と、あって小包みのなかから出てきたのは、ゆうに二カラットはあるであろうと思われる上質のダイヤだった。
金田一耕助はおどろいてホテルに電話をかけてみたが、支配人の返事によると、マリはきのう羽田からアメリカ経由でブラジルへ発ったという。……
人面瘡
一
「警部さん、警部さん、もし、磯川警部さん、恐れいりますが、ちょっと起きてくださいませんか。もし、磯川警部さん」
障子のそとから気ぜわしそうに呼ぶ声に、やっとうとうとしかけていた金田一耕助は、はっと浅い夢を破られた。
じぶんを呼んでいるのかなと、寝床のうえで半身起した金田一耕助が、|片《かた》|肘《ひじ》をついたまま聞き耳を立てていると、ふたたび、
「警部さん、警部さん、もし、磯川警部さん、ちょっと……」
と、切迫した男が障子のそとで|喘《あえ》ぐようである。それは金田一耕助を呼んでいるのではなく、|枕《まくら》をならべてそばに寝ている磯川警部を呼んでいるのである。
若い男の声で、だいぶんせきこんでいるようだが、かんじんの磯川警部は寝入りばなとみえて、灯りを消した座敷のなかで健康そうな寝息がきこえる。
金田一耕助が枕下の電気スタンドをひねると、陽にやけた磯川警部の顔がはんぶん夜具に埋まっていた。みじかく刈った白髪が銀色に光って、地頭がすけてみえている。
「警部さん、警部さん」
と、金田一耕助が寝床から体をのりだして、
「起きなさい、起きなさい。だれかがあなたを呼んでいらっしゃる」
と、|蒲《ふ》|団《とん》のうえから体をゆすると、磯川警部ははっとしたように眼を見開き、
「えっ!」
と、下から金田一耕助の顔を見ていたが、急に寝床のうえに起きなおると、
「先生、な、なにかありましたか」
「いや、わたしじゃありません。縁側からどなたか呼んでいらっしゃる……」
「えっ?」
と、寝間着にきてねた浴衣のまえをつくろいながら、磯川警部が縁側のほうへむきなおると、障子の外に懐中電灯をもった男の影がちらちらしていた。
「だれ……? そこにいるのは……?」
「ぼくです。警部さん、貞二です。ちょっとお願いがあってまいりました。恐れ入りますがこっちへ顔をかしてくださいませんか」
「なあんだ。貞二君か」
と、磯川警部は寝床から起きあがると、黒いくけ|紐《ひも》を締めなおしながら、
「いったい、どうしたんだい、いまごろ……?」
と、障子の外へ出ていった。
貞二君というのは宿のひとり息子である。
金田一耕助はそのうしろ姿を見送っているうちに、ふっと夜更けの|肌《はだ》|寒《ざむ》さをおぼえたので、夜着をひっぱってふかぶかと寝床のなかにもぐりこんだが、うとうとしかけているところを起されたせいか、なかなか寝つかれそうになかった。
障子の外では磯川警部と貞二君が、なにか早口にしゃべっていたが、やがて警部が障子のすきから顔をのぞけて、
「金田一さん、ちょっと母屋のほうへいってきますから……」
「ああ、そう、なにか……?」
「はあ、貞二君の話によると、なにかまたやっかいなことが起ったらしい。ひょっとすると、またお起しするようなことになるかもしれませんが、それまではごゆっくりとお休みください」
「金田一先生、夜分お騒がせして申訳ございません」
と、貞二君も磯川警部の背後から顔をのぞけた。
「いやあ……」
と、金田一耕助が寝床のうえから半身起して、ショボショボとした眼で笑ってみせると、
「それじゃ、警部さん」
「ああ、そう」
と、磯川警部が障子をしめると、やがてふたりの足音があわただしく、離れの縁側から渡り廊下のほうへ遠ざかっていった。
いったい何事が起ったのか――と、金田一耕助が|枕下《まくらもと》においた腕時計をみるともう二時を過ぎている。
耳をすますともなく聞き耳を立てていると、ひろい宿のむこうのほうで、なにかしら、ただならぬ気配がしている。宿のすぐうしろを|谿流《けいりゅう》が流れているのだが、上流のほうで雨でもあったのか、今夜はひとしお岩を|噛《か》む谿流の音が騒々しいようだ。
なにか事件があったとすると、それは宿のものか、それとも泊りの客か、いや、そうそう、宿の隠居のお柳さまというのが、半身不随でながく寝ているということだが、そのひとになにかまちがいでも起ったのではないか。たしかさっきの磯川警部と貞二君との立話のなかに、お柳さまという名が出たようだが……
と、そんなことを考えているうちに、金田一耕助はハッとさっき見た異様な情景を思い出した。
そうだ、ひょっとするとこの騒ぎは、さっきじぶんが目撃した、あの異様な光景となにか関係があるのではないか。……
それは一時間ほどまえのことだった。金田一耕助は便意を催して、寝床を出て|廁《かわや》へいった。磯川警部はよく眠っていた。金田一耕助は廁に立って、いい気持ちで用を足しながら、なにげなく廁の窓から外をみていた。
|今《こ》|宵《よい》は|仲秋名月《ちゅうしゅうめいげつ》のうえに、空には一点の雲もなく、廁の外には谿流をこえて、奇岩奇樹が真昼のような鮮かさでくっきりとした影をおとしていた。
眉にせまる対岸の峰々も、はっきりと明暗の|隈《くま》をつくりわけてそそり立っている。眼をおとすと、宿の下を流れる谿流が、月の光にはてしない|銀《ぎん》|鱗《りん》をおどらせて、そこからほのじろい蒸気がもうもうと立ちのぼっている。
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名月にふもとの霧や田のけむり
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柄にもなく金田一耕助はふと芭蕉の句を思い出したりした。
あれはたしか芭蕉の紀行文にあった句だが、いったいどこへの旅のおりの句だったか――と、ぼんやりそんなことを考えながら用を足していると、|忽《こつ》|然《ぜん》として、この静寂な俳句の世界へわりこんできた人物があった。
おや……?
と、用をおわった金田一耕助が身を乗りだすようにして瞳をこらすと、いま眼前にあらわれたのは女であった。
年齢は二十六、七であろう。
髪を地味な|束《そく》|髪《はつ》に結って、フランネルのようなかんじのする寝間着を着ている。月光のせいで、その寝間着がまっしろに見えた。いや、まっしろにみえたのは寝間着ばかりではない。髪も手も素足も(その女ははだしだった)……髪の毛さえも、白いというより銀色にかがやいていた。
それにしてもいまじぶん、若い女がどこへいくのだろう。……
金田一耕助はふしぎそうに、女の動きを眼でおっていたが、そのうちにハッとあることに気がついた。そして、にわかに興味を催したのだ。
その女のあるきかたに、尋常でないものがあるのに気がついたからである。まるで雲を踏むような步きかただった。顔を少しうしろに反らし、両手をまっすぐに側面に垂れ、わき眼もふらずにひょうひょうとして步いていく。その步きかたにどこか非人間的な|匂《にお》いがあった。
夢遊病者……?
金田一耕助は職業柄、夢遊病者に関する事件を、いままでに扱ったことも二、三度ある。なかには夢遊病者をてらった事件さえもあったのだが。……
しかし、じっさいに夢中遊行のその現場を、これほどまざまざと目撃したのはこれがはじめてである。金田一耕助は廁の窓からのりだすようにして、月光のなかをいくこの異様な女のすがたを見まもっていた。
女は左手のほうから現れたかとおもうと、廁から五、六間離れたところを横切って、宿の裏手から谿流のほうへおりていった。あいかわらず雲を踏むようなひょうひょうたる足どりで、|磧《かわら》の石ころづたいに下流のほうへ姿を消していった。
彼女のいくてには|稚《ち》|児《ご》が|淵《ふち》という、ふかい淵があるはずなのだが。……
女のうしろ姿が見えなくなると、金田一耕助はふっとわれにかえった。気がつくと全身がかるく汗ばんでいる。その汗が冷えるにしたがって、秋の夜更けの冷気が身にしみわたって、金田一耕助はおもわず身ぶるいをした。
このことを宿のものに知らせるべきかどうか。……
金田一耕助はちょっと迷ったが、けっきょく黙っていようと考えた。他人の秘事に立ちいることを|懼《おそ》れたのだ。
若い女のこういう奇病を騒ぎ立てられるほど、当人にとっても身寄りのものにとっても、迷惑なことはないだろうと考えたのと、もうひとつには、夢遊病者というものに、案外、|怪《け》|我《が》のないものだということをしっていたからである。
だから、それから間もなくじぶんの部屋へかえってきた金田一耕助は、となりに寝ている磯川警部を起そうともしなかった。そのまま枕に頭をつけて、まもなくうとうとしはじめていたのだが。……
こういうふうに書いてくると、金田一耕助というこの男が、いかにも冷淡で、不人情な人間のように思われるかもしれないが、かならずしもそうでないことは、諸君もよくしっているはずである。
金田一耕助のように長いあいだ、いっぷう変った特殊な職業に従事している人物にとっては、人間の生命だの運命だのという問題に関しても、おのずから常人とちがった感情があるのもやむをえまい。
それに金田一耕助はそのとき事件に食傷気味でもあったのだ。
東京のほうでむつかしい事件を解決して、その骨休みにと思ってやってきたのが岡山だった。金田一耕助と岡山県との関係は、かれの|探《たん》|偵《てい》|譚《たん》をお読みのかたはご存じと思うが、金田一耕助はこの土地のあたたかい人情風俗がたいへん気にいっているのである。
だから、東京の俗塵をさけた金田一耕助が、しばしの憩いの場所として岡山の土地をえらんだのはべつに不思議でもなんでもない。そこで岡山へやってきた金田一耕助は、さっそく県の警察本部につとめている、お|馴《な》|染《じ》みの磯川警部を訪ねていった。できれば警部にしかるべき静養地を紹介してもらおうという魂胆だった。
ところがあにはからんや、岡山で金田一耕助を待ちかまえていたものは、またしても|厄《やっ》|介《かい》千万な殺人事件であった。しかも、その事件の担当者が磯川警部とあってはただではすまない。
事件の捜査が|暗礁《あんしょう》に乗りあげて、磯川警部が四苦八苦、苦慮|呻《しん》|吟《ぎん》しているところへ、ひょっこり金田一耕助がやってきたのだから、警部にとっては地獄で仏にあったも同然だった。金田一耕助がいやおうなしに事件のなかへ引っ張りこまれたことはいうまでもない。
金田一耕助は磯川警部にたいする友情としてもひと肌ぬがずにはいられなかった。さいわい三週間で事件の解決はついた。しかも、犯人が自殺してしまったので、磯川警部も事後の|煩《はん》|瑣《さ》な手続きから解放された。
そこで、そのお礼ごころに磯川警部が案内したのが、この|薬《やく》|師《し》の湯なのである。そこは岡山県と鳥取県の境にちかい、文字どおり草深い田舎だが、ここの湯は眼病に|効《き》くというので、県下ではちょっとしられた湯治場になっているらしい。
磯川警部も一週間ほど休暇をとって、ゆっくりと金田一耕助につきあうつもりで、きょう昼間ここに旅装をといたばかりだったのだが。……
二
「先生、金田一先生、もうおやすみですか」
電気スタンドの灯りを消して、金田一耕助がまたうとうととしかけているところへ、磯川警部がかえってきた。
「ああ、いや、まだ起きていますよ」
金田一耕助は寝返りをうって、電気スタンドのスイッチをひねると、
「警部さん、どうかしましたか」
「ああ、いや……」
と、金田一耕助の顔を見おろしながら、厚いてのひらでつるりと額を|撫《な》であげる磯川警部のおもてには、世にも奇妙な色がうかんでいる。
金田一耕助と磯川警部はもうながいあいだの交際なのだ。だから警部の顔色をみると、金田一耕助にも事件の規模はわかるのだ。耕助は思わず寝床のうえに起きなおった。
「警部さん、なにか……」
「いや、先生」
と、警部は肉の厚い顔をしかめて、
「夜中はなはだ恐れ入りますが、ちょっと見ていただきたいものがあるんですが……」
「なにか事件ですか」
「はあ、こんなところまできて、また事件ではまことに申訳ないんですが、じつはカルモチンの自殺未遂なんです。ただし、そのほうの処置はいたしました。さいわい、発見がはやかったので、命はとりとめると思うんですが……」
物慣れた磯川警部は、カルモチンの自殺未遂ていどの事件ならば、医者がくるまでの応急処置くらいは心得ているのである。
「はあ、はあ、なるほど、それで……?」
「ところが、ここにちょっと妙なことがあって、それをぜひ先生に見ていただきたいんですが……先生にしてもごらんになっておかれたら、なにかの参考になりゃせんかと思うんですがな」
磯川警部の瞳には一種異様なかぎろいがある。それがなにか言外の奇妙な意味を物語っているようであった。
「ああ、そう、それじゃ……」
と、金田一耕助は気軽に立ちあがると、浴衣のうえからドテラを重ねた。さっきから見ると、またいちだんと冷えこむようだ。
田舎の湯治場などによくあるように、この薬師の湯もあとからあとから立てましたらしく、長い縁側や渡り廊下が、まるで迷路のようにひろがっている。外はあいかわらずよい月らしく、しめきった雨戸のすきから、鮮かな光がさしこんで、廊下のうえにくっきりとした縞目をつくっている。足の裏にその廊下の感触がひんやりとつめたかった。
磯川警部の案内で、長い縁側や渡り廊下を抜けて、母屋の裏側にあたっている雇人だまりのまえまでくると、なかから灯りの差す障子の外に黒い影が立っていた。
立ちぎきでもしていたのか、その男は障子のなかのようすをうかがっていたらしいのだが、ふたりの足音をきくとあわててそこを離れた。そして、顔をそむけるようにして、ふたりのそばをすり抜けると、母屋のほうへ逃げていった。
すれちがうとき、金田一耕助がなにげなくみると、右の|頬《ほお》におそろしい|火傷《や け ど》のひきつれのある男だった。
「なんだろう……? あの男……」
そのうしろ姿を見送りながら金田一耕助がつぶやくと、磯川警部もうさんくさそうに眉をひそめて、
「変ですねえ。宿の浴衣を着ていたから客でしょうが、やっこさん、ここでなかのようすを立ちぎきしていたんじゃありませんか」
「どうもそうらしいですね」
「頬に大きな火傷の跡かなんかがありましたね」
「そう、だから目印にはことかかない」
磯川警部はふっと不安らしく金田一耕助の顔をふりかえったが、すぐ思いなおしたように障子に手をかけて、
「さあ、どうぞ、この部屋です」
障子をあけるとそこは六畳、いかにも奉公人の部屋らしく、|煤《すす》けてゴタゴタしたなかに寝床がひとつ敷いてあって、そこに女がひとり|昏《こん》|睡《すい》状態で横たわっている。
金田一耕助はその女の顔をみたとたん、思わずほほうっと眼をみはった。
それはたしかにさっきの女、金田一耕助が廁の窓から目撃した夢中遊行の女であった。さっきは夜目遠目でよくわからなかったが、こうしてちかくから見ると、透きとおるような肌をしたなかなかの美人である。
女の枕下には男がひとり、落着きのない、心配そうな顔色で|坐《すわ》っていた。年頃は三十前後か、がっちりとしたよい体格をしているが、どこか神経質らしい男である。昏睡した女の寝顔を見まもりながら、しきりに唇をかんでいる。金田一耕助と磯川警部の姿をみると、少しあとへさがって窮屈そうに頭をさげた。
これが薬師の湯のひとり息子で、去年の秋、シベリヤから復員してきたばかりだという貞二君なのである。
「このご婦人は……?」
金田一耕助が女の枕下に腰をおろして、磯川警部をふりかえると、
「ここの女中さんで松代というんだそうです」
「カルモチンをのんだんだそうですね」
金田一耕助が貞二君のほうへむきなおると、
「はあ」
と、貞二君はかたわらの|一《いっ》|閑《かん》|張《ば》りの机のうえにあるカルモチンの箱を眼でしめした。
金田一耕助が手をのばしてその箱を手にとってみると、なかはすっかり空になっている。
「どうして自殺などはかったのかわかっていますか」
金田一耕助が訊ねると、
「貞二君、先生にあれをお眼にかけたら……?」
と、磯川警部がそばから注意した。
貞二君はちょっと|挑《いど》むような白い眼をして、磯川警部をにらんだが、やがてふてくされたように肩をゆすって、一閑張りの机のひきだしから、一通の封筒を取りだして、突きつけるように金田一耕助のほうへ差し出した。
金田一耕助が手にとってみると、封筒のおもてには万年筆の女文字で、御隠居さま、若旦那さまへと二行にわたって書いてあり、裏をかえすと松代よりとしたためてあった。かなり上手な筆蹟だが、ところどころ文字がふるえているのは、これを書いたときの筆者の心の動揺をしめすものだろうか。
「なかを見てもかまいませんか」
「どうぞ」
貞二君はあいかわらず、ふてくされたような調子である。
なかは女らしい模様入りの便箋で、そこになんの前置きもなく、いきなり、つぎのような奇妙な文句が、表書きとおなじ女文字で書いてあった。
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あたしは今夜また由紀ちゃんを殺しました。由紀ちゃんを殺したのはこれで二度目です。病気のせいとはいえ二度も由紀ちゃんを殺すなんて、なんというわたしは恐ろしい女でしょう。由紀ちゃんの呪いはせんからわたしの|腋《わき》の下にあらわれて、日夜、わたしを責めさいなみます。わたしはとても生きてはおれません。いろいろお世話になりながら、御恩がえしもできませず、かえって御迷惑をおかけいたしますことを、じゅうじゅうお詫び申上げます。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]松 代
[#ここから3字下げ]
御隠居さま
若旦那さま
[#ここで字下げ終わり]
金田一耕助は眉をひそめて、注意ぶかく、二、三度その文面を読みかえしたのち、貞二君のほうをふりかえって、
「この由紀ちゃんというのは……?」
と、訊ねたが、貞二君が肩をそびやかしたきり答えなかったので、そばから磯川警部がかわって答えた。
「ここにいる松代の妹だそうです」
「やはりここにいるんですか」
「はあ、この春、松代をたよってきて、そのままここの女中に住込んだんだそうです」
「この手紙には松代君が今夜、妹を殺したように書いてありますが、なにかそういう気配でもあるんですか」
金田一耕助が訊ねると、磯川警部も渋面をつくって、
「さあ、それがよくわからないんですね。さっき松代君がにわかに苦しみ出したので、ほかの女中がびっくりして貞二君を呼びにいったんだそうです。そこで貞二君が駆けつけてくると、そういう遺書が枕下においてあった。それでいま手分けをして由紀子という女の行方をさがしているところなんですがね」
「それじゃ、まだ行方がわからないんですね」
金田一耕助が念を押すように貞二君のほうをふりかえると、
「はあ、まだ……とにかく家のなかにはいないようです」
と、貞二君は吐き出すような調子であった。
金田一耕助は改めてその貞二君の顔を見なおした。この男は松代という女の自殺未遂をどう思っているのか。多少なりとも|不《ふ》|愍《びん》がっているのか。それとも迷惑なこととして内心の怒りをおさえかねているのではないか。
どっちともとれる貞二君のそのときの顔色だった。
金田一耕助はふとさっき見た松代の姿を思い出していた。雲を踏むような足どりで稚児が淵のほうへおりていった、松代の奇妙な姿を|脳《のう》|裡《り》にえがきだしていた。
しかし、そのことについてはまだいうべき時期ではないであろうと差しひかえた。いずれ松代が|覚《かく》|醒《せい》したらそのことについてただしてみよう。
その松代は額にいっぱい汗をうかべて、寝苦しそうな荒い息使いである。顔色がびっくりするほど悪かった。
金田一耕助はまた改めて遺書の文面に眼を落して、
「それにしてもここに妙なことが書いてありますね。由紀ちゃんを殺したのはこれで二度目ですと。……これはいったいどういう意味でしょう。病気のせいとはいえ、二度も由紀ちゃんを殺すなんて……と、書いてありますが、松代君はまえにも妹さんを殺した……いや、殺そうとしたことがあるんですか」
金田一耕助は貞二君を見た。貞二君はあいかわらずふてくされたようすで、ふてぶてしくぶっきらぼうな調子で、
「松代は気が変になっていたんです」
「気が変になっていた……? なにかそういう徴候があったんですか」
「いや、いや、そういうわけじゃありませんが……」
と、貞二君はいくらかあわてた調子で、
「しかし、そうとしか思えないじゃありませんか。でなきゃそんな妙なことを書くはずがない。おなじ人間を二度殺す。そんなバカなことがあるはずがないじゃありませんか。だいいち、今夜、由紀子を殺したというのだって、どうだかわかったものじゃない」
「しかし、それじゃ由紀子さんはいまどこにいるんです。こんな時刻に若い娘が家のなかにいないというのはおかしいじゃありませんか」
そのときまた金田一耕助の脳裡には、ひょうひょうたる足どりで、稚児が淵のほうへおりていった松代の姿がうかんだが、かれはあわててそれを|揉《も》み消した。
「なあに、どっかひとめのつかないところで寝ているか、それとも……」
「それとも……?」
「いやさ、だれか男と|逢《あい》|曳《び》きでもしているのかもしれませんよ。あっはっは!」
こういう場合としては、貞二君のその笑いかたには、なにかしらひとをゾッとさせるような毒々しさがあり、また多分にわざとらしかった。
金田一耕助は眉をひそめて、さぐるようにあいての顔色を見つめていたが、それでも言葉だけはおだやかに、
「いや、できればそうあってほしいものですね。ところで最後に、由紀ちゃんの呪いが腋の下にあらわれて……と、いうのはどういうわけですか」
「ああ、そのこと……」
と、磯川警部は膝をのりだして、
「じつはそれなんです、先生、あなたに見ていただきたいものがあるとさっき申上げたのは……貞二君、金田一先生に見ていただこうじゃないか」
「はあ……」
と、貞二君は答えたものの、その眼にはちょっと|怯《おび》えたような色が走った。
金田一耕助はふしぎそうにふたりの顔を見くらべながら、
「なんです。その見てほしいとおっしゃるのは……?」
「いや、じつはこれなんですがね」
磯川警部が掛蒲団をめくるのを、貞二君は毒々しい眼で見つめている。
磯川警部は蒲団を胸までめくると、女の胸を左右にかきわけ、金田一耕助の眼のまえで右の腋の下をむき出しにした。
と、同時に金田一耕助は大きく眼をみはって、思わず息をはずませたのである。
女の腋の下にはもうひとつの顔がある。
もっとも大きさはふつうの人間の顔よりよほど小さく、野球のボールくらいである。しかし、それはたしかに人間の顔……それも女の顔のようである。
眼、鼻、口……と、死人のように妙にふやけた顔だったが、まぎれもなく人間の顔の諸器官を、のこらずそなえているではないか。
三
「金田一先生」
と、磯川警部は呼吸をのむように、
「よく小説や物語なんかに|人《じん》|面《めん》|瘡《そう》というのがありますが、ひょっとするとこれがそうではないでしょうかねえ」
磯川警部のそういう声は、押し殺したようにふるえている。なんとなく|咽《の》|喉《ど》のおくがむずかゆくなるような声である。
金田一耕助はそれには答えず、無言のまま喰いいるようにその気味悪い|腫《はれ》|物《もの》を|眺《なが》めている。
じっさいそれは世にも薄気味悪い腫物だった。土左衛門のようにぶよぶよとして、眉毛のあるべきところに眉毛がないのが、ある種の悪い病気をわずらっている人間の顔のようである。眼のかたちはありながら、眼球のあるべきところにそれがなかった。|唇《くちびる》をちょっと開いているように見えるのだが、唇のあいだには歯がなかった。
ちょうどそれは|彫塑《ちょうそ》家が人間の首をつくろうとして、なにかのつごうで途中で投げだしたような顔である。そういえばちょうど粘土細工のような顔で、色なども土色をしている。
金田一耕助がそっと指でおさえてみると、ゴムのようにぶよぶよとした手触りだった。
「ふうむ!」
金田一耕助はおもわず太いうなり声を吐き出すと、貞二君のほうをふりかえった。
「このひと、昔からこんなものがあったんですか」
貞二君はギラギラと脂のういたような眼をひからせながら、強く首を左右にふって、
「そんなことしるもんですか」
と、きたないものでも吐きすてるような調子である。
「しっていたら、そんな気味の悪い女、一日だって家におくことじゃありません。とっくの昔に|叩《たた》き出してしまってまさあ」
と、恐ろしく残酷な口調でいったが、それでもさすがに気がとがめるのか、こんどは急に弱々しい口調になって、
「しかし、そういえばこの夏頃から、松代はほかの女といっしょに風呂へ入ることをきらって、いつも夜おそく、ひとりでこっそり入っていたそうです」
「そうすると、これが妹の由紀ちゃんの呪いというんですかねえ」
金田一耕助はもういちど、その奇怪な腫物を入念にのぞきこんだが、そのときそばから磯川警部が口をはさんで、
「いや、そういえばその顔は、どこか由紀子という娘に似てるようだと、ほかの女中たちがいってるんですがねえ」
金田一耕助はその言葉を聞いているのかいないのか、医者が難症患者を診療するような入念さで、その腫物をしらべていた。
と、そこへあわただしい足音をさせて、男衆らしい男がふたり、提灯をぶらさげたまま障子の外からとびこんできた。
「若旦那、たんへんです。たいへん……」
と、息を|喘《はず》ませていいかけたが、そこにいる金田一耕助に気がつくと、はたとばかりに口をつぐんでたがいに顔を見合せている。
「いいんだ、いいんだ、万造」
と、貞二君はもどかしそうに腰をうかして、
「由紀ちゃんのいどころはわかったのか」
「は、はい……」
「いいんだ、いいんだ。こちらは構わないかたなんだ。由紀ちゃんはどうしたんだ。いったいどこにいるんだ」
と、まるで噛みつきそうな調子である。
「はい、あの、それが……」
「それがいったいどうしたというんだい。もっとはっきりいわないか」
「はい、あの、すみません」
と、万造はあまりすさまじい貞二君の権幕に、いっそうおどおど度を失って、
「あの……稚児が淵に死体となってうかんでいるんです」
「稚児が淵に死体となって……?」
貞二君ははじかれたように立ちあがった。金田一耕助と磯川警部はおもわずぎょっとした眼を見交わせた。
そして、つぎのしゅんかん三人の眼はいっせいに、そこに昏睡している松代のほうへ注がれた。それじゃやっぱり松代が殺したのか……?
「へえ、あの、しかも由紀ちゃんは、素っ裸で水のなかに浮いてるんです」
金田一耕助はしずかに女の胸をかくすと、磯川警部のほうをふりかえって、
「警部さん、あなたお出掛けになるんでしょう」
「はあ……あの、それはもちろん……」
「そう、それじゃわたしもお供しましょう」
「先生、どうも恐縮です。せっかく御静養にいらしたのに、またとんでもないことがもちあがっちまいまして……」
「いいですよ。ちょっと考えるところがありますから……」
金田一耕助は松代の顔から貞二君のほうへ視線をうつすと、
「貞二さん、君も出かけるんでしょう」
「はあ……そ、それはもちろん」
「そう、それじゃちょっと待っていてください。警部さんとふたりで支度をしてきますから……ああ、そうそう、それからこの患者ですがね。みんな出かけたあとで、うっかり意識をとりもどして、また無分別を起すといけませんから、だれか気の利いたものをつけておいてください」
「はあ、あの、それは大丈夫です。まもなく先生がきてくださると思いますから」
こういう山奥の湯治場だから、医者までそうとう遠いのである。
「ああ、そう、それじゃ、警部さん」
「承知しました。それじゃ貞二君、ちょっと待ってくれたまえ」
もとの座敷へかえって支度をするあいだも、磯川警部はしきりに恐縮していた。
「金田一先生、表はそうとう寒いですよ。そのおつもりでお支度をなさらなきゃ……」
「はあ、二重廻しを着ていきましょう」
「そうなさい。わたしもレーン.コートを着ていきますから」
磯川警部はそうとうくたびれた背広のうえにレーン.コート、金田一耕助は例によって例のごとく、よれよれのセルの|袴《はかま》に足をつっこんだうえに、さいわい用意してきた|合《あい》トンビを肩にひっかけて、もとの女中部屋へかえってくると、松代の枕もとに夜具をつみかさねて、|肥《ふと》り|肉《じし》の老婆がひとりよりかかっていた。
それを見ると磯川警部は眼をまるくして、
「おや、御隠居さん、あんたが付添いをなさるんですかな」
「はあ、あの……これがあまり不愍でございますから、せめてお医者さんがお見えになるまでと思って、貞二にここへつれてきてもらいました。そちらの先生もご苦労さまでございます」
半身不随のお柳さまは、重い口で|挨《あい》|拶《さつ》をすると、不自由なからだを動かして、それでもキチンと坐りなおした。
「ああ、そうそう、金田一先生、ご紹介しておきましょう。こちらがここの御隠居のお柳さま、御隠居、こちらがいつもわたしがお噂している金田一先生」
磯川警部はこの薬師の湯とは遠縁にあたっているとかで、祝儀不祝儀にやってくるので、この家の内情にはそうとう精通しているのである。
お柳さまが改めてくどくどと挨拶をするのを、金田一耕助がほどよく応対しているところへ、貞二君も支度をして出てきたので、万造をさきに立てて一同は薬師の湯を出た。
時刻はもう真夜中を過ぎて暁ちかく、なるほど外はそうとう冷えこむのである。月ももうだいぶん西に傾いていた。
稚児が淵は薬師の湯から直線距離にして、五、六丁下手に当っているが、これを街道づたいにいくと、道が曲りくねっているので二十分はかかるのである。しかし、お柳さまの隠居所のすぐ下をながれている谿流の|磧《かわら》づたいに步いていくと、わずか数分の距離だという。
それを聞いて金田一耕助は、磧づたいの道をいくことを提案した。
「先生、危いですよ。大丈夫ですか。石ころ道なんですが……」
「なあに、大丈夫ですよ。月が明るいから提灯もいらない」
磧へおりるまえにふりかえってみると、さっき金田一耕助がのぞいていた廁の窓が、すぐ鼻先に見えている。
松代もこの道をいったのだ。
月がもうだいぶん西に傾いているので、谿谷は片かげりになっているが、金田一耕助の步いていく磧のこちらがわは、提灯の灯りもいらぬくらい明るいのである。
時刻はもう三時をまわっているので、二重まわしをはおっていても、山奥の夜の風は肌につめたかった。
金田一耕助は磯川警部と肩をならべて、わざと貞二君たちの一行と、すこしおくれて磧の石ころを渡りながら、
「警部さん、貞二君というのはどういうんです。松代という女にたいして、なにかおだやかならぬ感情をふくんでいるようですが……」
磯川警部もくらい眼をしてうなずくと、
「さあ、そのことですがね。わたしもちょっと意外でした。あれはむしろ貞二という男の、自責の念のぎゃくのあらわれじゃないかと思うんですがね」
「自責の念といいますと……?」
「いえね、貞二は後悔してるんですよ。松代にすまぬと思っているんです。しかし、男の意地として、すなおにそれが表明できないんでしょう。貞二というのは元来あんな男じゃない。わたしは子供のじぶんからしってますが、ごく気性のやさしい男なんです。もっとも、ちかごろ魔がさしたといえばいえますがね」
「貞二君はなにか松代に……」
「ええ、松代というのはいちど貞二の嫁ときまっていた女なんです。隠居もそれを希望し、貞二もひところは松代が好きだったはずなんです。それが、由紀子という妹があらわれてから、なにもかもむちゃくちゃになってしまったんです」
「貞二君は妹のほうが好きになったというわけですか」
「ええ、まあね。由紀子という女が貞二を|横《よこ》|奪《ど》りしてしまったんですね。話せばまあ、いろいろあるんですが……」
磯川警部はいかにもにがにがしげなくちぶりだった。
「ときに、警部さん」
しばらくしてから金田一耕助がまた口をひらいた。
「松代という娘のあの腋の下の奇妙な腫物ですがねえ。あなたはもちろんああいうこと、ご存じなかったんでしょうねえ」
「しりませんでした」
と、警部は身ぶるいをするように、大きな呼吸をうちへ吸うと、
「金田一先生、いったいあれはどういうんでしょう。人面瘡というのは話に聞いたことがありますが、なんだか気味が悪いですねえ」