杢衛はギリギリ歯をかみならすような口調である。熱い呼吸が嵐のように耕助の頬をうつ。
金田一耕助はふと、さっき教会のまえで見た情景を思い出した。
あの男……頬に疵のある男……二十何年ぶりかで中国から引揚げてきたという、古林という男も、マリの母をひとめ見るなり朋子と呼び、そして、まるで幽霊にでも出遭ったような眼つきをしていたではないか。
金田一耕助ははげしく胸のさわぐのをおぼえるのである。
美しき女王
先祖代々、矢部家と仇敵のあいだがらにあるという玉造家は、矢部家と丘ひとつへだてた向うがわにある。矢部家におとらず、ひろい、大きな建物は、丘に抱かれるような位置にたっていて、したたるばかりの緑の色に、しっとりとくるまれている。
さて、金田一耕助がこの土地へ到着したその翌朝のこと。……
もしひとが玉造家の別館の、ベランダへ眼をやったら、そこに世にもうつくしいひとを見出して、思わず眼を見はらずにはいられなかったであろう。
じっさい、満ち足りた眠りから眼ざめて、朝の入浴をすませたばかりのマリは、たとえようもないほど美しい。
マリはいまベランダへ|籐《とう》|椅《い》|子《す》を持ち出して、家庭教師の河野|朝《あさ》|子《こ》を相手に、かるい食事をとっている。そのマリの全身を、緑の葉蔭からもれる七月の朝の太陽が、まぶしいばかりにふちどっている。
それはけさの太陽とおなじように、若さと健康のシンボルのようであった。
裏山からきこえる新鮮な小鳥の声が降るようである。
「先生、皆さまからの御返事はそろって?」
「ええ、だいたい。……」
「矢部さんからも返事はあって?」
「それが……あそこだけはまだ御返事がございませんのよ」
「あら、それじゃ困るわ」
マリは美しい眉をひそめて、
「あそこの御一家が抜けちゃなんにもならないわ。先生、ぜひ矢部さんの御一家もおそろいで、御出席くださるようにお願いしてみて」
「ええ」
マリの眉間にうかぶかたい決意のいろを見て、朝子はかすかに溜息をつく。
家庭教師の河野朝子はことし三十五になる。美人というのではないが、うちからにじみ出る知性が、この婦人の容貌を、上品で、しっとりと落着いたものにしている。
若いころ東京の女子大を出て、ながいあいだ、母校で教鞭をとっていたが、二年以前、マリのための家庭教師をさがしにきた、ゴンザレス氏の使者のおめがねにかなってブラジルへわたった。
そして、マリに日本ふうな教育をさずけているうちに、彼女はこの美しい教え子に、献身的な愛情を抱くようになっていた。彼女は生涯、この気高く、美しい女主人のそばをはなれまいと決心している。
彼女はマリの家庭教師であると同時に、マリの母君江のよき相談相手でもあり、付添いでもあった。きのうの夕方、黒衣婦人のおともをして、教会へお参りにいったのも、この河野朝子である。
「ほんとに先生、お願いしてよ。矢部家のひとたちが来てくれなかったら、あたしの計画はなんにもならないのだから」
マリは重ねて念を押した。母の君江や家庭教師の河野朝子のおしこみで、マリはとても日本語が上手である。
「はい、なんとかそういうふうに取りはからいましょう」
河野朝子はひくい声でこたえると、また、かるい溜息をつく。
マリはこの土地へつくとまもなく、土地の学校へ寄付をした。それはかなり莫大な金額だったので、町の有力者たちがお礼の意味で、マリを招待したことがある。
今夜はそのおかえしとして、マリがそれらのひとびとを、この家に招待しようというのだが、その席に矢部家のひとびとが出るかどうかということが、いま問題になっているのである。
「先生、きっとよ。お願いしてよ」
マリは何か思うところがあるらしく、いくらかきつい顔をして、念を押したが、そこへ、母屋のほうから庭づたいに、十六、七の少女がやってきた。
玉造家の娘の由紀子で、この土地の高校生である。近眼らしくロイド眼鏡をかけているが、頬っぺたの紅い、健康そうな、いくらかおしゃまさんらしい少女だ。
「あら、いま、朝のお食事?」
ベランダの下に立って、眼をまるくしている由紀子のすがたを見ると、マリはにわかに笑顔をつくって、
「あら、いらっしゃい。すっかり寝坊しちゃったのよ。ふっふっふ。もうかれこれ十時だってのにね。あら、お花、持ってきてくだすったのね」
マリは由紀子の持っているダリヤの切花に眼をつける。
「ええ、あまりみごとに咲いてたものだから、切ってきたんです」
「あら、そう、ありがとう。まあおあがんなさいな。いま、お食事すんだところ。先生、花瓶持ってきて」
河野朝子が持ち出してきた花瓶に、マリは手ぎわよくダリヤを盛る。
「ああ、そうそう、それからお姉さま、お手紙が来ておりますのよ」
「あら、あたしに……? 誰からかしら」
由紀子の取り出す二通の手紙を、マリはふしぎそうに受取ったが、その一通の裏をかえすと、
「あら、矢部さんからだわ」
と、いそいで封を切ったが、読んでいくうちに、きらきらと眼をかがやかせて、
「先生、矢部さんから御返事があったわ。皆さま、御出席くださるんですって」
と、謎のような微笑である。
「あら、それはようございましたね」
朝子はしかし、そういいながら、なぜか眉根をくもらせる。
マリはそんなことにはおかまいなしに、もう一通の封を切ったが、ひとめでそれを読みくだすと、さっと頬を紅潮させ、大きく眉をつりあげた。
そこにはこんなことが書いてある。
[#ここから2字下げ]
マリよ。この手紙を読みしだい、母をつれてこの土地を立ち去れ。ここにいることは、おまえやおまえの母のためにならぬと知れ。
[#ここで字下げ終わり]
ただ、それだけで、むろん差出人の名前はなかった。
マリはくりかえし、くりかえし、その短い文章に眼を走らせる。そうすることによって、この文章の背後にある、正体不明の人物の意志を汲みとろうとするかのように。
「お嬢さま、どうかなさいましたか」
蒼白んで、きっと下唇をかみしめているマリの顔色を見て、家庭教師の河野朝子が心配そうに声をかける。
マリはしずかに便箋をたたんで封筒におさめると、かるく首を左右へふって、
「いいえ、なんでもないのよ。そんなことより、先生、お母さまにあのことを申上げてきてください。矢部さんの御一家がいらしてくださるってこと」
マリが目くばせすると、朝子はうなずいて、
「承知いたしました。では、ちょっと失礼します」
と、由紀子にかるく目礼して、ベランダから出ていった。
由紀子はそのうしろ姿を見送りながら、
「お姉さま、おばさま、お加減いかが?」
と、心配そうに訊ねる。
「ありがとう。あいかわらずというところね。もともとあまり丈夫なひとではないところへ、急に気候や風土がかわったものだから。……」
「でも、きのうの夕方、お出かけでしたわね」
そういって、由紀子はさぐるようにマリの顔色を見る。
「教会へでしょう。お母さまは信心家だから、教会へだけは、何をおいてもお参りなさいますの」
「ほんとうに。教会へお参りになるときだけしか、お眼にかかることはありませんのね」
由紀子はそこでおずおずと、臆病そうな眼でマリの顔色をうかがっていたが、やがて思いきったように、
「お姉さま、こんなこといってなんですけれど、おばさまについて、ちかごろ妙な噂が立っているの御存じ?」
「お母さまについてどんな噂?」
マリがほんとうにそれを知らないのか、それとも白ばくれているのか、幼い由紀子にそこまではわからなかった。
「あの……こんなこと言っても、お姉さま、気を悪くなすっちゃいやよ。町のひとたちはね、お姉さまのお母さまのことを、この土地のひとじゃないかしら。ひょっとすると、あたしのほんとうの叔母さまにあたるひとじゃないかしらって、こんなふうにいってるんですの」
「まあ!」
マリはいかにもびっくりしたように眉をつりあげたが、そのしぐさにはなんとなく、わざとらしさがうかがわれた。
「ごめんなさい、お姉さま。こんなこと申上げて、気を悪くなすっちゃいやよ。でも、もしほんとにそうなら、あたし、どんなに嬉しいかわからないわ。だって、そうすると、お姉さまはあたしのいとこということになるんですものね。お姉さまみたいな立派ないとこがあったら。……」
年齢にも似合わず、由紀子がませた溜息をつくのにはわけがある。
ロミオとジュリエット
射水の町の双璧といわれる、矢部玉造両家のうち、矢部家があいかわらず繁栄しているのに反して、玉造家はその後不運つづきで、ちかごろでは、家屋敷も手ばなさなければならないかもしれぬという、悲境におちいっているのである。
それが当面たすかっているのは、鮎川マリ出現のおかげであった。
母の静養の地として、この土地をえらんだマリの代理人から、ひと夏、別館を貸してほしいと申込まれた玉造家のひとびとは、その代償としてしめされた金額の、あまりにも莫大なのに驚かされた。
しかし、いくら代償が大きいからといって、いや、代償が大きければ大きいほど、由緒ある玉造家ともあろうものが、金のために家を貸したとあっては……と、はじめのうち、玉造家のひとびとも二の足をふんでいた。
しかし、たとえにもいうとおり、背に腹はかえられなかったのである。さしあたり、まとまった金を必要としていた玉造家にとっては、ほんとうのところ、マリの申出は渡りに舟だった。
そこで、結局、マリの申出に応ずることになったのだが、昔かたぎの由紀子の祖母、|乙《おと》|奈《な》のごときは世間態をはじて、当分寝こんだくらいである。
世が世であれば、射水の町きっての名家といわれる玉造家が、どこの馬の骨とも牛の骨ともわからぬものに、部屋貸ししなければならぬとは、なんという情ないことであろう、御先祖様にたいしても申訳がないと、ちかごろとかく健康がすぐれず、それだけに愚痴っぽくなっている彼女は、ひた泣きに泣いたという。
玉造家も戦争以来不幸つづきで、おいおい家人も少くなって、いま、このひろい家のなかに生きのこっているのは、祖母の乙奈と孫の由紀子、由紀子の兄の康雄と、この三人だけである。
由紀子も二世の娘ときいて、はじめは子供心にも、軽蔑の念をいだいていたが、さて、いよいよマリに接触するにおよんで、彼女の感情はしだいにかわってきた。
マリは美しいばかりでなく、気高く、しかも気性が寛闊だった。向うでも家庭では母国のことばを使っているとかで、日本語の発音なども標準語にちかく、由紀子よりきれいなくらいだった。
だから、最初の反感や軽蔑とははんたいに、いまではマリにたいする由紀子のかんじは、子供らしい憧れでみちている。年齢からいえば、それほど大きなひらきはないはずなのだが。……
マリはやさしくほほえんで、
「ほんとに由紀子さんといとこ同士なら、あたしだってどんなに嬉しいかしれないわね。でも、そうだとするとあたしの母は、由紀子さんのお祖母さまの娘ということになり、したがってあたしは孫になるというわけね」
「ええ、そうなんです」
と、由紀子は眼をかがやかせて、
「それですからお祖母さまは、とてもこちらのおばさまに、会いたがっているんですの」
「あら」
と、マリはちょっと眉をひそめて、
「それじゃ、うちのお母さま、まだお祖母さまにお眼にかかったことなかったかしら」
「ええ、いちども」
「あら、そうお」
と、マリは大きく眼を見張ったが、その表情の大袈裟なところに、どこか不自然さがかんじられた。
「だって、うちのお祖母さまは寝たり起きたりだし、こちらのおばさまも、教会へいらっしゃるとき以外は、いつも二階に引きこもっていらっしゃるんですもの」
「あら、ごめんなさい。それじゃこんどお母さまのご気分のよいときを見計らって、いっしょにお祖母さまの御機嫌うかがいにまいりましょう。でも、由紀子さん」
「はあ」
「あなたの叔母さまってどういうかたなの。ちかごろあなたと仲よくしていただいてるのに、いままでいちどもお話をうかがったことはなかったわね」
「ええ。……」
と、由紀子はちょっとためらって、
「だって、そのひとのこと言っちゃいけないことになってるんですもの」
「あら、どうして?」
マリはふしぎそうに眼を見張ったが、そういう表情にも、どこか取りつくろったところがうかがわれた。しかし、幼い由紀子は気がつかず、
「だって、そのひと、人殺しをしたあげく、自殺をしたというんですもの」
「まあ!」
マリは大きく眉をつりあげたが、そういうしぐさにも、やはりどこかわざとらしいところがある。
「由紀子さん、それ、いったい、どういう話なの。いやだわ、そういうひとにお母さまが似ているなんて」
マリがちょっと睨むまねをすると、正直な由紀子はあわてて、
「あら、ごめんなさい。でもお祖母さまはいうまでもなく、亡くなった父や母も、あれは間違いだ。朋子はむじつの罪におちたんだと、しじゅう言いつづけていたんです」
「まあ。それじゃそのかた朋子さまとおっしゃるのね、お父さまの……」
「たったひとりの妹だったんです」
「その朋子さまがどうして、そんな恐ろしい疑いをお受けになったんでしょう。ねえ、由紀子さん、話してくださいません? だって、うちのお母さまに似たかたと聞いては、あたしも聞きずてになりませんわ」
「ええ」
と、由紀子はちょっとためらったが、すぐ心をきめたように、
「じつはあたしもこのことを、お姉さまのお耳に入れておきたかったんです。そのうえで、お姉さまにご注意申上げておきたいことがございますの」
「あたしに注意って?」
「お姉さまもお聞きになってはいらっしゃいません? この玉造の家と矢部家とが、先祖代々仲が悪いってこと」
「ええ、そんな話ならだれからか聞いたわ。でも、その話が朋子さまの話となにか関係があるんですの」
「そうなんですの」
と、幼い由紀子は呼吸をつめて、
「朋子叔母さまはその矢部家の御長男、いまの御主人の慎一郎おじさんと恋仲になられたんですって」
「あらまあ!」
と、マリは驚きの声をもらしたが、その調子にはなんとなく実感がうすかった。
「ほんとに悲惨だわねえ」
と、由紀子はませた調子で、
「亡くなった父なんかいってましたけど、それはほんとにうまくいけば、似合いの夫婦だったんですって。でも、先祖からのことを考えれば、そんなこととても駄目でしょう。慎一郎おじさんは男だからまだいいけれど、思いつめた朋子叔母さんはほんとうにお可哀そうだったって、父も母もそういってたんです」
「つまり、ロミオとジュリエットというわけなのね」
マリはほっと溜息をついたが、その調子にはしみじみとした情感があふれている。
由紀子にはそれがうれしく、
「ええ、そうなんですの。ほんとにロミオとジュリエットみたいに悲しい恋だったんです。そこでふたりとも思いあまったあげくのはてが、駈落ちをしようとしたんですの。そこに間違いが起ったんですのね」
「間違いって?」
「それはこうなんです」
と、じぶんの話に昂奮してきた由紀子は、頬を紅潮させ、指にまいたハンケチで額の生えぎわをぬぐいながら、
「なんでもふたりはこの裏山の、鐘乳洞のおくで落合って、いっしょに逃げる手はずになっていたのね。ところが運悪く、その打合せの手紙が、慎一郎おじさんのお父さん、杢衛おじいさんに見つかったんですのね。杢衛おじいさんはそれをごらんになって、かんかんにお怒りになった。と、いうのはまえまえからの矢部玉造家の関係ばかりではなく、杢衛おじいさんは慎一郎おじさんのいまの奥さま、峯子おばさんをお嫁にするつもりだったんですのね。それで、お怒りが二倍になったというわけなの。そこで、慎一郎おじさんを一室に閉じこめるいっぽう、御次男の英二さんというかたを鐘乳洞へおつかわしになったんですのね。つまり、そこに待っているはずの、朋子叔母さんをひきずって来いっていうわけね。ところが、その英二さんがいつまで待ってもかえって来ないので、ほかのひとを見にやったところが、英二さんが鐘乳洞のおくで殺されていたんです」
由紀子は感情が昂ってきたのか、いくらか声をたかくして、最後の一句をいいはなつと、蒼白の顔を不幸な怒りにひきつらせた。
「まあ!」
マリもさすがに蒼ざめている。しかし、積極的にあとを促そうとはせず、しずかに由紀子の話を待っていた。
「鐘乳洞のなかには鐘乳石といって、|氷柱《つ ら ら》のようなものがいちめんにぶらさがっているんです」
と、由紀子は少女らしい怒りを露骨にあらわし、
「英二さんはその鐘乳石で突きころされていたんです。ところがその手にしっかりと、引きちぎられた朋子叔母さまの着物の片袖が握られていたんです」
由紀子の眼にはいま涙がやどっている。この不幸なりし叔母のことを思うとき、彼女の胸はいつも痛むのである。
「それで、朋子叔母さまに疑いがかかったのね」
マリは低い、呟くような声で、
「そのことについて、朋子叔母さまはなんと弁解なさいましたの」
「それが、お姉さま、とっても理不尽なのよ」
と、由紀子は口惜しそうに眼に涙をうかべて、
「矢部家からの訴えを聞くと、警察でははじめから、朋子叔母さまを犯人にきめて、この家へどやどやと逮捕にきたんですって。朋子叔母さまがほんとうに犯人なら、この家にまごまごしてるはずはないわね。ふつうのひとなら逃げ出すか……いいえ、朋子叔母さまの御気性なら、きっと自首していたろうと、亡くなった父も母もそういってたんです」
「それはそうね。それに、そんな重大な証拠になる片袖を、その場にのこしておくというのも不思議な話だわね」
「そうでしょう。お姉さまもそうお思いになるでしょう。ところが警察のひとたちはそうではなく、はじめから朋子叔母さまを犯人あつかいなんですって。それでも朋子叔母さまは、こういうふうに弁解なすったそうです」
と、由紀子はいたましそうに声をふるわせながら、
「朋子叔母さまは鐘乳洞のなかで、慎一郎おじさまをお待ちになってたのね。そこへ、慎一郎おじさまはいらっしゃらずに、英二さんがやってきて、口ぎたなく罵られたときの朋子叔母さまのお気持ちはどんなだったでしょう。驚きと、悲しみと、絶望と……しかも英二さんはむりやりに、朋子叔母さまを引っ立てていこうとしたんですのね。矢部家へ引っ張っていかれたら、どのような恥辱をおわされるかしれたものじゃないでしょう。そこで、必死となって抵抗しているうちに、片袖がちぎれたんです」
マリは黙って聞いている。黙っているが、なにかしら深い感動にうたれているようで、由紀子にはそれがうれしかった。
「それで、朋子叔母さまは虎口を脱した思いでその場を逃げ出し、この家へ逃げてかえってきたので、けっして、英二さんを殺したおぼえはないとおっしゃったそうです。でも、警察ではそのとき朋子叔母さまが、かっと逆上して、鐘乳石で英二さんを突きころしたにちがいないと言い張って、むりやりに叔母さまを引っ張っていこうとしたそうです。そこで叔母さまは絶望のあまり、また、鐘乳洞へとびこんだのです。お姉さまも御存じでしょう。つい、そこの裏の崖下に、鐘乳洞の入口があるのを。……そこからなかへとびこんで……そして、そして、……自殺してしまったんです」
感じやすい年頃の由紀子は、じぶんの話に感動して、瞳をぬらし、鼻をつまらせている。
マリもさすがに蒼ざめている。深い感動をおさえるように、じっと胸を抱いたまま、しばらく無言でいたのちに、落着いた、静かな声でいった。
「でも、それじゃ、おかしいじゃございません? 叔母さまが自殺なすったとしたら、なにもあたしのお母さまが……」
「いいえ、お姉さま」
と、由紀子はきっぱりと強い声で、
「ところが、叔母さまの死骸というのが、とうとう見つからなかったんです。鐘乳洞のおくには底なしの井戸といって、まだ、だれもその底をつきとめたことのない、深い、深い井戸があるんです。叔母さまはその井戸へ身投げをされたらしく、死骸はとうとう見つからなかったんです。そればかりではなく……」
と、由紀子がそこで言葉を切って、ためらいの風情を見せるのを、
「そればかりではなく……?」
と、マリが励ますようにおうむ返しに訊きかえした。
「そればかりではなく、井戸のそばに書置きがおいてあったんですけれど、それに妙なことが書いてあったんです」
「妙なことって?」
「ええ、それはこうなんです」
と、由紀子は緊張の面持ちで、息をうちへ吸いこむと、暗誦するような声でつぶやいた。
「あたしはいきます。でも、いつかかえってきます。蝶が死んでも、翌年また、美しくよみがえってくるように」
マリはびっくりしたように、由紀子の顔を視つめていたが、
「なんとおっしゃったの? 由紀子さん、もういちどおっしゃって」
「ええ」
と、由紀子は顔をこわばらせて、
「あたしはいきます。でも、いつかかえってきます。蝶が死んでも、翌年また、美しくよみがえってくるように。……」
おそらく、由紀子は小さいときから、なんどもなんども同じ文章をくりかえしたにちがいない。なんの澱みもなく、すらすらと暗誦することができるのだ。
「まあ! あたしはいきます。でも、いつかかえってきます。蝶が死んでも、翌年また、美しくよみがえってくるように。……」
と、マリもおなじ言葉を口のなかでくりかえして、思わずはげしく身ぶるいをした。
「ええ、そうなの、お姉さま、それですから気をおつけになって。矢部のおじいさまはこちらのおばさまを、朋子叔母さまにちがいないって、いきり立っているんです。つまり、あの書置きにあったとおり、朋子叔母さまがかえってきたのだというんです。英二さんはあのおじいさんにとって、眼のなかへいれても痛くないほどの可愛いひとだったそうです。だから、朋子叔母さまのことといえば、矢部のおじいさまは何年たっても、復讐心にもえて、気ちがいのようにいきり立つんです」
由紀子はさかしげな眼をつぶらに見張って、さぐるようにマリの顔色をうかがっている。
マリは謎のような微笑をうかべると、
「ほっほっほ」
と、かるく笑って、
「大丈夫よ、由紀子さん。それだったら杢衛さんてひと、当てちがいをなさいますわ。お気の毒ですけれど、いま二階にいるひとは、残念ながら朋子叔母さまじゃございませんものね」
だが、そういうマリの顔色がどこかかげって、声がひくくしゃがれているのを、かしこい由紀子は気づかずにはいなかった。
珍 客
玉造家の別館は南欧風のあかるい建物になっている。
ほんとをいうと、冬の寒いこのへんとしては、いささか不向きな建物なのだが、これは由紀子たちの祖父が、大正の好景気時代に、矢部家の杢衛と競争で、むこうが北欧風の洋館なら、こっちは南欧風だとばかりに、気候も風土もおかまいなしにたてたものなのである。
その代り夏向きの別荘としてはこのうえもなく、ことにブラジルの賓客をむかえるには、おあつらえむきの建物になっている。
いま、この別館に住んでいるのは、マリと母の君江、家庭教師の河野朝子のほかに、女中が二人、そのほかにもうひとり、カンポというブラジルうまれの若者が、養父ゴンザレス氏の命をふくんで、用心棒という格でついてきている。
カンポはポルトガル人とインデアンの混血児で、俗にマメルコ族という種類に属する青年である。
もと、コーヒー園に働いていたのを、ゴンザレス氏が眼をかけて、リオ.デ.ジャネイロへつれてかえって、高等教育をさずけたのだから、いっぱんの土人とちがって、相当たかい教育を身につけているのだけれど、一見してインデアンの血統がうかがわれる|魁《かい》|偉《い》な容貌と、身の丈六尺という堂々たる体躯から、外人に慣れない射水の町のひとびとには、鬼のように恐れられている。
さて、その日の夕刻、客をむかえる準備があらかたできたところへ夕立がやってきた。
「あら、困ったわ。せっかくお客様がいらっしゃるというのに……」
ベランダを叩くはげしい雨脚を、マリがうらめしげに眺めていると、
「なに、大丈夫でごぜえますよ、お嬢さま」
と、慰めがおに声をかけたのは、臨時に手伝いをたのんだお作という土地の女である。
「これは夕立でごぜえますから、半時間もすればやみますだね」
「そうかしら。それならいいけれど……」
「そうですとも。見ててごらんなせえまし。いまに雲が切れてまいりますだから」
お作はホールを掃いていた手をやすめると、雨脚を眺めているマリの美しい横顔を視つめていたが、急に意味ありげに、
「お嬢さま、奥さまは二階でごぜえますかね」
「ええ」
と、マリはお作の語調に気がつかず、やっぱり外の雨脚を視つめている。
「お嬢さま、気をおつけなせえましよ」
と、お作はあたりを見まわしながら声をひそめた。
「あら、どうして?」
マリははじめてその声の調子に気がついて、びっくりしたように振りかえる。
お作はまたあたりを見まわしながら、
「河野先生にお聞きでごぜえましたろう。きのうの夕方、変なことがごぜえましたの」
「変なことって?」
と、マリはお作の顔を見ながら、
「ああ、あの教会のまえのできごと。……ええ、聞いたわ。なんだか気味の悪いひとがお母さまをつかまえて、変なことをいったとか……」
「ええ、そのことでごぜえます。奥さまはそのことについて、なにかおっしゃってでごぜえましたか」
「いいえ、お母さまはべつに。……あのひとはとっても口数の少いひとですから。でも、河野先生が心配していらっしゃいますの。とっても薄気味悪いひとだったって。あのひと、いったいどういうひとなの、お作さんはしってて?」
マリの瞳には真剣に、心配そうな色がうかんでいる。お作はまたあたりを見まわして、
「そのことでごぜえますよ。うちの|父《と》っつぁんがきのう汽車でその男と、いっしょだったそうでごぜえますが、あいつ、あれから矢部さんのうちへいったそうでごぜえますよ」
「まあ、それじゃ矢部さんのお識合いなの?」
マリの眉間に一瞬、怪しい稲妻がひらめいた。
「ええ、そうなんですとさあ。なんでも矢部さんの遠縁のもんで、古林徹三というんだそうでごぜえます。それがあなた、二十何年ぶりかで、すっかり尾羽打ち枯らして、支那から引き揚げてきたんだそうで。……そういう男のこってすから、また、なにをやらかすかしれたもんじゃねえから、きょうお手伝いにあがったら、ようく奥さまやお嬢さまに申上げておけと、そう、父っつぁんからことづかってまいりましたので。……」
「あら、そう、ありがとうよ。お作さん。でも、あたしたちにはかくべつ関係のないひとのことですから。……」
「いいえ、そうじゃございましねえだ」
と、お作はちょっと語気をつよめて、
「げんにこちらの奥さまにむかって、変なことをいってるじゃございませんか。それに父っつぁんの話によると……」
と、お作はまたあたりを見まわして、
「そうそう、お嬢さまはこの土地で、二十何年かまえに人殺しがあったことをご存じでごぜえますか」
「ええ、その話ならさっき由紀子さんから聞かせてもらったばかりだけど。……」
「さあ、そのことでごぜえます。それで、父っつぁんの話によると、二十何年かまえに人殺しがあったときにも、あのひとたしかにこの土地にいたというんでごぜえますよ」
「まあ!」
さすがにマリの|面《おもて》は蒼白になり、その蒼白の額を、また怪しい稲妻が一瞬はしった。
「それでごぜえますから、奥さまにもようくこのことを申上げて、出入りにも気をおつけになりますように。……」
「ありがとうよ。お作さん。お母さまにもよくお話をしておきましょう」
「どうぞそうなさいまして。とにかく、矢部の大旦那というかたは、決して悪いひと、悪人というのではございませんが、玉造さんのことといえばいきり立つんでごぜえます。ことに、可愛くてたまらなかった次男の英二さんというのが、殺されておりますでしょう。矢部の大旦那はそれを、こちらのお嬢さんの朋子さんというかたのしわざだとばかり信じておりますから、いっそう玉造さんを憎むんでごぜえます。その玉造さんのところへ、お嬢さまみてえなきれいなお金持ちが来ていらっしゃるちゅうので、大旦那、それが|妬《ねた》ましくて、仕様がねえんでごぜえますだ。それですから、どのような難癖つけてこねえとも限りましねえだで、ようく気をおつけになって。……」
「わかったわ、お作さん、とにかく十分気をつけることにしましょう」
「それがようごぜえますだ。ときに、奥さまはお体がお弱いふうでごぜえますね」
「ええ、弱いってほうでもないんだけれど、急に気候がかわったのがいけないのね」
「今夜の会には……?」
「さあ。ひょっとしたら出られないんじゃないかしら」
「お出ましにならねえほうがようございますよ。ことに矢部さんの大旦那がいらっしゃるとあってはなおさらのこと」
「ええ」
マリが下唇をかみながら考えているところへ、河野朝子が入ってきた。
「お嬢さま、そろそろお召更えをなさらなきゃいけませんわ」
「あら、もうそんな時刻なの?」
マリが腕時計を見直しているところへ、庭づたいに由紀子が駈けこんできた。
お作の予言したとおり、夕立はもう小降りになって、西の空から明るくなりかけている。
「お姉さま、お姉さま」
と、由紀子は息をはずませて、
「お客さまよ、お客さまがいらしたのよ。珍しいお客さまがいらしたのよう!」
「あら、どうしたの。そんなに濡れねずみになって。……」
「だって、珍しいお客さまがいらしたので、いっときも早くお姉さまにおしらせしようと思って駈けつけてきたんですもの」
「まあ、それはありがとう」
と、マリは微笑をうかべて、
「そして、その珍しいお客さまというのは、いったいどういうひと?」
「田代さんよ。田代さんがアルプスからのかえりだって、いまお見えになったの」
「田代さんて?」
と、マリは|怪《け》|訝《げん》そうに眉をひそめる。
「あら、いやだ。お忘れになったの。田代さんはテニスの選手で、去年ブラジルへ|招聘《しょうへい》されたのよ。そのとき、お姉さまのところへ招待されたといってらっしゃるわ」
「あら、あの田代さん?」
マリははっとしたように、朝子と顔を見合せたが、一瞬、当惑の表情がふたりの面上をかすめたのを、かしこい由紀子は見のがさなかった。
「あら、田代さんがいらしちゃ、なにか都合の悪いことでもありますの」
このビッグ.ニュースにたいして、大喜びをするかと思いのほか、案に相違のマリの顔色に、由紀子ははなはだ不平そうである。ロイド眼鏡のおくで、ちょっと|猜《さい》|疑《ぎ》の眼が光った。
「あら、とんでもない。あまり思いがけないおしらせでしたから。……そうでしたの。田代さんは康雄さんのお識合いでしたの」
「ええ、大学以来の親友なの。毎年夏になるといらっしゃるわ。こんどはこちらにお姉さまが逗留してらっしゃるって、新聞でごらんになって、楽しみにしていらしたの」
「まあ、まあ、それは奇遇でございますわね」
と、河野朝子もにこにこしていたが、その言葉にも、由紀子が期待したほどの弾力はなかった。
「あの、田代さん、ぜひともお姉さまやおばさまに、御挨拶したいといってらっしゃるんですけれど。……」
「ええ、でも……」
と、マリは河野朝子と眼くばせをかわしながら、
「ええ、でも……、いまは取りこんでおりますから、いずれ今夜……ね、康雄さんも今夜の会には出てくださるんでしょう」
「ええ、それはもちろん」
「それじゃ、そのとき御一緒にね。いまはこのとおり取りちらかしておりますから」
「ええ、じゃ、そう申上げておきますわ」
由紀子は素直にうなずいたが、しかし、賢い彼女のあたまには、このときから、マリにたいしてなんとなく腑に落ちぬものがわだかまりはじめたのである。
君江の欠席
お作の予言は当っていた。
夕立は六時頃にすっかりあがって、日が暮れるとともに、美しい星がかがやきはじめた。
今夜の会は七時からだが、六時半ごろからぼつぼつ客があつまりはじめた。町長に警察署長、高校の校長さん、その他、町の有力者たちで、矢部家からは杢衛と慎一郎、それから都がつつましく、父のうしろにひかえていた。
ホールの入口には巨人カンポが立っている。カンポは浅黒い顔にきっと唇をむすび、じろじろと吟味するような眼でひとりひとり来客を観察している。
その唇はほとんど開かれることはなかったが、ただ一度だけ、いかにも嬉しそうに、白い歯がこぼれたことがあった。
「やあ、カンポ君、君もきていたのか」
だしぬけにいやというほど手を握られたカンポは、びっくりしたように眼を見張ったが、眼のまえに立っている長身の青年を見ると、さらに大きく眼を見張った。
「オオ、コレハ田代サマ」