饭饭TXT > 海外名作 > 《地球から来た男/最后的地球人(日文版)》作者:[日]星新一【完结】 > 地球から来た男.txt

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作者:日-星新一 当前章节:15375 字 更新时间:2026-6-16 01:47

「顔をよく見たいんだが」

「じゃあ……」

 幻影はいくらかはっきりした。目もとや口もとがわかるようになった。愛らしい

顔で、うれしそうに笑っている。

 すてきだなあと、青年は思う。彼女はぼくのものなのだ。少なくとも、他人に取

られることはないだろう。

 彼女はしだいにリアルになってゆく。まつ毛の一本一本まで見わけられるように

なった。それに、たのみもしないのに、においまでついてきた。さわやかで甘く、

魅惑的な若々しいにおいだった。心をそそられ、飛びつきたくなるような衝動にか

られた。

 青年は手で抱きしめてみた。しかし、実体はないのだった。なんの感触もなく、

自分の両手が合わさっただけ。それでいながら、彼女の姿はそこにあり、大きな目

で青年を見つめ、くすくす笑っている。

「どうして、こうなんだろう」

「さあ……」

 彼の思いは高まる一方だった。これ以上は、どうにもならないのだろうか。そう

だろうな。なにしろ幻影なんだから。しかし、こんな残酷なこともなかった。声が

あり、姿があり、においまでありながら……。

 もどかしく、くやしく、青年はいらいらして眠れなかった。眠れないまま、あれ

これ考えてみた。しかし、どうしたらいいのかとなると、わからなかった。依然と

して食欲もおきなかった。それどころではないのだった。

 夜の散歩の時、話しかけてみる。

「こんなの、ひどすぎるよ。なんとかならないのかい、もう少し」

「あなたしだいよ」

 いままでとちがって、いくらか意味のある応答があった。青年はちょっと勇気づ

けられた。

「どうすればいいんだい」

「さあ……」

 ここでいつもの、あいまいな答えに戻ってしまう。この会話は何回かくりかえさ

れた。いらだたしさは高まり、青年はさらに悩むことになるのだった。なにか方法

があるらしいのだが、それがわからない。

 そして、ある夜。

 いつものように散歩に出た。そばには彼女が並んでいる。楽しげな、くすくす笑

い。みずみずしい|肌《はだ》。眺めているうちに、青年は彼女に対し実在感をお

ぼえた。いまなら抱きしめられる……。

 青年はそれをやった。腕を肩にまわす。

 なんということ。手ごたえがあったのだ。やわらかく、若々しく、はずみのある

感触。彼女はくすくす笑っている。青年は手に力をこめ、彼女を自分のほうにむけ

、顔を見つめ、キスをした。彼女のくちびるのなめらかさを感じることができた。

「これでいいのだろうか」

 彼は彼女の顔を眺めなおしながら言った。信じられぬ思い。こうなることをあこ

がれてはいたが、まさか実現するとは考えてもみなかった。しかも、こう簡単に。

「いいのよ」

 女は答えた。彼を見つめかえす。その視線を感じることもできた。もう、くすく

す笑いはしなくなっていた。まじめな表情だった。青年はたしかめるように言った

「これで、きみはぼくのものだ。現実にぼくのものなのだね」

「ええ、そうよ」

「これからの日々のことを考えると、夢のようだ……」

 青年はほっとし、みちたりた思いで帰りかけた。あしたの晩も、あさっての晩も

、このようなぐあいに会えるのだ。すると、女が言った。

「帰ること、ないんじゃないの」

「しかし、もう時間もおそいし……」

「帰らないほうがいいんじゃないかしら」

「だけど……」

 なぜそう言われるのかわからないが、青年は帰った。人が集っていて、ざわめき

があった。自分の部屋のドアのところでだった。なんだろう、こんな時間に。人び

とのなかには管理人もいた。青ざめている。青年は背のびをし、のぞきこんでみた

。なかば開いたドアのところに倒れている者がいる。彼はそれを見た。

 それは自分だった。

「なぜ、こんなことに……」

 思わず大声で叫んでいた。しかし、それはだれの耳にも入らないらしかった。ふ

りかえる者もいない。やがて医者がやってきて、倒れているからだに触れて言った

「もう手おくれです」

 管理人が質問していた。

「原因はなんでしょう」

「くわしく調べないとわかりませんが、栄養不足のようです。食料が手に入りにく

い時代でもないのに、ふしぎなことです。なにかよほど悩みごとでもあって、食事

どころではなかったのかもしれません。それに、ほかの原因が加わって……」

「そういえば、睡眠不足の生活のようでしたよ。夜おそくまで外を歩いていたりし

ましたからね。朝は朝で、普通に起きていた」

「睡眠不足はいけません。ぐっすり眠れればまだしも、浅く短い眠りでは……」

 そんな会話を聞き、青年は驚きながら、そばの女に言った。

「ぼくは死んだのか」

「そういうことね。あなたはもう、あたしのものよ」

「そういうことは……」

「いやな気分……」

 と女が質問してきた。青年は答えを考えながら、女の手をにぎった。あたたかく

、すべすべしていた。少し強くにぎりかえされた。青年は言った。

「いやなことなんかないよ……」

 そして、彼はくすくす笑った。

  改 善

 おれは社員が二百人ほどの、ある会社につとめている。入社して、ちょうど一年

ほどだ。まだ独身。これまで大きな失敗もなく、なんとかやってきた。これからも

、仕事の上では無難な日々をつづけてゆくはずだ。

 仕事が一段落し、おれはタバコを吸っていた。まだなにも言われたわけではない

のだが、あしたあたり、西のほうへ一週間の出張を命じられるのじゃないかと思っ

た。それもいいだろう。出張はきらいじゃないのだ。

 翌日になる。午前の十一時ごろ、課長はおれを呼んで言った。

「ごくろうだが、あすから西のほうの出張所をまわってきてくれないか。一週間の

日程だ。休日がはさまるが、できたら、小売り店のようすも見てきてもらいたい。

それだけの日当は出すから」

「はい、わかりました」

 その日の午後は、各地の出張所の、いままでの販売統計を調べたりした。そのあ

いまに手を休め、今度の出張のことを考える。

 行きの列車のなかで、ちょっときれいな女がとなりの座席にすわってくれるだろ

う。しかし、それ以上に発展することはない。彼女の性格はまじめであり、おれも

会社の仕事で日程がつまっているからだ。

 つぎの日、おれは列車に乗る。発車まぎわになって、若い女性が乗車してきて、

おれのとなりの席にかけた。予想していた程度に美しい女だった。

「どちらまでです……」

 おれは話しかけ、彼女は答えた。しかし、彼女はあまりしゃべらず、おれの話題

がつきると、彼女は持っている本を読みはじめた。どんな仕事をしているのかとい

う立ち入った質問など、しにくいムードだった。おれはあきらめた。

 仕事をすませ、出張から帰る。

 おれは頭に手を当てて考えた。そのうち、おれは事故にあうだろう。あうにちが

いないのだ。ぼんやりと道を歩いていると、曲りかどから自動車が不意にあらわれ

、おれは道路に倒れる。しかし、死ぬことはないのだ。一週間ほどの入院ですむ。

仕事は休めるし、車の主は誠意のある人で、見舞いの金をくれるはずだ。それに、

病院では美人の看護婦がつきそってくれることになるのだ。悪くないことではない

か。

 その次の日の、会社へ出勤の途中だった。おれが眠りたりない気分で歩いている

と、道のかどから急に自動車があらわれた。予想していたこととはいえ、やはり驚

く。急停車してはくれたが、まにあわず、ぶつかっておれは道路に倒れた。腕と足

とをくじいた。痛みはかなりひどい。

 自動車から運転していた人がおりてきた。その人は心からあやまってくれ、なに

もかも考えていた通りに進展した。

 病院のおれの受け持ちに、とてもきれいな看護婦がいた。声もよく、言葉つきも

やさしい。まったく、すばらしい女なのだ。

 おれは一目で好きになってしまった。彼女には恋人がいて、おれがわり込もうと

しても、うまくいきっこないのだ。それがわかっているのだが、燃えあがった心は

どうしようもない。恋とは、そういうものなのだ。彼女に脈をはかられる時、それ

がいやに早くなり、彼女はふしぎがった。

 くどかずにはいられなかった。しかし、そのたびに、それは適当にはぐらかされ

た。彼女は、あたしには好きな人がいるのと言った。おれは一週間でなおってしま

うのだし、彼女の心をつかむのは、時間的にも無理なのだ。もっと重傷だったらよ

かったのに。

 退院の時、おれは言った。

「これからも会ってくれませんか」

「仕事が忙しいから、だめだわ」

「じゃあ、休みの日にでも」

「お休みの日には、することがあるの」

 恋人と会うという意味なのだ。おれは退院してから、何回か病院に会いに行った

。最初は会ってくれた。入院中に世話になったお礼の品を持っていったのだ。しか

し、つぎからは、いま手術中とか、忙しいとかで、会えなかった。彼女のほうに会

う気がないからだ。会ってくれないことがわかってはいるのだが、おれは行かずに

いられなかった。これが恋というものなのだ。

 ひと月ほど、おれは仕事がおろそかになった。目をとじると、彼女の顔がうかび

、胸がきゅっとなる。しかし、むこうは会ってくれなかった。あきらめなければな

らないことを知らされた。

 失恋とは苦しいものだ。気分がなんとかもとへ戻るまで、あと二か月ほどかかる

はずだ。彼女のことは忘れるよう努力しよう。

 おれは会社の帰りに時どき、同僚とバーへ寄った。酔ってさわぐことにより、陽

気になるようつとめた。また、会社のバレーボール部に入って、運動して汗を流し

た。もっとも、部とは称するが、社内のリクリエーションの集りなのだ。ボールに

とりくんでいる時は、いやなことも心から消える。

 そのおかげで、二か月ほどたつと、おれの失恋の痛手は、かなりおさまった。

 そのうち、バレーボールの部員たちで旅行しようと、だれかが言い出すはずだ。

ひと月ほど先のことだろう。おれはそれに参加することになる。

 ひと月がすぎ、ある日、だれかが言った。

「いい気候になったから、みなで旅行でもしないかい」

「いいね」

 とおれが言い、ほかにも賛成する者が多かった。

「山へ行こうか、海岸にしようか、それとも温泉地へ行こうか」

 おれはべつに発言しなかった。山へ行くことになるにきまっているからだ。あん

のじょう、山にきまった。部員の全部が行ったほうがいいのだが、つごうの悪い者

も出て、男と女、五人ずつ、合計十人ということになった。

 連休を利用し、おれたちは高原にあるホテルへ行った。着いた翌日、いい天気だ

った。朝からおれたちは、あたりの山を歩いてまわった。みな楽しい気分になり、

親しみが高まった。

 そのなかに、正子という女もまざっていた。感じのいい子で、おれもきらいでは

なかった。明るい性格で、おれが冗談を言うと、声をあげて笑ってくれた。こうい

うところへ来たという解放感のせいもあったろう。

 ホテルへ戻り、夕食となった。おれはビールを飲んだ。食事のあと、ロビーでし

ばらく雑談をした。みなは疲れて早く眠りたいと言う。

「ぼくはもっと飲むよ」

 とおれが言うと、正子も言った。

「あたしも飲みたいわ。ここのホテルのバー、どんなムードなのか、ちょっとのぞ

いてみたいの」

 おれたち二人はバーに行って飲んだ。上品な音楽が流れていた。何杯か飲んだあ

と、おれは正子に言ってみた。

「ちょっと、そとを散歩してみましょう。きっと、星がきれいですよ」

 さそうと、正子はついてきた。静かな夜で、星がたくさん輝いていた。空気もき

よらかで、深呼吸したくなる。あたりにはだれもいない。おれはふざけたふりをし

、正子の手をにぎった。正子はいやがらなかった。ロマンチックな感情がこみあげ

てきた。

 おれは正子を木のかげに引っぱってゆき、力をこめて抱きしめ、口づけを……。

 いかん、おれは大事なことを忘れていた。それをやると、これがきっかけとなり

、ずるずると別れられない状態におちいるのだ。そして、結婚しなければならない

はめになり、会社の常務が|仲人《なこうど》になり、式をあげてしまう。

 そして、しばらくはいいんだが、しだいに正子は本性を発揮しはじめ、ずぼらに

なる。もともと、そういう性格なのだ。そのうち、男の子がうまれる。はじめての

子供だから、ある期間は面白いが、やがて、なんということもない日常になる。正

子の関心は、おれより子供のほうにいってしまう。

 正子は近所の女たちと、しょっちゅうおしゃべりをし、たあいなく大笑いする。

その笑いが、おれにはがまんできなくなる。いや、なんとかがまんしようとするの

だが、それが精神的によくない。おれは軽いノイローゼになり、病院へ行って医者

にみてもらうことに……。

 そうなっては、ことなのだ。

 おれは正子の手をはなし、ひとりで少しはなれたところへ行き、立小便をした。

暗くてよくわからないが、正子はあきれたような表情になったにちがいない。おれ

をおいて、先にホテルへ戻っていってしまった。

 これでいいのだ。

 旅行から帰る。おれと正子とは、会えばあいさつをかわす程度の仲にとどまった

 それから半月ばかりたったある日、伯父がおれに見合いをしないかと言ってきた

。伯父がおれのことを、そんなにまで気にかけていてくれたとは知らなかった。お

れはその女に会ってみようと思った。

 文子という名の、知的な感じのする女だった。こういう女が、おれにはむいてい

るのかもしれない。三日ほどし、会社の帰りに伯父の家に寄ると、すぐに聞かれた

「どうだ、感想は」

「いい人ですね。むこうがよろしければ、結婚を前提にして、つきあってみたいと

思います」

「それはけっこうだ」

 おれは文子と交際しはじめた。やがて準備が進められ、伯父の知りあいの人が仲

人になり、式をあげる。

 おれは声を聞く。

「はい、いいですか。わたしがあなたの肩をたたく。すると、あなたは現在に戻っ

て、目がさめます。いままでのことはすべて忘れて、すがすがしい気分で目がさめ

ます」

 つづいて「さあ」という声とともに、肩をたたかれた。おれは目をさました。そ

ばには医者がいて、こう言っている。

「いかがでしょう。いいご気分のはずですが」

 おれもそんな気がした。

「ええ、すっきりしたような感じです」

「それはよかった。わたしのやったことが、役に立ったというわけです」

「ありがとうございます」

 おれは病院を出て、帰宅した。午後の九時ごろだった。文子がおれに言った。

「どこへ行ってきたの。いやに楽しそうな、さっぱりした顔をして……」

「病院だ」

「うそでしょう」

「うたぐり深いやつだな。うそだと思うのなら、番号を教えるから、医者に電話を

かけて聞いてみろ」

 文子は本当にそれをやった。それでなっとくするのかといえば、そうでもない。

しめしあわせてのことだろうと、まだ疑っている。そういう性格の女なのだ。

 せっかくいい気分で帰ってきたというのに、なんということだ。

 もっとも、結婚してしばらくのあいだは、おれたちも楽しくやっていた。しかし

、こう三年目にもなると、彼女のせんさく好きが鼻についてくる。

 毎日が、取調べにあっているようなものだ。いったい、おれはこんな議論好きな

女と、なぜいっしょになってしまったのだろう。子供でもいれば、まあ、なんとか

なるのだろうが、三年もたつのにいっこうにできない。

 いらいらする気分の日がつづく。このままだと、頭がおかしくなってしまう。い

や、すでにおかしくなりかけているのかもしれない。おれは病院に出かけることに

した。

 医者はおれに事情をたずね、おれは毎日がどんなにいやかを説明した。医者はお

れにやわらかい|長《なが》|椅《い》|子《す》の上に横たわるよう命じ、暗示

をかけはじめた。

「あなたは眠くなります。まぶたがしぜんに閉じてゆく。こころよい眠りに入りま

す……」

 おれはそんな気分になった。

「……あなたは、わたしの声のいうがままになる……」

 医者の声がつづく。

「……あなたは、しだいに若くなってゆく。一年、二年、三年。まだ独身だったこ

ろに戻ります。さあ、戻りました……」

 伯父がおれのところへやってきて、見合いをすすめた。おそらく、知的な感じの

女性にちがいない。だいたい見当はついているんだ。おれは会ってみた。文子とい

う名だった。

 三日ほどし、会社の帰りに伯父の家に寄ると、すぐに聞かれた。

「どうだ、感想は」

「いい人ですね。むこうがよろしければ、結婚を前提にしてつきあってみたいと思

います」

「それはけっこうだ」

 おれは文子と交際をはじめた。おれは文子がフランス料理を好きだろうと思った

ら、はたしてそうだった。ダンスにさそえばついて来るだろうと思ったら、やはり

そうだった。

 そのうち、伯父がおれのところへやってきて、さいそくした。

「いいかげんに結論を出してくれ。結婚するつもりなんだろうな」

 その時、出かかった言葉を、おれは押さえた。いまが大事な場合だ。ここでうな

ずくと、結婚するはめになる。そして、やがてその議論好きにうんざりすることに

なる。子供はできず、おれは頭がおかしくなりかけ……。

 おれは伯父にことわった。

「せっかくのお話ですが、どうも気が進みませんので」

「そうか。残念だが、こればかりは無理に押しつけるわけにもいかないしな」

 伯父もそれ以上はすすめなかった。

 その一週間ほどあとだった。学生時代に同級生だった女と、おれはたまたま道で

であった。桂子という名で、なかなかの美人。おれは言った。

「久しぶりだね。ひまだったら、お茶でも飲もうか」

「ええ」

 ずっと会わなかったので、おたがい、そのごのことを話しあった。桂子は通訳の

仕事をしており、まだ独身だと言った。

「あなたは……」

 と聞かれ、おれもまだ独身だと答えた。いっしょに酒を飲みにいこうとさそうと

、ついてきた。飲みながら、学生時代のことを話しあい、回想した。そのころ、桂

子は目立つほどの美人で、みなにちやほやされていた。それは今でも変らず、美し

かった。それがいまだに独身とは……。

 そんなことがきっかけで、おれたちは時どき会うようになり、結婚した。学校の

時の先生が仲人をしてくれた。

 おれは声を聞いた。

「はい、いいですか。わたしがあなたの肩をたたく。すると、あなたは現在に戻っ

て、いままでのことは忘れ、すがすがしい気分で目がさめます」

 つづいて「さあ」という声とともに、肩をたたかれた。おれは目をさました。

 おれが帰宅すると、桂子が酔って、しどけない姿でねそべっている。すがすがし

い気分が、たちまち消えてしまった。

 桂子と結婚し、しばらくは楽しかった。なにしろ美人なのだ。桂子はあたしも働

くわと言い、通訳の仕事をつづけた。そのほうが世帯じみなくていいだろうと、お

れも賛成した。

 なにもかも順調だった。おれが、あるうわさを耳にするまでは。

 桂子が浮気をしているというのだ。おれは会社へ出勤するふりをし、仕事を休み

、桂子のあとをつけた。そして、そのうわさが事実であったことをつきとめた。

 おれが文句を言うと、桂子はとんちんかんな弁解をした。その男だけでなく、ほ

かに何人もの男と関係のあったことがわかってしまった。

 おれはうんざりし、生きているのがいやになった。桂子は毎晩のように酒を飲ん

だ。それまで気づかなかったが、アル中らしかった。まったく、おれはひとがいい

。美人と結婚したといい気になっていたが、その女は男と酒の中毒で、その二つに

関しては自制心を失っているのだ。

 いくら文句を言っても、あらたまらない。金を渡さないようにしても、桂子は通

訳をやってかせいでしまうのだ。おれは不愉快でならなかった。別れるには惜しい

女。といって、事態はよくなりそうにない。このままだと、いつかっとなって、桂

子を殺してしまうかわからない。これは危険な衝動だ。

 おれは医者に出かけた。事情を話す。

 おれに対し、医者はいろいろなテストをし、首をかしげて言う。

「あなたは性格的に、どうも結婚にむいていないようです」

「しかし、現に結婚してしまっているのです。桂子と別れたとしても、だれかと結

婚しないわけにはいかないでしょう。なんとかして下さいよ」

 医者はおれに長椅子に横たわるよう言い、暗示をかけはじめた。

「あなたは眠くなります。まぶたがとじてゆく。こころよい眠りに入ります……」

 おれは暗示にかかりやすいようだ。たちまち眠くなった。医者の声はつづく。

「……あなたは、しだいに若くなってゆく。まだ独身だったころに戻る……」

 おれは会社のバレーボール部の旅行で、みなと山のホテルへ来ている。正子とい

う女と気が合った。いっしょに酒を飲み、夜の散歩をし、木かげで抱きしめ……。

 おれは、こんなことをするのはよくない結果になるんじゃないかとも考えた。そ

うなるにきまっている。しかし、だからどうだというのだ。世の中すべて、いいこ

とばかりとは限らない。生きているからには、よからぬことがつきものなのだ。

 おれは声を聞いた。

「はい、いいですか。わたしがあなたの肩をたたく。あなたは現在に戻って、目が

さめます。いままでのことはすべて忘れ、すがすがしい気分で。そうそう、あなた

は人生に自信を持つようになる。いやなことを克服しようとし、それができるよう

になるのです……」

 おれは肩をたたかれ、目をさました。なんだか、これからはうまくゆくような気

分になった。医者にお礼を言い、帰宅した。

 正子が子供をあやしながら、遊びに来ていた近所の女と、くだらぬことを話しあ

い、大笑いしている。

「あら、お帰りなさい」

 おれを見てそれだけ言い、またむだ話に熱中する。なんという女だ。しかし、お

れは腹を立てない。

「急な出張を命じられた。これから出かけるからな」

 そう言って、おれは家を出た。そして、バーへ行く。その店には、このあいだか

ら好きになりかけている女の子がいるのだ。くどきたいけれど、おれには無理じゃ

ないかと思っていた。しかし、きょうはちがう。おれは酒を飲み、相手にも飲ませ

ながら、くどきはじめた。なんだかしらないが、うまく発展するだろうという自信

があるのだ。

  もてなし

 その青年は、バーでひとりで飲んでいた。それなりの理由があった。ひるま、つ

とめ先の会社で失敗をやり、上役におこられたのだ。気分なおしに飲みたくもなる

というものだ。

 しかし、彼の場合、問題はいささか深刻だった。仕事で失敗をやり、おこられ、

気ばらしに酒を飲むということが、ほぼ毎日といっていいほどだったのだ。したが

って、金に余裕がなかった。ほうぼうのバーに借金がたまっている。

 金まわりがよくないため、女性にもてることもなかった。もっとも、金があった

ところで、もてるかどうか疑わしい。彼は美男子でもなく、知的でもなく、男らし

くもなく、誠実でもなかった。つまり、ぱっとしない、とりえのない人間だったの

だ。

 そのバーには同じカウンターに、もうひとり男の客がいた。景気よく飲んでいる

。時どき首をかしげたりするが、高級な洋酒のグラスを重ねている。やがて、話し

相手が欲しくなったのか、青年に声をかけた。

「あなた、なにか元気がないようですね」

「ええ」

「しっかりなさいよ、若いくせに。わたしがおごります。どんどん飲んで下さい」

「しかし……」

「遠慮はいりません。どうぞ。面白くないことがおありなら、ぶちまけたらどうで

す。さっぱりするかもしれません」

「ええ……」

 すすめられるまま、青年は酒を飲み、ぐちをこぼした。いかに自分がだめな人間

か、そのため、楽しいことにちっともめぐりあえないでいることなどを。

「そうでしたか。お気の毒なことです。そんな思いで酒を飲んでいるのでは、あま

りいい酔いごこちじゃないでしょうな」

「そうなんです。といって、飲まずにはいられないし、飲むと借金がふえる。悩み

は大きくなる一方です」

「そんなことから解放され、心おきなく、ぱっと遊びまわりたいでしょうな」

「もちろんですよ。そうしたいなあと、夢にまで見るほど願いつづけです。しかし

、無理な話だ。ぼくにはできっこありません」

「いや、かならずしも、そうではありませんよ」

 男は思いがけぬことを口にした。青年は目を輝かした。

「なにか方法があるような口ぶりですね」

「ええ」

「しかし、だめです。犯罪にからんだことでしょう。それをやる度胸もないのです

「いやいや、そんなことではありません」

「いったい、どんなことです。ぼくにできるたぐいのものですか」

「ええ、そうです。あなた、ブルギさんになってみませんか」

「なんですって。そりゃあ、面白く遊びまわれれば、どんなにいいかわからない。

しかし、容易じゃなさそうですね。他人になりすますなんて」

「いや、ブルギさんというのは、人名ではないようなのです。どうやら、肩書きと

いったほうが適当らしいのです。正確なことは、わたしにもよくわかりませんが」

「その、ブルギさんとかいうのになれば、景気よく飲めるってわけなんですか」

「そうなのです。理由や事情は不明ですが、いいことずくめであることは、まちが

いない。酒にありつけないなんてことはない。しかし、わたしは、わけがわからな

いということを好きでないし、それにもあきたというわけです」

「わけがわからなくたって、いいじゃありませんか。ああ、そんなふうになってみ

たい。なりたいなあ」

 青年はあこがれの感情をこめてつぶやいた。それに対して男は言った。

「じゃあ、ならせてあげましょうか。しかし、いざとなると、どうも、なんとなく

惜しいような気も……」

 と男は服の胸につけてあるバッジをはずしたが、また、もとにつけようかなと思

案した。それを見て、青年は事態を好転させようと思って言った。

「じらさないで、いいかげんで思い切ったらいかがです」

「そうですね。わたしも考えた上で口にしたことです。これをさしあげます。胸に

つけて下さい。これで、あなたはブルギさんです」

 そのバッジを受け取り、青年は胸につけた。

「これでいいわけですね。いったい、どういうことなのです。なにか引きつぎ事項

はないんですか」

「なにもありません。そもそもブルギさんとはなんなのか、わたしもずいぶん知ろ

うと努力もし、そのために時間もかけました。しかし、いまだにわからない。わた

しの性格として、不可解なことは不愉快なのです。いかに有利でもね。だから、や

める気になったのですよ」

「そういうものですかねえ。いずれにせよ、ありがとうございます。お話が本当か

どうかはわかりませんが、お酒をおごって下さった上に、バッジをいただいたので

す。お礼を申しあげます」

 そう言って別れ、青年はバーを出た。歩いて駅にむかう。そこから電車に乗り、

さらにバスを利用すれば彼の住居であるアパートへ帰れる。

 駅のホームに立つと、みしらぬ男から声をかけられた。

「失礼ですが、あなた、ブルギさんじゃありませんか」

「ええ、まあ……」

「もうお帰りなんですか。まだ、時間はおありなんでしょう」

「ええ、ないことはありませんが」

「いかがでしょう。そのへんで一杯おごらせていただけませんか。もっと何杯も飲

んでいただければ、それに越したことはないんですけど、お時間がなければ、せめ

て一杯でもけっこうですから」

「しかし、いいんですか」

 青年は心配になった。なにしろ、こっちはまるで金を持っていないのだ。しかし

、相手はにこやかに言った。

「たまたま、まとまった金が入ったんです。こんな時にブルギさんとめぐりあえる

なんて、わたしも運がいい。ぜひ、おごらせて下さい」

「じゃあ、お言葉に甘えますか」

 酒にありつけるのはありがたいことだ。さそわれるままに青年はふたたび駅を出

て、その男の案内するバーに入った。相手は気前よく酒をすすめた。

「どうぞ、お好きなだけお飲み下さい」

「いいんですか」

「もちろんですよ。ブルギさんのためですもの」

「どうして、ぼくがブルギだとわかったのですか」

「胸のそれでですよ」

「そうでしたね。では、ごちそうになります」

「そうこなくてはいけません」

 相手はきげんがよかった。青年は酒を飲みながら、聞かずにはいられなかった。

「変なことをうかがいますが、なぜ、ブルギさんだとおごっていただけるのです」

「そんなこと、おっしゃっちゃあいけませんよ。ブルギさんは、そんな質問をなさ

らないものです。お飲みになり、お楽しみになればいいのです。さあもっと、どう

ぞ」

「もう、たくさんです」

「ご満足いただけましたでしょうか。なにかお気に召さない点でも……」

「とんでもない。いい気分でひとときをすごせました。どうもありがとう」

「それはよかった。わたしもうれしくてなりません。では、ごきげんよう……」

 キツネにつままれたような気分で、青年は帰宅した。いったい、これはどういう

ことなのだろう。

 つぎの日の朝、青年は会社へ出勤しようと、バスの停留場に立っていた。すると

、一台の車がとまり、運転席の男が声をかけてきた。

「こんなことをお聞きしてはなんですが、あなた、もしかしたらブルギさんでは…

…」

「ええ、まあ……」

「よかった。通りがかりに胸のバッジが目に入りました。そうじゃないかと、たし

かめに車を戻らせてきたのです」

「そうでしたか」

 とうなずくと、車の男は言った。

「どうぞ、お乗り下さい。バスが来ますから、早いとこ、どうぞ。で、どちらでし

ょう、お行きになりたいところは」

「会社ですよ……」

 青年は車に乗りこみながら、会社の所在地を告げた。車は走り出す。運転席の男

が言う。

「わたしは注意ぶかいたちで、無事故です。その点、ご安心下さい」

「そうですか。おかげで助かります。あなたの行先は、ぼくの会社と同じ方角なの

ですか」

「ぜんぜんちがいますが、ブルギさんのためなら、そんなこと、どうでもいいので

す」

 というわけで、青年はこんだ電車に乗ることなく、会社へ行くことができた。お

りる時に、お礼を言う。

「どうもありがとう。あなたは親切なかたですね」

「いや、お礼はこっちのほうで言うべきです。ブルギさんに喜んでいただけて、こ

んなうれしいことはありません。では……」

 車は走り去っていった。その日、青年は会社で考えつづけだった。しかしどうに

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