のだ。
むかしにくらべ、マスコミは大きく発達した。新聞はページ数がふえ、雑誌は種
類がふえ、テレビはチャンネルがふえた。コマーシャルは機会があるたびに顔を出
し、商品の名と長所をのべたて、解説をやる。情報の流れが激しい水圧をもって個
人にそそがれる。
目から耳から注入される一方なのだ。しかし、それはどこへ流れ出てゆけばいい
のだろう。出口がないと、それは頭のなかにたまり、渦を巻いて押しあい、変調を
もたらす。排出孔が必要なのだ。彼女の場合、それが友人との電話だった。情報の
送り手の立場に身をおくことによって、アンバランスになることをいくらかなおせ
るのだ。
ミエは言う。
「それからね、きのう広場をちょっと散歩したんだけど、霜柱がひどいのよ。靴が
よごれちゃったわ。あんまりしゃくだから、管理係に電話で文句を言ったんだけど
、冬ですから仕方ありませんだって。ひどいでしょ……」
「ええ、ほんとにひどいわね……」
アユコはあいづちを打つ。しかし、心から同情して、いっしょに腹を立てている
のではない。ただ反射的に応じているだけのことなのだ。第一、お互いに相手の話
す内容など、べつに身を入れて聞いてはいない。
自分の話す番を待つあいだの、やむをえない空白。少しいらいらする。神は人間
に一枚の舌と二つの耳を与えた、ゆえに話すことの二倍は聞かねばならぬ。紀元前
のギリシャの哲人の言葉だ。だが、マスコミ時代には二対一の比率などめちゃめち
ゃになった。耳に入ることの十分の一も話せない。そのためのいらいらなのだ。
電話のむこうでアユコが言った。
「ねえ、クミコについてのうわさを聞いたでしょ。すごい発展のようよ。年下の若
い男に熱をあげてしまって、ご主人にないしょでつきあってるんですって……」
「あら、知らなかったわ。ほんとなの、それ。もっとくわしく話してよ」
ミエの声にははずみがついた。こういう話題になると、急に活気をおびてくる。
この種の情報だけは、いかに巨大に成長したとはいえマスコミも与えてくれない。
有名人のゴシップなら、新聞雑誌などで知ることができる。だが、それはこちらの
胸をときめかせてはくれない。その瞬間に公知の事実になり、もはや秘密という背
徳めいた刺激の力を失っているからだ。
サロンにおける最も楽しい話題として、恋愛とスキャンダルに及ぶものはない。
これは時を越えた真理。双方でよく知っている第三者についての、うわさ話の楽し
さ。能率化した情報産業も、ここまでは入れない。人間性にみちた豪華な快楽。
「その青年ってのがね、あまりたちがよくないらしいって話なのよ……」
「だったら、忠告してあげたら。どうにもならない破局に進んでゆくのを、だまっ
て見てるってのも……」
「でもねえ、そんなことどこから聞いたと言われても困るしね。それに、本人が本
気で熱をあげてるのに、水をさすというのもねえ……」
「そうよ、へたに口を出したりすると、こっちがうらまれるのがおちよ……」
会話の文句は深刻だが、二人の口調は明るく笑いにみちていた。有益で安全な情
報が世にあふれている状態、こうなるとそれらは価値を失い、秘密で無益で不健全
な情報のほうが相対的に価値を高めてくる。
嫉妬、羨望、ひがみ、中傷、同情、|憐《れん》|憫《びん》、残酷などの、原
始的な感覚をよびさましてくれるのだ。人間がどうしようもなく持てあましている
もの、それを発散させてくれる。二人はそれを語りあい、説明し、裏がえしにし、
刻みなおし、さんざんおもちゃにし、心ゆくまで味わうのだった。
電話のむこうで、アユコが、ふとなにかにおびえたような声をあげた。
「へんねえ、だれかに盗み聞きされてるような気がするわ」
「まあ、そんなこと、あるはずがないじゃないの。あなたって、神経質ねえ、だれ
かが部屋のなかにひそんでるっていうの」
「よくはわからないけど、そんな感じがしただけよ。なぜかしら」
「気のせいよ。ひとのうわさ話をながながやるっていうのは、いいことじゃないわ
ね。そのうしろめたさのせいよ」
「そうかもしれないわね。でも、おもしろいわ。なぜ、こう夢中になっちゃうのか
しら……」
またひとしきり陽気な笑い声があがるのだった。やがて、アユコのほうに来客が
あったらしく、長い電話は終わった。
ミエは長椅子にねそべった。しかし、まだ完全にはればれしていない気分だ。話
したりない思いだった。
彼女は思いつき、ダイヤルをまわした。
「もしもし、お願いしたいの……」
かけた先は身上相談センターの電話サービス部だ。相手は言った。
「はい。では、まず、基本料金の払い込みをお願いいたします」
ミエは電話機のそばのボタンを押し、ダイヤルをいくつかまわした。銀行の口座
から、そのぶんだけ振り込みがなされたのだ。相手は確認し、担当の人につないで
くれた。中年の男の声になる。
「どんなご相談でございましょう。ご遠慮なくお話しになって下さい……」
「あたし、生活に不足はないんですけど、主人が出張ばかりして退屈なの。それで
、ひまを持てあまし、一週間前にひとりでシャトー·クラブに遊びに行ったの。郊
外の森のなかにある、ルーレットのできるレストランよ。そこで感じのいい男性と
知りあい……」
ミエはしゃべった。この相談は料金先払いであり、こちらの名は言わなくていい
のだ。それに電話サービス部の回線は、逆探知できないことになっている。そのう
え、担当の者は職業上知りえた秘密を口外しないよう禁止されている。口外したら
評判が落ち、たちまち閉鎖になるだろう。
「それはそれは……」
相手は驚いたような、批難するような声をはさんだ。それにうながされるかのよ
うに、ミエはうれしげに話しつづけた。
「それから、夜の森林公園を散歩しましょうとさそわれて……」
さっきのアユコとの電話では、第三者の秘密を話題にした。それはそれで楽しい
ことなのだが、自己の秘密について語るのは、もっと強い興奮なのだ。ひとりごと
でなく、聞いてくれる人間が現実に存在している。そして、口外されないとの保証
もある。
宗教における|懺《ざん》|悔《げ》|室《しつ》のようなもの。いや、むかし
の酒席における|幇《ほう》|間《かん》といったほうがいいかもしれない。それ
を相手になら、どんな自慢もできる。自慢話はいかにしゃべりたくても、友人にむ
かってはできないものだ。へたにやれば軽蔑される。それが自由にやれるのだ。料
金を払っただけの価値は充分にある。内容はさほどでもないのだが、ミエは大変な
ことをしてしまったかのように、告白に熱中した。
「そういうことをなさってはいけません。良識をお持ちなのですから、今後あまり
無茶はなさらないほうが……」
担当者はあたりさわりのないことを言った。それ以外に言いようがないし、それ
でいいのだ。聞くほうは、たしなめられることがうれしいのだし、そんなことで内
部のもやもやが燃焼してしまうのだ。もっとも、相談の電話のなかには経済や法律
の具体的な助言を求める者もある。それにはさらに料金を要するわけだが、利用率
はごく低い。
電話を終わったミエは、またカクテルを持ってきた。頭のしこりが取れ、そのあ
とに酔いがこころよくまわってゆく。雑念も湧いてこず、芯からくつろいだ気分。
彼女はダイヤルをまわし、音楽の曲名を告げて、電話機の横のボタンのひとつを
押した。壁のスピーカーから音が流れ出る。電話線利用のジューク·ボックスだ。
料金は取られるが、何千種ものなかから好みの曲を聞くことができる。
ミエは聞きほれ、メロディーのなかで時のたつのを忘れた。そのうち、音楽が中
断し、電話のベルが鳴りはじめた。よそからかかってくると、それが優先し、自動
的に切り換わる。電話局のコンピューターの作用だ。
「だれからかしら……」
彼女はものうげに受話器をとり、耳に当てる。聞きなれない男の声が言った。
「あなたは一週間前に、シャトー·クラブに行き、ご主人にかくれて男性とつきあ
った……」
単調な声であるため、内容の重大さがかえってひきたった。ミエは飛びあがりそ
うになって口走った。
「え、なんでそんなことを。どこから聞いたの。あなた、だれなの……」
「…………」
つぶやきのような、よく聞きとれない音がして、そこで電話は切れた。いかに問
いかけても返答はなかった。彼女の顔は青ざめ、うつろな目つきになった。自分を
取り戻した時には、新しく作ったカクテルを、知らないまに飲みほしていた。
驚きが去ると、怒りがこみあげてきた。だれなのかしら、あんな失礼なことを言
うなんて。最初に疑いをむけたのは、身上相談センターだった。ほかの人には打ち
あけたことのない事柄だ。許せないことだわ。強く抗議をしなければ。ミエはダイ
ヤルをまわした。
「さっきお電話した者ですけど、内容をよそにもらすなんて、あまりにもひどいじ
ゃありませんか……」
さっき相手をしてくれた担当の男の声が答えた。
「とんでもございません。お客さまのお話をよそにもらすなんて、ありえないこと
でございます。法律で禁止されていることですし、そんなことをしたら信用がめち
ゃめちゃ、今後、ご利用いただけなくなってしまいます……」
「だって、いま変な電話があって、あたしの秘密を話しかけてきたのよ」
「しかし、そちらさまのお名前もうかがっておりませんし、当方からの逆探知もで
きないしくみになっております。また、電話局と当方との回線は特殊なもので、絶
対に盗聴されないようすべてを機械が処理し、混線も決して発生しないものです。
点検は毎日おこなっております。そうでなかったら、営業の認可が取り消しになっ
てしまいます。微妙きわまる人間性サービス業ですから、当然のことでございまし
ょう」
「でも……」
「もしご不審でしたら、おいで下さればそのしくみをごらんに入れ、なっとくなさ
るまでご説明いたします。担当者であるわたくし個人の口からもれることもござい
ません。利用者の信頼を裏切りますと、くびになるばかりか、十名の保証人に迷惑
がおよびます。それに、高給をいただける職を失う気もございません。夢でもごら
んになられたのではございませんか……」
確信にみちた口調に、彼女は圧倒され、それ以上の反論はできなかった。
「そうかもしれないわね」
「申しあげにくいことでございますが、当方の信用にさしさわりのあることは、よ
そであまりお話しにならぬようお願いいたします」
「気にさわったらごめんなさい……」
論理的に説明され、ミエは勢いこんだ言葉をひっこめてしまった。たしかにその
とおりだ。かりにもし悪用するとしたら、あたしなんかじゃなく、もっと大物を狙
うはずだわ。
そうなると、さっきの声の主はだれなのかしら。だれかがあたしを尾行し、行動
を調べ、けちな恐喝でもたくらんだのかしら。しかし、それだったらすぐ金の話を
するはずなのに。そんな感じは少しもなかった。そのため、かえって不安をかりた
てる。
だれだろう、だれだろう。考えているうちに、ミエはふと黒い疑惑につつまれた
。まさかと思うが、それだけに心にひっかかる。夫じゃないかと想像したのだ。出
張したということにして、あたしを監視していたのかもしれない。そして、じわじ
わといじめ、おどしにかかっているのかもしれない。室内の空気が急にひえはじめ
たような気がした。
彼女は身ぶるいした。かつて小説で読んだスリラーを思い出した。筋はよく覚え
ていないが、恐怖の印象だけは残っている。ミエは少し反省する。あまり軽率なこ
とはすべきでなかった、これからはつつしもうと。
しかし、いくらなんでも、こんなことをされるほどの落度はあたしにはない。ま
た、夫がこんな手間のかかることをたくらむだろうか。ミエには信じられなかった
。日ごろ、そのようなそぶりは少しもない。強くやきもちをやく性格なら、長い出
張にはあたしを連れて行くはずだ。
おとといは国際電話で話もした。手のこんだ細工のできる人ではない。また、留
守中に探偵社に依頼してやらせるような人でもない。そういう金の使い方はしない
人なのだ。結婚して以来の生活で、そういうことは彼女にわかっていた。だからこ
そ、ミエも心では夫を愛しているのだ。
となると、だれなのだろう。問題は出発点にもどってしまった。まるで見当がつ
かない。相談センターの人に指摘されたように、夢か幻覚だったのだろうか。
そういえば、さっきの声は性格がはっきりしていなかった。はっきりしないとい
うより、性格がないようにも思えた。普通だと声を聞くといちおう顔つきが想像で
きるものだが、さっきの声は顔つきも、年齢も性格も心に描けなかった。描く手が
かりを欠いていた。夢のような声。
「幻聴だったのかもしれないわ。ただの幻聴か、それとも……」
彼女は口ごもった。アルコール中毒か、精神休養剤の飲みすぎのせいかなと、ち
ょっと不安になったのだ。そう思いつくと、心配はしだいに大きくなる。
ミエはまたダイヤルをまわした。精神科医に相談しようと思ったのだ。電話はつ
ながり、医療カードの番号を告げる。ちょうどすいていたのか、すぐ医師に話がで
きた。
「どうなさいました」
「自分でもよくわからないんですけど、幻聴があったようなの。薬品のせいか、ア
ル中になったのかと心配で……」
「順序をたてて診察しましょう。まず脳波を調べましょう。そのご用意を……」
ミエは立ち、棚の医療箱から小型の脳波測定装置を出して頭につけ、一端を電話
機の横のソケットにさしこんだ。そしてボタンを押す。これでむこうへ送られるの
だ。それが終わると医師が言った。
「けっこうです。あとでくわしく検討しますが、コンピューターは異状なしとのラ
ンプをつけております。では、つぎに連想のテストをおこないます。室内を静かに
し、椅子に横たわってくつろいだ気分になり、受話器を耳にして下さい。そして、
お聞かせする音で頭に浮かんだことを、すぐお答えになって下さい」
「ええ……」
ごうごうという音が聞こえた。彼女は「ジェット機」と答える。規則的にくりか
えされる拍子木のような音がした。「宗教」と答える。くにゃくにゃしたような音
がする。「蛇」と答える。
「なぜ蛇を連想なさったのでしょう。蛇について頭に浮かぶことを、なんでもおっ
しゃって下さい」
「そうね。子供のころ、近所の男の子に蛇のオモチャで驚かされたことがあったわ
。だけど、そうじゃなく、なんといったらいいかしら……」
医師に対する信頼感で、彼女はあれこれとしゃべった。かくしだては正確な診断
のさまたげになる。相手にうながされ、言いにくいことにまでおよぶ。医師も職務
上知りえたことは口外できないのだ。それへの安心感。
「受話器の感触と、蛇への印象とに共通なものをお感じになりませんか」
「さあ、そういえば……」
質問が送られ、答が送りかえされ、それがくりかえされた。やがて医師は、たい
したことはなさそうですと言い、もし幻聴がまたおこったら、病院へおいで下さい
と指示した。それから鎮静剤の名を教えた。
彼女はお礼を言い、電話を切る。戸棚をさがすとその薬があった。服用して横に
なっていると、ねむりがおとずれてくる……。
ミエは夢を見た。あまり楽しい夢ではなかった。どこともわからぬ夜の街の道を
、急ぎ足で歩いている。目的地がどこなのか、なぜ急いでいるのかもわからない。
しかし、急がねばならぬのだ。
やがて、その理由を知る。追われているのだ。ふりむくと、黒衣の人物がついて
くる。ずきんのついた、すその長いマントのようなものを着ていて、足が見えず、
男か女か、老人か若いのかもわからない。もうずいぶん逃げつづけているのだが、
距離はひろがらない。黒い蛇に追われつづけているようだ。
建物の角を曲ろうとした時、だれかにぶつかる。「助けて」と飛びつき、よく見
るとそれも黒いマントの人物。顔にも黒いずきん。恐怖と好奇心とで、そのずきん
を引っぱってはがす。しかし、その下にも黒いずきん。その下にも……。
彼女は逃げ、近くの家の戸をたたく。扉が開くが、そこに立っているのも、やは
り黒いずきんとマントの人物。彼女はまた逃げる。道ばたに公衆電話をみつける。
あれで助けを呼ぼう。そして、電話機の前に立った時、電話機が鳴り出した……。
その音でミエは目をさました。汗びっしょり。しかし、電話の音はつづいていた
。そばの電話機が鳴っているのだ。ねむけの残る頭で、受話器を手にする。
「もしもし、どなた……」
「蛇です」
「あら、さっきの先生ですの……」
彼女は言った。精神科医からの連絡かと思ったのだ。しかし、ちがうことに気づ
き、息をのむ。いっぺんに目がさめ、背中が寒くなる。あの幻聴かもしれぬ、だれ
ともわからない声だったのだ。
「……これ、幻聴なのかしら……」
「ちがいます。幻聴のような気がしますか」
「そうは思えないわ。いったい、だれなの、なんの用なの、なにが目的なの……」
「あなたについてくわしく知っている者です。蛇について固定観念があるというこ
ともね。くわしく言えば……」
「よしてよ」
ミエは電話を切ってしまった。むしょうに腹立たしかったのだ。あたりを見まわ
す。室の厚い壁も、特殊ガラスの窓も、厳重なドアの装置も、なんの役にも立って
いないことを知った。プライバシーという秘宝をまもる城壁ではなくなっているの
だ。
かこいがなにもかも取り払われ、衣服をはがされ、心のなかの記憶までが白日の
もとにさらされているようだ。このような室のなかにいるというのに。
彼女は判断した。これは悪質な犯罪にちがいない。目的はわからないが、おそる
べき犯罪があたしをねらっているのだ。徹底的に究明してもらわなければならない
。彼女は警察へ電話しようとした。
ダイヤルをまわす指に力がこもる。呼び出し音が少しおかしかった。だが、いき
どおりで燃えているいまの彼女には、そんなことは気にならなかった。
「もしもし、警察でしょうか」
「ちがいます」
「あら、まちがえたのかしら」
「そうではありません。へんなことはなさらないよう、ご注意申しあげます」
彼女はすぐに気がつく。また、あの正体不明の声だ。警察へかけたはずなのに、
どうしてわりこんできてしまったのだろう。
「なぜなの。さっきの人なのね。こんなことって許せないわ」
「お怒りのようですが、こちらは、あなたについてなんでも知っているのですよ。
あなたが想像している以上に。ほかであなたについてどんなうわさがなされている
かも……」
「どんなうわさなの……」
彼女は不安になる。友人と第三者についてのうわさを楽しんだことを思い出した
。それが逆になったら、どんなに不快だろう。
「それは言えません。いずれ、おりをみてご主人にでも。あるいは、おとなりの住
人のかたにでも……」
「あんまりだわ。ひどい。こんなたちの悪いことってあるかしら。お願い。そんな
ことやめてちょうだい」
「ご相談によってはね」
「あ、やっぱり恐喝なのね。なぜ、こんな目にあわなくちゃならないのかしら。そ
れで、なにを要求なさるの。お金だって、そんなには自由にならないわ。それとも
……」
「あなたにできることです」
「早くおっしゃってよ。あたし、気を失いそうだわ……」
彼女は泣き声をあげた。相手の声は言う。
「簡単なことですよ。こちらについて、これ以上のせんさくをなさらないことです
。どこにも訴えない、よそでも話題にしない。その約束だけでいいのです。これな
らおできになるでしょう」
「ええ、だけど、なぜなの。あなた、だれなの……」
「そういうような好奇心を押さえるという約束です。それが守られている限りは、
べつにどうもいたしません。しかし、いいですか、もし約束を破ったら、すぐにわ
かります。嘘だと思いますか」
「思わないわ……」
その点だけは信じないわけにはいかなかった。彼女は約束し、電話は終わった。
長い時間、彼女はぼんやりしていた。現実とは思えないが、やはり現実なのだ。
またカクテルを作って飲み、いくらかの元気はでた。だが、その元気をどこへむけ
ようもない。
電話がかかってきた。習慣で受話器を取ったが、声を出す気にもならない。アユ
コからだった。こんなことを言っている。
「ねえ、うちのお客が帰ったの。おしゃべりをしましょうよ。おもしろいうわさを
聞いたのよ」
「でも……」
ミエは気のりのしない返事。
「どうしたの、元気のない声で……」
「ちょっと気分が悪いの。休みたいわ。また今度にしましょう」
「仕方ないわ。残念だけど……」
アユコはあきらめる。ミエはもう他人のうわさに興じるどころではなかった。あ
の声の主が、どこにひそみ、どこで聞きつけるかわからないのだ。もののはずみで
、そのことに口をすべらせたりしたら……。
彼女は窓のガラスが裏がえしになったように思った。だれかがこっちをのぞきこ
んでいるのに、こっちからはむこうが見えない。どんな相手なのか……。
秘密の権利。それがへんな存在に奪われてしまったのだ。こうなると、身上相談
センターにも、精神科医にもむやみと話せなくなる。情報を排出する楽しみ、新陳
代謝の生理機構のぐあいが狂いつつあるのだ。
もちろん、彼女はそれをはっきりと理解したわけではない。だが、生きる活気が
どうかなるようないやな予感をおぼえた。陽気さも消えた。あの声との約束。それ
がこちらのからだのまわりを包み、窒息させる。頭の内部でやがてはなにかの圧力
が高まり、それが耐えきれないものになってゆくのでは……。
3 家 庭
雨が降っていた。三月の雨。日曜の夕方の時間と空間のなかを、雨滴たちは地面
へと急いでいた。少し前まであたりに残っていた冬のなごり、寒さとか乾燥とか、
とげとげしさとか、人の動きをにぶくするなにかとか、そういうものをやわらかく
消している。
「いかにも春らしい雨だなあ……」
三十五歳の男が長椅子にねそべり、パイプをくゆらせながら、窓のそとに目をや
って言った。ここはメロン·マンションの三階にある一室。窓からは住宅地区の中
央の広場を見わたすことができる。雨は地にしみこみ、草の根に春の訪れを告げて
いるようだ。
「あなたらしくもない言葉ね……」
そばで彼の妻が言った。だが、からかいの口調ではなく、幸福感のリズムがこも
っている。そばでは六歳になる坊やが、床にオモチャをひろげて遊んでいる。小さ
なネジで組立て、クレーンを作ろうとしていた。雨では広場に行けないのだ。三月
の雨は室のなかにもなごやかな静かさをもたらす。
男はつぶやいた。
「まんべんなく整然と降るなあ。雨というやつ、雲のなかでどんなふうにしてでき
るのだろう。考えてみると、うまくできすぎている。われわれ、だまされているん
じゃないだろうか。もやもやした雲のなかに、だれも知らぬしかけがひそんでいる
とか……」
彼の名は洋二といった。職業は月刊誌の記者。どちらかといえば硬い傾向の雑誌
で、彼は毎号ルポルタージュを書いていた。数人で資料を集め、それをまとめるの
だ。〈朝の思考―通勤途中の頭〉というのが、四日ほど前に書きあげたものだ。多
くの人は通勤途中でどんなことを考えているか、これを調査しコンピューターで分
析し、ひとつの説をみちびき出したものだ。悪い出来ではないが、かといって満足
感もあまりなかった。
「ああ、なにかもっと、みながあっと言うようなものを書きたいなあ。いい題材は
ないものだろうか……」
洋二は口のなかで言った。読者が目をみはり、他誌がうらやみ、編集長が喜び、
自分でも手ごたえを感じる。一回でもいいから、そんなのを書いてみたかった。
その時、電話のベルがひびいた。
洋二はゆっくりと立ちあがり、受話器をとった。仕事の電話から解放される休日
もいいが、夕刻ごろになると、ベルの音へのなつかしさを覚えてくる。電話はこう
も日常的になっているのだな。彼はふとそう思う。相手の声が耳に伝わってきた。
「むかし、駐車してあったダンプカーの荷台を動かし、砂利を道路にぶちまけてし
まったことがあったな……」
「なんだと、なにを言うんだ……」
洋二は急に不快になり、受話器をもとにおいた。腹立たしさがあとに残った。そ
れがでたらめだからではなかった。事実、そのような経験を彼は持っていたのだ。
あれは二十年ちかくの昔になるだろうか。彼は窓ぎわに立ち、雨のむこうの景色
を眺めながら回想した。少年期から青年期へ移る不安定な年代。彼と友人たちはい
たずらに興味を持った。あるいたずらにあきると、もう少し刺激の強いことをやる
。気づかぬうちに、それはひとつの線を越えてしまっていた。
学校の帰りの夕方、彼は友人と駐車中のダンプカーをみつけ、運転手のいないの
を知り、思いつきをためらうことなく実行してしまった。荷台が動き、砂利が道路
に流れ落ちて散った。ことの重大さはすぐにわかった。通行の車が急停車し、車の
列ができ、やがてパトロール·カーが到着し、あたりがさわがしくなる。
洋二と友人とはすばやく逃げたが、それ以来、強い罪悪感におそわれた。悪質な
行為との報道を、彼らはふるえながら読んだものだった。あの日を境に大人になっ
たようだな、と洋二は追想する。いたずらへの欲求は消え、無目的な子供っぽい行
為がばかばかしくなり、社会の一員という自覚みたいなものを知りはじめたのだ。
それは洋二とその友人との二人だけの秘密になっていた。だれもそばにいない時
、バーの片すみでとか、電話での雑談の話題の切れ目とかに、そのことにちょっと
ふれる。おたがいの古傷にさわりあうのだ。年月によってもはや傷とはいえないも
のとなっていたが、友人としてのつながりを確認しあう習慣みたいなものなのだ。
いや、儀式と呼ぶべきかもしれない。
微妙な反省の楽しさがある。秘密というものは、秘密である限りいつまでも古び
ない。話しあうと、きのうのことのように新鮮によみがえり、胸がときめき、発覚
へのスリルさえなまなましく感じられるのだ。
それをこう無神経に、だしぬけに電話で話すとはなんたることだ。おごそかな儀
式なのだ。その友人の声のようではなかったが、ほかに知る者はいないはずだ。や
つめ、気がおかしくなったのかな。洋二は心の一部で怒ると同時に、心配にもなっ
てきた。
彼は自分の書斎に入り、そこの電話機の番号ボタンを押した。その友人はテレビ
局の報道関係につとめているが、日曜は自宅にいるのが普通だった。相手が出る。
洋二は言った。
「おい、さっきはどうかしてたのか……」
「ああ、きみか。しばらくだな。元気かい。なんの用だ。さっきとは、なんのこと
だ」
相手はとまどい、洋二もとまどった。
「いま変な電話をしてきたじゃないか」
「しやしないよ。食事中だったもの」
「そうかなあ。しかし、その電話の声、むかしの古傷を突っついてきたんだ。われ
われ以外に知らないはずのことを……」
洋二がふしぎがると、友人が言った。
「あ、そうか、そっちにもか……」
「おい、それはどういう意味だ。きみのところにも、なにかかかってきたのか」
「いや、なんでもないよ。べつなことさ。気にしないでくれ」
友人は打ち消した。なにかそわそわした口調。洋二がいくら聞き出そうとしても
、はっきりした答はしてくれなかった。なにかがはさまっている感じ。だが、それ
がなにかは洋二にもわからなかった。彼は電話を切った。どういうことなのだろう
。疑惑が頭のすみにひっかかったまま残った。
夕食をすませ、家族とともにテレビを見ていると、また電話が鳴った。友人が考
えなおし、事情を話してくれる気になったのだろうか。洋二はそう思いながら受話
器をとった。
「むかし、駐車していたダンプカーの……」
友人ではなく、さっきの声の主だ。
「いったい、どなたです」
「だれでもいい……」
「そんなことってあるか」
洋二は勝手に切った。なんということだ。しつっこいやつめ。この調子だと、ま
たかかってくるかもしれない。彼は先手を打とうと、ダイヤルをまわし、電話サー
ビス·ステーションにたのんだ。
「これから外出します。かかってきた電話は、どこからか記録しておいて下さい。
あしたまでよろしくお願いします」
「はい、かしこまりました」
家庭用録音装置もあるが、それだと家族がよけいな心配をするだろうと考えたか
らだ。
それから眠るまで、洋二の頭のなかでは、なにかがうごめきつづけだった。なか
なか眠りにつけなかった。ひっかかることばかりではないか。妙な電話。それに友
人のおかしな応答。つながりがあるのだろうか。ありそうな気もするが、どんな関
連だろう。どう結びつけたらいいのだろう。どんな仮定を……。
一方、内心の人目をひくルポを書きたいとの意欲が想像のはばたくのを促進して
いた。濁った液がかきまわされているうちに反応し、結晶しながら沈澱してゆくよ
うに、ひとつの仮定がうかびあがってきた。
盗聴と関係のあることかもしれない。友人が他言するはずがないし、おれだって
そうだ。その二人だけの会話が、横からなにものかに盗まれたのだ。技術革新は休
みなくつづいている。盗聴用の装置もずいぶん改良されているという話だし、なに
かの時に調べたところでは、信じられないほど小型のがあった。それが虫のように
電話線にくっつけばそれで終わり。バケツの穴なら、水のへったことでそれと気づ
く。だが、盗聴の場合は、いつとわからずに……。
彼はいやな気がした。おれは目をつけられたのだろうか、その相手はだれだろう
。いまの職業、雑誌の記者ということに関連しているとも考えられる。同業の競争
誌の商略かもしれない。おれに圧力をかけ筆をにぶらせれば、競争誌もそれだけ有
利になるというものだ。
しかし、洋二はすぐに打ち消した。それほどの価値が自分の文にあるとも思えな
かったのだ。彼は苦笑いし、べつな仮定を立てる。とすると、なんだろう。ルポで
よく書かれなかった者のいやがらせだろうか。いや、そうでもないだろう。盗聴の
手間と、発覚の危険と罰とはあまりに大きい。そうまでして、胸がすっとするだけ
では、うるところが少なすぎる。
そうでないとすると。彼は頭を傾け、もうちょっと苦しみ、やがてひらめきを感
じた。今後に関する、もっと遠大なことなのだろう。どこかの業界が、こちらの弱
味をにぎり、それに有利な記事を書かせる。ありうることだ。企業間の競争ははげ
しい。他をだしぬき、すきをみつけてもぐりこみ、自己の陣営に引きよせるよう工
作する。そんなところだろうな。なかなかの陰謀だ。よほど悪知恵のあるやつのア