いくらかアクセントはちがっているが、それでも立派な日本語である。カンポは嬉しそうに白い歯を見せ、それから、片手を胸にあててうやうやしく敬礼した。
「あっはっは、よく憶えていてくれたね。その節はいろいろお世話になった。どうだ、皆さん、お元気かね」
「ハア、アノ……」
カンポはちょっと顔色をくもらせたが、すぐ無表情に取りすまして、
「サア、ドウゾ、オ通リクダサイ」
と、舌足らずながらも、かなり流暢な日本語である。
「ああ、そう、それじゃのちほど……」
たくましく陽焼けした田代のあとから、由紀子とその兄の康雄が入ってくる。由紀子はいつもこの兄のことを、哲学者とよんでいるが、いかにも気むずかしそうな青年だ。蒼白の|面《おもて》に髪が濡れたように黒く、眉根にいつも皺をよせている。
康雄はホールへ入っていくと、マリと談笑している都のすがたに眼をとめた。しかし、すぐにその視線をそらすと、そのままその場に立ちどまる。眉根の皺がいよいよ深くなったようだ。都もなぜか体を硬直させて、そっと視線をかなたにそむける。
しかし、呑気坊主の田代には、むろんこのような微妙な感情の起伏には気がつかない。つかつかと大股にホールを横切って、
「マリちゃん。しばらく。君はひどいよ。ぼくは東京のホテルへ訪ねていったんだぜ」
無遠慮な大声なので、みんなそのほうを振りかえる。
マリは愛想よく笑いながら、
「あら、ごめんなさい。あのときは関西へ旅行しておりましたから。……でも、ここでお眼にかかれて嬉しいわ。いつもお元気で……」
「うん、ありがとう。でも、意外だなあ。玉造の家で、マリちゃんやおばさんに会えるなんて……ときにおばさんは……?」
「お母さまはお加減が悪いので、今夜は失礼するといってますの」
「お加減が悪いって?」
「いえ、べつにたいしたことはないんですけれど……」
マリが言葉を濁したとき、
「あの、ちょっと失礼じゃが……」
と、そばから田代に声をかけたものがある。
「ええ? あの、ぼくですか」
振りかえった田代の鼻先に立っているのは杢衛である。杢衛は疑わしそうな眼でじろじろ田代とマリを見くらべながら、
「あんた、このお嬢さんをご存じかな」
「はあ、あちらでお世話になったもんですから」
「あちらとは……?」
「ブラジルです」
「ブラジル……? あんたブラジルへいかれたことがあるのかな」
「はあ、昨年……」
「どういう用件で……?」
詰問するような杢衛の調子に、由紀子がたまりかねたかのように、憤然としてそばから声をかけた。
「まあ、失礼ね、こちらテニスのチャンなのよ。昨年、ブラジルからの招聘でテニス行脚にいったんじゃありませんか」
「テニスのチャン……? それがどうしてここへまた……?」
杢衛の視線からまだ疑惑の色が去らない。
「うちのお兄さまの親友なのよ。アルプス登山のかえりに、こちらにお姉さま……いえ、マリさんがいらっしゃるとしって訪ねていらしたのよ。おわかりになって?」
由紀子は咬みつきそうな調子である。眼鏡のおくで口惜しそうな眼が光っている。
「ああ、それはそれは……それであんた、むこうでこのお嬢さんのお母さんにも会ってきたんですな」
「それはもちろん。さんざんお世話になってきましたよ。とてもやさしいおばさんで……」
屈託のない田代は、まだこの場にわだかまっている妙な空気に気がつかない。
「マリちゃん、ほんとにおばさん、どうしたのさあ。たいしたことないなら、ここへ呼んでいらっしゃいよ。ぼく、一刻もはやくお眼にかかりたいよ」
「ええ、でも。……あら、お支度が出来たようよ。それじゃ、皆さま、なにもございませんけれど……」
今夜の食事は略式で、洋食と和食をちゃんぽんにしたものである。みんなそれぞれ定めの席へついたが、この際、田代がわりこんできたということが、どのくらい、その場の空気の救いとなったかわからない。
屈託のないお坊っちゃん気質の田代は、たれかれなしに話しかけられ、愛想よくそれに応対している。
町のひとたちもテニス選手の田代幸彦といえば、名前くらいしっていた。勢い田代の旅行談に話の花が咲いたが、
「それにしても、この席におばさまがいらっしゃらないのは残念だなあ。マリちゃん、お加減が悪いって、それほどひどくはないんだろう。呼んでいらっしゃいよ。なんなら、ぼくがお迎えにいきましょうか」
駄々っ児のような田代の言葉のあとについて、
「ほんとうに奥さんがこの場へ顔をお出しにならんという法はないな。こうして旧知のかたもいらしたんだし、われわれとしても、ぜひ奥さんにご挨拶をせんことにゃあ……なあ、神崎さん」
と、これは腹に一物ある杢衛の言葉である。
「はあ、それは、もちろん、そうですな」
警察署長の神崎氏は、矢部玉造両家の争いに、立入りたくはないのだけれど、いっぽうマリの母なる婦人に好奇心もあり、しごく曖昧な返事をしながら、二重顎をなでていた。
「それはそうと康雄さん、お祖母さまはどうです。お加減が悪くって臥せっていられると聞いたが、お見舞いにもあがらんで……」
なんとなく緊迫したこの場の空気を柔らげようと、そばから口を開いたのは、町長の立花老人である。
「はあ、ありがとうございます。べつにたいしたことはないのですが、なにしろ|年《と》|齢《し》が|年《と》|齢《し》ですから」
と、由紀子の兄の康雄がこたえた。
「乙奈さん、いくつになられたかな」
「はあ、もう七十三になります」
「ああ、もうそんなに……」
「いや、乙奈さんは乙奈さんとして」
と、またしても杢衛がおさえつけるような調子で、
「それよりもぜひ奥さんにここへ出ていただいて、みんなでご挨拶しようじゃありませんか。お嬢さん、ぜひどうぞ」
傲岸な杢衛の言葉には毒がある。
マリはまじまじとその顔を視つめていたが、ふっと淋しい微笑を口許にうかべると、
「よろしゅうございます。みなさんがそんなにおっしゃるなら。……先生」
と、|下《しも》|座《ざ》にひかえた河野朝子を振りかえって、
「お母さまをここへおつれして。……」
「はあ」
河野朝子はかるく一同に挨拶して、足音もなく部屋から出ていく。そのうしろ姿を見送って、ふうっと|気《き》|拙《まず》い沈黙が部屋のなかへおちてきた。
町のひとびとはみんな杢衛の腹をしっている。マリとの押問答を聞いていて、不安な想いに顔見合せていた。
田代はしかし、そんな事情をしるはずがない。急に黙りこんだひとびとを、不思議そうに見まわしていたが、その視線がある人物のうえまでくると、おやというふうに釘づけになってしまった。
「これは、これは……」
と、田代は急に愉快そうに笑い出した。
「マリちゃん、これはどうしたんだ。なにかここに事件でも起ったのかい。それともこれから殺人事件でも起るというの」
「あら、田代さん、どうしてそんないやなことを……」
さすがにマリも驚いている。ほかのひとたちもはっとしたように顔見合せた。
田代はしかし、あいかわらず屈託のない顔色で、
「だって、あそこにいらっしゃるの、金田一先生じゃないか。金田一先生、金田一先生、妙なところでお眼にかかりましたね」
「あっはっは、田代君、とうとう見つかっちまったね」
一同は驚いたようにそのほうへ振りかえる。テーブルのいちばんはしっこに坐っている、もじゃもじゃ頭によれよれの袴の男を、何者だろうとみんなはさっきからいぶかっていたのだ。
マリも杢衛がつれてきた男だということだけをしっていて、どういう人物なのかわかっていなかった。
「田代さん、金田一先生って……?」
「なんだ、マリちゃん、しらないの。金田一耕助先生というのはね、いま評判の名探偵なのさ。こわいよ、マリちゃん、君、なにか悪事でも企らんでいるのなら、やめにしたほうがいいぜ。先生にかかっちゃ、ひとめでぴたりだというからね。あっはっは」
それを聞いて一座のひとびと、あっとばかりに眼を見かわせていたが、とりわけマリの顔色から、さっと血の気がひいていった。
雲を踏む女
「どうしたんだね、お嬢さん、お母さまはおそいじゃないか」
杢衛の声はあいかわらずどくどくしい。
「はあ、きっとお化粧に手間がとれるのでしょう。寝乱れ姿では失礼ですから」
マリはつめたく取りすましている。
食事のあいだじゅう、君江はとうとう姿を見せなかった。お支度のお手伝いをしているのか、河野朝子もそれきり食堂へかえってこなかった。
食事がおわると一同は、またホールに席をうつした。ホールにはたばこや軽い飲物、果物などが勝手に手を出していいように配置されている。左党のためにはウイスキーとソーダ.サイフォンなども用意されていた。
ホールへ席をうつしても、あいかわらず杢衛は、君江の出席をもとめてやまなかった。その執拗さにはかえってほかの客たちが、眉をひそめるほどだった。
「まあ、まあ、ご老人。そうしつこくおっしゃらなくとも。……お見えになるものならお見えになるだろうし、お加減が悪いとしたら、むりにご出席願うのも……」
と、おだやかな立花町長がとりなしたが、杢衛はいっこうきかなかった。
「いや、お嬢さんもさっきたいしたことはないといったし、それにこうして町の有力者が、みんな会いたがっているのに、顔を出さぬという法はない。それともお嬢さん、お母さんにはなにか、われわれに顔を見せられぬ理由でもおありなのかな。なにかうしろ暗いことでも……」
「お父さん!」
と、たまりかねて息子の慎一郎がたしなめた。
「そんな失礼なことを……」
「いや、なにも失礼だとは思わない。かえってこれだけの客を招待しながら、かんじんの奥さんが顔をお出しにならぬというのは、このほうがよっぽど失礼だとは思わないかい。なあ、神崎さん、あんた、どう思いなさる」
「それや、まあ、ご老人がそうおっしゃればそんなものだが、しかし、こちらさんにはこちらさんのご都合もおありのことだろうから」
神崎署長の耳にももちろん、君江と朋子の不思議な相似の話は入っている。署長はいままでそれを鵜呑みに信ずる気にはなれなかったが、これほど杢衛が懇請しても、顔を出さぬ君江という女性にたいして、あるいは……と、かるい疑惑もうかんでくる。
「いいえ、それですからもう少々お待ちくださいますよう申上げているんですわ。いまにこちらへまいりましょう」
マリはあいかわらずつめたく取りすましているが、その声はいくらかふるえていた。
都はこういう葛藤に耐えられないほど、やさしい|気《き》|質《だて》にうまれている。彼女はそっと人眼を避けてベランダへ出た。
祖父はけっして悪いひとではない。いや、ふだんは腹の大きな、物わかりのよいひとだといわれ、この射水の町でも人望がある。それがことひとたび、玉造家のことになると、子供のように眼に角を立てるのである。それを浅間しいと、都は心をいためずにはいられなかった。
彼女はまたこういう場合における、父の無力さを歯がゆいと思うと同時に、また、その無力な父を気の毒と思わずにはいられなかった。
杢衛という祖父の人格の反映が、あまり強烈であるがために、父の慎一郎はいつも影のうすい存在だった。慎一郎はどちらかというと学究肌の性格で、人と争うことを好まず、出来るだけ世俗的な交際を逃避するようにつとめている。だから、杢衛はこの変人の息子にあまり多くの信をおかず、むしろ嫁の峯子のほうをしっかりものだと信用している。
しかし、都はこの孤独な父を愛していた。このうえもなく尊敬していた。そして、彼女は父とおなじ種類の人間を、玉造康雄のなかに見出しているのである。
都はいつかベランダから、そこにある庭下駄をひっかけて、下へおりていた。
ホールから少しはなれたところに噴水のある池がある。池のまわりはまばらな雑木林になっていて、雑木林のむこうには、高い断崖がくろぐろとそびえている。
都が池をまわって、雑木林のそばまでくると、
「都さん」
と、ひくい男の声がきこえた。
「康雄さん……?」
都が小走りに駈けよると、いきなり康雄が両手をのばして、しっかりその体を抱きしめた。
疎林の梢をもれる月の光が、抱きあったふたりの姿をやさしくなでる。夕立のあとのさわやかな夜気が、しっとりとふたりの周囲をめぐって流れる。
しばらくして都はそっと、男の腕から身をひいた。
「いけないわ。こんなこと。……」
「どうして……?」
「だって、お祖父さまやお母さまにわかると、どんなことになるかしれないわ」
「都、君はいつまでそんなことをいってるんだ。ぼくはもうこの家をすててもいいつもりでいるんだ。由紀子もそうしろといってる」
「まあ」
「由紀子はまだ幼いけれどしっかりした娘だ。あとのことは引受けるから、とにかくふたりで逃げろといっている。ぼくもそのつもりだ。君さえ決心してくれたら。……」
都は蒼白んだ顔を悲しそうにゆがめて、
「由紀子さんみたいに強くなれたらいいわね。でも、あたしには出来ないわ」
「出来ない? なぜだ?」
康雄の声が鞭のように強くなる。じぶんの思うようにことがはこばぬときの、男のわがままな本性なのである。
「だって、あたし、怖いのよ。なにかまた、あなたやあたしの身のうえに、よくないことが起りそうな気がして。……」
都はじっさい怯えている。月光の|斑《ふ》のなかにしずまりかえっている疎林のなかを見まわしたとき、彼女はかすかに身ぶるいをした。
「あっはっは!」
康雄はあいての無智をあわれむように、|咽《の》|喉《ど》のおくでかすかにわらった。
「都はお父さんとうちの叔母の昔話のことを考えているんだね」
「ええ、だって、考えずにはいられないわ。ちかごろまたあの話がやかましくなってきたんですもの。……」
「うちに逗留してるあの大金持ちのお客さんが、ぼくの叔母だという噂のこと?」
「ええ、そう」
「お伽噺だよ。そんなこと。ここいらのひとは単純だから、たれかがそんなお伽噺をつくりだすと、みんなそれに乗ってしまうんだ。話としてはそのほうが面白いからね。あっはっは」
「でも、康雄さん、あなた、その奥さんてかたにお会いになって?」
「いいや、いちども。もっとも会ったところでわからないだろうねえ。ぼくは朋子叔母さんてひとを、写真でだけしかしらないもの」
「でも、お祖母さまは……?」
「それや、祖母にはわかるだろうよ。朋子叔母だったら、じぶんの娘だものね」
「それで、お祖母さまもまだお会いにならないの。奥さまってかたに。……」
「ああ、いちども」
「康雄さん、それをおかしいとお思いになりません。ああして、あそこを借りていらっしゃりながら、いちどもご挨拶をなさらないなんて」
「いや、ぼくはおかしいとは思わないね」
「どうして」
「まあ、お聞き、都。奥さん、奥さんといってるけれど、そのひとはご主人じゃないんだぜ。主人はマリさんなのだ。そのひとはマリさんの生母にはちがいないが、マリさんの養父にとっては単なる使用人にすぎないんだ。だから女主人のマリさんの挨拶があれば、それでよいわけじゃないか。ましてや、日本へきて以来、健康を害しているとあれば、なにも面会を強要することはないと思う。都のお祖父さんはお伽噺に幻惑されてるから、私立探偵を招んでみたり、おばさんに面会を強要したり。……あとで物笑いの種になりゃしないかと、ぼくはそのほうが心配だよ」
都はしばらくだまっていたが、
「でもねえ」
と、まだ心が解けぬようすである。
「でもねえって、どうしたの?」
「いいえ、じつはゆうべうちへ古林徹三って、遠い親戚にあたるひとがやってきたのよ。そのひと、二十三年まえにあの事件があったとき、やっぱりうちにいたんですって。そのひとがきのううちへくるとちゅう、奥さんてかたに出遭ったとかいう話で、あれはたしかに朋子さま、……あなたの叔母さまにちがいないっていってるのよ」
「都」
康雄はやさしく都の髪をなでながら、
「そんなことは忘れておしまい。それよりもぼくたちはいま、じぶんたちのことを真剣に考えなきゃならないんだ。君はいつかいったね。お父さんが気の毒でならないって。お父さんの胸にはいまもなお、ぼくの叔母が生きていて、そのために、お母さんとうちとけることが出来ないんだって」
都は無言のままうなずいた。
「ぼくは君のお父さんみたいになりたくない。あんなにみじめになりたくないんだ。だけど、都、君がいま勇気を出してくれないと、ぼくは結局、君のお父さんの二の舞いになってしまうんだよ」
都は康雄の胸に額をよせたまま黙っている。声は立てないけれど、泣いているのがはっきりわかる。康雄はやさしく髪の毛をなでながら、
「わかった? 都……?」
都は泣きながら、しかし、素直にうなずいた。
「それじゃ、決心してくれるね」
「ええ。……」
と、同意したものの、やっぱり心配そうに、
「でも、康雄さん、どういうふうにするの」
と、都は声をふるわせる。
「ぼくたちはね、君のお父さんやぼくの叔母みたいに失敗しないようにやらなきゃ……でも、こんどは大丈夫だよ。由紀子というシンパがついているからね、あっはっは。あいつはお茶っぴいだけど、とても、気のつく、機転のきくやつだ。あっ、いけない誰か来た。……」
都はおびえたように康雄の胸にすがりつく、康雄は都を抱いたまま、林の影のいちばんふかいところに立ちすくむ。
さくさくと雨あがりの土を踏む音がちかづいてきた。足音は池をまわって、疎林のなかへ入ってきた。
と、思う間もなく、まばらな梢をもれる月光のなかに、黒い影があらわれた。そして、ひとめその姿を見たとたん、都も康雄も思わず呼吸をのんだ。
黒い服に黒いベール。顔は見えなかったけれど、まぎれもなく、いま噂にのぼった君江である。胸に銀の十字架が光っているのが、強くふたりの眼をうばった。しかし、あの步きかたはどうしたのだろう。まるで雲をふむようなあしどり。……魂のぬけた、ぬけがらみたいなあの步きかた……。
間もなく黒い影はふたりのまえを通りすぎて、裏の崖下のほうへ消えていった。
その足音が消えるのを待って、都は声をふるわせながら康雄に訊ねた。
「康雄さん、あのかたどこへいらっしゃるんでしょう。この林のおくにはなにがあって?」
「都!」
さすがに康雄の声もふるえている。
「ぼくにもわからない。あのひとが朋子叔母さんだなんてこと、とても信じられない。だけど、この林のむこうには、二十三年まえに朋子叔母さんがとびこんで、二度と出て来なかったという鐘乳洞の入口があるんだ」
「康雄さん!」
「都、君はむこうへいっていたまえ。ぼく、気になるから、ちょっといってみる」
「いけません。いけません。康雄さん。そんなことなすっちゃ……」
「なに、大丈夫だ。まさか鐘乳洞へ入りゃしないと思う。君はむこうへいっていたまえ」
都がとめるのもきかず、康雄はあやしい黒衣婦人のあとを追って、疎林のおくへ踏みこんでいった。
鐘乳洞探検
「マリちゃん!」
と、田代が駄々っ児のような声で叫んだ。
「いったい、どうしたというの。おばさま、なぜこんなにもったいをつけるんだい。皆さんにたいして失礼じゃないか」
さすがのんきな田代幸彦も、どうやらこの場の妙な空気に気がついたらしい。不審そうに眉をひそめながら、マリを視る眼にはどこか詰問するようなひらめきがあった。
「あら、いやな田代さん」
と、マリはやさしく田代をにらんで、
「なにも、もったいをつけるわけじゃないわ。だけどお加減が悪いので、お母さま、ためらっていらっしゃるんじゃないかしら」
「お加減が悪いって、いま聞けば、きのうも教会へいらしたというじゃないか。とにかく、はやくお呼びしていらっしゃいよ。それでないと、みなさんにとても失礼なことになるんじゃない?」
なにかしら、押しかぶさってくるような重っ苦しい空気をかんじて、田代はそれでも取りなしているつもりなのである。マリの母さえ顔を出せば、この重っ苦しい空気もとけるのだろうと、単純な田代はきめている。
「ええ、だからさっき河野先生に、お迎えにいっていただいたんじゃありません? 先生、何をしていらっしゃるのかしら」
マリはいらいらしたように、腕にはめた時計を見る。杢衛はその横顔をにらみながら、疑わしそうに鼻を鳴らした。
金田一耕助はホールの隅から、このなりゆきを興味ふかげに視まもっている。かれはまだ、君江を朋子だときめてしまうほどの勇気はない。しかし、君江が客に顔を見せることを、ためらっているのだとしたら、きっとそれだけの理由があるにちがいないと考える。そして、そのことが金田一耕助にふかい興味をおぼえさせるのだ。
河野朝子がマリの母を迎えにいってから、もうかれこれ二十分はたっている。それだのに母の君江も、迎えにいった朝子もまだ姿を見せないのだ。来客のあいだにひろがってくるギコチなく、重っ苦しい空気は、いよいよきびしくなってきた。
「いや、なに、お嬢さん、お加減が悪いのでしたら、なにもごむりに……」
と、立花町長がおだやかに取りなしたが、しかし、その町長の眼にも、もはや疑惑のいろはかくしきれなかった。
「いや、立花さん」
杢衛がまたそばから、おっかぶせるように口を開いた。
「あんたはそうおっしゃるが、せっかくこうして、みんなでお待ちしてるんだから。……それに、こんどの寄付のお礼もいわねばならんしな」
「それもそうだな」
いままで中立を標榜していた神崎署長も、こんどははっきり杢衛の肩をもった。それだけ一座のひとびとの疑惑がふかまったことを意味している。
金田一耕助は気づかわしげな、また、同時に興味ぶかい眼差しで、マリの横顔を注視している。この娘はいったいどうしてこの場を切りぬけるつもりだろうか。マリが彼女の母親を一同の眼のまえに、さらしものにしたくないらしいことは、さっきからはっきりしているのである。
「カンポ!」
だしぬけにマリが叫んだ。
「ちょっとお母さまを見てきてちょうだい。河野先生はいったいなにをしていらっしゃるのかしら」
ホールの外に立っていたカンポは、陶器のようなかんじのする眼で、ジロリと客を一瞥すると、かるく頭をさげて、足ばやに立去っていった。ギラギラ光るカンポの視線におびやかされて、ホールのなかにはいよいよギコチない沈黙がおちこんできた。
そこへベランダのほうから、都がさりげないようすで入ってきたが、誰もその顔色の悪さに気づいたものはなかったようだ。
間もなくカンポがかえってきた。そして、なにかこごえでマリの耳にささやいていたが、あちらの言葉なので、そばにいる田代にさえもその意味はくみとれなかった。
しかし、マリはびくりとしたように眉根をつりあげ、
「まあ、お母さまも河野先生もお部屋にいらっしゃらないんですって? そ、そんな馬鹿な!」
それがマリのお芝居なのか、それともほんとに驚いたのか、注意ぶかい金田一耕助にもわからなかった。
しかし、杢衛はそれを芝居ととったらしい。意地悪そうに鼻の頭に皺をよせて、
「それはまた妙ですな。お母さん、逃げたんじゃないでしょうな」
「逃げるんですって? 母が……」
マリはふたたび眉をつりあげたが、杢衛に喰ってかかるようなその言葉にも態度にも、どこか調子の弱いところがあり、それが一同の疑惑の視線を招くのである。
「マリちゃん、これ、いったい、どうしたの。おばさま、どうかなすったの?」
田代がマリをふりかえったとき、ベランダから由紀子が駈けこんできた。
「おばさまなら、いまお池のむこうの林のなかで見かけたわ。なんだか物思いにしずんだようすで、鐘乳洞のほうへいらしたようよ」
「鐘乳洞のほうへ……?」
神崎署長が聞きとがめた。
「ええ、そうよ。お姉さま」
「え?」
「おばさま、なんだか夢見てるみたいな步きかたでしたわ。まるで雲に乗ってるみたいに、ふわふわとした步きかたで……」
「あっ!」
と、叫んでマリが椅子から跳ね起きたとき、河野朝子があわただしく、ベランダからとびこんできた。朝子はなにか早口に、マリの耳にささやくと、銀色に光るものを手渡した。それは銀の十字架だった。
「先生、それじゃこの十字架が鐘乳洞の入口に……?」
「そうです、そうです。奥さまのお姿が見えないので、お庭へさがしに出かけたところ、由紀子さんが林のなかへ入っていくのを見たとおっしゃるものですから。……」
「でも、先生、お母さまは二階で臥せっていらしたんでしょう」
「ええ、そうですの。それで、みなさまがお眼にかかりたいといってらっしゃいますから、お召しかえをなさいますようにっておすすめして、あたしもお手伝いをしたんでございますの。それから、お母さま、ひとあしさきに階段を降りていかれたので、あたしはあとから降りてきたんですけれど、ここを覗いて見ると、奥さまのお姿が見えないでしょう。それで、もしやいつもの発作をお起しになったんじゃないかと、お庭のほうへ出てみたんですの」
「わかりました」
マリは銀の十字架を握りしめると、
「先生、すみません。スポーツ服の用意をしてください。カンポ、おまえ、あたしといっしょに来て……」
「マリ、いったいどうしたというんだ。おばさま、どうかなすったのかい」
「田代さん、すみません、お母さま、発作を起したんです」
「発作だって?」
「ええ、お母さまはなにかにひどく感動すると、自己催眠にかかって、夢遊病者みたいになるんです」
「夢遊病者……?」
みんなびっくりしたように眼を見張るなかに、杢衛だけがいよいよ疑わしそうな眼のいろになる。さっきから興味ふかげにこの場のなりゆきを視まもっていた金田一耕助も、いまのマリの言葉を聞くと、ほほうというような顔色だった。
「マリちゃん、おばさまにはそんなご病気があったの?」
「ええ、そうなの。あたしが悪かったんですわ。きょう由紀子さんから聞いた、二十三年まえに鐘乳洞へとびこんで、それきり行方不明になったかたのことを、お母さまにお話ししたのよ。しかも、そのかたがお母さまに似てらっしゃるらしいってことまで申上げたの。それがいけなかったんですわね。お母さま、そのときひどく感動してらしたんですけれど、きっとそれが発作を起させたのね。あたし、こうしちゃいられないわ。お母さまをさがしにいかなきゃ……」
マリはホールのなかを見まわしたが、由紀子の姿に眼をとめると、
「由紀子さん、お兄さまはどうなすって?」
「さあ。……」
と、由紀子はわざと都のほうを見ないようにして白ばくれた。彼女は兄が黒衣婦人のあとを追って、鐘乳洞のなかへ入っていったことをしっているのである。
「じゃ、あなたでもいいわ。いいえ、あなたでもいいなんて失礼ですけれど、由紀子さん、鐘乳洞のなか、案内してくださるわね」
「ええ、お姉さま、いつでも」
由紀子がキッパリ答えたとき、
「マリちゃん、ぼくもいこう」
と、そばから田代が口を出した。
「ええ、ありがとう。お願いします。それじゃ、あたし着かえて来ますから」
あしばやに出ていこうとするマリのうしろから、杢衛がどくどくしい笑い声を浴せかけた。
「あっはっは、なんのことじゃ、これは……神崎さん。話がだいぶん面白くなってきたじゃないか。どれ、それじゃわたしも鐘乳洞探検のお供をすることにしようかな。神崎さん、神崎さん」
「はあ。……」
と、神崎署長はとまどいしたような顔を、肉のあつい掌でなでている。
「どうじゃ。あんたもひとつ、いっしょにおいでなさらんか。なにやら面白い芝居が見られそうじゃが……あっはっは」
どくどくしい声をあげてわらう杢衛の顔から、慎一郎と都は情なそうに視線をそらした。
金田一耕助も身づくろいをしながら、ゆっくり椅子から立上った。
|蝙《こう》|蝠《もり》の|窟《いわや》
射水の地底によこたわっている鐘乳洞はずいぶん広く、しかも網の目のように路がわかれているので、延里数にすると、何千里あるかわからぬといわれている。しかもまだ、何人も足を踏入れたことのない個所も多く、そのことがこの鐘乳洞の存在を、いっそう神秘的なものにしているのである。
この鐘乳洞には入口が三つある。そのうちのふたつは昔からしられているものだが、あとのひとつは二十三年まえの事件があったのちに発見されたもので、このことがまた、朋子がまだ生存しているのではないかという、疑いをいだかせる有力な原因になっているのである。
それはさておき、昔からしられているふたつの入口というのが、玉造矢部両家の邸内に位しているのだ。よりによって敵同士の両家の邸内に、鐘乳洞の入口があるというのも、なにかの因縁にちがいなく、それだからこそ、二十三年のその昔、慎一郎と朋子のふたりが、この鐘乳洞を、ひとしれずあいびきの場所にしていたのだ。
さて、スポーツ服に身をかためたマリが、疎林のおくの崖下にある鐘乳洞の入口に立ったのは、それから三十分ほどのちのことである。
一行はマリのほかに案内役の由紀子。田代とカンポは女王様の護衛というかたちで付添っている。杢衛と警察署長の神崎さんは、さしずめ目付役というところだろう。
金田一耕助はただ飄々と、例によってよれよれのきものに袴といういでたちで、一行のしんがりにひかえている。
家庭教師の河野朝子は、お客さまの接待役としてあとにのこった。
鐘乳洞の入口は、あの事件以来、厳重な木柵でかこわれていたが、長い年月に立ちぐされて、いまではないのも同然である。
「あ、お姉さま、ここに靴跡がのこっているわ」
なるほど、由紀子のむけた懐中電灯の光のなかに、くっきりと靴の跡がうきあがっている。それはさきのとがった女の靴跡で、しかもその爪先は鐘乳洞の内部にむかっている。
「あっ、ここにのこっているの、サンダルの跡じゃないか」
田代がもう一種類の足跡を発見した。それはあきらかに木製のサンダルの跡で、しめった土のうえにくっきりと印されている。
「お兄さまかもしれないわ」
由紀子が、声をふるわせた。彼女は都とわかれた兄が、黒衣婦人のあとを追って、この洞窟のなかへ入っていったのをしっているのである。
「まあ、それじゃ康雄さんは、お母さまのあとを追っていらっしゃったの」
なぜかマリの声がふるえたのを、金田一耕助は妙に思った。一瞬、懐中電灯の光のなかに浮きあがったマリの表情が、金田一耕助には妙に空虚なものに見えた。
「とにかく、なかへ入ろう」
田代がまっさきになかへとびこもうとするのを、
「駄目よ、田代さん!」
と、由紀子がませた口調でたしなめた。
「むやみにとびこんじゃ。おばさまの靴跡も、お兄さまのサンダルの跡も、わからなくなってしまうじゃないの」
「ああ、そうか、ごめん、ごめん、それじゃ由紀ちゃん、君のその懐中電灯をぼくにお貸しよ」
「駄目よ。これはあたしのものよ。田代さんはこの蝋燭をもってくといいわ」
まさかこのようなことが起ろうとは思わないから、懐中電灯もそうたくさん、用意してあるわけはなかった。
「ちぇっ、裸蝋燭か。仕方がねえ。それじゃおれがさきにいくからね。由紀ちゃん、すぐうしろからきておくれよ。マリちゃん、大丈夫ですか」
「ええ、あたしは大丈夫。カンポがついていてくれますから」
さすがにマリも顔がこわばっていた。
「それじゃ、金田一先生、しんがりを頼みます」
「ああ、いいですよ。いきたまえ」
「でも、おばさん、どうしてこんな洞窟のなかなんかへ入る気になったのかなあ。おうい、玉造、いるかあ!」
裸蝋燭を手にした田代は、首をちぢめて鐘乳洞のなかへ這いこんでいく。それにつづいて由紀子。由紀子のうしろからマリとカンポ。それを看視するように、杢衛と神崎署長がつづいて、いちばん最後は金田一耕助である。このなかで、懐中電灯をもっているのはマリと由紀子と警察署長の神崎さんだけ。あとはみんな裸蝋燭である。
鐘乳洞の入口はやっと人ひとり、もぐりこめるくらいの広さしかないが、ものの五、六間もいくとだんだん広くなり、それにしたがって天井も高くなる。
「田代さん、靴の跡はまだあって?」
「ある、ある、由紀ちゃん、踵の高い女の靴と、サンダルの跡がついてるよ。だけど、マリちゃん」
「はあ」
「おばさま、夢遊病の発作を起したっていうけど、夢遊病の発作を起すと、暗闇のなかでも眼が見えるの。それとも、おばさま、なにか明りをもってるのかしら」
「わっはっは!」
と、とつぜんマリの背後から、杢衛の笑い声が爆発した。わが意をえたりというような、いかにもどくどくしい嘲笑である。
「田代さん、あんた、いいことをいうなあ。金田一先生、金田一先生」
「はあ。……」
「夢遊病の発作を起すと、暗闇のなかでも猫のように眼が見えるって、なにかそんな話がありますかな」