しかし、これはあきらかに金田一耕助の嘘である。かれのもとへ舞いこんだ脅迫状は、もっと粗悪な紙が使用されていたはずである。マリはしかしそれが金田一耕助のトリックとは気がつかず、
「まあ」
と、眉をつりあげて、
「そういえば、あたしのところへも脅迫状みたいなものが舞いこんでおりますのよ。紙質はこれとはちがいますけれど、……少々お待ちになって。いまもってまいりますから」
手にしたアート紙を金田一耕助にかえすと、マリはそそくさと部屋を出ていった。そのあとでいまマリの手にしていたアート紙を、陽にすかしてみる金田一耕助の唇には謎のような微笑がうかんでいる。そのアート紙を四つに折って、後生大事に手帳のあいだにはさみこみ、ふところへねじこんでいるところへマリがかえってきた。
「この手紙なんですけれど……」
金田一耕助が手にとってみると、それはあきらかにかれのもとへまいこんだ脅迫状とおなじ種類の封筒で、筆蹟をくらますためと思われるわざと四角ばって書いた宛名もおなじであった。
金田一耕助がなかみを出して読んでみると、
[#ここから2字下げ]
マリよ。この手紙を読みしだい、母をつれてこの土地を立ち去れ。ここにいることは、おまえやおまえの母のためにならぬと知れ。
[#ここで字下げ終わり]
と、ただ、それだけ。むろん差出人の名前はなかった。
「この手紙、いつ受取ったんですか」
「あれはパーティのあった日の朝でしたから、したがって最初の事件のあった日のことですわね」
金田一耕助は注意ぶかく便箋の紙質や筆蹟を調べたが、これまたあきらかに、じぶんのところへまいこんだ脅迫状とおなじであった。
「それ、なにか参考になりません?」
「そうですね。封筒も便箋もしごくありふれたもので、どこででも、だれでも手に入れることができるような品物だし、それにこの筆蹟もあきらかに変えてありますからね」
「こういう紙質じゃ指紋はとれないでしょうしねえ」
「それはむりでしょうねえ。こうざらざらとした紙じゃ……しかし、なにかの参考になるかもしれませんから、これちょっと拝借していってもよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
それからまもなく金田一耕助はマリのもとを辞去したが、どういうものかかれはニコラ神父の依頼を果そうとしなかった。玉造家の別館を出たとき、マリの母の君江が忘れていったというコムパクトは、まだハンケチにくるまれたまま、かれのふところにおさまっていたのである。
それからまっすぐに警察を訪れて、神崎署長の部屋へ入っていくと、署長は部下からなにか報告をきいているところだったが、
「ああ、金田一先生。よいところへ……木村君、その話はあとからきこう。ちょっと金田一先生に話があるから……」
木村刑事が部屋から出ていくと、
「金田一先生、このあいだのお話の宮田文蔵ですがね。やっぱり臭いですぞ」
「臭いとおっしゃると……?」
「いや、矢部のご老体が殺されたのは土曜日の晚のことでしたね。ところが土曜日の晚には文蔵先生、いつも湖水の対岸にある岡林の町へあそびにゆくことになってるんです。岡林の町に、“みよしの”という料理屋があって、そこのマダムの白川雪枝という女……ごたぶんにもれぬ戦争未亡人なんですが、……その女とかなり以前からねんごろになってるんですね。で、毎週土曜日には、仕事をはやめにすませてそこへあそびにいくんです。さすがに泊ったことはないそうですが、まあ二、三時間歓をつくして、かえってくるのはいつも十時過ぎになるそうです。それで文蔵先生ごじしんの申立てによると、あの晚もやっぱり“みよしの”へ出向いていって九時半ごろまでいたようにいってるんです。いや、はっきり九時半とはいわないんですが、いつものとおりだったというもんですから、こっちは九時半ごろまでいたもんだとばかり思っていたんですが、あなたのサゼストによって調査しなおしてみると……」
「ちがってたんですか」
「いや、文蔵先生、あの晚、“みよしの”へいったことはいったんですが、八時にはそこを出ているんです。岡林からここまで男の足なら三十分もあれば充分です。ところで、杢衛老人が殺害されたのは、ちょうど八時半ごろでしたね」
「しかし……」
と、金田一耕助は躊躇しながら、
「宮田文蔵さんは杢衛老人が鐘乳洞のなかへ、入っていくことはしらなかったでしょう」
「いや、だから、それは今後の捜査にまたなければなりませんが、あの男にアリバイがないということ。それがわかったというだけでもひとつの進步じゃありませんか」
「それはそうですね」
と、金田一耕助はなにかを思いめぐらせるような眼つきをしている。
「ときに、金田一先生、あなたのほうになにか……」
「いや、じつはちょっとお願いにあがったんですが……」
と、金田一耕助がとりだしたのはハンケチにくるまったコムパクトと、さっきマリに鑑定してもらったアート紙である。
「お願いというのはほかでもありませんが、このふたつの品から指紋を検出して、比較していただきたいんですが……」
「指紋……?」
神崎署長はぎょっとしたような顔色で、金田一耕助の顔を視なおすと、
「それ、どういう意味ですか。それにこのふた品はどこから……」
「いや、署長さん、それはいずれ指紋が検出されてからお話ししましょう。ただ、あらかじめ申上げておきますが、このコムパクトには少くとも三種類の指紋がついていると思うんです。コムパクトの持主である女性と、それからふたりの男の指紋が……その男のひとりというのはかくいうわたしですが、わたしの指紋は念のためにここへ捺しておきましょう」
と、金田一耕助は卓上にある印肉を、一本一本指につけると、署長にもらった卓上メモのうえに十個の指紋をしっかり捺して、
「それから、コムパクトのほうにはその三人のほかにも指紋が出てくるかもしれませんが、こちらのアート紙のほうにはひとりの女性と、ひとりの男……その男というのがかくいうわたしなんですが、……そのふたりの指紋しかないはずなんです。で、アート紙から検出される女性の指紋と、コムパクトから検出されるであろう女性の指紋と、比較研究していただきたいんですが……」
神崎署長は無言のまま、金田一耕助の顔を凝視していたが、これ以上質問しても、とても返事はえられそうにないとあきらめたのか、
「いや、承知しました。しかし、結果が出たらその理由はお話くださるでしょうね」
「それはもちろん。で、結果はいつごろわかりますか」
神崎署長はちょっと時計に眼を走らせて、
「いま、四時ですね。遅くとも今晚の八時までには結果をおしらせすることができましょう。文書でご報告しましょうか。それともなんならわたしがお伺いしてもいいんですが……」
金田一耕助はちょっとかんがえたのち、
「いや、文書でけっこうです。ただし、このことぜったいに他へおもらしにならないように」
金田一耕助はそれからまっすぐに矢部家へかえった。
母と娘
約束どおりその夜のうちに、神崎署長から指紋についての鑑定書が金田一耕助のもとにとどけられた。
金田一耕助は、注意ぶかい眼でその鑑定書を読んでいたが、読みおわるといかにもうれしそうに、雀の巣のようなもじゃもじゃ頭を五本の指でかきまわした。いつもいうとおりこれが昂奮したときのこの男のくせなのである。
それから金田一耕助は、まるで重大な作戦をねる司令官のような顔をして、しばらくかんがえにふけっていたが、やがて心が決まったのか、机にむかって手紙を書きはじめた。それは鮎川マリにあてた手紙で、かなり長いものになってしまった。
金田一耕助のこの長文の手紙にたいして、マリからさらに長文の返事がきたのは、なか一日おいた翌々日のことである。
金田一耕助はむさぼるようにそれを読んだが、あらかじめ期待していたこととはいえ、やはりある種の昂奮と戦慄を禁ずることができなかった。金田一耕助はその手紙のとくにだいじとおもわれる部分を、二、三度たんねんに読みかえすと、それを机のうえにおいたまま、しばらくぼんやりとかんがえこんでいた。
そこへつめたい飲物と果物をもって入ってきたのは峯子である。
「先生、ご勉強でございますか」
「ああ、いや」
と、金田一耕助は机のうえに散らかっている便箋を、あわててかきあつめると封筒におさめて、さて、どこへしまおうかというふうにあたりを見まわしていたが、結局、ふところのなかにねじこんで、
「いや、どうも……」
と、なんということなくペコリと頭をひとつさげた。
峯子はジロリとそれを見て、しかし、言葉だけはさりげなく、
「到来ものでございますけれど、ひとつお剥きになって……」
と、ガラス鉢にもった梨をすすめながら、
「先生もこんなへんぴな田舎の町で、さぞご退屈なことでございましょうねえ」
「いやあ、べつに……かえって保養ができてありがたいくらいに思ってるんですよ。もっともいつまでもこちらさんのご厄介になっていていいものかどうか。……それに迷っていることは迷っているんですけれど……」
「あら、まあ、そんなこと……もともと亡くなりました父のほうからむりにお願いしたことでございますもの、そのご遠慮には及びませんけれど……しかし、先生」
「はあ」
「先生は署長さんともご懇意のようですけれど、警察のほうでは少しは捜査がすすんでるんでしょうか」
「それは、もちろん、そうでしょう」
「でも、先生……」
と、峯子はうわめ使いに金田一耕助の顔を見ながら、
「あたし、田舎の警察なんか信用できませんわ。あのひとたちにはこんどの事件、とてもむりなような気がするんですの」
「どうしてでしょうか。奥さん」
「だって英二さんのときがそうでしたもの。あのときだって警察はなんにもできませんでした。けっきょく犯人を逃がしてしまって……」
「犯人を逃がしてしまって……とおっしゃるところをみると、あなたもやはり朋子さんというひとを犯人だと思っていらっしゃるんですね」
「あら、まあ、そうじゃございませんの」
と、峯子はびっくりしたように眼を見張る。
「いや、いや、ぼくのお訊ねしたいことは、それではなく、奥さんもやはり朋子さんというひとは、底なし井戸へ投身したのではなく、当時あの教会にいた神父さんにつれられて、国外へ逃走したと考えていらっしゃるんですね」
峯子はちょっと天井をにらむような恰好でしばらくなにか考えていたが、
「いいえねえ、先生」
と、例によって押えつけるようなねつい調子で、
「そのじぶんのあたしは、ほんのまだ娘でございましたから、なんの考えもなかったのでございますのよ。そのあたしにいま先生のおっしゃったような疑いが、だんだん濃くなってきたというのは、やはりこのあいだ亡くなりました父の影響でございましょうねえ。娘じぶんからあたしはとてもあの父を尊敬しておりましたから」
「なるほど、それで朋子さんが国外へ逃亡されたとして、それじゃ奥さんはこんどマリさんといっしょに玉造家へきている、マリさんのお母さんというひとが、その朋子さんだとお考えになりますか」
「それなんでございますよ、金田一先生」
峯子はいくらか膝をすすめるようにして、
「父がそれをいいだしたときには、あたしもまさかと思っておりましたの。なんぼなんでも朋子さんにその勇気はあるまいと思っていたんですの。でも、つぎからつぎへとあんなことが起ってみると、やっぱり父の疑いがほんとうだったんじゃないかって気が、強くするんでございますのよ」
「つまり鮎川君江イコール玉造朋子だと……?」
「はあ、……でも、先生のお考えでは……?」
「さあ、……ぼくの考えはいましばらく保留しとくとして、ちょっと奥さんにお訊ねしたいことがあるんですが……」
「はあ、どのようなことでございましょうか」
「いえね、お亡くなりになった杢衛ご老人が、ぼくに事件の調査を依頼したってことを、しってるひとは何人くらいありましょうかねえ」
「さあ……」
と、峯子はふしぎそうに首をかしげて、
「この家のものはみんな存じておりますわね。それに父は会うひとごとに、いま玉造の別館へきている鮎川君江という女は、むかしの朋子にちがいない、いまに面皮をひんむいてやるんだなんていきまいておりましたから、ほかにも相当おおぜいいたかもしれませんわね」
峯子の言葉はほんとうだろう。お作のような女さえそれをしっていて、マリに注意をしたくらいだから。しかし、金田一耕助を呼びよせるということまではどうだろうか。少くとも杢衛の殺された晚のパーティにきていたひとは、みないちように金田一耕助の出現におどろいていたようである。
「いずれにしても……」
と、金田一耕助は述懐するように、しみじみとした調子で、
「人間の世の中って複雑なもんですね。二十何年かまえの事件……すでに過去のとばりのなかに埋没していたかにみえた事件から、とつぜんまたこうした恐ろしい事件があいついで起るのですから。……」
「ほんとにさようでございますわね。しかし、こんどというこんどは二度とこういう事件が起らないようにしっかりと解決していただかねば……」
と、峯子はさぐるように金田一耕助の顔をみている。
「いや、じっさいそうありたいものですが……」
と、そこで金田一耕助は言葉をかえて、
「ときに、あのときはおどろかれたでしょうねえ。英二さんが殺されたとき……そのじぶん、あなたはすでにこの家へきていられたんでしょう」
「はあ」
「それじゃ、ご主人と朋子さんとの計画がばくろして、ご主人が監禁状態になられたときには、さぞ気をもまれたことでしょうねえ」
「いえ、ところが、幸か不幸かその日、あたしこの家におりませんでしたの。湖水のむこうに岡林って町がございますでしょう。そこに親戚のものがおりまして、そこへ遊びにいってたところが、夜になって英二さんが急に亡くなったからかえってくるようにって、奉公人が迎えにまいりまして……ほんとうにあのときはびっくりしてしまいました」
と、峯子は腰をあげながら、
「でも、ほんとうに長話をして失礼申上げました。すっかりお勉強のおさまたげをして……」
「いえ、とんでもない。ときに都さんのご容態はいかがです」
「はあ、ありがとうございます。あれも父の亡くなったショックから、やっとさめかけているところへまた古林さんのことでございましょう。でも、こればかりは時が解決してくれるのを、待つよりほかにみちはございませんわねえ。あら、あたしとしたことが、また……」
峯子はついにマリの手紙のことについては、一言もふれずに出ていった。それでいて彼女は当然、金田一耕助のもとへマリから長文の手紙がきたことをしっているはずである。それにもかかわらず一言もそのことにふれないというのは、逆にいえばそれだけマリの手紙にふかい関心をもっている証拠ではないか。
それはさておき、その日、金田一耕助がうけとったマリの手紙というのをここにかかげておくことにする。
[#ここから1字下げ]
私の尊敬する金田一耕助先生。(と、そういうやさしい呼びかけから、この手紙ははじまっているのである)
ご同封くださいました指紋の鑑定書、たしかに拝見いたしました。あのとき、先生がアート紙にあたしの指紋をとっておかえりになったのではないかということは、あとになって気がつきました。そして矢部家の女中さんが、先生からおことづかりしたといって、母(?)のコムパクトをとどけてくだすったとき、あたしははじめて先生が、あたしの指紋を必要とされた理由に気がつきました。かしこくも先生が看破なさいましたとおり、あのコムパクトには女性の指紋としては、あたしの指紋よりほかにのこっておりません。のこっていないはずでございます、あたしがひとりで母と娘のふた役を演じてきたのですもの。そして、とうとう先生はそれをもののみごとに証明なさいました、あたしの一人二役ぶりを。
私の尊敬する金田一耕助先生。
先生のご指摘くださいましたとおり、ここにははじめから母はいませんでした。ずっとあたしが母の代役を演じてきたのです。いいえ、あるときは河野先生にもお願いいたしましたけれど。……
では、母はいまどこにいるのでしょうか。母はいま天国におります。旅券が下付されて、日本へむけて出発しようというまぎわになって、母はこの世を去りました。そこであたしは母の意志をつぎ、ひとりで日本へやってきました。いえいえ、ひとりではありません。河野先生に亡き母の旅券を使っていただいて、架空の母とふたりでこの日本へやってきたのです。
では、なぜ、あたしがこんなへんなまねをしていたのか。なぜ、母の代役を演じたりしていたのか。……それをお話するためには、母の前身からお話ししなければなりません。
矢部家のご老人や古林徹三というひとが疑っていたとおり、母はやっぱり玉造家の娘、朋子でした。二十三年まえ、恐ろしい殺人の汚名をきせられた母は、鐘乳洞のなかへとびこむと、絶望の思いを胸にだいてさまよい步いていました。それを当時はまだしられていなかった第三の入口から、パウル神父に救い出されたのです。
パウル神父は以前から母をわが子のように愛していました。それですから母の疑いののっぴきならぬことをしると、ひそかに母をつれて日本を出発したのです。母はあの底なし井戸のそばに書置きをのこして、神父さんにともなわれ、故国を脱出したのでした。その脱出方法なども、くわしく母からきいておりますけれど、それはここには関係のないことですから、省略することにいたしましょう。当時はパウル神父以外にはだれも教会のほうへ抜ける出口のあることをしらなかったので、母の脱出はみごとに成功いたしました。
さて、日本を脱出した母は、名前も鮎川君江と改め、スペインをへてブラジルへつきましたが、そこであたしをうみ落したのです。金田一先生、こういえばあたしの父がだれであるか、おわかりのことと存じます。
さて、それからのちの母の苦労のかずかずを、いまさらここに申述べることはひかえましょう。やさしいパウル神父の紹介状をただひとつの頼みとして、母は異郷の地で生活とたたかってきました。そして、さいごにえたのが、ゴンザレス家の家事取締りという地位でした。
ゴンザレス氏はふかく母を愛しました。母との結婚を希望しました。しかし、最初の恋に破れ、しかもまだその当時の愛人の面影を胸に抱きつづけてきた母には、ゴンザレス氏の愛情をうけいれる余地はありませんでした。ゴンザレス氏は母を妻とよぶかわりに、あたしを養女にしたのです。
さて、故国をはなれて二十三年、母の胸には望郷の想いがしだいに強くなりました。どうしても、もういちど故郷の山河に接しなければ、死ぬにも死ねぬ気持ちがつよくたかまってきたのです。あたしとしてもいちどは母国を見ておきたく、かつまた、よそながらでも、父なるひとに会っておきたかったのです。
やっと養父の許しがでました。そして、旅券も下付されたところで、とつぜん、母が心臓麻痺で亡くなったのです。母の無念、心残り、なにとぞお察しくださいませ。いえ、いえ、それにもまして無念やるかたなかったのはこのあたしでございました。そこで養父ゴンザレスの強い反対を押しきって、河野先生を母の代役にしたてて、日本へやってくると、ニコラ神父の紹介で、とうとうこの射水の町へやってきたのです。
しかし、ここへやってきてからあたしが母の代役を演じていたのは、気の毒な母のかわりに故郷の土を踏み、この射水の山河に接するがためではありません。あたしにはあたしの考えがございました。それは母の無実の罪を晴らしたいという、ただその一念でございました。
二十三年まえの事件において、母が無実であることをあたしは信じて疑いません。と、すればだれか母をおとしいれたものがあるはずです。そのひとはまだ射水の町に生きているだろうか。もし、生きているとすれば、母がかえってきたことをしって、どのように動揺するでしょう。どのように恐れるでしょう。そして、恐怖と動揺のあまり、尻尾を出さないとも限らない。……これがあたしの考えかたでした。あたしはリオ.デ.ジャネイロの学校にいるじぶん、演劇部に席をおいていました。扮装術には自信があるうえに、あたしがちょっと扮装をこらすと、わかいころの母にたいへんよく似ているのです。
私の尊敬する金田一耕助先生。
ここまで申上げたらあのパーティの晚、母の役割をはたしたのがだれであったか、聡明なる先生はすでにおわかりのことと思いますが、なお念のためにいちおう説明させていただきます。
はじめに母の役を演じたのは河野先生でした。それはしごく簡単なことで、母(?)はいつも非常に特徴のある服装をしています。黒いドレスに黒いスカーフ、ただ、それだけでみるひとには、鮎川君江であるという印象をあたえます。河野先生はそういう姿で洞窟のなかへ入っていき、あの底なし井戸のほとりへ、母の扮装衣裳をのこしてかえってきたのです。そして、あとはこのあたしが引きうけることになっていました。
ところがここにひとつの誤算が起りました。康雄さんが河野先生をつけてきて、あたしどもの欺瞞に気がついたことです。あの夜以後、あたしはまだ康雄さんと膝つきあわせてお話をしたことはございませんけれど、おそらく康雄さんはこの世に……いえいえ、少くとも射水の町に鮎川君江なる人物は存在せず、それがあたしと河野先生のお芝居であることに気がついているにちがいありません。ただ、その直後にああいう事件が突発したのと、あたしの真意をはかりかねて、沈黙をまもっていてくださるのだろうと思います。
それはさておき、河野先生が鮎川君江の扮装衣裳を、底なし井戸のほとりにのこしてくると、こんどはあたしの番でした。そのことについても、先生はよくご存じでしょうが、なお念のためにここに書いておきます。あたしはカンポをつれて先生がたとごいっしょに、鐘乳洞のなかへ入っていきました。あのとき、あたしは鐘乳洞の地理にうといようなふうをしておりましたが、じっさいはなんどかの探検で、かなり詳しくしっていたのです。それですから、機会をみて一同からはなれると、ひと足さきに底なし井戸へ到着し、鮎川君江の衣裳をまとい、だれかに……あの場合は矢部のお祖父さま(ああ、あのひとはあたしの祖父なのです!)に見ておいてもらおうと思ったのです。
あたしたち……と、いうよりはあたしの計画は予期したよりはうまくいきました。洞窟のなかで出会った怪人物のために、あたしとカンポは不自然な作為なしに、みなさんとわかれることができました。あたしはまっしぐらにカンポをつれて底なし井戸へいきつくと、河野先生ののこしておいた衣裳で母になりすましたのです。それから衣裳やカンテラを井戸のなかへ投げこむと、もときた路へとってかえし、そこで祖父といきちがい、それから先生と由紀子さんに出会ったのです。それからあとのことは先生もご存じのとおりでございます。
私の尊敬する金田一耕助先生。
あたしの子供っぽいこの計画……母の再生を示すことによって、二十三年まえの事件の犯人に、大きなショックをあたえようというひとつの冒険……そのためについに祖父を死にいたらしめたことについては、あたしはこのうえもなく悲しく思います。また、このうえもなく後悔しております。しかし、それと同時にあたしはその犯人にたいして、名状すべからざる憎悪と復讐心にもえております。あたしのような女には、このようなこみいった事件の真相は、とても解きあかすことは不可能ですが、それでも女の本能から、こんどの事件の犯人も、二十三年まえの事件の犯人と、おなじであるような気がしてならないのです。
そして、金田一先生。そいつはまんまとあたしの投げたトリックに、ひっかかったではありませんか。そいつはまだ、鮎川君江なる女性がいまや架空の人物であることに気がついておりません。そして、すベての罪を架空の鮎川君江になすりつけるつもりなのでしょう。あの鐘楼に母(?)とおなじ扮装をして出現したというのも、まだ鮎川君江なる女性が、鐘乳洞のなかを彷徨しつつあり、したがってつぎに起るべき殺人事件も、当然、その女性の犯行であるかのごとく見せかける、ひとつの予備行動だったのではありませんか。
私の尊敬する金田一耕助先生。
ずいぶん長い手紙になりましたが、さいごに先生にひとこと申上げたいことがございます。あの事件以来、すなわち祖父が殺害されて以来、先生はあたしがなにもせずに手をつかねて、事件のなりゆきを傍観していたとお考えでしょうか。もし、それだったら先生のお考えちがいでございます。あたしは毎晚、ひとの寝しずまるのを待って、鐘乳洞のなかへもぐりこみました。そして、さがしたのです。鐘乳洞内をはいずりまわるようにさがしたのです。なにか犯人を指摘するに足る、決定的な証拠はないか。遺留品はないかと。……
私の尊敬する金田一耕助先生。
神様はとうとうあたしに味方してくださいました。あたしはとうとう発見したのです。ある重大な、決定的証拠を。犯人を指摘するに足る重大なる物的証拠を。あの底なし井戸のほとりにおいて。……金田一先生、あたしはそれを先生のお眼にかけたいと思っております。先生、お願いです。明晚、かっきり十時にあの底なし井戸のそばへきてください。そうすればあたしが発見した証拠というのを先生のお眼にかけることができます。そして、先生のご意見もきかしていただきたいと思っております。あたしはまだだれにもこのことは打明けてありません。あしたの晚もひとりでまいりますから、金田一先生、あなたもおひとりできてください。だれにもしらさず内緒で。……
私の尊敬する金田一耕助先生。
それではもういちどここにくりかえします。明晚かっきり十時。底なし井戸のそばで。……きっと、きっとでございますよ。それではお待ちしております。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]マ リ
金田一耕助は二度三度そのながいながい手紙を読みかえした。
マリがきっとよ、きっとと念をおしている明晚というのは、すなわち今夜のことなのである。
金田一耕助は落着こうとするかのように、何本目かのたばこに火をつけると、虚空に瞳をすえて、なにか考えこんでいるふうだったが、やがてその手紙をスーツ.ケースのポケットにしまいこむと、どこかへふらりと出かけていった。
最後の惨劇
ズボンに編上げという軽快な服装に身をかためたマリは、玉造家の背後の崖の入口から、懐中電灯をふりかざし、単身鐘乳洞のなかへ入っていく。
時刻は九時三十五分。金田一耕助と約束した時間より二十五分まえ。マリは十時までに底なし井戸へいきついて、そこで耕助を待つつもりなのである。
揺曳する懐中電灯のあわい光芒の範囲外は、うるしの闇にとけこんで、底しれぬ静けさのなかに、マリの足音だけが小きざみに反響する。
マリはときどき不安そうに立ちどまっては、用心ぶかくいまきた路を照らしてみる。たれかつけてきはしないかとおそれるように。それでいていっぽうまた、たれかに……たとえば田代にでもつけてきてほしいような気もする。それほど鐘乳洞のなかはさびしく、陰気で、かつ無気味だった。
なんといっても、この数日のあいだに、ふたりの男がそこで殺されているのだから。……
しかし、だれもつけてくるものはなさそうだった。マリは単身鐘乳洞のおくへ進んでいかねばならぬ。むろん、そのほうがいいはずなのだが。……
まもなくマリは矢部家のほうからくる路との合流点まで到着する。
マリはそこに立ちどまり、懐中電灯の光を投げて、しばらく耳をすましてみた。しかし、むこうからくる足音は聞えない。金田一耕助はさきへいったのか。それとももっとおくれてくるのか。
マリはしかたなく、ひとりで奥へすすむことになる。まえにもいったとおり、そのへんから路はしだいに悪くなり、ともすれば粘土性のぬかるみに、編上げの靴をとられそうになる。
ときどき洞窟の天井からしたたりおちる滴が、首筋へおちて肝をひやさせた。
しかし、そういう悪路をしばらくいくと、路はまた固い地盤にさしかかる。そのへんいったい、さかさに剣をうえつけたように、天井から鐘乳がぶらさがっているので、よほど気をつけて步かないと危険なのである。
とつぜん、マリはぎょっとしたように立ちどまった。うしろのほうから足音が聞えたような気がしたからである。
立ちどまってじっと耳をすましてみる。しかし聞えるものといったら、ポトリポトリと天井から滴のたれる音ばかり。
それでは気の迷いだったのかしら。……
マリはまた步きはじめる。コツコツとかたい靴音が洞窟の壁に反響する。
コツコツコツ、コツコツコツ……
マリはまた、ぎょっとしたように立ちどまると、いきなり懐中電灯の光をうしろへ投げた。
「たれ……? たれかそこにいるの?」
しかし、返事はなくて、天井で蝙蝠の羽ばたく音ばかり。しかし、マリはたしかに聞いたのである。じぶんのでない足音が、うしろからつけてくるのを。……
マリはゾーッと身をふるわせた。全身からつめたい汗がふきだした。つい最近、この洞窟のなかでふたりの男が殺されたことを思えば、いかに勇敢な人間でも、おののかずにはいられないだろう。
身をひるがえしてマリは暗闇のなかを一目散にかけだした。鐘乳筍につまずいたり、ぬかるみにすベったりして、いくどかころびそうになりながら。……
ああ、もう間違いはない。たしかにたれかが追ってくるのだ。その足音はマリが立ちどまると立ちどまり、マリが駆けだすとその足音も駆けだしてくる。
マリはそれを洞窟に反響するこだまだと思いこもうとしたが、いまはもうそんな気やすめは許されない。
げんにマリはほんのちらりとだったけれど、追跡者のすがたを懐中電灯の光のなかにとらえたのだ。そいつは鳥打ち帽子をまぶかにかぶり、黒い布で眼から下をすっぽりくるんだ男のようだった。すぐ闇のなかへ逃げこんだので、はっきりしたことはわからなかったが、たしかに幻視ではなかった。現実に覆面の男があとをつけてくるのだ。……
それ以来、マリは気がくるったように洞窟のなかを走りだした。懐中電灯をつけたり消したりしながら、脚のつづくかぎり走りに走った。懐中電灯をつけると、あとから追ってくる人物の目標になるし、さりとてまっ暗では一步もあるけない。
マリは全身からふきだす汗にねっとりぬれ、背中の筋肉に痛烈な痛みをかんじている。いまにもあの鋭い鐘乳石が、ぐさりと突っ立ってくるのではないかと。……
やっとマリは底なし井戸へたどりついた。いそいでつけていた懐中電灯の光を消すと、
「金田一先生……金田一先生……」
と、背後の闇を気にしながら、マリはふるえる声で金田一耕助の名を呼んだ。
しかし、金田一耕助はまだきていないのか、暗闇のなかからはなんの応答もない。マリの声はただいたずらに、洞窟の壁にこだまして、無情にはねかえってくるばかりである。
「金田一先生……金田一先生……」
さけんでいるうちにマリの声は、舌のうえで凍りついてしまった。
ビロードのようにねっとりした暗闇のなかに、なにやらちかづいてくる気配である。猫のように足音をころしていても、空気の微妙な震動が、あるいはいくらか切迫した息使いが、いたいほど皮膚の感覚を刺戟するのである。
マリは全身の毛穴という毛穴がさかだって、つめたい汗がいちじに噴出するような想いであった。微妙な空気の震動に追われて、マリはそっと底なし井戸の周囲をめぐる。それを追うようにして、無言の追跡者も井戸|框《かまち》のまわりをまわって、マリの身辺にせまってくる。
暗闇のなかのそれこそ命がけの鬼ごっこだ。
もう声を出して救いを求めることもできない。声を立てたらそれをめあてに躍りかかってくるであろう。懐中電灯をつけてあいての正体をたしかめたいという慾望も、このばあいおさえなければならぬ。明りをつけたがさいご、あいては必殺の剣をふるって突っかかってくるのではないか。
マリの脚はがくがくふるえ、咽喉はからからに乾ききっている。全身の皮膚が凍りつくような痛さをかんじている。
マリはもときた路へ逃げだそうかとおもうのだが、暗闇のなかのめんない千鳥で、すっかり方角感をうしなってしまった。
とつぜん、マリはなにかに|躓《つまず》いてまえへのめった。地底のつめたい静寂のなかでは、その音が洞窟の壁にこだまして、大きな反響をあたりにつたえた。……
と、思うまもなく、さっと暗闇の空気をゆるがし、マリの体におそいかかってきたものがある。反射的にマリは体を左にひらいたが、そのとたん、彼女のからだをかすめて、たれかが二、三步たたらを踏んでまえへのめった。
マリは素速くからだを立てなおし、暗闇のなかでじっとようすをうかがっている。全身の皮膚の感覚であいてのつぎのでかたを偵察している。
むこうもやはりおなじらしい。暗闇の底から切迫した息使いが、おさえきれぬ嵐となって、マリの皮膚につたわってくる。
とつぜん、さっと空気がうごいて、なにものかがマリの真正面からおそいかかってきた。このたびもマリは本能的に身をひらいたが、その瞬間、編上げの靴の底がすべって、マリはかたい岩のうえに転倒した。
「あっ!」
不覚にも悲痛なさけびがマリの口をついてほとばしる。
それをねらって、ザーッと空気が渦をまいて、マリの体におそいかかってきたとき、とつぜん、数本の懐中電灯の光芒が闇をさいて、襲撃者のすがたをありありと照らしだした。
「あっ!」
と、さけんで襲撃者は、いっしゅん眼がくらんだように立ちすくむ。
やっぱりさっきのやつだった。鳥打帽をまぶかにかぶり、風呂敷のようなもので鼻から下をおおうている。そして手にもっているのは剣のように鋭い鐘乳石。
「マリちゃん!」
暗闇のなかからさけんで、マリのそばに駆けよったのは田代だった。
その瞬間、襲撃者は身をひるがえして、懐中電灯の光芒の外にとびだした。
「待てえ!」
と、叫んだふとい声は神崎署長のようである。あわてて一同がふりまわした懐中電灯の光芒が、やっとうしろ姿をとらえたとき、襲撃者は底なし井戸のある台地から、マリがいまとおってきた洞窟のなかへとびこむところだった。