落ち着かな気にズボンの腿《もも》の辺りを手のひらでこすりながら、慎司は舌でくちびるを湿した。
「ひとつ考えられるのは──」と、目をあげた。
「言ってごらん」
「事故は二十年も昔のことだよね? 高坂さん自身、細かいことは忘れてる。でも、今年になって一度、四月五日号の配事のために、意識してそのことを思い出したでしょ?」
たしかにそうだ。
「事故のことを口に出して人にしゃべったわけだよね。言葉に出して話すとね、記憶って再構成されるんだ。で、再構成された形で、また保存される。だから、また次の機会に同じ記憶を呼び出すときには、その再構成された形で出てくるんだ。だから僕が高坂さんをスキャンして、事故の記憶を読み取ったときも、四月五日号の配事のために高坂さんが思い出したのと同じ内容が出てきたとしても、ちっとも不思議じゃない人だ。むしろ当然だよ」
私が顔をしかめたので、慎司は心配そうな表情になった。
「わかんない?」
「いや、わかんなくはない」
だが、どうも詭弁《きべん》のような気もするし──
「僕にもうまく説明できないよ」と、慎司は途方にくれたように肩を落とした。
「ほかのことについてはどうだ? たとえば、俺の上着の裏地に縫いとりがあったってことは?」
それだけは、慎司が実際に目で見て、織田直也に話したのでなければ、説明不可能なことだ。
どこかが痛んでいるかのような顔で、慎司は認めた。「……見たよ」
「そうか」
「だけど、それと、スキャンで『サエコ』って名前が出てきたこととは関係ないよ!」
法廷では通用しない理屈だろう。
「フロント係の人のことだって、説明できるよ。そうだよ、あの夜、ウエイトレスさんが遊びに来て、二人でカウンターをはさんで色々おしゃべりしてたんだろうさ。でも、僕はそれを聞いてはいない。絶対! 僕は、フロント係が一人でいるところへ、濡《ぬ》れた服を乾かしてもらうために降りていったとき、カウンターに触って、そこから二人のやりとりを読んだんだもの! だから──」
「わかった」
「わかってないよ、聞いて──」
「わかったよ。細かいことはもういい。混乱するだけだからな。ひとつだけ、肝心なことを教えてくれ」
慎司は気色ばんだ。「なんですか?」
「織田直也は、どうしてわざわざそんな手間をかけて、俺が君に騙《だま》されてると言いにきたんだろうな?」
慎司はぐいと顎《あご》を引き、きっぱりと答えた。「怖がってるから」
「なにを」
「自分がサイキックだってことを、世間に知られることをね」
どきりとしたのは、直也の言葉を思い出したからだった。
(もし本当にサイキックなんてものがいるとしたら、怖がって隠れてますよ)
「でも、これは君のことだ。彼のことじゃない」
「同じですよ。僕らは仲間だけど、このことではまるっきり意見が対立してるからね」
慎司は膝《ひざ》の上で拳《こぶし》をかためた。
「僕は、持って生まれたこの力を活《い》かしたい。人の役に立てるものなら、そうしたい。そうでなきゃ意味がないもん。ただこんなしんどい思いをするだけなら、なんのために生きてるんです? 外国じゃね、サイキックが警察の捜査活動に協力したりするんですよ。堂々と、公的にね。すぐにそこまで行くことはできないだろうけど、機会があるならどんどん表に出ていくべきだと思う。ただ──今度は、僕があさはかだったばっかりに、かえってややこしいことにしちゃったけど」
語尾が震えた。
「だけど、直也はそうじゃない逃げることばっかり考えてる。僕もそれは理解できるんだ。彼、辛《つら》い思いばっかりしてきたから。能力を持ってるばっかりに、散々嫌《いや》なことを経験してきた。家も飛び出したし、仕事だって長続きしない。だからお金にも困ってるし、住むところも定まってないんです。僕と初めて会ったときだって、彼、もう小銭ぐらいしか持ってなくて、仕事のあてもなくて──どうしようかって悩んでた。もういっそ死んだ方がましだ、そうすればこの力とも縁が切れる、とそれが僕に聞こえたんですよ。彼、文庫本の棚にもたれて、本当に今にも死にそうな顔をしてたんだ」
痩《や》せて血色の悪い織田直也の顔が、私の頭をよぎった。
「仕事が続かないのはね、彼が周囲をスキャンしすぎるからなんです。コンビニに勤めるとするでしょ? で、ある晩、レジのお金が合わなかったとする。おかしいって調べてるとき、みんなそれぞれ困った顔で、いろいろ考えてる、直也はあんな格好で、ちょっと病人みたいにも見えるし、学校もろくに出てない風来坊だからね。すぐ疑われる。でもみんな口には出さない。出さなくても、彼には聞こえる。聞こえちゃうから。そういうことが積み重なっていって、もうそこにはいられなくなるんです。追い出されるわけじゃないけど、直也自身がそういうふうに自分を追い込んでいっちゃうんだ。その繰り返しで──こういうのを悪循環っていうんでしょう?」
「じゃ、スキャンをやめればいいじゃないか」
「そうですけどね」慎司はむっとしたようだった。「そうですよ。好奇心を抑えてね。でも、それはすごく難しい。直也の場合は、僕よりずっと難しい。どうしてかっていうと、彼の力は僕よりも遙《はる》かに強いし、さっきも言ったけど、彼にはサポートしてくれる人がいなかった。最初から一人ぼっちだったから、いまだに力をコントロールする技術を身につけられないでいるんです。力が独り歩きしちゃうんだ」
オープンになる[#「オープンになる」に傍点]。その言葉を思い出し、私は不覚にもひやりとした。
「恐ろしいよ。すごくたいへんな毎日だろうと思う。だから、僕もできるだけ力になりたいと思うけど、どうもしてあげられないんだ」
ちょっと言いにくそうに口寵《くちご》もってから、慎司は続けた。
「一度ね、お金で女の人を買ったことがあるんだって」
私はぎょっとした。べつに売春の話に驚いたわけではなく、展開が読めたからだ。
「ね? 想像つくでしょ? 今そういう顔をしたよ」慎司は皮肉な笑い方をした。「直也は笑って話してくれたけど、目は真っ暗だったよ。だってさ、やってるあいだじゅう、相手の女の人がああやだやだやだやだやだやだやだ──」
激しく首を振りながら、慎司は「やだやだ」を繰り返した、そしてパッと口を閉じ、しばらく間をおいてから、ぼそりと言った。
「結局、できなかったって。その欲求不満だけでも俺は早死にするって言ってる」
何か気のきいたことを言ってやろうとして、できなかったあまりにも生々しすぎて。
「おまえも覚悟した方がいいぞ。て、脅かされたよ。いちばん本音の出るときだから。いいときばっかりじゃないだろうからね」
「そう──だろうな」
疑問がブーメランのように弧を描いて戻ってきた。彼らはどういう結婚生活を築いてゆくのだろう?
知らないから幸せということはある。理解できないから平気でいられるということで、生活は成り立っているのだ。
「あれじゃ、恋愛なんてできやしないよ。僕でさえできないと思うことがあるんだから。だけどね、だからと言って犯罪者になれるぼど、直也は強くないんだ。優しいんだもの」
だから心配なんだと慎司は声を高くした。「冗談抜きで、今のままでいたら、彼はもうそう長くは保《も》たないよ。擦り切れちゃう。彼、危険なくらいしょっちゅうオープンになってて、それで身体《からだ》が弱って、身体が弱るからもっとコントロールが利《き》かなくなって、またオープンになる。だからなんとかしたいんだ。助けがほしい。だけど直也はものすごく怖がってて、うんざりしてて、自分からは絶対に力を人に示したりしないからね。せめて僕が──僕が何かのとっかかりをつくれればって思うんだけど、彼はそれを片っ端からつぶしていっちゃうんだ」
震える手で頭を押さえると、目を閉じた。「そうでなくても、今度のことは、最初から僕の勇み足だったけど。難しいよ。すごく難しい。どうしたらいいのかわかんないよ」
沈黙が落ちた。慎司は心臓発作でも起こしたかのように息を切らしていた。
「大丈夫か?」
声をかけても、しばらくは返事もしなかった。
「──うん。僕は平気です」やっとそう答えて、顔をあげた。
とりあえず、私は言ってみた。「どこか公共機関を訪ねてみることは考えてみた?」
慎司は頷《うなず》いた。「でも、どこがいい? 防衛庁でなんか研究してるって噂《うわさ》を聞いたことはあるけどはっきりしないもん。それに僕たち、兵器みたいにされるのはごめんです。絶対に嫌だ」
「でもマスコミだって、君等をまともに扱いはしないよ」
「そうだね。そうに決まってるよね」慎司はひきつったように笑った。「だからどうしようもないんだ。わかってます」
長い長い物語を聞いて、結局私に残されたのは、日の前のうちのめされたように肩をすぼめている少年を信じるか、彼をノイローゼ患者扱いするかという、ふたつの道だけだった。
理性ではまだ後者にしがみついていた。織田直也の種明かしは衝撃的だったし、明快だった。そしてそちらに軍配をあげた方が楽でもある。
だが──
「少し、考えてみる」
私が言うと、慎司は真っ赤になった目をしばたたかせながら、見つめてきた。
「俺に何がしてあげられるかわからないし、自信もないけどね。何か手があるかもしれない。それでどうだ? とりあえずは落ち着かないか?」
「……うん」
「じゃ、そうしよう」
「はい」
慎司はゆっくり立ち上がった。倒れるんじゃないかと心配したが、案外しっかりしていた。
「望月大輔のこともマンホールの事件も、もう気にするんじゃないよ。あれはもう君の手を離れたことだ。いいな?」
「わかりました」
だがドアの方へ向かいながら、慎司はぽつんと言った。「七分三分くらいだね」
「何が?」
「七分ぐらいは信じてないでしょ?」
図星に近かったが、私は疲れていたし、慎司はもっと疲れているように見えた。
「なあ」彼の頭に手を置くと、できるだけ優しい声を出した。「もう、よそうや。とにかく今は、な?」
華奢《きゃしゃ》な頭がこっくりした。
応接室を出ると、佳菜子が受付の机の向こうから、怯《おび》えたような視線を送ってきた。慎司はずっとうつむいて歩いていたが、彼女のそばを通るとき、すっと顔をあげた。
「さっきはごめんなさい。びっくりさせて」
佳菜子はまた驚いた顔をしたが、反射的に「いいえ、どういたしまして」と答えた。慎司をタクシーに乗せ、家についたら電話をすることを約束させた。編集部に戻ると、デスクが出てきていた。
「早いですね」
「枕元《まくらもと》で、女房と娘に生命保険の掛け替えの話をされてみろ。おちおち寝てられん」
「ヒヤヒヤ」
「笑え笑え。今のうちだ」そして、ちらりと佳菜子の方を顎で示した。「聞いたよ。おまえさん、青少年相手の相談コーナーでも開設したかね」
「すみません」
「かまわんよ。その代わりリベートはとるぞ。何が起こってんだ?」
返事を渋ると、ぽんと背中をたたかれた。
「まあ、いい。まとまったら聞かせてくれや。なんにせよ、たいぶ消耗戦らしいな」
「わかりますか?」
「髭《ひげ》に白髪《しらが》が混じってるからな」
洗面所で確かめてみた。嘘《うそ》だった。まったく食えない親父《おやじ》だ。仏頂面《ぶっちょうづら》で部屋に戻ると、「ざまあみろ」
と笑っていた。
四十分ほどで、慎司は電話をかけてきた。ご両親と話す必要はあるかと訊《き》くと、
「そんな心配しないでください。僕、うまくやってるから。タクシーのチケット、ありがとう。偉くなったような気分でしたけど、僕には贅沢《ぜいたく》すぎるよ」
「気にするなよ。どうせ俺の金じゃないんだ」
「高坂さん。コウリョウアケって、あのおねえさんが言ってた。少しは休めるんでしょう?」
「まあね」
「じゃうまくいくと、今夜はバッハを聴けるよ」
「バッハ? クラシックの?」
「うん。親知らずが腫《は》れちゃったんだけど、一人じゃ行ってもつまんないんだって。だけどホントはそれって嘘なんだ。ちゃんと最初から二枚買ったんです。サントリーホールだよ」
一方的に、電話は切れた。
午前中の空き時間を利用して、本屋をいくつかまわり、サイキック関連の著作を買い漁《あさ》った。実に多種多様の本が出版されていることに驚かされた。
次の特集に関する打ち合せのときも、取材の段取りを決めているときも、頭の半分はそちらの方へいっていた。ようやく四時すぎになって身体が空いたので、会議室を占領し、山積みにした本を片っ端から読んでいった。
集めてみると、「コリン?ウィルソン」という著者名が目に付く。「アウトサイダー」のあのウィルソンだが、この方面でも権威であるらしい。非常に真面目《まじめ》に検証している。
反面、超能力というふれこみでなされていることは、すべてトリックで説明できると証明している書物もあった。これも説得力がある。スプーン曲げなど奇術の初歩的な技術にすぎないと、図解入りで説明されている。
給湯室からティースプーンを二本失敬してきて、ひねくりまわしてみた。なぜこんなことが、あれほど子供たちを惹《ひ》きつけ、魅了したのだろう……
ドアにノックの音がして、佳菜子が顔を出した。
「お邪魔していいかな」
「どうぞ」
「何やってるの?」
「ちょっとね」やはり照れ臭いものだ。「ちょっと学術的な考察をしてる」
佳菜子は近付いてきて、散らかっている本の題名を見た。「超能力? ヤダ、似合わないなあ」
「悪かったな」
「スプーン曲げでしょ? 肩ごしにうしろに放《ほう》ると曲がるのよ。流行《はや》ったんだ、昔」
佳菜子が昭和四十九年のブームを知っているはずはない。してみると、この話は連綿と受け継がれているのだろうか。
「ホントかよ」
「ホントよ、やって見せてあげる」佳菜子は私の手からスプーンを取り上げ、えい、と声をあげて放った。床に落ちて派手な音をたてた。それを急いで拾いあげる。
「ほら、曲がった」
投げてない方と比べてみると、たしかに少しばかり歪《ゆが》んでいる。
「こんな乱暴なことをやれば、なんだって曲がるだろうが」
「そうよねえ」と、笑っている。「だけど、ヘンね。超能力っていうと、どうしてすぐスプーン曲げなのかしら。スプーンなんかいくら曲げたってなんにもならないじゃない?」
実際、そうなのだ。真面目に取り組んで資料を読んでみれば、その「すり替え」のおかしさがすぐわかる。問題はそんなことではないのだ。
「手軽だし、目立つし、わかりやすいからじゃないか」
「それだけ? だったら自転車のスポークだっていいじゃない。あたしが超能力者だったら、もっと曲げる意味のあるものを選ぶけどね」
「ああ、曲げろ曲げろ、なんでも曲げていいよ。都庁の新庁舎のでっかいタワーなんかどうだ? あれを曲げたら喜ばれるぞ」
「それじゃキングコングみたい」佳菜子は笑い、とり澄ましたふうにくちびるを尖《とが》らせた。
「まず曲げるのは、高坂さんのおへそね。だいぶ曲がってるから、もうひと曲げすると正常に戻るわ」
「それより、デスクの十二指腸を曲げてやれよ。ショックで潰瘍《かいよう》が治るかもしれない」
「わあ、気持ち悪い!」
いやにはしゃいでいる。私はスプーンを机の上に放り出して、彼女を見上げた。
「で、なんだ?」
「何が?」
「用があるんじゃないの?」
「あ、そうか。そうね」
急に真面目な顔になってしまった。ちらっとだが察しがついたような気がして、おやおやと思った。
「また例の郵便でも来た?」
「え? ううん。そんなんじゃないの」
両手を背中に回し、大げさに肩をすくめ、そのわりにはなんでもないような声で、こう言った。
「あのさ。今夜、暇?」
どきっとしたのは、純な理由からではない。慎司の電話を思い出したからだった。
「なんで?」
「コンサートのチヶツトがあるんだ。二枚」
(うまくいくと、今夜はバッハが聴けるよ)
「友達と一緒に行く約束してたのよ。それが急に都合が悪くなったって電話してきて。もったいないじゃない? 一人で行ったってつまんないし。編集部でさ、クラシック聴きそうな人って言ったら、高坂さんど網野さんぐらいだけど、網野さんは新婚でしょ。あたし不倫は嫌なのよね」
冗談めかして明るく言っているが、いつもの倍は早口だった。あのカメラマンが言うとおり、真から純情な可愛《かわい》い娘《こ》なのだ。
「ダメかな? わりといい席なのよ。ホールもきれいだし」
「場所、どこ?」
「サントリーホール」
ずしんときた。
慎司の声が頭によみがえった。(今夜バッハが聴けるよ)
七分三分で信じてないでしょ? だから決め手をあげるよ。
「高坂さん?」佳菜子がのぞきこんでいた。「どうしたの? そんなに恐い顔して」
「悪いな」反射的に、佳菜子の方を見もしないでそう答えていた。「今夜は駄目《だめ》だ。先約があって」
そう、という小さな声が聞こえた。「じゃ、しょうがないね。ほかの誰かを誘ってみるわ」
(本当は最初から二枚買ったんだよ)
「カコちゃん」
呼び止めると、ドアのところでさっと振り返った。
「なあに?」
「友達、なんで急に都合が悪くなったんだ?」
佳菜子は目に見えて狼狽《ろうばい》した。この娘は本当にまだ子供で一生懸命で、おそらく色々な理由を考えていて、そのひとつを選びだそうとして──
言うまい、言うまいと思って、確かめたいという誘惑に負けた。
「親知らずが腫れたんだろ?」
佳菜子は目を大きく見張り、背中をつっぱらせて立っていた。やがて、かすれた声で言った。「そうよ。なんでわかるのかな」
口元をくしゃくしゃっと歪めて、「意地悪ね」と言い捨てると、ドアを閉めた。駆けてゆく足音が聞こえた。
こうやって人を傷つけることも、自由自在だ。
(なんでもわかってるような目をしてて、気味が悪いって言われたよ)
初めて、膝《ひざ》が震えた。
4
専門家の助言を仰いでみるべきだ。
そう考えて、はたと詰まった。いったい、この分野に専門家などいるものだろうか。原発や消費税や憲法改正とはことが違う。原発なら、否定派だろうと推進派だろうと、基本的知識やデータの収集の段階では、同じことをやっている。また、そこまでは同じことをやっているのでなければ、それはもう即偏向なのであって、話にならない。
だが、超能力は、そもそもその存在すらがまだ確認されていない種類のものなのだ。この人が専門家だと評されている人物だろうと、専門家や研究者を自称している人物だろうと、肯定と否定のどちらの側に立っているかで、すでに色分けができてしまっている。肯定派の持っているデータがどこまで信頼できるものなのか、否定派の集めている事実がどの程度まで予断の煙に燻《いぶ》されていないものなのか、こちらは知りようがない。どのサイドへ行って話を聞こうと、結局今の混乱状態に輪をかけるだけなのではないか。
それでも、集めた本の著者や訳者のリストをつくり、直接会って話を聞くことができそうな人物には、チェックを入れた。付箋《ふせん》と折り目だらけになつた本を段ボール箱に詰め、会議室を出て編集部に戻ると、机の足元に押し込んだ。
「お勉強は終わりかね?」と、隣の机に陣取っている生《い》駒《こま》悟《ご》郎《ろう》が声をかけてきた。他のメンバーは引きあげたのか、誰もいない。佳菜子の姿も見えない。天井の蛍光灯《けいこうとう》も、生駒がいる側を残して、半分消されていた。
「えらく熱心だったな」生駒は言って、うなりながら背中をのばした。まるで熊《くま》──漫画映画に出てくるクマゴロウそのものだ。
既製服では絶対に間に合ったことのない大男で、「俺《おれ》は体重と同じだけの金の値打ちがある記者だ」というのがふれこみだが、彼の妻君に言わせると、「体重と同じだけのタールとニコチンの固まりだわよ」という御仁である。チェーンスモーカーなのだ。今も、爪《つめ》の黄色くなった指のあいだにちびたハイライトをはさんでいる。机の端に積み上げたファイルの上には、今にもひっくりかえりそうな灰皿がひとつ。もちろん、吸《す》い殼《がら》が山になっている。
自分の椅子《いす》に座ると、その灰皿が落ちてきたときまともに膝で受けとめる羽目になりそうだったので、まずそれをごみ箱のなかに処分してから、回転椅子に腰をおろした。
生駒はにやにやした。「几《き》帳面《ちょうめん》な隣人がいると助かる」
「よっぽど肺癌《はいがん》で死にたいんだな」
「そうじゃない。俺の親父は酒も煙草《たばこ》もやらなかった。それなのに肝臓癌で早死にだ。親父め、死ぬときにはさぞ後悔したろうと思うと、可哀相《かわいそう》でたまらん。俺は煙草を吸ってるんじやなくて、親父を供養《くよう》する線香を焚《た》いてるんだ」
「よく言うよ」私は笑いながら自分の煙草に手をのばした。
「大学で弁論部にいたような女房をもらってみろ。理論武装してないと落ち着いて飯も食えねえ。なんだ、禁煙解除か?」
「休戦でとこかな」
「やめとけやめとけ。隣に俺がいる限り、どうせ同じ空気を吸うんだ」
歯を剥《む》き出して笑いながら、吸い殻をひともみで押し消し、次の一本を振り出す。生駒の妻君は、この春落成したばかりのマイホームの壁が汚れるというので、彼が煙草に火をつけるたびにベランダに追い出すという話だ。それでは生駒は一日中ベランダにいることになるだろうから、どうせ嘘に決まっているが。
「そっちは何やってたんだ?」
生駒は机の上に週刊誌を広げていた。私が尋ねると、ちらりと表紙をめくってみせた。「週刊文春」だった。
「シリーズで、美容整形についての特集を組んでる。かなり恐い話ばかり並べてあるが、面白いことは面白い。うちへ持って帰って由美子に見せてやろうと思ってさ」
由美子とは、生駒の長女の名前である。たしかまだ高校生のはずだ。
「由美ちゃんに? なんでまた」
生駒は大げさに顔をしかめた。「整形したがってんだよ。鼻の形が気にくわねえって。大人になりゃほっといてもよくなるって言ってきかせたんだが、てんでダメだ」
二、三度自宅に招かれたことがあって、顔を見ているが、生駒由美子は母親ゆずりの可愛らしい顔をした娘だった。大人になればきっと美人になるだろう。
「そんな必要ないって言ってやればいいのに」
「親がそんなことを言ったって無駄だよ。あの年ごろは、自分でこうと思ったらそれしかねえからな」
「じゃ、今整形したって、まだ骨が固まってないから無駄になる。て言えばいい」
「それじゃあたしの青春は暗いまま終わっちゃう、とくるぜ。言っとくが、今の『青春』は二十歳までだそうだ。『お父さんなんて、そんな歳《とし》になって何が楽しくて生きてんの?』と抜かしやがる。『じゃあ父さんが死んじまったら誰がおまえたちの生活費を稼《かせ》ぐんだ?』ときいたら、『保険があるもん』だぜ」
「反抗期だよ」
「クソ面白くもねえ。だから言ってやったんだ。『父さんは、おまえが風呂に入ってるのをのぞきに行くのが楽しみで生きてる』。そしたら、鍵《かぎ》をかけて明かりもつけずに風呂に入るようになりやがった。俺がトイレに行こうと前の廊下を通るだけで、襲われたみたいにギャアギャア騒ぐんだ。女の子ってのは、どうしてああバカ真面目なのかね?」
その光景が目に浮かんで、私は久々に声をあげて笑った。
「笑い事じゃねえんだよ、まったく」
むっつりと言ってはいるが、生駒も目は笑っていた。なんだかんだ言っても、家族思いの男であることを、よく知っている。確かめたことはないが、履歴書の家族構成欄の続柄《つづきがら》のところには、きっと「愛妻」「愛娘《まなむすめ》」と書いているはずだ。
「ウケたな、これは」生駒は足を組み、大きな爪先《つまさき》をぷらぷらさせながら私を見た。「ここんとこ、おまえさん、毎日歯医者に通ってるような顔ばっかりしてたからな。それも、やっとこで奥歯を抜かれてるような顔だ。それとも尿道結石にでもかかったか?」
「まさか」私は椅子の背にそっくりかえって腕を組んだ。「でも、実を言うと参ってる」
「そりゃそうだろう。顔を見てりゃわかる。何が起こってる?」
最後の方は真面目な質問になっていた。
生駒悟郎は四十七歳。雑誌記者としてのキャリアは私よりはるかに長く、濃い。物流関係の業界紙を振り出しに、本人もしかとは覚えていないというほど多数の出版社や雑誌社を渡り歩いてきた猛者《もさ》だ。
彼になら話してみてもいい──というより、話すのなら彼だと思った。
自分が関《かか》わっている今の事態を、記事にしようとか、面白いネタになりそうだというふうに考えることが、私にはできなかった。だから、うっかりスタッフの誰かに聞かれて、「面白いじゃない、それ行こうよ」などと言われるようなことは、極力避けたかった。
生駒なら口も堅い。私はちらりと辺りに目を配り、もう一度誰もいないことを確認してから彼の方へ向き直った。
生駒は察しが良かった。「広がるとまずい話か?」
「できるだけ広げたくない。刺激的だし、うちの連中のなかにも、この手の話を好きそうなのがいるから」
最初から順序だてて説明した。今日の夕方にあった、佳菜子のことも省かずに。そのあいだに、生駒はハイライトを十本は灰にした。
聞き終えると、彼は吸いさしを灰皿で押しつぶし、初めて、次の煙草には火をつけずに、大きな手を机の上に乗せた。
「ヘビイだな」と、太い息を吐きながら言った。
「だろ? 扱いに困ってる」
「子供はどんなことにも真剣だ。だから困る。遊びも真剣だからな」
「遊びでやってるとは思えないんだ。手が込みすぎてる」
「いや、そうじゃない。手が込んでるからこそ遊びなんだ。好きでやってるからこそいくらでも凝ることができるんだよ」
私は眉《まゆ》をあげた。「じゃ、全部ペテンだと?」
「俺はそう思う」生駒は重々しく頷《うなず》いた。「おそらく、その織田直也ってあんちゃんの言葉の方が正解だ。筋が通ってる。だが問題は、それをどうやって稲村慎司にわからせるか、だな」
「チケットの件はどう説明する?」
生駒は分厚い肩をそびやかした「おまえさんが叩《たた》き起こされて出てくるまで、稲村慎司は彼女と二人でいたんだろう。そのあいだに、カコがチケットを持ってるところでも見たんだろうよ。彼女のことだから、こっそりおまえさんに聞かせる台詞《せりふ》の練習でもしてたのかもしれん。あの娘は顔に出るタイプだ。特にここんとこ半月ほど、やたらに盛り上がってる。あれじゃ、『あたしは高坂昭吾と寝たい』っていう看板下げて歩いてるようなもんだ。おまえだって気づいてたろうが」
頷いた。「様子がヘンだってことはわかってた」
「俺にも年ごろの娘がいるからわかるが、あれは一種の病気だ。誰でもかかる」
生駒は座りなおし、椅子をきしらせて、頭のうしろで手を組んだ。
「なんというかな……あれは、おまえさんて男の実体に恋してるわけじゃないんだ。幻を見てる。おおかた、仲のいい友達かなんかが、歳の離れた男と結婚したかしたんだろう。それに影響されて、勝手に夢をつくりあげてるんだ。しばらくすれば、目が覚める」
ふっと笑い、「これが、相手が井出や森尾だったら」と、若手の契約記者の名をあげて、「俺も放っておかんよ。彼女をつかまえて説教する女は受け身だし、男はズルいぞ、何かあったら深く後悔するのはカコの方なんだからな、とな。だが、おまえさんはあの娘の病気に付け込むほどワルじゃない。それほど狡《ずる》いことをするには、おまえって男は真面目《まじめ》すぎる。いくら自分が過去にこっぴどい目にあってるからって、じゃあ今度はやり返してやろうと思うほどの──」
「根性はない」と、私は言った。生駒は豪快に笑った。
「そうかね。俺はそこまでは知らん。だが優しいことは確かだと思う。うちの女房も同意見だ。男でも女でも、傷ついて優しくなるタイプと、残酷になるタイプとがいるそうだ。おまえは前の方だって言ってた」
「有り難いね」
「あんな中古でいいなら、いつでも下取りに出すぞ」と、心にもないことを言っている。生駒は、私と相馬小枝子のあいだに何があったかを、正確に知っている。「アロー」では彼だけだ。
最初から、コンビを組んで動き回ることが多かった。そしてある夜、ハシゴ酒の何段目かで、二人きりになったとき、いきなり訊《き》いてきたのだった。
(噂《うわさ》はよく聞くんだ。だが、俺は又聞きってやつを信用しない。それに、おまえの異動の理由がなんであれ、俺には関係ない。だが、雑音がうるさくって困る。噂が本当なのか、まるっきりの出任せなのか、それだけでいい、教えてくれ)
だから、私は正直に話した彼は黙って聞いて、(わかった。もう訊かん)と言っただけだった。彼がこの件を持ち出したのも、今度が初めてのことだ。
「忠告しておくが、ひとつひとつの言葉を取り上げて吟味をしてたんじゃ駄目だ。カコのことじゃない、超能力少年のことだぞ」
生駒は起き上がり、真顔に戻った
「全体を見ろ。細かいことは小細工が利《き》く。ああいうことに熱をあげる子供は、そりゃもう、びっくりするほど緻密に計算して、大人の目をくらませるんだ。それに気をとられると、足元をすくわれる」
「慎司はペテン師か」私は天井を見上げた。古びた蛍光灯のなかに点々と黒い羽虫の死骸《しがい》が浮いて見える。「問題児か」
「そうとは思いたくないんだろう?」
思わず苦笑した。「うん」
「気持ちはわかる。だが、あるところで歯止めをかけてやらんと、もっと可哀相なことになる。これは自戒をこめて言ってるんだ。俺にも似たような経験があるからな」
驚いて見返すと、生駒は丸い顎《あご》を引き締めて大きく額いた。
「恥ずかしい話だ。俺自身、一生とり返しのつかん汚点だと思ってる」
昭和四十九年のあの超能力ブームの頃だった──と、生駒は始めた。
「当時俺がいた雑誌は、週刊朝日に対抗して、スプーン曲げの子供たちを盛りたてるような方針でやっていた。はやしたててたんだよ。実際、あれは見事な芸だった。芸だよ。わかるか? 俺たちみんな、幻惑されてたんだ。ところが、朝日の取材も徹底してた。どんどん底が割れていく。どのみち、俺たちの方は真面目な取り組み方をしてたわけじゃないし、世間の風向きが変わってくると、旗色はどんどん悪くなっていった。それで、ある日突然編集長がこう言ったんだ。『うちが接触してる子供たちを、放っておく手はない。彼らに語らせようじゃないか』とな」
「語らせる?」
「そうさ。どうやって今まで俺たちを騙《だま》してきたのか、それをししゃべらせたわけだ」
「嘘《うそ》を認めさせたんだな?」
生駒の大きな顔が曇った`「そうだよ」と、ぼそりと言った。「放っておいてやるべきだった。『悪いな、もうこの線じゃ押せなくなった。部数も落ちてきて、おじさんたちみんな困ってるんだ。ゲームはおしまいだ。じゃ、サイナラ』。それで放してやるべきだったんだ。朝日はいい。最初から反対する立場を明確にしてたからな。だが、俺たちは擁護してたんだ。それがある日突然クルりと変わって、子供たちを俎上《そじょう》に載せた。『本誌記者も驚いたこの完壁《かんぺき》なトリック!』ってわけだ。今考えても反吐《へど》が出るよ」
唾《つば》を吐くように横を向いて、生駒はハイライトに手をのばした。
ややあって、私は訊いた。「結果は?」
煙を長く吐き出しながら、彼は答えた。「死人が出た」
「──子供か?」
「そうだ。学校の屋上から飛び降りた。俺たちがハシゴをかけて上まで昇らせたのに、もういいやとばかりにハシゴをはずしちまったから、飛び降りるしか手がなかったんだ。十歳の子だよ」
十歳だ、と繰り返しつぶやいた。
「あんなことはもう二度と御免だ。俺はいっとき、この世界から足を洗おうかとまで思った。部数をのばすために子供を殺して、何が報道だ」
天井の蛍光灯が、ちかちかとまたたいた。切れかかっているのかもしれない。その下にいる人間の神経に連動しているのかもしれなかった。
「それでも、結局この商売を続けてる。よほど業《ごう》が深いんだろう」
生駒は苦く笑った。その笑みが消えたとき、二児の父親である顔と、記者としての顔が戻ってきた。
「あんなことは、もう二度とやるべきじゃない。俺は思うよ。超能力なんてものは存在しない。あれは夢だ。大人の夢だよ。子供は大人が夢を見ていると、ちょっと茶目っ気を出してそれをかなえてくれようとすることがある。彼らは冷静だ。そこまではな。だが、大人が夢から覚めたときのことまでは考えてない。子供にとつては、夢は覚めたりしないものだからだ」