饭饭TXT > 海外名作 > 《龍は眠る/龙眠(日文版)》作者:[日]宫部美雪/宫部美幸/宮部みゆき【完结】 > 龍は眠る.txt

第二章 波 紋 .2

作者:日-宫部美雪/宫部美幸/宮部みゆき 当前章节:15386 字 更新时间:2026-6-16 01:47

「彼はそれも言いあてた。誰かと喧嘩《けんか》してこっぴどく腹を立ててたでしょう、と。それに、四度目の禁煙の最中だってことも。これはどうなる?」

「腹を立ててたってことは、出会ったときのあなたの態度がそうだったから、そう言っただけのことですよ。禁煙のことは──」

「どう?」

「草の灰皿はきれいになってたし、一緒にいるあいだあなたは一度も煙草《たばこ》を吸わなかったし、ダッシュボードの物入れのなかに、新しいガス注入式のライターが二個あったけど、どちらもガスが切れてた。それと、いわゆる禁煙|飴《あめ》ってのが一個あった。そう言ってましたよ」

 呆れた。

「まるでシャーロック?ホームズだな。だけど、禁煙の回数は?」

「本当に四度日ですか? 禁煙してやめられない人は、何度断念したか正確に覚えてますか?」直也は言って、小さく笑った。「ここで一緒に働いてる人に、『おい、今度の禁煙は三度目だぞ』って言われたら、ああそうかなと思うんじゃありませんか。慎司もそうだったんですよ。禁煙というところだけ当てれば、あとはあてずっほうでも、かなりの確率であなたを納得させられると思ったから」

 心理学かね、と思った。人を説得するにはどうすればいいかお教えしましよう。

「で、次が」直也はまっすぐ私を見て言った。「あなたの子供のころの交通事故の件」

「そう」私はつぶやいた。「あれがいちばん驚いた」

「俺も驚きましたよ。慎司の記憶力がいいことにね。『アロー』の今年の四月五日号を見てください。僕は慎司から話を聞いたあと、図書館でバックナンバーを調べてみたんだけど──」

 彼が言い終えないうちに、私は席を立っていた。結集部の棚《たな》をさらって問題の号をつかむと、ページをめぐりながら応接室に戻った。そうしながら、見当がついてきていた。

 四回の分載で、「第二次交通大戦争」という特集を組んでいたのだ。私自身はタッチしていない。していないから忘れていたのだが、自分の事故の経験について、担当の記者と話したことがあった。雑談めいた形だったが、たしかに──

「四月五日号には、大型トラックにまつわる事故についての特集が載ってますよね」と、直他が言った。

 そのとおりだった。深夜、路上駐車されている大型トラックに、距離感を間違えた普通乗用車がまともに衝突して、荷台の下に潜りこむようにして大破する「サブマリン現象」という事故が激増していることを取り上げている。

 だが、それだけではなかった。特集の最後の方では、運転席が高く、アンダーミラーではカバーしきれない死角が多いという、大型車の危険な特徴に起因する「巻き込まれ事故」の件数が一向に減少していないことにも触れてある。

 そして、狭い道を曲がろうとするとき、大型トラックの前輪と後輪の描く軌道にどれほど大きな差があるかを示すモノクロの連続写真の説明文のなかに、担当記者はこう書いていた。

「小さな子供など、簡単に車輪の下敷きにされてしまう。本誌編集部にも、小学生のとき、三叉路《さんさろ》で信号待ちをしていて材木を積んだトラックの後輪に巻き込まれ、脛《すね》に傷もつ身になってしまったK記者がいるが、彼の話だと、トラックはゆっくり動いていたのに、気がついたらもうどうしようもなかったそうだ。おかげで、未《いま》だに大型トラックを見かけると足が勝手に逃げだすような気分になるそうである──」

(三叉路で信号待ちをしていて)

(材木を積んだトラックに)

(足が勝手に逃げだすような)

 目をあげると、直也が黙って頷いていた。

「でもこれは──」私はかろうじて言った。「頭文字だけだ」

「見たんですよ。あなたの足にある傷跡を」

「いつ? そんな機会はなかったよ」

「ありましたよ。マンホールの蓋が開いているのを見つけたとき。道路に降りるために裸足《はだし》になったそうですね? 上着も脱いで、ズボンの裾《すそ》もまくった。そうじゃないですか?」

 そうだった。

「むこう脛に傷なんて、そう誰でもつくるものじゃないですからね……。あと、事故のディテールは、適当に脚色して話したんでしょう。少しくらいなら平気ですよ。細かい部分では、あなたの記憶だってもう薄れてるだろうから」

 雑誌を開いたままテーブルの上に投げ出すと、私は思わず天井を仰いだ。

「なんてこった」

「最後にひとつ、女の人のことがありましたね?」

 小枝子のことである。

「いいよ、教えてくれよ。何を聞かされても驚かないから。まさか、彼女も君たちの従姉《いとこ》だってことはないだろ?」

 直也はまるで見当違いの質問を投げてきた。「今日着てる、その上着、事件の夜のと同じですか?」

「え?」

「同じ上着?」

「いや、違うよ。なんでだ?」

「じゃ、お宅に帰ったら、事件のときに着てた上着の裏地を調べてみてください。左の袖付《そでつ》けの下のところに、かぎざきを直した跡があるから」

「なんだって?」

 直也は落着きはらっていた。「かぎざきを繕った跡があるんです。白っぽい糸で。でね、繕いの縫い目の脇《わき》に、同じ色の糸で、カタカナで『サエコ』って名前の縫いとりが入れてあるそうです。慎司はそれを見たんだ。さっきも言ったけど、雨のなかへ出てゆく前に、あなたは上着を脱いで車内に置いていった。そのとき見えたんですよ。そう言ってた」

 唖然《あぜん》とするしかなかった。「本当に?」

「本当です。確かめてみればすぐわかることですよ」そう言って、直也はまた、首を縮めるようにして頭をさげた。「すみません。すごくプライベートなことですからね」

「そんな縫いとりがあるなんて、今まで全然気づかなかったよ」

 気づいていたら、そのまま残しておいたわけがない。

「言われなきゃ気づかないくらい小さい縫いとりだって、慎司も話してました。そんな茶目っ気のあることをする女性と言ったら、あなたの恋人か奥さんでしょうからね。まさかお母さんのわけないだろうし」直也はちょっと笑った。「この上着を着てる人はわたしのものよっていう署名みたいなものかな。可愛《かわい》い女性だったんでしょうね」

 たしかに、手まめで家庭的な女ではあった。仕事のせいで行き違ってしまっても、彼女が部屋に来ていたということはすぐわかった。いつもきれいに掃除がしてあったから。自分の才能は家事を執り仕切ることにあるのだと言っていた。だから、完壁《かんぺき》な見本のような家庭を望んでいたのだし、子供を欲しがっていたのだ。

「すみません」直也はまた頭をさげた。「そういう女性にだったら、あなたが事故のことを話してそうなものだってことは簡単に想像がつくし、その人の名前を出したときのあなたの反応で、今もうまくいってる女性じゃないんだってことも──」

「もういい」私はぶっきらぼうに遮った。「わかったよ」

 直也は黙って頷いた。

「ほかには?」ようやく、そう訊《き》いた。

「何もありません。ただ、お願いが」

 きちんと姿勢を正して、直也は言った。「本当に申し訳ないことをしましたけど、あいつのこと、勘弁してやってほしいんです。怒ったりしないで……もう会わないでやってください。よく言い聞かせて叱《しか》っておきましたから、二度とこんなふざけた真似はしないと思います。いや、俺《おれ》がさせません。約束します」

 彼の目は真剣で、口元が引き締まっていた。

「怒るつもりはないけどね」

 このうえ怒ったら、いい大人がなおさら阿呆《あほう》に見えるだけだ。

「ただ、彼に会うのもまずいかな」

「あいつ、病気ですよ」直也は切り捨てるように言った「あなたに会えば、また嘘をつくと思うな。ひと昔前の話ですけど、スプーン曲げ騒動って、あったでしょう?」

 昭和四十九年のことだ。いわゆる超能力ブームで、指で触れているだけで金属製のスプーンを折ったり曲げたりできるという子供たちが続々と現われ、ちょっとした社会現象にまで発展した。「週刊朝日」がそのトリックを暴《あば》き、反超能力のキャンペーンをうって、それもまた話題になったものだった。

「あったね。よく知ってるな。あの頃《ころ》、君なんかまだ学校にもあがってなかったろうに」

「慎司がその頃のことをよく調べてるんですよ。あれ、一種の集団ヒステりーみたいなもんだったって、俺は思うけど。子供は感化されやすいし、自分はほかの友達とは違う何かを持ってるって思うのは、すごくゾクゾクすることですからね」

「大人を手玉にとることも?」

「そうですね……。慎司もあの子たちと同じです。手がこんでるだけ重症だけど。早く目を覚まさせてやらなくちゃ」

 そして短く声をたてて笑うと、直也は言った。「もし本当に|超常能力者《サイキック》なんてものがいるとしたら──」

 それきり口をつぐんでしまう。

「いるとしたら、なに?」

 私が促すと、ぽつりとこぼすように、こう言った。

「マスコミの前に出ていって、スプーンやフォークを曲げたりなんかしませんよ。自分のことをしゃべったりもしない。怖がって、隠れてる。きっとそうに決まってます」

 最後にもう一度、もう慎司には会わないで、知らん顔を通してやってくださいと念を押すように言って、直也は立ち上がった。

「マンホールの蓋《ふた》を開けた二人組、名乗り出てきませんね」

「──うん」

「慎司が余計なことをしたからかな。高坂さんはどうするつもりですか? 彼らのこと、警察に?」

「そうするとしたら、稲村君のこともしゃべらないとならないな」

 直也の口元がぴくっと引きつった。ほかのなによりもそれを恐れているのだと、よくわかった。

「しゃべらないよ」私は静かに言った。「稲村君にも言ったけど、それじゃあんまりだからな。黙っていても、きっと彼らの方で行動を起こしてくれるだろうと思うから」

「そうだといいですね。本当に」

 直也は帰っていった。若者らしくない前かがみになった背中が、何かひどく重いものを背負っているようにも見えたけれど、それはただの考えすぎだなと思い直した。深読みや感情移入は、もうほどほどにしておこう──という気分だったから。

 それでも、ホテル「ピット?イン」に電話をかけて、あの夜のフロント係を呼び出してもらうことまでは、やった。悲しい習性と言うべきか、「裏をとれ」という内心の命令から逃げられなかったのだ。

 しばらく待たされて、「です」の「で」を省略する癖のある彼の声が聞こえてきた。

「あれ? なんだ、あんときの記者さんか。びっくりしたなあ」

「仕事中にごめんよ。妙なことを質問したいんだけど、答えてもらえるかな」

「へ? なんすか?」

 マンホールの事件の夜、ホテルのなかでガールフレンドのウエイトレスと話をしたかと尋ねると、彼は笑いだした。

「それって、大事なことなんすか?」

「非常に」

「はは。じゃあ答えましょう。うん、会いましたよ。あいつ、本当は、夜は九時まで働きゃいいんだけど、あの夜はあの天気だったでしょう? 帰れなくなって夜じゅうレストランにいたから、オレんとこに夜食持ってきてくれたりしたからね」

「102号室の話なんかもした?」

「うわっ! おっかねえなあ。なんでそんなこと知ってんの? オーナーには黙っててくださいよ。ちゃんとシーツはとっかえてるからね」

「彼女、君のことをなんて呼んでる?」

「オレのこと?」

「うん。ヒバちゃんて呼んでるか?」

 彼は仰天しているようだった。「『アロー』ってのはおっそろしい雑誌だね。どうしてそんなこと知ってるんすか?」

「なんでもないよ。ありがとう」受話器を置きかけて、付け加えた。「彼女にさ、モデルなんかにならないで、早いとこ君と結婚しろって言ってやれよ」

 フロント係は笑った。「あいつが一流モデルになって稼げるようになったら結婚するんすよ」

「甘い、甘い。そうなってからじゃポイされるぞ」

「へえ、そうかな。オレって、日本一のヒモになれる素質があると思うんすけどねえ」

 まだこ利用願いますと言って、彼は電話を切った。

 私はしばらくのあいだ、何もする気になれずに机に肘《ひじ》をついていた。やっと頭をあげて、うずたかく積まれた資料の向こう側にいる同僚に、煙草あるかと声をかけた。

「お、ついに四度日の禁煙破れたり」

「またやるよ。気が向いたらな」

 煙草は苦かった。笑止千万の顛末《てんまつ》だな、と思った。それでいながら、どうして笑うことさえできないのか、不思議だった。

 その夜アパートの部屋に戻って、あの上着の裏地に、たしかに「サエコ」の縫いとりがあるのを見つけた。

 やはり、笑いも怒りもしなかった。

 鋏《はさみ》で糸を抜こうとして、やめた。そのままゴミ集積所へ放《ほう》ってきてしまった。ひとつだけ、さっぱりしたことだった。

 その週末、また台風がやってきた。ある意味ではこれぐらい呑気《のんき》な災害もない。刻一刻と、近づいてくる様を眺《なが》めていることができるのだから。

 また雨台風だった。天が喘息《ぜんそく》を患《わずら》っているかのような風が吹いた。家が流され、山が崩れた。同じことの繰り返しだったが、子供が行方不明になることはなかった。

 逆に、今度の台風は子供を見つけた。

「望月大輔の遺体が出たよ」

 報《しら》せてくれたのは、以前に接触した支局の記者だった。

「今度の増水で下水の泥《どろ》のなかから押し流されてきたらしい。可哀相《かわいそう》にな」

 汚泥《おでい》のなかに。可哀相にな。

「解剖は?」

「まだだ。何か問題でも?」

「いや。べつにいいんだ」

(どこもかしこも打ち身だらけじゃないですか?)

 猫《ねこ》ほどうしたかな……と、ぼんやり考えた。

 電話で起こされた。

 校了明けの朝だった。手探りで枕元《まくらもと》の受話器をつかむと、佳菜子の声が耳に飛び込んできた。

「高坂さん? ごめんね、ごめんなさい」

「あのな」目をつぶったまま言った。「なんでもいいよ。何をやったにしろ許す。謝らないでいいからさ、気にするな。おやすみ」

「ちょっと待って! 切らないでよ! 急用なの」

「そう。休養したい」

「もう! 急いでるのよ! お客さまなの! 朝ね、あたしより先に来て待ってたの。男の子よ。どうしても会いたいんだって。可哀相に真っ青な顔してる。ねえ、起きなさいってば!」

 今度は稲村慎司だった。

 彼とは会わないと、約束をしてあった。着替えながら、何度かそのことを考えた。織田直他に連絡しようか、と。

 だが、それも芸のない話だ。こっちはいい大人なのだし、あれだけ筋の通ったタネあかしを聞いたあとだ。もうひっかかりはしない。

 結局、一人で出社した。慎司を叱ったり、全部聞いてるんだぞと怒ることもするまいと決めていた。ある意味では興味深い子供だし、彼が何を言いたくてやってきたのか、じっくり聞き出してみようと思ったのだ。

 朝九時の編集部は、徹夜明けに見るその時刻の編集部とはべつの場所のようだった。いっぱいにたちこめた煙草《たばこ》のけむりがないせいかもしれない。佳菜子は雑巾《ぞうきん》片手に掃除をしていたが、私が顔を出すとすぐに飛んできた。

「新鮮だな」と、彼女に言った。「こういう気分を久しぶりに味わった。それにしても通勤ラッシュはこたえるね。カコちゃんは毎朝あんな電車でもまれてくるのか?」

「頭は働いてるんだね」と、佳菜子は私の顔をのぞきこんだ。「あの子、応接室で待ってる。コーヒーが欲しいでしょ?」

「トン単位で頼む」

 偶然だろうが、慎司は直也が座っていたのと同じ席にいた。膝《ひざ》を縮め、肩をすぼめている。このところ、私に会いにやってくる青少年たちは、皆どこかしら具合が悪いようだった。

「ごめんなさい」と、いきなり言った。ふらりという感じで立ち上がる。

「朝からそう連発で謝られると、神父にでもなったような気がするね。どうしたの?」

「眠れなくて」慎司はすとんと座った。「気になって」

 目の下にくまが浮いているし、げっそりと頬《ほお》がこけたような感じもする。理屈抜きに、私は胸が痛むのを感じた。

「ちゃんと食事してるか?」

 慎司は首を横に振った。

「学校は?」

「今日は休みます」

「その方がいいな。帰って、何か食って、一日寝てろ。そうすりゃ少しは元気が出る」

 慎司は充血した目で私を見上げた。「あの子の死体が見つかったね」

 私は頷《うなず》いた。

「でも、あの二人は名乗り出てこないね?」

 また、頷いた。

「僕のせいだね?」

「違うよ」

「ううん。僕のせいだ」

 私はため息をつき、どすんと腰をおろした。ソファもため息のような音をたてた。

「君のせいだったら? どうする?」

 慎司は黙っている。

「どうしようもないだろ? どうしようもないってことは、すなわち君の責任じゃないってことだ」

 少なくとも、望月大輔が死んだことは、慎司の責任ではない。

「どうすればいいかわからないんだ」

「忘れろよ。それがいちばんだ」

「忘れられないよ」

「じゃ、努力して忘れろ。学校で教わるだろ? 人間、努力が肝心だ」

「ふざけてるね。おかしいよ、なんでそんな茶化すようなことばっかり言うのさ?」

「徹夜明けでね。人間てのは、限界以上に疲れると、頭のなかにモルヒネができるらしい。だからハイになるんだよ」

 慎司は一段と青ざめて口をつぐんだ。私は目をそらした。やはり、いくらかは腹を立てているのだ。この少年に。彼が人を騙《だま》すような子供には見えないことに腹を立てている。あまりに真面目《まじめ》に見えることに腹を立てている。

 どうしても嘘つきのように見えないから、腹が立つのだ。

 やがて、慎司は低く言った。「わかった」

「え?」

「直也に会ったんだね[#「直也に会ったんだね」に傍点]?」

 先頭打者ホームランみたいなものだった。とぼける余裕さえない。

 ノックの音がして、佳菜子が盆をささげて入ってきたのと、私が口を開いたのが同時だった。「誰のことだ?」

 佳菜子がびくっとした。横目でもそれがわかった。

 慎司はむきになった。「わかってるくせに。来たんだろ? ここに。そんなことをするんじゃないかって思ってた。直也、どんなことを話したの?」

 私は手のひらを広げた。「こっちは、誰のことだって訊いたんだぞ?」

 慎司は私を見つめたまま声を張り上げた。「おねえさん!」

 佳菜子は二度びっくりして、「はい!」と答えた。

「最近、高坂さんに会いに、学生みたいな感じの男が来ましたよね?」

 佳菜子は私を見おろした。私は彼女を見上げなかったが、顔の片側で(返事をするな)と合図した。伝わったと思った。

「おねえさん」慎司は半ば立ち上がり、佳菜子に近づいた。「来たでしょ? そうですよね?」

 佳菜子はあとずさりして、こちらに近寄った。私は彼女の肘に手を置いて、ドアの方へ押しやった。「悪いね。出てくれ」

「おねえさん!」

「出てくれ。な?」

 佳菜子はぎくしゃくと頷くと、ほとんど走るようにして出て行った。慎司は中腰で私を振り向くと、割れた声で言った。

「ひどいじゃない。なんでそんな意地悪なことするんだよ? 直也に何を聞かされたのさ?」

 怒るより何より、この瞬間、私はほとほと嫌気《いやけ》がさした。いったいなんでこんなやっかいなことに首をつっこんだんだろう。

「座れ」

 慎司は従わなかった。

「座ってくれ。頼むよ」

 それでようやく、くちびるをぶるぶる震わせながら腰をおろした。彼のしゃっくりのような激しい息遣いが少しおさまるのを待って、私は言った。

「なあ、俺はさ、君の倍近く歳《とし》をくってるんだよ」

 自分でも何を言いたいのかよくわからないまま、先を続けた。

「もっと年長の男から見たら、それでもまだ若い方なんだけどね。君や織田直也君よりはずっとくたびれてる。その分、頭も堅くなってる。君等の考えてることについていくのは大変なんだ」

 慎司が反応を示したのは、「織田直也」という名前にだけだった。

「やっぱり、彼、来たんだね?」

「ああ、来たよ。話も聞いた」

「僕がインチキをやったんだって言ったんだね?」

「ああ、言った。ちゃんと筋道の通った話だったし、裏もとれた」

 思いがけないことに、慎司はへへ、と笑った。

「可笑《おか》しいか? 可笑しいよな。俺《おれ》もできたら笑いたいよ。でもそうもいかないんだ。笑って君等の相手ばっかりもしてられない。誰のためになってるんだか知らないけど、やらなきゃならない仕事があるからな。いや、誰かのためにやってるんじゃない。食い扶持《ぶち》を稼ぐために働いてるわけだ。それはわかるだろ?」

 慎司はこっくりと頷いた。

「だからさ、話はストレートに行こう。いちばん因ってるのは俺なんだ。俺も一時は君を信じてたからな」

 やっと、慎司は顔をあげた。

「そうだよ。信じてた。それを言い触らすつもりはなかったけど、信じてはいた。あの状況じゃ、それがいちばん筋が通ってたからね。この世にひとつぐらい、理屈で割り切れないことがあったっていい。よく聞くことさ。遠くに住んでる友達が死にぎわにお別れに来たとか、夢でみたことが全部現実になったとか。誰でもみんな、ひとつぐらいはそんな話をあっためてる。俺もそれにぶつかったんだなと思ってた。実際、君が本当にサイキックなら、生きていくのはさぞ大変だろうとまで考えたんだぜ」

 何度かまばたきをしてから、慎司はまた目を伏せた。

「すると、だ。そこへ君の従兄《いとこ》だっていう直也君がやってきて、君のことを超能力に憧《あこが》れてるだけの嘘《うそ》つきだって言う。で、実に見事にそれを立証してくれた。おまけに彼は、もう君には関わらないでやってくれと言う。ところが今度は君がやってきて、どうして信じてくれないんだって言う。なあ、君たち俺にどうして欲しいんだよ」

 長い沈黙が落ちた。佳菜子はどうしているのか、足音さえ聞こえない。

「ただ、信じて欲しいんだ」

 慎司はそう言って、両手で顔をごしごしこすった。

「それだけです。本当のことを言ってるのは僕だから」

「じゃ、なぜ直也は嘘をついた?」

「彼も僕の仲間だからだよ。サイキックだから」

 私は黙って慎司を見つめた。メビウスの帯のなかに入りこんだような気分だった。

 慎司はぽつぽつと語った。一本調子の、唱えるような口調だった。

「彼は僕の従兄なんかじゃない。その方がとおりがいいからそう言っただけだと思う。彼ね、僕が今までで初めて会った、同じ力を持ってる仲間なんだ。僕より、直也の方がずっと力が強いけどね」

 知合ったのは二年前だ、という。

「新宿のね、紀伊《きの》國《くに》屋《や》書店で。あそこ、いつも満員電車なみに混《こ》んでるでしょ? 僕──何を買いに行ったんだっけな──もう忘れちゃったけど、とにかくあのなかでぶらぶらしてた。そしたら、彼の声が聞こえてきたんだ」

 頭のなかにね、と言って、本当に久しぶりに、弱々しい笑みを浮かべた。

「ああいう人込みに出ていくことって、すごくワクワクするけど、すごく疲れることでもあるんだ。しっかり能力をコントロールしてないと、何でもかんでもキャッチしちゃうから。ちょっと油断すると、すぐそばにいる人の周波数にあっちゃって、その人の考えてることが。伝わってきちゃう。何にたとえればいいのかな──高坂さん、輪唱ってやったことある?」

「輪唱? 歌の?」

「うん。静かな湖畔の森のかげから、とかさ」

 ちょっと節をつけて歌い、慎司は微笑した。

「ああ、あるよ。学校で。下手くそだったけどね」

「僕も下手なんだ。すぐ人につられちゃう。あれと似てるよ」

「人込みのなかにいることが?」

「うん。ちゃんと自分の節を歌ってるつもりでも、気がつくと隣の人に合わせちゃってる。あ、いけないと思って元に戻すでしょ。でもしばらくすると、また別の人の節で歌ってるんだ。それと同じ。自分が失《な》くなっちゃうっていうか……ひどいときなんか、自分が買いにいったものを忘れて、他人が欲しがってたものを買ってたりする。直也はそれを、『他人の思考に酔っぱらう』っていうふうに言ってるけどね」

 ひとつ息を吐いて、慎司は続けた。

「直也と出会ったころの僕は、やっとこさ能力のコントロールの仕方を身につけたばっかりだった。だから、しんどいけど、人がたくさんいる場所に出ていくことも好きだった。ほら、自転車に乗れるようになると、どこへでも乗って行きたくなるでしょ。試してみたくなるんだ。それと同じだよ。人込みのなかにいて、力を使ってみたり引っ込めてみたりする。それがすごく楽しかった。だから、そうしてた。それで彼をキャッチしたんだ」

「どんなふうに? さっきは『彼の声が聞こえた』って言ってたな」

「そうだよ。聞こえたの。でも耳でじゃないよ」

「彼、なんと言ってた?」

「あのときは、すごくお金に困ってた。切実だったよ」

「金にねえ。でも、今から二年前っていうと、彼もまだ学生だったんじゃないかな。家族はどうしてた?」

「彼、中学を卒業してすぐ家出しちゃったんだ。それからずっと一人ぼっちなんだよ、自分の面倒は、全部自分だけでみなきゃならない」

 フリーターだ、と言っていた織田直也は、たしかに、あまり良い身なりをしてはいなかった。膝の出たジーンズに、この季節には薄すぎるシャツ一枚──

「なぜ家出なんかしたんだろうね。理由は訊《き》いた?」

 突然慎司は声を張り上げた。「簡単だよ。サイキックだからさ」

なんて馬鹿《ばか》なことを質問するんだ、という勢いだった。

「それも、直也は僕よりずっと力が強いからだよ。強くて、ちょくちょくコントロールがきかなくなる。彼、ツイてないんだ。僕みたいに、遠縁でもいいから、身内に同じ能力者がいてくれたら、もうちょっと違ってたと思うんだけど。ずっと一人で苦しんでた。おまけに家のなかはゴタゴタ読きでさ、親は離婚するし財産争いは起こるし、そんななかに置かれたら、普通の子供だってグレちゃうよ。ましてサイキックがそんなところにいられるはずないじゃない!」

 私が黙っていると、慎司は勝手に興奮したことに照れたのか、バツが悪そうに下を向いた。「すみません。大声出しちゃって」

「いいよ。気にするな」

「ときどき、僕も怖くなるんだ。家族とうまくやっていけなくなるときが来るんじゃないかと思って」そして、ひどく寂しそうな顔をした。「家族だけしゃない。誰ともうまくやれなくて──」

「一人ぼっちになるんじゃないかと思う?」

「うん──今だって、すごく友達をつくりにくいなって感じることがあるからね」

 私は、あの長たらしい名前の会の代表者をインタビューしたとき考えたことを思い出した。

「聞きたくもない本音ばっかりが聞こえるから?」

「そうだね。うん」

「でも、それは聞かないようにコントロールすれば済むことだろ?」

「そうだけど……」慎司は目を伏せた。「高坂さん、僕ぐらいの歳のときを思い出して考えてよ。目の前にね、ちょっと可愛《かわい》いなあと思ってる女の子の日記があってさ、誰にも知られずにそれを読むことができるとしたら、どうする? プライバシーを侵害しちゃいけないって思って、絶対手も触れない?」

 私は笑った。「それほど真面目じゃないね」

 慎司も笑った。「でしょ? 僕だって同じだよ。相手のことが気になると──好きになったら余計に──知りたいって思うよ。で、自分にはそれができるってわかってるから我慢できない」

「それでスキャンしてみて、どうなる? 満足する? それともがっかりすることの方が多いか?」

「わからないな……たいてい……たいていはがっかりするような気もするし……」

 どこか非常に狭い場所に、針のような細いものを通そうとしているかのように、目を細くした。「時にはすごくいいこともある。去年のクリスマスに、彼女にプレゼントをあげようと思ってさ。いろいろ考えたんだけど、そんなのバカらしいよなあって思ったわけ。彼女の心に訊いてみりゃいいんだもんね?」

「じゃ、ガールフレンドをスキャンしたの?」

「うん。スケートに誘ってね。いい手でしょ? 可愛くてグラマーな娘《こ》だったけど、運動神経はてんで鈍くてさ、僕につかまってても一メートルと滑れなかったよ」

「それで何がわかった?」私は興味を惹《ひ》かれていた。

「彼女が僕にセーターを編んでくれてる。てことと、化粧品をね、彼女のお姉さんが使ってるのと同じ化粧品のセットを欲しがってるってこと。単品でも、すごく高いんだ。しようがないから、乳液と化粧水だけ買ってあげたよ」

「喜んだろ」

「最初はね」小さく言った。「最初のうちは。でも、だんだん彼女の態度がおかしくなってって……今考えると、僕はしょっちゅうそういうことをやってたんだ。一緒に映画を観《み》にいくじゃない? さあ、何を観るってことになると、彼女は何を観たがってるかな? あっちかな、こっちかなって、探ってみる。で、彼女が観たがってる方を選ぶ──」

「いいじゃないか。いまどきはそういう気配りのある男の方がもてるんだ」

 私は気軽に言ったが、慎司は笑わなかった

「気味が悪いって言われたよ」

 私は笑みをひっこめた。

「あたしのこと、なんでもわかってるみたい。キモチ悪いわ。それに時々、あたしのことなんかみーんなわかってるっていう顔で見るのね、そんなのイヤだわよ、だってさ」

 慎司は自嘲《じちょう》気味に鼻で笑うと、ため息をもらした。

「そうなんだ。だから彼女とはサヨナラ。それきりガールフレンドはできないよ。怖い気もする。新しい彼女ができたって、また同じことを繰り返すだろうからね誘惑に負けちゃうんだ。彼女のこと、みんな知りたいって。で、結局は嫌《きら》われる」

 その繰り返しだよ、と、小さくつぶやいた。

「男友達だってそうさ。先生のなかにも、僕のことを露骨に避けてる人がいる。自分じゃ決してそんなつもりはないんだけど、僕の顔に、優越感みたいなものが浮かんでるんだろうね。全部お見通しだぞって、ね……」

 口には出さなかったが私はそれを肯定した。私も彼の顔にそれが浮かぶのを見たから。あの造成地で。

(僕に触らないほうがいいよ。またスキャンされたくなかったら)

 すべて棚《たな》上《あ》げに──織田直也をとるか稲村慎司をとるかということは脇《わき》において──して、一般論で考えるにしても、もしサイキックというもが存在するとしたら、今慎司が語っているような問題は、間違いなく、きわめて現実的にその肩にのしかかってくる種類のものだろう。

 頭のいい子だ。私は驚いていた。その創造力、想像力に。そして彼が仮にサイキックを装りているのだとしても、それは意図的なものではなく、むしろ無意識の自己暗示に近いのではないかと考えた。ただ芝居を打っているだけで、ここまで深く具体的な洞察《どうさつ》をめぐらせることができるとはとても思えない。

 仮にサイキックを装っているのだとしても? 自分で立てたその前提に、思わず苦笑した。また堂々めぐりだ

「どうして笑うの?」

 素早く間われて、つくろう余裕もなく、私は正直に話した。

「君たちのどっちを信じりゃいいのかわからなくなったからさ」

「そうだろうね。ごめんなさい」ぺこりと頭を下げて、「でも、高坂さんが混乱するのも当然だよ。こういうことを專門に扱ってる学者さんたちだって、まるでインチキのサイキックに騙《だま》されて振り回されたり、ホンモノをホンモノと気付かないでやりすごしたりしてるんだからね。ユリ?ゲラーの騒ぎがいい証拠だよ」

「彼はインチキだったようだね」

「ペテン師の見本だよ」吐き出すように言って、慎司は口元を引き締めた。「それより、直也は、僕のインチキを証明するために、どんな材料を持ってきたの? 僕、高坂さんと会ったこととか、あの夜起こったことは、残らず直也に話したんだよ。彼それをどういうふうに料理したのかな」

 私が説明するあいだ、慎司は黙って目を伏せたまま、身動きもせずに聞いていた。が、話がアローの四月五日号のくだりにくると、ぱっと目を見開いた。

「そんなの、僕知らないよ。高坂さんの足の傷跡だって、目で見たわけじゃない」

「それにしたって、記事の内容と、君の言いあてたこととが似ずぎてるとは思わないか? そっくりだよ」

 憧司は何度か唾《つば》を飲込みながら、必死で考えているように見えた。

「直也がそれだけ一所懸命になって、ありもしない反証を探したってことだよ」

「それだけじゃ、ふたつが似ていることの理由にはならないね、偶然すぎるよ」

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