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一週間が過ぎても、望月|大輔《だいすけ》の遺体は発見されなかった。誰かが「自分があのマンホールの蓋《ふた》を開けた」と名乗り出たという情報も、警察がそれらしき人物に目をつけているという噂《うわさ》も、まったく入ってこなかった。
道端のマンホールを、その気になれば誰でも開けることができる状態で放置しておくのは危険だというもっともな声が、あちこちからあがっていた。県の水道局はさっそく善処を約束したが、お偉方に代わって公的な声明を読み上げた局長補佐の肩書きを持つ人物は、「まさか開ける人がいるとは思いもしなかった」とコメントして、気の毒なことに、いささか顰蹙《ひんしゅく》をかってしまった。
一週間のあいだに、都内で二件、崎玉で一件、夜間に路上のマンホールの蓋が開けられるという事件が起こった。幸いどちらも実害はなかったが、千葉の事件を。真似《まね》たものであることは明らかで、どうやら世間には、危険を認識する能力の少ない人間と、認識した危険を実行してみたがる人間とがあふれているようだった。
「アロー」では、その週のニュースをいくつか並べる「へッドライン」のページで、事件について取り上げた。私は記事を書き、カメラマンが現場へ行って、青空の下、ぴっちりと蓋が閉められているあのマンホールの写真を撮り、見出しの脇《わき》に掲げた。
そして個人的なレベルでは、あのポルシェのナンバーから持ち主である宮永|聡《さとし》の兄の身元を調べた。彼は一流と言っていい証券会社の営業マンだが、まだ二十四歳だった。よくまあ一千万からの車を買った也人だと呆《あき》れたが、代理店に問い合せてみると、ちょっといわくつきの事故車で、五年落ちだという。
「それでも是非というので、お売りしたんですよ」
宮永聡は「兄貴の車で、新車だ」と言っていた。兄から弟への小さな欺瞞《ぎまん》、ささやかな自慢というわけだ。そして弟は弟で、兄貴の大事な車をちゃっかりと荒天の夜に借りだして──
台風の翌日、さぞや派手な喧嘩《けんか》をしたことだろう。それとも、聡の方がそれどころではなかったか。
宮永聡も垣田《かきた》俊平も、まだ名乗り出てこない。そして私にも、もう彼らに近づく気持ちはなかった。一度だけ、調べだした宮永家の電話番号にかけてみようと、受話器をあげたことはあるが、そこまでだった。
ただ、「ヘッドライン」の記事では、マンホールの蓋を開けておいた人物に対し、若干同情的な含みを持たせておいた。「悪意はなく、ただ迂闊《うかつ》だったのだろう」という程度ではあるが。
おかげで、雑誌の発売日には、少し落ち着かない気分を味わった。彼らのどちらかが、ひょっとしたら連絡してくるかもしれない。
だが、結果はノーだった。
酒の席で、冗談半分に、同僚の記者の一人に訊《き》いてみた。空からUFOが舞い降りてきて、鼻先にとまり、「今警察が手を焼いている事件の犯人はどこどこの誰々であるぞ」と教えてくれたとしたら、どうする?
「帰って寝る」というのが、同僚の答えだった「で、翌朝目が覚めて、まだそんなことが現実にあったような気がしたら、入院する。きっと、点滴の壜《びん》のなかに金魚が泳いでいるのが見える」
私は笑った。同僚をではなく、自分を笑ったのだ。そして、あれほど真剣だった稲村慎司を、いきなりUFOに例えてしまうのだから、俺《おれ》だってやっぱり本気で彼を信じているわけじゃないんだなと気がついた。
その慎司からも、なんの音沙汰《おとさた》もなかった。私はルーティーン?ワークに戻った。退屈で騒々しいが、足元がしっかりした日常へ。
「アロー」は一応新聞社系の雑誌だが、銀行のロビーに置いてもらえるほど硬派ではない。イラクのクウェート侵攻について特集を組んでも、国際政治学者にはコメントを求めず、もっぱら国内物価と為替相場への影響ばかりを心配している。自衛隊派兵の問題が出てくれば、「徴兵制復活か」などという刺激的な見出しを組んで、読者をどきりとさせようとする。要するに、おしなべて「今世の中に起こっている出来事はあなたにとって損か得か」というテーマでつくっているということだ。
新聞と違って、雑誌記者には厳密な「担当分野」というものはない。ただ、やはり人にはそれぞれ得手不得手があり、取材しているうちにそれぞれ独自の情報網などもできてくるから、「なんとなく専門」という程度の役割分担はできてくる。
私の場合、もとが社会部あがりで、いわゆる警察《サツ》まわりの時期が比較的長かったことと、「アロー」へひっぱってくれたデスクが「社会ネタ」を得意にしている人だったこととで、もっぱら事件ものを担当することが多い。いちばん派手に見えるが、いちばん安易に流れやすい部門でもある。
ただ、いかんせん人手不足の悲しさ、ほかの連載記事やコラムの方のピンチヒッターを頼まれることもある。マンホールの事故から十日後、若手のカメラマンと一緒に銀座四丁目の小綺麗《こぎれい》な喫茶店に出かけていくことになったのも、そちらの方の仕事だった。「ミス?コンテストに反対し性の商品化に抗議する女性たちの会」の代表者にインタビューするということで、相手が女性だとは言え、喜んで飛んでいきたいという類《たぐい》のものではなかった
「こっちも女が行った方がいいんじゃないの? その方が話も盛り上がるだろうし」と言うと、コピーの束を運んできた水野《みずの》佳菜子《かなこ》に睨《にら》みつけられた。
「いい機会だから少し啓蒙《けいもう》してもらってきたら?」と言う。
「啓蒙ねえ」
「そうですよ。高坂さん、編集部のなかでもいちばん頭が固いんだから」
「俺が?」
「そう。あたしのことなんか、お茶くみとコピーとりの機械だと思ってるでしょ? 女性差別者の典型ね。そのまんまじゃ、いくつになったって結婚できませんよ」
「へえ、そうか。じゃあずっと独身でいるかな。で、カコちゃんが三十すぎても売れ残ってたら、もらってやるよ」
「売れ残りだって! そんな言葉を使う男は最低ね。コウサカのバカ」
勝手にぷりぷりして、「コウサカのバカって韻を踏んでるわ」などと言いながら行ってしまった。アルバイトの娘だが、正社員なみにしっかり働いてくれる。ただ、どうも言葉がよくない。
そろそろ出かける時刻になってから、彼女がまた近づいてきた。打ち合せをしていたカメラマンが気がついて、私をつついた。
振り向くと、佳菜子は郵便物の束を胸に抱いて、何か言いたそうな顔をしている。
「どうした? ちゃんと啓蒙されに行ってくるよ」
「そうじゃないの」彼女はちらりとカメラマンを気にする。と、彼は破顔した。
「いいじゃない。そんなにオレが邪魔?」
「バカね。そんなんじゃないわよ」
そう言って、大《おお》真面日《まじめ》な表情で郵便物の束のなかから封書を一通抜き出すと、差し出した。
「これ、また来たの」
ひと目見ただけで、なんだかわかった。これで六通目だったから。
ありふれた白い長方形の封筒である。表書には「アロー」の編集部の住所と、私の名前。裏には何も書いてない。
そして過去の五通は、中身もなかった。真っ白な、何も書かれていない便箋《びんせん》が一枚入っているだけなのだ。
開けてみると、この六通目も同じだった。カメラマンがのぞきこんできて、
「なんです? これ」
「白紙のラブレターかな。それとも俺の目が悪いのかな。なにか見える?」
「あぶりだしじゃないんですか?」
カメラマンは便箋を取り上げ、窓の方へ向けた。「透かして見ると文章が見えるとか」
「笑うなよ。全部試してみたんだな、それ」
「やってみたんですか? あぶりだしも?」
「いかにも。で、全然なんの反応もないんだ。つまりはただの白紙だってこと」
端の方の電話でさかんに相手を怒鳴りつけていたデスクが、目ざとく見つけて大声を出してきた。
「お、また来たか」
「また白紙ですよ」
デスクは大きな手をひらひらさせた。「だから育ったろう? ツケを払ってやれ、ツケを。どこの店に入り浸ってんだ?」
「そんな身分じゃないですよ」
「わかった!」カメラマンが振り向いた。「これはね、『待ってるからお手紙ちょうだいね』という符丁ですよ」
「符丁!」私と同時に、向かいの机で同僚が声をあげた。「古いねえ」
「カコちゃん、フチョウって何のことかわかるか? 看護婦の親玉じゃないぞ」
佳菜子は眉《まゆ》をひそめた。「呑気《のんき》ね。気味悪くないんですか?」
「なんで? べつに脅迫文が書いてあるわけじゃないよ」
「だって……」
カメラマンも少し真面目になった。「いつごろからのことです?」
「さあ……」
私の代わりに、佳菜子が素早く言った。「最初のが来たのは六月ごろよ」
「カコちゃん、気にしてんだなあ」カメラマンがにやっと笑った。「ねえ、高坂さん、身に覚えはないんですか?」
「身に覚え?」
「そう。まだ白紙のうちに、意味を察した方がいいと思うな。いきなり認知願いなんか送り付けられたらことですよぉ」
これはぐさりときた。彼は何も知らないのだから無理はないのだが。
「あれ? びっくりしましたね。怪しいなあ」
誰かがはやすような口笛を吹き、「白状しろ!」と言いながらド了を出て行った。
「ちょっとした謎《なぞ》ですね、これは」うやうやしい手つきで便箋をたたみ、封筒におさめると、カメラマンは笑った。「どうオチがつくのかな」
どんなオチもつくはずがないと思う。ただのイタズラの類だろう。マスコミ関係には、こういうことはよくあるのだ。形はいろいろだが。
ただ、気になるのは名指しで来ていることだった。まだ署名記事を書いたことはないし、どんな形でも「アロー」の記者として名前の出るような行動をとった覚えもない。恨みを受けるようなことも、少なくとも自分ではしたつもりはない。長いスパンで考えれば、ひょっとして知らないうちに誰かを……ということもあるかもしれないが、白紙の手紙が届くようになったのは、ここ数ヵ月のことなのだ。
じゃあ女かと問われても、これも返事のしようがない。小枝子《さえこ》と別れてから三年、後腐れのない形の関係を持った女はいても、辛抱強く手紙を──たとえ白紙でも──いや、白紙の方がむしろ辛抱と情熱が必要かもしれないが、それにしても──送って寄越すほど深く関《かか》わった女性など、いたらこっちが教えてほしいほどだ。
だいたい、その手の女性には、こちらの商売さえ正確には教えなかった。たいがい、学校の教師だというと納得されたものだ。
「みんないい加減ね。本当に怖くないんですか?」ちょっと怒ったように言って、佳菜子は封筒に視線を落とした。「あたしは怖いわ何か書いてあるより、ずっと怖い。消印だってみんなバラバラなのよ。どこから出してるか、絶対悟られないようにしてるみたい」
「心配するなよ」私は手をあげて、佳菜子の頭をぽんとたたいた。「嫌《いや》がらせだとしても、こんな手を使ってくるようなヤツは、それ以上のことはできないんだから」
「そうそう。そうだよ、カコちゃん」
「ツケだ。ツケ」と、デスクはまだ言っている。よほど悪い思い出があると見える。
「だけど、高坂さんだって、今まできた分を全部とっておいてるでしょ? やっぱり気にしてるんじゃない?」
たしかに、まったく気にならないと言ったち嘘《うそ》になる。だから全部保存してある。それを佳菜子が知っていたとは意外だった。
「全部はとってないよ。一通|失《な》くした」
「嘘ばっかり」
「ホントさ。秋吉のやつが、アンモニアで出るあぶりだしだとか言って、トイレに持っていったきりだ。さて、行くか」
カメラマンを促して外へ出た。彼は器材を担《かつ》いで歩きながらにやにやしている。
「なんだよ」
「いやいや、カコちゃんも可愛《かわい》いなあと思って」日焼けした顔をほころばせて、「純情だもんなあ。もう、ホント、可愛いね。いっぺん本気で口説いてやればいいのに」
「そっちこそ」
笑って言うと、カメラマンは大きく手を振った。
「ありますよ。何度かデートに誘ってみたけどね。てんでダメ。高坂さんの話ばっかりしたがるから。ねえねえ恋人いるのかしら? 前には婚約者がいたんでしょ? なんで結婚しなかったの? その女性どんな感じの人? あたしより美人だった? なんてね。まいっちゃった」
「へえ」私は素朴《そぼく》に驚いた。佳菜子は、つい昨日までセーラー服を着ていましたという感じの娘なのだ。彼女から見たら、こちらはもうおじさんの部類だ。だから安心してつっかかってくるのだろうと考えていた。
「だって彼女いくつだよ。十九かそこらだろ?」
「二十歳ですよ。立派な大人の女だって力んでましたけどね。結婚したくてしょうがないみたい」
「俺が彼女だったら、結婚相手は他所《よそ》で探すね。こんな商売やってる男とくっついたって、ロクなことはない」
「だから、そこは彼女も計算してるんですよ。どんなに見てくれが良くても金持ってでも、俺みたいなフリーの連中や、契約記者なんかには目もくれないもん。高坂さんなら、ゆくゆくは出向を解かれて本紙へ帰るだろうっていう腹があるから一所懸命になるんです」
そう言ってから、ちょっと笑った。「ま、これは半分ひがみでもあるな」
「それじゃ、あんまりうれしい話じゃないね」
「そう言わないでよ。オレがカコちゃんに恨まれる。彼女本気なんですから。いい娘《こ》ですよ。その気ないんですか?」
ちょっと考えてから、返事はしないことにした。カメラマンは頭をかいた。
「オレ、まずいこと訊いたのかな。よっぽど昔のことがこたえてるんですね」
「何が?」
何気なく訊いたつもりだったが、カメラマンはあわてた。
「いや、すみません。なんでもないです。その──噂をね、ちょっと小耳にはさんだことがあるもんだから」
相馬《そうま》小枝子とのことは、「アロー」へ異動する前の出来事だった。というより、彼女とのことが原因に──少なくとも遠因になって、私は「アロー」へ出されたのだ。
この手のゴシップは、伝染病よりも早く広がるし、なかなか消えない。
「ま、他人のしゃっべってることだから、あてにはできないですけどね」とりつくろうように笑って、カメラマンはそう付け加えた。
(ごめんなさい。凄《すご》く痛いところを突いちゃったんだね)
(二度と訊かない。絶対、絶対)
不用意に稲村慎司の顔を思い出し、自分でも驚くほどどきり[#「どきり」に傍点]とした。
長たらしい名前の会の代表者は、インタビューを受けにきたというよりは、バッティングセンターにでも来ているようなつもりでいるらしかった。こちらが投げる質問を、目の色を変えて打ち返してくる。
「どうせあなたたちマスコミの連中は、わたしたちのことを、嫉《ねた》みそねみだけで活動している不美人の団体だと思っているんでしょう? でも、わたしたちは正当な人権を守るために頑張《がんば》っているんです。なんと言われようとかまわないわ」
本当になんと言われようとかまわないと思っている人間は、口に出してそんな台詞《せりふ》を吐いたりしないものだ。
容貌《ようぼう》の美醜は生まれついてのもので、個人の努力ではどうすることもできない。だからそれを物差しにして女性のランクを決めるのは不当である。ミス?コンテストを開くことによって、世の男たちは男性社会に都合のいい女性だけがこんなふうにちやほやされるのだと宣伝して、すべての女性を鋳型《いがた》にはめこもうとしているのです──彼女は熱弁し、私とカメラマンがその「世の男とも」の代表であるかのようにつっかかってくる。たまに「どうです?」と意見を求めるような言葉も吐くが、こちらが口を開くよりも先に、「どうせこうなんでしょう」的な発言で封じられてしまうので、黙って拝聴しているしかなかった。
人間はみな平等、後天的な努力によって変えることのできないものでランクづけするのは間違っている──
「はあ、それはたしかに間違ってると思います」
私がだんまりを決め込んでいるので、カメラマンが発言した。
「でも、間違ってること全部をむきになって直さなきゃいけないってこともないでしょう。ミスコンぐらい、放《ほう》っておいたっていいと思うけどなあ。もうちょっとこうおおらかになれませんか」
こういうのを火に油という。彼女はそれからも延々しゃべり続け、カメラマンは首を縮めて、それきり発言はしなかった。
彼女が再三繰り返す、生まれついてのものでどうしようもないという言葉が、頭の奥にひっかかった。
(僕も、好きでこんなふうに生まれてきたわけじゃないんだ)
演説を続ける女性を前に、私は考え始めていた。
もし──もし自分に他人をスキャンする力があって、今それを使ってみたとしたらどうなるだろうか、と。彼女の心の奥底をのぞき、本人さえ気づいていない、あるいは気づいていながら押し隠している願望や、屈折したコンプレックスを目のあたりにすることができたら──
(めったにやらないよ。嫌らしいことだから)
目の前の女性が説いている理屈は正論であり、彼女の活動には意義があり、彼女の意見には耳を傾ける価値があるのだろう。だが、彼女にそれを言わしめている動機の、本当に深いところには、おそらく非常に個人的な、なりふりかまわぬ怒りが、復讐心《ふくしゅうしん》が、嫉妬心《しっとしん》が隠れでいるのだ。それが全《すべ》てではないにしろ、彼女を動かしている歯車のひとつではあるのだ。
ごく普通の人間である私にも、それを想像することはできる。今この場で、彼女の顔を見ているだけで。
だが、想像することと、心の触手をのばして彼女を探り、彼女白身の生の声で聞くこととは、まったく次元が別なのだ。
(見たくもないし聞きたくもないものを)
全て見る。全て聞く。
それは人間の尊厳を殺す。
突然、私は肌《はだ》が粟立《あわだ》つのを感じた。それまでまったく考えていなかった疑問が、初めて頭に浮かんできた。
慎司が本当に自称しているとおりのサイキックなのだとしたら、これから先生きてゆくこと自体が、ほとんど責め苦に近いのではないか。彼はどうやって生きてゆく? どんな職業につき、どこで暮らし、どんな女性に恋をして、結婚生活を築いてゆくのか。
絶え間なく聞こえてくる、本音、本音、本音の洪水《こうずい》そこから身を守るには、能力をコントロールすると同時に、自分の感情をも制御しなければならない。俗に「聞けば聞きっ腹《ぱら》で腹が立つ」というが、普通の人間は、他人が言葉に出したり態度に表したりしないかぎり、周囲に満ちている本当の本音を聞くことはない。それだから、多少ぎくしゃくすることがあっても生きていくことができるのだ。
それが全部聞こえるとしたら? 聞く能力を持っているとしたら? 聞かないほうが心の平和を保つことができると、理屈ではわかっていても、果たして好奇心を抑えきれるだろうか。
そして、本音を知ってしまってからも、何ひとつ変わったことなどないような態度で暮らし続けていくことができるだろうか。
誰かを信じるということができるだろうか。
(あなたを信用できると思ったから頼んでるんです)
慎司にしてみれば、あれは軽い台詞ではなかったのだ。
もっと優しい言葉をかけてやるべきだった──切実に、そう思った。そのときはもう、(彼が本当にサイキックだったなら)という但《ただ》し書《が》きを付けずに考えていた。彼の言葉を全て信じる立場に立っていたのだ。
まっすぐ社に戻り、彼に連絡してみようと考えながら編集部のドアを押すと、水野佳菜子が近寄ってきた。
「お帰りなさい。お客さまです。三時ごろからずっと待ってたのよ」
来客用の小さな応接室の方をさす、時刻は午後四時半になるところだった。
「誰?」
「それがね、若い男の子。名前を訊《き》いても教えてくれなくて」
「若いったって、カコちゃんより上か? 下か?」
「どっちかっていうと年下がなあ」
すぐ、慎司が来たんだなと思った。救われたような気がした。それが顔にも出たのか、佳菜子が私を見上げてにっこりした。
「待ち人だったんだ。そうでしょ?」
「うん」
だが、応接室のソファには、稲村慎司ではない青年が座っていた。私の「よく来たね」という台詞は宙ぶらりんになってしまった。
青年は私の顔を見つめたまま立ち上がった。少し青ざめ、少し緊張して、口を開く前に、なんということもなく右手をあげて耳たぶに触れた。
「高坂さんですね?」
それが織田《おだ》直《なお》也《や》だった。のちに発生する事件のなかで、悔やんでも悔やみきれない形で死なせてしまうことになるこの青年と、私はこうして顔を合わせたのだ。
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僕らは友達だった──いい仲間だったよ。この当時のことを尋ねると、稲村慎司はそう答える。
「だけど、意見は違ってた。だからあの時、直也は高坂さんに会いに行ったんだ」
「嘘だって[#「嘘だって」に傍点]?」
「そう。あなたは騙《だま》されたってことです」
織田直也は私に、稲村慎司の「サイキック」なるものはすべてトリックだと話しにきたというのだった。
彼はひどくせっかちになっていた。早口に自己紹介をして、フリーターだけど怪しい者じゃないと主張し、すぐ本題にとりかかろうとする。
「ちょっと──ちょっと待ってくれよ」
私は手をあげて彼を遮った。ちょうどそこへ佳菜子がコーヒーを特って入ってきたので、なんとか間がもった。
我々二人に興味深そうな視線を投げながら、やっと彼女が出ていくと、私と直也は同時に口を開いた。
「ちゃんと説明すれば──」
「そんなにあわてないで──」
我々は同時に黙り、また同時にしゃべりだそうとして、また口をつぐんだ。直也は笑いだし、骨張った肩をすくめると、「どうぞお先に」と言った。
「よく、わからないんだけどね」私はゆっくりと言葉を選びながら話した。「まず、君は稲村慎司君の──」
「従兄《いとこ》ですよ。母親同士が姉妹なんです」
「従兄ね。君の方が年上だろ?」
「ええ。俺《おれ》はもう成人です。今年二十歳になったから」
軽い笑みを浮かべて、てきぱきと答える。感じの悪い笑顔ではなかったが、首から上だけで笑っているという感じがした。
痩《や》せ形《がた》の青年だった。背丈は私と同じぐらいだが、ズボンのベルトの穴は、ひとつ──いや、ふたつ分ずれるだろう。全体に血色もよくない。ふと、あのレストランで気分が悪くなりトイレに駆け込んだときの慎司の顔を思い出した。
「ちょっとごめんよ。不躾《ぶしつけ》なことを訊くけど、君、最近なにか大きな病気でも患《わずら》った?」
直也は首を振った。「いいえ。どうしてですか?」
「顔色が悪いからさ」
「そうがな……」顎《あご》のあたりを撫《な》でながら、ちらっと歯をのぞかせて笑う。「二日酔いですよ、きっと。昨夜《ゆうべ》ビールを飲みすぎちゃって。まだ頭の上をアルコールが飛び回ってるって感じがする」
二日酔いの天使なら、他人の眉の上にとまっているところも、自分の頭の上に乗っているところも何度も見たことがある。だが、今のこの青年の周囲には見当らない。嘘だな、という気がした。
「そう。まあそれならいいけど……。稲村君とは親しいの?」
「まあ親しいんじゃないかな。一度一緒にツーリングに行ったこともありますよ。俺もあちこち独りで旅するのが好きですし」
「ああ、そうか。つまり、趣味が一致してるんで、仲がよくなった?」
「そんなところです。まあ、兄弟みたいなものかな。俺たち、どっちもひとりっ子ですからね。兄弟ごっこをしてるんです。ときどき、本当の兄弟に間違えられることもありますしね」
二人並べて見ればまた違うのかもしれないが、顔立ちに似ているところはないように思えた。強《し》いて共通点をあげるとしたら、二人とも女の子にモテそうなきれいな目を持っているという程度だろうか。
「兄弟ごっこか、牧歌的だね」
「うるわしいでしょう?」
また笑顔を見せる。話し始めてからずっと、色櫻《いろあ》せたジーンズに包まれた左膝《ひだりひざ》を小刻みに揺すっており、笑顔をつくるときだけその揺れが止まることに、私は気がついた。
「ああ、すみません」直也は自分の膝を見おろした。「悪い癖だってわかってるんですけど。貧乏ゆすりをする男は出世しないって、おふくろにいつも叱《しか》られてた」
ずいぶん敏感だ、と思った。従弟《いとこ》に関《かか》わることだというだけで、いきなり見ず知らずの他人を訪ねてきたのだから、緊張しているのは当然だが。
「自分でも嫌なんですけどね」
「貧乏ゆすり? よくある癖だよ」
「いいえ、言いつけにきたことがですよ」
真顔に戻ると、目を伏せた。
「ただ、放っておいて事が大きくなってからじゃ、慎司も傷つくし、あなたにも迷惑がかかるだろうと思って」
「俺が何を迷惑するのかな」
「記事にするんでしょう?」
「何を?」
「慎司のこと。マンホールの事件の犯人を、あいつが見抜いたことですよ」
驚いた。「彼がそう言ったの?」
「言ってはいなかったけど──」左膝の揺れが激しくなる。「そう期待したからこそ、あなたを騙したんだろうから」
私は椅子《いす》の背にもたれた。「騙したとか騙されたとかの話はともかく、俺は彼のことを書くつもりはないよ」
考えてもみなかったことだ。だが、直也はひどく意外そうな顔をした。
「へえ……超能力はもう流行りじゃないですか」
「そうだね。それに、稲村君にそんな目的があったようには見えなかったし。彼から詳しい話は聞いたの?」
直也は頷《うなず》いた。「とんでもない馬鹿《ばか》なヤツです。あいつは」
「どうして?」
「あなたみたいな大人をペテンにかけるような真似《まね》をして」顔をあげると、それが理由のすべてだというように強く言った。「あいつ、まだ子供なんです」
「そりゃまあ子供だけど………」
「目立ちたがってて、劇的なことに憧《あこが》れてるんです。あいつぐらいの歳《とし》のときって、みんなそんなもんでしょう? なんかこう──自分はほかの人間とは違うんだって思いたくて。あいつの場合、それが超能力なんです。魅せられたみたいに夢中になってて、その話はっかりしてる。あいつの部屋には、その関係の本ばっかりが山ほどありますよ。一応理屈の通った理論とか、びっくりするような実話の詰まった本がね」
「そうだろうね。俺にも説明してくれたから」
「やっぱり」直也は顔をしかめた。「どこまでバカなんだ、あいつは」
私はしばらく彼の顔を見つめていた。こめかみがひくひくしているのが見えた。どうやら本気で怒っているらしい。
「もし稲村君がやって見せてくれたことがペテンだったとしたら」
私が身を乗り出すと、直也は座り直した。
「──言っておくけど、最初は俺も完全にペテンだと思ったんだよ。超能力なんて、はいそうですか凄《すご》いですねと認められることじゃない。実際、一度は、稲村君がマンホールの蓋《ふた》を開けておいた張本人なんだろうとまで考えたんだから」
直也はせわしなく肯定する。「ええ、そうです。そうです。それがまともな判断です」
「ただ、彼の言うことを信じないと割り切れないことも出てきたから──」
私は直也に、台風の夜とその翌日に起こったことを、詳しく話して聞かせた。彼はじっと聞き入っていた。
「当たり前だけど、慎司から聞かされたのと同じ話です。呆《あき》れるなあ。あいつ、ホントにすばしっこい」
直也は肩をすくめてみせる。私は苦笑した。
「あれだけのことが全部偶然の一致だったり、仕掛けのあるペテンだったとしたら、そっちの方をこそ俺は記事にしたいね。実によくできてるから」
「じゃ、タネあかしをしましょうか」いささか挑戦《ちょうせん》的な口調だった。「あいつのやったこと、全部合理的に説明がつくんですから」
私は彼を待たせておいて、メモとペンを取りに行った。すべて書き出して、どんな細かいことでも見逃さないつもりでいた。実際、思いがけない展開だったから。
「まず、マンホールの件ですけど」と、直也は始めた。「これは簡単ですよ。要するに、慎司は偶然見てたんです、赤いポルシェに乗った二人組がマンホールの蓋を開けるところをね。二人の服装も、車のナンバーだって全部見てた。あなたに話すときは、それらしく聞こえるように『川崎ナンバーだった』って言っただけで。その方が本当らしいからね。もちろん、二人が『ハイアライ』ってところに行くんだってことも、聞いてたから知ってたんです」
「見てたんなら、なぜその場で咎《とが》めなかったのかな」
「これほど大事になると思わなかったからですよ。しかも、相手は自分よりもでかい男の二人組だ。普通、見て見ぬふりをしちゃうんじゃありませんか。あいつ一人の力じゃとてもじゃないけど蓋を元どおりにすることなんかできないし」
私は頷いた。「それで?」
「二人が行ってしまったあと、慎司はあのひどい天気のなかでウロウロしてて、今度は行方不明になった子供さんが猫《ねこ》を呼んでるところに行き合ったってわけです。もちろん、そのときはまだ、その子がマンホールに落ちちゃうなんて思いもしなかったわけだけど」
だから、「モニカ」という猫の名前も知っていた──そこまでは、私も一時は考えたことがあった。
「で、そのあと、あなたの車に拾ってもらった。偶然マンホールの蓋が開いている現場を通りかかった。それであいつ、思ったんですよ。『ああ、これはちょっと面白い超能力ごっこができるな』って」
「超能力ごっこ[#「超能力ごっこ」に傍点]?」
「そうです。ただ『僕、見てました』っていうより、ずっと劇的で面白いでしょう? さっきも言ったけど、あいつはサイキックに憧れてるから、これはそのふりをできるいい機会だって思ったんですよ。しかも、あなたは雑誌記者だ。この手の話題にはすぐ飛び付いてきて、騒いでくれるかもしれないぞってね」
「ひとつ訊いていいか?」
「はい」
「それ、稲村君がそう言ったの? それとも君の考え?」
「すみません」直也はバツが悪そうな顔をした、「全部、慎司が俺に話したことですよ」
「彼が君に打ち明けた?」
「ええ」
「すごくうまく騙すことができたって?」
「そうです」
「いいよ、続けて」私は背もたれによりかかった。「興味がわいてきた」
直也は軽く空咳《からせき》をして、私の顔色をうかがうようなそぶりを見せてから、言った。「黄色い傘《かさ》を見つけたとき真っ青な顔をしたのは、皆さんと同じ、ああここに子供が落ちたんだってことにショックを受けたからですよ。なにも不思議なことじゃないでしょ? べつに傘から子供が転落する場面をスキャンしなくたって、誰でも青くなりますよまして、あいつは一度その子を見かけてるんだからね」
私は頷いた。「当然だな。ただ、稲村君は俺に、落ちた子供は、マンホールの縁で後頭部を打ったと言ってるそれは?」
「そりゃ、どこか打ってるでしょうよ」直也は捨《す》て鉢《ばち》な感じで言い捨てた。「遺体はきっと、どこもかしこも打ち身だらけじゃないですか? その程度のことなら、すごく安全で誰でも言うことができますよ」
「そうだな。俺もそれを決め手にするつもりなんかないよ。というか、彼が、マンホールの蓋が開けられる現場を見ていたんだとしたら、その件について言ってることは全部除外して考えてる。ただ──」
「ホテルのフロント係と、隣のレストランのウエイトレスの件ですね」直也は先回りをして言った。「それも簡単。あなたが一晩中捜索現場に出ているあいだに、あのウエイトレスがフロント係のところにやってきて、二人で立ち話をしているのを、慎司が聞いてたってだけのことです」
「ヒバちゃんていうフロント係のあだ名のことも、二人がときどきホテルの102号室を使ってることも──」
「ウエイトレスがタレント志望だってことも」直也はちょっと笑った。「目に浮かんじゃいますよ。フロント係がね、『おい、アローの記者が来てるぞ。明日の朝はそっちで朝飯食うように勧めてみるからさ、おまえ、ちょっとサービスしてグラビアにでも載っけてもらえよ』なんて言ってるところがね」
たしかに、ありそうな話ではある。大いに。
それでも、そう考えることには抵抗を感じた。あの朝、稲村慎司が自分はサイキックだと言ったとき、信じられないと思ったのと同じぐらい強く彼がすばしこく計算して行動するペテン師であるとは思いたくなかった。
(さよなら)と言ったときの、あのうちひしがれたような背中を思い出したからかもしれない。あるいは、どっちをどう信じようと、どのみち自分がまるっきり馬鹿に見えると思ったからかもしれない。
「彼を拾った晩、俺はちょっと不愉快なことがあって実家からアパートへ帰るところだったんだ」
私はゆっくりと言った。直也もゆっくりと頷いた。