イデアにちがいない。
いやいや、そこまで頭が働くのだったら、なにも一つの業種に限ることはないと
考えるはずだ。効果と能率と利益とをあげるために、一種の代理業だって成り立つ
わけだ。一方でマスコミ関係の要所要所にいる者の弱味をにぎり、一方で企業に連
絡をつけ、巧妙な操作を商品として売りつける。大きな金額が動く、非合法な産業
。
どんなやつがやっているのだろう。あるていどの組織になっているにちがいない
。コミュニケーション機構を利用し、それを食いものにする一派。怪獣のような寄
生虫だ。
洋二は闘志のわいてくるのが自分でもわかった。
これをあばかなければならぬ。書こう。社会に対しこれほど衝撃的なレポートは
ないはずだ。きっと評判になる。しかしおれのダンプカー事件の古傷もあばかれる
かもしれない。彼は気にしたが、噴火の如く高まってきた仕事への興奮は、それを
吹きとばした。あれはむかしのことだし、世に大きな害を及ぼしたわけでもない。
この陰謀とはくらべものにならない。それに、やつらには盗聴しているという不利
がある。こっちをあばけば、かえって証明するようなものではないか。表だっては
争えないはずだ。
正義感と興奮、使命感と名誉心。そういった感情が彼をひっかきまわした。
「よし、書くぞ」
彼の叫びで、妻が目をさまし、ねむそうな声で言った。
「どうなさったの」
「なにか頭がさえて眠れないので、酒でも飲もうと思ってね……」
彼はそうした。決意をたしかめる乾杯でもあった。
つぎの日、雨はあがり、いい天気だった。雲がただよっている。洋二は雑誌社に
出勤し、それから自分の住宅地区の電話サービス·ステーションへと出かけた。昨
夜からの興奮は、からだのなかにまだ残っている。陰謀への挑戦をこれからはじめ
るのだ。
ステーションの建物は大きく清潔で機能的で、どこか冷たい美しさがある。洋二
はそこへ入り、まず昨夜依頼した留守電話記録係のところへ行った。自分の番号を
告げてから聞く。
「どこからか電話があったでしょうか」
係の若い女は答えた。
「なにも、わざわざおいでになる必要はございませんのに。電話ですむことでござ
いますわ」
「いや、ちょっと用事がありましてね、そのついでに寄ったのです」
「一回だけかかってきましたわ」
「どこからです」
「なんともおっしゃいませんでした」
そうだろうと洋二は予想していた。あの謎の声の主からだったのだろう。なんの
収穫もえられなかった。そう簡単に手がかりをつかめるわけはない。
洋二は受付で内部の見学をしたいと申し出た。雑誌社の取材だと言うと、それは
すぐにみとめられた。業務内容のPRは歓迎すべきことなのだ。見学案内係の人の
よさそうな男は、洋二に防塵服を着せながら言った。
「ほこりが立つと電子部品にいい影響を与えませんので、これを着ていただきます
。さて、どこからごらんに入れましょう」
「さあね、そうだ。ぼくの家の電話の、ここにおける末端はどこでしょう。まず、
そこを見せて下さい」
交換機室は広い部屋で、大型の電子装置が何十台も並んでいる。温度二十度、湿
度五十五パーセントに保たれた空気のなかで、正確な動きがくりかえされている。
カチカチとかタタタという音が飛びかっている。
洋二はなにがどうなっているのか、その方面の知識はなかった。これが科学なの
だ、これが機械文明なのだ、そんな印象だけが迫ってくる。彼は聞く。
「あのタタタという音はなんですか」
「接続ですよ。つまり、番号をさがして呼び出している状態というわけです」
「なるほど」
会話という最も人間くさい行為、それをつなぐ作業が、この人間くささのないす
がすがしい形でなされている。あざやかともいえる対照だった。案内係が一ヵ所を
指さして言った。
「ここですよ、あなたの家の電話は、番号が同じでしょう」
「そうだな」
小さなナンバー·プレートがついていた。プラスチックの透明な板の窓があり、
なかがのぞけた。しかし、のぞいてもどうということはなかった。洋二が見つめて
いると、窓のそばの青い豆ランプがともり、タタタという音がはじまった。
「どこからかおたくにかかってきたところです。なかなか出ませんね。お留守だか
らでしょう。ここでもお話できますよ。あそこの電話に切り換えてさしあげましょ
うか」
案内係は装置の一隅についている受話器を指さした。しかし、その時、洋二はふ
と考えた。もしかしたら、昨夜の正体不明の声の主かもしれない。直感でそう思っ
たのだ。
「いや、けっこうです。それより、この電話がどこからかかっているのか、調べる
ことはできますか」
「やってみましょう」
係はそばのボタンを押した。装置の上の標示スクリーンにR―58との字があらわ
れた。洋二は聞く。
「なんですか、R―58とは」
「その番号の装置を経過してかかってきた電話だ、ということです」
二人は部屋を歩き、その交換装置にむかった。洋二は期待で興奮していた。まも
なく、なにかがわかるのだ。しかし、結果は落胆だった。そこの標示スクリーンは
白く、なにもうつっていない。係は指さして言う。
「残念ながら、だめでした。逆探知不能の回線を通ってかかってきたらしい」
洋二は不満げな声で言った。
「へんじゃないですか。逆探知不能回線とは、身上相談センターのような特殊な業
種へのものだけでしょう。ぼくの家にはなにも関係ないはずです」
「そうなんです。しかし、他の回線が混雑していると、臨時にそれが使用されるこ
ともあるわけです。コンピューターにより能率的にさばかれているのです」
そういうものかもしれない。だが洋二には、すなおにうなずけない気分が残った
。
「そのコンピューターとやらも見たいものですね」
「地下にございます。どうぞこちらへ」
階段をおり、その部屋に入る。銀色をした巨大なものが、複雑なメカニズムのム
ードをただよわせてそこに存在していた。室の一隅には三名の技師らしい人が机に
むかって控えている。洋二は案内係に言う。
「これはどんな性能なのですか」
「とてもひと口には説明できませんが、記憶、演算、処理、連絡、すべてにすぐれ
た型だという話です。このようなのが、各ステーションにあるわけです」
「なかをのぞいてもいいでしょうか」
「どうぞ……」
外側のおおいの一部をあけてくれた。くもの巣を大量に集めたように電線がから
みついている。赤や青、黄や緑などさまざまな色で、|縞《しま》や水玉もようの
もある。このように電線を色分けしてでもおかないと、混乱してしまうだろうな。
その程度は彼にもわかり、彼にわかるのはその程度だった。
理解を越えた装置が現に社会にこのように存在し、休むことなく動きつづけてい
る。世の終わりまで停止することはないのだろう。そう思うと、なにかいらいらさ
せられた。彼がのぞきこみつづけていると、係が言った。
「おもしろいですか」
「いや、盗聴装置でもまぎれこんでいるんじゃないかと思いましてね」
「なんですって、とんでもない。なぜそんなことをおっしゃるのです」
案内係の表情は急に変わった。ひとのよさそうな感じが微妙に変化し、あわてた
ようなものとなり、そして消えた。
「むかしニューヨークの電話会社でおこった、十万本におよぶ盗聴事件のことを思
い出しただけですよ。そんな苦情みたいなものを耳にしたことはありませんか」
「ありませんよ、そんなこと。許されるわけがないでしょう」
係の声は大きくなった。洋二は、許されないことの起こるのが社会でしょうと言
いかけたが、それはやめた。
その時、ブザーの小さな音がひびき、装置の一部で赤いランプが点滅した。技師
のひとりが立ちあがり、その部分を引き抜くようにとりはずし、かわりに新しい部
品をさしこんだ。ランプは消え、音はとまる。
「いまのはなんですか」
と、洋二は技師に質問した。
「この部分に接触状態不良の現象が生じたので、とりかえたわけです。簡単でしょ
う。この大コンピューターには故障の自己発見機能もあるのです」
「えらいものですな。どういうしかけなのですか」
「さあ、知りませんね。ランプで指示され、入れかえる。それですむのですから、
いいじゃありませんか」
「この構造にくわしい人はだれですか」
「点検部長です」
洋二は案内係に言った。
「そのかたに会わせて下さい。ここの見学はこれでけっこうです。ありがとう」
案内係とは、点検部長室の前で別れた。
名刺を出すと、ひまだったのか、すぐ面会することができた。五十歳ちかい神経
質そうな男だった。洋二は言う。
「ちょっと取材させて下さい。いま、いろいろと見せていただいたところです」
「すばらしいものでしょう。社会はより複雑に、より大きくなる一方です。それを
正確に円滑に保ち、進歩させる。その一役をになっているわけです。誇らしく思い
ますよ」
「あのコンピューターの構造はよくご存知なのでしょうね」
「もちろんですよ。私が指揮をとり、定期的に点検しております。また、他のステ
ーションの部長とも会合し、研究会議を開いたりしております。なにしろ責任重大
ですからね。もし狂ったりしたら……」
「ひとつだけですが、失礼なことをお聞きします。こんなうわさはありませんか。
どこかで盗聴がなされているのではないかという……」
「冗談をおっしゃってはいけません……」
部長は笑いとばした。しかし見つめている洋二の目には、そこになにかわざとら
しいものが感じられた。こめかみあたりが少しふるえていた。
「ありえないことだと……」
「もちろんです。末端のほう、家庭内とか企業内とかで、小型装置をとりつけてひ
そかに非合法におこなわれている場合については、断言できませんが……」
「末端で可能なら、あのコンピューター内部においても、可能は可能でしょう」
「困りますなあ、そんな理屈は……」
部長は説明の言葉をさがそうと口をつぐんだ。その時、机の上の電話が鳴る。部
長はそれを取り、緊張した顔つきになった。短く答えるだけで、やがて受話器を戻
し、洋二に言う。
「ちょっと急用ができましたので失礼させていただきます。しかし、雑誌などに、
根拠のないことを臆測だけで書かれては迷惑します。その点はよろしく」
「わかっております。そんなことをしたら雑誌のほうも評判が落ちますから。では
、おじゃましました」
洋二は点検部長室を出た。廊下にしばらくたたずんでいたが、部長はべつに出て
こなかった。急用ではなかったのだろうか。
洋二は他の部課をまわった。苦情受付課とか、人事部。人事部では前任の点検部
長の名を聞いてみたりした。しかし、どこでも、手ごたえのある話はえられなかっ
た。うやむやな、要領をえない点があるようだ。
彼の気のせいかもしれない。謎の問題点をとりかこむ壁のようなものが感じられ
てならなかった。壁があるとすれば、だれがこのような壁を作り、どのような力で
壁を保持しているのだろう。洋二は疑惑を深めた。と同時に、挑戦への闘志をかき
たてられるのだった。
雑誌社へもどり、洋二は考えをまとめようとした。だが、なにもまとまらない。
とらえどころのない膜のような存在を感じているだけなのだ。
椅子にかけ机にもたれ、目を閉じると、さっきの装置が浮かぶ。細い電線の、も
つれた網のような姿。カチリと音をたてて動くなにか。その他わけのわからない部
品のむれ。集合体。敵がいるとすれば、その電子部品のジャングルの奥にひそんで
いるのだ。
闘志だけは高まるが、どこから手をつけていいか迷う。彼は退社時間がすぎたの
も気づかず、ぼんやりと机にむかいつづけだった。これは予想以上に大きな事件か
もしれぬ。自分ひとりの手にはおえそうもない。しろうとだけではだめなのだ。電
子関係にくわしい専門家を加えた特別取材班を編成し、社としてことに当たるべき
かもしれない。それによって、敵をジャングルから狩り立てるのだ。
彼は決心し、その企画書を書きはじめた。夢想と思われて笑い飛ばされないよう
に書かねばならぬ。心のなかの炎を、どう表現したものだろう。意外とむずかしく
、筆はなかなか進まなかった。
そばで電話が鳴る。洋二はあたりに自分ひとりであることに気づき、それを取っ
た。
「はい……」
「よく聞いてもらいたい。あなたは以前、ある夫人と火遊びをした。その亭主がそ
れを知ったら、ひと騒動になる。あなたの家庭もまた……」
昨夜の正体不明の声だった。洋二は青ざめて聞きかえす。
「いったいどうしてそれを……」
「そんなことは、どうでもよろしい」
「で、それがどうだというのです」
「これを平穏にすませたいのなら、こちらの条件をいれてもらいたい」
「なんです、条件とは……」
「これ以上、つまらぬせんさくをしないことだ。なんのことかはわかるはずだ。そ
れだけでいい」
電話の声には距離感がない。遠くからか近くからかわからず、推察を拒否する。
「いやだと言ったら……」
「いまのことを関係者に知らせるまでだ。念のために言っておくが、あなたについ
てのそれ以上の秘密も知っている」
「考えさせてくれ……」
「いいだろう」
「返事はどうしたらいいか」
「返事などしなくていい。あなたの行動はすべてわかるのだ」
電話は切れた。洋二はしばらく呆然としていた。あんなことまで知っている。ダ
ンプカー事件では力が弱いと知ってそのつぎの切札を出してきた。どこで秘密を知
ったのだろう。いずれにせよ、この調子だともっと多くのことを知っているのかも
しれないのだ。ふしぎさとともに、ぶきみさを感じた。ゆっくり考えてみなければ
……。
彼は書きかけの計画書を破った。物かげからうかがっているだれかに示すように
、こまかく破ってくず籠に捨てた。紙片はかすかな音をたてた。
その音とともに、残っていた闘志も弱まっていった。かわって、ためらいの気持
ちが大きくなってゆく。おそらく、強行しようとしたら、敵は先手を打つだろう。
自己の悪評がひろまり、社内でのけ者にされ、つまり記事は書かれることなしに終
わるのだ。
洋二は自宅へと帰った。メロン·マンションの三階。妻子が夕食を待っていた。
「パパ、おかえりなさい。おそかったね。早くごはんを食べようよ」
と坊やが言う。妻は洋二をいたわる。
「あなた、お疲れのようね。お酒でもお飲みになったら……」
「ああ」
彼はうなずく。酒の酔いが気分をほぐしてくれる。いつも食事の時に聞く、なご
やかなバックグラウンド·ミュージック。おだやかなムード。やはり家庭だ、と洋
二は思う。
これを守らなければならぬ。よけいなやつが、これを乱しに入ってくるのを許し
てはならない。あの条件をのむべきだろうな。むこうとの約束では、どんな記事を
書けとの強制はしてこない。ただ手びかえればいいのだ。そのかわり、平穏という
大きなものが保証される。家族とともに生きる人生において、平穏以上に価値のあ
るものがあろうか。
しかし、いくらかの反省もある。記者としての使命はどうなるのだ。やましさが
胸のなかで少しあばれる。しかし、それを押さえつける。だれか、ほかの者がやっ
てくれるだろう。若く元気で、過去の透明な者が。おれはとしをとったのだ。中年
に入りかけている。それぐらいの妥協は許してもらわなければ……。
そのうち、洋二は想像する。熱狂がさめたせいだろう。あのステーションの連中
の壁をささえている力がわかりかけてきた。彼らもみな、そのような圧力を受けた
のだろう。点検部長の机の上で鳴った電話も、あの声の主からだったかもしれない
。口をふさぐための。
そんなことで、身動きがとれず、強力な壁となっているのだろう。洋二はつぶや
く。おれもいつのまにか、その壁の一員となってしまったようだな。おれもこの件
についてだれかに聞かれたら、そしらぬ態度をとるだろう。
自分の魂の若々しさが飛び去って行くようだった。青年期から中年への移り目。
彼は立ちあがり、窓からそとを見る。けさは春めいていたが、天候の変りやすい季
節。そとには寒さがもどってきていた。室内はあたたかいが、窓ガラスにさわると
つめたかった。
4 ノアの子孫たち
朝。ベッドのなかで目ざめたその男は、横たわったまま窓からそとを|眺《なが
》めていた。彼はそれが好きなのだった。だから、ベッドの位置も窓の近くにして
ある。
メロン·マンションの四階の一室。そとには春があった。うす曇りの空。まもな
く桜がいっせいに咲く。桜は春の訪れをなんで知るのだろう。樹の一本一本はうち
あわせもしないのに、ほとんど同時に咲き、同時に花を散らすのだ。生命の微妙な
神秘というべきだろうか、精密装置のような正確さというべきだろうか。人間とく
らべて……。
人間とくらべてどうなのか、彼には結論が出なかった。しかし、なにも考えない
よりは、ここまででも考えたほうがいいというものだ。朝のベッドからそとを眺め
る習慣はいいことだと、彼は自分の空想好きを理屈づけた。
彼は津田といい、四十五歳。結婚の経験はあったが、妻とは五年ほど前に別れて
いた。性格があわなかったのだ。そして、いまはひとりぐらし。べつにそう不便も
感じていなかった。
ベッドのそばの台の上で電話が鳴りはじめ、彼の空想を中断した。こんなに朝は
やく、だれからだろう。津田は手をのばして受話器をとった。相手の声が言った。
「おい、大変だぞ。動物園のサルの山を知っているだろう。そこのたくさんのサル
が、どういうわけかいっせいに知能が高くなって、集団脱走をした。そちらに向か
っている。気をつけたほうがいい……」
「なんだって。本当か、それは。いったい、どなたです」
津田は受話器をにぎりしめ、ベッドからおりながら聞きかえした。相手は言った
。
「……こちらはジュピター情報銀行。恒例のエイプリル·フール·サービスでござ
いました。きょうは四月一日。いまの一瞬、いくらかびっくりなさり、いくらかお
もしろがられたことと存じます……」
「なんだ、そうだったのか。わたしとしたことが……」
津田は苦笑いした。そのジュピター情報銀行は彼の勤務先なのだ。自分の会社の
サービスで、自分が驚いてしまったのだ。しかし、それでいいのだろう。たぶん、
お得意先の人の全部が、いまのことで適当に驚いてくれたにちがいない。
このサービスは好評だった。毎年、広告代理店に依頼し、アイデアをいくつか出
してもらう。一種に限らないわけは、たとえばサル恐怖症の人には刺激が強すぎ、
べつなものにしなければならないからだ。それをテープにおさめ、親しげな声で電
話にのせるのだ。
もちろん、エイプリル·フールであることはすぐ説明する。友人にひっかけられ
た場合は不快さの残ることもあるが、電話でのこのサービスでは、だれの笑いもの
になることもないのだ。
彼はテーブルについて朝食をとった。食べるものはきまっている。といって毎朝
一定なのではなく、情報銀行のメニュー·サービスによって、ジュースの種類だの
、コーヒーの産地、パンの形など、毎日少しずつ変化がついている。当人の性格に
あった、好みにぴったりのバラエティーがつくのだ。マス·コミュニケーションと
ちがった、きめのこまかいサービス。
「おかげでわが社もまあまあ順調だ。また、わたしも独身でも不自由なく暮してゆ
けるというわけだ……」
津田は自賛しながら食事をすませ、服を着て出勤した。そとは寒からず暑からず
、まもなくやってくる新緑の季節の前ぶれの要素のようなものが、空気中にただよ
っていた。
津田のつとめ先のジュピター情報銀行支店は都会の中央にあるわけではない。そ
んな必要はないのだ。郊外の林にかこまれた静かなところにあり、二つのビルがあ
る。ひとつは支店であり、ひとつは研究所。この支店には付属研究所がくっついて
いるのだ。すぐそばにあるほうが、実用に密着した開発がしやすい。
津田は支店長であり、その研究所の管理事務の責任者をもかねていた。支店の人
員はとくに多くもなかった。いうまでもなく記憶容量の大きなコンピューターがあ
り、それが主役だった。あとは電話応対の係で仕事はやっていけるのだ。
支店長室に入り、タバコを一服してから、津田は社内をひとまわりした。日課な
のだ。女子の電話応対係たちは、きびきびした口調でいそがしげに仕事をしている
。
「はい。番号をどうぞ。ご用件は……。きのうなさったトランプの勝負の成績を記
録なさりたいのですね。わかりました。では、どうぞ……」
そう答えてから、それぞれの前にある盤に並ぶボタンを、指先で操作している。
依頼者の用件の部分に接続したのだ。成績はそこに記録される。もちろん、いまま
での記録もそこに残っている。だから利用者は、このところトランプでだれに負け
つづけだったかも知ることができるのだ。
「もしもし、こちらはジュピター情報銀行でございます。お知らせをいたします…
…」
と電話をかけている係もある。ダイヤルは自動的にまわされる。係としては、こ
れだけ言って、ボタンを押せばいい。あとはテープが告げてくれる。その内容はさ
まざまだ。
〈予防注射の有効期限がそろそろ切れます。一週間以内に病院へお出かけ下さい〉
というのもある。
〈明日はお子さまの誕生日でございます。カナリヤを買ってあげるとの約束をなさ
っております。お忘れにならぬよう。なお、ご帰宅途中にある小鳥の店の場所は…
…〉
というのもある。つまりメモがわり、日記がわりなのだ。そして、それ以上の役
目をはたしている。生きているメモなのだ。当人がすっかり忘れていても、必要な
期日がくると、話しかけ注意してくれるのだ。忘れるということによる失敗を、人
生から消してくれる。
このジュピター情報銀行は、どちらかというと上流階級をお得意先に持っていた
。よそより料金が高いかわり、すべてにゆきとどいているのだ。〈子供にカナリヤ
を買うこと〉と当人の声が再生されるだけでも用はたりるのだが、ここでは、てい
ねいなお知らせの口調で告げるのだ。コンピューターによりそのように変えられ、
やさしい声となっている。なまなましい自分の声より、このほうがいいのだ。
利用者はいろいろだ。若い女の声でこんなのもある。
「きのう、ボーイフレンドといっしょに食事をする約束だったけど、かぜをひいて
熱が高いからと嘘をついて、すっぽかしちゃったの。これ覚えといて……」
どこかの重役クラスらしい人の依頼もある。
「親類の者が金を借りにきたが、いまは株の値下りでそんな余裕はないとことわっ
た。記録しておいてくれ」
そして、つぎにその相手と会う前に、ちょっと電話でたしかめればいい。すっか
り忘れていて、話が前とあわず恥をかいたりあわてたりすることもないのだ。優秀
で忠実な個人秘書。むかしは大変なぜいたくだったが、いまは情報銀行に口座を持
てば、だれにでもそれができるのだ。
嘘をずっとつき通す人は、記憶がよくなければならないという|諺《ことわざ》
があった。嘘はつつしんだほうがいいというのが本来の意味だが、コンピューター
はそれを変えつつある。だれでも記憶力がよくなった時代。
もっとも、それとちょうど逆の利用法だってあるのだ。
「さっき画商が、前からたのまれていたと、ラミンズという画家の作品を持ってき
た。いくらなら買ってもいいと言ったのか、忘れてしまった。その時の記憶を出し
てくれ」
他人の調子のいい言葉にだまされまいとの作戦なのだ。ごまかしを見抜くためな
のだ。もっとひどいのもある。
「税務署から調査に来るそうだ。去年どんな言いわけをしたか忘れてしまった。そ
の記録をたのむ……」
それにもとづいて今年の言いわけをし、それもまた記録し、来年においても一貫
した言いわけができるよう役立たせるのだ。税務署のほうでもコンピューターを使
っているはずだ。いいかげんなその場のがれではだめなのだ。
津田は情報銀行のそんな利用のされかたを見ると、妙な気分になる。虚々実々と
形容すべきなのだろうが、ほとんど頭脳を使うことなくそれがなされるのだ。
むりな言いわけを重ねすぎた利用者は、特別料金を払って、最後の言いわけの知
恵を求めてくる。それに対しては、現状をくわしく聞き、最初から今までの嘘の言
いわけをつなげて、コンピューターはもっともらしい事情の筋を考え出してくれる
のだ。コンピューターは当人の手におえなくなったところに、それを越えるための
嘘を製造してくれる。
利用者はそれだけ神経を使わなくてすむというわけだが、それだけ金もかかると
いうしかけだ。しかし、使わなくてすんだ神経が、それ以上の金額に価するという
のなら利益なのだろう。ここに情報銀行の価値がある。
この種の情報銀行は、金銭をあつかう普通の銀行と機能の点でよく似ている。た
だ品目が金銭でなく私的情報であるというだけのちがいだ。預けておいて、好きな
時にいつでも出せる。また、金銭の銀行はガスや水道の料金などの払込みの代行を
やってくれる。ここでもそれと同じことをやってくれるのだ。
たとえば、新しくレジャー·クラブに入会する時、新しく新種の保険に加入しよ
うという時、そんな場合に調査欄にいちいち同じような内容を記入しなければなら
ない。そんなことの代行をやってくれるのだ。もちろん、加入者の了解をえた限界
内でのことだ。それ以上のことに及ぶ時は、いちいち了解をとる。だが、いずれに
せよ、むかしにくらべずいぶん手間がはぶけることになったのだ。
時には他に口座が移動することもある。料金とサービスの関係で他の情報銀行に
かわったり、住居の変更で他の支店に移ったりする。そんな場合も、電話線を利用
し、そう時間もかけずにそっくり移せるのだ。
口座の利用者は、それぞれコード番号を持っている。それが鍵であり、情報のも
れるのを防いでいる。また、利用の仕方がいつもとちがってもたもたしたりしてい
ると、いちおう逆探知がなされ、本人かどうかの確認をし、他人だったら警察へ通
報されるのだ。
電話応対係たちの室をひと回りした津田は、地下の室におりた。がっしりしたコ
ンクリート造りで、そこはコンピューターと記憶装置の場所となっている。空気調
節された清潔な静かさのなかで、かすかな機械音がささやくように響いている。津
田はここに来るたびに、いつもこうつぶやいてしまうのだ。
「ここが人びとの脳の出張所なのだ……」
人間は、うまれつきの脳だけではたりなくなってしまったのだ。いや、たりなく
なったのは、脳の能力を使いこなそうという意欲のほうなのかもしれない。しかし
、進化であることにはちがいない。こういう器官を新しくからだに付属させたのだ
から。
「心の出張所でもある。これが秘密というもの。ここが秘密の倉庫なのだ。人生に
おける貴重なるもの。しかし、それぞれの当人は貴重きわまりないような気になっ
ているが、内容はとるにたらない、くだらないものと言えるのではないだろうか」
津田はそう言い、歩きまわる。秘密というと暗くしめった語感だが、ここは逆に
明るく乾いている。その対比が異様だ。彼は装置が正常に動いているかどうかを確
認するため、ポケットからイヤホーンを出し、穴にさしこんでみる。支店長として
許された行為だ。一分間だけ聞くことができる。声がしていた。
〈いま、フロリダのゴルフ場に来ている。三年前にここでやった時の、わたしの記
録をくわしく知りたい……〉
一分間たつと、装置は自動的に傍受を切る。話の内容は、加入者が国際電話で問
い合わせをしているようだった。それがだれなのかは、ここでは番号がわからず知
りようがない。津田はイヤホーンを抜いた。
静かな地下室にひとり。津田はここが好きだった。装置を眺めているだけで、い
ろいろなことが頭に浮かんでくるのだ。
電話の普及はすばらしいものだ。フロリダだろうがどこだろうが、世界中どこと
も一瞬のうちに連絡し、空間なるものを消してしまう。距離がまるで無になるのだ
。そして、コンピューター。これは時間というものを消してしまう。三年前だろう
が一時間前だろうが、その記録の正確さにはなんの差もないのだ。こんな時代にな
るとは、むかしの人は想像もしなかったろうな。いや、いまだって完全にそれにな
れているといえるかどうか。
空間と時間とを消し、人びとは自由にそれを利用している形ではある。しかし、
ここにいる津田の目には、逆のようにも見えるのだ。人間たちがコンピューターの
ために働いているかのように。夏のアリがぞろぞろと、熱心に食物を巣に運ぶ。な
にかそれを連想してしまう。アリたちは、なぜそうするのか自分でわかっているの
だろうか。人間のほうはどうなのだろう。
「アリは食物を運び、人間は秘密を運ぶか……」
彼はつぶやき、名文句だなと自分で喜んだ。彼の思考は、秘密ということに飛ん
だ。いったい、秘密とはなんなのだろう。人間に特有な現象のようだが、なぜ秘密
がこうも大問題なのだろう。だれもがかくすから知りたくなるのだろうか。だれも
が知りたがるから、かくしてみたくなるのだろうか。人間が人間である特徴は、秘
密で構成されているという点だろうか。
「まったく、ふしぎなものだなあ、人間という生物は……」
津田は思いにふけった。このようにとりとめもないことを考える性格が、妻の趣
味と一致せず、離婚するはめになったのだ。しかし、いまは好きなようにそれにひ
たることができる。
そもそも、秘密なるものの起源はどこにあるのだろうか、とも考えてみる。原始
時代にさかのぼるのだろうなあ。いや、もっと前なのかもしれない。食料をさがし
て野山をうろついていたころなんだろうなあ。食料を求めるのは楽でなく、しかも
それは有限だ。その所在を他に知らせることは自己の損失。餓死につながりかねな
い。そんなことから、自己、家族、部族と何重もの秘密がうまれてきたのではない
だろうか。
有限なものをめぐって争うとなると、その競争相手を殺さなければならない。さ
もなければ所在を秘密にするかだ。どちらをえらぶかの岐路に立ち、人類は殺しで
なく秘密のほうをえらんだ。これが文明のはじまりじゃないのだろうか。殺しは強
さだけできまる。原理は弱肉強食だけだ。しかし、秘密となると、強さではない。
くふうがいるのだ。最初はちょっとしたくふうですむが……。
火や道具の発明なんかより、秘密ということの発明のほうが大問題だったろうな
。だから旧約聖書でも、人類最初の事件はエデンの園で禁断の果実を食うことなの
だ。神に対して秘密を持ったという象徴なのだろう。
それに、ノアの箱舟の物語。これもまた秘密の重要さだ。神の予告を受け、ノア