》にブルーのラインの入ったスニーカーを履いてる。若い男です。二人組。一人はフードつきの赤いパーカを着てて、二人ともとっても急いでた」
私はまじまじと彼を見つめた。彼は視線をそらさず、まばたきさえせずに頷いた。
「そうです。悪戯《いたずら》にマンホールの蓋《ふた》を開けておいた奴らです。あの子を殺した連中です。あなたなら、彼らを探しだすノウハウを知ってるはずだ。記者なんだから。だから、手を貸してほしいんです」
5
子供の頃《ころ》、「吸血鬼」という小説を読んだことがある。
クリストファー?リーを世界的に有名にし、同時に映画俳優としては二流に留《とど》めてしまったあの「ドラキュラ」ではない。シャーロック?ホームズものの一編だった。詳しいストーリーは忘れてしまったが、ある若い母親が、夜な夜な自分の赤ん坊の生き血を吸っている──というのが発端で、最後にはきちんと合理的解決がついていた。ワトソン君、ブラム?ストーカーに騙《だま》されてはいけないよ、というわけだ。
だが私は、子供心に、やっぱりこの女の人は吸血鬼だったんじゃないかなとも考えたものだった。登場人物の誰一人として、ホームズの推理に疑いをさしはさまないことが不満でもあった。解釈次第でどうにでもなるのに。
現実と非現実、合理と非合理は、それとよく似た形で共存している。永遠に交わることのない二本のレールだ。我々はその両方に車輪を乗せて走っている。だから、岩のように現実的であるはずの政治家が巫女《みこ》の御託宣に頼り、現世を超越しているはずの宗教家が税金対策に頭を悩まし、インテリジェント?ビルの建設予定地で恭《うやうや》しく地鎮祭を執り行なう。合理のレールに傾きすぎれば冷血漢になり、非合理のレールだけで走ろうとすれば狂信者と呼ばれる。そして、どのみちどこかで脱線するだけだ。
あの時の私にとって、稲村慎司の言葉を全面的に信じることも、全否定することもどちらも一本のレールだけで走ろうとすることだった。絶対に信じられないが、信じなければ割り切れないこともある。だから、逃げを打った。
「買い被《かぶ》ってるよ」そう言った。
「なんですって?」
「俺を買い被ってる。いや、<アロー>を買い被ってる。たとえ君の言うとおりだったとしても──君の言うことを信じるとしてもだ、川崎ナンバーの赤のポルシェ911を、日本中の自家用車のなかからどうやって探しだせると思ってるんだ? できっこない。無理だよ」
慎司は納得しなかった。「あの車はトヨタカローラとは違う。輸入元は限られてる。代理店に照会すれば、持ち主を調べて詰めていくことはできるんじゃないですか? 川崎ナンバーだってことだけで充分なはずです。そんな言い訳なんか通用しない」
頑固《がんこ》なガキだ。おまけに頭も悪くない。
「仮にそれができたとしても......」私はべつの退路を探した。「問題の車を見つけ、ブルーのラインのスニーカーを履いたあんちゃんを見つけたとしても、だ。それからどうしようっていうんだい? 証拠は何もないんだぞ。さっきみたいなデモンストレーションをやってみせて、『おまえがやったんだろう』と言えば、はい恐れ入りましたと白状するとでも思ってるのか?」
「それは......」慎司は言い淀《よど》んだ。「突き止めてみてから心配すればいいことじゃないですか。話してみればわかってくれるかも......」
「甘いね。世の中そんなに簡単じゃない」
「じゃ放《ほう》っておけって言うんですか?」慎司は素早く立ち上がった。「信じられないな。七歳の子が一人死んでるんですよ。頭にこないの?」
「頭にきてるさ。放っておけないとも思う。だが、それは警察の仕事だ。俺の仕事でも君の仕事でもない。いいか? 誰だってこの世で起こってること全部に責任を持つわけにはいかないんだよ。役割分担があるんだ。余計なことをすればかえって邪魔になる。その程度のこともわからないほどガキじゃないだろう?」
「逃げてるよ」
きっぱりとそう言われた。平手打ちだった。
「警察がどうやって見つけるんです? 手がかりなんか一つもないのに。通り魔より始末が悪いことなんだ。警察につかまえられっこないってことは、よくわかってるくせに」
そう。よくわかっていた。
「逃げてるよ。責任回避だ。迷惑がもしれないけど、でもね高坂さん、あなたは僕と知り合っちゃったんだし、子供が死んだことも知ってる。そして僕は、あんなちっちゃい子がひどい死に方をしなきゃならなかった原因をつくったヤツを探しだせるヒントを持ってる。なのにあなたは逃げようとしてる。恥ずかしくないんですか?」
「おおいに恥ずかしいよ。申し訳ありませんね」私は精一杯の皮肉を利《き》かせて言った。「恥ずかしいついでに君のことはうっちゃっていくことに決めた。一人で帰ってくれ。俺に頼るのもやめてくれ。君の力とやらにそんなに自信があるのなら、まっすぐ警察へ行けばいい。行ってヒントとやらを与えてやれよ。俺よりは真面目に聞いてくれる警官がいるかもしれないからな」
回れ右をして歩きだそうと──逃げだそうとしたとき、いちばん効果のある一撃を思いついた。私は十六歳のガキを相手にとことん大人げなくなっており、裾《すそ》ばらいでも小股《こまた》すくいでもなんでもいいから、勝って土俵を出ていきたかった。
「ひとつ忠告しておくがね。子供は死んじゃいないかもしれない。傘《かさ》を失《な》くして迷子になってるだけかもしれない。その可能性だってあるんだ。警察へ行くなら、君がもっともらしい説を並べているとき、あの子がどこかの交番で無事に保護されてるって報《しら》せが入らないように祈ってた方がいい。じゃあな」
大股で造成地を横切り、道路まで出たとき、ほとんど叫ぶような慎司の声が迫いついてきた。
「傘に触ったんだ[#「傘に触ったんだ」に傍点]」
私は足を止めた。
「僕、無に触ったんだ。覚えてるでしょう?」
望月雄輔を車に乗せ、慎司を残して走り去ったときのことだ。慎司に傘を預けた。すると彼は息が止まったような顔をした。
(物に残った記憶が見える。さっきまで椅子に座っていた人の体温を感じるように)
ゆっくりと肩ごしに振り向くと、慎司は両手をだらりと垂らし、疲れ切ったように肩を落として立っていた`
「あの子の黄色い傘に触ったとき、見えたんです。あの子がマンホールに落ちていくのがね。滑って──急に真っ暗になって──。僕は再体験するんですよ。記憶を見るときね。その場に立って、あの子と同じ目に遭うんです。あの子──落ちていくとき、マンホールの縁で頭を打ってる。頭のこの辺りを」
慎司は手のひらで左耳のうしろを押さえた。
「だから、大して苦しんではいない。でも、冷たいって......冷たいって感じた。冷たい、怖い。それきりです。そこでぷっつり。あの子は死んでるんだよ高坂さん[#「あの子は死んでるんだよ高坂さん」に傍点]!」
わななきながら、慎司は続けた。
「だから僕は、今朝、自転車を取りに行くって言って、現場へ戻ってみたんです。見張りの人の隙《すき》を見つけて、マンホールの蓋に触りに行ったんだ。怖かった。僕だって、自分の力をこんなふうに使うのは初めてなんだから。そしたら赤のポルシェが見えて、二人の男が笑いながら蓋を動かしてるのが見えた。笑いながら。だから放っておけないんだ」
(ときどき人は致命的に無責任になる、悪意があってやったことならまだいいが)
「お願いです」
ほとんど懇願だった。
「お願いします。信じてくれなくてもいい。手を貸して。警察なんかへ行ったって何にもならないことは、あなたがいちばんよく知ってるはずです。警察は組織なんだ。一人二人は珍しがって聞いてくれても、組織は僕の言葉なんかじゃ動いてくれない。僕は追い返されるか、せいぜい病院に連れていかれるのが関の山です。あなただから、あなたを信用できると思ったから頼んでるんだ」
自分のなかで何かが動くのがわかったが、私はそれを無視した。頑《かたく》なに。
慎司は片手で額を押さえ、わずかに身体を屈《かが》めて、絞りだすように言った。
「彼らは笑ってた。水を──きれいに流してしまうんだって。新品の車のエンジンに水がかぶったらことだから。ぐずぐずしてられない、今夜中にはハイ──ハイアライに行かなきゃならない。約束なんだからだから急いで近道を──」
「ハイアライ[#「ハイアライ」に傍点]?」
どきりとした。
「今、ハイアライって言ったのか?」
慎司は頷く。「知ってるんですか?」
「たしかにハイアライか? 別の言葉じゃなく?」
「そう......聞こえた。赤いパーカを着た方の男が言ってたんです」少し生気を取り戻したような顔になった。「知ってるんですか? ハイアライってなんです?」
口を開くまで、何度か深呼吸しなければならなかった。慎司はじっと私の顔に目を据《す》えて待っていた。
「俺の実家の近くに、そういう変わった名前のパブがある」
慎司は「ああ」と声を出した。
「オーナーは地元の人間で、店は一軒だけじゃない。チェーン経営してるんだ。ひょっとしたら──この辺りにも──」
慎司の目が晴れ、首が起きた。「この辺りにも一軒あるのかもしれない」
私は折れた。もう退路はどこにも失くなっていた。
「いいか、一度だけだ。一回こっきりだぞ。ハイアライを探してみる。必要なら支店を全部。そして、そのどこの駐車場にも赤いポルシェがなかったら、そんなものを見かけたことさえないと言われたら、そこで終わりだ。いいな?」
「充分です」慎司の声は震えていた。「ありがとう」
6
パブ「ハイアライ」の支店は三軒あった。本店の番号を調べて電話すると、がらがら声の男が出て教えてくれた。そのうちの一軒は、成田街道の北側にあるという。
「近くにあるんですね?」
私が電話を切ると、慎司が詰め寄るようにして訊《き》いてきた。
「口で言わなくてもわかるんだろ? また俺の頭のなかを読んでみたらどうだ」
「怒らないでください」
「怒っちゃいないよ。行くぞ」
腹が立つことに、車のエンジンは一発で始動した。
事故処理が済んだのか、成田街道の封鎖は解けていた。車はスムーズに行き来しており、台風の名残《なごり》といえば、どこかのゴミ溜《た》めからふっ飛ばされたのだろう、道路のそこここに散っている見苦しい紙屑《かみくず》だけだった。