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作者:日-星新一 当前章节:15368 字 更新时间:2026-6-16 01:47

説得によって建物を出て逮捕されたとあった。ツボへの効果はあったのだ。

 青年にとって、まさに働きがいのある仕事だった。要領もわかってくる。そのう

ち、彼は秘書課のなかのひとりの女性を好きになった。話しかけたり、さそったり

してみるが、どうも思わしく進展しない。これに関してだけは、ひとり悩まなけれ

ばならなかった。

 ある日、社長が青年に言う。

「よくやってくれているな。わが社の体質もだいぶよくなったようだ」

「仕事が面白くてなりません」

「しかし、きみ、なにか元気がないな。相談に乗ってやるぞ。問題はなんだ」

「じつは……」

 と青年はわけを話した。社長はうなずく。

「なるほど。ほかならぬきみのことだ。わたしも手伝おう」

「社長が彼女に、わたしを好きになるよう命じて下さるのですか」

「こういうことは、命令したってむりだ。ちょっと待て、どうしたらいいか、見て

みる……」

 社長は金庫から書類を出してながめ、そして、言った。

「……これから一か月間、ぶっつづけで宿直をやってみろ」

「夜中の万一の事態にそなえての役で、気疲れするばかりで割があわないと、みな

がいやいやながら交代でやっている仕事ですね。いったい、なぜ……」

「宿直室がツボなのだ。あの席の女性を手に入れるための。一か月、そこですごし

てみろ」

「そうでしたか。やりますよ」

 青年は宿直の仕事をつづけた。昼間は休めるが、夜となると緊張する。どこの出

張所長が死んだとか、どこの工場で火事があったとか、そういう電話を受け、朝ま

でに報告書を作っておかなければならない。話し相手もなく、楽しいことはなにも

ない。よくあんな仕事を好きでやれると、ほかの社員たちからふしぎがられた。

 長い一か月がすぎる。

 効果はあった。いままではそっけなかったのに、女のほうから青年に近づいてき

た。やがて、めでたく結婚。

「あたし、どうしてあなたといっしょになったのかしら」

「後悔してるかい」

「いいえ、しあわせよ」

「それなら、いいじゃないか。人生って、ふしぎなものさ」

 なにしろ、それ以上に説明のしようがないのだ。

  あと五十日

 その男は五十歳ちょっと。会社での地位は部長だった。有能で仕事をよくやり、

やがては重役になるだろうとだれもがうわさをしていた。上役とも部下ともうまく

いっている。妻もべつに欠点のある女性ではなかった。むすこがひとり、いい大学

に入っていた。つまり、家庭にはなにも問題はなかった。そのため、男は会社の仕

事にうちこめるというわけだった。

 ある日の帰り、夕ぐれの道で、男は横からだれかに声をかけられた。

「あと五十日でございますよ」

「え……」

 と男はそっちを見る。黒っぽい服の、やせた男性がそばを歩いている。年齢不明

だが、いやにふけた感じだった。若々しさとか活気といったものが、まるでない。

そのくせ、口調だけははっきりしていた。なんとなく陰気なやつだな。それが第一

印象だった。

「なんですって……」

「あと五十日だとお知らせしたのですよ」

「いったい」

 男はさらに聞こうとした。しかし、その時、うしろから追いついてきた会社の部

下があいさつをした。

「部長。では、またあした」

「ああ……」

 とうなずく男に部下が言った。

「おや、なんだか元気がありませんね。部長らしくございません。どうかなさった

のですか」

「いま、変なやつに話しかけられたのでね」

「いつです」

「たった、いまだ。わたしのそばに、黒い服のやつがいただろう」

「さあ、気がつきませんでした。だれもいませんでしたよ」

「そうかい」

「たしかですよ。だれかとお話しなさっていたら、わたしは声をかけて、そのおじ

ゃまをしたりはいたしません」

「だろうな」

 男はこの部下の性格をよく知っている。でたらめを言う人間ではない。というこ

とは……。

 幻覚のたぐいだったのだろう。錯覚かもしれない。通行人のだれかの声が、なに

かのかげんで耳に入ったのだろう。しかし、それにしては、いやにはっきりと黒い

服の姿が頭のなかに焼きついている。たしかに、あと五十日と聞いたようだ。どう

いうことなのだろう。なんだかわからないながら、ちょっと気になった。

 それがただの幻覚でなかったことは、つぎの日になってはっきりした。会社の帰

りに、またも話しかけられたのだ。

「あと四十九日でございますよ」

 あの陰気なやつが、並んでそばを歩いている。男は聞いた。

「いったい、なんのことなのです」

「いろいろと整理やなにかがあることと存じますので、親切に教えてさしあげてい

るというわけでございます」

 相手はいっしょにくっついてきて、駅の改札口を通り抜けた。そいつは切符も定

期券も出すことなく、平然とそこを通った。また、駅員も無視した態度を示してい

た。とがめだてもしない。どうやら、こいつは他人の目には見えない存在らしい。

男は驚くというより、いやな気分になった。

 ホームに立ったが、まだそばにいる。

「もっとはっきり言ってくれ。なにがあと四十九日なのだ」

「あなたの人生がですよ」

「なんだって……」

 ぞっとしたものを背中に感じた。さらにたしかめようとしたが、そいつは人ごみ

のなかに消えていた。まぎれこんだのではなく、消えるようにいなくなっていたの

だ。いやな気分は、一段と高まった。

 いつかは、こんなことになるんじゃないか。そんな不吉な予感をいだいたことが

、かつてあった。しかし、まさかそんなことがと、すぐに忘れた。それがいま、現

実のものとなってしまった。ついに死神にとりつかれてしまったのだ。

 つぎの日、男は病院へ行き、みてもらった。こう言われる。

「どこも悪いところはありません。血圧も血沈も正常。健康そのものです。ご心配

なら精密検査をいたしますが、その必要はないでしょう」

「あと数十日の命だなんてことはありませんか」

「それは冗談ですか。本当にそうだったら、すぐに入院をおすすめしますよ。心配

なさるようなことは、決してありません」

「ありがとうございます」

 病院を出ると夕ぐれで、いつのまにか黒い服のやつがそばに立っていた。

「あと四十八日でございますよ」

「ご注意いただいたのでみてもらったが、医者は正常だと言っていたぜ」

「わたしが申し上げたのは、ご注意でなく、宣告でございます。お医者さんに事故

が防げますかね」

「すると、わたしは事故にあうのか」

「そうとは限りません。人生にはいろいろな終り方があるのです」

 食中毒。凶悪なやつに理由もなく襲われる。火災。爆発。上からなにかが落ちて

くる。酔っぱらってころんで……。

 まったく、いまの世の中には、危険なことが多すぎる。考えただけでもうんざり

するほどだ。防ぎきれるかどうか。ふと気がつくと、そばのそいつの姿は消えてい

た。

 つぎの日、男は妻子のふしぎがるのをかまわず、休日を利用して神社へおまいり

に出かけた。そのあと、お寺へも寄った。こうなったら、神仏の加護にたよる以外

にない。さらに、よく当るという占い師のところへまわり、意見を聞いた。陽気に

生活を送るようつとめれば難はまぬかれるという、もっともらしい答えを得た。

 しかし、効果はなかった。帰り道、どこからともなく、あいつがあらわれてこう

言ったのだ。

「あと四十七日でございます。つまらないことで時間をむだに使われるというのは

、どうかと存じますが……」

「おまえを追っ払うために、神仏に祈りをささげてきたぞ」

「神社やお寺でことが防げるのなら、世の中、なにもかももっとうまくいっている

はずでございます。あがいてもだめです。わたしにとりつかれたら、終りなのでご

ざいますよ。念のためにお教えしておきますが、つまらないまじないなどに、お金

を使わないことです。それこそ、むだもいいとこです」

「なにか方法があるはずだ」

「あるわけがございません」

 しかし、男はまだ半信半疑だった。どこといって、からだに異常はないのだ。あ

と数十日で人生が終るような気がしない。妄想か幻覚のたぐいにちがいない。第一

、死神なんて話を聞いたことがない。仕事にうちこむことで、忘れるようにしよう

 男はそうつとめた。

 しかし、神仏も仕事も、そいつを消すことはできなかった。毎日、男の帰り道に

あらわれ、あと何日と前日より確実にひとつ少ない数を告げるのだ。一週間がすぎ

た。

「あと四十日でございますよ」

「そうかい」

「あなたさまのようなかたは珍しい。こっちのほうが、はらはらしてしまいます。

だまっていてもよかったのですが、あなたさまのためと思ってお知らせしたのでご

ざいますよ。そんなことでよろしいのですか。どういうおつもりなのです。よくお

考えになったほうがいいのじゃないでしょうか」

 そいつは、ちょっと笑った。陰気な表情をゆがめての笑いだった。いやになまな

ましく、それに接したとたん、男は信じた。理屈もなにもなく、これは現実なのだ

と。

 自分をごまかそうとしても、むりらしいと知った。こいつは本物の死神で、それ

にとっつかまってしまったのだ。だから、あと四十日で死ななければならない。の

がれられぬ運命らしい。

 そいつは、いつのまにか消えていた。その夜、男は頭のなかがぎゅうづめにされ

たような気分で、まったく眠れなかった。

「あと三十九日でございます」

 つぎの日にこう言われ、男はもう、こんな一日きざみにはがまんできないと、自

殺をはかった。前夜の睡眠不足もあり、正常な精神状態でなかった。駅のホームか

ら、走ってくる電車めがけて身を投げようとしたのだ。しかし、なんということ、

その意志はあるのに、からだが動かない。ビルの屋上にのぼり、飛びおりようとし

たが、それもだめ。なにかべつな方法はないかと考えていると、あいつがあらわれ

て言った。

「わたしがあと三十九日と申し上げたからには、その通りなのでございます。ご自

分でそれを変えようとしてもだめなのです。なさるべきことが、もっとおありでし

ょう」

 そういうしかけなのか。その日までは、勝手に死ぬこともできないらしい。

 となったら、思いきり楽しんだほうがいいのかもしれない。男はそう思い会社へ

休養届を出し、自分の銀行預金をおろし、外国旅行へ出かけることにした。それを

知って、妻が不満をもらした。

「せっかく将来のためにとためてきたお金なのに。それを目的のない外国旅行に使

ってしまうなんて……」

「したいようにさせてくれ。将来の金のことは心配するな」

 男はその手配をした。自分にかけてある生命保険を増額したのだ。健康体なので

、保険会社はみとめてくれた。まあ、これで使った金の埋め合せはつくというもの

だ。妻子がすぐに生活に困るということもない。

 彼は出発し、外国の各都市を遊びまわった。あの死神も外国までは追っかけてこ

なかった。日数を告げるいやな声を耳にしなくてすんだ。ショーを見物し、酒を飲

み、時には商売女とも遊んだ。ギャンブルにも手を出したが、こういう時に限って

もうかる。男はさらに遊びまわった。みやげ物に頭を使うこともなく、仕事のこと

を考えることもないのだ。

 まさに、いい気ばらしだった。死神の恐怖もいくらか薄れた。あれは幻覚だった

のかもしれないと思えてきた。

 そして、帰国。しかし、事態はいっこうによくなっていなかった。夕ぐれの空港

に、あいつがどこからともなくあらわれて言った。

「だいぶお楽しみのようでしたね。けっこうでした。わたしもお知らせしたかいが

あったというものです。あと、十三日でございます」

 それを聞いたとたん、男はがっかりした。やはり、あの宣告はそのままだったの

だ。帰宅した彼は、買ってきた酒を飲み、その勢いで眠った。

 つぎの日は、朝から飲みつづけだった。酔いの力で不安をごまかそうとしたのだ

。だが、夕方になると、やつがそばに出現して告げる。

「あと十二日でございます」

 なんともいえぬ、いやな声。酔いはたちまちさめ、また飲みなおす。

 つぎの日、妻とむすこが、たまりかねて質問した。

「いったい、どうなさったのです。わけもわからず外国へ遊びに出かける。そして

、帰ってからは酒を飲みつづけ……」

「話したところで、わかってはくれまい」

「しかし、事情をうかがわないことには……」

「じつは、死神にとりつかれたのだ。このあいだから夕方になるとあらわれ、人生

がそう長くないことをささやくのだ」

「まさか……」

「そう思うだろうな。わたしだって、最初はそう思った。そうだったら、どんなに

いいだろう。しかし、現実なのだ。やつは毎日かならずあらわれ、あと何日と話す

。わたしがこの世の思い出にと外国へ遊びに出かけたのも、そのためだ。旅行中、

やつは出なかったが、帰ったとたん出現しはじめた」

 そう話し、男はため息をついた。妻は言った。

「そういえば、いつだったか、急に神社におまいりに出かけたりしたわね。あの時

、すでにそうだったんですの」

「そうだ。しかし、神仏の力をもってしても防げないものらしい。やつは依然とし

てあらわれる」

「お話をうかがうと、思い当ることばかりですわ。普通のあなただったら、ああは

なりませんものね。それで、いったい、あと何日なんですの」

「きのう、あと十二日と言われた」

「ああ、なんということでしょう……」

 妻は泣き、叫び、半狂乱となった。それをなだめるために、男はひと苦労した。

なんと話しかけたものか、見当もつかないのだ。むすこのほうは深刻な表情になり

、だまったまま。気分を引きたたせようにも、明るい話題を思いつけるわけはない

のだ。そんなことで、男は死の恐怖をしばらく忘れた。

 さわぎのなかに、また、あいつがあらわれて言った。

「あと十一日でございます。だいぶ、ごたごたなさっておいでのようですな」

「こうなったのも、おまえがあんなことをわたしに言ったからだ。わたしは悩んだ

り遊んだりで、しだいに覚悟ができてきたが、妻子はこのありさまだ。話さないほ

うがよかったのかもしれない」

「しかし、もう話してしまった。そのうち、なんとかおさまりましょう。問題はあ

なたについてで、奥さんやお子さんは関係ないのですから、その点をよくご説明に

なれば……」

「そうかもしれないな」

 男はこの相手に親近感を持つようになっていた。そばでむすこが言う。

「おとうさん。だれと話しているのです」

「そうか、おまえの目には見えないのだったな。その死神とだよ」

「じゃあ、やはり本当なんですね」

「まあ、みんなで酒でも飲もう……」

 妻子に酒をすすめ、男は言った。

「……こうなってしまっては、もう、どうにもならないのだ。そりゃ、正直なとこ

ろもっと生きていたいが、欲を出したらきりがない。人間、いつかは死ななくては

ならないのだ。しかたがないと思うしかない。おまえたちもあきらめてくれ。生命

保険も増額してある……」

 あれこれ説明すると、妻子は事態を理解してくれた。あきらめる以外に方法がな

いのだ。男はさらに言う。

「……わたしは、あしたから会社へ出ようと思う。考えてみると、長くつとめた会

社だ。仕事にひと区切りつけ、あとの人たちに迷惑のかかるのを少なくしておいて

やろう。いつだったか、上役に急死され、みなで困ったことがあった」

 男はつぎの日、久しぶりで会社へ出た。

「長い休暇だったな」

「ああ。しかし、きょうから、また大いにがんばるつもりだ」

 かなりの仕事がたまっていた。男は張り切って、それらをつぎつぎに片づけた。

また、部下のひとりひとりを呼んで、仕事上のこまかい注意をした。部長というも

のは、こういう視点からみなの働きぶりを見ている、それを考えて仕事をすればう

まくゆくなどと。

「そんなことまで打ちあけてしまったら、部長としての価値がなくなってしまうん

じゃありませんか」

 といった感想をもらす者もあった。だが、男はただ静かに笑うばかり。

 あいかわらず、れいのやつは出現する。

「あと七日でございますよ」

「わかっているよ。仕事を片づけている。こうさせたかったんだろう」

「けっこうなことでございます」

 男は墓地を買った。墓石の注文もした。どうせ必要なものなのだ。また、死亡通

知の印刷もたのんだ。印刷屋は日付けを見てふしぎがったが、冗談だと言い前金を

払うと、引き受けてくれた。

「あと四日でございます」

 部下たちに伝えるべきことは、もはやない。男は社長に会って話した。社長の目

のとどかないところで、どのようなごまかしがなされているか、実例をあげてくわ

しく説明した。また、各人についての評判なども。社長はうなずく。

「たいへん参考になった。知らなかったことばかりだ。社内改革の資料にしよう。

しかし、そうなると、きみが話したということが表面に出て、みなにきらわれ、う

らまれることになるぞ」

「そのご心配はいりません。会社のためと思ってお話ししたのです」

 きっと、葬式の日には社長から大きな花輪がとどくだろう。香典もたくさん出る

にちがいない。

「あと三日でございます」

「じたばたはしないよ。そっちは、本当は、それを見物したかったのだろうな。し

かし、意地でもその手には乗らないよ。お気の毒だがね」

 男はすっかり覚悟している。死亡通知のあて名を書き、そのあと学生時代に親し

かった友人とバーヘ出かけて酒を飲んだ。

「あと二日でございますよ」

 夕食のあと、男は妻に言った。

「あと二日だそうだ。まったく、妙な気分だ。なにか方法が残されているのなら、

必死になって最後まで努力してみるところだろうが、それがなんにもないとくる」

「あたしもですわ。あなたが死んだあと、あらためて悲しみがこみあげてくるでし

ょうけど」

「こうなったら打ちあけるが、結婚してから、何回か浮気をしたことがあった。こ

のあいだの旅行では、したいほうだいのことをした。だまったまま死んでゆくのも

気になる。許してくれ」

「許すも許さないもありませんわ。じつはね、あたしも浮気をしたことがあったん

ですの」

「そりゃあ、知らなかった。腹を立ててなぐりつけたいところだが、あと二日とな

っては、そんなこと、どうでもいい気分だ。許すよ。人間とは完全なものじゃない

んだ」

 そこへ、むすこがやってきて男にささやいた。

「おとうさん。じつは、ぼく、おとうさんの金をくすねたことがあったんです。許

して下さい」

「いいとも、いいとも。わたしだって、おまえの日記を盗み読みしたことがあった

。しかし、もうまもなく終り、そんな人間的なこともできなくなるのだ。残念だな

 つぎの日、男は妻子とともに外出し、レストランで夕食をとった。値段にかまわ

ず、食べたいものを注文し、飲みたいだけ酒を飲んだ。しかし、そう大量には飲ま

なかった。やけになってみてもしょうがないのだ。

「あと一日でございます。つまり、あしたの夜中までです」

 夜があける。その日はずっと、男は自宅ですごした。身辺の整理で、し残したこ

とはないかと考えたが、あまりなかった。友人の借金の証書が出てきた。いまさら

取り立ててもしょうがあるまい。彼はそれを焼き捨てた。

 これで、この世ともおさらばか。この五十日、ほかの過し方もあったのだろう。

しかし、まあ、こんなところが適当なのだろうな。すべてが悪夢であってくれれば

いいのだが、きのう、あと一日という声を聞いている。ここまで来てしまったのだ

。時間の流れは止めようがない。

 軽い夕食のあと、男は妻子に言う。

「おやすみ、そして、さよならだ。ひとりで静かに死なせてもらうよ。いまさらさ

わいでも、どうにもならない。あしたになったら、わたしはもう、この世にいない

。そうそう、あとで死亡通知をポストに入れといてくれ」

 男は睡眠薬を少し飲み、ベッドの上に横になった。もはや、さきのことを思いわ

ずらうことはないのだ。これまでのことを回想しているうちに、やがて眠くなる…

…。

 ふと目ざめる。まだ十二時前のようだな。あとどれぐらいあるのだろう。スタン

ドをつけて、時計をのぞく。

 午前三時。

「どういうことなんだ。時計が狂っているのかな。おかしい」

 しかし、時計はちゃんと動いている。

「ということは、すでに死んでいるというわけなのだろうか」

 呼吸もつづいていて、死の実感はわいてこなかった。なにがおこったのだろう。

あれこれ考えているうちに、あたりが明るくなる。黒い服の男があらわれて言った

「第一日目でございます」

「なんだって。どうなっているんだ。これは……」

「これからどうなさるのか。それが興味の的というわけでして」

「なんだと、死神め。話がちがうぞ」

「自分を死神だと申し上げたことは、一回もございませんよ。そちらが勝手におき

めになったのです。わたしは、それより、もっとたちの悪い存在でしてね。もう出

現はいたしませんよ。あとは遠くから見物するだけです」

「まったく、たちが悪い……」

つぶやく男にそいつはにやにや笑って言った。

「これから、どうなさいます……」

  包 み

 ある画廊で個展が開かれていた。その老人の画家は、第一日目ということもあり

、そこに姿を見せていた。年齢のわりには、ずいぶん若々しく見えた。

 鑑賞しようと入ってくる人の流れは、なかなか絶えなかった。画廊の主人はうれ

しそうだった。

「先生、今回も成功ですよ。ごらんなさい、みな熱心にながめています」

 やってきた美術評論家は、画家のそばへ来て話しかけた。

「すばらしい。またも新しい分野を開拓なさいましたね」

「ありがとうございます。ほめていただいて」

「おせじじゃありませんよ。拝見して、びっくりしました。すべての絵に共通して

、静寂がありますね。あの風景画もそうだし、こっちの都会の絵もそうだ。静かさ

がみちています。そこですよ、面白いのは」

「面白いでしょう」

「ええ、ただの面白さじゃありません。あの風景画、荒れ狂う暴風を描きながら、

音をまるで感じさせない。それに、あの絵。楽器を演奏する若者たちを描いていて

、うるさくなければならないのに、感じさせるものは静寂です。ふしぎでなりませ

ん。奇妙です。いや、神秘的というべきかな。あなたみたいに評論家泣かせの画家

はいませんよ。つぎにどう発展するのか、まるで予測がつかない。いったい、どう

してこんな構想がわいてきたのです」

「なんとなく、そんな気になったのですよ」

「ずっと静寂というものを追求してきたというのならわかるのですがね。しかし、

あなたはそうじゃない。個展を開くたびに、まったく新しい世界を作りあげる。つ

ぎは、どんなテーマをあつかわれますか」

「それは、まだわかりません」

「しかし、いずれにせよ、また新しい分野を拝見できることはたしかですね。かけ

ねなしに、あなたは前例のない画家です」

 この評論家ばかりでなく、会場に飾られている絵を見る者は、みな同じような感

想を持つのだった。

 その画家は、五十歳のころまでは、まったく世に認められなかった。無名もいい

ところ。そのため、結婚どころでなく、いまだに独身だった。食うや食わずの生活

がずっとつづいていた。好きで選んだ道とはいうものの、いいことはあまりなかっ

た。

 ちょっとした金持ちや成功者たちにたのまれて肖像画を描くとか、地方の町から

たのまれて名所の|景《け》|色《しき》を描くとかいう仕事をやっていた。早く

いえば、写真がわりといったあつかいだった。そういう腕前はあり、できたものは

まさに写真に近いほどみごとなのだが、それだけなのだった。個性とか、想像力と

か、訴えるものとか、そういうものがない。したがって、そんなたぐいの注文しか

なかったのだ。

 古くから知りあいの画商は、そんな画家を気の毒に思い、このような依頼を取り

次いでくれる。しかし、好きなように腕をふるった作品をとたのまれることはなか

った。いいもののできるわけがなかった。それに、本人にもその自信はなかった。

 都会では生活の費用がかかりすぎるので、その画家はいなかに居を移した。山す

その村の一軒の小さな家を借りて住み、衣食住すべて安あがりだった。周囲に刺激

的なものはなんにもないが、それはいたしかたない。画商からの依頼があると、都

会や他の地方に出かけるが、そのほかの日々は、ここですごすのだった。

 近くの風景を写生してみたこともあった。しかし、やってきた画商は、それを引

き取ってくれなかった。もっとも、期待もしていなかった。画家はひとりつぶやく

「このへんは空気もいいし、水もきよらかだ。健康にはいいぞ。きっと長生きする

だろうな。しかし、わたしは今まで以上になれまい。残念だが、このとしになって

は、ほかの職にもつけない。これが与えられた人生というものか……」

 いささか、あきらめの心境になっていた。

 そんな彼の上に、変化がもたらされた。ある夜、そろそろ眠ろうかという時刻、

そとから戸がたたかれ、声がした。

「夜おそく、すみません……」

「なんでしょうか……」

 画家は戸をあけた。ひとりの青年がそこに立っていた。色白で、育ちのよさそう

な感じだった。頭もよさそうだ。しかし、なにか困っているようなようすだった。

こんな青年をモデルにして描いてみたいな。ふと、そう思った。これまで、年配の

いわゆる名士ばかりを描かされ、うんざりしていたのだ。

「……なかへお入りになりませんか」

 退屈しのぎの話し相手になってもらいたい気もした。しかし、青年は言った。

「いえ、あまりご迷惑をおかけしたくありませんので、ここでけっこうです」

「なにかお困りのようですね。わたしでお役に立つのなら……」

「もし、よろしかったら、この包みをあずかっていただけませんか。どこか、その

へんの片すみにでも置いといて下さればいいのです」

「それぐらいでしたら、お安いご用です。ごらんのように、都会生活とちがって建

物はぼろですが、場所だけはたっぷりあります」

「それは、ありがたい。じゃあ、よろしく。いずれ、おみやげでも持って、受け取

りにまいります」

 青年はかかえていた包みを戸口に置き、そのまま立ち去った。画家はそれを、す

みのほうに移した。

 そのうちあらわれるだろうと画家は心待ちしていたが、三か月ほどたっても、青

年は受け取りに来なかった。

 いったい、なにが入っているのだろう。画家はなんということなく考えた。そば

へ行って見つめなおした。小型のカバンぐらいの大きさの四角いもの。紙で包んで

テープでとめてあり、その上にひもがかけられている。文字はなんにも書いてなか

った。高価なものが入っているような外観ではなかった。手で持ってみたが、重さ

からは中身の見当のつけようがなかった。

 あけてみたい誘惑にかられたが、実行するにはためらいがあった。包みなおした

あとがあったら、青年がやってきた時、ぐあいの悪いことになる。

 画商から仕事があるとの手紙がとどき、画家は都会へ出かけた。となりの家の人

に、もし|留守中《るすちゅう》に青年が来たら、あの包みを渡してやってくれと

たのんで。

 そして、仕事をすませて帰宅してみると、包みは依然としてそこにあった。あの

青年は取りに来なかったのだ。さらに三か月がたった。包みをあずかってから半年

たったことになる。

 画家は包みの存在が気になってならなくなった。いったい、あの青年はどうした

んだろう。なぜ取りに来ないんだ。あのあと山道で遭難でもしたのだろうか。道に

迷い、林の奥でだれにも発見されないまま死体になってしまったのではなかろうか

 包みの中身は、なんなのだろう。あの年ごろだ。恋愛をしているにちがいない。

その女性の写真なんかも入っているのだろうな。あるいは、彼女へのみやげの品も

 どんな女性だろう。山で遭難したとも知らず、恋人の訪れるのをずっと待ちつづ

けている女。画家だけあって、あの青年の顔はよくおぼえていた。忘れがたい印象

を残している。それにふさわしい女性となると……。

 画家はこころみにデッサンをしてみた。こんなところかな。いや、もっと美人か

もしれない。やってみると意外に面白かった。たぶん、こんなところではなかろう

か。彼はそれを絵に仕上げた。モデルなしに描いたはじめての作品だった。

 そのうち、ふと、もしかしたら年長の女性かもしれないと思った。色白で弱々し

いところがあった。ああいう青年は、としうえの女性に愛されるタイプかもしれな

い。となると、こんな女性だろうか……。

 そんなふうにして、四枚の絵ができあがった。

 さらに何か月かがたったが、青年は包みを取りにあらわれなかった。どういうこ

となのだろう。死んだのでなければ……。

 ひょっとしたら、犯罪に関連があるのかもしれない。所持していてはぐあいの悪

いものだ。へたに捨てたら発見されるおそれがある。そこで、包みにしてさりげな

くここにあずけていったとも考えられる。つまり、犯行現場に残しておけない凶器

のたぐいだ。

 しかし、あの青年はそう残忍そうには見えなかった。となると、自衛のためのや

むをえない行為だろう。襲いかかられ、どうにも防ぎようがなく、たまたまそこに

あった包丁をつかんで、相手を突き刺す。そんな光景が頭に浮かんできた。

 画家はそれを絵にした。しかし、あの青年の顔を描くわけにはいかない。こっち

を信用して包みをあずけていったのだ。それは裏切れない。

 上半身はだかの男の胸。にくにくしい表情を持った胸、つまり、その上に凶悪な

顔がくっついていそうな胸。それに突き刺さる寸前の包丁といった構図のものにな

った。一瞬後には、血しぶきの散るのが想像でき、思わず身を引きたくなるような

できばえだった。

 彼はさらに描いた。あの青年、なにかどうにもがまんできないほどの屈辱を受け

、そのあげくやったのかもしれない。そして、凶器はハンマーかもしれない。包み

の重さから、そんな気もする。ハンマーをにぎった手という、簡単な構図の絵だっ

た。その手はほっそりしているのに、にくしみがこもり、こまかなふるえが感じら

れるようなみごとなものとなった。映画のフィルムをストップさせたような、なん

ともいえない迫力があった。

 久しぶりに都会から画商がやってきて、画家に言う。

「どうです、このごろは」

「まあまあですよ」

「また、いつものような注文を取ってきましたよ……」

 と画商は話しかけたが、そのへんにある女を描いた四枚の絵を見つけて声を高め

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