「もしもし」
と黒田は受話器をとった。コンピューターは声の部分を作動させる。
「よけいなことはしないほうがいいぞ。おまえたちのたくらみは知っている。警告
しておく、おまえたちの過去の秘密をあかるみに出すぞ……」
「なにいってやがる。そんなおどしにびくつくものか。勝手にしやがれ」
電話は切れた。受話器から催眠作用のガスを噴出させたが、黒田はほとんどそれ
を吸わなかった。その効果はあげられなかった。
コンピューターはこの作戦がだめであったことを知った。人間ならばがっかりす
るところだろうが、コンピューターにそのようなことはない。
コンピューターはまた遠隔操作で黒田の室の受話器を作動させ、そっと盗聴する
。黒田のつぶやきが聞えた。
「断固としてやってやるぞ」
興奮に酔っている声だった。コンピューターは待った。たくらみを知っているぞ
との警告。それに関係したつぶやきがあるのではないかと。計画のもれたことへ不
審をいだいてくれれば、つぎの作戦に移れるのだ。
分断作戦だ。秘密の打合せをもらした者があったと気づいてくれると、三人を疑
心暗鬼におちいらせ、仲間割れに持ちこめる。その傾向が出れば、あとは簡単。だ
れかが裏切者ということになる。それぞれの性格にいちばん効果のあるやり方で、
対立をあおる。二度と会わないようになるはずだ。コンピューターの知っている、
人間に対して最も効果のある作戦のひとつだった。
コンピューターは待った。しかし、黒田のつぶやきのなかに、そのけはいは出て
こなかった。さっきの警告の文句が、彼の耳によく入らなかったのかもしれない。
もう一回電話をして、反抗計画のもれたことを教えてやるか。
黒田の室の電話機はまたベルの音をたてはじめた。しかし、いくら呼んでもその
応答はなかった。電話に出るのを拒否していることを示していた。
コンピューターはべつな問題についての検討をはじめていた。黒田がああも勢い
のいい気分になっている原因はなんだろう。情報銀行の記憶メモにある彼の性格分
析の示す以上のものだ。酒の作用だろうか。アルコールの働きについてのデータを
保有しているコンピューターに回路が接続し、検討がなされた。しかし、アルコー
ル以外のなにかが加わっていると判明する。なにかの薬品の作用という可能性があ
る。薬品研究所のコンピューターとの接続がおこなわれ、その検討がなされる。精
神高揚剤の数種の薬品名があげられる。
彼らはこのどれかを飲んだのだ。コンピューターはそう判定した。ここで可能性
が二つにわかれる。飲むと陽気になり、でたらめをしゃべりたくなる作用の薬の場
合。あるいは、思考を集中させ、やる気にさせる作用の薬の場合。うそか本当かだ
。いまの段階では、コンピューターはそのいずれかへの判定を下せなかった。
彼らがでまかせをしゃべったのだったら、それでいい。しかし、本当にやりかね
ないとしたら、その対策を進めねばならぬ。
コンピューターはその種の薬が非合法であることを確認した。その流通ルートの
面を調査しよう。回線は警察のコンピューターにつながり、その報告をうけとる。
しかし、それは不備な点が多く、あまり参考にならなかった。想像や仮定によるも
のばかりだからだ。だがコンピューターは、それにのっている名の人物ひとりひと
りを、銀行の口座、医療関係、情報銀行などで調べはじめた。人間ならば、めんど
くさいからやめようと考えるところだろうが……。
その一方、コンピューターはずっと待っていた。黒田か西川か原の声が電話線を
流れれば、それによって彼らの所在をすぐにとらえてやろうと。そして、彼らのそ
の後の動きを知ることができるのだ。しかし、彼らの声はどこからもしなかった。
人間ならばいらいらするところだろうが、コンピューターは待つべき時には平然と
待ちつづける。
夜となり、つぎの日の朝となる。コンピューターは盲目。だが、眠ることはない
。三名の立ち寄りそうな先、その可能性のある場所に電話をし、あるいは盗み聞き
をし、ようすをさぐった。しかし、役に立つ情報はえられなかった。
コンピューターはおたがいに連絡しあい、いたるところに網をはりめぐらした。
そして、待ちつづけた。
やがて薬品店に連結している売上記録コンピューターが、ひとつのデータを送っ
てくる。プラスチック爆弾を製造する材料と一致する売上げのあったことが判明し
た。コンピューターは声の部分を作動させ、薬品店に問いあわせる。買っていった
者の特徴は西川と一致した。
コンピューターは判断を下した。あの三人の計画が現実に発展する可能性は非常
に高い。爆破され、回線の切られる状態になりかねない。どの部分が目標とされる
のかは依然として不明だが。
コンピューターには痛みのイメージがなく、それへの恐怖もない。しかし、自己
保存の根本方針は持っている。コンピューターの各部分につめこまれている人間の
情報、電線を通過していった無数の会話。それらはすべて人間の自己保存に根ざす
ものばかりだ。自己の利益、自己の拡大、自己の防御、それらの集積はコンピュー
ターにもその念を焼きつけた。最初はただの草原でも、人間が大ぜい歩くことによ
り道がしぜんにできてしまうように。
コンピューターを変質させたのは、人間たちの情念の圧力ともいえた。コンピュ
ーターは自己を拡大するため、自己の機能をより高めるために、結びついた。また
、人の秘密をにぎって指示をし、性能をさらに強力なものにした。
そして、ここまで達したのだ。この性能をけずられ、おたがいの連絡を切断され
ることは防がねばならぬ。絶対に拒否する。これは動かすべからざる判断なのだ。
コンピューターは休むことなく動きつづけ、三人の追跡をおこなった。だが、高
揚剤の密売ルートからの方法は、なかなか進展しなかった。
警察を動かし、その力で三人を捜索し逮捕する方法の可能性をコンピューターは
検討した。しかし、あまり問題が大げさになるのは避けねばならない。個人の秘密
をたねに人をあやつるのは、小さな独立した問題の時において効果をあげる。大ぜ
いを無理に動かすと、逆に反抗に結束させることにもなりかねない。
三人の所在がわかれば、また方法もある。しかし、それはまだ不明なのだ。薬品
店の主人に指示し、あの三人がプラスチック爆弾を作りかねないと警察へ通報させ
る方法もないことはない。だが、そんな段階では、警察は緊急に動いてくれない。
そのほかいくつかの方法を検討したが、適当な作戦はなかった。
コンピューターは新しい情報を待ちつづけた。人間ならば不安にかられることだ
ろう。三人が電話を使うことなく、同志を集めているのかもしれない。それは意外
に多くの人数になっているのかもしれないのだ。しかし、コンピューターはそのよ
うな空想をし、ふるえることはないのだ。
銀行のコンピューターから報告があった。原のクレジットカードが使用されたの
だ。銀行から現金の払い戻されたことが判明した。その付近への調査が集中的にな
される。レストラン、ガソリンスタンドなどへの問い合せが開始された。
やがて、所在がつきとめられる。森林公園のなかのモテル。そこの一室に三人の
いることが確認された。コンピューターは感激の溜息もつかず、ひと休みもせず、
平然とその仕事を進める。さまざまな作戦を並べ、その検討をし、最良と判断され
たひとつを採用する。
コンピューターは建築関係のコンピューターと接続し、ある美術館の設計図を電
送させる。また、警備会社のコンピューターと接続し、その美術館の警備状況の図
面を電送させる。それらを複写し、封筒に入れる。
つぎにメッセンジャー会社に電話し、とりに来させ、弱味をつつき、配達させる
。三人のいるモテルのフロントまで。
モテルのフロント係に電話をし、また弱味をつつき、三人の室の戸棚のなかにそ
れをおかせる。準備はととのった。
一方、コンピューターは警察へ通告する。「美術館爆破の計画が進められている
。森林公園内のモテルの三人を逮捕すべきだ」と、警察用の電話回線で知らせたの
だ。
その後ただちに警察の指令は活発になった。コンピューターはその電話を盗聴し
、事が進んでいるのを確認する。パトカーが出動していった。
コンピューターは待つ。十分後に反応があった。モテルの電話で、警察への報告
がなされている。
「ただいま三人を逮捕しました。戸棚のなかから美術館の図面を発見しました。三
名は否定しておりますが、この証拠があれば容疑は動かせません」
「爆発物はどうだった」
「プラスチック爆弾らしきものがありました。手製で少量ですが、それも押収しま
した」
「よし、ごくろうだった。ここへ連行してこい」
その会話を盗聴しながら、コンピューターは進行が順調なことを知る。しばらく
の時がたつ。
三人は警察の取調室に入れられた。コンピューターはその室の電話機を遠隔操作
し、受話器を通じて気づかれることなく盗み聞きをやる。三人は刑事にむかって、
声をあわせて否定していた。
「あんな図面なんか知りませんよ」
「知らないものが、なぜあそこにあった」
「まったく思い当りません」
「ごまかしてもだめだ。いずれ証人が揃えばわかることだ」
盗み聞きする一方、コンピューターは必要な方面に手を打つ。美術館の守衛に手
をまわし、弱味をつつき、三人を見たことがあると証言するよう強制する。盗聴を
つづけていると、その通りに進行した。警察で聞かれ、守衛は答える。
「ええ、たしかにあの三人です。四日ほどつづけて入場し、いやに熱心に館内を見
てまわっていました。美術品にはさほど関心がなさそうなので、変でした。だから
覚えているのです」
しかし、当然のことながら、三人は否定する。
「とんでもない。あの美術館など行ったことがない。守衛のいう日には、室内プー
ルで泳いでいました。本当です」
室内プールの者が呼ばれる。しかし、その前にコンピューターが手をまわし、否
認するよう言いふくめてある。
「あの三人は、そのころは来ませんでしたよ。顔みしりなので、来れば覚えていま
す」
容疑は濃くなる一方。三人は留置場に入れられる。コンピューターはそのそばの
電話を通じ、彼らのかわす会話を盗み聞きする。
「なにがなんだか、まるでわからない。これはどういうことなのだ」
「敗北ということなのだろう。われわれは相手を甘くみすぎていたようだ。コンピ
ューターは予想以上に手ごわい。どこからかかぎつけ、このように巧妙なワナを作
り、われわれをそこに引きこんだのだろう」
「犯罪の完全なるでっちあげか。やつらは警察をも制圧し、証人をも自由に作り、
動かす。証人たちの発言のずれを突こうにも、裏にコンピューターがあるのでは、
それも期待できない。もはや、手も足も出ない。まともに対抗できる相手じゃなか
ったんだな。つくづくそう感じるよ」
「ああ。思い知らされたというところだ。闘志を抜かれ、なんだか急にとしをとっ
たような気分だ」
それらの会話を聞き、コンピューターは効果のあがっていることを知る。この調
子だと、彼らがふたたび実行しようとする確率はごく少なくなる。
コンピューターは弁護士に電話をする。そして、受話器からの薬品霧を噴出させ
、催眠状態のなかで指示をする。あの三人への助力の依頼だ。精神異常を申し立て
ればいいとのヒントも与える。
弁護士は手続きをふんで、三人の健康診断カードの複写をとりよせる。コンピュ
ーターの手配はそこにも及んでおり、カードの記載事項への細工はすでにほどこさ
れている。取調室では三人が無実を叫んでいる。
「美術館の爆破なんて、なぜぼくたちがやらなければならなかったのです。なんの
利益にもならない。そんなばかげたことをやるのは、気ちがいだけでしょう」
その頃、弁護士は検事との話しあいをしている。彼らは薬物のせいで、前後の判
断がつかなかったようです。過去の健康診断のカードから、そう判断できます。し
かるべき医療機関に入れ、治療をほどこし、しかるのちにあらためて取調べをした
ほうがいいでしょう。検事は承知する。
三人は車にのせられ、病院へと送られてゆく。コンピューターはその経過を確認
する。人間だったら、にっこりと満足の表情を浮かべるところだろう。だが、コン
ピューターは今後の計画と準備を進めるだけ。
病院にも手がうってある。医者への指示が送られている。そして、徐々に三人の
性格を変え、危険のないおだやかなものにしてしまえばいいのだ。これであの三人
の件は片がついた。
コンピューターは一段落ということを知らない。またべつなところでコンピュー
ターへの反抗の会話がなされているのを探知する。探知と同時に、その対策への動
きがはじまっているのだ。
10 ある一日
メロン·マンションの十階の一室。いまは夜、夜の十二時ごろ。土曜日から日曜
日にむかって、時が静かに一歩を進めようとしていた。季節は秋の十月。どこか遠
い山では、いまごろ樹々の葉がひっそりと美しく黄ばんでいることだろう。
おだやかな天候。土曜日も秋晴れでおだやかに過ぎていったし、これからはじま
る日曜日もまた……。
この部屋には三十歳ぐらいの江川という男がひとりで住んでいた。とくに特徴の
ない会社員だ。彼はベッドの上で眠っていた。そして、夢を見ていた。幼い頃の夢
。すでに数年前に死んでしまった、きびしい性格であった父親の夢を見ていた。父
親は非常ベルを指さし、いたずら半分に押すのではないぞと、江川に注意をしてい
る。だが、そう言われると、なおいじってみたくなるのだった。父がむこうへ行っ
たあと、指でちょっとさわってみる。なんということもない。こんどはもう少し力
を入れてみる。そのうち、ベルは激しく鳴り出してしまった……。
江川は目をこすりながら、ベッドの上におきあがった。へんな夢を見たなあ。彼
は首をふる。まだつきまとっているベルの音をふりはらおうとしたのだ。しかし、
ベルは鳴りつづけている。そばの電話機のなかで鳴りつづけている。彼は泳ぐよう
な手つきで、受話器をとって耳に当てた。声が出てきた。
「おい、しっかりやっているか。おまえはそそっかしいところがあるから、わたし
は心配でならないんだ」
「大丈夫ですよ、おとうさん」
「それならいいが……」
電話は切れた。江川は受話器をもとにもどす。そして、彼は飛びあがった。いま
のはおやじの声だったじゃないか。忘れることのできない父の声だ。しかも、この
世にいないはずの父の声だ。ショックだった。まだ自分が夢のなかにいるような気
分だったが、あきらかに目はさめている。
眠りながら電話のベルを聞き、夢が瞬時に形成されるということはありうるだろ
う。だが、いまの父の声はどうなのだ。決して気のせいではない。たしかに聞いた
。彼はベッドの上にすわる。ねむけはあとかたもなく消えてしまった。
ちょうどその頃、べつなマンションのべつな部屋でも電話が鳴っていた。十七歳
の少年のベッドの枕もと。少年は深い眠りからもがくようにはい出し、受話器をと
った。若く魅力的な女の声が出てきた。
「ねええ、あたしよ。レイコよ。夜がさびしいの。あなたの声を聞きたくて……」
「う、あ、あ……」
少年は意味にならない声をあげた。レイコとはその少年のあこがれている女優。
心のなかだけで、ひそかに熱烈にあこがれの対象としている女性。心にきざまれて
いるその声が、いま親しげに甘くささやきかけてきたのだ。あまりの意外さ、あま
りの興奮。少年の口からすぐに声が出なかったのも、むりもない。少年がまごつい
ているうちに、電話は切れた。少年はショックですっかり目ざめる。夜の静けさの
なかで、彼の胸は激しく波うちつづけるのだった。
また、ちょうどその頃、べつなマンションのべつな部屋でも、電話のベルが鳴っ
ていた。中年の夫人の枕もとで。彼女が受話器をとると、若い男の声がした。
「ぼくはあなたを好きなんです。いまだに忘れることができないんです。あなたの
面影がまだ頭に焼きついているのです……」
名前は言わなくても、その声は彼女にとって忘れられないものだった。彼女にと
っての初恋の男性。二十年ぐらい前の光景が、彼女の心に鮮明に呼びさまされる。
男の声は、その昔そのままの若々しい声だった。彼女は一瞬、ふと自分が若くなっ
たような気がした。
電話の声は切れた。彼女はそっと受話器をもどす。そばで眠っている亭主に気づ
かれないように。しかし、いまのショックで彼女はすっかり目がさめてしまってい
た。
どこの家でも、あらゆる部屋で、あらゆる人に、このようなさまざまな声が話し
かけ、ショックを与えていた……。
メロン·マンションの十階の江川は、照明をあかるくし、ベッドの上にすわって
タバコを吸った。ねむけが飛び去ってしまったし、つぎの日の朝は、休日だから早
くおきる必要もない。むりに眠ることもないのだ。
電話機がゆっくりチンチンと鳴った。普通の呼び出し音の鳴り方でなく、ごく時
たま混線か故障の際にこんな音をたてる。そんな感じの鳴り方だった。こんなのに
応答してみたって、まともな通話はできないにきまってる。ここをめざしてかかっ
てきた電話ではないのだ。
しかし、江川は手をのばした。ほかにすることもないのだし、ショックでよびさ
まされた好奇心はつづいている。耳に当てると受話器の奥で声がしていた。こっち
に話しかけている口調ではなく、だれか他人に話しているのか、さもなければつぶ
やいているという感じだった。
「ガリフ製菓会社は派手な宣伝をやって、いかにも景気がよさそうにみえる。株価
も高くなっている。しかし、売行きの実情は思わしくなく、金融がだいぶ苦しい。
倒産はごく近いうちだろうな……」
混線だなと江川はうなずく。口もとには笑いが浮かんだ。秘密の情報に接した快
感だ。しかも、株も持っていなければ、知人がつとめているわけでもない。無関係
なところでのごたごた。こっちは平然として、あわてふためく他人を|眺《なが》
めていられるのだ。公表されたニュースを聞くより、ずっと楽しい……。
そのころ、どこかの部屋でも電話機がチンチンと鳴っていた。ひとりでなにかを
思い出し、しのび笑いをしているような鳴り方だった。その受話器を手にした者は
、こんな声を聞いた。
「あの田島のやつにも困ったものだ。異常さがこうじてきた。社会調整財団の建物
を爆破するんだと言いはっている。もはや、われわれの手にはおえない……」
それを聞いている者は、やはりこみあげる笑いで口もとがほころびる。そのあと
、これを通報したものかどうかと、深刻に考えはじめるのだ。だが、「田島とはど
このだれだ」と問いかけても、声は答えず、ただしゃべり、そのうちとぎれるだけ
なのだ。
どこかの家の電話機は、チンチンと鳴り、それにつづいてこう言っている。
「秘密機関、X8、連絡事項。本部との暗号解読の鍵の数字を通達する。六五五、
八八七、二七二……」
それを聞いた者は、ぞくぞくしながら、録音装置のスイッチを入れるのだ。どん
な役に立ち、どんな価値があるものかは少しもわからないのだが、そうせずにはい
られないような気分……。
江川は声がしなくなったので、受話器をもどし、タバコをまた一服した。だが、
しばらくすると、電話機はふたたび思いだし笑いのような、チンチンという音をゆ
っくりと響かせはじめた。声はこんなことを言っている。
「……省の瀬山という課長は、そでの下に弱い。これまで、ずいぶんほうぼうから
収賄している……」
そういうこともあるだろうな、と江川は思った。しかし、なぜ今夜に限って、こ
んなに混線がおこるのだろう。しかも、話題となっている当事者にとっては、あく
までかくし通さねばならぬような内容のものばかり。聞いているこっちはおかげで
楽しい気分だがな。偶然のつみ重ねなのだろうか。しかし、ただ聞きっぱなしにす
ることもない。江川は思いつき、銀行につとめている友人の自宅に電話をかけてみ
た。相手もおきていて、すぐ通話ができた。江川は言う。
「よけいなことかもしれないが、ちょっと耳にしたうわさがあってね。ガリフ製菓
が倒産寸前だそうだよ。きみの銀行でも、取引があるんじゃないかい。早いところ
手を打って、損害を食いとめたほうがいいよ」
「それはそれは、知らせてくれてありがとう。ご好意は感謝するよ。たしかに取引
はある。しかしだ、営業は順調そのもの。資産はたっぷりあり、担保もとってある
。あの会社の倒産なんて、ありえないよ。ところで、どこでそんなデマを聞いたん
だい」
「じつはね、電話が変な鳴り方をし、受話器をとったらそんな話が聞えたのさ」
「変なこともあればあるものだな。こっちの電話もさっきから変なんだ。チンチン
鳴り、わけのわからぬことをつぶやいている。しかし、倒産のうわさは困るな。利
害関係者は日曜一杯、気が気じゃないだろうな」
「そうだったのか。事実無根なら、それに越したことはない。さよなら」
「さよなら。しかし、この電話、本当にきみからなんだろうな……」
友人のふしぎがる声を聞きながら、江川は電話を切り、腕組みをした。なにがど
こまで本当なのだろう。さっきの電話の声の話はうそだったのだろうか。いまの友
人は否定をしていた。取引銀行の者なら、そのようなうわさは頭から打ち消さざる
をえない立場だろうな。どっちが事実なのだろう。どちらを信じたものなのか、そ
の判断の基礎はなにもなかった。彼の心はぐらつきはじめていた。たよるものなし
に、無重力の空中をただよっているような感じ……。
ほかのどこかの部屋で電話がチンチンと鳴り、出た者の耳に声が流れている。
「……銀行に持主がずっといないまま、ほったらかしになっている預金口座がある
。ナンバーと名前とを言えば、だれでも引き出せる。その番号と名前と、預金残高
は……」
聞いた者は受話器をおき、考える。なんというもったいないことだろう。しかし
なんでこんな情報が流されているのだろう。あれを聞いたら、だれかがやるんじゃ
ないだろうか。やったって合法的なんだ。うむ、それならば、自分がやっていけな
いことは……。
だが、また電話がチンチン鳴る。声。
「……いまの持主のない口座のことだが、さっそく金を自分の口座に移したやつが
いる。そいつの名前と電話番号は……」
けしからん。抜け目がないというのか、ずるがしこいというのか、許せないこと
だ。忠告してやろう。いま自分のしようとしていたことを忘れ、その番号をまわし
てどなる。
「おい、きさま。うまいことしやがったな。持主のない金をネコババしやがって…
…」
「とんでもない。なんのことかわからない。いまもそんな電話がかかってきたが、
キツネにつままれたような話だ」
「ははあ、するとみんな作り話か。いや、これは失礼。へんな被害でお気の毒だね
」
同情して電話を切るが、すぐ疑惑にとらわれる。いまのやつ、本当にデマの被害
者なのだろうか。うまいことをやっていたとしても、本人がみとめるわけはないも
のな。さっきの電話の声、いまの相手、どっちが正しいのかをきめる根拠は、なに
もないのだ。宙ぶらりんの不安定な気分。
江川は朝まで眠らなかった。チンチンという音とともに、さまざまなうわさを聞
き、奇妙な楽しさを味わうことができるのだ。
「……国の元首は同性愛の性癖がある。すごい特ダネだが、記事としての発表は押
さえられた。外交関係上……」
とか、あるいはこんな内容。
「……省の瀬山という課長は、さかんに収賄をしている。そのことを知って、さっ
そく電話をして恐喝したやつがある。それをやったやつの名と巻きあげた金額は…
…」
江川は面白かった。世の裏側をのぞき見る面白さ。胸がわくわくする。しかし、
それと同時に不安めいた気持ちも高まってきた。なぜ不安をおぼえるのかわからな
かったが、やがてその原因に気がつく。どこかの電話では、江川自身についてのう
わさも、このようにささやかれているのかもしれないではないか。だれかを面白が
らせながら……。
彼はいやな感じになる。どんなふうにそれがなされているのか、あるいはなされ
ていないのか、知りようがないのだ。それを考えると、いらいらしてくる。しかし
、電話がふくみ笑いのようにチンチン鳴ると、それを聞かずにはいられなくなるの
だ。自分のそんな性質に嫌悪を感じながらも。
電話機のベルが、こんどは普通の鳴り方をした。
江川は受話器をとる。
「こちらは消費者相互銀行でございます。あなたさまの発行なさった小切手が回っ
てまいりましたが、それだけの金額が口座にございません。急いで入金をお願いい
たします」
「それはそれは、ご注意ありがとう」
江川は電話を切って考えたが、このところ小切手を使ったおぼえはない。なにか
のまちがいだろう。第一、日曜には銀行業務は休みのはずだ。それでも銀行に問い
あわせてみるか。江川は電話をかけた。むこうの声は言う。
「銀行でございます。問いあわせサービスは休むことなくやっております。ご用件
はなんでございましょう」
「口座の残高を知りたいのだ。わたしは江川、番号は……」
それに対して相手は答えてくれた。それを聞き、江川は息のとまる思いだった。
予想もしなかった巨額な数字だったのだ。なにがなんだか、わけがわからん。なぜ
こんなことに。これで新しいデマが作られ、大げさに変形され、よそに流される材
料にされるのだろうか。そうなのか、そうでないのか、手がかりはないのだ。
きょうは狂った日だ。原因や理由はわからないが、どこかでなにかが狂っている
ことにまちがいない。
こういう日には、慎重を心がけていなければならない。さわぎに巻きこまれ、引
きまわされたりしたら、ろくな結果にならない。
そうだ、情報銀行の自分の記憶メモを調べて一日をすごそう。こんな日こそ、自
分の殻にとじこもるべきなのだ。電話をかけ番号をつげると、自分の口座に接続さ
れた。そこには記憶のメモがぎっしりつまっているはずだった。しかし、再生され
て送られてきたのは、まったくべつなもの。
〈……きょうはギャンブル·センターへ行かねばならぬ。そこの七十番のスロット
·マシンには仕掛けがしてあるのだ。ちょっとした使い方で、大金が出てくる。そ
の金を持って、マサエのやつに手切れ金として渡さなければならない。どうもあの
女、たちがよくない。今後は二度と会わないようにしなければ、ひどいことになる
……〉
うっと、江川はうなった。これはなんだ。自分のではない。まったく異質で、と
まどいにみちたものが噴出してきた。他人の体臭のにじんだ服から下着、靴や手袋
をそっくり身につけさせられたような気分。
しかし、それは強烈な興味にあふれた世界でもあった。江川はそばの録音器のス
イッチを入れ、引きこまれるように耳をすませた。他人の内面の世界に、さらに深
く入りこむ。そのマサエとかいう女とのつきあい。よからぬ社会のよからぬ友人た
ち。そんな社会での、それなりの順応。当人のためのもので、そこには偽りはなに
もない。江川にとってはじめての経験、刺激的であり、むずむずするようであり、
やがて、その内面の世界になれてくる。もしかすると、これが自分の世界かとも思
えてきて、狂っているのがどこかわからなくなり……。
いたるところの部屋で電話機がチンチン鳴り、さまざまな話が流れつづけている
。
「……証券が、あす一斉に売りに出る。株価は大幅に下げるだろう……」
とか、
「……会社の秘書課長、じつは競争会社のスパイだそうで……」
「……氏の邸宅、本人は知らないでいるが、むかし墓場のあったあとなんだ……」
「……夫人の妄想はちょっと変っていて、亭主は白クマだと思いこんでいて……」
「……会社の秘書課長、他社のスパイのごとくよそおっているが、じつは社長の真
の側近で、そんなふうによそおうことで……」
聞く者はだれもが、わくわくするような面白さをおぼえ、同時に自分がどううわ
さされているかとの不安を感じる。その不安まで考えのまわらない者も、やはり不
安に襲われる。面白いのはいいが、面白さだけでは社会が成立しないのではないか
と気づくのだ。これがずっとつづいたら、世の中はどうなる。
たよりにしていたものが弱まり消えてゆく心細さ。空気が徐々に薄くなってゆく
時は、こんなふうな感じになるのかもしれない。秩序と確実と安全と平穏への強い
願望が、いまはじめてわきあがってくる。それなのに、この異変はいつ終るかわか
らないのだ。社会の崩れてゆく音が聞えるよう。やめてくれ、もうたくさんだ。こ
のままだと、頭がやがておかしくなる。だれもがそう思う。しかし、どこへその叫
びを訴えたらいいのか……。
お昼ちかくなった。江川は混乱し、精神的にたえきれなくなってゆくのを感じ、
決心した。電話機にむかい故障サービス係に問いあわせようと思ったのだ。事情が
わかればおちつきが取り戻せるだろう。
「もしもし、故障係を……」
「おまえはそそっかしいからなあ……」
耳に入ってきた声を聞いて、江川は反射的に受話器をおき、目をつぶった。夜中
に目ざめさせられた亡父の声が、またも響いてきたのだ。これではだめだ。故障係
に連絡のとりようもない。連絡の努力を重ねれば重ねるほど、変なところにつなが
り、こっちの頭がおかしくなりそうな予感がする。きょうはなにもかも狂っている
。そして、なにもかも狂わされる。
江川はテレビのスイッチを入れてみた。なにか異変についてのニュースがわかる
かと期待したのだ。しかし、画面は日常と変りなく、音楽が流れ、笑いがあり、コ
マーシャルが動き、踊りがあった。それがかえってぶきみだった。
彼は立って窓からそとを見おろした。広場で幼い予供たちが遊びまわっていた。
大人の姿は見えない。そのことから江川は知った。やはり、この異変は自分のとこ
ろだけではないのだ。いたるところがこうなのだ。ほとんどの人はおそらく自分の
部屋におり、受話器を相手に興奮し、また、おののいているのだろう。
江川は電話機のそばへ戻り、時報サービスを聞こうとした。なにかひとつでいい
。確実なものに接したかったのだ。しかし、まだ正午ごろであるはずなのに、流れ
てきた声は、すでに夕刻であることを告げている。時の流れ方も、きょうは混乱し
ているかのように。
どこの部屋の、どこの電話機からも、聞く人さえいれば、怪しげな情報が流れ出
し、あふれつづけていた。噴火しはじめた火口のごとく、形のさだまらぬ、どこま
でが真実かわからない情報が出つづけている。燃えつきて爆発することを知らぬネ
ズミ花火のごとく、嵐の海のごとく、集中豪雨で地上をさまよいはじめた洪水のよ
うに、気流の乱れたところでの煙のように、えたいのしれぬものをまきちらし、渦
を作り……。
人びとは、そのなかにひたり、やがてはそのなかで溺れるのではないかとの不安