「さっきの貞二君の話によると、松代君はこの夏頃から、ほかの女中といっしょに風呂へ入ることをきらって、夜おそくこっそりひとりで入浴していたといってましたね」
「そうそう、そんな話でしたが、それがなにか……?」
「いや、と、いうことは夏頃までは松代という娘も、ほかの女中といっしょに風呂に入っていたということになりますね」
「あっ、なるほど。すると、ああいういまわしい出来物ができたのは、夏よりのちということになるわけですね」
「そうです、そうです。いったい医者はあの腫物を、どういうふうに説明しますか。……とにかく変っておりますねえ」
金田一耕助はそれきり黙って考えこんだ。
しばらくいくと、磧はにわかにせまくなって、そこからはどうしても街道へあがらなければならなくなっている。
そのあがりくちで貞二君と万造が提灯をぶらさげて待っていた。そのへんから月の光と縁が切れて、むこうの山の陰へ入るのである。
街道へ出ると稚児が淵はすぐだった。
土地のひとが天狗の鼻と呼んでいる大きな一枚岩が、街道からすこし入ったところに張り出している。その下がふかい淵になっていて、土地のひとはそれを稚児が淵とよんでいる。
稚児が淵はいまはんぶんは月に照らされ、はんぶんは月にそむいて、明暗ふたいろに染めわけられて、しいんとふかい色をたたえている。
天狗の鼻の突端には、おとなの|臍《へそ》くらいの高さに|木《もく》|柵《さく》がめぐらせてあり、その木柵のこちらがわに、五つ六つの人影が、なにか声高にしゃべっていた。
貞二君はそれを見ると急に足をはやめた。金田一耕助と磯川警部もそのあとから足をいそがせた。
「ああ!」
天狗の鼻の木柵は一部分凸型になってつきだしている。ひとをかきわけてその凸部へ踏み出した貞二君は、その木柵に手をかけて、淵のなかをのぞきこみながら、うめくような声を咽喉のおくから|搾《しぼ》りだした。
金田一耕助と磯川警部も、貞二君の背後から淵のなかをのぞきこんだが、ふたりとも思わずあらい息使いをした。
月光に染め出された稚児が淵の、にぶく底光をはなつ水のなかから、針のような岩がいっぽん突出している。
土地のひとはその岩を稚児の指と呼んでいるが、その稚児の指のすぐそばに、女がひとりうかんでいる。しかも、その女は一糸まとわぬ全裸であった。月の光に女の裸身がまばゆいばかりにかがやいていた。
稚児が淵の水は、稚児の指をめぐって、ゆるやかに旋回しているらしく、女の裸身も木の葉のようにゆらりゆらりと、突出した岩の周囲をめぐるのである。月の光に女の裸身が、おりおり、魚の腹のような光を放った。
それは美しいといえば美しい、残酷といえばこのうえもなく残酷な眺めであった。
貞二君は爪も喰いいらんばかりに木柵をつかんで、やけつくような視線で女の裸身をみおろしていたが、とつぜん金田一耕助と磯川警部のほうをふりかえると、
「あいつだ、あいつだ、あいつがやったのだ!」
と、噛みつきそうな調子である。
「貞二君、あいつというと……?」
「火傷の男だ! 顔に火傷のひきつれがある男がやったのだ!」
「火傷の男……?」
磯川警部ははっとしたように、金田一耕助をふりかえったが、そのとたん、
「危い!」
と、叫んで金田一耕助が、貞二君の腕をつかんでうしろへひきもどした。
引きもどされた貞二君の腹の下から、木柵が一間あまり、大した音も立てずに、淵のなかへ|顛《てん》|落《らく》していったのである。
一同は茫然たる眼で、水面へ落下していく木柵をみつめている。
四
金田一耕助はまたいそがしくなりそうだった。
この男はよっぽど貧乏性にうまれついているとみえて、ゆっくり静養もできないように、いたるところに事件が待ちうけているらしい。ことにこの事件のばあい、かれはひとかたならぬ興味と好奇心にもえていた。松代の腋の下にあるあの奇怪な肉腫に、かれはこのうえもなく興味をそそられるのだ。
人面瘡。――
人面の顔をした肉腫に関する伝説は、日本にも中国にも、古くから語りつたえられている。なかには人面瘡が人間の声で歌を歌ったなどという、奇抜な伝説さえのこっているが、それらの多くはとるに足らぬ浮説で、科学的にはなんの根拠もなさそうだった。
たまたま、肉腫に生じた|皺《しわ》や凸凹が、眼、鼻、口に符節しているところから、そのような伝説が生じたのであろう。
ところが、ゆうべ金田一耕助の見た人面瘡は、そんな怪しげなものではなさそうだった。
ふたつの眼は単純な皺などではなくて、はれぼったい|瞼《まぶた》をひらけば、そこに水晶体の眼球があるにちがいないと思われた。
鼻も偶然の凸所などではなくて、不完全ながら、ふたつの鼻孔をそなえているように見えるのだ。
唇もいろこそ悪いが、たしかに人間の唇のようにみえ、それを開くとそのおくに、歯なみがあるのではないかと思われた。
それでいてその顔は、野球のボールくらいの大きさなのである。
南洋の土人のなかには、人間の生首を保存する方法をしっている種族がある。
それには|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》を抜きとってしまうのである。頭蓋骨をぬかれた首は、野球のボールくらいの大きさに収縮するが、それでもなおかつ、もとの顔のかたちを完全に保っているのである。
金田一耕助もある大学の医学教室に、そういう生首の標本が保存してあるのをみたことがあるが、ゆうべ見た松代の人面瘡からうける感じは、そういう生首によく似ていた。
昨夜――と、いうより今暁思わぬ活躍をした金田一耕助は、明方ごろやっと眠りについて、眼が覚めたのは十一時ごろだった。
朝昼兼帯の食事をすませた金田一耕助が、縁側へ|籐《とう》|椅《い》|子《す》をもち出して新聞を読んでいると、谿流の音にまじって、どこかで蝉がないているのが聞える。夜は冷えこむが日中はまだまだ暑いのだ。
新聞にはべつに変ったことも出ていなかった。金田一耕助はそれを小卓のうえに投げ出すと、ぼんやりとゆうべ見た人面瘡のことを考えていたが、そこへ磯川警部が庭のほうから汗をふきながらやってきた。
「やあ、お早うございます」
「お早う……と、いう時刻じゃありませんがね」
と、金田一耕助は白い歯を出してわらいながら、
「警部さんはゆうべ眠らなかったんでしょう」
「はあ。……でも、こんなこと慣れてますからな」
と、磯川警部は赤く充血した眼をショボショボさせながら、それでも元気らしく、金田一耕助のまえの籐椅子にどっかと腰をおろした。
「お元気ですねえ。警部さんは……ぼくはどうも睡眠不足がいちばんこたえます。意気地がないんですね」
「なあに、こちとらは先生みたいに脳ミソを使いませんからな。頭を使うひとにゃ睡眠不足がいちばん毒でしょう」
「ときに、検屍は……?」
「はあ、いますんだところです」
「死因は……?」
「解剖の結果をみなければ厳密なことはいえないわけですが、だいたいにおいて、溺死と断定してもよろしいでしょうねえ」
「解剖はいつやるんですか」
「きょうの午後、ここでやることになってるんですが……金田一先生」
「はあ」
「またお手伝いねがえるでしょうねえ」
「まあね。ぼくでお役に立つことでしたら……それはまあ、そのときのことにしましょう。ところで溺死ということにして、他殺か自殺か過失死か……と、いうことはまだハッキリしないわけですか」
「はあ、そこまではまだ断定できませんが、ここにちょっと妙なことがあるんです」
「妙なこととおっしゃると……?」
「あの稚児が淵の周囲のどこからも、由紀子の着物が発見できないんです」
「ほほう」
「あの女、まさかここから裸であそこまで、のこのこ出向いていったわけじゃないでしょうがねえ」
「なるほど、それは妙ですね」
「はあ、それから、もうひとつ妙なことがあるんです」
「もうひとつ妙なことというと……?」
「いや、あの顛落した木柵ですがねえ。あれはやっぱり鋭利な|鋸《のこぎり》かなんかでひききってあったんです。つまりだれかがもたれると、淵のなかへ落ちるように仕掛けてあったんですね。しかも、鋸でひききったあとを、黒くぬってゴマ化してあるんです」
「なるほど」
「まあ、そういうところから見ると、他殺の匂いもするんですが、と、いって、由紀子がその|罠《わな》に落ちたとも思えないんです。あなたもご存じのとおり、木柵は貞二君がもたれるまで、ちゃんとしていたんですからね。しかし、だれかがだれかを陥入れるために、あの木柵をひききってあったことはたしかですからね」
「なんだか複雑な事件のようですね」
「そうなんですよ。一見なんでもないような溺死事件に見えてますが、その底にはなにやらえたいのしれない複雑な事情がひそんでいるようです。だから、金田一先生」
「はあ」
「ひとつまたご協力願いたいんですが……」
「承知しました。それで、死体の状態は……?」
「それがまたふしぎでしてねえ」
と、磯川警部は眉をひそめて、
「あの稚児が淵というのは表面はあのとおりおだやかですが、水面下には岩がいっぱいあるんだそうです。しかも、底のほうにはかなり急な渦がまいているんですが、由紀子はその渦にまきこまれたとみえて、全身にひどい擦過傷をうけています。なかには肉のはじけたところもあり、そりゃ眼もあてられない死にざまです」
と、磯川警部はいまわしそうに眉をひそめて、
「もっとも、それらの傷はぜんぶ死後できたものですから、当人としてはべつに苦痛は感じなかったでしょうがねえ」
「このへんのひとたち、あそこで泳いだりすることがあるんですか」
「ああ、そうそう、そのことですがね。だいたい稚児が淵というのはいまいったとおり、そうとう危険な場所ですから、男はともかく女はぜったいに泳いではならぬと、昔からいわれているんです。女が泳ぐときっとたたりがあるというんですね。ところが由紀子という女がアマノジャクで、みんながとめると、よけい面白がって泳ぐというふうだったそうです。だから、いまにたたりがあるぞと、土地のものがいってるところへ昨夜の事件ですから、てっきり稚児が淵のぬしのたたりだというんですよ。田舎のものは単純ですからね」
「泳ぎにいって溺れたにしても、着物のないのが妙ですね。ああいうところで泳ぐばあい、だいたい着物をぬぐ場所はきまってるんでしょう」
「ええ、そう、きのう磧から街道へあがっていったでしょう。あの磧をもう少しいったところで、由紀子はいつも着物をぬいでいたそうですが、それが見当らないんですね」
「それで、溺死の推定時刻は……?」
「昨夜の九時ごろ……九時を中心として、前後に一時間くらい幅をもたせた時刻だろうというんですがねえ」
「すると、昨夜の八時半から九時半までのあいだということになりますが、そんな時刻に女が泳ぎにいくというのはねえ」
金田一耕助は昨夜、廁の窓から松代のすがたを目撃した時刻を思い出していた。
あれはたしか午前一時ごろのことだったが、してみると、あの時刻の松代の行動と、由紀子の溺死とのあいだには、直接にはなんの関係もないわけだ。
「ところで、松代は由紀子の死の責任がじぶんにあるように考えているようですが、その時刻……由紀子が溺死したと思われる時刻における松代の行動は……?」
「さあ、それが妙ですよ。昨夜、松代はわたしたちの座敷につききりでしたよ」
じつは昨夜、金田一耕助と磯川警部は名月を|賞《め》でながら、柄にもなく運座としゃれこんだのである。その席には貞二君もつらなっていた。
「あの娘はおとなしくて目立たないから、先生はお気づきだったかどうですか、終始この座敷にいましたよ」
「いや、それはわたしも気がついてましたよ。じぶんも俳句が好きだとかいってましたね」
「ええ、そう、ですから、あの娘が直接手をくだして、由紀子を殺したというのはおかしいんです。なにかそこに事情があることはあるんでしょうがねえ」
「貞二君は火傷の男が怪しいとかいってましたね。ありゃ、いったいどういう男なんです?」
「ああ、あの男……あれは田代啓吉といって大阪からきてるんですが、由紀子の昔の|識《しり》|合《あ》いらしいんですね」
「なるほど、すると、由紀子を追っかけてきた……と、いうわけですかね」
「まあ、そこいらでしょうねえ。ときおり、由紀子とひそひそ話をしているのを見たものがあるといいますし、それに、あの男がきてから、由紀子はすっかりヒステリックになっていたと、ほかの奉公人たちもいってるんです」
「それで、その男のアリバイは……?」
「ところが、それがちゃんとあるんですね。女中がふたり宵から十二時ごろまで、あの男の部屋でおしゃべりをしていたというんです」
「なるほど、それじゃ……」
「ええ、それほどふかい馴染みでもない客のために、女中がふたりまで、偽証するとは思えませんしねえ」
「貞二君は昨夜、われわれといっしょにいましたねえ」
金田一耕助はしばらく黙ってかんがえていたが、やがて思い出したように、
「由紀子は昨夜、なにをしていたんですか」
「はあ、あの娘はちかごろ眼をわずらっていて、客のまえへは出ないことにしていたそうです。それに貞二との問題がこじれているところへ、なにかひっかかりのあるらしい田代という男がやってきたりしたので、すっかりヒステリーを起していたんですね。ちかごろはとかく部屋にひっこもりがちだったというんですが、まあ、そうでなくてもムシャクシャしているところへ、眼が悪くなっちゃ、いっそう憂うつになるわけでしょう」
「ここの湯は眼病にきくというのに、どうして眼をわずらったりしたのかな」
「それも稚児が淵で泳いだたたりだっていってますよ。田舎のものはたあいがありませんからね。あっはっは」
金田一耕助はゆっくりとたばこを吸いつけた。それからしばらくよく晴れた空へまいあがる、煙のゆくすえを眺めていたが、やがておもむろに磯川警部のほうへむきなおった。
「それじゃ、さいごに貞二君を中心とした、松代と由紀子の三角関係についてきかせていただきましょうか」
「承知いたしました」
金田一耕助の質問に応じて、磯川警部の語って聞かせた事情というのは、だいたいつぎのとおりである。
五
松代が薬師の湯へ女中として住み込んだのは、昭和二十年六月、戦争がまだたけなわのころだった。
彼女ははじめから女中としてここへやってきたのではない。三月の大空襲で大阪を焼出された彼女は、ほとんど着のみ着のままの姿で、郷里の岡山県へ疎開してきたらしい。
しかし、当時の都会人と農村のひとたちとのあいだには、とかく意志の|疏《そ》|通《つう》をかいていた。農村のひとたちもいいかおをしていれば、つぎからつぎへと疎開してくる都会の連中に、喰いつぶされるおそれがあった。
物資でももっていればともかくも、松代のように着のみ着のままの疎開者は、農村としてももっとも迷惑な存在だった。けっきょくどこへいってもあたたかく松代を迎えいれてくれる家はなかったらしく、彼女はまるで乞食のように諸処方々を転々しなければならなかった。
そして、絶望のあまり自殺一步手前の心境で、|辿《たど》りついたのがこの薬師の湯である。
当時、薬師の湯は軍に徴用されて、傷病兵の療養所になっており、いくら手があっても足りない状態だった。
そのじぶん女あるじのお柳さまはまだ達者だったが、良人はとっくの昔に故人になっており、ひとり息子の貞二君は兵隊にとられて満洲にいた。だから、しっかりもののお柳さまが三人の女中をあいてに、てんてこまいをしているところへ、ころげこんできたのが松代である。
お柳さまは一も二もなく松代をひろいあげて女中にした。猫の手も足りないくらいの当時の事情では、氏素姓、身許しらべなどしているひまはなかったのである。
使ってみると松代はかげ|日《ひ》|向《なた》なくよく働いた。
松代は口数の少い女であった。それとどっか暗いかげを背負うているような淋しいところがあるのが難だったが、気性のやさしい、細かいところまでよく気のつく、まめやかな性質が、女あるじのお柳さまの気にいった。
傷病兵たちのあいだでも人気があって、松代はひっぱりだこだった。淋しいところを難としても、松代は美人でとおるに十分な器量の持主だった。傷病兵の二、三から求婚されたという噂もあったくらいだ。
やがて戦争がおわって、薬師の湯が昔の経営状態にかえっても、松代はひまをとろうとしなかった。お柳さまもまた松代を手ばなそうとはしなかった。
お柳さまは日ましに松代がかわいくなり、いつか、貞二が復員してきたら……と、楽しい夢想をえがくようにさえなっていた。
ただ、それにたいして大きな障害となったのは、松代の素姓がわからないことだった。
どういうわけか、松代はどんなに訊かれても、じぶんの素姓を打ちあけようとしなかった。故郷が岡山のどこなのか、大阪でなにをしていたのか、いっさい口をつぐんで語ろうとはしなかった。
あんまりしつこく訊くと泣き出すしまつで、どうかすると熱を出して寝ついたりした。なにかしら過去について、よほどひとにしられたくないことがあるらしく、あんまりそれを追求すると、ひまをとって出ていきそうにするのだった。
それがお柳さまにとっては不安の種だったが、しかし、そのことを除いては、松代のすベてがお柳さまの気に入っているので、彼女に出ていかれては困るのであった。
松代が前身をひたかくしにしていることに、絶えず不安と|危《き》|懼《く》をかんじながらも、お柳さまはやはり松代にたいする信頼をうしなわなかった。
長いあいだ湯治宿を経営していて、いつも数人の奉公人を使ってきたお柳さまは、ひとを見る眼をもっているという自負があった。
だから、松代が過去をかくしているにしても、松代自身に罪科があろうなどとは思えなかった。なにかしら大きな不幸に見舞われて、それを口にするのを潔しとしないのであろうと、お柳さまはかえって松代をいとおしがった。
ことに昭和二十二年の秋、中風で倒れてからというものは、いよいよ松代が手ばなせないものになってきた。お柳さまが倒れたのは、やはり、いつ復員するともわからぬ貞二君の身を思いわずらったからであろう。
松代はじっさいよく働いた。お柳さまにもよく仕えてその面倒も見た。少しもいやな顔もせず、お柳さまのおしもの始末までした。
いっぽう温泉宿の経営も常態に復して、客もだんだん多くなった。松代はそのほうでも骨身を砕いてはたらいた。
いまでは松代は、薬師の湯ではなくてはならぬ存在になっていた。
そこへ待ちに待った貞二君がシベリヤから復員してきた。それが去年の秋のことで、お柳さまのよろこびはいうまでもないが、さらに彼女をよろこばせたのは、かねて彼女がいだいていた夢想が、どうやら実現しそうな気配になってきたことである。
貞二君はすさんでいた。|苛《か》|烈《れつ》な戦争から戦後の|抑留《よくりゅう》生活が、貞二君の心をかたくなにし、すさんでとげとげしいものにしていた。その冷えきった魂に人間らしい温味を吹きこんでいったのは松代の存在だった。
貞二君は母のそばに意外にうつくしいひとを発見し、そのひとの母に対する献身的な、やさしい心使いのかずかずを見るにつけて、とげとげしく冷えきった心もしだいになごんでくるのを覚えた。
ちょうど春の氷がとけていくように、かれの魂にも愛情という暖い日差しが訪れてきた。ひかえめながらも、松代の貞二君をみる眼にも、しだいにもの思わしげないろがふかくなってきた。
お柳さまにとってはそれこそ思う壺だった。
若いふたりのあいだに愛情が芽生え、育っていくということは、年老いた母にとってはこのうえもない喜びであると同時に希望でもあったが、ここでも難点は松代の素姓がハッキリしないということだった。
薬師の湯は温泉宿とはいえ、由緒正しい家柄だった。どこの馬の骨とも牛の骨ともわからぬものを嫁にするわけにはいかなかった。ましてや、過去に暗いかげを背負うているとあってはなおさらのことだった。
それにもかかわらず松代は依然として、その過去について口をわらなかった。
このことが障害となって、三人が三人ともこの縁談に心がすすみながら、奥歯にもののはさまったような日がつづいた。
ところがそこへとつぜん、新しい事態がもちあがって、がらりと局面が一変した。それが由紀子の出現である。
ある日、とつぜん姉を頼って、由紀子がたよってきたときの、松代のおどろきようたらなかった。松代をあんなに信頼しているお柳さまでさえ、そのときの松代の態度ばかりは|腑《ふ》に落ちなかった。妹が訪ねてきたというのに、松代はまるで幽霊にでも出逢ったように、まっさおになってふるえていた。いまにも気をうしなって倒れそうな眼つきをした。
しかし、由紀子はいっこう平気で、しゃあしゃあとしてこんなことをいっていた。
終戦後、じぶんは神戸や大阪のバーやキャバレーで働いていたが、どこへいっても思わしくないおりから、風のたよりに姉がここにいるときいたからとんできた。都会はもういやになったから、ここで女中に雇ってほしいと。
そうして由紀子はそのまま薬師の湯に住みついたが、この由紀子の口からはじめて松代の素姓がわかってきたのである。
松代はおなじ岡山県のO市でも、有名な菓子の司、福田家の長女にうまれた。
福田屋というのは江戸時代からながくつづいた|老舗《し に せ》で、そこで売出す宝饅頭というのは、岡山でもなだかい名物になっていた。ところが、戦争中砂糖の輸入が|杜《と》|絶《ぜつ》したころから、しだいに店が左前になって、いまではすっかり没落している。
松代はしかしそのまえから、神戸にある親戚の葉山といううちへあずけられていた。
葉山家の次男譲治というのと縁談がまとまっていて、松代はそこへ花嫁修業のためにひきとられていたのだ。当時、譲治は私立大学の機械科を出て、航空機会社の技師をしていた。
ところがそこへ福田家の没落がやってきて、にっちもさっちもいかなくなったところから、妹の由紀子も葉山家へあずけられることになった。
そこで葉山家では家が手狭になったところから、つい近所にもう一軒かりて、そこへまだ式はすんでいなかったけれど、譲治と松代を住まわせ、由紀子もそのほうへ預けられていた。
そこへ昭和二十年三月のあの大空襲がやってきたのだ。不幸にも葉山家のある付近一帯は猛火につつまれ、譲治は火にまかれて死んだ。そして、松代もそれ以来、ゆくえがわからなくなっていたというのが由紀子の話なのである。
お柳さまはこの話をきいてひどくよろこんだ。福田屋といえば薬師の湯に劣らぬ名家であった。そこの娘ならば家柄としても申分なかった。
ただ、お柳さまにとって腑に落ちないのは、なぜそのことを松代がひたかくしにかくしていたかということである。由紀子の話が真実とすれば、そこにはべつに秘密にしなければならぬ理由は、いささかなりともなさそうに思われる。それがお柳さまにとっては不思議であった。
しかし、それも考えようによっては、女のせまい心から、福田屋の娘ともあろうものが、温泉宿の女中などしていることを恥じたのかもしれない。
それともうひとつ考えられるのは、松代と譲治とのあいだに、もっと深い関係があったのかもしれない。たとえ婚約のあいだがらとはいえ、まだ式もすまぬうちに、そういう関係になっていたのを、ものがたい松代は恥として、それを知られることを恐れていたのではあるまいか。……
しかし、それもあいてが死んでしまったいまとなっては、なんの障害があろうか。むろん処女でないというのは残念だが、おたがいに好きあっていれば、それもたいして問題にはならないだろう。
そこでお柳さまは手をまわして、福田屋のことを詳しく調べてみたが、由紀子の話にすこしも間違いはなかった。
松代はたしかに福田屋の長女であり、葉山譲治という婚約者があったが、それも三月の神戸の大空襲で死亡したということも、ハッキリたしかめることができた。その譲治と肉体的に関係があったかなかったか、そこまではたしかめようもなかったが。……
これで貞二君との結婚に、なんの障害もないことになったので、お柳さまは大喜びだったが、そこへまた思いがけない障害が持ちあがって、お柳さまを失望のどん底へ叩きこんだ。
由紀子と貞二君がひとめをしのんで、おくの|納《なん》|戸《ど》や土蔵へひそむようなことが、おいおいひとめについてきた。
由紀子というのは姉とちがって、派手で、明るい美貌の持主だが、気性も大胆で、積極的だった。キャバレーやダンス.ホールを渡りあるいてきているだけに、男の心をかきみだすコケティッシュなところもたぶんにそなえていた。そういう女にかかっては、貞二君のごときはひとたまりもなかった。
由紀子は貞二君と姉との関係、お柳さまの気持ちなど、百も承知のうえで、貞二君を誘惑したらしい。
それ以来、薬師の湯にはいざこざが絶えなかった。お柳さまと由紀子とはことごとにいがみあった。しかし、由紀子はお柳さまがどんなにいきり立とうと平気だった。
いちど関係ができてしまうと、貞二君はもう由紀子に頭があがらなかった。由紀子の歓心をかうために、貞二君は日夜きゅうきゅうたるありさまだった。貞二君をすっかり自家薬籠中のものにまるめこんだ由紀子は、じじつ上薬師の湯の女あるじとしてふるまった。半身不随のお柳さまなど眼中になかった。いわんや松代においておやである。
いちど貞二君の嫁として予定されていた松代は、またもとの女中の地位に蹴落されて、妹の虐使に甘んじなければならなかった。彼女は妹にどんなに口ぎたなくののしられても、黙々として立働いた。
貞二君は心中どう思っていたかわからない。あるいはお柳さまにすまない、松代に悪いと煩悶していたのかもしれない。しかし、貞二君のような気の弱い男は、いちど関係ができてしまうと、女に頭のあがらないものである。
由紀子とのあいだに夜毎展開される肉の饗宴が、貞二君の身も心もただらせ、すさませ、貞二君からすっかり理性をうばってしまった。どうかすると昼間から抱きあって、あたりはばからぬ法悦に、のたうちまわっているふたりの姿を、奉公人たちが目撃して、顔を赤くするようなことも珍しくなかった。
こうしてただれたふたりの関係が、一種異様な雰囲気を薬師の湯へただよわせているところへ出現したのが、あの顔半面に大火傷のある田代啓吉という男である。そして、そのことがまた局面を一変してしまったのだ。
一週間ほどまえ、田代啓吉という火傷の男が薬師の湯へやってきたときの、由紀子のおどろきといったらなかった。それはちょうど由紀子がはじめてここへやってきたときの、松代のおどろきにも似ていた。
由紀子はひどくおびえがちになり、ヒステリックになった。たまたま以前から患っていた眼病が悪化したことも手伝って、彼女はめったにじぶんの部屋から出なくなり、貞二君が押しかけていっても、まえのように|媚《こ》びをたたえて迎えるようなことはなく、かえってぎゃくに、剣もホロロに追いかえした。
そのことが貞二君をいらだたせ、粗暴にし、なにかしら突発しなければやまぬような、険悪な雲行きになっているところへ持上ったのが、昨夜の由紀子の変死事件であった。……
「なるほど」
と、磯川警部の長い話をききおわった金田一耕助は、考えぶかい眼付きでうなずきながら、
「それで、貞二君は田代啓吉という男を疑っているんですか」
「そうです、そうです。ところがその田代にはアリバイがある……」
「いったい、その田代という男は由紀子とどういう関係があるんです。それはまだわかっていないんですか」
「はあ、それはあとで訊いてみようと思ってるんですが、由紀子がああなったいまとなっては、素直に泥を吐きますかね」
「ああして大火傷の跡があるところをみると、なにか空襲に関係があるんじゃないでしょうかねえ」
「いや、わたしもそれを考えてるんですがねえ」
「松代の婚約者だった葉山譲治という男は、三月の神戸の大空襲で死亡したということでしたねえ」
「はあ。……金田一先生はあの男を葉山譲治だとお考えですか」
「いや、いや、葉山ならば由紀子よりむしろ松代のほうがおどろくはずですからねえ」
金田一耕助はしばらく黙って考えこんでいたが、やがてまた磯川警部のほうをふりかえると、
「ときに松代の容態はどうですか。まだ話ができる状態じゃないんですか」
「はあ、けさがた意識を取りもどしましたが、まだひどく|昂《こう》|奮《ふん》しているものですから……」
「ああ、そう」
金田一耕助はそのまま黙って、庭にそそぐすすきの穂に眼をそそいでいた。
日差しはまだ暑かったが、秋はもうそこまで忍びよってきているのである。
六
その午後、岡山市から出張してきたT博士執刀のもとに、由紀子の解剖が行われたが、かくべつ検屍の結果をくつがえすような材料も発見されなかった。
由紀子の死因はたしかに溺死で、その時刻も昨夜の九時前後と断定された。
しかし、溺死と断定されたといっても、そこから一足飛びに、自殺か他殺か、それとも過失死か、そこまでは決定するわけにはいかなかった。
不思議なことには、きのう着ていた由紀子の着物は、家の内からも外からも発見されず、それが|一《いち》|抹《まつ》の疑惑として取りのこされた。しかし、繊維品が貴重品扱いされる当節のこととて、だれかが由紀子の脱ぎすてた衣類を、こっそり持ち去ったのかもしれなかった。こういう山の奥のひなびた山村でも、油断もすきもない時代なのである。
解剖の結果をきいて金田一耕助と磯川警部が一服しているところへ、貞二君がしずんだ顔をしてやってきた。
「先生」
貞二君のようすはゆうべからみると、だいぶんおだやかになっている。
いちじの昂奮がおさまったのと、ゆうべ危いところを救われたことにたいする感謝のおもいが、貞二君の態度からいくぶんなりとも、とげとげしさを拭い去ったのであろう。
「貞二君、なにか用……?」
磯川警部は物問いたげな視線をむけると、貞二君はしょんぼりと頭を垂れて、
「はあ、松代が金田一先生と磯川警部さんに、なにかお話し申上げたいことがあるというのです。ぜひ聞いていただきたいことがあるから、ご迷惑でもむこうの部屋へきていただけないかといっているんですが……」
金田一耕助と磯川警部はふっと顔を見合わせたが、金田一耕助はすぐ気軽に立ちあがって、
「ああ、そう、警部さん、それじゃお伺いしようじゃありませんか」
昨夜の部屋へ入っていくと、寝床のうえに起きなおった松代が、蒼い顔をしてふたりを迎えた。その顔はいくらか|硬《こわ》|張《ば》っていたが、なにもかも|諦《あきら》めつくしたような平静さがそこにあった。
そのそばの積み重ねた夜具にはお柳さまがよりかかっていて、気づかわしそうに松代の横顔を見まもっていた。
松代は磯川警部の顔をみると、ひくい声で昨夜の応急処置の礼をいった。
「いや、いや」
と、磯川警部は厚いてのひらを気軽にふって、
「それはわしのせいじゃない。あんたの運が強かったんじゃな。しかし、そんなことよりも、なにか話があるということだが、体のほうは大丈夫かな。あんまり無理をせんほうがいいよ」
「はあ、有難うございます。でも、どうしてもみなさんに聞いていただきたい話がございますもんですから……」
「ああ、そう、じゃ、ぼつぼつでいいから聞かせてもらおうか」
「はあ……」
松代は強い決意のこもった眼で、金田一耕助と磯川警部を見くらべながら、
「さきほど貞二さまからおうかがいしたんでございますけれど、由紀ちゃんの死んだのは昨夜の九時ごろのことだということでございますけれど……」
「ああ、そういうことになっている」
「しかし、それ、なにかの間違いじゃございませんでしょうか」
「間違いというと……?」
「いいえ、由紀ちゃんの死んだのはゆうべの九時ごろじゃなく、ほんとうは、けさの一時ごろではないかと思うんですけれど……」
磯川警部は金田一耕助と顔見合わせたが、やがておだやかに体を乗りだすと、
「松代君、科学というものをもう少し信用してもらわなければ困るね。けさの検屍の結果も、さきほどの解剖の結果も一致しているんだよ。由紀ちゃんの死んだのは昨夜の八時半から九時半までのあいだにちがいなし」
「はあ……」
と、松代はたゆとうような眼をあげて、磯川警部と金田一耕助の顔を見くらべている。その眼にはかえって不安の色が濃かった。
「しかし、松代君、君はどうして検屍や解剖の結果に疑問をもつんだね。由紀ちゃんの死んだのを一時ごろだと、どうして君は考えるんだね」
「すみません。決してみなさんを信用しないというわけではないのですが……」
松代は瞳に涙をにじませると、溜息をつくように鼻をすすって、
「それじゃ、由紀ちゃんを殺したのはあたしじゃなかったのでしょうか」
と、自分で自分に語ってきかせるようなひくい、思いつめた声である。
「君じゃないね」
と、言下に磯川警部が断定した。
「げんにその時刻には君は、おれたちといっしょにいたじゃないか。おたがいにへたな俳句をつくっていたんだ。そうだろう」
「はい」
「しかし、松代君、君はまたどうしてそんなバカな妄想をえがいたんだ。由紀ちゃんを殺したのはじぶんだなんて……」
「はあ……」
松代はちょっと鼻白んだようにためらったが、すぐ決心をかためたように、キラキラと涙にうるんだ眼をあげると、