とその家族は動物とともに箱舟にのり、洪水をのがれることができた。もし秘密を
まもらなかったら、混乱状態におちいって、生き残ることはできなかったろう。
秘密のおかげで生き残ったのだ。われわれはみな、そのノアの子孫。秘密という
遺産をうけつぎ、それぞれの心のなかで大切に育て、これまでに発展してきたのだ
。そのあげく、いまや秘密は、その容器である人間よりも大きくなり、貴重になり
つつある。ここにあるコンピューター装置となって。
津田はつぶやくのだった。
「変なものだなあ。どうってこともなく、くだらないものなのに。まったく、変な
ものだなあ……」
内部をひとまわりし、津田は支店長室にもどった。しばらくすると、電話がまわ
されてきた。特別な口座の持主からだ。銀行にとって大切な得意先のお客で、その
ような人はコード番号のあとにAの文字がついている。津田はていねいな口調であ
いさつした。
「まいどありがとうございます。で、どんなご用でございましょう」
女の人からの依頼だった。
「じつはね、きょうの夜、あるパーティに招待されているの。でも、その人とは初
対面なのよ。そして、今後ずっとおつきあいしなければならない大事な人なので、
失敗したくないのよ。お願いだから、その人の性格を教えてもらいたいの。その人
はね、第二住宅地区の……」
住所と姓名をつげてきた。津田はもったいをつけて言う。
「ごもっともなことでございます。しかし、そのようなことは、ちょっと……」
「あたし、おたくとは昔からの取引なのよ。よその情報銀行から口座を移したらと
勧誘されてるけど、ことわっているのよ。特別料金はお払いするわ。なんとか便宜
をはかってよ……」
「では、特別になんとかいたしましょう。少しお待ち下さい……」
津田はボタンを押し、操作した。支店長室にある操作板は、支店長の判断によっ
てのみ動かせるものだ。さほど時間はかからない。その指示された相手の人物の口
座につないだ。調査票などに公表不可能な部分を知らせる。すなわち、プラス·ア
ルファだ。
といっても、当人の秘密の全部をあきらかにするわけではない。あまりに大量で
雑然としていて、知らされたほうも持てあましてしまう。いままで口座の記憶装置
に流入したデータをもとにコンピューターが分析した性格傾向のおおよそを教えて
あげるのだ。
「どうもありがとう。とても参考になったわ」
「お役に立てばさいわいでございます。どうぞ、そのかたと円滑なご交際をなさい
ますよう。しかし、この件は内密に」
「もちろんですわ」
電話は終わった。こんな仕事のたびに、津田は考えるのだ。これはいけないこと
なのだろうかと。秘密データによる性格分析。それを公表するのはいいことではな
いか。悪いとすれば、なぜ悪いのか。悪いときめつける理由が思い当たらないのだ
。
このサービスによって、人と人との交際がスムースにゆく。へたをすれば初対面
で、相手のいやなことを不用意に失言し、あとあとまで、時によっては一生とりか
えしのつかない後悔をも残しかねない。そんな不幸を、あらかじめ防止してあげる
のだ。
正か不正かの疑問は残るが、津田はそれを割切ることができる。なにしろ、これ
はお客さまの要求なのだ。いいことなのだ。
べつの支店、あるいは他の情報銀行から、この種のことの問い合わせがくること
もある。ここに口座を持っている人に関してだ。それにもなるべく応じてあげるよ
うにしている。個人の具体的な秘密ではなく、性格というパターン化した情報なの
だ。個人の表情であり、口調であり身ぶりであり、つきあって時間をかければわか
ることではないか。その手間を短縮させる手伝いをしてあげるだけだ。これこそサ
ービス、他のいわゆるサービスとちがいはない。お客さまのためであり、いい結果
を提供しているのだ。
金銭をあつかう銀行からの問い合わせもある。
「当銀行のお客のうち賭博好きの性格の者をマークしておきたいのです。注意をし
ておかないと、将来、当行の損害をひきおこしかねません。それは他のお得意さま
たちへよけいな損害をおかけすることにもなるわけです。よろしくご配慮のほどを
……」
そんなのに津田はこう答える。
「ご事情はよくわかります。しかし、ギブ·アンド·テイク。こちらのお手伝いも
お願いしたい。こちらに口座をお持ちのお客さまのうち、金銭的に不安定なかたが
あったら、マークしておきたいのです。料金の支払い不能者が出ては困りますから
」
「いいでしょう。それぞれの企業のため、とりもなおさずお客さまのためでござい
ます。おたがいにそのためにつくしましょう」
情報の交換がなされる。コンピューター間の連絡により、短時間ですんでしまう
のだ。安全と有利とを求める各人の要求の集積。それが具体的な動きとなるのは、
金銭の場合も個人情報の場合も同様のようだ。
仕事のあいま、津田はひまになると、ひそかな楽しみにふける。別れた妻の個人
情報をのぞくことだ。彼女の性格分析は、離婚してから変わりつつある。〈金銭と
か宝石とか、現実的なものに興味を示す〉だったのが、最近では〈現実的なものに
しか興味を示さず、それにいちじるしく執着する〉となってきた。傾向がひどくな
っているのだ。離婚してよかったと、彼は心のなかで喜ぶのだ。
彼は支店長の権限で、別れた妻のコード番号をも知っている。だから、さらに深
くのぞくこともできるのだ。彼女の秘密の領域。そこには浅薄で、たあいないもの
ばかりがおさまっている。こんなものがなんで秘密なのかわからない。浅薄だから
秘密にしなければならないのだろうなと、彼は思う。
午後になると、津田のところに、中央の本社から会議の決定事項のまわってくる
ことが多い。電話が鳴り、声が言った。
「付属研究所への新製品開発の件だ。ぜひ、いいものを作ってもらいたい。それか
ら、前に指示した開発の件を促進してもらいたい」
感情のない男の声だ。人工の声を使っているのだなと津田は思う。彼は言った。
「はい、わかりました。テレタイプにてお願いいたします」
机のそばのテレタイプが動きはじめた。本社のコード番号、書式はととのってい
る。たちまちのうちに、書類がそこに出現した。
津田はそれを持って、付属研究所の建物に行く。主任技師に会い、まず促進のほ
うの用件を話した。
「前からの開発計画はどうなった」
「はい、あの嘘発見機つきの電話機のことですね。ほぼ試作品が完成しました。こ
れです」
主任技師は電話機を持ってきた。受話器のにぎりの部分に、美しい色彩のものが
巻きついている。津田は聞いた。
「どういう作用をするのだ」
「このにぎりの部分。手のひらの汗の分泌量が、そこで測定されるわけです。汗の
出方の変化は、電流の変化になおされ、当人に知られることなくこっちへ伝えられ
るのです。しかし見たところはすべりどめの如く、美しい飾りの如くで、普及を助
けるでしょう。ここに苦心があるのです」
「うまい考案だな」
「汗の出るぐあいと、その時の会話とにより、コンピューターの分析で嘘の可能性
の度合が判明できます。かなりの成果をあげるでしょう。しかし、なぜこんなもの
を……」
と主任技師はふしぎがった。
「わが情報銀行の内容充実、世の中からのより正確な情報蒐集のためだろう。つま
り、お客へのより高度なサービスということになる。そうそう、それから上部から
の新しい指示があった。これだよ……」
津田はいま電送されてきた書類を示した。主任技師は眺めながら顔をしかめる。
「驚きましたねえ。これは巧妙な盗聴装置です」
「どういうことなのだ」
「家庭用の電話機の受話器を、特殊電流による遠隔操作ではずすのです。見た目に
は気づかれない程度に、そっと持ちあげるだけですがね。しかし、それによって当
人にはわからないうちに、そばでの会話がキャッチされてしまうのです。これがお
かれると、家庭内の実情がそとにもれるわけです」
「やはり、わが情報銀行のお客さまのためだろう」
「いいんでしょうかね。ゆきすぎのように思えます。法律にひっかかるとことです
」
「それもそうだな。念のため、本社に問い合わせてたしかめてみよう」
「お願いします」
技師の心配ももっともと思い、津田は室にもどり、本社への連絡をしようとした
。
その時、電話がかかってきた。さっきの単調な男の声だ。
「さっきの指示の件は、進めてもらえるだろうな」
「はい、しかし、どうも気が進みません。あんなものの開発を進めていいのでしょ
うか。いったい、本社での本当の決定なのですか。あなたはどなたです」
「文句を言うな。そのままやればいいのだ。従わないとお前に不利になるぞ。お前
の個人情報についての、感心しない部分があかるみにでる。別れた奥さんの情報を
ひそかにのぞき、楽しんでいたこともな……」
「ああ……」
津田は驚きのうめき声を出した。別れた妻の秘密をのぞき、そのうちのいくつか
を自分の情報メモに移しておいたのだ。その弱味をだれかにつかまれてしまったら
しい。それに、空想愛好の傾向がある性格のことを人びとに知られては、会社づと
めとして困ることになる。
「どうだ。文句をいったり、こちらがだれかなど質問をするな」
「はい……」
津田は青ざめた。自分の心のなかに、なにものかが土足でふみこんできたような
感じがした。
その動揺につけこみ、相手の声は言った。
「それから、お客のコード番号と姓名との確認をやりたい。すぐ用意をしてくれ」
「しかし、それは……」
「お前の責任には絶対にならぬようにやるから、心配するな。いやなら……」
「わかりました」
複雑なボタンの操作で、それはたちまちのうちにどこかへと伝達された。津田は
思う。この相手は、おれの秘密を知っている。個人情報をのぞいたにちがいない。
目に見えぬ相手への怒りが、彼にやけをおこさせた。
それでも、一瞬の反省はある。しかし、この指令を拒否できたかとなると、それ
は不可能だったのだ。自己の秘密の公表の拡大は、なんとかして防止せねばならぬ
。それがなされたら、自分の存在価値がない、死体同然になってしまうと思えたの
だ。規則無視の罰よりも大切なことだ。
さっきは他人の秘密について客観的な考えができた津田も、ことが自分におよぶ
と、平然とはしていられなかった。矛盾だ。
しかし、彼はこんなふうにも思った。秘密を守りたがるのは本能なのだ、理屈じ
ゃどうしようもないことなのだと。
津田はまた研究所に行った。
「本社では文句をいうなとさ」
すると、技師もさっきと一変して、すなおに答えた。
「やりましょう」
そのようすから、この技師もあの声にやられたのかもしれないように思えた。ど
こでなにが動いているのだろう。津田には見当もつかなかった。そして、そんなこ
とより、彼にとっては帰宅してからの、ひとりの時間のほうが大切なのだった。ひ
とりで勝手なもの思いにふけりたいのだ。
彼は退社時間になると、四階の室に帰宅し、もの思いをたのしんだ。四月のけだ
るい夕暮を窓のそとに眺めながら……。
5 亡 霊
五月の夜。五月という語にはこころよい響きがある。発音そのものはさほどよく
もないのだが、すばらしいものをいっぱいに意味しているからだろう。人の想像力
へ訴えかけ、いきいきとした刺激をうみだす作用があるのだ。
新緑があたりにひろがっている。それは建物のかげなどにも点在し、おや、あん
なところにも植物があったのかと、あざやかな驚きをもたらしてくれる。山へ行っ
たらさぞ美しいだろうなあ。渡り鳥たちはすでにやってきて、飛びまわっているこ
とだろう。海岸の波うちぎわには、夏のけはいが寄せているかもしれない。それら
を想像すると、頭のなかまで新緑になったような気分になる。
ここはメロン·マンションの五階の一室。室内の空気は換気装置によって浄化さ
れたものだ。また、夜であるため、窓ごしに広場の樹々の色を|眺《なが》めるこ
とはできない。だが、やはり五月のかおりがあたりにただよっている。緑の香気が
どこからともなくしのびこんできているようだ。想像力のせいかもしれない。しか
し、それでいいではないか。
ここの住人は亜矢子と昭治。いずれも三十歳で、ふたりは夫婦だった。昭治はナ
グ開発コンサルタント事務所というのにつとめている。中小企業から各種の研究の
委託を受け、改良点を提案したりするのを営業とする会社だ。すぐれた人材を揃え
、実績もあり、信用もある。
二人はそこで知りあい、三年前に結婚した。亜矢子はつとめをやめ、いまは家庭
の仕事に専心している。倦怠期はまだおとずれず、ふたりは幸福だった。子供はま
だなかった。そのため室内はきちんとしており、家具や飾りは理知的なムードで統
一されていた。
壁の時計が夜の十時を示していた。亜矢子はそれを見ながら言った。
「きょうはおもしろいテレビもないし、ステレオでも聞きながらお酒を飲みましょ
うか」
「それもいいな」
亜矢子は装置を使わず、自分の手で緑色のカクテルを作って持ってきた。昭治は
言う。
「新茶をあしらったカクテルか。五月のかおり、五月の味、五月の色だな。しかし
、あざやかな緑というやつには、どこか人をいらいらさせるものがあるな」
「年に一回ぐらいは、そんな時期もあったほうがいいのよ……」
その時、電話のベルが鳴った。その音に反応し、ステレオ装置は自動的に音量が
小さくなり、話のじゃまにならない程度になった。亜矢子は「あたしが出るわ」と
言い、室のすみへ立って受話器をとった。
「もしもし」
それに対し、男の声がした。
「あ、奥さん。お元気ですか」
なれなれしい口調だった。聞きおぼえのある声。だれだったかしらと、彼女は思
い出そうとした。頭のなかで、知人の名のリストを大急ぎでめくってみた。しかし
、そのなかにはない相手だった。思い当たらない。よく知っているはずの声なのに
。度忘れしているという感じ。亜矢子は不安になった。いたたまれないような気分
になり聞いてみた。
「失礼ですけど、どなたでしたかしら……」
「だれだとお思いですか」
「お名前をおっしゃらないなんて、困りますわ。失礼ですわ。なぞなぞ遊びでした
ら、よそでやって下さい……」
彼女ははっきり言った。ふざけているのだったら電話を切るつもりだとの決意を
口調にこめた。相手の男の声は言う。
「ふざけているのではありませんよ、奥さん。ぼくの声をお忘れなんですか。おわ
かりになりませんか」
それを耳にし、亜矢子はしばらく考え、ためらいながら言ってみた。
「もしかしたら、広川さんのご兄弟でしょうか」
「いいえ、ちがいますよ」
「どこかお声が似ているので、そうかなと思ってしまったのですわ。ほかに思い当
たりません。ご用がないのでしたら、これで……」
「待って下さい、奥さん。兄弟なんかじゃありませんよ。ぼくには兄弟はないんで
す。そのこと、ご存知だったでしょう」
「すると、あなたは、広川さんご本人なの。まさか……」
亜矢子は途中で声が出なくなってしまった。受話器を持つ手がこまかくふるえ、
顔は青ざめた。相手の男の声はつづく。
「そうですよ。本人にむかって声が似てるなんて、ちょっとひどいな……」
「まさか。たちの悪い冗談はおよしになって下さい……」
「あはは……」
男の笑い声が長くつづいた。たのしい笑いではなく、いやな笑いだった。それを
終わらせるには、亜矢子は悲鳴をあげ、受話器をおく以外になかった。やっとのこ
とでそれをやり、彼女は崩れるように床に倒れた。
それに気づいた夫の昭治は、彼女を抱きおこした。ブランデーを持ってきて飲ま
せ、ソファーに横たえた。
「おいおい、どうしたんだ。悲鳴をあげて倒れたりして。なんに驚いたのか知らな
いが、きみを通じてだと、驚きが増幅されて、こっちまでびくりとするぜ」
彼は気を落着かせようと、冗談めかして言った。亜矢子は何回か大きな呼吸をく
りかえし、ソファーの上で身を起こしながら言った。
「あたし、どうかしたのかしら」
「事情がわからないうちは、なんとも言いようがないよ。いったい、いまの電話、
だれからなんだい」
「だれからだとお思いになる……」
「わかるものか。だれなんだ」
「あなただって、きっとまさかとおっしゃるわ。前に事務所にいらっしゃった広川
さんからよ」
「まさか……」
昭治は言った。それごらんなさいと指摘するのも忘れ、亜矢子はあたりをこわご
わ見まわしながらふるえ声を出した。
「だって本当なのよ。たしかにあの人の声だったわ。それに、自分でもそうだと言
ってたのよ。それから笑ったわ」
「そんなばかなこと、あるわけがない。きみも知ってるじゃないか。あいつは四年
前に死んだのだ……」
広川というのは、昭治のつとめ先のナグ開発コンサルタント事務所にいた男。頭
は優秀でいい才能の持主でもあったが、社内での持てあまし者だった。無神経なと
ころがあり、協調性に欠けていたのだ。
会議などの席上、他人の意見に対してけちをつけずにいられない性格。広川はふ
とって背が低く、厚い唇をしていた。その口から軽蔑したような言葉をあびせられ
ると、だれもいやな気分になる。
こちらのアイデアの欠陥を告げてくれるのはありがたいが、広川は自己の能力を
誇りながらそれを言うのだ。冷静さは乱され、内心で反撥の炎が燃えあがってくる
。正面きってけんかがしにくいだけに、みなの反感は静かにひろがっていた。
広川をやめさせることができればいいのだが、仕事上での失敗はないのだ。それ
に大口の出資者のごきげんを取って信用をえているので、手も出せない。といって
、他の全員がやめるには、いささか惜しい職場でもあった。表面に伸びるのを押さ
えられた形のみなの不満と反感は、地下に根をひろげ、それは大きくなる一方だっ
たのだ。
そして、あの日になった。ある企業から依頼されたレジャー用モーターボートの
試作品が完成した。新しい推進法により、高速で航行するボート。これまでのとち
がい、波をほとんど立てず、揺れも少なく、音も出ない。氷上を滑るソリのような
感じなのだ。
それの担当が広川だった。彼が責任者となって指揮をとり、試運転までこぎつけ
たのだ。じまんげにそれに乗りこみ、沖へむかって進んでいった。そして、そのま
ま。
広川は二度と帰ってこなかった。出発後、二十四時間がたって届け出がなされ、
ヘリコプターが海上を捜索したが、ボートの姿は発見されなかった。遭難と推測さ
れ、事故として処理された。警察へ提出されたボートの設計図には、べつに不審な
点もなかったのだ。
広川は海に消えた。事務所にはなごやかさがよみがえり、能率はあがり、仕事は
順調に進み、業績も一段と発展した。みなの頭からは広川の印象がうすれていった
。思い出して楽しいものではなかったのだ。
「あいつは死んだんだ。きみだって知っているだろう」
昭治は亜矢子に言った。当時は彼女もそこにつとめており、結婚したのはその一
年ほどあとのことだった。亜矢子はうなずく。
「ええ、それは知ってるわ。でも、死体は発見できなかったんでしょ。だから、ど
こかに流れついて、生きていたとも……」
昭治は手を振って言う。
「死体は海へ沈んだのさ。万一、生きてどこかに流れついていたとしても、数年間
も連絡なしでは生活できないよ。むかしなら可能だったかもしれないが、情報の時
代だ。預金口座、クレジットカード、免許証、健康診断のデータ。それらなしでは
、なにひとつできないじゃないか」
「だけど、記憶喪失になっていて、いまになって記憶がもどったということも……
」
「記憶喪失という症状はいまもあるが、身元不明のままということはありえないよ
。指紋や身体の特徴で、コンピューターはあっというまに解決する。かりに解決で
きなかったとすれば、ニュースになるはずだが、そんなこともなかったじゃないか
」
「そうね」
亜矢子はその理屈だけはみとめ、またブランデーを飲んだ。しかし、なっとくし
た表情にはならなかった。昭治はグラスに残っていた緑のカクテルを飲みながら言
った。
「きみの気のせいさ。五月の気候は妙な想像力をかきたてるようだ」
「ちがうわよ。あれが気のせいだなんて。あの話しかた、特徴のある笑い声、あれ
は本当に広川さんだわ」
「じゃあ、だれかがからかったのさ。いたずらかなにかだろう」
「でも、広川さんの口調を知ってるのは、事務所の人ぐらいなものでしょう。事務
所の人で、そんないたずらをしたがる人、あるかしら」
「さあ、心当たりはないな……」
昭治は腕を組んだ。事務所の者にとって、だれも冗談にも広川を思い出したくな
い気分だった。彼は困った。亜矢子をムードでなだめることも、理屈で押さえるこ
ともできそうにない。彼は言った。
「あした出勤した時、それとなくだれかに聞いてみるよ。いま、あれこれ考えてみ
ても、なんの解決もえられない。睡眠薬を飲んで寝なさい。持ってきてあげる」
昭治は薬のびんを持ってきた。亜矢子のおびえ方が激しいので、薬の量をふやし
て与えた。彼女は水で飲み、ベッドに入った。時どき思い出したように、ふるえな
がら呼吸をくりかえしていたが、やがて亜矢子は眠りについた。
「なんということだ。妙ないたずらをするやつがいるものだ……」
昭治はつぶやき、ひとりでグラスを重ねた。広川のことを思い出すと不快になり
、飲まずにはいられなくなる。しかし、いずれにせよ、やつは死んでしまったのだ
。いいことだ。不良部分がなくなることは、組織体の生きる上にはいいことなのだ
。広川の死により企業は順調になり、世の進歩にもそれだけ多くつくせたというも
のだ。
やつがボートの試運転で沖へむかう時、おれは無電機の部分を受け持って製作し
た。内心むかむかしていたので、最終検査をいいかげんにやってしまった。昭治は
少し反省した。だが、その反省は少しだけにとどまった。あれが事故のもとになっ
たわけではないはずだ……。
追憶を中断するように、電話のベルが鳴りはじめた。起きているのは昭治だけで
、彼が出なければならなかった。さっきのいたずら電話がまたかかってきたのだろ
うか。そうだとすれば、文句のひとつも言ってやらねばならない。
「もしもし」
昭治は受話器をとりながら、そばのボタンを押した。録音装置が動きはじめ、会
話を記録する。後日の証拠の資料になる。
「やあ、しばらくだな。あはは……」
相手の声が言った。昭治はそれを聞き、自分の声がのどで止まるのを感じた。ま
さしく広川の声そのものだったのだ。しかし、勇気を出して問いかえす。
「どなたでしょうか」
「おれだよ、広川だよ」
「どちらの広川さんでしょう」
「おいおい、どちらのってことはないだろう。いっしょに仕事をしてた仲間にむか
って……」
会話をくりかえすうちに、昭治は肩のあたりをつめたい手でさわられたような気
がしてきた。やつの声だ。死んだはずの彼の声だ。昭治はさっき亜矢子をなだめた
ことなど忘れて、悲鳴をあげたくなった。声のふるえるのを押さえながら言う。
「どなたか知らないが、からかわないでくれ。広川なら死んだのだ。この世には存
在していないはずだ」
「それなら、おれはだれということになるんだ。自分では広川だと思ってるんだぜ
」
「悪質のいたずらでおどかそうとしたってだめだ。声の質を似せる装置のたぐいな
ら、開発されているとかいう話だからな。本当に広川なら、その証拠を示したらど
うだ」
昭治は自分をはげまして強く言った。ばけの皮をはいでやらねばならない。相手
は答えた。
「いつだったか、みなで旅行したことがあったろう。その時に酒を飲みすぎて、き
みはプールに落っこちた」
「その通りだが、そんなことなら、あの時いっしょに行った者はだれでも知ってい
る。ごまかされないぞ」
「じゃあ、べつな話をしよう。きみが奥さんと結婚する前のことだ。おれが亜矢子
さんになれなれしい行動をし、きみになぐられたことがあった。きみとおれしか知
らないことだ。みっともなくて他人に話せることじゃないものな」
「なるほど、たしかにそんなこともあった。しかし、ぼくたちが結婚したのは、広
川が死んだあとのことだ。きみが広川なら知らないはずだ」
と昭治は反撃をこころみた。
「ということはだね、おれは死んでないということになる。あはは……」
相手は笑い声をたてた。広川独特の笑い声。生きている時もいやな感じだったが
、死んでいるはずの当人の声だ。あの世から伝わって聞こえてくるのだろうか。亜
矢子が悲鳴をあげて倒れたのもむりはない。
昭治も倒れたくなるのをなんとかこらえた。好奇心だけが彼を支えていた。いっ
たいこれはどういうことなのだ。本当に亡霊からの電話なのか。彼の口は意志と無
関係に、勝手に声を出していた。
「なんの用なのだ」
「いや、なんとなくきみに話したくなってね。きみもおれに、なにか言うことがあ
るんじゃないのか。たとえば、だまっていたのでは気がとがめるといったことで…
…」
受話器から亡霊がいまにもあらわれそうだった。昭治の理性は乱れ、心は恐怖で
ゆさぶられ、一刻も早くこんなことからのがれたかった。彼は頭に浮かんだことを
言った。
「ボートの試運転の時、無電機の検査が不充分だったかもしれない。だが、それが
あの事故の原因となったわけじゃないだろう」
「あっはっは。そんなことか。いや、なるほど。あはは……」
笑い声はつづくのだった。昭治はがまんしきれなくなり、受話器をおいた。だが
、笑い声は依然としてあたりを飛びまわっているようだった。
彼はウイスキーのびんを出し、それを飲んだ。何杯飲んでも、広川の幻影を追い
払うことはできなかった。睡眠薬を飲む。なんとか眠りが訪れてきた時、電話のベ
ルが鳴る。それが本物なのか幻聴なのかたしかめるため、昭治はもうろうとした頭
でおきあがり、受話器をとる。
「もしもし」
「おれだよ、広川さ。これからそっちへ行こうか。いっしょに飲みたくなった」
「やめてくれ」
彼は受話器をおく。声というものはイメージを描く作用を持っている。広川の幻
影があたりに浮かびあがった。昭治はボタンを押し、電話のベルが鳴らぬようにし
た。自動録音装置をも切った。つぎの日にまたあの笑い声を聞きなおす気にもなら
ない。
彼は薬をもう一錠飲んだ。それから思い出し、ドアの鍵をたしかめた。死んだ広
川が、いまの電話の言葉どおり、訪れてくるのではないかとの恐怖を感じたのだ。
窓の鍵もたしかめる。亡霊としたら、どこから侵入してくるかわからないからだ
。あたりを調べまわっているうちに、急に薬がきいてきた。彼はソファーに倒れ、
そこで眠った。
だが、深い眠りではなかった。ベルの音が聞こえるようだし、広川の笑いつづけ
る幻がそばにいるようだ。彼はうめき、亜矢子の名を呼んだが、彼女も起きてはく
れない。悪夢がくりかえしくりかえし押しよせてきた。
つぎの日、昭治はおそく目ざめ、出勤した。彼にはめずらしく遅刻だった。会社
についても、薬のききめが残っているせいか、頭がぼんやりしていた。同僚の顔を
見ても、なんだかはっきりしないようだ。だれもかれも生気のないような表情に見
える。
昭治は昨夜の事件が気になってならない。自分ひとりの胸におさめておいては、
いつまでもこの状態のままだ。彼はとなりの席の同僚に話しかけた。
「じつはね、気分がすぐれないんだ。きのうの夜、わけのわからない、とんでもな
い電話があってね……」
どこから話していいかわからず、彼はまとまりもなくそう口をきった。すると、
同僚は言った。
「なんだ、きみもか。ぼくもいま、それを言おうと思っていたところなんだ。おか
げで、きのうの夜は眠るどころではなかったよ」
同僚の表情がぼんやりしていたのは、そのせいだったのか。昭治はふしぎがって
聞いた。
「なんだかよくわからないが、なにかあったのか。こっちの事件とはだね、死んだ
はずの広川から電話がかかってきたことなんだ。そっちもそうなのか」
「そうさ。広川からだ……」
広川という言葉は、事務所のなかに波紋のようにひろがっていた。ここは幹部ク
ラスの室。すなわち、広川を知っている者ばかりだった。だれかが言った。
「ぼくのところにも電話があったぜ。まさかと思ったが、なにしろやつにちがいな
い声さ。言うことも、やつでなくては知ってないはずのものだ。ぼくは一時的に錯
乱状態になってしまった」
「どんな話をした」
「亡霊にとりつかれたのかと思ったよ。前からちょっと気になっていたんだが、あ
の試運転の時に、燃料の配合をいいかげんにしたことをあやまっておいた……」
みなはそれぞれ、昨夜の恐怖を語った。そして、その話のなかから、いままでは
っきりしていなかった事故の原因がうかびあがってきた。各人の手抜きが重なりあ
って、あの事故が起こり、広川の死となったことが……。
ボートの設計に問題はなかったのだが、みなの内心における広川への反感が、そ
れぞれの受持ち部分で手を抜かせることになったのだ。計器のメーターの接触をい
いかげんにした者もあったし、船体のボルトの一本をゆるめた者もあった。昭治の
場合は無電機の点検をいいかげんにするという形だった。
べつに直接に申し合わせてやったわけではない。各人の日常の嫌悪感が、たまた
ま機会を得て偶然に一致した。しかし、結果は申し合わせてやったのと同じことに
なった。そして、広川は海へ消えたのだ。
沈黙がしばらくつづいた。顔をみあわせたあと、だれかが言った。
「おれたちがよってたかって、やつを海へ沈めてしまったことになるな。しめしあ
わせたことでなく、やつにちょっとした失敗をさせようとしてだ。殺意はなかった
にしろ、殺したことになるんじゃないのかな」
また沈黙がつづく。
「いや、やつの自業自得さ。みずからまねいた結果だよ。われわれにとっては、あ
くまで事故さ」
「しかし、法的にはどうなるのだろう。ただの事故ですむのだろうか」
「さあ……」
みなは眠り不足の顔をみあわせた。いままで考えもしなかった事実が公然となっ
たのだ。もちろん、肯定する者はいない。しかし、内心では良心がうずき、罪にお
ののいているのだった。
そばの机の上で、電話のベルが鳴った。だれもがびくりとする。昨夜以来、みな
ベルに敏感になっているのだ。しかし、得意先からのビジネスの連絡かもしれない