そうして、夜明けが来る。
カーテンの隙間から、仄白い明るさがぼんやりと部屋に差し込んでくる。
短い微睡みを貪っていた蓮見の瞼に、海堂は口付けた。
ゆっくり眼を開けると、海堂は蓮見を見つめたまま、ようやく口を開いた。
「……借金はこれで無くなった。……きみはもう自由だ。……どこへでも、好きな所へ行くがいい……」
少し掠れたような声だった。
「今日までの日割の給料ときみが預けていた先月分の給料の残りで、当面は暮らしていける筈だ。きみの部屋にある洋服も気に入ったものがあったら持っていけ」
表情は変わらないように思えたが、その掠れた声は苦しげにも聞こえた。
蓮見は海堂の頬に手を伸ばした。
忘れたいと思い……心に焼きついて離れない清冽な瞳、引き締まった口元……。
確かめるようにそっと触れ、そうして……蓮見は微笑んだ。
「……今まで……ありがとうございました……」
海堂が一瞬息を呑んだのが分かった。
「……怜司さんに出会えて良かった……」
蓮見の言葉に、海堂はさらに驚いたように瞠目した。
「……潤……きみは……金の為に俺に抱かれた、そうだろう?……」
海堂を見つめ、蓮見は頷いた。
「……最初は……そうでした。あなたに抱かれればその度に借金が減る……だから諦めにも似た気持ちで身体を開いた……」
海堂はふっと首を振った。
「だったら何故、そんなことを言う?……会えて良かったなどと……」
蓮見はもう一度微笑んだ。……俺は泣かない。泣きたくなったら……その度に笑うんだ。
「……怜司さんは俺をビジネスでしか抱けない……それは分かっていました。単に借金を減らす為だけの交わりでしかないんだと……」
奥歯を噛みしめたのか触れている海堂の頬が強張る。
「……だけど……俺は……」
蓮見は海堂の唇に触れた。
何もかも、愛しかった。
苦しげな声も、張り詰めた表情も、少し伸びた髭も、薄い唇も、そして激しい口付けも、意外なほど優しい愛撫も……何もかも。
拒絶されることをずっと怖れていた。だが今は拒絶されてもいい。むしろ、冷たく強く拒絶された方がずっといい、そうすれば、後ろを振り返らずにこの屋敷を出ていける。
「……あなたを愛してしまった……」
顔は微笑んでいるのに、声は震えた。
「……あなたに言われたように、余計なことは考えないようにしようと……人形のようでいようと思いました。……でも俺は……あなたのことを考えない日はありませんでした。……あなたに抱かれ、気が狂いそうな快楽の最中でも……俺はあなただけを見て、あなただけを感じていました。……苦しかった……あなたに拒絶されるのが嫌で、自分の気持ちを押し殺すのはすごく辛かった……。でも今やっと、こうしてあなたに俺の想いを伝えることができた……それだけでもう充分です」
蓮見は海堂の唇から指を離し、ベッドから身を起こした。
少しふらついたがゆっくりと立ち上がり、前だけを見て毅然と背筋を正した。
「……さようなら、怜司さん……」
背中を向けたままで、蓮見は言った。
「もう二度と……あなたに会うことはないでしょう……」
「……俺を一人にするな……そう言ったら、きみは傍にいてくれるのか?」
寝室を出ようとした蓮見の足が止まる。
その背中を追いかけるように、海堂の声が響いた。
「……さんざん酷いことをした、傷付けるようなことも言った俺に……それでも笑ってくれるのか?」
海堂がベッドから起き上がった気配がした。
「きみは金の為にだけ俺に抱かれ……本当は俺を恨んでいるんじゃないかと思っていた。……金をちらつかせて肉体を弄んだ最低の男だと……。だったらそれでいいと思った。最低の男なら……すっぱりとこの屋敷でのことは忘れられるだろうからな……」
苦渋に満ちた声だった。
「……俺の親は……小さい俺を捨ててどこかに消えた。……行かないでくれと泣き叫んだのに……その願いを聞いてはくれなかった。……きっとまたあの時と同じことが繰り返される……だから俺は何の期待もしない代わりに、きみにもそう言った……」
蓮見は海堂の苦しげな声を背中に浴びて立ち尽くしていた。振り向き、海堂に縋りつきたい衝動に強く駆られ、しかし動けなかった。熱いものが胸の奥にこみ上げ、動いたら溢れてきそうで顔を真っ直ぐ上げたまま、ただただ海堂の告白を背中で受け止めた。
「……不安だった。……自信もなかった。……きみの気持ちを知ろうともしなかった俺は……情けない、弱い昔の俺そのままだ……」
深い吐息と共に衣擦れの音がした。
立ち上がった海堂の裸足の足音が一歩ずつ蓮見に近付いてくる。
……ゆっくりと、確実に。
「……どこにも行くな。……俺の傍にいてくれ……」
絞り出すような、そして張り詰めたような声は蓮見のすぐ後ろから聞こえた。
蓮見の裸の背中は大きくて温かい人肌に包まれ、そのままぎゅっと強く抱き締められた。
はっとして息が詰まる。
「……愛している……潤……」
ライズ 22
海堂は愛し方を知らなかったんじゃない。
愛するのが怖かっただけだ。
愛した人が自分から去っていくのが怖かったのだ。だから愛などいらない、愛なんて必要ない、と殊更強い態度を自分に見せたのだ。虚勢を張り、弱い心を隠して。本当は誰よりも愛に飢え、誰よりも愛し愛されたいと願っていたのに……。
後ろから抱き締められ、顔を上げたまま……気が付くと熱い涙が蓮見の頬を伝っていた。泣かないと決めた、それなのに涙は勝手にとめどなく溢れてきて頬を濡らした。
「……もう……自分を偽ることはしなくていいんですね?……」
震える声で蓮見は聞いた。
「……ああ」
海堂が頷く。
「……怜司さんも……もう嘘は吐かない?……」
「……吐かない。約束する」
「……ずっと……一緒にいて……いいんですね?……」
どこにも行くなと言われたのに、もう一度確かめずにはいられなかった。
海堂の抱き締める腕に力がこもる。
「……ずっと……一緒にいろ……」
海堂の温かい腕の中、蓮見はゆっくりと身体の向きを変えた。しとどに濡れた頬や、泣き笑いのようなくしゃくしゃの顔を見られてもそれでも蓮見は海堂を見たかった。
海堂の切れ長の瞳は、深く澄んでいた。何の曇りも、何の翳りもそこにはなく、ただただ深い色を湛えて蓮見を見つめていた。
「……はい……ずっと……傍にいます……」
途切れながら嗚咽に紛れて出た言葉を、海堂はどんな思いで聞いただろうか。
次から次へと溢れ出る涙で滲んだようにぼやけて、蓮見にはもう海堂の表情がはっきり見えない。けれどもう一度胸にきつく抱き締められ、その耳元で告げられた海堂の声は、力強く確かに聞こえた。
……ありがとう……と。
海堂は蓮見の頬を濡らす涙を親指で拭った。それでも、まだどんどんそれは溢れてきて蓮見にもどうすることもできなかった。
「そう情けない顔はするなといつも言ってるだろう?」
海堂はそう言ってふっと笑い、蓮見から離れると窓のカーテンを開けた。
窓から見下ろせる敷地内の森の上に朝日が顔を出していた。部屋の中は白い光で満たされる。
「……笑った顔を見せてくれ」
海堂に言われて蓮見は嗚咽を堪えながら無理やり微笑んだ。きっとぐちゃぐちゃとした変な顔だと蓮見は思った。さっきより情けない顔かもしれない、だけど今の俺にはこんな表情しかできそうにない……。
白い朝の光の中で、海堂はその変な蓮見の顔を眼を細めて見つめて満足そうに頷いた。
「……そうだ、それでいい……」
そしてもう一度蓮見は強く抱き締められた。
「泣くのも笑うのも……俺にだけ見せればいい。……俺の前では何も隠すな……ありのままのきみでいてくれ……」
欺瞞も嘘も偽りも、二人の間にはもう必要ない。
飾る言葉もいらなかった。
見つめ合い、きつく抱き合い、互いを求めて唇を重ねるだけで良かった。愛に包まれる喜びと、穏やかな安らぎとが、重なった唇から伝わり流れてくる。満ち足りた熱い何かが胸にこみ上げる。
それが幸福というものだと……二人は今ようやく気が付いた。
ライズ 完
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