「……海はいいですね……大らかで、いつもそのままでそこにある……無限の満ち引きを繰り返して……全てを呑み込んでる……」
こうして大いなる海を眺めていると、自分の存在などちっぽけなものにしか思えない。もやもやと考えていることが馬鹿馬鹿しくなるほど、海は大きく、自分を包み込んでいる。嬉しいことも悲しいことも、全部ありのまま受け入れて、それでも尚穏やかにそこにある。
「……俺は……どうしたらいいのか分からなくなりました……どうしたいのかも……」
蓮見は呟いた。島に言うというよりも、海に向かって呟いていた。
「……あの人が分からない……」
海堂に拒絶された……昨夜はそうとしか思えなかった。それまではなんとなく好かれているんじゃないかと感じ、自分でも海堂の役に立ちたい、寄り添いたいと思いそう心がけてきた。けれど……海堂が望んでいるのはそんなことじゃない。そんな感情は不要だと、ぴしゃりと切り捨てられたようなものだった。ただの仕事、ただの使用人、お金だけの関係……それは余りにも殺伐として希薄な存在だと思った。海堂の考える家族とはそんなものなのか。それとも、あの言葉はただの欺瞞で、誰も信じない、誰も近付けない、それが海堂の本心なのか。優しく抱き締めてくれたのは……ただの見せかけだったのか……。
島は無言で蓮見の横顔を見つめると、おもむろに自分の黒いシャツのボタンを外しだした。驚く蓮見の傍らで、丁度胸の辺りが見えるよう、ぐいと襟を開く。
蓮見は息を呑んだ。
その鍛えられた胸の心臓に近いところに、丸い形の、つやつやと盛り上がった傷痕があった。その他にも切り傷のような痕が無数にあり、引き攣れたような桃色の皮膚で覆われ古い傷痕のように見えた。
「……し、島さん……それは……?」
「……昔の傷です。……この丸いのが、拳銃で撃たれた痕ですよ」
落ち着いた低音で島は淡々と言った。
「……俺は海堂さんに命を助けられたんです」
ライズ 18
「……昔の俺はいわゆる鉄砲玉でしたから……」
「鉄砲玉?」
「ええ……チンピラですよ。下っ端のヤクザです」
蓮見は驚いて島を見つめた。島は自分の胸の丸い傷痕を撫で、少しだけ苦笑した。
「敵対する組織の組長を狙った揚句に、情けない話、逆に俺が撃たれたんです」
若いようで老けているようにも見えるのはそういう過去があったからなのだろう。
「……撃たれた時周りの人間は関わり合いにあるのを恐れて誰も近寄ろうとはしませんでした。当り前ですよね、ヤクザ同士の殺し合いのとばっちりを受けるかもしれないんだから。……俺の身体からはどんどん血が流れ出して、手足が冷たく感じました。……死ぬかもしれないと覚悟を決めた時、たまたま通りかかった海堂さんが救急車を呼んでくれ、病院に付き添ってまでくれたんです……」
いつも無口な島だったが、今日は仕事ではないと思うのか訥々と語った。
「保険になんて入っていない俺の代わりに手術代も入院の費用も全部海堂さんが出してくれました。おまけに、組にも戻れない俺を屋敷に置いて、こうして仕事までくれたんですよ。……だから俺は……海堂さんには一生かかっても返せない恩があるんです……」
再びシャツのボタンを嵌め直しながら島は蓮見を見た。
「……蓮見さんは……海堂さんが好きなんですね?」
「えっ……」
蓮見はかーっと顔が熱くなるのを感じて慌てた。
「見ていれば分かりますよ。……それに海堂さんも憎からず思っている……」
島の何気ない一言に蓮見はさらに焦った。
「か、海堂さんが俺を……?」
島は頷いた。
「あなたが来てから、海堂さんはとても楽しそうです。以前よりずっと生き生きしている。今朝会った時はカフスをしていて蓮見さんに貰ったと言っていましたよ。あんな嬉しそうな海堂さんは初めて見ました」
「……でも……海堂さんは俺が傍にいても仕事としか思ってない……」
蓮見は頭を振って呟いた。
「あの人は俺を……きっと感情のない人形にしたいだけなんです……何でも言うことを聞いてただ黙って傍にいるだけの……」
「……あなたと海堂さんに何があったのか俺は知りませんが……」
島はそう前置きして蓮見の眼をじっと見つめた。
「……海堂さんが人を助けるのは、自分も救われたいからだと思います。人を助けても海堂さんには何の利益にもならない。金や時間を費やしてまで、誰かを助けるなんてことは普通じゃできないことです。そんなことに費やすなら、投資や貯蓄に回した方が余程いい。……本当は何かに縋りたい、誰かに愛されたい、そして守りたい……愛したい……ご自分では気付いていないかもしれないけれど、そういう意識が海堂さんの根底にはあると俺は思います。だから誰かを助ける、満たされない何かを埋めるために……」
「俺は……蓮見さん、あなたなら海堂さんの心のそういう何かを埋めることができるんじゃないかと思っていますが、違いますか?……」
島の顔は相変わらず表情が乏しかったがその声音に真剣なものを感じ、蓮見はその顔から眼を離すことができなかった。
島の言いたいことはなんとなく分かったが、果たして島が考えるように自分が海堂に好かれている、求められているとは蓮見には素直に思えなかった。求められているのは自分ではなく、自分の形をした人形なのだ。カフスだって、喜んだのは自分が贈ったことにではなく、誰かから贈られたことに対して喜んだのではないのか。だが、島の言うことに尤もだと頷けることもあった。海堂がなんで他人を助けるのか……今までそのことに思いをめぐらしたことはなく、自分が助けられた時にも単に奇特な人もいるものだと思ったくらいだった。確かに島の言う通り、人を助けるにはお金も時間も必要で、海堂の性格からしてそんな自分の得にならないことに関わるのは無駄だと合理的に考えている方が合っている。それなのに、「乗りかかった船だから」という単純な理由で助けたのは、その心のどこかに、何か求めていたり探したりしているものがあるに違いないからなのだ。
蓮見はふと、自分は人形でも構わないのかもしれない、と思った。人形のまま海堂の傍にいて、それで海堂の心が満たされるというのなら……借金を返すまでの間、もうあと1カ月もない僅かな期間……最初の頃と同じように、仕事だと、借金の為だと割り切って、自分の気持ちにさえ蓋をすればそれでいい。与えられる快楽だけを貪って、屋敷を出るその日まで、のうのうと安穏に暮らせばいいのだ。そうすれば、海堂も、そして俺も心穏やかに気楽になれる……。
蓮見は心の中で自分にそう言い聞かせた。
けれども、気楽にはなれなかった。
海堂の寂しげな背中が思い出され、なぜか心が痛み苦しかった。きみが欲しいと囁いた海堂の声が耳を離れなかった。酷いことをされ、自惚れるなとまで言われた。それなのに、そんなことよりもありがとうと言われ、優しく抱き締められたことが真っ先に思い浮かんで、余計に苦しくなった。
不意に熱いものが頬に零れた。泣くつもりもないのに、それは後から後から溢れだした。
島が無言でその胸に蓮見をそっと抱き締めた。
蓮見は溢れだすまま、ただ声を殺して泣いた。
その日、海堂と門脇が屋敷に帰ったのは深夜になってからだった。
蓮見はどうしようか迷ったが、結局は海堂の寝室で帰りを待っていた。気持ちの整理は未だに付かないままだった。
海堂は寝室に入ってくるとスーツを脱ぎながら、蓮見に言った。
「カジノの買い手が決まった。店の従業員も会員もそのまま引き継ぐことになったから一安心だ」
「……そうですか、良かったですね」
祝杯でもあげてきたのだろう、海堂からは仄かに酒の匂いがした。
海堂はあらかた服を脱ぐと、隣の脱衣所へ入っていった。しばらくして風呂を使う音に混じって、声が聞こえてきた。蓮見はどきりとした。それは前にも聞いたことのある海堂と門脇の会話だった。何を話しているかは分からなかった。
帰って来て風呂に入るのは問題ではない、ただ…… 自分が海堂の寝室にいることを知った上で一緒に入っているということが、蓮見には信じられなかった。確かに、帰ってきたのは一緒だし風呂は一つだけだから、たまたま一緒の時間帯に重なっただけということも考えられるが、それにしたって、自分なら気を遣って時間をずらすだろう。或いは地下のシャワーを使ってもいいのだ。それなのに……。
蓮見にはそれが、自分よりも門脇と一緒にいる方がいいのだとあからさまに言われているように思えた。
店のことやお金のことでなら門脇の方が役に立つのだから同行するのは当然だった。門脇の的確なアドバイスで海堂が判断したり決断するのも当然だった。けれど……自分が海堂と夜を共にするようになってからは、自分の知る限り海堂と門脇がそういう行為に及んだことはなかった。勿論、風呂に一緒に入ることもだ。蓮見はそれを、なんとなく好意的に解釈していた。自分に遠慮して、或いは操を立ててくれている……そんな風に漠然と思っていた。愛人ではないかと疑った蓮見にそれも門脇の仕事のうちだと海堂は言った。だから自分こそは海堂にとって特別な存在なのではないかと感じていたのだ。……だがそれは違った。門脇はやはり海堂の愛人なのだ。自分がこの屋敷に来る前から、そして出ていった後も……海堂の傍にいるのは門脇なのだ。
蓮見はいたたまれず寝室を抜け出し、海堂の部屋を通って自分の部屋に戻った。打ちひしがれた、重たい気持ちで自分のベッドに横になる。昼間泣いたせいか、涙は出てこなかった。この2日間で、なんだかいろんなことがありすぎた。心だけが空回りをして、頭も身体も追い付いていないような気がした。
この重い気持ちを何と言うか蓮見は分かっていた。……嫉妬だ。
どす黒い炎で炙られているような、じわじわとこみ上げる醜い感情。思えば当初からそうだったのだ。門脇に対してもやもやと感じていたものの正体は、嫉妬だった。自分が海堂と門脇の間に入ってしまったことに、罪悪感のようなものを感じていたことは確かだったが、それと同時に、ほんの少しの優越感と嫉妬もあったことは否めなかった。そのことに今更ながら気付いて、蓮見は呆然とした。
海堂に仕事として抱かれ、凄まじいまでの快楽を教えられ、漂うようにそれに溺れた。いつしか仕事を離れて海堂に全てを捧げ、受け入れ、そして惹かれていった。自分自身がまるで海堂の一部になったかのようで、しかしそれは大いなる喜びだった。……だが今、蓮見は海堂から人形であることを強いられ、さらには嫉妬に苛まれ、行き場のないもどかしい焦りの中に立たされていた。どうしたらいいのか、そして自分は何をしたいのか、頭が追い付いていない蓮見には考えることができなかった。ただぼうっと、眠るでもなくベッドに横たわり暗い部屋の天井を眺めるだけだった。こうしているだけでも、心の中は無性に苦しかった。答えのようなもの、気持ちの治まりが付かず、何の解決策も見いだせない状態は不安であり、また恐ろしくもあった。自分自身が自分ではないようなそんな頼りなさと居たたまれなさが蓮見に纏わりついて離れなかった。
暗い部屋の扉が開いて、廊下の灯りが一瞬部屋に差し込む。誰かがゆっくり入ってきた。
「……俺を待っていたんじゃなかったのか?」
静かな声で言ったのは海堂だった。蓮見は返事をしなかった。
「もう寝たのか?」
返事をしない蓮見の傍に立ち、顔を覗き込む気配がする。暗闇の中、黒い輪郭だけが見えた。
蓮見は両腕を伸ばした。海堂の頸に腕を回し、抱き寄せる。
「抱いて下さい……俺を……滅茶苦茶にして!」
何も考えられないのなら、考えなくていいように流されてしまいたかった。
海堂の唇に自分から吸い付いた。海堂が驚いたように息を呑むのが分かった。舌を差し入れ、海堂の口内を舐った。動かない海堂の舌を噛みつくように吸い、夢中で自分の舌を絡ませた。
ライズ 19
「ふん……今日はやけに大胆だな」
蓮見に圧し掛かりながら海堂は言った。
「何かあったのか?」
「……何も……積極的な方が好きなんでしょう?」
蓮見は手探りで海堂のパジャマのボタンを外しにかかった。暗い上に気ばかり焦り、そのせいかなかなかボタンが外せない。蓮見はもどかしくて苛々してきた。海堂は蓮見の手を止めると、その手を自分の唇に押し当てた。ゆっくりと指に舌を這わせてくる。ぞくり、と蓮見は震えた。暗がりの中海堂の表情は見えない。でもきっと俺を見ている。じっと、全てを見透かす澄んだ眼で。
蓮見はもう片方の手を海堂のズボンの中に潜り込ませた。まだ変化のない海堂の雄をパンツの上からなぞる。風呂あがりで少し湿ったそこを何度も柔らかく擦り立てるうちに、徐々に硬くなっていく。海堂は蓮見のパジャマのボタンを片手で呆気なく外して胸を露わにし、蓮見の指から唇を離して蓮見の首筋に顔を寄せた。少し伸びた髭がざらりと当たる。痛いようなその感触が蓮見の頸を撫で上げ、蓮見はさらにぞくりとした。どこをどうすれば蓮見が感じるのか海堂は知っている。知っていて海堂は焦らすような刺激を与えている。直接的ではない、それは曖昧で不確かとも言える螢火のような快感だった。
しかし蓮見は、もっと激しい、何もかも忘れてしまうほどの快楽が欲しかった。この手の中にある硬く熱い楔で、自分を千々に切り裂いてほしいと思った。
「……早く……」
顔が見えないのをいいことに蓮見は強請っていた。海堂が耳の傍で苦笑する気配がした。
「……まだだ」
そう言うと海堂は蓮見の横に身体をずらし、逆に蓮見を自分の上に持ちあげた。
「下を脱いで尻をこっちに向けろ」
蓮見は海堂に膝立ちで跨るような格好でズボンと下着を脱いだ。そうして後ろ向きになり尻を突き出すようにしながら、海堂の勃ち上がった肉茎を窮屈なパンツから解放する。海堂は蓮見の尻肉を両手で拡げ、その中心に舌を伸ばした。びくん、と蓮見の身体が大きく揺れる。そんなところを舐められたのは初めてだった。明るいところではとても恥ずかしくて耐えられそうにない気がしたが、今は顔すら分からない闇の中だ。初めて味わう感覚に戸惑いながらも、そくそくと背筋を昇ってくる快感に思わず仰け反りそうになりながら、蓮見は海堂の肉茎に唇を付けた。温かく湿った舌は、襞を伸ばすかのように執拗に蠢いた。時折奥の方へ入って来ようとしたり、大きな音を立てて吸われたりもした。蓮見は海堂の屹立を呑み込みながらその何とも言い表せない快感に身悶えた。
解れたのを見計らって、海堂が言った。
「上に乗って自分の好きなように動いてみろ」
海堂に跨って片手を屹立に添え、蓮見はゆっくりと腰を落とした。充分すぎるほど唾液を塗された蓮見のそこは、ひくひくと小さく震えながら硬く熱い肉棒を食んでいった。息を吐いてきつい圧迫を逃しながら、根元まで咥え込んでもう一度大きな吐息をつく。狭い器官を拡げられ熱い塊で満たされる……ふつふつと身体じゅうの血が沸騰していくような感覚に、蓮見の頭は既に霞み、意識は交わった接点にのみ集中していった。
腰を上げ、落とす。海堂の張った雁が内側を強く擦る。もっとそこに刺激が欲しくて蓮見はぐりぐりと腰を押し付けた。一番感じるところにそれが当る。
「はあっ!」
蓮見は大きく喘いでそこをさらに擦り付けた。海堂の表情は見えないが、時折腰を浮かし、蓮見の奥を突き上げる。その手が既にいきり立っていた蓮見の肉茎を握り込んだ。
「やっ!…… んっ……」
思わず仰け反っていやいやと頭を振った。奥まった前立腺への刺激はペニスそのものへの刺激よりも射精感を早め昂ぶらせる。そこに前への刺激を加えられれば、否応なく激しい快感が怒涛のように押し寄せ、あっという間に高みへと追いやられてしまう。
「一度達っておけ」
海堂の声に、全身が熱くなった。ぶるりと身を大きく震わせて、蓮見は放出した。どくどくと脈打ちながら、それは白い粘液を強かに吐き出して尚も扱かれた。下半身が溶けてしまったような感覚を味わいながら、引き締まった海堂の腹筋に触れる。見えなかったが蓮見の精液はそこらじゅうに散り、触れた腹筋にもぬるりとした感触があった。蓮見はそれを腹筋に塗り込めるように指で伸ばした。何も考えてはいなかったが、海堂を自分のものにしたいという思いがそこに込められているような所作だった。
海堂が半身を起こした。抱き締めながらそっと蓮見の背中をベッドに下ろし、体勢を入れ替えて今度は海堂が上になる。体内を穿つ角度が変わり、蓮見は小さく声を上げた。
海堂は蓮見の片脚を曲げ覆い被さるようにして突いてきた。蓮見が上になっていた時よりも強く激しい刺激が矢継ぎ早に送り込まれる。
「あっ!ああ!」
蓮見は突き上げられる快感に喘ぎ続けた。
狭い器官は海堂の形を覚え、その大きさにしっくりと順応して収縮を繰り返す。ぴたりと嵌めこまれ擦り立てられて、激しくも熱い快楽に翻弄されながら、その繋がった部分だけが、肉体の交わりだけが、海堂と自分とを結びつけているのだと蓮見は思った。蓮見の身体は海堂によって開かれ、全てが海堂のものだった。海堂しか知らないし、また海堂以外欲しいとも思わなかった。しかしきっと海堂の方は違うのだ。蓮見を特別な存在だとは感じていない。誰とも同じで、それ以上でもそれ以下でもなく、単なる性的な対象の一人にしか過ぎない。この力強い抽挿も、時折激しく吸われる口付けも、愛情の度合いを表すのではなく性的欲求を満たす為の一つの手順に過ぎないのだ。そういうことを考えたくなくて自分から抱いてくれと願った筈なのに、肉体を苛む快楽とは裏腹に、蓮見は堪らなく悲しく苦しくなってきた。それなのに自分は海堂の肩にしがみつき、激しく揺さぶられ、女のように喘いでいる。悲しくて堪らないのに、喜んで腰を振っているようにしか見えない。現に肉体は悦楽に溺れ、海堂を奥深く咥え込んでうち震えている。胸の中は苦しみで溢れかえっているのに……。
抽挿は激しさを増し、蓮見の中で膨れ上がった海堂は熱い飛沫を解き放った。荒い呼吸の下で蓮見は奥深く震えながらそれを受け止める。
ぬるりと海堂は蓮見の中から出て、べたついた身体がすっと離れた。ベッドから立ち上がる気配がして、すぐに部屋の電気が点けられた。蓮見は咄嗟に腕で顔を隠した。見られたくない……どんな顔をして海堂と眼を合わせたらいいのか分からなかった。海堂はティッシュの箱を持ちベッドに戻ってきた。蓮見が顔を覆っているのを眩しさのせいだと思ったのか、何も言わず自分の身体を拭ってから蓮見の身体も拭いた。それでも顔を見せようとしない蓮見に、ようやく何か気付いたのだろう、海堂はいきなり蓮見の腕を掴んでそこから外した。
「いや!」
顔を背けた蓮見の目尻からうっすらと涙が零れたのを見止め、海堂は一瞬驚き、それから尋ねた。
「潤……どうした?何があった?」
蓮見は無言で頭を振った。自分の心の中まで覗き込まれそうで海堂に見つめられるのが怖かった。
「何もない訳がないだろう?なんで泣いている?」
尚も聞かれたが、蓮見にはその理由は言えなかった。言ってしまって、また拒絶されるのは嫌だった。しつこいと思われて嫌われるかもしれないとも思った。言っても自分が海堂の特別になれるとも思えなかった。それならば、黙っていた方がいい。このままずっと……。
海堂に腕を押さえられ、仕方なく蓮見は背けた顔を枕に押し付けて涙を拭った。
「……泣いてない……」
強がってみても声は震えていた。こんな泣いてばかりいるような弱虫じゃなかった筈なのに……蓮見は自分が女々しく思え情けなかった。それに、こんなんじゃ海堂に余計不審がられるに決まっている。いや、もしかしたら呆れているかもしれない……。
海堂は少し困惑したような表情で蓮見の腕を掴んだ手を離した。ベッドに腰を下ろし、蓮見の背けた顔を両手で挟んでぐいと自分の方に向けた。
「……なんで何も言おうとしない?……不満があるなら言え。俺にも言えないようなことなのか?」
じっと眼を覗き込まれた。
「……俺はきみの主だ。この屋敷にいる間は、きみは俺のものだ。……そうじゃないのか?」
「……はい……その……通りです……」
蓮見は小さく答えた。
「だったらちゃんと言いたいことを言ってみろ。……俺に隠し事はするんじゃない」
「……だから……何でもない……です」
「嘘を吐くな」
海堂はぴしゃりと言った。
「何でもないのにきみは泣くのか?」
そうして海堂は蓮見の目尻の辺りをゆっくりと親指の腹で撫でた。柔らかく慈しむような仕種だった。
「……何でもないのに……そんな哀しそうな顔をするのか……?」
そう言った海堂の方が蓮見には哀しげに見えた。なんで海堂までが哀しそうな顔をするのか……俺のせいだ……俺が余計な心配をかけてしまっているばかりに……。
蓮見は胸を衝かれ堪らなくなって身を起こし海堂の頸に縋りついた。海堂は蓮見を腕の中に強く抱き締めた。
「怜司さん……」
……あなたを愛しています……蓮見は心の中でそう叫んだ。
言えない言葉、あってはならない想い、苦しくて張り裂けそうな胸の痛み……それらに押し潰されそうになりながら、蓮見は心の中で何度も叫んでいた。
……愛しています、怜司さん……
海堂の腕の強さと温もりだけが、今の蓮見には拠り所のように思えた。
ライズ 20
「きみは……昔の俺に似ている……」
海堂は蓮見を胸に抱いたままで呟いた。
「……泣き虫で弱弱しく、抗うことを知らなかった。……運命を呪い、嘆くだけでそれを変えようともしなかった……」
呟きながら蓮見の髪をそっと撫でた。
「……ホームレスの恰好をしていたのを覚えているだろう?あれは、一時期本当に浮浪者になっていたことがあってな……浮浪者と言うより浮浪児だな、まだ小学生の頃だ。……親がいないことで酷く苛められて、学校を抜け出してそのまま街をうろついた。施設にも帰りたくなくてこのままどこかで死んでもいいと思った。……その時にあの公園でホームレスに会った。昔はあの公園、ホームレスがたくさんいたんだ。……腹をすかせた俺におじさんはおにぎりをくれた、丁度きみと出会った時のように」
海堂はゆっくりと言葉を続けた。
「……そのおじさんは優しかった。俺と同じくらいの息子がいると言っていた。俺はおじさんの仕事を手伝いながら一緒に暮らし始めた。おじさんは周りには自分の子供だと俺を紹介した。……だがしばらくして、俺がいない間に、公園に取り締まりが入って立ち退きに遭った。おじさんとはそれっきり会えずじまいになってしまった。……おじさんに礼も言ってなかったから、それでまああんな格好をしてたまにあそこの公園に行ってたんだがな……いつかまた会えるんじゃないかと思って」
それからふと苦笑した。
「……こんな話をしたのはきみが初めてだ。……俺の昔の話なんか聞いてもつまらないだろうからな」
蓮見は大きく頭を振った。そういう話を自分にだけ聞かせてくれたことが嬉しく、なんとなく海堂にほんの少しだけ近付けたような気がしていた。
海堂は蓮見の頭を撫でながら、ぽつりと言った。
「……今は何でも手に入る。……だが……本当に欲しいものは永遠に手に入らないのかもしれない……」
「……本当に欲しいもの……?……それは何ですか?」
蓮見の問いに、海堂は薄く笑った。
「さあな。……俺にもよく分からない」
日々は淡々と過ぎていった。門脇や島、それに山本を始めとする使用人たちも、何の変化もなくごく普通に生活を共にし、海堂もまた変わらずに蓮見に接した。蓮見はかなり葛藤しながらも自分の気持ちを封印し、表面上は穏やかに過ごした。そして海堂が言っていた本当に欲しいものが何なのか、ことある毎に考えた。海堂自身にも分からないことが自分に分かるとも思えなかったが、蓮見は考えずにはいられなかった。
海堂が欲しいもの……お金で買えるものならとっくに買っているだろう。だからそれは買えないものに違いなかった。それに海堂には足りないものは無いように見える。家もある、名声もある、湯水のように使えるお金もある。だが不足しているものが一つだけあった。それは肉親の情や誰かを愛したり愛されたりする気持ちだ。形もなく、眼にも見えないし、勿論お金で買うこともできない。ホームレスのおじさんにもう一度会いたいと思うのも、単に礼を言う為だけなのではないと思った。おじさんからまるで本当の親子のような愛情を感じ、大人になってからもそれが忘れられないのではないだろうか。海堂は自分では気が付いていないだけで、本当はそういう愛情を求めているのだ。島が言うように、誰かを助けることはそういう気持ちを模索し探していることの表れなのだ。もしかしたら、海堂は人を愛するということがどういうものなのか知らないだけなのかもしれない。愛された記憶がそのおじさんとの短い生活にしか無かったとすれば、あり得ないことではなかった。愛し方を知らない……それは誰から教えられるものではなく、小さい頃からの生活の中で自然に覚えるものなのだろう。親や兄弟、学校の友達、先生、そういった自分を取り巻く人間関係の中で培われていくものなのだ。けれど海堂のように、幼い頃から孤独を感じて生きてきた者にはそれが分からない。そういったものが欠落し、希薄な関係になってしまうに違いない。つまり……何もかもお金で解決してしまうようなそんな関係だ。だから海堂は使用人たちを家族だと称したのかもしれない。そういう関係しか知らないから……。だが、一縷の希望と言うのか、差し込む一条の光と言うのか、そういう兆しが確かに海堂には存在する。ホームレスのおじさんとの間に感じたもの、それが海堂にとって唯一の肉親の情とも感じられたものならば……たとえ今は感じていなくても、その経験が海堂の心に温かいものをもたらしてくれるような気がした。そしていつの日か気付くのだ、それが人を愛する気持ちなのだと……。
その相手は自分でなくてもいい、と蓮見は思った。海堂がそういう心に気付き、愛する人と共に生きていこうとするのなら……。それは門脇かもしれない、まだ出会っていない人なのかもしれない……相手が誰にせよ、海堂が本当に手に入れたいと希うもの……『愛する心』を手に入れ、幸せになれるのなら……俺は喜んでこの屋敷を出ていく。他人に戻って、海堂のことは忘れてこれからの人生を歩いていく。……きっとそれが一番いい未来なのだ……。
そしてとうとうその日はやってきた。
蓮見の借金はあと100万、正確に言えば給料で充てた分を入れて80万を残すのみとなった。実際にはもっと細かい端数が付いている筈だったし、その日までの日数分の利息を考えるともっと膨らんでいてもおかしくなかったが、海堂は最初に交わした契約書でもきっかり5千万と明記しており、それ以上蓮見に返済を強いることは一切なかった。
その日も、蓮見はそれまでの毎日と同じように海堂の傍らで海堂に頼まれた仕事を黙々とこなした。海堂も勿論蓮見の借金がその日で消えるということは知っていたが、いつも通り蓮見に仕事を言い付けた。何の特別なこともなく、借金のことを話題にするでもなく、時は止まることもなく誰の上にも等しく刻み続けて、やがて夜になった。
蓮見は風呂で特に念入りに身体を洗った。最後には冷たい水を被り、まさに禊のように身を清めた。それはある意味、蓮見の決心を固める為のものだった。今夜は何があっても、何を言われても絶対に泣かない、にっこり笑って過ごすんだ、そして、海堂には心からお礼を言おう、蓮見はそう固く心に決めていた。
脱衣所から海堂の寝室へと入った。枕元の小さな洋燈だけが点いていて、海堂はまだ隣の部屋にいるようだった。
蓮見は一糸纏わぬ全裸で海堂のベッドに横になり、眼を閉じた。それまでの出来事が脳裏に浮かんでくる。……公園で初めて海堂に会った時のこと、借金を肩代わりすると言われて驚いたこと、海堂の世話係になったこと、海堂に抱かれ、いつの間にか強く惹かれていった自分……。その想いは今も蓮見の中にあった。自ら封印し、胸の奥底に押し込めてきた。苦しくてもどかしい日々……それもこれも……今日で終わる。……明日からは……海堂のことは忘れて生きていく。…… これでいい、これでまた全ては元通り……俺は海堂と出会う前の自分に戻り、海堂も俺を拾う前に戻るだけなのだ……。
ドアが開き海堂が寝室に入ってきた。ベッドで後ろ向きに横になっている蓮見の隣に入り、後ろからその肩を抱き寄せた。蓮見が裸でいることに少し驚いた様子だったが、そのすべすべとした肩を撫で首筋に唇を押し当てた。手慣れた愛撫、知り尽くした身体……それなのに、蓮見は最初の時と同じように胸がざわめき慄くような感覚を味わった。いつもそうだった。何度抱かれてもそれは蓮見の中に押し寄せてきた。快楽に絡め取られるまでの間、期待と不安の入り混じった焦りにも似た気持ちが続くのだ。
海堂の唇が背骨を伝ってゆっくりと降りていく。ぞくぞくする感覚が腰から昇ってくる。その腰を柔らかく撫でられ、ぶるっと身体が震えた。
鼓動は高まり、身体が熱くなる。海堂の掌と指、そして唇が触れたところから、甘い痺れが全身へと広がっていく。
ゆっくりと背中を降りていった海堂の唇は、尾てい骨の辺りで留まって、そこを舐った。くすぐるような舌の動きに、堪らず蓮見の腰が引ける。海堂はその腰を撫でていた掌をそのまま前へ回し、蓮見の雄へと伸ばした。半ば勃ち上がりかけていたそれにやわやわとした刺激を与える。そうして舌は双丘の狭間へと向かう。少し開いた脚の間、濡れた熱い舌は窄まりの周囲を撫でるようにさまよった。今にもマグマのような中心へ捩じ込んできそうなのに、そこになかなか触れてこない。もどかしく焦らされて、蓮見はつい自らの手でその肉丘を拡げた。ひくひくと震える小さなアヌスを海堂の眼前に晒し、強請るように腰を突き出した。そこでようやく海堂の舌がそこを抉った。舌先がドリルのように蓮見の中へ入ってくる。襞を伸ばすように執拗に舐られ、えも言われぬ快感がそこからじわじわと押し寄せてきて、既に完全に勃起した蓮見の雄芯からは透明な粘液が滴り、海堂の指を濡らした。
二人の間に言葉はなかった。そう言えば、抱いて下さいとも言わなかった、と蓮見はふと思った。それなのに、海堂は俺を抱いている。何も言わずに優しくも意地悪な愛撫を浴びせてくる。
……海堂も、これが最後だと思っているのだ……。
決めた筈の心が揺れていた。
最後なのだ……そう思った途端に、蓮見は泣きそうになっている自分に気が付いた。
気が狂いそうな快楽を教え込まれた身体は、もうそれを忘れることなどできない気がした。海堂の愛撫とそれに続く交わりを、俺は忘れて生きていけるのか。この温かく力強い腕の中から出て、俺は一人で歩いていけるのか。そして何よりも……海堂の孤独をそのままにして出ていってもいいのか……愛する人を独り置き去りにして……。
海堂が後ろから貫いた。
熱い塊に内側から圧迫される。しかし海堂はすぐに動こうとはしなかった。
海堂の掌が胸や腹を撫で、その温かい心地よさに陶然としながらも、蓮見はなんとなくその温もりが何かを伝えているような気がしてならなかった。じっと中で動かずにいることもそうだ。何かを訴えたがっている……そんな風に思いながら蓮見は海堂に抱き締められるままその重なった胸の鼓動を背中に感じていた。
ライズ 21
胸を撫でる海堂の手に蓮見は自分の手を重ねた。自分のより大きくて少しだけ温かい手。
……言ってほしい……言いたいことがあるのなら……。
しかし何も言わないまま海堂は蓮見の耳朶に口付けた。甘く噛まれて、蓮見は小さく喘ぐ。
蓮見の中の海堂は熱く脈打っている。溢れんばかりの生命の証が滾っている。なのにそれは蓮見の奥底へ埋め込まれ微動だにしない。何も言おうとしない海堂と一緒だった。
蓮見は海堂に貫かれているだけで身体じゅうが熱くなり、激しく動かなくても充分快感ではあったが、海堂の方はそうではないだろう。ただそこに納まっただけでは何も感じない。蓮見はそう考えてほんの僅か、腰を揺らした。内壁と雄芯とが擦れ、それは思った以上の快感を呼び起こした。海堂のせつなく熱っぽい吐息を耳元に感じた瞬間、蓮見はもう堪らずに腰を動かしていた。ぐりぐりと海堂に押し付けては引き、自ら感じるままに我を忘れて動いた。後ろ手に伸ばした手で海堂の腰を掴み、もっと、と強請った。
ようやく海堂が動き出した。力強い抽挿を繰り出してくる。その度に、淫らな濡れた音と、蓮見の喘ぎが部屋に響いた。
海堂は繋がったまま身体を起こすと膝立ちのような形で真横から穿った。蓮見の片脚を抱え上げる。
「あっ……嫌!……」
蓮見は思わず声を上げた。繋がった部分が海堂に丸見えだった。海堂を下の口一杯に浅ましく頬張っている姿など、見られたくはなかった。だが海堂はそのままの格好で、蓮見の中へ見え隠れする己の肉茎と、捩じ込まれる度に震えながら締まる蓮見の肉襞の動きを凝視するようにじっと眺めていた。恥ずかしさと快感に蓮見は身を捩り、顔を背ける。
薄い橙色の洋燈が、蓮見の上気した肌を妖しく彩って艶めかしい。
海堂がゆっくりと蓮見の片脚を下ろし、蓮見に被さってきた。背けた顔を向けさせられる。
じっと射るような眼で見つめられ、そして一瞬後には激しく唇を吸われた。呼吸も唾液も何もかも吸われてしまうような熱い口付けにめまいがする。
……全部、奪ってくれて構わないから……
絶え間なく湧き起こる快楽の狭間で、蓮見は思った。
それは祈りにも似た強い思いだった。
……俺を忘れないで……
激しくも儚い散華は二度三度と続いた。しかし達した身体はすぐにまた熱を帯びる。
蓮見は快楽を求めると言うよりも、ただ海堂と離れたくなかった。
この夜の終わりと共に全ては終わる。それまでは、ずっと離れたくないと思った。
精も根も尽き果て、肉体は悲鳴を上げそうなほどに消耗していた。それなのに眠ることもなく、ただひたすら抱き合った。粘膜を擦られる感覚はとっくに麻痺していたが、それでも繋がっていたかった。相変わらず無言のままの海堂の思いは分からなかったが、蓮見が強請れば何度でも抱き締め、口付けをくれた。蓮見の奥を充溢して力強く揺すり上げた。何度も何度も……。