西の方から、目に染《し》みるほど青い空が広がってきていた。上空の雲の流れは迅《はや》い。昨夜の大雨もその下で起こったこともすべて消去して、この天気を持ったまま昨日に戻り、すべてをやりなおしたくなった。
「猫《ねこ》がいなくなったのが今日みたいな天気の日だったらよかったのに」
横で慎司がつぶやいた。それがごくまっとうな感想を述べただけのものなのか、それとも私の心を読んだ上での相づちなのかがわからないのは、ひどく戸惑うことだった。
矛盾だらけだった。信じていないくせに、(あなたの頭のなかをのぞけますよ)と言う少年がそばにいることで、裸にされたような気分になっていた。彼が本当にその力とやらを持っているのなら、それを行使しているときには、外見からそうとわかるような変化が表れてくれればいいのにと思っていた。
「質問があるんだけどね」
「なんですか?」
「他人の身体《からだ》に触れると、君がそうしようと思ってなくても、心を読み取ることができるのか?」
彼はしばらく考えた。言葉を探しているようだった。「難しいな......。意図してなくても読めるときもあるし、読めないときもある。でも、普通は、意図してなければ読めないことの方が多いです。僕自身、無意識のうちに軽い安全装置をかけてるのかもしれない。そうでないと、へとへとになっちゃうもんね。だから、その安全装置をふっとばすくらい強い感情が流れてなければ、普通は大丈夫です」
そして、ふっと笑った。「だから、車が揺れた拍子に僕に触りちゃっても大丈夫ですよ。安心してください」
「おおきにありがとうよ」
教えられた所番地をたどるために、ときどき車を停《と》めて住居表示を確かめた。客商売である以上、住宅地や雑木林のど真ん中で営業しているはずもなく、道路からひどく離れていることもないだろう。ひとつ角を曲がり、ひとつ番地を確認するたびに、ここか、ここかと気がもめた。行きずりに人を殺し、闇《やみ》にまぎれて土地鑑のない場所へ死体をうち捨てた人間が、現場検証のためにもう一度そこへ引っ立てて行かれるとき、こんな思いをするのかもしれなかった。ひょっとしたら、そんな場所は最初から存在してなかったのではないか、二度とたどりつくことはあり得ないのではないかと考えて。
だが、「ハイアライ」は見つかった。
三階建てのビルの二階で、一階には喫茶店が入っている。どちらも同じように見栄《みば》えのしない看板をあげ、どちらがより効果的にこのビルのステイタスを下げることができるか張り合っているように見えた。
「ひどい店」車から降りながら、慎司が言った。「こんなとこに来るお客がいるのかな」
ビルのぐるりを歩いてみても、駐車場らしきものは見当らなかった。すぐ近くにトラック運転手の溜《たま》り場になっていそうな大きな定食屋があり、フェンダーに泥《どろ》をいっぱいつけた軽トラックが停めてあったが、ほかに車は見当らなかった。どこか近くに、もっと適当な駐車スペースがあるのかもしれない。
私が以前から知っている方の「ハイアライ」には、専用駐草場がある。考えてみればおかしな話だった。パブに駐軍場。飲酒運転を奨励しているようなものだ。
「店に入ってみる。君はここにいろ」
「どうして? 僕も行きます」
「かえって面倒になるから駄目《だめ》だよ」
「イヤです。止めたって無駄ですよ」
私を追い越すようにして、急な階段をあがってゆこうとする。追いついて腕をつかまえた。
「じゃ、約束しろ。話は俺《おれ》がする君は君もしゃべらない。いいな?」
慎司は険しい顔をしたが、私が引き下がらないのを悟ると、ひとつ頷いた。
階段をあがった。あがりきったところに狭い踊り場があり、左手にくすんだ寄木細工のドアがあった。不可解な崩し字で「ハイアライ」という店名が描《か》いてあり、その下に「準備中」の札がさがっている。だが、ノブに手をかけてみると、鍵《かぎ》はかかっておらず、ドアは手前に開いた。この踊り場にこのドアでは、外に出ようとした客が勢いよくドアを開けると、店に入ろうとしている客を階段の下まではたき落としてしまう。もっとも、そんなアクシデントに恵まれるほど混雑することがないのかもしれないが。
手狭な店だった。ドアの正面に一枚板のカウンターがある。奇っ怪な形のスツールがいくつか見える。まるで奇形の火星人が並んでいるようだった。ドアから身を乗り出してのぞいて見ると、部屋のこちらがわには六人掛けのボックスが一つあり、そこのテーブルも、その脇《わき》に置かれているフロアランプの脚も、大火事の焼け跡から拾ってきた排水パイプなみにねじくれていた。
「君好みの店じゃないか?」慎司に訊いた。
「どうして?」
「座って酒を飲むというよりは、新興宗教の集会に向いてそうなインテリアだ。皆で宇宙からの声を聞きましょうとか言ってさ」
慎司は素っ気なかった。「ヘンなものに興味があるんですね」
カーテンが開いているので、なかは明るかった左手奥にけばけばしい玉簾《たますだれ》が下げてあり、その向こうに小さなコンロと蛇口《じゃぐち》が見える。どこかでラジオが──それとも有線放送かが、聞き覚えのない歌謡曲を流している。人の気配はなかった。
「ごめんください」慎司が大声を出した。「どなたかいませんか?」
足音がした。玉簾が動き、髭面《ひげづら》の男が顔を出して、こちらを見た。
「はあい」と、意外に愛想のいい声を出した。「まだやってないよ」
「お客じゃないんです、すみません」慎司が軽く頭をさげる。
男は丸い目をぱちぱちさせて、私と慎司を見比べている。私は右手の壁に貼《は》ってある防火責任者の名札を見つけた「今市芳文《いまいちよしぶみ》」とあった。
「おたく、今市さん?」
「そうだけど」
「店長さんですか」
「まあそうね。何か?」
「人を探してるんですが」
今市はやっと玉簾からこちらへ出てきた。大男だった。私より頭ひとつ背が高く、私と慎司の体重を合わせても、まだ被の方が重そうだった。Tシャツの胸元がぱんぱんにはっている。
「申し訳ない。昨夜のことなんですが、台風の最中《さなか》に、こちらに若い男の二人組が訪ねてきませんでしたか? 赤のポルシェに乗ってたはずなんだけど」
今市は顎鬚《あごひげ》をひっぱりながら首をかしげた。「どなたさん?」
できることなら名刺を出したくなかったし、それなりの口実は考えてあった。が、私を押《お》し退《の》けるようにして、慎司が言った。「雑誌の『アロー』の編集部のものです」
蹴飛《けと》ばしてやろうかと思った。
私は口の片側だけを使ってしゃべった。「口を出さないという約束だぞ」
「わかってます」
今市は「へえ、『アロー』ねえ」と繰り返した。「なんでまた? なんの取材?」
「それはちょっとね」
「これに目をつけて来てくれたんなら、うれしいけどね」太い腕で店内をぐるりと示した。
「どう? ちょっとしたもんでしょう」
「なんですか、これは」
大男は気の良さそうな笑みを浮かべた。「ご挨拶《あいさつ》だなあ。オブジェだよ。家具であると同時に芸術品」
「あなたが造った?」
「とんでもない。俺にはそんな才能はないからね」
なくて幸せだ。
「俺、こういうの好きなわけよ。だから、オーナーに内装を変えてもいいっで言われたとき、まっさきに思いついてね。友達の作品なんだ。今に有名人になるやつだよ」
「昨夜、お客は来たんですか、来なかったんですか?」しびれを切らしたように、慎司が言った。「若い男の人です。一人はブルーのラインの入ったスニーカーを履いて、もう一人はフードつきの赤いパーカを着てました」
慎司の語調に、今市は驚いたようだった。「ずいぶんヘンな話だね。あんた、ホントに記者なの?」
私は慎司の頭を手で押さえた。「こいつはまだ見習いでね。アルバイトなんだ」
「なんだ。どうりで若いと思った。ああ、昨夜なら、人が来てたよ。二人じゃなくて、もっと大勢。ハリケーン?パーティをやってたからね」
「みなさん普通の客ですか? あなたと個人的な約束があって来た人はいませんでしたか?」
「約束? ああ、約束ね。ありましたよ。絵を持ち込んでくることになってたんだ」
黄ばんだ壁を見上げて、「ここに絵をかけるんですよ。このインテリアに調和するような作品をね。友達の友達のまた友達って感じのやつで、ぴったりのを描いてるのがいたから、持ってきてもらうことになってたんだ。喜んでてさ。自分の作品を展示できるんだからね。ましてここは、これから新進芸術家の溜り場になる店だしね」
「それが若い男の二人組ですか?」
「うん。でも、二人で描いてるわけじゃないよ。一人一点ずつ持ってくることになってたんだ。それが昨夜はあんな天気だろ? 大事な絵に万が一のことがあっちゃいけないから、無理しないでいいって言ってやったんだけど、二人ともどうしてもパーティが終わるまでに持ってくるって言ってきかなかったんだ。昨夜のパーティには、ポップアートの方じゃちょっと名の知れた評論家が顔を出してたからだろうな。あんたも知ってんじゃないかな、そいつのこと」
大男は私が全然知らない人間の名前をあげ、「俺の友達なんだ」と付け加えた。
「それで? 絵を持ってきた二人組は、どんな格好をしてました?」
「どんなって......」
「スニーカーは履いでた?」
「二人とも、ここへあがってきたときは裸足《はだし》だったよ。トレーナーだったかな、着てたものは。厳重に梱包《こんぽう》した絵を抱いて、頭からビニールシートみたいなのをかぶって入ってきたから、パーカを着てたかどうか......」
ずぶ濡《ぬ》れになったので、靴《くつ》もパーカも脱いでしまったのかもしれない──と考え、自分で自分が可笑《おか》しくなった。いったい、慎司の味方をしているのか、敵にまわっているのか。
「彼らの車は? 見ましたか?」
「いいや。あの天気だもの、俺は外へは出なかったしね」そう言って、今市はのんびりと笑った。「どっちにしろ、もうすぐ本人たちが帰ってくるから、そしたらじかに訊いてみたらいいじゃないの」
「本人たち?」慎司が上擦った声で言った。「いるんですか?」
「うん。昨夜絵を壁にかけようと思っても、俺の用意したフックがやわすぎて、もたなかったんだ。だから今、二人で買いに出かけてる。おっつけ帰ってくるよ。車で行ったみたいだから」
「待たせてもらっていいですか?」
「いいとも。なんならコーヒーでもどう? あいっらのこと、書いてやってくれるとうれしいんだけどなあ」
どうも左腕が痛むと思ったら、慎司が凄《すご》い力でつかまっているのだった。目を見開いている。肘《ひじ》で小突くと、はっとびっくりしたように手を離した。
「ごめん」本当にあわてていた。「今は何もしてませんでしたから」
今市は奥に引っ込み、すぐにコーヒーミルで豆を挽《ひ》く音が聞こえてきた。
私と慎司は、判決を待つようにして待った。慎司は壁際《かべぎわ》に立ち、丸めた拳《こぶし》を口にあてている。私は窓際に寄り、道路を見おろしながら、車のエンジン音に耳を澄ませた。
「あいつらの作品、見てみない?」今市が顔をのぞかせ、のどかに笑った。「きっと気に入ると思うんだ」
肘掛窓一枚分くらいありそうな大きな額を、両脇にひとつずつ抱えて戻ってくる。ちゃんと採光を考えているのか、壁にたてかけてからあちこち位置を調節し、髭をひねりながら「どう?」と言った。
向かって左側の一枚は、私の目には、どう逆立ちしてもただの格子縞《こうしじま》にしか見えなかった。奇抜なチェッカーフラッグというところだ。
「左側のはモンドリアンみたい」と、慎司が言った。
「そうじゃないよ。これはね、街の象徴なんだ。そのなかで人間が押し潰《つぶ》されて、みんな直線になっている」今市が真顔で講釈をつけた。
右側の絵は、海を思わせるブルー一色を背景に、ありふれた信号機を描いだものだった。信号は赤になっている。私がそれに見入っているのに気づくと、今市は張り切った。
「これ、いいでしょう。『警告』っていう題だよ」
画面いっぱいの赤信号には、たしかに無視できないほどの迫力があった。意味はないはずなのに、緊張感を呼び寄せるものがあった。これを描いた面家は、このイメージをどこからつかんだのだろう。大勢の死傷者を出した交通事故の現場だろうか。惨事の現場に飛び散った感情の残渣《ざんさ》、空気のなかに放電された見えない悲鳴や叫びを拾い集め、このイメージをつくりあげたのか。
残された感情を集めて再構成、再体験する──それは慎司が説明してくれたことと同じだった。
(サイキックの能力も稽古《けいこ》すれば強くなる。芸術的な才能と同じ)
警告。赤信号。
どうかしてる──と思いながら頭を振り、窓の方へ顔を向けて、私は息を止めた。真下の道路に深紅のポルシェが停《と》まっていた。
7
ドアを開けて入ってきた二人の若者を、私は一瞬、兄弟かと思った。明らかに体格が異なっているし、よく見れば目鼻立ちも違うとわかるが、全体から受ける印象が似ていたからだ。同じように不可解な絵を描いている同好の士であるから、醸《かも》し出す雰囲気《ふんいき》が似てくるのかもしれなかった。
おまけに、服装も似ていた。ジーンズにポロシャツ、白いスニーカー。ただの白いスニーカーだ。赤いパーカも見当らない。
今市が進み出て、彼らに我々を紹介しているあいだ、私は窓枠《まどわく》に背をつけて、両手をズボンのポケットに入れ、そこで拳を握り締めていた。そうしていないと、いきなりとんでもないことをしゃべり出してしまいそうな気がした。慎司はさっきまでと同じ場所に立ちすくみ、異形のスツールのひとつに手を置いて、身体《からだ》を支えていた。
今市は、自分の希望的観測を前面に押し出し、私が二人の絵に興味を持って訪ねてきたのだ、というふうに脚色して話した。若者たちは彼と私の顔を見比べていたが、あまり得心がいった様子もなく、顔を見合わせている。
「僕らなんかのこと、どこで聞いてきたんですか?」と、一人が質問した。二人のうちの背の高い方で、右手首にチタンの腕時計をはめていた。
「ちょっとツテがあって」と、私は答えた。「ただ、絵のことだけで来たんじゃないんだ。すまないね」
「そうだろうと思った」若者たちは笑った。気持ちのいい笑顔だった。
「そんなうまい話が転がってるわけないもんね」
「すいません、お名前は?」と、背の小さい方の若者が訊《き》いた。小さいと言っても、傍《かたわ》らの相棒と比べての話で、私と大して差があるわけではない。
私が名乗ると、背の高い方が頷いて、「僕は垣田俊平《かきたしゅんぺい》、こっちは宮永聡《みやながさとし》」
「信号機の絵を描いたのはどっち?」
「僕です」宮永聡が答えた。
「気に入りました?」
「うん」
「うれしいな。自分でも好きな作品だから」
「おまえは自分の描くものはみんな好きなんじゃないか」垣田俊平がまぜかえした。
「そうだよ。そうでなきゃ描けないさ」
慎司がじっと私を見つめている。気づかないふりをした。
「君ら、二人とも大学生?」
「ええ、そうですよ」
「芸大かな」
「違います」二人とも照れ臭そうに笑う。
「とてもとても」
「敷居が高くて」
「門前払いでした」
「二人とも教養学部にいるんです。マスコミ関係になんか絶対採用してもらえないマイナーな大学ですよ」
「昔からの友達?」
「ええ。絵を描き始めたころに知り合ったんだけど......」ようやく、垣田の顔に不審そうな表情が浮かんだ。「あの、用件はなんです? なんだか身元調べされてるみたいだな」
「おい、よせよ」と、宮永が相棒をつつく。「失礼だぞ」
「いや、いいんだ。こっちこそ失礼だった。実はね、ちょっと訊きたいことがあって」
二人の若者はちらっと視線を交わしあった。
私は肩こしに窓の方をさした。「今、下に停めてある赤のポルシェ、君たちの車か?」
ワンクッションあって、宮永が答えた。「そうです。僕の......」
「凄いね。高価《たか》かったろ」
「実は兄貴のなんです。昨夜、黙って借りてきちゃったんだ。ここまで作品を運んでくるのに、どうしても必要だったから」
「タクシーが拾えなかったもんで」と、垣田が補足する。
「そう。昨夜は何時ごろここへ着いたのかな」
二人よりも先に、じっと黙っでやりとりを聞いていた今市が答えた。
「真夜中すぎでしたよ。十二時をまわってたかな」不安そうだった。「それがどうかしましたか?」
慎司が何か言いたそうな顔で乗り出したので、私は目で制した。
「ここへ来るには、成田街道を通ったんだろ? いちばんわかりやすいもんな」
「いいえ、東関東道を通ってきたんです。うちからだと、その方が速くて」
「そうすると、四街道《よつかいどう》インターで降りて、すぐ北へ向かったわけだ」
それなら、あの現場を通ることはない。どう迷ってもあの場所にはさしかからない。彼らが「ええ、そうです」と言えば、それで可能性の目盛りが大きく減ることになる。
だが、宮永はこう答えた。「いいえ、佐倉まで行って、降りました。その方が、北へ向かう距離が短くて済みそうだったから。それでも結局迷っちゃったけどね。僕ら、この辺にきたのは初めてだったんです」
「俺もおおまかな道順しか教えなかったしなあ」今市が口をはさんだ。
じりじりと輪がすぼまってくる。息が詰まるような気がして、ありもしないネクタイをゆるめようと、衿《えり》の辺りに手をあげた。
「道に迷った?」
「はい」二人は頷《うなず》く。
「佐倉工業団地の近くを通ったかどうか、覚えてる?」
「さあ......」垣田が首をかしげ、相棒を見やった
「運転してたのは僕だけど」宮永は私を見ていた。
「あの天気でしょう。周りの景色なんてわからないし、土地鑑もないし、だから迷っちゃったんですから、わかりません」
二人とも不安そうに足をもじもじさせている。困惑しているようだった。
素早く考えて、私は確信した。たとえ──たとえ彼らがマンホールの蓋《ふた》を開けておいた張本人なのだとしても、それが危険なことだったという意識は持っていないのだ。つまり、それによって子供が一人行方不明になったという事件については、まだ知らないでいるのだ。だから困惑しているのだし、「佐倉」という地名が出てきても、ひるむ様子も見せないのだ。ひっかかりさえしないのだ。
もしも彼らが犯人で、事件について知っているのなら、最初から、誰か訪ねてきたというだけで警戒しているはずだった。そして、もっと平気な顔をしているはずだった。なんでもないように振る舞い、「佐倉工業団地? ええ、通りましたよ」とでも答えているだろう。彼らの方から「昨夜《ゆうべ》ひどい事件のあったところですよねえ」とさえ言い出しているかもしれない。
やっかいなことになった。すべて知っていて、しらを切っていてくれる方がまだやりやすい。言葉を選んで慎重に質《ただ》さなければ──
私は笑みを浮かべた「そうか。妙なことを訊いて悪かったね──」
なんでもいいからうまく話をつくり、彼らがマンホールの蓋を開けたかどうかだけを、まず聞き出そうと決めていた。ショックを与えるのはそれからでもいい。たとえ本当に彼らがやったのだとしても、たぶん、悪気があってのことではない。過失だったのだ。
だがそのとき、慎司が不意に声を出して、私を遮り、彼らの注意をひきつけた。
「昨夜ね、あの辺りで、小さい子が蓋の開けてあったマンホールに落ちて死んだんです」
気をつけて、神経を使って組み立てているカードの家を、いきなり吹き倒されたようなものだった。私は一瞬言葉を失《な》くし、空《くう》を噛《か》んだ。
唖然《あぜん》としているのは、若い画家のたまごたちも同じだった。二人ともなかば口を開き、慎司の顔に目を据《す》えている。
「ホントかい、それ?」今市もびっくりしている。「知らなかったなあ。ニュースでやってる? 俺たち、昨夜っからテレビなんて全然|観《み》てないから──」
語尾をもぐもぐと呑《の》み込んで、余市は黙った。垣田と宮永の驚きが、自分のそれとは種類が違うのだと気づいたのだ。
私も気づいた。やったのは彼らだ[#「やったのは彼らだ」に傍点]。
あの動転ぶり。間違いない。だが同時に、彼らから素直に「僕たちがやったんです」という言葉を聞き出すことのできる可能性も、針の先ほどに小さくなってしまった。
「マンホールの蓋を開けたの、あんたたちだろ?」慎司は彼らを睨《にら》みすえた。「あんたたちだろ[#「あんたたちだろ」に傍点]?」
狭い店内の空気が重くなつた。沈黙の重さだった。
ぴくりと手を動かして、宮永が何か言おうとした。だが、その彼をかばうように肩を乗り出して、垣田が先に口を開いた。
「なんのことだかわからない」
衝撃で抑揚を欠いたその声、表情の消えたその顔の裏側で、精密な機械が音もなく回りだし、計算を始めたことがわかった。身を守れ。うっかりしたことを言うんじゃないぞ。まだ事態を把握《はあく》しきってないんだから。
「ウソだ。やったのはあんたたちだよ。車のエンジンが水をかぶると困るから、マンホールを開けて道路に溜《た》まってた水を流したんだ。そのあと蓋を開けっぱなしにしていったんだ。昨夜あんたは赤いパーカを着てた。そっちの人は、プルーのラインの入ったスニーカーを履いてた。二人で笑いながらマンホールの蓋を開けたんだ」
慎司は言いつのる。そして垣田は、私が予想していたとおりに答えた。
「どうして俺たちが? なんで俺たちだってわかるんだ?」
慎司は私を見た。それに引っ張られて、ほかの三人も私を見た。この短兵急な少年は、勝手に突っ走っておいて、危ないところだけ私に押しつけているのだった。
私は黙って垣田の顔を見返していた。それしか方法がなかったし、それがいちばん効果的だった。
「俺たち──」宮永がおずおずと口を開きかけた。
「おまえは黙ってろ」垣田は彼の方を見もせずにぴしゃりとさえぎり、私を睨んでいる。
今や我々は、微妙な縁に立っていた、余計な説明も理屈も要らないが、ショックを受けている彼ら二人に、退路を開けてやることも考えてやらねばならなかった。彼らのしたことが重大な事故を引き起こしたと認識させると同時に、まだ最悪の事態ではないと思わせてやらねばならなかった
「まだ、子供がマンホールに落ちたと決まったわけじゃない」私はゆっくりと言った。「ただ行方不明になってるんだ。昨夜からずっと。そこにたまたまマンホールが開いているのが発見されたから、そこへ落ちたんじゃないかと思われるだけでね」
「高坂さん?」慎司の声が裏返った。「何を寝ごと言ってるんです!」
「黙ってろ」
「そうはいかないよ! あなただって──」
「黙ってろと言ったんだ聞こえないか?」
歯噛みする思いだった。慎司を連れてくるのではなかった。表で待たせておけばよかったのだ。
駄目《だめ》を承知で、私はもう一度言った。「子供は死んでないかもしれない。ただ行方がわからないだけなんだから。マンホールの件とは無関係がもしれない」
垣田は表情を動かさず、私と睨みあっていたが、立ちすくんでいる宮永の目の周りや頬《ほお》からは血の気が引いていた。そこだけ皮膚が死んでいくようだった。折れやすい杭《くい》は彼の方だった。だから私は宮永に話しかけた。
「マンホールの蓋を開けたのは君たちか? もしそうなら、言ってくれ。早い方がいい。行方不明の子供が家を出た時刻ははっきりしてる。だから、君たちがあそこへ通りかかって蓋を開けた時刻がわかれば、ふたつを照らし合わせて、子供がそこへ落ちるはずがなかったとわかることだってあり得るんだ。そうすりゃ、警察だって余計な捜索をしないですむ。下水に替るのをやめて、子供を連れ去る変質者を探したり、増水した川の底をさらうことを始めるさ。それが結局、子供を救《たす》けることにだってつながるかもしれないんだ」
そんなことがあり得ないのはわかっている。私はこの目で黄色い傘《かさ》を見ているのだから。だが、彼らが事件のことをまったく知らない以上、これはやってみる値打ちのある賭《か》けだった。
宮永は動き始めていた。何度かまばたきし、喉仏《のどぼとけ》を上下させた。私の手は、溺《おぼ》れかかっている彼の手に触れていた。つかんでたぐり寄せるには、あと少し、ほんの少しだけ頑張《がんば》ればよかった。
「言ってくれ。頼む。今こうしているあいだにも、警察がマンホールに気をとられてるうちに、子供は全然別の場所で死にかけてるのかもしれない」
私は宮永に意識を集中していた。あと一歩だった。だから、垣田が手をのばして宮永の肩をつかむまで、彼の存在を忘れかけていた。
垣田は私を見ていなかった。慎司の顔を見ていた。そして慎司は私を見ていた。慎司の表情は、私が慎重に言葉を弄《ろう》して事実をねじ曲げていることを、はっきりと物語っていた。
このときだけは、私もサイキックになったのかもしれなかった。宮永の肩に置かれた垣田の手から、(口車に乗るな。騙されるな)という警告が伝えられてゆくのを、まのあたりに見たような気がしたから。
「頼む。話してくれ」私は繰り返した。
だが、手遅れだった。宮永はゆっくりとかぶりを振った。「僕たちは何もしてない」
「何も知らないよ」と、垣田が言葉を添えた「なんにも」
そのとき、慎司が壁際からはじかれたように身体を離し、垣田に飛びかかった。
止める間もなかった。二人はもんどりうって床に転がり、スツールをいくつか道連れにした。体格ではるかに勝っている垣田は、驚きながらも簡単に慎司をねじふせ、馬乗りになった。私と今市が両側から飛び付き、彼と慎司を引き離した。だが、慎司の右手は頑固に吸い付くように垣田の腕を握って離さない。ほんの一瞬だが、私は総毛立った。
「慎司、やめろ」そう呼びかけた自分の声が、遠く聞こえた。
慎司は床に尻餅《しりもち》をつき、背後から今市に抱きかかえられながら、それでも垣田の腕を離さないでいた。日が据わり、こめかみに青い血管が浮き出ていた。くちびるの端が切れて、食いしばった歯を赤く濡《ぬ》らしていた。
「いったい──」
垣田がつぶやく。慎司から目を離すことも、腕を振り払うこともできず、彼をはがいじめにしている私は、彼の全身が電撃でも受けたかのように強《こわ》ばるのを感じた。
造成地での私もこうだったのかもしれない。慎司が私の手をつかんだとき、自分が縮んで失くなってしまったように感じ、動けなくなった。そして、口では「やめろ」と言いながらも、私は慎司の腕をつかみ、垣田から引き離すことができなかった。恐ろしかったから。
慎司に触りたくなかった。
「エンジン──エンジン」不可解な連祷《れんとう》[#表示不能に付き置換え]のように、慎司はつぶやいた。「エンジンが心配だ。水をかぶったら使いものに──ならなくなる。簡単だよちょっと──蓋をあげて水を流せば──近所の人だってこれじゃ困るだろうから──こんなに水が溜まってちゃ──簡単だ、こうしておけばいい──きっと──きっと──みんな喜んでくれる」
自分の膝《ひざ》から力が抜けるのがわかった。つかのま、慎司の声が、口の開き方さえが、垣田のそれと似て感じられた。
「やってない[#「やってない」に傍点]!」垣田が叫び、私を跳ね飛ばすような勢いで身もがいた。はずみで慎司の腕が離れた。
「やってない! そんなことやってない! 嘘《うそ》だ!」
彼は激しく暴れ、私と一縮にカウンターの下の壁にしたたかぶつかった。がつんという音がして一瞬目の前に閃光《せんこう》が走り、気がつくと私は垣田を抱えるようにして床に腰を落としていた。
慎司はだらりと腕をのばし、呼吸困難に陥ったようにあえいでいた。背後にいて彼をつかまえていた今市が、少しずつ、少しずつ身を引いて、気味悪そうに彼から離れた。
「大丈夫か?」
声をかけても、垣田は放心していた。震えていた。
「こいつ──いったい何なんだ」
ようやくそう言うと、彼は這《は》うようにして私から離れ、宮永にすがって立ち上がった。二人に叱《しか》られた子供のように寄り添っていた。窓を背にしてその顔は暗く、ただ激しい息遣いが聞こえるだけだった。
「気が違ってるんだ」と、今市がつぶやいた。
私は立ち上がり、ためらいを感じながらも、胸のむかつくような思いをこらえて、慎司の腕をつかみ、立ち上がらせようとした。披はぼんやりと私を見上げ、首を横に振った。自力で起き上がったが、ふらふらしていた。
「帰ってくれよ」
今市に促されるまでもなく、私の足はドアへ向いていた。慎司の背に手をかけてドアへ押しやり、店に残る三人を肩ごしに見て、「すまなかったね」と言った。彼らは何も言わなかった。
急な階段を降りていると、背後で、私が閉めたドアをもう一度音高く閉め直すのが聞こえた。私と慎司がそこへ運んでいった空気をまとめてつまみ出し、はたき落としたのかもしれなかった。
車に戻ってから、しばらくは何も話せなかった。東京へ向かう道は混《こ》んでおり、車はたびたび停止した。気温があがっていた。私は途中で上着を脱ぎ、後部座席へ放《ほう》り出した。そのあいだにも、決して慎司と視線を合わそうとはしなかった。
都内に入ってから、やっと彼が口を開いた。窓に頭をもたせかけていた。
「ごめんなさい」
消えいるような声だったが、私は黙っていた。次の信号で停車したとき彼はまた言った。
「悪かったと思ってる」
私はため息をついた。「どうして黙っていられなかった?」
「我慢できなかったんだ」
「まずいやり方だと思わなかうたのか?」ハンドルを両手で叩《たた》き、彼を見た。信号が青にかわり、後続車が気短そうにクラクションを鳴らした。
「彼らは子供の事故を知らなかった。知らせないままで話していけば、あっさり話してくれたかもしれないんだ。自分たちが蓋を開けました、エンジンを濡らしたくなかったし、そうやって道路に溜まった水を流しておけば、近所の人にも喜ばれると思ったから、と。あいつらに悪気はなかったんだ」
「悪気はなかった......」慎司はゆっくりと私の方を向いた。「そんなことがあると思う? 大雨の降ってる夜中にマンホールの蓋を開けっばなしにしておいたら危ないよ。そんなの常識じゃない。そ左な常識のない大人がいるなんて......ましてあの人たちは大学生じゃない」
「いるんだ。そういう人間は。いるんだよ」
いや、誰でもそんなふうになる可能性があるのだ。エアポケットに落ち込んで。
「優には理解できないよ......。だから......知ってて知らないふりをしてるんだと思っただから、うんと強く出た方がいいと思ったんだ」
「それが逆効果だったんだ」
何度も慎司に脅かされたために──いや、脅かされたことを恥じていたために、私は必要以上に腹を立てていた。言葉を選ぶ心の余裕を失っていた。
「自分が何をやったかわかってるのか? 彼らは自分たちがどんなことを引き起こしたか知らなかった。だが決して悪い人間じゃない。あのまま放っておいて、ニュースで子供の行方不明を知ったら、自分たちから名乗り出ていたかもしれない。かなり迂闊《うかつ》で、危険なくらい間の抜けた連中がもしれないが、悪質な犯罪者とは違うんだ」
慎司は膝の上に視線を落とした。
「それをあんなふうに追い詰めて、追い込んで、嘘をつかせた。いいか? 彼らは自発的に嘘をついたんじゃない。俺たちが嘘をつかせたんだ[#「俺たちが嘘をつかせたんだ」に傍点]。やってません、とな。あんなふうに追い込まれたら、俺だって嘘をつくさ。怖いから。彼らはきっと後悔してる。たぶん警察へ行くだろうな。だが、行かなかったとしても、俺には彼らを責められないし、もちろん警察に密告することもできない」
「どうして?」慎司は目を見開いた。「子供が行方不明になったって聞いたときのあの二人の顔、見たでしょう? サイキックじゃなくたってわかりますよ。彼らがやったんだ」
「この、大《おお》馬鹿《ばか》野郎」私は吐き捨てた。「まだわからないのか? 俺が彼らを密告できないのは、フェアじゃないからだ。汚いからだ。さっきも言ったろう? 事故のことを知ったら、彼らは自分から出頭していたかもしれない。あの場で、マンホールの蓋を開けたことだけ認めさせて、あとは放っておいたって、その可能性は充分あった。彼ら自身に悪意がなかったからこそ、悪意があってやったと思われるはずがないと思い込んでいたからこそ、びっくりして、あわてて、素直に名乗り出てたかもしれないんだ」
前方の信号が際《きわ》どいところで赤にかわり、私は急ブレーキを踏んだ。車はつんのめるようにして停《と》まった。
「それをあんなふうに脅かして、震えあがらせた。今じゃ彼らは、自分たちがやったことを知ってる。悪意がなかったと言っても信じてもらえないかもしれないと思い始めてる。だからこそ、警察には行かないかもしれない。人間はな、大人は、自分が知らないうちに悪いことをしたと気づいたとき、すぐに『スミマエン』と言えるほど単純じゃないんだ。悪いことをしたと気づいたからこそ、保身を考えることだってある。彼らをわざとそういうふうに仕向けてから、『さあ、悪い連中ですよ』と言わんばかりに警察に突き出すのは、反吐《へど》が出るほど汚いことだ」
慎司は震え始めていた。そして私は──今だから言えるが、彼をやりこめてやったことで気分が良かったのだ。これこそ反吐が出るような話だが。