「しまった! 金田一先生!」
「ええ、ああ、そう……」
ここで犯人をとりおさえてしまうつもりだった金田一耕助は、おもわぬ手ちがいにいくらか取り乱して、
「田代君、康雄さん。カンポ君!」
と、言葉をはやめて、
「マリさんをたのみます。われわれはいまの曲者を追っかけますから」
と、署長を追ってもう洞窟のなかにとびこんでいた。
「金田一先生!」
金田一耕助が追いつくと、神崎署長は息をはずませて、
「いまの曲者、だれだかわかりましたか」
「ぜんぜん! 署長さんは……?」
「わたしにもよくわからなかった。宮田文蔵としては、少し柄が小さかったようにも思うが……」
「いずれにしても、すばしっこいやつでしたね。とっさに懐中電灯の光のわくの外へとびだしましたから」
こういうとふたりとも、いかにも落着いているようだけれど、じっさいはそうではなかった。息もきれぎれに話しながら、ふたりとも小走りに走っているのだ。
「金田一先生、こんなことならやっぱり署のものを動員して洞窟の三つの入口を監視させておくんでしたね」
「すみません。はたして犯人が今夜あそこへやってくるかどうか疑問だったのと、それに警察のほうでそういう手配りをしていて、犯人に覚られちゃいけないと思ったもんですから……」
「わたしはまだ詳しい話をきいていないんですが、それじゃ犯人はマリさんからあなたにあてた手紙を読んだんですね」
「読んだというより読むようにわたしがしむけたんです。それよりほかに犯人の尻尾をおさえる方法はなさそうなんでね」
「でも、マリさんが有力な証拠を発見したというのは……?」
「いやあ、あれはトリックだったんです」
と、金田一耕助の声はしずんでいた。
「トリック……?」
「ええ、そう、さっきお眼にかけたマリさんの告白書は、大部分が真実を語っているんでしょうが、あそこの部分だけは嘘だったんです。ぼくがああ書くように手紙で要請したんです」
「あっ!」
と、短いおどろきの叫びが、神崎署長の唇からほとばしった。かれはちょっと立ちどまって、金田一耕助の顔を穴のあくほど視すえると、
「それじゃ、金田一先生」
と、ひどくしゃがれた息苦しそうな声で、
「あの手紙のあそこの部分だけは、今夜犯人をこの洞窟へおびきよせるためのトリックだったとおっしゃるんですか」
「ええ、そう」
「そうすると、あの手紙にあったような、犯人を指摘するに足る動かしがたい証拠というのは……?」
「残念ながらいまのところありません」
「そうすると、今夜犯人を逃がしてしまうと……?」
「今後ちょっとむつかしくなりましょうね。犯人ももうマリさんの一人二役をしってるんですから、今後はもうその手にのりますまいし、いよいよ用心ぶかくなりましょうから」
「畜生ッ!」
署長のするどい舌打ちに、
「いや、どうもすみません」
「いやいや、あなたのことをいってるんじゃない。田代君のことをいってるんです」
田代幸彦はたしかに軽率だったのである。一同が懐中電灯の光で犯人の注意をこちらにひきつけているあいだに、田代が犯人の背後へまわる手はずになっていたのだが、わかい田代は昂奮して、あらかじめ打合せしてあった、その約束を忘れてしまったのである。
「それじゃ……」
と、神崎署長が激昂したように、強い調子でなにかいいかけたときである。とつぜん遠くのほうから女の悲鳴が、ながく尾をひいてきこえてきた。
「あっ、ありゃなんだ!」
ふたりはおもわず立ちすくんだが、そのとたんまたしてもきこえてきたのは、ぎゃあッと蛙をふみつぶしたような声だった。それはまぎれもなくふとい、錆びのある男の声である。
いっしゅん、金田一耕助と神崎署長は、釘着けにされたようにその場に立ちすくんでいたが、つぎのしゅんかん、
「署長さん、いってみましょう」
と、金田一耕助は袴の裾をさばいて小走りに走りだした。神崎署長も懐中電灯をふりかざし、ぜいぜいと息使いもせわしく追ってくる。肥満型のこの署長は敏活な行動には不向きにできているのである。
数分ののちふたりが辿りついたのは、このあいだ。すなわち古林徹三が殺された晚、金田一耕助と慎一郎のふたりが、警部補や田代の一行と落ちあった、あの路が三つ股にわかれているところである。
「署長さん、またあの地底の河のほとりじゃありませんか。なんだかそんな気がするんですが……」
「いってみましょう、金田一先生」
神崎署長の声はうわずっている。もちろんそれは恐怖のためではなく、昂奮のせいだろう。
その洞窟へ入るまえ、ふたりはちょっと耳をすましてなかのようすをうかがったが、あたりは|闃《げき》として物音もない。なんとなくふたりでうなずきあったのち、金田一耕助が袴の裾をたくしあげて、まずみずから狭い洞窟にもぐりこんだ。
いちど通ったことのある路なので、金田一耕助はそれほど迷いはしなかった。それでも用心ぶかく足をはこばせているうちに、ふたりは地底の河のほとりまでたどりついた。
「あっ、金田一先生!」
と、神崎署長が呼吸をのんで、
「あれはなんです、あそこにみえる白いものは……?」
懐中電灯の光芒のさきに、なにやら白いものがよこたわっている。くろぐろと音もなく流れる地底の河の河岸っぷちに。……
ふたりはそっと、その白いもののほうへちかよっていった。
そして、それがなんであるかをたしかめたとき、金田一耕助は脳天からくさびでもうちこまれたような大きなショックにたじろいだ。
白いものは浴衣であった。そして、浴衣のぬしは峯子である。
峯子は裾もあらわに倒れている。そして、仰向けに倒れた彼女のはだけた胸のうえに、もののみごとにつっ立っているのは、剣のようにさきのとがった鐘乳石である。
「畜生ッ!」
と、神崎署長は肚の底からこみあげてくるはげしい怒りを、熱風のような息とともに吐きだした。
金田一耕助は茫然たる眼差しで峯子の死体をみおろしていたが、やがてやっと正気にかえると、ちかぢかと懐中電灯をちかづけて、峯子の死体をしらべにかかった。
相当格闘したのであろうか、浴衣のきこなしはひどく乱れて、帯もはんぶん解けている。足になにもはいていないので、懐中電灯の光であたりを見まわすと、二、三メートルほどはなれたところに、下駄が片っぽ裏がえしになってころがっている。もう片っぽはどんなに探しても見当らないのは、地底の河へおちたのだろうか。
金田一耕助は峯子の足のうらをしらべてみたが、はだしのわりにそれほど汚れていなかった。
「金田一先生……金田一先生……」
とつぜん、神崎署長が昂奮に声をふるわせた。
「矢部の奥さん、鐘乳石で突きころされたんじゃありませんぜ。ほら、咽喉のあの跡……」
「えっ?」
神崎署長に注意されて、金田一耕助もあらためて峯子の咽喉に眼をむけたが、そのとたん、魂をゆすぶるような戦慄が、金田一耕助の背筋をつらぬいて走った。
なるほど、峯子の白い咽喉のうえになまなましくのこっているのは、大きなふたつの|痣《あざ》である。それはおそらく親指の跡であろうけれど、金田一耕助がいま大きく眼を見張ったのは、ただそれだけのことではない。
ほの暗い懐中電灯の光で気がつかなかったけれど、よくよく見ると峯子の唇は血によごれている。そして、食いしばった歯のあいだになにやらくわえているのである。
「しょ、署長さん、あ、あ、あれ……」
神崎署長もそれをのぞきこんで、
「き、き、金田一先生、ゆ、ゆ、指……」
ふたりはしばらく、ものに憑かれたような眼を視かわしていたが、とつぜん、金田一耕助がはじかれたように身を起した。
「しょ、署長さん! い、いきましょう。犯人は指をかみきられているんです。て、鉄は熱いうちに打て……」
「ようし」
ふたりがもとの三つ股まではいだしたとき、奥から出てきたマリの一行に出会った。
「あっ、マリさん、康雄君、ちょうどいいところで会いました。あなたがたおうちへかえったら警察へ電話をかけてください。鐘乳洞のなかの逃げ水の淵……このあいだ古林君が殺された地底の河のほとりまで、すぐ二、三人警官をよこすようにと……」
金田一耕助の早口に、
「先生、な、なにかまたあったんですか」
と、田代は好奇心に眼をかがやかせる。
「ああ、いや、それはまたあとで……じゃ、康雄君、たのみましたよ。それじゃ、署長さん、急ぎましょう」
金田一耕助と神崎署長がとびだしたのは、矢部家の背後にある入口だった。
「金田一先生、それじゃあなたはかみきられたあの指のぬしを、宮田文蔵だと……?」
金田一耕助はそれに答えず、まっすぐに宮田文蔵の住居のほうへ進んでいく。まえにもいったように宮田文蔵は、矢部家の邸内にある物置きのようなところを改造して、そこにひとり住んでいるのである。
足音をしのばせるようにして、そのほうへ進んでいった金田一耕助と神崎署長は、その建物の障子にうつる影をみたとき、ふたたび脳天からくさびをぶちこまれたような大きなショックをかんじて立ちすくんだ。
だれかが天井からぶらさがっている。……上半身はみえなかったが、宙にぶらりとぶらさがった二本の脚が、窓の障子にうつっている。
金田一耕助と神崎署長がなかへとびこんだとき、宮田文蔵は天井を張ってない物置きのような部屋の梁に、ふとい綱をひっかけて、みずから|縊《くび》れて死んでいたのである。
喰いきられた左の小指からポタポタと血を落しながら。……
大団円
ながい、いやな夏もおわって、九月ともなればもう東京にも秋風が立ちはじめた、その年は残暑がわりにみじかくて、このぶんだと思ったよりはやく秋がきそうだと、新聞にも書いてあった。
そういうある日、金田一耕助は鮎川マリのたっての招待で、帝国ホテルへ彼女を訪れた。
できることなら金田一耕助はこの訪問を回避したかったのだ。しかし、マリからの再三の要請をむげに退けることはできなかったし、それに、そのためにはるばる故国を訪れた彼女の心中を察すると、このまま頬冠りでとおすわけにもいくまいと、とうとう意を決して彼女を訪問したのである。
「いらっしゃいまし。しばらくでした。その節はいろいろと……」
と、彼女が借りているホテルの豪奢な一室へ、金田一耕助をむかえたとき、マリはあいかわらず匂うばかりにうつくしかった。
「いやあ、どうも、あのときはいろいろ失礼いたしました。河野先生もお元気で……カンポ君も……」
こういう部屋に不似合いな、よれよれのきものによれよれの袴といういでたちの金田一耕助を、河野朝子も従者のカンポも、いかにもなつかしげにむかえる。
人間というものは不思議なものである。あの恐ろしい事件をともにしたということが、ひとつの同志愛的な結合をもたらすのかもしれない。そこにしぜん温かな感情が交流して、話もおのずからはずむというものである。
「それはそうと、新聞でその後の消息は拝見していたんですが、いろいろとたいへんだったでしょう」
「ええ、たいへんといえばたいへんでしたわね」
と、すべての屈託を忘れたのか、マリはあでやかな微笑を口許にきざみながら、
「ほんとうを申しますと、先生にもうしばらくいていただきたかったんですのよ。父と娘の名乗りあい、祖母と孫との対面、腹ちがいの姉と妹、いとこ同士の名乗りあいなど、ずいぶん盛りだくさんあったんですけれど、先生たらそのまえに、さっさと東京へ逃げておしまいになるんですもの」
「いや、いや、そういうことはわたしの柄じゃない。しかし、まあ、おめでとうございました。みなさん、およろこびになったでしょう」
「はあ、……ありがとうございます。ああ、そうそう、父をはじめみなさんからくれぐれもよろしくとのことでございました」
「はあ、いや、どうも。ろくすっぽご挨拶も申上げずに引き揚げてしまったものですから、みなさん、さぞ気を悪くしていらっしゃるだろうと思って……」
「いえ、そんなことはございませんけれど、それについてお伺いしたいこともございますもんですから。……河野先生、カンポ、ちょっと金田一先生とふたりだけで、お話し申上げたいことがあるんですけれど……」
マリの言葉に河野朝子とカンポはすぐ、つぎの部屋へひきさがった。
こちらの話を立ちぎくようなふたりではなかったけれど、それでもマリは念のために、みずから立ってドアをしめると、金田一耕助のまえへかえってきて、
「先生、お話しくださるでしょうねえ。事件の真相を……」
と、真正面からきっと金田一耕助の瞳を視すえる。
おいでなすったな!
と、心中どきりとしたものを感じながら、しかし、金田一耕助は視線をそらすこともできず、
「事件の真相って明々白々じゃありませんか。ああして犯人がりっぱに遺書までのこして自殺したんですからね」
宮田文蔵はみずから縊れるまえに、告白状を書いていたのである。
それによると、矢部杢衛から峯子にいたるまでの一連の殺人事件は、全部おのれのなすところであるということであった。そしてその動機はこうであった。
杢衛を殺したのは、矢部家の事業をおのれのものにしたかったせいであるという。ところがその現場を古林徹三にみられたらしいので、かねて不安をかんじていたところ、果して洞窟狩りの日、古林から脅迫をうけたので、これまた思いきって殺してしまった。そして、さいごの峯子殺しについてはつぎのごとく記してあった。
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鮎川マリから金田一耕助にあてた手紙を盗み読んで、じぶんはマリが重大な証拠をにぎっていることをしった。しかも、マリは単身底なし井戸へいくという。じぶんはマリを殺害するつもりだったが、失敗して逃げかえる途中、ばったり出会ったのが峯子であった。峯子はかねてからじぶんの挙動を怪しんでいたので、様子をうかがいにきたのである。そのときのじぶんはもう鬼であった。悪魔であった。じぶんはおそれおののく峯子を逃げ水の淵へひっぱりこんだ。
そしてとうとう絞め殺してしまったが、絞め殺しただけでは息を吹きかえすかもしれないと思ったので、鐘乳石でひとえぐり、えぐっておいたのである。
しかし、いまこうしておのれの住居へかえってきて落ちついてみると、もはやおのれの罪ののがれがたいことを思いしった。峯子を絞め殺すとき、じぶんはあれに指をかみきられたが、これ以上のたしかな証拠があろうか。なにもかもうまくいっていたのに、さいごの土壇場になって、こういう破目に立ちいたるというのも、これ運命のしからしむるところであろう。
いまみずから命を断つにあたって、この告白状をしたためるしだいであるが、万事はこのじぶん、宮田文蔵が犯せる罪であって、他のなにびとにも責任のないことを、ここに改めて神に誓うものである。
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[#地から2字上げ]宮 田 文 蔵
「金田一先生」
と、マリはいくらか蒼褪めた頬に、やさしい微笑をうかべて、
「先生の崇高なお気持ちはよくわかります。しかし、それではあたしはどうなりますの」
「あなたがどうなるとおっしゃると……?」
「いいえ、あたしは母の潔白を証明したいがために、この日本へやってきたのでございますのよ。そして、あんなお茶番までやっていたんですのよ。ところが、宮田文蔵というひとの書置きどおりだとすれば、あたしの母の潔白は依然として晴れないんじゃございません? それじゃ、母があんまり気の毒ですし、またブラジルへかえっても、ゴンザレスの父になんと報告してよいかわかりませんのよ」
マリはしばらく黙っていたのちに、しずんだ調子でつけくわえた。
「先生、あたしはじぶんが残酷な女だということはよく存じておりますの。じぶんの母の潔白を証明しようとすれば、もうひとりの娘……しかも、あたしと父をおなじゅうする可愛い妹の母の罪をあばかねばならないのじゃないかと、せんからあたし、それを|懼《おそ》れていたんです。そして、そのことについて、あたしいちおう、先生のご意見をうけたまわっておきたいんですの。あたし、なにを聞いてもブラジルにいる養父以外にはぜったいにしゃべりませんし、また、養父に話したら、それっきり忘れてしまうつもりなんですけれど……」
マリの懇願もむりからぬところである。しかし、金田一耕助に確信をもって話すことがあるだろうか。当事者のほとんどが死亡してしまって、いまではいっさいが空の空なのである。
「マリさん」
と、しばらくして金田一耕助は溜息をつくように話しかけた。
「二十三年まえの事件を蒸しかえして調査するということは、じっさい困難なことなのです。当事者が告白しないかぎりは、それをひっくり返すことも、あるいはそれをそのまま肯定して証明することだってむつかしいでしょう。しかし、こういうご返事では、おそらくあなたは満足なさいますまい。そこで、こんどぼくがしりえた、ごく些細なじじつだけを羅列しておきかせいたしましょう。あとはあなたがその聡明な頭脳で組み立ててください。それ以上のことはとてもぼくには出来そうにありません」
「金田一先生」
マリは蒼褪めた顔にまたやさしい微笑をうかべて、
「それでもけっこうでございます」
「はあ」
と、金田一耕助はたもとからハンケチをとりだすと、ねばつく掌をこすりながら、
「それでは二十三年まえに英二君が殺された日のことからお話ししましょう。当時、峯子さんはすでに矢部家へ引きとられており、また、古林君も夏休みを利用して矢部家へあそびにきていました。ところが、英二君が殺された時刻には、ふたりとも家にいなかったのです」
マリの眉がかすかにぴくりとうえへあがった。しかし、かしこいマリはそれについて、かくべつ言葉をさしはさもうとはせず、ただ熱心に話をきいている。
「しかも、古林君はその日のことについて……つまり帰宅した時刻についてぼくに嘘をつきました」
と、金田一耕助は古林の告白と、慎一郎の思い出話のあいだにある矛盾を語ってきかせると、
「と、いうことは……古林君がそういう嘘言をもって取りつくろおうとしたところをみると、その日の古林君の行動にうしろ暗いなにものかがあった証拠じゃないかと思われるのです。古林君はそのときどこへいってたとは話しませんでした。いっぽう峯子さんは、英二君の急死をしらせる使いがくるまでは、岡林の町にある親戚の家にいたといってましたが、おそらく……」
「おそらく……?」
金田一耕助がちょっとためらいの色をみせるのを、すかさずマリが切りこんできた。
「いや、なに、当時はあなたのお母さんが犯人だとばかり信じこまれていましたから、おそらくふたりにたいして、アリバイ調べなんかなかったろうと思うんです」
マリはすすり泣くような吐息をもらして強くうなずいた。
「さて、二十三年まえのことはこれだけですが、こんどの事件のさいしょの晚です。あれは土曜日の晚でしたね」
マリは無言のまままたうなずいた。
「ところが、土曜日の晚は宮田文蔵氏が、いつも岡林の町の愛人のところへ出向いていって、夜おそくでないとかえらないのです。しかも、あの晚はあなたのお祖父さん、お父さん、妹さんもパーティへ出席しましたから、あとには峯子さんと古林君しかいなかったのです」
マリは眼をかがやかしてまたこっくりとうなずいた。
「さて、そのつぎは洞窟内の出来事ですが、まずさいしょにわれわれは、古林君に出会いましたね」
「ああ、あれはやっぱり古林というひとだったのですか」
「ええ、そう、これは古林君じしんが認めましたからたしかです。ところが、そのときのあなたのお祖父さんのおどろきたるや非常なものだったのです。久しぶりに満洲からかえってきた、親戚のものを思いがけなく洞窟のなかで見つけた……と、ただそれだけのおどろきじゃなかったと思うんです。もっと、もっと深刻なおどろき……」
「わかりました。矢部の祖父はそのとき古林というひとといっしょに、都さんのお母さんのすがたを……」
「いや、いや、マリさん、そこまでは……」
「失礼しました」
と、マリはかるく頭をさげると、
「それじゃ、あとをおつづけください」
「それから、あとはあなたもご存じのとおりです。矢部のご老人が殺害されたとき、たしかにだれか女がその場にいあわせたはずですね。われわれはみんな女の悲鳴をきいたのだから……」
マリは強くうなずいて、なにかいおうとしかけたが、そのまま口をつぐんで金田一耕助のあとの言葉を待っている。
金田一耕助はものうげにもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「宮田文蔵氏の遺書にはその点にふれてなかった。それがあの遺書の弱身といえばいえましたね。そのほかはわりにうまくできていたのだが……」
と、ひとりごとのように呟いて、それから急にことばをかえて、
「いや、ま、それはそれとして、さてそれから古林君が第三の入口へむかう洞窟のなかでニコラ神父にとっつかまったんですが、ここにふたつの疑問がわいてくる」
「ふたつの疑問とおっしゃいますと……?」
「まず第一に、古林君はどうしてその洞窟をしっていたか……古林君は英二君の事件があってからまもなく、日本をはなれて満洲へわたっている。そして、それ以来|射《い》|水《みず》とは絶縁状態になっていた。しかも、あの教会の背後に出る第三の入口は、英二君が殺害されてから、一年ほどのちになって発見されたということになっている。それを古林君がどうしてしっていたか……と、いうことですね」
マリは思慮ぶかくうなずきながら、
「当然、だれかつれがあったのではないかということが考えられるわけですね」
「ええ、そう、このばあいは明かにつれがあったらしいんですが、しかし、いろいろのことを考えあわせると、古林君は二十三年以前に、すでに第三の入口の存在をしっていたんじゃないかと思われるんです」
マリはちょっと驚いたように眼を見張って、
「それはどういう意味で……?」
「いや、英二君が殺されたとき、古林君とそのつれが洞窟のなかにいたとしたら、そのひとたちはどこから洞窟を這いだしたか……矢部家のほうは慎一郎さんが見張っていた。まさか、玉造家のほうへ出る勇気はなかったでしょう。と、すると第三の入口しかないわけです」
「ああ!」
と、マリはとつぜん立ちあがって、二、三步部屋のなかをいきつもどりつしながら、
「それじゃ、あのひとたちはその時分から、教会のうらへぬけるみちをしっていた。と、すれば、あたしの母もそちらから、逃げだしたのではないかという疑問を、もっていたにちがいございませんわね」
「しかし、ふたりとしてはそれはいえなかったわけですね。一年のちに他のひとによって、その抜道が発見されるまでは。……だからあなたの祖父の杢衛さんが、あなたのお母さんがそちらの道から逃げだしたのではないかという疑問を抱きはじめたのは、おそらく峯子さんに吹きこまれたのだろうと思うんです」
マリはうなずきながらまたもとの席へもどって、
「それで、あの晚、祖父が殺された晚、古林というひとにつれがあったのはたしかだとおっしゃいましたが、それはどういう意味……?」
「ああ、いや、それはこうです。古林君が第三の洞窟の途中でニコラ神父にとっつかまった前後の事情を、神父さんに詳しくきいてみたんですが、古林君はあのとき、神父さんに見つからずにすまそうと思えば、すますことができたようです。それをわざと神父さんにとっつかまったというのは、そのすきに、同伴者を逃がすためじゃなかったかと思われる節があるんです」
マリの眉がまた大きくつりあがった。
「そして……そして、それからまもなくあのひとが……峯子さんというひとがあたしのパーティに顔を出したんですね」
金田一耕助は憂鬱そうにうなずいて、
「このことは臆測だけじゃなく、時間的にも一致しそうですね」
「アリバイ……をつくるためだったんですのね」
と、マリはしゃがれたような声で呟くと、はげしく身ぶるいをした。
金田一耕助は憂鬱そうな眼をしたまま無言でひかえていたけれど、あえて否定しようとはしなかった。
「それから、そのつぎが……あの鐘楼の影という順序になるんですのね」
「ええ、そう、そろそろ犯人があなたのトリックにひっかかってきたわけですね。古林徹三を殺すまえに、もういちど架空の鮎川君江……犯人はまだそれが架空の人物とはしらなかったものだから……その人物の実在を印象づけておこうという魂胆だったんでしょう。だから、いわばあの出来事は古林殺しの前奏曲だったわけです。あくまで殺人の罪を鮎川君江におしつけようという……ここで犯人は完全に墓穴を掘ったわけですね」
それからしばらくふたりのあいだに、味の濃い沈黙がながれた。それはマリにとっては勝利の思い出でもあるのだろうが、またいっぽうからいえば悔恨の種でもあったろう。じぶんの投げかけたトリックの網に、犯人がひっかかったまではよかったけれど、そのためにひとひとりの命がうしなわれたのだから。
ながい沈黙ののちに、
「しかし、あの宮田文蔵というひとの役割は……?」
と、マリはとうとう最後の疑問にふれてきた。
宮田文蔵のことを考えると、金田一耕助も胸がいたむらしい。
「あのひとが……」
と、ちょっと嗚咽するような調子で、
「われわれの眼前に大きくクローズ.アップされたのは、古林徹三が殺された晚のことでした」
と、金田一耕助が女の靴跡を消して步いた宮田文蔵の奇怪な行動について語ってきかせると、マリは両手をにぎりしめて息をのんだ。
「ああ! それじゃそのとき宮田文蔵というひとは、はじめて犯人がだれであるかをしったんですのね」
それからまたふたりはながい沈黙の世界におちこんだが、しばらくしてマリがしいて元気をふるいおこすように、
「金田一先生、ここでは感傷をすてましょう。そして、あたしがいま先生からうかがったことを土台にして、ひとつの話を組立ててみますから、もしちがっているところがあったら指摘してください」
マリはそういってからちょっと思索をまとめようとするかのように、しばらく言葉をきっていたが、やがて|暗誦《あんしょう》するような調子で語りはじめた。
「二十三年まえ、英二さんというひとが殺されたとき、たまたま峯子さんと古林徹三も鐘乳洞のなかにいました。ふたりがそこでなにをしていたか、そこまで想像をたくましうするのはひかえましょう。さて、英二さんはまずあたしの母をつかまえました。そして、矢部家へひったてようとしました。母はそれをふりきって逃げましたが、そのとき、片袖をもぎとられて、それが英二さんの手にのこりました。英二さんはその片袖をもって矢部家へかえる途中で、はからずも峯子さんと古林に出会いました。……」
マリはそこでちょっと身ぶるいをしたが、すぐまた抑揚のない調子でつづける。
「峯子さんとしてはそんな場所で男とふたりいるところを、英二さんに見られたということは非常な不利でした。そこで、鐘乳石で英二さんを刺しころしてしまいました。峯子さんがやったのか、古林が手をくだしたのか、いまとなってはそれをたしかめるよすがもありませんが……」
マリはそこまで語ってから、金田一耕助の顔色をうかがったが、耕助はそれにたいして否定もしなければ肯定もしなかった。
マリはそれに勢いをえたように語りつづける。
「そして……そして、ふたりはその当時、一般にはまだしられていなかった第三の入口から外へぬけだしたので、だれもふたりが鐘乳洞のなかにいたことをしるものはなく、完全に疑惑の外におかれていました。……以上が二十三年以前の事件の真相でございますわね」
そこでマリはまたちょっと、金田一耕助の顔色をうかがったが、あいては依然として無表情である。いや、その無表情の底にはふかい悲しみが培養されているのである。
「さて、星移り月変りここに二十三年の歳月がすぎました。古林徹三はなにもかもいっさいをうしない、無一物同様になって矢部家をたよってまいりました。古林徹三の武器というか、財産というか、それは二十三年以前の峯子さんの秘密であったでしょう。そこであの土曜日の晚、うちじゅうのものすベてが留守になったのをさいわいに、峯子さんを強要して鐘乳洞のなかへつれこみました。おそらく峯子さんをして、二十三年まえの事件の記憶を深からしめて、じぶんを粗末にしないようにという一種の脅迫だったのではないでしょうか。ところがはからずもそこへ矢部の祖父が入ってきたので、ふたりはおどろいて底なし井戸のそばまで逃げました」
マリはそこでちょっとひと息いれると、
「そのとき、ふたりがすぐに第三の洞窟の入口を発見し、そちらのほうへ逃げていれば問題はなかったと思います。しかし、あの入口はしごく小さいし、それにふたりともしばらくぶりだったので、その入口を発見するまでにはちょっと手間がかかりました。そこへ暗がりのなかへたれかがちかづいてきました。ちかづいてきた人間はそこで扮装をこらしてカンテラをつけました。ふたりはそれをみて、かつてじぶんたちが無実の罪におとしいれた朋子だと思いあやまりました」
マリはそこではげしく身ぶるいをすると、
「母に扮装したあたしは、そこにかつて母を罪におとしいれたふたりの人物がひそんでいて、じぶんでも思いもかけぬ効果をそのひとたちに投げかけていようとは夢にも思いもうけませんでした。そこで、ころあいをはかって扮装をとき、カンポをつれてもときた路へひきかえす途中で、矢部の祖父とすれちがいました。矢部の祖父はそのまま底なし井戸のそばまで走って、そこで峯子さんと古林を発見したのでしょう。そして……そして、そこに二十三年まえとおなじことがくりかえされました。峯子さんか古林のどちらかが、矢部の祖父を突き刺したのです」
マリはそこで吐息とともにことばをむすんだ。
そして、しばらく両手で顔をおおうているのは、乙奈と杢衛のあの腸もついえんばかりの、名残りのシーンを思いだしているのではあるまいか。感傷をすてたといっても、そこは年若い娘のことである。父方の祖父と母方の祖母の、あの劇的な場面はながくマリの記憶にとどまって、終生消えることはあるまい。
「金田一先生」
しばらくするとマリは涙にぬれたような眼をあげて、
「それからあとのことは蛇足になりますから省略するとして、ただひとつお訊ねしたいことがございますの」
「はあ、どういうことですか」
「宮田文蔵というひとの遺書によると、あのひと、あたしから先生に差上げた告白書……と、いうよりは先生の要請によって書いた告白書を盗み読んだとありましたが、峯子さんというひとも、それを読んだ形跡がございましょうか」
金田一耕助はしばらく黙っていたのちに、かすかにうなずきながらこう答えた。
「ぼくは射水の町を立去るとき、ふたつのものを用意していました。峯子さんの指紋と宮田文蔵氏の指紋とを。……どちらもこっそり死体からとっておいたものです。東京へかえってから、おなじ指紋があなたの告白書のうえにあるかどうか、専門家に調べてもらいました。どちらもはっきりのこっていました」
マリはすすりなくような声を鼻からもらして、
「それじゃ、やっぱり峯子さんも……」
「いや、順序からいえば峯子さんのほうがさきでしょう。ぼくは峯子さんに読ませるようにしむけたのだから。その峯子さんが盗み読みしているところを文蔵氏がみた。それでじぶんもあとからこっそり読んでみたのでしょう」
「それでは文蔵さんの遺書にあった、峯子がじぶんを怪しんであとからこっそりつけてきた……と、いうのは逆にかんがえてもよろしいのでしょうねえ」
金田一耕助は力なくうなずいて、
「たぶんあなたのおっしゃるとおりでしょう。そして、もしそうだったら、そのとき、文蔵氏は峯子さんを殺害する決意をしていたのでしょうねえ。ああして、峯子さんの浴衣から帯から下駄から……」
と、金田一耕助はちょっといいよどんで、
「腰のものまで用意してきたところをみると……」
「それは……」
と、マリは鼻をつまらせて、
「どういう意味だったのでしょう。峯子さんを殺害したあとで、着物まで着更えさせておいたというのは……?」
金田一耕助はとつぜん兇暴ともいうべき眼をマリにむけた。そして、いままで抑えつけていた感情が、とつぜん奔り出たように強い調子でひと息にいってのけた。
「それはいうまでもない。峯子さんのやったことをあくまで世間からかくしておくためだったのです。それではなぜにそのようなことをやったか。あのひとは……宮田文蔵というひとはこのうえもなく都さんを愛していたんです。だから、都さんのために……都さんの将来のためにそれをやったんです。殺人者を母にもつ娘よりも、殺人者を伯父にもつ姪のほうが、まだしも都さんの将来のためにいいだろうと思ったからです。これが日本人のもつ愛情、自己犠牲なのです。わかりましたか」
それだけいうと金田一耕助は椅子から立ちあがった。そして、マリがとめようとすることばも待たずにドアから外へ走り出していた。
それから三日ののちに、金田一耕助はマリから一通の手紙と小さな小包みをうけとった。
手紙にはこういう意味のことがしたためてあった。
このあいだはたいへん失礼した。じぶんの詮索癖、あまりにも度を過した詮索癖が先生の感情を害したようで、まことに申訳なく思っている。ことに先生の最後におっしゃったことばはあたしの心臓をつらぬいた。あのおことばを終生忘れぬようにしようと思う。それはさておき、先生がとつぜんかえられたので、じぶんは射水の町を去るとき、矢部の父とのあいだに取りかわした約束を果すことができなかった。矢部の父は先生をお招きしながら、なんの謝礼もしなかったのを気にしていた。だから、じぶんが東京でお眼にかかって、適当のお礼をするであろうと約束してきたのである。いま父との約束を果すために、小包みで粗品お贈りしたから、なにとぞわれわれの意のあるところを汲んで快く納めてほしい。……云々。