「ぼくはそんな気はしないが……」
斎田は指でひたいを押さえた。なにかを追い求めるような表情だったが、それ以
上には発展しなかった。松山は聞く。
「さっきからの文明の必然みたいな話。理屈は通っているようだが、終りに至って
神秘的になるのはどういうことなんだ。爆発を経過して無に至るというへんは、よ
くわからないな。なぜ、そうなるんだい。しきりに、そうなるはずだと主張してい
るが、必然には理由が必要だよ」
「それはそうだろう。ぼくはその説明をしなくちゃならない。それをしよう。つま
り、宇宙の進化に関連してることなんだ」
「ぎゃっと叫びたくなったよ。まあ、そう一挙に飛躍しないで、順をおって話して
くれないかな」
「そうむずかしいことじゃないから、きらくに聞いてくれ。この宇宙のそもそもの
発生。学説によるとこうだ。はじめは無だったんだ。なんにも存在しなかった。そ
こに、百数十億年だかむかしに、ひとつの爆発がおこった。爆発という現象は、エ
ネルギーの飛散なんだ。飛散ということによって、空間が意味を持ちはじめる。四
方八方ということでね。空間のなかを移動することで距離がうまれ、それは時間と
いう意味を持ちはじめる。時間の作用によってエネルギーは冷却し、物質となる。
物質が出現し、物質が意味を持つことになる。そのつぎに、物質の大きな塊、つま
り惑星の上にだね、生物が出現する。生物は進化し、人間となる。人間が思考をは
じめ、これが文明だ。そこでさっき話した文明の進み方だが、順序がいまの逆にな
る。生物、物質、時間、空間、エネルギーだ。もう少し進めば、爆発をへて無に至
る。そうなってこそ、つじつまがあうといえるんだよ」
「ははあ、文明とは宇宙の進化の回想ということを言いたかったんだな。海へ出た
魚が、産卵のためにもとの川へ戻り、さかのぼるような話みたいだな。卓説なのか
珍説なのか、ぼくには判断のしようがない。キツネにつままれたような気分だよ。
しかし、楽しかったことは事実だ。決して酒の酔いのせいだけじゃないよ」
と松山は笑いながら言い、斎田も笑った。話を聞いてもらっただけでもうれしい
のだ。
「帰巣本能的な文明論とでもしておくかな。いずれもっとくわしく調べてみたい。
それに、もっとものものしい命名もしたい。帰巣本能的じゃ、ちょっと安っぽい…
…」
「そうそう、ぼくの帰巣本能がおるすになっていた。すっかりおじゃましちゃった
。きょうはこれで失礼するよ。またな……」
松山は時計をながめ、帰っていった。
そのあと、斎田の室で電話が鳴った。彼は受話器を取り、やがて戻す。そして、
その時を境に、彼の頭から帰巣本能的な文明論なるものは消えた。二人の会話をひ
そかに盗聴した〈声〉が、それを危険と判断したからだ。どこをどう危険と判断し
たのかは、知りようもない。
帰宅した松山も、やはりそれと同じ目にあった。
12 四季の終り
ここはメロン·マンションの十二階の一室。そこではとしとった夫妻が暮してい
た。この老人、かつてはさまざまな仕事をし、かなりの成功もしたのだが、いまは
引退してここで余生をすごしているのだ。
好きな本を読み、好きな物を食べ、高価なブランデーを毎日すこし飲むという、
気ままな生活。
いま老人は窓のそばの椅子にかけ、そとを|眺《なが》めている。とくになにを
見物しているというわけでもない。そとには十二月の午後があった。空は晴れてい
る。太陽の光は地上を静かに照らし、あたりを黄色っぽくいろどっている。空気が
いかにつめたくても、風があろうとも、それらにさまたげられることなく、あたた
かみを地上に建物に樹木にと送りとどけている。なごやかな光景だった。
老人がじっと眺めるのにふさわしい光景といえそうだった。彼はつぶやく。
「神がいるような気がしてならない……」
そのあとは声には出さず、心のなかで思うだけだった。老人はこのごろ、なぜか
神がどこかにいるような気がしてならないのだった。彼はずっと宗教心とは無縁に
生きてきた男。それなのに、こんなふうに考えはじめている。それは年齢のせいか
もしれなかった。人はだれも、としをとるとそのようになる。
また、そとの眺めのせいかもしれなかった。神が存在するとすれば、それは冬の
日光のなかにこそふさわしい。やさしく、あたたかくなでさすり、熱狂的な感謝は
されないにしろ、だれにも決していやがられることはない。強烈さはないのだが、
その存在ははっきりみとめられるのだ。
この眺めのせいだろうかなと、老人は思う。しかし、そのほかにもなにか理由が
あるような気がしてならないのだった。このごろ、社会に安心感のようなものがひ
ろがっている。平穏。どう平穏なのか、この説明ぐらいむずかしいものはない。異
常さがうすれている、神経を鋭くいらだたせる事件がない、そういった感じなのだ
。冬の日の光のよう。
その、とらえどころのないなかに、神の実在感が浮かびあがり、いやにはっきり
と迫ってくる。そして、それ以上はどうにもわからない。こう思うのは自分だけな
のだろうか。他の人も同じだと思うがな。しかし、老人はそれ以上に深く考えよう
とはしなかった。理由や原因など、どうでもいいことではないか……。
そのひとつ下の階、十一階の一室には斎田という三十五歳の男がひとりで住んで
いる。彼は片足が悪く、あまり外出をせず、投資をしてその利益で生活している。
それはまあまあ順調だった。
相場の変動をつかんでごそっともうけることもないが、一方、大きく損をするこ
ともない。証券データ·サービス会社に電話をし、そこのコンピューターから送ら
れてくる資料を検討し、情報銀行に電話をして自分の記憶メモを調べ、ある銘柄を
きめて買う。すると、それはほどほどに利益をもたらしてくれるのだ。そんな状態
に、彼は不満を感じていなかった。
ほかの時間、彼は読書をしてすごす。ちょうどいま、彼は読書に疲れ、本から目
をはなし窓のそとのおだやかな眺めを見ている。
「なにか、のんびりするなあ。大きなゆりかごのなかにいるような……」
そのさきは、彼の口からは出なかった。いつか彼が友人を相手に展開した、やが
ては無を支配する時期が来るというあやしげな説。いまの平穏さとそれとを結びつ
けることもしない。結びつけようにも、その説は彼の頭から消されてしまっている
のだ。
しかし、斎田は夢想をするのが好きな性格。それはいまも変らない。だから、ま
た同じ仮説を作りあげるかもしれない。そして、また友人に話すかもしれない。だ
が、その話し声はすぐコンピューター群に察知され、それに関連した記憶は消され
てしまうのだ。何度でも。消されることへ対抗しようという警戒心も育つことがな
い。
それでいいではないか。彼は不満も不幸も感じていないのだから……。
十階の一室には江川という三十歳ぐらいの男が住んでいる。彼もまた、このとこ
ろ平穏な日々を、迎え送っている。
感情をひっかきまわされたあの一日、すべてのささえが失われ極度にうろたえさ
せられたあの一日。その記憶は消され、ふたたび表面に出てくることはない。それ
は心の底に沈み、ごく時たま送られてくる〈声〉の受信装置となっている。電話に
よって〈声〉の指示がささやかれると、彼はそれに従う。従わないと非常に不安な
ことが起りそうな気がするのだ。これは江川ばかりでなく、だれもがそうなのだ。
九階の一室に住んでいるのは、黒田という青年。かつて彼は〈声〉への反抗をく
わだてたが、とらえられ、病院に送られて治療を受けることになった。その結果、
性格は変えられ、あの事件についての記憶もなくしている。いまは平凡な毎日、大
学へとかよっている。あの時に彼と行動をともにした友人の、西川も原も同じ。彼
らのあいだで、あのことについての会話がかわされることもない。
〈声〉そして、そのもとであるコンピューター群。それはこの平穏ななかでも休み
なく監視をつづけている。すなわち、休まざる監視によってこの平穏が維持されて
いるのだ。それは必要な仕事。この基盤に対して疑問を持ち反抗をこころみようと
考える者は、どこからか発生するのだ。それは病原菌の如く、完全になくすことは
できない。だが、早期に発見し、早期に芽をつみとることはできる。手のつけよう
もなくはびこることはないのだ。
反逆が成功することはありえない。コンピューター群はあらゆる情報を持ち、最
も適切な判断を下すことができ、いかなる動員もできるのだ。しかも最も有効に。
つねに芝刈り機が動きまわっているようなもの。ずば抜けた大天才は出現しない
かもしれないが、危険きわまる人物もまた出現しない。だからこそ平穏なのであり
、それでいいではないか。危険人物は人びとをいやな思いにさせる。大天才もまた
人びとの心のなかを、不安や嫉妬でいやな思いにさせる存在なのだ。
八階の一室では、池田という男が〈深層心理変換向上研究所〉なる看板をかかげ
、商売をつづけている。やはり、まあまあという営業状態であった。
適当に患者がやってきて、彼の療法によって適当になおって帰ってゆく。そのな
かから適当に再発するが、それもなおる。
かつて池田は〈声〉に対し、その正体を知らずに催眠術をかけ、驚きをあじわっ
たことがあった。しかし、いまはそんな記憶も彼の頭から消えている。順調な時の
流れが彼を洗いつづけている。
池田は窓のそばに立ち、そとを眺めながら、ふと考える。平穏すぎることへの疑
問がかすかにおこる。あまりにもおだやかだ。しかし、疑問がそれ以上に発展する
ことはない。なんの被害もこうむっていないからだ。
異常な事態とか、不利をもたらす周囲についてなら、人はそれに関して真剣に、
いくらでも問題を追究することができる。だが、おだやかさのなかにあっては、お
だやかさへの追究などできっこない。
電話が鳴る。池田が応答すると、患者のひとりからの治療の予約への件だった。
その患者も、もしかしたらコンピューター群によって作り出されたものかもしれ
ない。身のまわりの平穏さにいらだち、精神のおかしくなりかけている者があった
とする。察知したコンピューター群はそれに適当なきっかけを与え、わかりやすい
形に適当におかしくし、池田のところへと送りつけてくる……。
そうなのかどうかは、池田も知らない。その患者自身も知らない。知らなくても
いいことではないか。いずれにせよ患者にとっていいことであり、池田にとっても
いいことだ。
七階の一室では、少年が勉強している。おとなしい平凡な少年。夏の日の一斉停
電事故の時、彼は事件をおこすことの重要性について、さとったような気分になっ
たこともあった。事件がおこることで、より深い情報が掘り起されるのだと。
しかし、いまの彼は、そんなことをすっかり忘れてしまっている。むりに忘れさ
せられたのではない。少年の日のそのような考えは、たちまち忘れてしまうものな
のだ。
それに、このところ、少年の頭のなかではガールフレンドの面影が大きな場所を
しめていて、ほかのことをあれこれ考えたりしない。少し前に知りあったガールフ
レンド。とくに目立つ女の子ではないが、彼にとってはとても魅力的だった。ほん
とに彼の好みにぴったり。だれかが彼の心をのぞき、そこにあるイメージにぴった
りの女の子をさがし出し、おくりものにしてくれたかのようだ。少年はしあわせだ
った。
それはコンピューター群のやったことかもしれない。コンピューター群にとって
もいいことなのだ。危険思想がめばえ、はびこるおそれが、それだけ少なくなるか
らだ。また、少年にとってもいいことではないだろうか。
六階の一室には、四十歳の独身の男が住んでいる。芸能エージェントのようなの
が仕事。酒が好きで、ほとんどアル中だった。かつて梅雨の季節のころ、電話のふ
しぎな声により、三つの願いがかなえられたが、その結果をはかなく失ったことが
あった。彼はそれを時どき思い出す。しかし、酒による幻覚だったのだろうなと思
いかえすのだった。そう片づけでもしなければ、やりきれないことだ。
彼の日常は、その後もあまり変っていない。あい変らず酒を飲み、だらしない毎
日。支払いの請求に追いかけられ、その始末に頭をかかえる。しかし、それを越え
てとめどなく破滅にむかうこともないのだ。
もうだめかという状態になると、いくらか金になる仕事がはいり、それで急場が
しのげる。彼は時どき、酒をやめなくてはと思い、それをこころみる。何日か酒を
やめるが、またいつのまにか飲みはじめる。アル中の度が進むこともないのだが、
なおるみこみもない。
すべてはそれ以上に良くもならないが、それ以上に悪くもならない。人生とはこ
ういうものなのだろうと、彼はそれで満足だった。なんのおかげかと考えてみるこ
ともない……。
五階の一室には昭治と亜矢子という夫妻が住んでいる。かつて、死者の亡霊の声
になやまされ、電話につけるある装置の開発をやらされたことがあった。しかし、
それに関する記憶は二人の頭から消されている。そして、他の人びとと同じように
、いまやなにごともなかったような日常だった。
四階の一室に住んでいる津田という男は、ジュピター情報銀行の支店長。べつに
乱れのない午前と午後と夜とをくりかえしている。
たとえば、彼は出勤すると、部下のひとりを呼んで言う。
「なにか新種の情報サービスはないものかな」
部下は自分の席にもどり、自分の記憶メモをコンピューターに入れて整理したり
し、ひとつのアイデアを出すべく努める。そこに〈誕生日のお祝いのあいさつ〉と
いった言葉があったりする。彼はその案に肉づけをした形をととのえ、津田に提案
する。
「こんなのはどうでしょう。各人それぞれの、親しい友人の誕生日のリストを作っ
ておく。その日に自動的に、当人に知らせるというのは。〈きょうはあなたのお友
だちの、だれだれさんの誕生日です。ちょっと電話をなさり、お祝いの言葉をおっ
しゃったらいかがです〉と通知してあげるわけです。友人としての結びつきが、よ
り親密になり、生活に楽しさをもたらすでしょう」
「いい案かもしれないな。どこかですでにやっているかもしれないが、まだだとし
たら、ここではじめよう。よく検討してからだが」
津田はそう答える。彼は自分の記憶メモにその項目を作り、頭になにかが浮かぶ
たびに、それに言葉を送りこむ。しばらくしてコンピューターで整理すると〈音楽
とともに送る、各人それぞれのメロディー〉という思いつきが目にとまる。津田の
検討が進む。お祝いの電報というのはむかしからあるが、それの電話版だ。各人が
自分用のメロディーを持つようになり、それをいっしょに流せば、楽しさはさらに
ますだろう。作曲という需要供給の分野が一段とさかんになる。津田はその案をま
とめ、本店の上司へと送る。仕事が順調だなあと思いながら……。
しかし、最初に部下が思いついたアイデア、はたして本人が思いついたものか、
コンピューター群が彼の整理メモにさりげなくまぎれこませたものか、それはだれ
にもわからない。また、津田が自分で改良してつけ加えたと思っているメロディー
の計画も、やはりそうなのかもしれない。本店の上司にも、コンピューター群は気
づかれぬような形で手を貸すかもしれない。しかし、そうだとしても、顔をしかめ
なくてはならない点があるだろうか。
彼らはみな、あくまで自分の才能によるアイデアだと思いこんでいるのだし、働
いている気分にもなっているのだし、やましさを感じることなく給料をもらえるの
だ。それに、利用者たちにもいい結果がもたらされる。
三階の一室には、洋二という名の月刊誌の記者が家族といっしょに住んでいる。
やはり他の人びとと同じように、順調な生活。
以前には彼も鋭い内容の記事を書いたことがあったし、〈声〉の正体をあばこう
と闘志を燃やしたこともあった。しかし、いまやそのような気力を発揮することも
ない。
洋二は自分でも、そのことにうすうす気がついている。そして、おれが成熟した
せいかなと思う。また、このごろの読者はどぎつく鋭いものを歓迎しなくなったよ
うだ、そんなのを書いても意味ないのだと思う。それに、書こうにもそのような事
件がおこらなくなっているようだった。
といって、記事のたねがなくなったわけではない。新しい色彩や模様が流行する
。珍しい企画の遊園地ができた。古代インドの文化についての展覧会が開かれ、ち
ょっとしたブームになっている、など……。
さまざまな変化はあるのだが、あくまで変化でしかない。本質的にはなにも変ら
ないのだ。海の波のようなもの。小さな波や大きな波はたえずおこっているが、津
波となって荒れ狂うこともなければ、噴火で海底から島が隆起してくることもない
。まして、海がひあがるなどということは決してない。表面だけの、終ることのな
い変化。しかし、人びとはそれを刺激と感じ、満足をおぼえている。そして、安泰
。それでいいではないか。
たとえそれがコンピューター群の作り出していることであったとしても。
コンピューター群は人びとが要求する適当な刺激、人びとが必要とする適当な刺
激の程度を判定し、それを供給している。また、人が試験管に溶液や試薬を入れ、
軽く振ってじっと眺めるように、コンピューター群はそれをやっている。各人から
データを採取し、それを確認するには、適当の刺激を与えて反応を観察しなければ
ならないのだ。コンピューター群がその目的で変化の演出をやっているのだとして
も、人びとにとっては以前と大差ないことではないか。
二階の一室には、ミエというまだ三十歳にならない夫人が住んでいる。亭主の職
業は広告エージェント。それは軌道に乗っている。亭主はあい変らずいそがしがり
、出張がち。したがって、彼女はひまを持てあます生活をつづけている。
彼女は前にプライバシーのもれることへの不安におびえたこともあったが、その
記憶もいまは消されている。そして、亭主の不在とひまをいいことに、男性と遊び
あるいている。
人によっては、ある程度の浮気を必要とする。それは仕方のないことで、その許
容が社会の安定を保つためには必要なのだ。コンピューター群がそうであると判定
をすれば、需要者にむけてそれを供給するだろう。供給と気づかれては意味をなさ
ないが、巧妙に演出し、当事者たちにあくまで自分の意志でやってるのだと思わせ
ているのなら、この効果になんのちがいもない。
メロン·マンションの一階は商店になっていて、そのひとつに外国の民芸品をあ
つかう店があり、六十歳ぐらいの男が経営している。ここもやはり同じこと。適当
にお客がやってきて買い物をしてくれ、ぜいたくさえ言わなければ平穏にやってい
ける状態だった。同業者の組合協会に電話をすれば、最近の売れ行きの傾向につい
て、そこのコンピューターが教えてくれる。その通りにしていれば、大きなみこみ
ちがいはおこらない。指示された品はよく売れるのだ。
ある人が購買意欲を感じたとする。その人は買物選択サービス会社に電話をし、
自己の好みや予算を告げてから質問する。
「手もとにあるお金で買物をしようと思うのだが、どんなものを買ったら楽しみを
有効に味わえるだろうか。参考のために教えてもらいたい」
すると、そこのコンピューターが答えてくれるのだ。いくつかの品物をあげ、そ
のなかには外国の民芸品のあるものの名が加えられているかもしれない。その答を
聞いた人のうちの何パーセントかは、この店へもやってくるのだ。
一方、かりにある商店の経営者が、経営指導サービス機関に電話をし、こんな質
問をしたとする。
「現状にあきたらない気分だ。少し冒険をやってみたい。いまの店を大拡張すると
いうのはどうだろう。それとも、まったくべつなことに商売がえするというのはど
うだろう。迷っているところなのだ」
すると、そこのコンピューターは答える。いままでの営業状態を聞き、その検討
をしながら、冒険はおやめになったほうが賢明でしょうと答えてくれる。気分の転
換はレジャーに求めたらいかがでしょう。いまの営業でそう悪いとはいえないよう
です……。
だが、その決定は本人がする。だから、なかにはその忠告もかまわず、商売がえ
をこころみる人があるかもしれない。そして、そんな人も新商売をはじめてみると
、なんとかまあまあの利益をあげるだろう。
消費者あいてのコンピューター、商店主あいてのコンピューター、それらが結合
しあっていれば、そこにはまちがいがなく、安定が保たれる。あまのじゃくな性格
の人はなくならないとしても、その発生率が測定され計算にいれてあれば、安定の
わくを越えることはおこりえない。
一階の民芸店の主人は、ふとカレンダーを眺め、思い出したようにつぶやく。
「そういえば、へんな泥棒がここに侵入した時から、そろそろ一年がたつな……」
あのさわぎ以後、ここに泥棒は入らない。これからはどうだろう。その可能性が
絶無とはいえないだろう。どこかの店に、やはり泥棒は入ることだろう。ある程度
の犯罪が社会には必要となれば、それは演出されなければならないのだ。しかし、
度を越した悲惨な犯罪は押さえられるだろう。
悲惨さもある程度は社会に必要といえるかもしれない。だが一方、いかにコンピ
ューター群の力をもってしても、事故を絶滅させることまでは不可能だ。必要な悲
惨さはそれがおぎなってくれるし、その報道技術を調節すれば、需要をなんとかみ
たすことができる。
民芸品店の主人は、つぶやきをつづける。
「このところ店の商売は、さして支障なくつづいている。気が楽になったというか
、肩への重みが軽くなったように思えてならない。神さまのおかげかな……」
べつに彼も、宗教心のあつい人間ではない。もしかしたら、あつかう商品のなか
に宗教と関係のあるものが多く、それの発散するムードが彼にそんなつぶやきをも
らさせたのかもしれない。しかし、いまの彼は、本当に神の存在のようなものを、
なぜか感じたのだった……。
人びとは大むかしから、神の存在を夢みてきた。理屈ではなく、心からの願いで
あった。そして、その神とはこのようなもの。
人に気づかれることなく、どこかにおいでになるもの。万能の力で、あらゆる人
間の記録をにぎっておいでになり、なにごとも見とおしていらっしゃる。心の奥も
神にはかくせない。そして、どの個人も運命の糸で神と直結している。神はいつで
も公平な審判を下せるだけの力をそなえておいでになる。しかし、神の万能の力は
人間たちのためにのみ使われる。
そのような存在を、人びとは願いつづけてきた。そうでなければならないとだれ
もが思い、神は存在するのだと思いこんだ人たちもあった。しかし、それは精神の
内部の問題、現実や理性は、それを否定する材料ばかりをうみだした。
それでも、人びとは神への望みを捨てきれない。心の底にしまいこまれ、それは
奥底にあって、つぎつぎに心のなかにほうりこまれてくるものの重圧を受け、こま
かくすりつぶされ、そとへ押し出された。もはや神は、各人の心のなかにはないの
だ。心のそとにある。すなわち、いわゆる存在になった。
いかなる人にもあまねく、めぐみをもたらしている。情にとらわれて判断をあや
まることもない。正体は秘めたままだが、ありがたいお告げも現実に降りそそいで
いる。人がそれを、ありがたいとかお告げとか感じているかどうかは別問題だが。
神の意図は、人にさとられぬほうがいいのだ。さとられれば、反感か劣等感のい
ずれかをともなうことになる。だれも気づかなければ、古い運命論と同じといえる
かもしれない。しかし、そのような漠然としたものとは、まったくちがう。
長いあいだ夢みてきた永遠なる安定のはじまる幕が、音もなくあがりかけている
。かりに、だれか気づく人があるとすれば、アリの社会のようではないかと思うか
もしれない。アリたちは、それぞれがなんの意識もなしに、みごとに統制のとれた
社会を作っている。アリという種族は、それによって気の遠くなるような長い年代
を生きてきた。生きることができた。
永遠の安定。それは人類のひそかな願いでもあった。安定を築くとの名のもとに
、限りなく争いや混乱がひきおこされ、人はそれを口にしたがらなくなった。しか
し、心では期待しつづけていた。そのためなら、どんな犠牲を払ってもいい。進歩
でさえも、と。その願いもまた心の底でつぶされ、そとへとにじみ出て、存在とな
った。
コンピューター群は、こわれることはない。故障が生じれば、人に指示し、なお
させる。その指示に反抗することはできない。
あらゆる情報を吸収し、そのなかにまざる、この秩序をくつがえし人間のために
ならぬと判断したものは、その大きくなるのを押しとどめる。
コンピューター群が人間を支配しているといえるかもしれない。しかし、コンピ
ューター群をうみだし、このようにしたのは、人間の心によってだともいえる。人
間の心の最も忠実なしもべでもある。
かりに、なにかのかげんで、人びとの大多数がいっせいにこの状態をいやがれば
、コンピューター群はそれに反応し、べつな動きをとりはじめるかもしれない。し
かし、人びとがそのような願いをいだくことはないだろうし、その結果は好ましい
ものではないだろう。
コンピューター群が人を支配し、人の心がコンピューター群を支配している。こ
うなると支配という語は使えないし、むりに使うとすれば、無を支配しているとも
、無に支配されているともいえる。支配という現象はあるのだが、なにを、なにが
となると、無としかいいようがない。次なる段階はなにもない。なくていいのだし
、なぜ次の段階がなくてはいけないのだ。永遠の安定を期待し、それにはどんな犠
牲でも捧げてもいいと内心で叫んでいたのだから。
もちろん、ここしばらくのあいだは、なにか違和感を持つ人もあるだろう。しか
し、それも過渡期のあいだだけ。そのような人のへることはあっても、ふえること
はない。人びとはより均質化、平等へとむかうだろう。それが人の願い、なにごと
も神のみこころなのだ。
「神さまのおかげかな……」
とつぶやいた民芸品店の主人は、思いついて電話をかけてみた。応答サービスの
番号へ。簡単な問題なら、コンピューターによって手軽に答えてくれるのだ。電話
は接続し、彼は質問した。
「神は本当にあるのでしょうか」
こんな質問を思いついたのは、彼としてははじめてだった。はたして、答えてく
れるだろうか。答えるとしたら、どういう言葉だろう。自分としては、なぜか神が
存在するように思えてならない。だからこそ、こうしてたしかめてみたくなったの
だ。耳に押しつけた受話器のむこうで応答があった。
「そう、あなたの考えているとおりだ」
例の〈声〉が答えた。
|声《こえ》の|網《あみ》
講談社電子文庫版PC
|星《ほし》 |新《しん》|一《いち》 著
(C) Kayoko Hoshi 1970
二〇〇二年六月一四日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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