「だけど、これだけすごい現象でしょ。うまく利用すれば、世の中の役に立つんじ
ゃないかしら。会社への通勤とか、商品の流通とか。物価も下がるんじゃ……」
若い女が言う。
「うまく通勤に使えれば、大助かりだわ。だけど、あたしはここへの一方通行しか
できないみたいなの」
「だから、それはえらい学者たちが研究し改良して……」
と主婦が言うのを、理髪店主が制した。
「通勤に使えるようになったら、交通機関の関係者、みな失業ですな。流通機構の
ほうも、そうなる。パニックが起るんじゃないでしょうか」
女アナウンサーも言う。
「そうなったら、もう、秘密でもなんでもなくなっちゃうわね。軍備に利用しよう
とする国も出てくるわ。科学的な新発見って、おしまいはみんなそこへゆく。防ぎ
ようもなく核兵器が運ばれて……」
主婦がさっきの意見を撤回した。
「そうなったら、たまらないわ。悪用を防ぐ方法って、ないんですか」
視線の集中を受け、青年は言った。
「弱りましたね。そもそも、善悪の判定となると、議論しても答えは出ないでしょ
う。便利か失業かの点でも。かりに基準が出来ても、うまく整理できるかどうか…
…」
青年は頭をかかえこむ。みな、沈黙。ことの重大さが、わかりかけてきたのだ。
中学生が言った。
「ぼく、ふしぎなことが好きで、これも、やってみたらうまくいった。だけど、な
にかひっかかります。こんなこと、起りうることなんでしょうか。その疑問を考え
はじめているんです。どこか、おかしいんじゃないかなあ。みなさん、そう思いま
せんか」
女アナウンサーもうなずく。
「そういえば、そうね。人が移動するんだから、エネルギーが必要なわけよ。どう
なっているのかしら。呼び出したほう、呼び出されたほう、どちらかが長い距離を
歩いたような疲れを感じていいのにね。だれか、いらっしゃる」
みな首を振った。理髪店主が言う。
「そうですなあ。たしかに、ふしぎです。わたし、科学のことはまるで知りません
が、どこか変です。現実にそうなったじゃないかと言われても、半信半疑だ。神社
におまいりして、もうかったこともあるが、そうでない時もある。自信がなくなっ
てきた」
きりがないので、青年が言った。
「夜もおそくなりました。この件については、そのうち、あらためて相談しましょ
う。やり方については、その中学生のところでとまっている。秘密は現状のままに
しておきましょう。改良法、新しい利用法、悪用防止法など、それぞれ考えておい
て下さい」
みな、つぎつぎと帰っていった。来るのは簡単だが、帰るのは、歩くかなにかに
乗るかしなければならない。
一週間ほどたち、青年のところへ若い女から電話があった。
「ちょっとお会いしたいの。やってみてくれる……」
「ああ」
青年はやった。しかし、なにも出現しなかった。うまくいかない。そのうち、玄
関のベルが鳴り、あけると彼女だった。
「だめだったでしょ。タクシーで来たの」
「そうかい。まあ、なかに入らないか」
女は椅子にかけて話しはじめた。
「あれ以来、だれも、うまくいかなくなっちゃったの。どうがんばってもね。あの
中学生が、疑問というものを持ち出したからみたいね。心のすみに少しでも疑問が
あると、だめらしいの。以前の状態には、戻れないわけよ。あなたも、やりながら
、それを気にしていたんでしょ」
「そういわれればそうかもしれない。はじめのように、信じ込んでじゃないものね
。これで、なにもかも終りか。夢みたいなものだったな」
「でしょうね。じゃあ、あたし……」
「そうだ、きみの電話番号を聞いてなかった。呼び出しができなくなると、どこか
で会うほかなくなってしまう。そのうち、また会ってくれるだろう」
「ええ。でも、こんなきっかけで知り合いになったなんて……」
向 上
その病気がいつごろ発生しはじめたのか、人びとは知らなかった。もっとも、こ
れはたいていのことにあてはまる。そのうち、一部の新聞が小さく報道した。現実
に、それで死ぬ人がいたのだ。
病気というものは、関心をひきやすい。生活の心配がなければ、まず健康を考え
るのが普通だ。記事としての扱われ方が大きくなってゆく。
三歩病という名称が、いつのまにか定着した。|発《ほっ》|作《さ》のほとん
どは、いや、すべてといっていいのだろう、歩いている時に起る。とつぜん「あっ
」と叫び声をあげる。そして、三歩ほど歩きつづけ、前方に倒れて息がたえる。
二歩や四歩の時もあるらしいし、死んでから倒れるのかもしれなかった。とにか
く、そばにいた人がかけよった時には、心臓がとまっている。救急車を呼び、ある
いは近くの医者を呼び、手当てがなされたこともあったが、回復した例はなかった
。
働きざかりの人に多かったが、そうばかりとも限らなかった。定職を持たず、ゆ
うゆうと生活、近所へ散歩に出た時にという、笑えない例もある。
精神的な疲労か、働きすぎが原因ではないかと、多くの医学者が言った。若い男
が眠っているあいだにやられるポックリ病のたぐいだろうと。しかし、これは男性
に限るわけではなかった。働きざかりの男が率では高かったが、女も、老人も、子
供にも発生した。精神的な疲労なら、性別年齢を問わず存在する。
会社などでの健康診断のデーターも調べられたが、心臓になにか欠陥のある人が
なりやすいともいえないらしかった。また、伝染性のものではないようだった。地
域的に集団発生することもなく、家族がつづいてというのもない。病原菌もビール
スも発見されない。
こうなると、交通事故のようなもの。予防のしようがない。あまり無理はしない
ようにと心がける程度だ。少なくとも、これは悪いことではない。
目立って多いわけでもないので、パニックといった状態には発展しなかった。
その三十五歳の男は、ある日の午後、ゲームセンターで遊んでいた。すると、声
をかけられた。
「お|上手《じょうず》ですなあ」
顔を上げると、五十歳ぐらいの身なりのいい紳士がいた。男は照れくさそうに言
う。
「いや、ほかに時間のつぶしようがないのでね」
「おひまとは、ちょうどいい。そろそろ夕方です。一杯やりませんか。いいバーを
知っています。ごちそうしましょう」
「じゃあ、お言葉にあまえて……」
男はついていった。音楽がかすかに流れている。落ちついて話すのに適当な店だ
った。
「気楽な生活のようですね」
紳士に言われ、男は首を振った。
「とんでもない。会社をやめたので、失業保険をもらっている身ですよ」
「なんでやめたのです」
「人員の縮小です。わたしのワイフは、小さなアクセサリーの店をやっている。そ
れに子供もないのです。わたしがやめれば、だれかもっと切実な生活の人が社に残
れると思いましてね」
「ご立派です。そういう人こそ、尊重されなくてはなりません。いかがでしょう、
ある仕事につきませんか。社会のためになることです。給料も悪くありません」
「やりますか。毎日をあてもなく遊んですごすのにも、あきました。あなたは、そ
う悪い人じゃないようだし」
「では、あしたの午前十時、ここで会いましょう」
紳士はメモ用紙に地図を書いた。わかりやすい場所だ。それから、ひとつ前途を
祝してと、さらに酒をすすめられ、男はいい気分で帰宅した。
翌日、男は指示された街かどへ行った。紳士は待っていた。そばにゲームセンタ
ーがある。
「ちょっと入りませんか」
紳士に言われ、男は肩をすくめた。
「そういうのから足を洗おうという時に」
「最後を飾ってですよ」
移動する動物を狙ってうつやつだ。たあいないゲームで、男は容易にいい点をと
った。
「うまいもんでしょう」
「合格ですよ」
そこを出て、少しはなれたビルの地下へおりる。商店が並んでいてにぎやかだっ
たが、その下の地下二階となると、ひっそりとしている。廊下のそばの一室に入る
。お客のいない小さな喫茶店といった感じで、テーブルと|椅《い》|子《す》と
があり、壁には鏡がついている。
男を椅子にかけさせ、紳士が言う。
「連れてまいりました」
声がかえってくる。
「ようこそ。マジック·ミラー越しで、まことに失礼だが、しばらくは顔を見られ
たくないのだ。ところで、働く意志があるとか」
鏡を見ると、自分がうつっている。どこを見たものかとまどいながら、男は答え
る。
「ええ。しかし、わたしの経歴などをお知りにならずに……」
「すでに、くわしく調べてある。性格についても、好みについても。だからこそ、
さそいをかけたのだ」
「犯罪に関係あるんじゃないでしょうね。なんだか、秘密めいている」
「犯罪どころか、その逆だ。やっているうちに、働きがいを感じるようになるだろ
う。しかし、直接に感謝されることのない、裏方の仕事なのだ。おもてにはあらわ
せないが、公的な機関なのだ」
「スパイ関係ですか」
「そういうたぐいではない。いずれわかるだろう。とにかく、給料は保証する」
まともな、しっかりした口調。犯罪組織のような崩れた響きはおびていない。
「やりましょう。面白そうだ。いままでずっと、ありふれた会社の仕事でした」
壁の一部から、引出しのようなものが伸びて出てきた。声が言う。
「そのなかに札束が入っている。とりあえずの費用だ。今後、給料は一か月ごとに
支払う。ここへ寄って、ここから現金で受け取ってくれ。税引きだから申告は不要
。ほかに、バッジもあるだろう。目立たぬものだが、服のえりにつけてくれ。さて
、同僚を紹介する。しばらくは、彼の言うことに従って行動してくれ。彼はミスタ
ー·A、きみはミスター·B。そう呼びあってくれ」
いっしょにいた紳士が部屋を出て、かわりに四十歳ぐらいの人物が入ってきた。
「よろしく、ミスター·A」
「こちらこそ。しかし、その呼び方、ひと前では使わないようにしよう。変に思わ
れる。さて、まずは仕事だ。むずかしいものじゃないよ。さあ、出かけるか」
その地下二階のそばは、駐車場になっていた。運転手つきの、専属らしい車が待
っていた。それに乗り、地上の道へと出て、盛り場へ行く。車からおり、あるビル
に入り、三階の小さな部屋に入る。かどに位置していて、二つの面が窓になってい
る。
窓ぎわに三脚がすえられ、精巧な望遠鏡がとりつけてある。壁のハンドルを回す
と、窓ガラスが上にあがる。同僚は言った。
「下を通る人たちをのぞいてみてくれ。横のダイヤルが、ズーム装置だ。顔のスナ
ップ写真をとる調子で、ダイヤルのそばのボタンを押すのだ。試験的に、何回かや
ってみてくれ」
やってみる。カチャッ、カチャッ。男は聞く。
「こんなふうにか」
同僚はうなずき、一枚の写真をポケットから出し、手渡した。五十歳ぐらいの、
やせた男がうつっている。
「まもなく、こいつがむこうから歩いてくるはずだ。確認して、鼻が画面の中央に
きた時、シャッターを押してくれ。人ちがいしないよう、この写真をクリップでそ
ばにはさんでおく。両目で見くらべた上でやってくれ」
「ああ」
やがて、目標のやつがあらわれた。まちがいない。ボタンを押す。ガチャッ。さ
っきより重くにぶい音。のぞきつづけていると、そいつはゆっくりと倒れていった
。
「どうしたんでしょう」
男は聞き、同僚は答えた。
「三歩病だよ」
「あの奇病ですか。その瞬間の写真がとれたというわけですね」
「ちがうよ。いま押したボタンで、この装置が作動し、ビームが発射され、やつに
命中し、心臓の神経が|麻《ま》|痺《ひ》した」
それを聞き、男は悲鳴のように叫んだ。
「人を殺してしまった」
「そうだ。だましたのはぼくだが、きみも協力した。秘密は守ってくれるな。そり
ゃあ、いまはショックだろう。気にするなと言っても、むりかもしれない。くわし
く説明してあげる……」
ある週刊誌が興味本位に報じていた。
このあいだ、盛り場で三歩病の発作で死んだ某銀行の役員。公金を流用し、株式
投資をやり、ひそかにもうけていたらしい。銀行に損害を与えたわけでなく、信用
上、銀行側はその事実を否定している。
しかし、それによって得た利益は多額であり、税務署が調査に乗り出した。だが
、架空名義を使っていた上、なにぶん当人が死亡しているため、すべては打ち切り
。
そのことへの良心のとがめが、発作の原因になったとも考えられる。よからぬこ
とをやる時は、精神安定剤の服用もお忘れなく、とも。
「われわれは執行官というわけか。ミスター·A」
と男が言う。きょうは、べつなビルの一室。同僚は答える。
「そういうことだ。前にも話したが、だれかれかまわず狙うわけではない。調査部
門、コンピューターが動員され、念には念を入れての決定だ。それらに従事してい
る人たちの努力も、大変なものらしい。悩みも……」
「そうだろうな」
「三歩病で死んだのは、みな、かなりの悪事をやっているやつばかりだ。殺人、傷
害に匹敵するようなのを。それでいて、表面はまともな社会人ぶっているのが多い
。公然と指摘し、問題にしてもいいが、みじめな刑務所行きか、自殺だ。それより
、あっという死の三歩病。本人にも遺族のためにも、このほうがいい。そう思わな
いか」
「でしょうね。年ごろの娘なんかが、犯罪者の子ときめつけられては、気の毒です
。罪をにくんで人をにくまない社会には、まだなっていない」
「だろうな。だから、この組織が存在し、活動しているのだ」
「きょうの目標は……」
男が聞くと、同僚は写真を出した。三十歳ぐらいの女性。
「こいつだ」
「いやに美人だな」
「ああ。それをいいことに、一種の結婚詐欺をつづけている。青年から金を巻き上
げる。それから、冷たくする。がっくりきて生きる気力を失い、自殺。すでに、二
人がそうなっている。いまも三人の若者をあやつり、金を引き出している。|矯正
《きょうせい》不可能な性格なのだ……」
「わかった。決定は正しい。まかせておけ……」
男は装置を操作し、命中させた。鼻のあたりにビームのあとがつくらしいのだが
、前へ倒れるため、顔の傷とみわけがつかなくなる。
「……やった」
「楽しくなってきたようだな。二回目にして、そうなるとはね。たいていの人は、
最初はびっくり、二回目はおどおどだが、きみはその段階をとび越えている」
「順応性かな……」
何日かすると、すっかりなれた。
さまざまな場所に、そのための部屋があるのだ。ごくたまに、走る自動車のなか
からやることもある。
服のバッジは、警官に尋問された時に役に立つとのこと。これをつけていると、
非常線で止められることもない。万一の場合にそなえてなのだ。
同僚は三脚を組立てながら言う。
「やりがいがあるだろう」
「ああ」
「そのうち、ただの仕事と割り切ってしまうようになるよ。疑問や議論を口にした
いのなら、いまのうちだ」
うながされて、男は言った。
「この行為、本当にいいことなんでしょうね」
「正義とはなにか。その定義はきわめてむずかしい。また、各人各様だろう。しか
し、悪はとなると、なんとか形がつかめる。現実に存在している」
「悪とは、なんなのです」
「他人への迷惑、不当なる利益。それも、ほどほどなら仕方ない。しかし、ある限
界を越し、継続してとなると、大部分の人は排除したいと思うだろう。それは悪と
みとめていいのじゃないかな」
「つまり、社会の敵だな」
男が言い、同僚はつづけた。
「そうだ。戦いなのだ。善良な精神への侵略といっていい。悪事とは、地球を混乱
におとしいれるための、宇宙人のリモート·コントロールによる現象だと考えれば
……」
「自衛の戦いだ」
と男は声を高めた。しかし、同僚はひたいに手をやって言う。
「残念なことは、あるレベル以上の政治家が例外になっていることだ。対立者の暗
殺になりかねないからだそうだ。社会における一般的な悪人に限られている」
「それは仕方ないだろうな」
「ああ。しかし、政治家と組んで、あきらかに不当すぎる利益をあげ、私したやつ
は、何人か始末した。いずれ、その効果が……」
世の中、少しずつよくなっているように思う。
世論調査でこんな意見が半数をはるかに越えたのは、何十年ぶりか。天罰がある
と思うとの回答も、かなりの高率になっている。
「百人は越えたかな」
男がつぶやき、同僚が言う。
「もっとだろうな。なあ、時どき考えるよ。人類が進化の段階で、悪人|淘《とう
》|汰《た》の法則をそなえていたらなあと。また、病気というものが、意志を持
っていて、善良な人間にはとりつきにくくなっていたらなあと」
「それをおぎなっているんじゃないか。われわれは白血球みたいなものだ。たえま
なく、悪という病原菌を消しつつある。発生しにくくもさせている。対象は悪なの
だ。社会につくす能力に欠ける弱者は、ひとりたりとも対象にしたことがない」
「たしかだ。誇るべきことだな」
「さて、きょうの目標は……」
男が聞くと、同僚が写真を渡す。
「こいつだ。むこうから来る」
「なにをしでかした」
「医者だ。三歩病の死因に不審を抱き、おかしな動きがある。このままだと研究を
はじめ、やがて、なにもかも……」
「わかった。あ、来たぞ」
命中。同僚は写真をもう一枚出した。
「しばらくここで待ちかまえる。こいつもやるのだ」
「この胸のバッジは……」
自分たちの胸につけているのと同じもの。
「この装置を私的に使用した。奥さんの浮気の相手を狙って、ボタンを押したのだ
」
「気持ちはわかるが、それはひどい。この神聖な仕事をけがすものだ。油断をする
と、悪はどこにでも入りこむ。切開手術だな」
ある日を境に
住宅地の夜の道。その三十歳ちょっとの男は,いささか酔って、自宅への道を歩
いていた。
つとめ先の会社が人件費をへらすため,彼をやめさせてしまったのだ。気分をま
ぎらすためにバーへ寄り、グラスを重ね、いつのまにか酔ってしまった。
まだ独身だった。また、もともと器用なところがあり、ちょっとした仕事をたの
まれることも多かった。そんなことで、食えない心配というのはしたことがなかっ
た。
しかし、そろそろ便利屋めいた生活をやめ、定職につこうとし、それが実現して
まもなく、このありさま。酔いたくもなるというものだ。知人を回れば、だれかが
なにか仕事をやらせてはくれるだろうが、以前の状態に逆もどりだ。
おれは運が悪い。ついてない。安定した余裕のある人生にあこがれているのに。
ふらふらした足どりで歩きながら、そんなことを考えていた。
「あなた、なってみたいものがありますか」
そばに人のけはいがし、こう話しかけてきた。もの好きだね、おれに話しかけて
くるなんて。それとも、からかいか。男は酔眼もうろう、声の主を見ようともせず
答えた。
「あるね」
「なんでしょう」
「福の神さ。な、そうだろ。あはは……」
「よろしい。では、きまった。あなたは今から以後、それです」
肩をたたかれた。奇妙な感覚がからだを通り抜ける。少し酔いがさめた。
「いったい、どなたです」
男は目をこらし、あたりを見まわした。まず、声のした右側を見た。つぎに左側
を見る。前方に目をやる。だれもいなかった。うしろを振りむく。ひとつ先の角を
曲って去っていった影があったようだが、それが声の主かどうか、たしかめようが
ない。
だれかの、いたずらだろうか。しかし、たしかに会話をかわしたし、肩もたたか
れた。通り魔のようだったなと思い、そこから悪魔という言葉を連想した。願いを
かなえてくれる悪魔の話は聞いたことがある。もしかしたら、それかもしれない。
だが、魂と引きかえなんて話はなかった。そして、おれがなりたいと願い、かなえ
られたらしいことが、なんと福の神なんだ。
帰宅して眠る。よく思い出せないが、むやみと豪華な夢を見た。
つぎの朝になると、男の心のなかで、自分が福の神であるという感じが、いっそ
う強くなっていた。おれが福の神でなくて、だれが福の神だ。だれかがやらなくて
はならない役割りが、こっちへ回ってきたのだろう。
男は外出し、伯父を訪れた。オモチャの工場を経営している。男は言った。
「じつは、ぼく、福の神になったんです」
「なんだって。妙なものになったな。まあ、いいだろう。だが、あまり他人には話
さないほうがいいだろうよ」
「本当なんですよ」
「本当かどうか、どこでわかる」
「ぼくをやとってみませんか。業績はたちまち向上しますよ」
と男に言われ、伯父は考え、うなずく。
「そうか。おまえはせっかくつとめたのに、やめさせられたんだな。働き口をさが
してるってわけか。わかった、わかった。いいだろう。おまえの性格はよく知って
いる。信用もできる。つぎの口がみつかるまで、ここの仕事を手伝ってくれ」
「期待にこたえてあげますよ」
男はその町工場へかようようになった。しばらくすると、売上げは急上伸し、生
産がまにあわず、工場を拡張するまでになった。男は伯父に言う。
「いかがです。ぼくの言った通りでしょう」
「なんのことだっけ」
「この活気ですよ」
「たしかに、経営はいい調子だ。しかし、おまえがそんなことを言ったかなあ」
「言いましたよ」
「そうだったかな。で、それがどうだと……」
「ぼくの存在のせいなんですよ」
「なんだと。しっかりしてくれよ。たしかに、おまえはよく仕事をする。しかし、
目をみはるといった働きではない。まあまあといったとこかな。ここが好調なのは
、わたしが新しいアイデアのオモチャを思いついたからだ。それがヒットしたのだ
」
「そうなったことが、つまり……」
「変なことを言い出すなよ。わかった。特別にボーナスを出す。どこか静かなとこ
ろへ行って、休養してこい」
まともに相手になってくれない。男はがっかり。おれが福の神であり、その力を
みごとに示したというのに、ぜんぜん信用してくれない。
面白くない気分で、男は伯父の工場へかようのをやめた。もらったボーナスで、
二か月ほどは生活できた。そして、しばらくぶりに訪れてみると、伯父は大あわて
していた。借金が払えず、困りきっている。男は言う。
「大変なようですね」
「調子に乗って、作りすぎたせいだ」
「ぼくが来なくなったせいのような気がしませんか」
「おいおい、この忙しい時に、おかしなことを言わないでくれ。作りすぎと、人び
との好みの変化のためだ。原因はわかっている」
「ぼくを使ってみる気になりませんか」
「気の毒だが、今度はそうはいかん。給料を払うのだって容易でない。出費はでき
るだけ押える方針だ。わかるだろう。つとめ口なら、ほかを当ってくれ」
おれが福の神であることは、ちゃんと立証できた。それなのに、伯父はみとめよ
うとしない。まあ、むりもないことだが。
いまになってみると、われながら、つまらないことを願ったものさ。福の神とは
ね。こういう実情とは知らなかった。自分では金をもうけられないんだからな。
もっと年配で、どっしりとふとり、ふっくらした顔で、にこやかに笑っていれば
それらしいんだろうが、どうにもならぬ。とにかく、おれを福の神にしてくれたや
つ、悪魔かなにか知らないが、相当にいじの悪いやつであることはたしかだ。
男は求人広告を見て、ある大企業に就職した。もっとも、臨時社員という待遇で
、そう重要な仕事ではなかった。働きはじめの日、男は所属の上司に言った。
「この会社は、まもなく活況を呈するようになると思いますよ」
「いいことを言ってくれるね。それをめざしてがんばってくれ」
「わたしのいまの話、忘れないで下さい」
「ふしぎなやつだな。おぼえておこう」
そして、それは三か月ほどして、現実のものとなった。なにかの話のついでに、
男は上司に言う。
「わたしの言った通りになったでしょう」
「そうそう、きみだったな。珍しいことを言うやつだと、頭に残っていた。そうか
、きみは占いをやるというわけか。たまたま的中という感じだが……」
「もっと確実なんですよ」
「ひとつ、参考のために聞いておくが、今後のみとおしはどうだ」
「わたしをさらに重要な役につけると、会社は一段と発展します」
と男に言われ、上司はあきれた。
「おいおい、ふざけるのもいいが、世の中、そういうユーモアは通用せんのだ。た
しかに、会社の景気はよくなった。それは社員たちの努力の成果だ。きみひとりの
功績ではない。きみを特別あつかいしなければならない事情はないのだ。そんなこ
と、重役に進言したら、一笑に付されるのがおちだ。わかるだろう」
「そうかもしれませんが、ものはためしという気にならないものでしょうか」
「だれをもなっとくさせられる話なら、可能かもしれない。しかし、占いがうまそ
うだからだけでは、なあ……」
「でしょうね」
男は福の神だとどなろうとしたが、それはやめた。おれは福の神であって、福の
神になったと思い込んでいる変人ではないのだ。
時たま、頭のおかしいほうがまだましかとも思う。しかし、現実の福の神なのだ
。しまつが悪い。いらいらする。なんとなく働く気がしなくなり、その会社をやめ
た。しばらくし、その会社は経営危機におちいった。
男はその会社から迎えが来るかと待っていたが、来るわけがなかった。出かけて
いって話しても、わかってはくれないだろう。
男はべつな会社に臨時社員としてつとめはじめた。しかし、これまでにくらべ、
いくらか利口になっていた。少しだが金をつごうし、その会社の株を買ってみたの
だ。
やがて業績はよくなり、株価は上昇しはじめた。これだ。これを大がかりにやれ
ばいいのだ。男は銀行へ出かけて相談した。
「お金を借りたいのですが」
「なににお使いになるのです。住宅購入ですか、それとも……」
「株を買ってもうけるのです」
「冗談じゃありませんよ。銀行は堅い商売なんです。そんな投機には、お貸しでき
ません」
「絶対にもうかるんですが」
「だめですよ。株に絶対なんて、ありません。ギャンブルに必勝法がないごとく、
株もそうなんです。政治家と組んで操作をするならべつでしょうが、失礼ですが、
あなたはそんな大物に見えない」
「どう見えます」
「ただの普通の人です」
ここでも、ただの人あつかい。
株でもうけるのも、自分の持ち金の範囲でやるしかない。となると、利益の額は
知れているのだ。男はその会社の株を売り、行くのをやめてしまった。
それからは、つとめたりやめたりの生活をつづけている。知人と会い、話しかけ
られた。
「いま、どこにつとめてます。しょっちゅう、つとめ先を変えてますね。ひっぱり
だこなんですか、しくじりつづけなんですか」
「自分の気持ちでですよ。あきっぽいんでしょうね」
「でも、そう転々としていては、昇給もしないでしょう」
「ええ、片手間に株をやってて、そっちがうまくいってるんでね。生活はまあまあ
ですよ」
「株ですって。あれ、損することもあるわけでしょう」
「そうひどい目には、あわずにすんでいます。運がいいんですね。福の神がついて
いるんでしょうね」
おれがそうだと言いたいところだが、そうもいかない。
「株式相場って、いろんな要素がまざって形成されるわけでしょう。その見きわめ
がむずかしいんでしょうね」
「まあね」
そのひとつが目の前にいるのに。
能 力
その男は四十歳を越えていながら、まだ独身だった。聴覚に障害があったせいで
もある。つまり音が聞こえなかったのだ。
普通の会社への就職はしにくい。しかし、生活はなんとかなっていた。資料を集
めたり、古文書を読みやすく書きなおしたりというのを仕事とし、注文はけっこう
あった。みとめられ、これだけの資料をもとに郷土史をまとめてくれといった依頼
もあった。
それでも、やはり不便で味気ないだろうと思う人もいようが、彼の場合はちがっ
ていた。耳は大学に在学中から徐々に悪くなっていったのだが、それをおぎなう形
でテレパシー能力が鋭くなってきた。相手がなにを考えているのか、ほぼ完全にわ
かる。ずっと独身だったのも、そのせい。なぜって、まあ、察しはつくでしょ。
相手の心のなかにこっちの考えを送り込むこともできるのだったが、それはやら
ない。不必要に驚かしてしまうにきまっている。また、うすきみ悪く思われるにち
がいない。口はちゃんときけるのだし、すべてそれでことはたりた。
聞く手段は、声を文字に変える装置が出来てから、いちいちメモ用紙に書いても
らわなくてもよくなった。テレパシーだけにたよると、本音だけが伝わってきて、
口先だけのおせじへの応答にまごつく。
というわけで、いちおう平穏な日々が過ぎていった。男は現状に満足していた。
だから、自分の視力がおとろえはじめているのに気づいた時は、いささかあわてた
。早く手当てをと考え、医者に出かけ、診断の結果、手術を受けた。
悲劇のすべては、そこからはじまった。
どの段階で手ちがいがあったのか、使用した薬品が正常なものでなかった。医者
は非常事態に気づき、あらゆる治療法をこころみたが、視力はさらに悪化し、つい
になんにも見えなくなった。
医者は男の手のひらに、指先で「全責任をおい、ずっと面倒を見る」と書き、わ
びた。いかにわびられても、耳につづいて目もだ。まさに、目の前がまっくらにな
った絶望感におちいった。
装置が改良され、相手の声は点字となって表示され、知ることができる。また、
そもそも、テレパシー能力があるのだ。
しかし、こうなっては面白いこともない。生きがいもない。男は思いつめ、病院
を抜け出し、杖をつきながら歩き、近くのデパートへむかった。何回も行ったこと
があるのだ。エスカレーターで上へあがり、屋上へ出て、張られた金網からそとへ
出られないかとさがし……。
そこで、はっと気づく。いったい、おれはなにをしている。自殺できそうな場所
をさがしているのだ。さがしている。視力がないのに、つまずくことなくここまで
来て、そういうことをやっている。どうやら、ある種の能力が身についたらしい。
透視とでもいうのが。
なぜとか、どうしてとか説明はできないが、そばに若い女のいるのがわかる。そ
の気になって精神を集中してみる。彼女が手に持っているデパートの包装紙に包ま